高尾と東雲
「で、図書室で杉原くんと……なんだっけ、杉原くんのこと好きな女の子、見張ってきたの? まあ毎回ご苦労様だ」
「見張りとは人聞きの悪い」
「悪いだろ実際。それ、侑希ちゃんがイケメンだからギリギリ許されるんだよ」
「いや、許されてないんだなーそれが。今日は流石にちょっかい出し過ぎちゃったかな、もう鬱陶しいからひとりで帰れって伊織に怒られちゃったんだ」
えへへ、と悪気なく笑う彼だが、果たして笑い事で済むのだろうかと高尾は考える。他のクラスの知り合いの図書委員から夏休み期間の図書室当番表をリークしてもらっている時点で、俗に言うストーカーに片足を突っ込んでいるのではないだろうか。
意中の男子と、所謂恋敵になる女子がふたりで当番を務める夏休みの図書室に午前中いっぱい入り浸ってきたらしい東雲は、帰りの道すがら、アポなしで高尾家にやって来た。「さみしくなっちゃったから遊んで」なんていうほとほと自分勝手で頭の痛くなるような挨拶に文句のひとつも返せないどころか、昼食はまだだと抜かす彼についさっき済ませた昼の残りのそうめんを茹でてやってしまうあたり、自分の甘さに嫌気が差す。ぶくぶくと沸騰する鍋の中で踊る麺を菜箸でぐるぐるとかき混ぜながら、高尾は小さくため息をついた。じわりと汗を掻き始めた腕を覆う長袖のシャツの袖口を、一度だけ折り返す。
「そんなにたくさんはないよ。昼の残りだし」
「ううん、おなかいっぱいにならないほうが都合良いでしょ、先輩も。いただきます」
「……」
軽く手を合わせながら、並べられたそうめんの向こうにある本来の目的を告げるかのような、先制の軽口。さて、ここはどう反応すべきだろう。曖昧に笑ってみせて、まだ引き返せるぞと退路を示してやるべきか、それとも―――高尾が答えあぐねている間に東雲はまるでハナから答えなど期待していなかったかのように箸を持ち、笊に盛られたそうめんをつゆの椀に取り始める。そしておもむろに「さっきの話だけどね」と口を開いた。
「牽制だよ、牽制。俺が目離した隙に瀧ちゃんと―――その子瀧ちゃんって言うんだけど、良い感じになられても困るし。ほら、夏の浮かれた空気で一線越えちゃうかもしれないじゃん?」
細長い麺をつるりと啜りながら、東雲はあくまで冗談めかして言う。ならば、その軽い口調に対して目は少なからず真剣味を帯びていることに気づかないふりをしたまま、冗談と受け取ってやらねばならない。相変わらず作り物めいた美しい相貌から目線を逸らし、夏の盛りになってもほとんど日に焼けていない白い手が器用に箸を動かす様子を正面の席でぼうっと見つめながら、高尾はグラスに注いだ麦茶に口をつけた。からりと涼しげな音を立てた氷が、唇に触れる。流し台に放り込んでいた自分の昼食の食器だけでも、東雲が食べている間に洗ってしまおうかとも思ったが、「そこにいて」とテーブルに引き止められてしまってはどうしようもない。彼には作業の片手間にひとりごとを聞いていて欲しい時と、自分と顔を合わせて話をしてほしい時があって、今日は後者だったという話。
「いや、杉原くんそういうキャラじゃないだろ。あれ、少なくとも俺が知ってる人間の中でいちばん慎重なんだけど」
「ちなみにいちばん慎重じゃない人間は誰なのか聞いてもいい?」
「言ってもいいの? そいつ今俺の目の前でそうめん食ってるかなぁ……」
「う」
そこで東雲はけほけほ、と咳払いをひとつ。夏だから塩分多めで良かろうと思ったつゆが塩っぱかったのか。高尾は水を足すかと問いかけたが、彼は首を横に振って、自分の麦茶に口を付ける。
「うーん、でもそうかな、どうかなー。衝動的って言うの? まさに『魔が差した』って感じのこと、伊織はたまにするんだ」
「そうなんだ」
「うん」
つるつる、つるつる。会話の合間に、小さな口に麺が淀みなく吸い込まれていく。元から健全な男子高校生の腹を満たせるほどの量ではなかった麺は、あっという間に無くなっていった。
グラスを置き、視線を彼の顔に戻した。幼さと柔和さの同居する口元が、ほんのりと綻んでいる。
「はいはい、そういう『俺はあいつのこともっと深く理解してるんだぞ』的なノロケいらないんで……」
「ううん。的な、じゃないよ。理解してるんだ」
