高尾と東雲

 
(三年生高尾と二年生東雲、付き合ってた頃)













「……春樹、少し話があるんだけどな」

どことなく憂鬱な月曜の朝のことだ。高尾が朝食の支度をするキッチンにやってきた父の声は、普段より少し硬く、何やら改まった様子だった。「何?」と、フライパンで焼いたウインナーと目玉焼きをプレートに移しながら聞き返すが、「あの」だか「その」だか、どうにももぞもぞと歯切れが悪い。
小心者とまではいかないものの、普段からあまりはっきりと物事を口にしようとはしない、おだやかな父だ。特に、息子に対する負い目から逃れられない話題であるならば、尚更。彼がこれから話そうとしていることの内容におおよその当たりをつけつつ、それでも続きを急かすことはせず、高尾はコンロの脇の冷蔵庫を指さす。ちょうどその時、食パンをセットしていたトースターがチン、と軽い音を鳴らした。
「……牛乳出してもらっていい?」
「ああ、うん」
テーブルでふたりぶんのコップに紙パックの牛乳を注ぐ父のもとに、トーストとバターを置く。少ししてウインナーと目玉焼き、レタスのサラダを盛ったプレートを運ぶと、「ありがとう」という声とともに、顔色を窺うような父の目が高尾を見遣った。軽く首を傾げてみせれば、父はようやく観念したように重たい口を開く。

「大事な話?」
「……、……ミヤコが、お前に会いたいと言ってるんだが。どうする?」
「…………うん?」

―――ミヤコ。みやこ。美弥子? 聞き慣れない響きを脳内で反芻する。三度目で、ようやくそれがもう長らく会っていない母の名だということを思い出して、心臓がどきりと跳ねたような心地がした。ほぼ無意識のうちに左肩の火傷の跡に触れようとしていた手を慌てて引っ込め、高尾は父の正面の椅子に座る。目の前に差し出されたコップには牛乳がなみなみと注がれていたので、(父さん、入れすぎ)両手を添えてそろりと受け取る。
「母さん、が?」
あんなことがあったのだから当然だが、離婚をしてから一度も会っていない、電話越しの声すら忘れて久しい母だ。父が自分に関わること(あと、妹のことも)で時折連絡を取っているのを高尾は知っていたが、しかし、こうして直接会いたがっているなどと言伝されるのは初めてだ。ごくり、と唾を飲み込む。

「なんでまた、急に」

声は、震えていないだろうか。そう気にしながら平静を装って尋ねると、父はバターナイフを手に取って、
「別に急でもないと思うよ。ほら、もう高校卒業だし、進路だって決まってるわけだし……昨日、父さんのところに電話があって。少し話をした」
「ああ……」
「あいつも、いろいろと思うところがあるんだろうよ」
高尾の動揺に気づいていないのか、あるいは、喉でつっかえていたはじめのひと言を吐き出して、少しばかり気が楽になったのか。次第に饒舌になった父はここで休憩だとでも言うように、バターをたっぷり塗ったトーストを齧り出した。高尾もドレッシングをかけた生野菜をもそもそと口に運んだが、何故だろうか、あまり味がしない。

「正直なところ、父さんは、会いに行くのには反対なんだ。美弥子が春樹を許せなくてああいうことをしたのと同じくらい、父さんだって春樹を傷つけた美弥子をずっと許せないよ。たとえ、いくら向こうに心境の変化があったとしても」

不意に沈黙を破るように零された父の声には、静かな痛みすら感じた。幼い頃、ふざけて駅の階段から落ちそうになったのを叱られた時の声だ。
「でも、それはあくまで父さんの意見だし、春樹はもうとっくに自分で考えることができるようになってるだろう。だから父さんは、父親として春樹の気持ちを尊重しなくちゃならない」
「うん」
「もし春樹があの人と真剣に話す機会が欲しいと言うなら、父さんは止めない。けど、せめて一緒に行かせてほしいと思う。仕事の都合は調整するし、ふたりの話に口は挟まないと約束する。だから、だからもし、またお前が……」
「お出かけにパパの付き添いが要るような歳でもないんだけどなあ、俺」
「春樹」
言葉を遮ってけらけらと笑ってみせる息子を嗜めるような声音だ。真剣な目つきに、自分の中の何かが冷めていくのを感じる。高尾はため息をつきながら箸で目玉焼きの黄身をつつく。だらり、溢れ出した中身が白身の上を伝っていく。
もしまたお前が危険な目にあったら、と。父の目は言外にそう訴えていた。もうすっかり身長も伸びて腕力もそれなりにあるはずの息子が、それでもごく平均的な体格の女性ひとりにろくな抵抗ができないことを、薄々分かっているのだろう。確かにまあ、カフェとかだったら危ないなあと、高尾はどこか他人事のように思う。熱々のホットコーヒーとかあるだろうし。ナイフだって、フォークだってある。5歳のまま時が止まってしまった娘とよく似た顔をした息子が、ひとりだけぬけぬけと18歳にまでなってしまったのを目にした母は、いったい何を思うのだろう。理性では抑えきれない感情に身を焼かれる女の姿を、あまり考えたくはない。

