番外編

 澄んだ夜空のような瞳から、ぽろりと大きな雫がこぼれる。
ひそやかな月夜が似合うこの綺麗な人は、いったい何度悪意に晒されて来たんだろうか。
翡翠がどうしたの、と濡れる頬に手を伸ばしたら、紺は驚いたように真っ黒の瞳を見開いて、そして、幸せそうに瞼を伏せて、その手に頬を寄せた。
どこまでも澄んだ、やさしい心を持ったこの人を、翡翠はどんな宝物よりも大切に大切にしたいと思った。この人のすべてを、幸せで埋め尽くせたらいい。

 紺は、月夜の似合う、大人びた落ち着きを持っていた。綺麗な容姿もあって、紺に対してどこか人間離れした印象を抱く人もいる。
だけど、紺だって、ただの18歳の若者だった。本当は辛くて泣きたくても、それを上手く表に出せないだけで。紺は傷つかないのだと勘違いした人々に、心無い感情を向けられて、誰より繊細な心は、周りが気がついた時にはもうぼろぼろだったりするのだ。

 (…また、間に合えなかった)

ぼろぼろになった紺が、涙をこぼすほどになるまで、何も出来なかった。
翡翠は悔しさに唇を噛んだ。そんな翡翠の気持ちを知ってか知らずか、紺は自らの頬を、甘えるみたいに翡翠の手に擦り寄せて、ふわりと笑う。
心の底から幸せそうな、無垢な笑顔。
紺がそうやって笑ってくれるから、翡翠はこんな自分でも、彼のそばにいていいんじゃないかと思えてしまうのだ。


 …その日は、どうしようもなく疲れていて。出張で訪れていたアサヒ村は、海が綺麗で、料理も美味しくて、とてもいいところだったし、村の人々は紺を歓迎してくれたけれど。こんなつまらない人間がちやほやされてしまったのが良くなかったのだろうか、村の少年たちは紺を爪弾きにした。
それくらい平気だと思っていたのに、自分は案外弱かったみたいで。
ヒカリ村の、皆で暮らす屋敷に帰ってきて、うたた寝をしている翡翠の、無防備に投げ出された左手を見た時、つい、その手の優しさを思い出してしまって。どうしようもなく、温かいその優しさが欲しくなってしまって。
気が付いたら、翡翠の手に、自分の右手を重ねていた。
そうしたら、まだ半分夢の中の翡翠が、きゅうと自分の手を握ってくれて。否定され続けた紺を、翡翠があっさり受け入れてくれたみたいに感じて、気が付くと紺は泣いていた。

「……紺?」

翡翠の声がする。

「紺、どうしたの」

翡翠は優しいから、泣いている自分を放っておけない。そっと涙をぬぐってくれた手に、紺はまた甘えてしまった。翡翠の優しさにつけ込むなんて、自分はなんてずるいんだろう。でも、翡翠の手は温かくて優しくて、触れているだけでとても幸せで。あと少しだけ、と言い訳をする。そうしたらきっとまた、いつもの自分に戻れるから。

「大丈夫、何も怖くなんてないよ」

どうしてだろう、 翡翠が手を握ってくれると安心する。その体温に溶かされて、自分の中のどろどろとした感情が溶け出していくような気持ちがして。翡翠に、弱っている自分を知られたくないと思うのに、優しい言葉が心地よくて。もっと、とねだるみたいに翡翠の手に頬を寄せる。

「大丈夫」

……ああ、そうか、

「大丈夫だよ、紺」

自分はずっと誰かに、そう言って欲しかったんだ。

「……ありがとう」

そう呟いたらまた涙があふれて止まらなくなってしまって。でもそれはさっきまでの涙とは違って、嬉し涙だった。紺がもう寂しくなくなっていても、翡翠はきっと気が付かないふりをしてくれるだろうから。

(……ごめん)

もう少しだけ、このままで。
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