【サゴマキ?】いずれ本になったらいいなと思うもの(仮)

 迎えた週末は快晴だった。会場までの道程も調べはしたが、最寄駅から向かう人の波に乗っていたらいつの間にか到着していた。余裕を持って家を少し早目に出たつもりでいたが、既に会場付近に集まる人数の多さに驚く。出店も並んでおり、きっと家族で訪れているだろう、子供達の声も聞こえて賑やかだった。専用の受付で牧から見せるように案内されていた画面を見せ、座席を示すチケットと交換してもらい、会場内のパンフレットとペンライトを受け取る。チケットの番号に従い席を探して、辿り着いたのは関係者席だった。確か牧は、最初に両親に声を掛けたと言っていた。本当に自分が座っていいのかと少し躊躇ったが、通路に留まり続けるのも邪魔になるだけだ。指定された番号の席に座る。天井を見れば多くの照明が並び、中央には巨大なモニターも設置されている。試合中は選手が大きく映るのだろう。試合は快適に見られそうだ。入場時に受け取ったパンフレットは、今日の為に作られたものらしく、片面はこの会場のマップが書かれており、裏面は両チームの紹介ページとなっていた。試合中や練習の様子、これまでの戦績が写真付きで掲載されている。牧のチームには最近加入した選手がおり、ここ数試合はCとして出場しているようだ。隅々まで目を通していると、会場にアナウンスが入った。配布されたペンライトを持って待つようにとの事で、どうやらミニライブで使用するらしい。絶縁体を抜いてスイッチを押すと、ピンク色に点灯した。見渡した周囲でもピンク色に光っている所があり、気にする必要もないはずだがどこか気恥ずかしい。一旦スイッチを切った。もう一度パンフレットを開き、読み終えた時点で再びアナウンスが流れる。ミニライブが始まるようだ。アイドルが数人出てきて、曲が始まった。先程のペンライトを点灯させ、周りに合わせて振る。縦に振ったり横に振ったりしているうちに、曲が終わった。客席に手を振り退場するアイドルに拍手を送り、試合に出る選手達の紹介を待つ。コートの確認が終わると、会場が暗転した。天井のモニターに映像が映る。両チームの選手紹介ムービーが流れ、切り替わる度に歓声が上がる。中でも牧が映った時の歓声は凄まじく、場内の温度が一段階上がった気がした。
 照明が点灯した時、コート上には既に選手達が並んでいた。互いに握手を交わす中に、牧を見付ける。高校生の頃よりも更に大きく見えた。オーラなのか筋肉量なのかすぐには分からないが、日々の練習の賜物なのだろう。友の活躍を、こうして目の前で見られる日が来るとは思いもしなかった。軽いウォーミングアップを終え、いよいよ試合が始まる。ジャンプボールの為に、両チームから選手が一人ずつ出てくる。弾かれたボールが転がった。即座に反応して拾う牧が、指示を出しながらコートを駆ける。鮮やかなオフェンスを直接上から見るのは初めてだ。相手選手にマークされても、パスを駆使して躱していく。そのままゴールに叩きつけ、先制点をもぎ取った。相手チームのオフェンスにも徹底的に喰らい付き、僅かな隙を見付けてボールを奪い取る。しかし、一度Cの選手にボールを回したとき、微かな違和感を覚えた。なんと言うか、予想外だったかのような。そのまま牧にボールを返し、プレー自体は続く。チームメイトにパスを出した牧も、自らの手を握ったり開いたりしていた。あの一瞬で怪我をしたとは思えない為、牧が思い描いていたものとは違ったのかもしれない。試合は続いていき、相手チームの連続ゴールや牧のチームのスリーポイントシュートのラッシュ、そのスリーポイントに気を取られている間に、内側から牧が攻める。プロの試合故に完成度は違えど、懐かしさを覚えた。そして先程の違和感の正体にも気付いた気がする。自分が試合に出ていたら、と勝手に想定した場合と動きが異なる……といったような、曖昧であり当然である事ではあるが。パスを待つ牧の手の位置が変わっていないとするならば、受け取りたい場所はもう少し下になるだろう。とはいえ、身長もあの頃から変わっているのなら、この考えも違うのかもしれない。試合自体はトラブルも無く進んでいる。きっと気の所為なのだろう。それを肯定するかのように、牧がゴールへ豪快にボールを叩き込んだ。