「……そうだね。で、侑希ちゃんはそういうことをする時の杉原くんのほうが好き、と」
「おお、なぜわかったんだろう」
ぱしぱしと音がしそうなほど長い睫毛に縁取られた東雲の目が、心底意外そうに瞬きを繰り返すのを見て、高尾は椅子から僅かに腰を浮かせた。こいつ、俺のこと舐めてやがるな。
「いっぺん鏡見てくるといいよ」
以前見た時よりは少し短くなった東雲の前髪を軽く指で掬う。現れた白い額、治りかけの掠り傷を見逃して、ひとつキスをした。君は自分で思っているほど、自分のことを隠すのが上手くはないんだ。それが汚点になるか美点として映るかは、まあ、人による。
「それ食べ終わったら、俺の部屋に来てもいいし、もちろん帰ってもいい。洗い物は流しに置いといてくれれば、あとで片づける。それと」
シャワーは好きに使ってくれて構わないよ、と。最後に言い残して、高尾はダイニングに東雲を残し、廊下から繋がる自室に引っ込んだ。冷房の効いた部屋でベッドに寝転がりながらスマホをいじっていると、ほどなくして廊下の先から小雨のような水音が聞こえ始めたので、思わず傍にあった枕に顔をつけて、熱い息を細く長く吐いた。いい加減、ちゃんとした大人というやつになりたい。
「おいしかったよ、ごちそうさま」
「どうも。そうめんなんて誰が作ってもまずくなりようがないけど」
「で、先輩のほうは最近どう?」
「どうって何がよ」
「何って色々よ。夏なんだしさ、学校の友達と遊びに行ったりとかそういうの。誘われない? モテてるんでしょ?」
「なんだ突然。モテてるけど」
やっぱりね、と東雲はケラケラ笑う。
「よく考えたら伊織の話ばっかするのもどうかと思って」
「…………あのねぇ」
そういうのはよく考える以前にわかっていてほしいものだが。あんまり伊織伊織とやかましいものだから、つい脳裏に思い描いてしまった仏頂面の少年の姿を振り払うように、高尾は寝転んだまま東雲の腕を掴み、ベッドに引き寄せた。覆い被さるようにしてシーツに手を突いた東雲の髪から、ぽたりと水滴が落ち、高尾のシャツの胸元に染みた。
たまにこうやってふたりで会っているのがバレているのは、まず明らか。もう付き合っていないというのは、恐らく信じてもらえている。しかし付き合っていないにも関わらず高尾と東雲がこういった行為に及ぶ関係であるというところまで、彼はまだ思い至っていないだろう。更に、ベッドの上で交わされる会話で自分のことが幾度となく話題に上っているとは、東雲侑希が愛してやまない眼鏡の少年はまさか夢にも思うまいし、知られたりしたらこれ以上無い嫌悪を露わにするに違いない。詰まるところ、杉原伊織とはそういう頑ななまでの良識と紙一重の、精神的な潔癖のきらいがある人間であると高尾は見立てている。眼前の奔放すぎる彼とはまた別のベクトルで生きづらそうな人種だとは思うものの、特に同情などはしていない。人間としての凹凸を隙間無く埋め合える、ちょうどいいふたりであることは誰の目にも明らかなのに、何故それが10年近く前から身近に存在していた幸福を享受して傷を舐め合おうとしないのかが甚だ疑問であるだけだ。
「くすぐったい」
首元を擽り、鎖骨をなぞってから、引っかけただけの制服のシャツを落とすように、露わになった肩口を撫でる。指先に吸い付くような湯上がりの肌は、冷房の効いた部屋の中でもまだわずかに火照っている。その温度を追いかけて、無駄のない身体のラインをひとつずつなぞっていくのは、彼の存在を確かめる作業に似ている。
「春樹先輩……」
「ん」
「今日は、俺がしようかな」
甘ったるい声で呼ばれ、背筋がぞわりと粟立つ感覚に身震いする。ゆっくりと愛撫を続けていた手を取られ、手の甲にキスをされた。熱を持ち始めた吐息が皮膚を撫でるように滑っていくのを感じる暇すらろくに与えられずに、性急に伸ばされた東雲の手が高尾のシャツの襟元に触れる。こちらを見つめるふたつの目は、焦れったくて堪らないのだと訴えていた。参ったな。
「夏なんだし、って言うか、俺は夏こそあんまり遊びに行きたくないわけで」
ひとりごとのように先ほどの質問に答える。東雲はボタンを外す手を止めず、時折高尾の首筋に顔を埋めて吸いつきながら、猫のようにじゃれついた。
「どうして?」
「この時期誘われるのって、だいたい海とかプールとか、なんかこうびしょ濡れになるアトラクションとかじゃんか」