「まだ行くって決めたわけじゃない。いきなり言われたから、ちょっとびっくりしただけだ。悪いね、俺も動揺してる」
「……」

何もつけないまま、トーストをざくりと齧る。ろくに味がわからないのなら、バターを塗ろうが塗るまいが何も変わらない。

「まあ、今日一日考えてみるよ。返事はなるべく急ぎで、ってわけでもないんでしょ」
「ああ」
「…………でも、父さん、ひとつだけお願いがあるんだけど」
高尾の返事にひとまずほっとしたような表情を見せた父だが、それに続いた声に対して、「なんだ」と怪訝そうに眉を寄せる。高尾は父の目をじっと見つめて、


「ふたりは紙切れ一枚で他人に戻れるんだろうけどさ、僕と凛子にとって、あの人はいつまでもお母さんなんだから。だからちゃんと、僕の前ではお母さんをお母さんって呼んでよ」


返事を待たずに、席を立った。


いつも以上に上の空で授業を聞き流してきたその日の夜、「やっぱり会うのはやめる」と母から電話がきたことを聞いた。少し酒が入っていた父は、勝手な女だと珍しく乱暴な言葉を吐いたあと、おそらく十数年ぶり高尾の頭を撫でた。「ごめんな」と繰り返される父の言葉は、ひどく虚ろな響きを伴って頭の中をくるくると回る。
―――悪いのはあんたひとりだと母さんも俺に言ってたことだし、別に父さんが謝る必要はないんじゃないか? 高尾はそんなことを思いながら、髪をくしゃくしゃにしながら頭を撫でる手を、黙って受け入れていた。父の手が小さくなったのではなく、自分が大きくなったのだ。











***














「ってことがあったんだよ侑希ちゃん。まあ結局、今回の話は全部ナシになっちゃったわけだけど」
「うん」

なんとなく気だるい火曜日の放課後のことだ。特に示し合わせてもいないのに昇降口でばったり会ったかわいい後輩を、高尾は「お菓子買ってあげるからさ」などという死ぬほど頭の悪い誘い文句で家に連れ込んだ。途中のコンビニで買ったチョコ菓子とポテトチップスは、袋を所謂パーティー開けにして部屋のミニテーブルに置かれている。

「……会った方がよかったのかな?」
「え、いや、それはわかんないね。先輩が決めることだよ」

ベッドを占領してスマホをいじりながら高尾の話を聞いていた後輩は、そういうところは案外ドライだったりする。「なんでそれ俺に聞くの」と言わんばかりの表情で、寝転んだまま手を伸ばし、テーブルのチョコを一粒つまんだ。ちなみにベッドを譲った高尾は床でちんまりと体育座りをしている。どっちが先輩だかわかったものではない。

「君、意外と冷たいよね。先輩さみしいな」
「うーん……」
わざとらしく唇を尖らせた高尾を、東雲はベッドの上からちらりと見遣って、
「じゃあ先輩、俺に『そんなの駄目だよ諦めないでお母さんとしっかり向き合って話さなきゃ~! 俺応援してるから~!』……とか言われたら、今からお母さんに電話かけて会いたいって言う?」
「う、それは」

落ち着いた普段のものよりワントーン高い声できゃっきゃと騒いでみせた東雲は、すぐにすっと素の表情に戻って問いかけてみせた。高尾は思わず声を詰まらせてしまう。

「いや、でも、俺がちゃんとしてるとこ見せれば、父さんもちょっとは安心するかなあっていう気持ちはあって、」

弁明する高尾だが、東雲はそこですかさず、

「いや、ただ先輩が会いたいのか嫌なのかの話でしょ。お父さんのためとか必要ないじゃん、先輩は中身がないの?」
「……お、おお」

おっと、思った以上に痛いところを突いてくる。言葉を返せない高尾に、東雲は今度はポテトチップスを咥えたままベッドを下りて近寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。

「先輩は、お母さんが自分に会いたがってるって聞いて、たぶん少し怖いと思って、そのあと断りの電話がきたから、ほっとしてるんだよ。もう、なんで俺が説明してあげなきゃならないんだか」
「そうなのかな」
「…………ねえ先輩」

