番外編

 紺と、喧嘩した。
きっかけはほんの些細なことで、今となっては、自分がなんであんなに怒っていたのか分からないくらいのこと。
それでも、翡翠の言葉はだんだん棘を持っていって、最後に放った言葉は紺をぐさりと突き刺してしまった。

「もう〈石の民〉じゃない紺には分かるわけない」

そう言った時の、紺の寂しそうに薄く笑った顔が忘れられない。
あんなこと、言っちゃいけなかった。
誰よりも優れていた〈石の力〉を失って、体まで壊して、それでも泣き言ひとつ言わずに努力し続けていた紺に。わたしたちだけは、分かってあげなきゃいけなかったのに。

「……なにやってんだろ、わたし」

枕を顔に押しつける。
泣きたい気分なのに、涙は一滴も出てこない。
本当に泣きたいのは紺だと思うと、涙なんて流せる訳がなかった。
早く謝らなくては、と思うと、いても立ってもいられなくなって、翡翠は駆け出した。
紺はきっと、山にいる。
修行場がある屋敷の裏の山は、涼しくて、静かで、命のにおいがする、紺のお気に入りの場所だった。


 紺は、大きな木の幹に寄りかかって、静かに眠っていた。
その頬に涙の跡がないことに、翡翠はほっと胸を撫で下ろす。

(…よかった)

翡翠は紺を起こさないように気をつけながら、そっと隣に腰を下ろした。
そして、隣にいる紺の横顔をじっと見つめた。
切れ長の、よく光る黒い瞳は、今は静かに伏せられていて、紺の顔立ちが案外幼いことに気づかせる。
起きて動いている時はあんなに頼もしく、大人びて見えるのに、眠っている紺の体は、線の細い不安定さを持っていた。

(…紺)

〈石の力〉を失い、反動でひと月も寝込んで、慣れ親しんだ〈琥珀〉の名前まで取り上げられて。紺はどれほど辛かっただろう。

「…ごめんね」

翡翠は、地面に投げ出された紺の手をそっと握った。
剣を握り続けたその手は、硬くて乾いている。…紺は、本当は筆を持つ方が好きなのに。みんなを守り続けたその手は、泣きたいくらい優しい。
抱きしめた紺の手に、ぽたりと涙が落ちた。止めなくちゃ、と焦っても、翡翠の目からはどんどん涙がこぼれて、ぱたぱたと紺の手を濡らしていく。

「っ紺、ごめんね、ごめんなさい…」

我慢しようとすればするほど、嗚咽は大きくなって、翡翠は子どものように泣きじゃくった。
不意に、紺の手がぴくりと動いて、翡翠の手を握り返した。
驚いて顔を上げた翡翠に、ゆっくりと目を醒ました紺が静かに微笑む。

「何泣いてんだ」

その声の穏やかさにまた涙が溢れて、翡翠はむちゃくちゃに顔を拭った。

「だって……だってわたしっ……」

「ほら、泣くなって」

起き上がった紺が、困った風に笑いながら翡翠を抱き寄せた。
そのまま、ぽんぽんと背中をさすられる。…ああもう、この人はなんで、自分を思い切り傷付けた人にまで優しくできるのだろう。

「紺、ごめんなさい、酷いこと言って傷付けてごめんなさい…」

「いいよ、俺がもう〈石の力〉を持ってないのは本当のことだ。それに、翡翠は纏め役としてよくやってるよ」

「っでも、紺、寂しそうだった」

そう言うと、紺は驚いたように目を丸くした。

「…気付いてたのか」

そして、少し恥ずかしそうに目を伏せて、ぽつぽつと話し始めた。
〈石の民〉ではなくなって、周りの人々は、紺が翡翠たちとずっと一緒にいるのはおこがましいことだと言い始めたこと。それでも、変わらずに笑いかけてくれる〈石の民〉の仲間と離れるのはどうしても寂しくて、必死で頭を下げて、一緒にいさせてくれるよう頼み込んだこと。

「…だから、翡翠にもう〈石の民〉じゃないって言われて、やっぱり一緒にいたらいけないのかと思って、」

「っそんなことない!」

ごめんなさい、何も考えずに酷いこと言って、八つ当たりした。
お願い、出ていかないで。
一緒にいて。

「あんなの本心じゃない、酷い八つ当たりだった。本当は、紺はずっと仲間だと思ってるから、」

紺がぱちぱちと瞬きをする。

「だから、ずっと側にいて。お願い」

涙でぐちゃぐちゃの顔で必死に訴える翡翠に、紺がくすぐったそうに笑う。

「……ありがとう」

そう言って笑った紺の顔は、まるで幼い子供みたいにあどけなかった。
そして、再び伏せられた瞳から、静かに一筋の水が流れて。
翡翠は初めて、紺の涙を見た。
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