 白熱した試合は、牧のチームが勝った。試合終了後に、客席に向かって手を振る選手達に混ざる牧と目が合った。同時に高砂の後方から黄色い歓声が上がり、見たのは自分の後ろかと納得する。試合中は無意識に力が入っていたようで、いつの間にか拳を握っていた。やはり動画で見るのと実際に見るのとでは熱量も違う。自らはコート上にいなかったのに、掌にボールの感触が蘇ったようだった。シューズもボールも、実家に置いてきたままだ。しかし、近隣に公園があっただろうか。ワンオンワンをするにも人数が足りない。再び始めるには、色々考えなければならなそうだ。そうしているうちに本日の全行程が終了し、客席にも動きが見られた。高砂の周りの人々も、荷物を纏めて席を立つ。出口へと向かう行列を眺めていると、鞄に入れていた携帯が震えた。画面に表示された電話番号と名前に驚き、周囲を確認してから小声で出る。
「はい、もしも」
『今っ、どこだ? まだ近くにいるか?』
「あ、あぁ、客席に、」
『この後時間あるなら、西側出入口に来てくれ!』
「西側? 分かった」
『頼んだ、じゃ!』
「お、おう……」
 一方的に切られた電話に首を傾げる。何かあったのだろうか。だが緊急事態だった場合は、きっと他に頼る相手がいるはずだ。ならば個人的な用事か。しかし互いの連絡先がまだ生きていると判明した今、急ぎでないならわざわざ電話をせずともよいだろう。真意は分からなかったが、指定された場所へと向かうしかなかった。
 西側出入口に着くと、私服の牧がいた。コートにいた選手である事に変わりはないが、どうしてもこれまでより近くに感じてしまう。高砂に気付き、軽く手を上げた。
「よう、悪ぃな急に。この後大丈夫だったか?」
「元々今日は空いてるからオレは平気だが……牧はいいのか?」
「帰るのは明日だからな。他の奴らは観光してる。……ちょっと話せるか?」
「あぁ、いいが……」
「さっきベンチを見付けたんだ。行こうぜ」
 くるりと向けられた背中には、相変わらず頼もしさが見えた。先程まで試合をしていたはずだが、そういった雄々しい雰囲気は見当たらず。高砂もよく知っている牧だった。その斜め後ろを歩くのは、何年振りだろうか。あの頃は他の部員もおり、二人だけで歩く今と比べて賑やかだった。
「そういえば、オレ以外にも今日来てる奴はいるのか?」
「あー……声は掛けたが、都合がつかんらしくてな」
「そうだったのか」
「お、あった。ここだ」
 牧が示す先の木陰にベンチがあった。ちょっとした待ち合わせにでも使えそうな場所だ。二人掛けでも十分な大きさであり、牧に倣って座る。吹き抜ける風が心地良かった。ちらりと盗み見て待っていたが、牧の前髪が風に揺れるだけで口を開く様子は無い。ほんの少しだけ、居心地が悪かった。
「……試合、凄かったな」
「おう、サンキュ。最初から見てたのか?」
「あぁ、ライブの時からいたぞ」
「ははっ、そうだったな。あのグループは有名なのか?」
「……オレは初めて見た。普段から音楽番組はあまり見なくてな」
「そうか……忙しいんだな」
「牧程じゃねぇよ」
 最初の一言が出れば、後はスムーズだった。まるで学生時代の続きのような気がして。けれどどこか違う気もして。それでも、大きく変わっていない事に安心もした。
「休みは何してるんだ?」
「休み、か……特にこれといった事はしてねぇな……」
「……バスケはもうやってねぇのか?」
「あぁ。前に使っていた道具は実家に置いてあるが、近くにコートがある公園もねぇし……なかなか、な」
