番外編
石の力を失ったあの日から、琥珀はぽっかりと魂が抜けてしまったようだった。真っ黒でよく光っていた瞳はガラス玉のようになって、ぼんやりと宙を見つめている。話しかけてみても、肩に触れてみても、こちらと目が合うことはなく、低くひそやかに響いていた声をもうずっと聞いていない。
「きっと、一生懸命な琥珀を神様が気に入って、連れて行ってしまったのよ」
花枝さまが少し寂しそうに笑った。
そんなことなど露も知らずに眠る琥珀は、まるで幼子のように無防備で、綺麗で、顔にかかるほつれた髪が、午後の光を受けて柔らかく光っている。
…あぁ、神様だってきっと、この綺麗な人に心を奪われてしまったのだろう。
ずっとずっと、心を張り詰めて、しゃんと背筋を伸ばして、前を向き続けた琥珀は、今は神様のもとでゆっくりと休めているのだろうか。思う存分休めたら、翡翠たちのもとへ帰ってきてくれるだろうか。
微睡みの中でくすりと笑みを浮かべた琥珀の髪に、翡翠はそっと触れた。
…もう、肩肘張らなくてもいいんだよ。寂しかったら甘えていいし、疲れたら休んだらいい。
…ねぇ、こっちの世界でも、また笑ってよ。
額にひとつ、口づけを落とす。
…あなたが、大好きだよ。
琥珀がこちらの世界に気付き始めたのは、それからひと月が経った頃だった。決戦の日に降っていた雪の代わりに、今は花びらが舞っている。
琥珀は舞い落ちた桜吹雪に触ってみたり、ぽかぽかとした暖かさを感じてみたりと、春の世界を気に入っているようだった。
ものも食べられるようになって、口元にちょんと匙を当てるとぱくりと咥える姿が小鳥の雛にそっくりだった。
琥珀がゆっくりとこちらの世界に帰ってきているのが嬉しくて、翡翠は琥珀をあちこちに連れて行った。柔らかい草に埋もれてみたり、陽だまりの中で昼寝をしてみたり。ゆったりと流れる春の空気は、琥珀をそっと包み込んでくれた。
まだその瞳は何も写さなかったけれど、きゅうと手を握って、そっと頭を撫でてあげると、嬉しそうに目を細めてくれる。
…あぁ、気付いてくれてるんだ。
肩に乗った琥珀の頭の重みが、どうしようもなく愛おしい。
翡翠は泣きたいくらいに幸せだった。
次に戻ってきたのは、音だった。
琥珀、と呼ぶと、きょとんと首を傾げて次の言葉を待ってくれる。
その仕草があまりにも以前の琥珀にそっくりで、懐かしさに翡翠はまた涙をこぼした。目は見えていないはずなのに、翡翠が泣くと琥珀は必ず気付いてくれる。ぱたぱたと翡翠の手を探して、優しく撫でてくれるのだ。
どこまで言葉が分かっているのかは分からないけれど、翡翠は村で起こった出来事を片っ端から話してみた。
紅玉がりんごを剥くのに失敗して、食べるところがほとんどなかったこと。
「次にりんごの季節が来たら、上手くなって琥珀に食べさせたいんだって」
珊瑚が花枝さまにと買ってきた衣が、花枝さまにとても似合っていること。
「珊瑚は絶対、花枝さまのこと好きよねぇ」
水晶が薬草屋を始めて、村中で大人気になったこと。
「ぴったりの薬草を見繕ってくれるの。私もこの間お願いしちゃった」
楽しそうに話す翡翠と、穏やかに耳を傾ける琥珀。
戻ってきた光景は、屋敷の誰にとっても嬉しかった。
そして、ある日の朝。
ぱちりと目を覚ました翡翠は、優しい手に頭を撫でられていることに気がついた。慌ててがばりと起き上がる。
「こ、はく…?」
ん、と笑って琥珀がこちらを見る。
おはよう、とまだ掠れた声でささやいて、そっと髪を梳いて、嬉しそうに笑顔を見せて。
「琥珀、声っ、目も、見えてる…!?」
くすり、とまた琥珀が笑う。彼がこくりと頷いた瞬間、翡翠は思わず琥珀に抱きついていた。
「琥珀、琥珀…っ!」
琥珀の手が真っ直ぐ翡翠に伸ばされて、背中を抱き寄せる。
その手の迷いのなさに、琥珀の瞳がこの世界を映し出していることを感じて、翡翠は嬉しくて仕方がなかった。
優しく細められた真っ黒の瞳が、朝の澄んだ光を受けて輝く。
月夜のように落ち着いて、柔らかな優しさを持つ瞳が、真っ直ぐ自分を見つめてくれることが嬉しくて、低めの穏やかな声で琥珀の話をまた聞けることが嬉しくて、琥珀がこちらに帰ってきてくれたことが嬉しくて。
「琥珀っ、おかえり、おかえりなさい…!」
翡翠は、目の前の温かい体にぎゅうとしがみついた。
くすぐったそうに身を捩る琥珀も、何度も翡翠の名前を呼んで微笑む。
ずっと話していなかったせいで掠れていた声に元の深みが戻る頃、ふたりはどちらからともなく、こつりと額を合わせて笑った。
やっぱり翡翠にとっては、この世界で笑っている琥珀がいちばん愛おしい。
辛いこともたくさんあったこの世界へ、それでも帰ってきてくれた琥珀が大切で大切でたまらなかった。