「……あー、そうだっけね。忘れてたよ」
極力気のない風を装った声でそんなことを言った東雲が、ボタンを外した高尾のシャツの前を大きく開いた。息をつく間もなく、左肩から肘、そして腹にかけての、大きな火傷の痕が電灯の下に晒される。彼は一際目立つ左肩のケロイドになんの躊躇いもなく唇を当て、白く滑らかな肌と爛れて引き攣れた肌との境界を、片手でゆっくりなぞり始めた。忘れていたというのは、高尾の火傷の存在そのものをではなく、自分にとってはこれがすっかり当たり前だから、何も知らない人が目にした時にどのような反応をするであろうかということを失念していた、の意味合いらしい。官能を誘う手つきに次第に溶かされていく理性をつなぎ止めていたエネルギーは血液に混じって下ほうに行ってしまうらしく、下肢にじわりと熱が溜まっていくのを感じる。
「……あのさ先輩、前から思ってたんだけどなんでここ触ると勃つの」
「そこは……もう……いろいろ複雑な回路が混線してるんだ……深く追及しないでほしい」
「ふぅん……。でもまあ、昔みたいに俺相手にまで気にして隠そうとするよりはいいよ。うん、そう思う」
本当に、なんてことのないような顔で東雲は言う。例えば高尾の作った味噌汁を軽く味見して、まあちょうどいい濃さなんじゃないかな、とでも言うような。彼が時折見せるそういったフラットな素直さに多かれ少なかれ救われているところはあるはずなのに、それをここで告げるのは不誠実である気がして仕方なく、高尾はただその唇を自分のそれで塞ぐことしかできない。
***
とりあえず服でも着るかとベッドから手を伸ばし、床で丸まっていたシャツを指先に引っかけたところで、背後から掠れた声が聞こえた。
「でもね、俺、伊織が瀧ちゃんと付き合うことになっても、そこまで最悪じゃないって思う」
「えぇ、結局杉原くんの……」
話かよ、と言いかけて、高尾は口を噤んだ。あちこちを手荒く暴かれて、弄ばれて、疲れ切った身体をぐったりとシーツに横たえる東雲がいちばん話したかったのはきっとこのことなのだと、何故か分かった。
「……どうして?」
拾い上げたシャツを羽織り、尋ねながら、細くて柔らかな黒髪を梳く。シャワーの直後のまだしっかり乾ききっていないそれを、枕に押しつけたりシーツに擦りつけたりしてしまったが、痛んでしまわないだろうか。今さら心配になった。
「瀧ちゃんは……普通の子だよ。呆れるくらい普通だ。だから、伊織の常識があって普通なところを好きになる。きっと俺なんかより何倍も、いや、多分そもそも俺と比べるのが失礼なくらい、伊織を幸せにできる」
「ふむ」
「でも、伊織が上手に隠してる、本当にたったひとつの『普通じゃない』ところのせいで、何もかもが上手く行かなかったら? あの子を幸せにできないって分かったら? 我ながら性格悪いなとは思うけど、俺は喜んじゃうね。何よりも」
ふふふと彼は笑う。情事の際の艶っぽく濡れたそれともまた違う、卑屈で湿った笑い声だ。
「そうなればもう、そういう普通じゃない部分も引っくるめて伊織のこと愛してる俺しか残っていないんだって、それでようやく気づくでしょ」
「……お」
それぞれシャワーを済ませて東雲を見送った後、半ば忘れかけていた洗い物を済ませようとダイニングにやって来た高尾は、目を丸くした。シンクに放られていた食器の類は高尾のぶんまできっちりと洗われており、水切りかごに几帳面に並べられていた。なるほど、部屋に戻ったときに聞こえていた水の音はシャワーのそれだけではなかったらしい。
「なんだ、かわいいところあるじゃん、……」
着替えた新しいシャツの上から、高尾は左の肩を掻き抱いた。湯で洗い流したにもかかわらず、東雲に触れられたそこが未だに微かな熱を持っているように感じられて、それがたまらなく恐ろしい。毒のある蛇に咬まれた場所が、きっとこんなような具合になるのだろうと思った。
結局こうして、次に彼が突然やって来た時も追い返すなんてことはできずに、また家の中に招き入れてしまうであろうことは目に見えている。燦燦と照りつける夏の陽射しとはまるで真逆のどこまでも後ろ暗い心地になりながら、肌と火傷の境界線を、高尾は服の上からなぞるのだった。
真夏の蛇