「……そうか……」
 再び風が吹く。ふと見上げた空からの日差しが眩しく、瞼を閉じた。今日は良い天気だ。穏やかな気候の中、高校時代の中庭のベンチにいるような気もしてきた。数学の課題が、化学の実験で、古典の小テストが、クラスのあいつが、なんて。そんな話より、実際は、教室よりも体育館で時間を共にする事が多かった。バスケの話ばかりしていたのではないか。あの頃は、それ程に夢中になっていた。高砂自身は、プロの世界に飛び込む気持ちは無かった。適した人間は、きっと牧のような人の事を言うのだろうと、この頃から思っていた。それから、清田も神も卒業後には、国内の同じチームに所属したと聞いた。皆、大学時代にも名を馳せていた面々だ。高砂もバスケは続け、進学しても練習には外せない用事がある日以外は参加していたし、自主練習もしていた。それでも、プロの世界は遠いと思っていた。寧ろ練習を重ねる程に気付いたのかもしれない。見えない階段により、確実に差が開いていた。だからといってどうという事も無く、ただ静かに納得していた。高校での三年間が、牧と高砂を繋ぐ唯一のような気さえする。隣りに座る牧紳一は、もう遠くの人のように思えた。
「お、見ろよ。飛行機雲だ」
「あぁ……久し振りに見たな」
「……なんだよ、何か悩んでんのか?」
「いや、そういうのじゃねぇが……あ、今日試合に出てたCは最近加入したって聞いたが……パス回しだとかはまだ練習中なんじゃねぇのか?」
 悩みと言われ、頭を過ぎったのはアメリカ行きだ。だが、今伝えるのはどうなのかと思い、咄嗟に誤魔化せるアイデアも浮かばず。試合中に思った事をどうにか絞り出した。
「……やっぱりバレてたか」
「パスもらった後で手を気にしてただろ。……怪我じゃねぇよな?」
「あれくらいで怪我はしねぇよ。ただ……いや、これ以上はまだ求めるべきじゃねぇな。帰ったら練習、それしかねぇ。これまでのチームでのやり方もアイツにはあるだろうし、その上でオレ達のチームでのやり方を覚えようとしてるんだ。……そんなすぐには上手くいかねぇよな」
 言語が異なる国で、異なるチームだった選手と考えを合わせる難しさは想像ができない。授業の範囲で習う英語で、一体どこまで太刀打ちできるのか。アメリカ行きを考えていたのなら大学でも勉強していたとは思うが、実際の会話で使う英語とは違うのだろうか。気にはなったが、聞いたところで。それは伏せておき、他の事を聞くようにした。
「あー……プロになると、練習ももっと厳しいのか?」
「今はそうでもねぇよ、案外自分のペースでやれてる。……高校の頃は、練習がキツかったよな。諦めちまう奴らもいたが、別に強く止める気は無かった。強制するモンでもねぇし。それでも残ったお前達と、最後までやり抜けて楽しかったよ」
「……オレもだ。何度か悩みはしたが、アイツ達と続けられて良かった」
「それに、お前がゴール下にいてくれたから、オレはどこまでも自由だった。やりたい事が何でもできたんだ」
「牧……」
「……って、ダセェよな。今になってやっとお前に言えるようじゃ……格好つかねぇよ」
 ベンチに寄り掛かり、再び視線を空へ投げる牧。横顔に滲む苦笑に、高砂は掛ける言葉が浮かばない。倣って上を向く事しかできなかった。
「高砂」
「なんだ?」
「好きだぞ」
 言葉が耳に飛び込んできた瞬間、高砂は弾かれたように牧を見る。視線が絡まり、心臓が強く握られた気がした。好き。その二文字が表すものとは。友愛、親愛、敬愛……脳内で次々と派生していく単語が、流れていく。そうして、恋愛が駆け抜けた時。共に過ごした三年間が、激しく警鐘を鳴らす。それは恐らく、一番確定させてはいけないもの。牧ほどに優秀な人間ならば、きっと周囲にも優秀な人間が集まる。引く手数多、というやつだろう。きっとその中に、牧が好む人もいるはずだ。友人が正しい道を進めるように努める事が、自らの役目だ。オレも同じ気持ちだ? お前は間違っている? 違う、そもそも、今自分に向けられている感情の内側は、それではない。表したい事は、もっと他にある。
