1章 はじまり
「なんだ、あの黒いもやは……!」
慌てて振り向いたアサが目にしたのは、黒いもやのようなものがゆらりと人の形を取り、うごめいている姿だった。
きゃああ、うわあ、と周りにいた人々が悲鳴をあげる。
我先にと逃げようとする人々が押し合い、つまずき、はぐれたちいさな子供の泣き声が響く。
辺りはたちまち大混乱に陥った。
ち、と舌打ちをした琥珀が、落ち着いて逃げろと声を張る。
目を伏せた琥珀が右手を広げると、そこから金の光が溢れて、人々を守るように薄い壁となる。…たぶん、結界、だ。
アサが生まれてこの方一度も目にしたことがないような出来事が、今、目の前で起こっていた。
「ね、ねえ、なんなの、あのもや…!」
アサは慌てて琥珀の袖を引く。
いきなり現れた、得体の知れない少年を頼るのはかなり不安だったけれど、どうやらこの場であのもやの正体を知っているのは琥珀だけのようだし、他に頼れる相手はいない。
琥珀が振り向いて、飴色に変わった瞳でアサを見つめた。
「あれが<影>だ。ここは危ない。お前も早く、壁の向こうへ」
アサは慌てて頷いて、恐怖に震える足を叱咤しながら、友達らのいる結界の向こうへ駆け込んだ。
ぶわり、と風が吹いて、琥珀の長い黒髪が宙を舞う。
金色に光る瞳が、ひたりと<影>を見据える。
「…覚悟しろよ」
腰から下げていた細身の剣を抜き放つと、琥珀はしなやかに駆け出した。
淡く光をまとった剣を構えた琥珀は、いつの間にか実体を持ち始めていた<影>の一体に音もなく近づき、すぱりと縦に斬り下ろす。そして、くるりと身を翻し、そのまますぐ後ろに迫っていた別の<影>を横に薙ぎ払う。
その様子は、まさしくしなやかな獣だ。
琥珀は、驚くほど強かった。
…しかし、多対一、しかも大勢を守りながらの戦闘では流石に分が悪い。
斬り損ねた<影>の一体が、ついに琥珀の頬を切り裂き、ぱっと鮮血が飛ぶ。焦った琥珀の体がぶれたその隙をついて、<影>はアサを目掛けて滑るように迫ってきた。
逃げろ、と切羽詰まった琥珀の声がする。
アサの喉がひゅっと音を立てる。
恐怖で体は固まったように動かない。
眼前に迫った<影>に、思わず目をつぶった次の瞬間、辺りには絶叫が響いた。
…恐る恐る、目を開く。
どこも、痛くない。ちゃんと生きている。
そして、頭を守るように額の前にかざされた自分の手のひらから、淡い緑色の光が出ていることに気づいた。じゅ、と焼けたような音を立てて、光を食らった<影>の残骸が崩れ落ちていく。
どういうことだ。咄嗟に視線を上げると、こちらへ向かってこようとしていた琥珀の、好戦的な瞳とぶつかった。
「よくやった」
あと少し、お前も手伝ってくれ。
元々器用なアサだ、要領を得ると適応は抜群に早かった。
結界に守られながらではあるものの、琥珀の背後に回ろうとする<影>を的確に狙い、光を放つ。
いとも簡単にその背をアサに預けた琥珀は、より一層しなやかに剣を翻す。
出会ったばかりなのに、ふたりの呼吸は不思議と合った。
そして。
ついに全ての<影>を撃退し、アサはいつの間にか張り詰めていた息を大きく吐き出す。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいて、どっと疲れが押し寄せてくるようだった。
静かにやってきていた琥珀が、ぽつりと言った。
「悪かった、<影>に迫られて、怖かっただろ」
「本当よ、怖かったんだから」
ごめん、と琥珀が返して、しばらく、沈黙が続く。
次に口を開いたのは、アサだった。
「ねえ、<影>と戦えたってことは、わたし、本当に、翡翠なのね」
ああ、と琥珀が頷く。
戦闘でほつれた髪の毛が、はらりと揺れた。
翡翠として彼についていくのならば、きっとこれからもっと、さっきのような危険は増える。もしかすると、自分は命さえ落としてしまうのかもしれない。
それは嫌だ、とアサは思った。まだまだやりたいことはたくさんあるし、いつかは両親のように温かい家庭を持ちたい。
…だけど。<影>と戦うのなら、仲間がいた方がきっといい。
アサがのんびり暮らしている間に、<石の民>たちがさっきの琥珀みたいに、たったひとり、もしくはほんの少ない人数で、たくさんの<影>を相手に気を張って戦っているなんて、アサはその方が嫌だった。
ぐ、とひとり拳を握る。
緊張で張りつきそうな喉をなんとか押し広げて、琥珀、と呼んだ。
「わたし、あなたについていくわ」
いつの間にか傾いていた西日が、静かにその横顔を照らす。
アサの、新しい日々が始まろうとしていた。