ぱりぱりとポテトチップスを食べた東雲と、ちゅ、と軽い音を立てて唇が触れた。甘ったるいミルクチョコとポテトチップスの塩気が混ざった、子どものじゃれ合いじみた触れるだけのキスだ。誰もいない家にホイホイと着いてきたけれど、特にそういうつもりではないのだろう。もちろん高尾自身も、彼に手を出す気にはなれていなかった。だから今日は、これでいい。

「ぜんぜん関係ない話なんだけどさ、お祭りとかで売ってるお面、あるじゃん。キャラクター物の」
「……お面?」

関係ないけど、と前置きはあったが、やはりあまりに唐突だ。しかしそれでも、変身ヒーロー、魔法つかいのヒロイン、マスコットキャラ、色とりどりのお面が並ぶ縁日の出店を高尾は頭の中で思い描いてみた。チープなプラスチック製の、そのくせ割高なキャラクター物のお面。憧れの存在になりたいという願望をちょっぴり満たしてくれる、幼い子どもにとっての魔法のアイテムだ。東雲は、きょとんとした表情を浮かべる高尾に笑いかけて、口を開く。

「俺はね、昔、ドはまりしてた戦隊ヒーローのお面を買ってもらったんだ。まだ歌だって覚えてるよ」
まあ歌わないけどね、と笑って、東雲は続ける。
「お面つけておもちゃの剣とか振り回してる俺のことを、みんなヒーロー扱いして戦隊ごっこに付き合ってくれるんだよ。でも自分からは『お面をつけてる自分』ってよく見えないから、そのうち自分がお面をつけてること、すっかり忘れちゃうんだよね」

と、そこで彼は高尾の頬を指先でつまんでみせた。しばらくむにむにと揉んで、特に反応がないことを認めたあと、何故か少し寂しそうに微笑んで、

「……おわり」
「は?」
あまりに唐突な話の終わりに、高尾は思わず気の抜けた声を上げた。え、これ、本当になんにも関係ないただの思い出話ですか? 縋るような高尾の目つきに、東雲はあっけらかんと首を振る。
「だから、おわり。別にオチとかないから」
「えっ、何それ、ちょっと」
「じゃあ、俺そろそろ帰るね」
「えぇ?」
戸惑いながらも手を伸ばし、高尾は東雲の制服の裾をつまんだ。テーブルには、まだお菓子が半分ほど残されている。
「もうちょっと遊ぼうよ」
「だめー」
「けち」
形だけの名残惜しさを見せれば、柔らかいだけのキスが額に返ってくる。仕方がないので、丁度高尾家と東雲家の分かれ道になる交差点まで、彼を送っていくことにする。玄関で靴に履き替えて、鍵を閉める。高校生どころか、公園で遊ぶ小学生が家に帰るにもまだ早い時間の街を、ふたり並んで歩いた。

「じゃあね、先輩」
「車には気をつけてな」
「うん」

同年代にかけたところで十中八九「子ども扱いするなよ」などと笑われてしまう言葉だが、高尾の抱える事情を知っている東雲は、それを素直に受け止めるのだ。軽く手を振り、交差点に架かる歩道橋を渡った彼の後ろ姿が曲がり角の向こうに消えていくのを確かめた後、高尾はくるりと踵を返す。しばらく歩いたところで、ポケットの中のスマホが震えた。無事に家に着いたことを知らせる、東雲からの短いメッセージだった。よかった、と返信を打ち込み、スマホをもう一度ポケットへとしまい込む。
家に着き、残ったお菓子をどうするか考えながら洗面所で手を洗った。今日はあまり食欲がないので、あまり食べると夕飯が入らなくなりそうだ。手の甲までごしごしと洗ってからハンドソープを流して、引っかけられているタオルで手を拭いて、

「……ああ、マジか……」

鏡に映る自分の顔がひどく疲れ切っていることに、高尾はその時、ようやく気がついたのだった。













***













「はあ……」

マンションのエレベーターに乗り込み、東雲は小さくため息をついた。ポケットのスマホが、恐らく高尾からのメッセージを受けてぶるぶると震えていたが、それを取り出す気にはなれなかった。二階、三階、点滅するランプをぼんやり眺める。自宅のある七階までは、まだ時間がかかりそうだ。東雲はもう一度息をつき、手のひらで顔を覆う。
学校で会った時の高尾は、なんだかひどく寂しそうな顔をしていた。まあ抱かれてもいいかなどと思いつつ、軽い気持ちで家まで着いていったのだが。しかし、母から連絡があったことをなんでもない世間話のように東雲に話し終えた彼の顔は、とてもではないが、…………。

「ごめんね先輩。俺も、もう見てらんねーって思っちゃうこと、たまにはあんの」

ゆっくりと上昇を続ける箱の中で零された呟きは、誰に聞き留められることもなく。ポーン、と軽快に響いたチャイムと自動ドアが開く音にかき消されていった。




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