「……参ったな。高校の時にもっと真面目に現文受けてりゃよかったな」
 視線を落として苦笑する様はどこか痛々しく、高砂も返すべき言葉が分からなかった。先程から口を開けずにいる高砂を見て、牧は続けた。
「……悪ぃな、早まった。きっと本当は、そうじゃねぇんだ。お前を困らせちまうだけだって事も、分かってる。なぁ、どう言ったらお前は……高砂は、オレの近くにいてくれるんだ……?」
 縋るような声は、本当に牧から発せられているのか、今日見た試合も全て夢で、まだ今日は始まっていないのではないか。逃避するように飛び散る思考を掻き集め、喉の隙間から絞り出した。
「……オレとお前とでは、高校を出てからの道が違う」
「知ってる。だが、それでも……同じコートじゃなくていい、今でもお前が近くにいてくれたらって、思っちまうんだ」
「牧……」
「……本当は、今日は高砂にしか声掛けてねぇんだ。あぁ、親には聞いたぞ? それで都合がつかねぇって聞いて……招待席は空いたままでも良かったんだ。だが……オレがお前に会いたかった。だから、昔聞いていたアドレスに、ダメ元で連絡してみたんだ。……返事が来て、柄にもなく安心して。今だって、話せて良かった、元気そうで良かった。それだけで良いって思わねぇといけねぇんだよ……。今からオレのチームに来てくれなんて言えねぇし、高砂には高砂の世界がある。それは……分かってんだ。……分かってる筈なんだよ……」
 俯きながらくしゃりと前髪を握る。そんな弱っている牧を見るのは、初めてだった。適した言葉を掛けられないのは、高砂も同じで。自らにできるのならば、なんでもしてやりたかった。ただ、たった三年間の思い出だけで、相手を縛り付ける事はしたくなかった。それに、今日の試合で牧がどれだけ凄い人なのかを思い知らされ、その分、自分は大したことない普通の人間だと気付かされてしまう。そんな自分が彼の為に、一体何ができるというのだろうか。
「……悪ぃな、話し過ぎた」
「いや、オレこそ……すまん」
「なんだよ、高砂は悪くねぇだろ。ただオレが喋り過ぎただけだ」
「そんな事は……っと、悪ぃ」
 高砂の携帯が震える。長さからして電話だろう。携帯を取り出している間に、牧は立ち上がり軽く手を上げ、こちらに背を向ける。咄嗟に上着の裾を掴んだ。
「はいっ、もしもし」
『あっもしもし! 高砂さんごめんね休日に! 五十嵐です、今大丈夫?』
 声を上擦らせながら電話に出た高砂に、牧は驚いた様子だったが、ベンチに座り直したのを横目で確認した。手を離した隙に走られては追い付けないので、裾は掴んだままだ。
『この間伝えたアメリカの件なんだけどね、もっと早く返事がほしいって上から言われちゃって……粘ったんだけど、他の人への確認もあるから、どうしても月曜日の午後までにってなっちゃって……時間が無い中で本当に悪いんだけど、月曜日に出社したら、教えてもらえる……?』
「あー……はい、分かりました」
『ありがとう高砂さん! 本当にごめんね急で……じゃあまた月曜日にね!』
「いえ、大丈夫です。失礼します」
 通話が終了した事を確認し、脳裏に志賀崎の言葉が過った。返事の期限の短縮。あの時ロビーで話していた内容が、現実になった。さて、どう回答しようか。未だに思いきれないのならば、答えは決まったようなものなのかもしれない。月曜日、出社したらメールでの回答で良いだろうか。それとも断るのだから、面と向かっての方が良いかもしれない。会議前に時間がとれるのならば。
「……おい、今のって」
「あっ……悪い、伸びたか?」
 週明けについて考える事に集中してしまい、牧の上着の裾を握ったままであるとすっかり忘れていた。声を掛けられて今の状況を思い出し、そっと手を離す。変に伸びてしまってなければいいが。
