【サゴマキ?】いずれ本になったらいいなと思うもの(仮)
「アメリカ、ですか?」
「そっ。確か一番最初の研修で言ったと思うけど……覚えてる?」
先週末の打ち上げが思い出される。先輩達が話題にしたアメリカ行きが、本当に自分だとは微塵も予想していなかった。
「……はい」
「おぉ、流石だ。確か……長くて五年、短くても二年は向こうで過ごす、それで向こうでもっとやりたいなら、更にもう数年って事なんだけどね。よく覚えてたね」
火曜日の午後、いきなり五十嵐に呼ばれ会議室に通されたと思ったらこれだ。当然ながら、期待よりも疑問が多く浮かぶ。とはいえ、五十嵐の口振りからしてほぼ確定事項だと思っていいだろう。断るなら急ぐべきだが、即座に挙げられる理由がなかった。
「業務内容についても、今とそんなには変わらないかな。国内での出張で、滞在期間が長いって感じで。それから向こうでの教育係というか、日本人のスタッフもいるから言葉とかはどうにかなるんじゃないかな。そのスタッフが言うには、英語は嫌でも覚えるらしいし……僕は苦手だから多分無理だろうけど。って、それは別に後でもいいか。えーっと、あぁそうだ。向こうでの部屋なんだけど、特に希望がないなら会社で借りてる部屋があってね。まぁ、アパートの一室なんだけど、それが国内出張とは違うところかも。国内だと、出張先に近い辺りでホテルを探してるもんね。けど、ウチって定期的に海外にも行ってもらってるからさ、毎回向こうで宿泊先を探すのも大変でしょ? 行ってもらう先は変わらないし……だからもうね、部屋借りちゃおうってなったんだよね。あ、けどこれは、有期の出張とか駐在での話ね! もしも向こうに残りたいってなった場合には、新たに部屋や家を探してもらうようにはなるんだけど……って、色々一気に言われてもパンクしちゃうよね。後でメールで送るから、また目を通しておいてね! 決めるのはそれからでも大丈夫なんだけど、できたら今月中には教えてくれるととてもありがたいな……!」
「……今月中、ですか……分かりました」
「ごめんねぇ色々と急で。こっちも困るんだよって上にも伝えてはみるからね!」
「あぁ、いえ……」
「じゃっ、僕これから会議あったの忘れてたからちょっと行ってくるね! この部屋の電気だけ消しておいてくれると、わわっ、電話きちゃった! はいもしもし今行きます!」
風のように五十嵐が退出した。嵐のように、の方が近いかもしれない。とんでもないものを置いて、だ。まさか本当に、自らに白羽の矢が立つとは。何かへの大きな貢献や、取り返しのつかない失敗も、これといって思い当たらない。かといって理由を挙げてもらったところで、それを基準として判断するかは……なんとも言えず。念の為確認した今日の日付は、世間では中旬と呼ばれる範囲だろう。月末とは聞いたが、実際の期限は二週間程しかなかった。とはいえこのまま座っていても、何も始まらない。どの角度で考えたとしても、今できる事は一度自席に戻り、届くであろうメールを待つだけとしか思えず。天井を見上げ深く呼吸をしてから会議室を後にした。
「あ、高砂さんお帰り……って、なんか元気ない? 大丈夫?」
「あぁ……大丈夫です」
「本当に? まぁ、大丈夫ならいいんだけど……悩み事とかあったら聞くからね? それに業務が落ち着いてるなら、半休にしてもいいし……何かあったらできる範囲になっちゃうけど、手伝うからさ。無理しないでね」
「……ありがとうございます」
気にかけてもらえてありがたい気持ちはあれど、相談してもいいのかどうかの確認を失念していた。うっかり口外してしまい、五十嵐が大変な思いをするのは高砂も望んでいない。とりあえず仕事場にいる限りは、仕事をしなければ。離席中に置かれていた書類やメモを集め、一枚ずつ目を通す。重要度が高いものと期限が近いものと、それ以外とを簡単に振り分け、パソコンに向き直る。新規メールの通知で見えた件名の【さっきの概要】の文字と差出人は、今は見なかった事にした。
それから一時間程経過したが、やはり落ち着かない。メールも確認したが、概ね五十嵐から聞いた内容と同じようなものだった。新たに悩む事が増えた訳ではないのだが、それでも普段より処理速度が落ちている。何度も切り替えろと念じてはいるが、上手くいっていない。小さく溜息を零した。