慌てて振り向いたアサが目にしたのは、黒いもやのようなものがゆらりと人の形を取り、うごめいている姿だった。
きゃああ、うわあ、と周りにいた人々が悲鳴をあげる。
我先にと逃げようとする人々が押し合い、つまずき、はぐれたちいさな子供の泣き声が響く。
辺りはたちまち大混乱に陥った。
ち、と舌打ちをした琥珀が、落ち着いて逃げろと声を張る。
目を伏せた琥珀が右手を広げると、そこから金の光が溢れて、人々を守るように薄い壁となる。…たぶん、結界、だ。
アサが生まれてこの方一度も目にしたことがないような出来事が、今、目の前で起こっていた。
「ね、ねえ、なんなの、あのもや…!」
アサは慌てて琥珀の袖を引く。
いきなり現れた、得体の知れない少年を頼るのはかなり不安だったけれど、どうやらこの場であのもやの正体を知っているのは琥珀だけのようだし、他に頼れる相手はいない。
琥珀が振り向いて、飴色に変わった瞳でアサを見つめた。
「あれが<影>だ。ここは危ない。お前も早く、壁の向こうへ」
アサは慌てて頷いて、恐怖に震える足を叱咤しながら、友達らのいる結界の向こうへ駆け込んだ。
ぶわり、と風が吹いて、琥珀の長い黒髪が宙を舞う。
金色に光る瞳が、ひたりと<影>を見据える。
「…覚悟しろよ」
腰から下げていた細身の剣を抜き放つと、琥珀はしなやかに駆け出した。
淡く光をまとった剣を構えた琥珀は、いつの間にか実体を持ち始めていた<影>の一体に音もなく近づき、すぱりと縦に斬り下ろす。そして、くるりと身を翻し、そのまますぐ後ろに迫っていた別の<影>を横に薙ぎ払う。
その様子は、まさしくしなやかな獣だ。
琥珀は、驚くほど強かった。
…しかし、多対一、しかも大勢を守りながらの戦闘では流石に分が悪い。
斬り損ねた<影>の一体が、ついに琥珀の頬を切り裂き、ぱっと鮮血が飛ぶ。焦った琥珀の体がぶれたその隙をついて、<影>はアサを目掛けて滑るように迫ってきた。
逃げろ、と切羽詰まった琥珀の声がする。
アサの喉がひゅっと音を立てる。
恐怖で体は固まったように動かない。
眼前に迫った<影>に、思わず目をつぶった次の瞬間、辺りには絶叫が響いた。
…恐る恐る、目を開く。
どこも、痛くない。ちゃんと生きている。
そして、頭を守るように額の前にかざされた自分の手のひらから、淡い緑色の光が出ていることに気づいた。じゅ、と焼けたような音を立てて、光を食らった<影>の残骸が崩れ落ちていく。
どういうことだ。咄嗟に視線を上げると、こちらへ向かってこようとしていた琥珀の、好戦的な瞳とぶつかった。
「よくやった」
あと少し、お前も手伝ってくれ。
元々器用なアサだ、要領を得ると適応は抜群に早かった。
結界に守られながらではあるものの、琥珀の背後に回ろうとする<影>を的確に狙い、光を放つ。
いとも簡単にその背をアサに預けた琥珀は、より一層しなやかに剣を翻す。
出会ったばかりなのに、ふたりの呼吸は不思議と合った。
そして。
ついに全ての<影>を撃退し、アサはいつの間にか張り詰めていた息を大きく吐き出す。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいて、どっと疲れが押し寄せてくるようだった。
静かにやってきていた琥珀が、ぽつりと言った。
「悪かった、<影>に迫られて、怖かっただろ」
「本当よ、怖かったんだから」
ごめん、と琥珀が返して、しばらく、沈黙が続く。
次に口を開いたのは、アサだった。
「ねえ、<影>と戦えたってことは、わたし、本当に、翡翠なのね」
ああ、と琥珀が頷く。
戦闘でほつれた髪の毛が、はらりと揺れた。
翡翠として彼についていくのならば、きっとこれからもっと、さっきのような危険は増える。もしかすると、自分は命さえ落としてしまうのかもしれない。
それは嫌だ、とアサは思った。まだまだやりたいことはたくさんあるし、いつかは両親のように温かい家庭を持ちたい。
…だけど。<影>と戦うのなら、仲間がいた方がきっといい。
アサがのんびり暮らしている間に、<石の民>たちがさっきの琥珀みたいに、たったひとり、もしくはほんの少ない人数で、たくさんの<影>を相手に気を張って戦っているなんて、アサはその方が嫌だった。
ぐ、とひとり拳を握る。
緊張で張りつきそうな喉をなんとか押し広げて、琥珀、と呼んだ。
「わたし、あなたについていくわ」
いつの間にか傾いていた西日が、静かにその横顔を照らす。
アサの、新しい日々が始まろうとしていた。
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