「いや、それは別にいい。ところでアメリカって聞こえたが、何の話だ?」
「あー……今の職場では、定期的に数年間アメリカに異動になる事があるんだが……」
「で?」
「……この間の火曜日、オレが候補に挙がってるって上司から言われて……その返事の期限が縮まったって連絡で……」
 途切れ途切れに簡潔に述べたが、牧からの返事がない。脈絡もなく分かりづらい説明で、怒らせてしまったのだろうか。もしくは突拍子もない話だったのかもしれない。やはり断ろうと思っている、そう告げる前に、牧が口を開いた。
「なんでそんな話を黙ってたんだ? 全く……オレを引き止めたのが運の尽きだ。全部吐いてもらうぞ?」
 そこには、先程までの弱りきった姿など微塵も無く、悪い笑みを浮かべる嘗ての級友がいた。
 それからは、五十嵐から聞いた説明を簡単に伝えた。それに伴い、直前まで取り組んでいたプレゼンや周囲の同僚の話もした。牧は静かに相槌を打っていたが、聞き終えてから溜息をついた。
「……その、あまり面白い話じゃねぇよな」
「面白い面白くないの話じゃねぇよ。全然連絡を寄越さねぇから、全部新鮮でな。聞き入ってただけだ。まぁオレがそれを何も知らなかったのは面白くねぇがな。他の奴らはもう少し連絡してくるぞ?」
「う……すまん」
「便りが無いのは良い知らせ、とも聞くが……」
「……それを言うなら牧もだ。空港で見送ってから、今日の試合の話まで一回も、」
「あー分かった分かった、すまん。とりあえずあいこって事にしておくか」
「……そう、だな……?」
 言いくるめられたような気もするが、互いに連絡をしていたなかった事は事実で。これ以上は平行線だと悟った。少しの沈黙、そして。
「で、高砂は来るのか?」
「……アメリカ、か?」
「おう」
「あー……一応は、断ろうかと」
「……なに?」
「言葉も違うし、オレの他にも希望を出している社員はいる。オレよりも適した人はたくさん、」
「……それは本気で言ってんのか? お前自身の意志はどうなんだよ」
 言語、環境、同僚、心配、不安。留まりたい言い訳はいくらでも浮かぶのに、たった一歩踏み出す理由が作れなくて。どれも本心であると思っているが、どれか一つでも違うものがあるのだろうか。
「どれも本当だ……興味が無ぇ訳じゃねぇけど、それよりは不安が強い。それに、オレよりも行きたい意志が強い人の方がいいだろ、こういうのは」
「あのなぁ……高砂の会社の事はよく知らねぇが、行きたい意志がある奴は、何年掛かってでも行動するぞ」
 牧の言葉は、重さが違った。目標を定め、それに向かい努力を重ね、すぐ報われなくても諦めない。そうして思い描いていた舞台で活躍する姿に、勇気を貰う人も多いのだろう。その中に高砂も含まれていた。ただ、高砂にとっては、今回は諦める決断をする為の勇気になるのだろう。それだけだ。
「あぁ……そうだな」
「……多分伝わってねぇな? 言い方を変えるか」
 そう言うと牧は立ち上がり、座る高砂の正面に立って両肩に手を置く。そして迷い無く言い放った。
「高砂、アメリカに来い。オレがお前に近くにいてほしいと思って言ってるんだ」
 数度瞬きをしてから、言われた言葉を噛み砕いて飲み込んだ。あの牧が、来てほしい、だって? 海を越えて、様々な人の支えになっている、牧が? 本当に、ずるい言葉だ。そんな事を言われてしまっては、掻き集めて並べて固めたはずの言い訳が溶けていってしまうではないか。
「……はは、無茶苦茶だな」
「で、どうするんだ? 来るのか? 来ないのか?」
「……分かった。明日、行くように決めたって上司に言おうと思う」
 満足気な様子の牧に、こちらもどこか清々しい気持ちになった。きっと牧は、高砂がアメリカでの駐在について興味を持っていた事を見抜いていたのだろう。それ故に、来るか来ないかの二択に絞った。そして、他にいるであろう本当に行きたい人ならば、来年以降にもチャンスを掴んで実現させるだろうから、そこまで高砂が考える必要も無かったのだ。いつまで経っても敵わない。