…あぁ、幸せだ。
季節はもう、初夏だった。
「きっと、一生懸命な琥珀を神様が気に入って、連れて行ってしまったのよ」
花枝さまが少し寂しそうに笑った。
そんなことなど露も知らずに眠る琥珀は、まるで幼子のように無防備で、綺麗で、顔にかかるほつれた髪が、午後の光を受けて柔らかく光っている。
…あぁ、神様だってきっと、この綺麗な人に心を奪われてしまったのだろう。
ずっとずっと、心を張り詰めて、しゃんと背筋を伸ばして、前を向き続けた琥珀は、今は神様のもとでゆっくりと休めているのだろうか。思う存分休めたら、翡翠たちのもとへ帰ってきてくれるだろうか。
微睡みの中でくすりと笑みを浮かべた琥珀の髪に、翡翠はそっと触れた。
…もう、肩肘張らなくてもいいんだよ。寂しかったら甘えていいし、疲れたら休んだらいい。
…ねぇ、こっちの世界でも、また笑ってよ。
額にひとつ、口づけを落とす。
…あなたが、大好きだよ。
琥珀がこちらの世界に気付き始めたのは、それからひと月が経った頃だった。決戦の日に降っていた雪の代わりに、今は花びらが舞っている。
琥珀は舞い落ちた桜吹雪に触ってみたり、ぽかぽかとした暖かさを感じてみたりと、春の世界を気に入っているようだった。
ものも食べられるようになって、口元にちょんと匙を当てるとぱくりと咥える姿が小鳥の雛にそっくりだった。
琥珀がゆっくりとこちらの世界に帰ってきているのが嬉しくて、翡翠は琥珀をあちこちに連れて行った。柔らかい草に埋もれてみたり、陽だまりの中で昼寝をしてみたり。ゆったりと流れる春の空気は、琥珀をそっと包み込んでくれた。
まだその瞳は何も写さなかったけれど、きゅうと手を握って、そっと頭を撫でてあげると、嬉しそうに目を細めてくれる。
…あぁ、気付いてくれてるんだ。
肩に乗った琥珀の頭の重みが、どうしようもなく愛おしい。
翡翠は泣きたいくらいに幸せだった。
次に戻ってきたのは、音だった。
琥珀、と呼ぶと、きょとんと首を傾げて次の言葉を待ってくれる。
その仕草があまりにも以前の琥珀にそっくりで、懐かしさに翡翠はまた涙をこぼした。目は見えていないはずなのに、翡翠が泣くと琥珀は必ず気付いてくれる。ぱたぱたと翡翠の手を探して、優しく撫でてくれるのだ。
どこまで言葉が分かっているのかは分からないけれど、翡翠は村で起こった出来事を片っ端から話してみた。
紅玉がりんごを剥くのに失敗して、食べるところがほとんどなかったこと。
「次にりんごの季節が来たら、上手くなって琥珀に食べさせたいんだって」
珊瑚が花枝さまにと買ってきた衣が、花枝さまにとても似合っていること。
「珊瑚は絶対、花枝さまのこと好きよねぇ」
水晶が薬草屋を始めて、村中で大人気になったこと。
「ぴったりの薬草を見繕ってくれるの。私もこの間お願いしちゃった」
楽しそうに話す翡翠と、穏やかに耳を傾ける琥珀。
戻ってきた光景は、屋敷の誰にとっても嬉しかった。
そして、ある日の朝。
ぱちりと目を覚ました翡翠は、優しい手に頭を撫でられていることに気がついた。慌ててがばりと起き上がる。
「こ、はく…?」
ん、と笑って琥珀がこちらを見る。
おはよう、とまだ掠れた声でささやいて、そっと髪を梳いて、嬉しそうに笑顔を見せて。
「琥珀、声っ、目も、見えてる…!?」
くすり、とまた琥珀が笑う。彼がこくりと頷いた瞬間、翡翠は思わず琥珀に抱きついていた。
「琥珀、琥珀…っ!」
琥珀の手が真っ直ぐ翡翠に伸ばされて、背中を抱き寄せる。
その手の迷いのなさに、琥珀の瞳がこの世界を映し出していることを感じて、翡翠は嬉しくて仕方がなかった。
優しく細められた真っ黒の瞳が、朝の澄んだ光を受けて輝く。
月夜のように落ち着いて、柔らかな優しさを持つ瞳が、真っ直ぐ自分を見つめてくれることが嬉しくて、低めの穏やかな声で琥珀の話をまた聞けることが嬉しくて、琥珀がこちらに帰ってきてくれたことが嬉しくて。
「琥珀っ、おかえり、おかえりなさい…!」
翡翠は、目の前の温かい体にぎゅうとしがみついた。
くすぐったそうに身を捩る琥珀も、何度も翡翠の名前を呼んで微笑む。
ずっと話していなかったせいで掠れていた声に元の深みが戻る頃、ふたりはどちらからともなく、こつりと額を合わせて笑った。
やっぱり翡翠にとっては、この世界で笑っている琥珀がいちばん愛おしい。
辛いこともたくさんあったこの世界へ、それでも帰ってきてくれた琥珀が大切で大切でたまらなかった。
…あぁ、幸せだ。
季節はもう、初夏だった。
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