「牧、ありがとな」
「それはこっちのセリフだ。……とはいえ、あぁ言ったが、本当にいいのか?」
「おいおい、今更だな。仮に本当に行きたい気持ちが全く無かったとしたら、きっと牧に何を言われても変わらねぇんだろ。そもそも言わずにいる事だってできた。だが……そのお陰で踏ん切りが付いたんだ」
「そうか……高砂がそう思ってくれるんならいいが」
 穏やかな表情を浮かべる牧は瞬きを一つして、高砂に向き合う。その瞳は、言葉を交わし始めた時より輝いているように見えた。
「正式に決まったら、また連絡してくれ」
「あぁ、分かった」
「お前ならきっと大丈夫だろ、待ってるぜ」
 これだ、この安心感だ。いつでもこれに助けられていたのだ。牧と話す前まで抱えていた不安や、それ以外の何もかもが消え去った訳ではない。ただ、なんだか本当に大丈夫な気がする。それだけで十分だった。


 そうして、次の出社日に高砂は五十嵐へ渡米の意志を伝えた。それからは怒涛の日々だった。高砂への渡米後の業務説明や高砂自身の業務の引き継ぎ、準備物の手配や送別会……周囲も巻き込んでしまい申し訳なく思ったが、同時に有り難くも思う。送別会会場として予約されていた居酒屋では、畠田作のケーキが振る舞われた。店側の厚意で置かせてもらっていたらしい。思わず全員で笑ってしまい、終始暖かい雰囲気に包まれていた。ちなみに、これまでの同僚達とも引き続き業務での接点はあるそうで、それも会が必要以上に湿っぽくならずに済んだ事の一因だった。寂しさはあるが、これですべてが終わるのではない。まだまだ続いていくのだ。

 某日、空港。手続きを終え、高砂は機内へと乗り込んだ。これから、新しい場所に飛んでいく。邪な理由かもしれないが、それでも行きたいと思った。もし周囲から何か言われるような事があっても、結果を残せば問題は無いだろう。今までだって、そうだった。勿論、高校時代の部活動と今の仕事とでは全く同じとは言えないし、言葉にする程簡単な事でもない。だが、自分がそう思っているのは事実で、牧が証明し続けているのも事実だ。……負ける訳にはいかない。彼が気付かせてくれたものは、高砂の中に確実に残っている。

「よう、待ってたぜ」
「牧……久し振り、だな……?」
「おう、なんか不思議な感じがするな。時差ボケは大丈夫か?」
「あぁ、今のところは。それで、これから手続きの関係でアパートに行かなきゃならねぇんだが……」
「住所は聞いてもいいか? ある程度なら案内できると思うが……」
 到着後、その日のうちにアパートに向かうようにと言われていた為、すぐに必要な情報を取り出せるように備えていた。住所や外観、空港からの道程を牧に見せる。
「……ん? ここの住所、オレが住んでるアパートじゃねぇか」
「そうなのか?」
「ちょっと待ってろ……あった、これだろ?」
 牧が画面に表示させた地図は、高砂が事前にもらっていた資料の画像と酷似している。酷似どころか、検索結果に表示されたアパートの外観は同じだった。そして高砂が使う部屋として指定されていたのは、牧の隣の部屋番号で。
「……牧、あの時の近くにいてほしいってのは……」
「流石に部屋番号までは知らん。そもそもどこに部屋を借りただとか、そういった話はしてないだろ」
「そうか……ふっ、そうだよな」
「しかし驚いたな。これからはお隣さん、か」
「あぁ、そうなるな。……その、よろしく頼む」
「こちらこそ。何かあったらなんでも聞いてくれ」
「相変わらず頼もしいな」
「それはオレのセリフだ」

 あの時見ていた背中が、今は隣に。
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