「……高砂さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫です、すみません」
「んーホントかなぁ……ロビーとかで十分くらい息抜きしてきたら? はい、これあげる。食べ終わったら帰っておいでよ」
「……ありがとうございます、いただきます」
小川から渡されたのは、チョコマシュマロだった。受け取るだけ受け取って仕事を続けようと思ってはいたが、席を立つまで小川はこちらから視線を外そうとしない。一つ会釈をして、ロビーに向かうしかなかった。
業務中という事もあり、誰もいないロビーは静かだった。一番手前のテーブルに座り、貰ったものを眺める。緑茶を片手にこちらを見るチョコマシュマロのイラストにはどこか懐かしさもあり、先程に比べて心は幾らか落ち着いた。まだ思考は落ち着かないが、いい加減戻らねばならないだろう。立ち上がりかけた時、人の気配がした。
「お、珍しい。お疲れ」
「お疲れ様です」
「……本当に珍しいな。ん? それ……小川のだろ。何かあったのか?」
気配の主は志賀崎だった。隣りに座ると同時に、高砂の手に持つものに気付く。抱えていた書類を机で整えたくてロビーに寄ったらしい。数枚のクリアファイルに入れながら、高砂からの答えを待っていた。
「いえ、大したことでは……」
「それ、小川のお気に入りなんだよ。だから人にあげるなんて、よっぽどの事だろうと思ったが……もしかしてアメリカか?」
何故、と顔に出ていたのだろう。志賀崎が少し笑いながら、種明かしをした。
「俺、来月から人事部に異動になるんだわ。それで来月以降の人事の話も耳に入って……あぁ、まだ確定じゃねぇんだけど、声掛ける候補に高砂さんの名前があってな。……先週の打ち上げの時にはもう知ってたんだ。本人より先に知ってたとは思わなかったけどな」
五十嵐さんだしなぁまぁそうだよなぁ、と続ける志賀崎はクリアファイルを並べ替えて順番の確認をしていた。納得がいく順番を見付けたようで、揃えて立ち上がる。
「ま、考えすぎないようにな。俺らの同期なんか、英語もできねぇのに行くって決めてたし……理由なんてあってもなくても、行く奴は行くし行かねぇ奴は行かねぇ。そんな中で俺が言えるのはただ一つ。五十嵐さんは多分返事の期日を早めてくるだろうな。あの人も上から色々言われて大変みてぇだしよ。焦って後悔する方を選ばないようにな。じゃな」
程々にしろよ、と言い残し立ち去る志賀崎の背を見送った。ロビーに残ったのは、高砂とチョコマシュマロだけだ。包装に描かれた顔の付いたマシュマロを再び見つめ、高砂は封を開けて口に放った。後悔の無い選択。それができれば苦労はしないが、それも知った上でのアドバイスだろう。改めて自分の考えを整理してみる必要がありそうだ。どちらに傾くのか、或いは敢えて傾けるのか。自分が納得する答えとは、何か。先程までより幾らか思考は纏まり、少しは穏やかになれた。続きを考えるのは退社後に。そう切り替る為に、短い深呼吸をした。
ロビーから戻ると、五十嵐からの追加メールが届いていた。思わず零した短い溜息。ふと、溜息をつくと幸せが逃げる、なんて言葉を思い出したが、今日くらいは見逃してほしかった。
帰宅後、高砂の脳内を占めるのは五十嵐の話で。アメリカへの駐在。希望者の中から決める年もあれば、上層部が話し合い候補者を絞る年もあると、追加で届いたメールには書かれていた。今年も希望者は数人いたらしいが、抱えている業務的に、すぐに日本を離れられなかったのだとか。それだけ評価してもらえているのは、とてもありがたい事であるのは分かっている。だが、異国の地への不安が全く無いとは言えない。それに今日の話を聞いて真っ先に浮かんだのは、仕事についてではなく、牧だ。理由は単純で、駐在中に利用するアパートがある住所が、牧の所属するチームの本拠地近くだったのだ。こんな事で揺らいでいる状態の自分が、本当にアメリカに行っていいのか。やはりずるずる悩んで最終的に断るよりは、早く連絡してしまうべきだろう。しかし早すぎるのもどうなのかと悩み始めた時に、携帯が震えた。そういえばマナーモードにしたままだった。現在二十一時三〇分。こんな時間に誰なのかと数人を頭に浮かべたが、差出人は予想外の人物だった。
おはよう。
この時間なら大丈夫だろうが、起こしたら悪い。
久し振りだな、元気にしてるか?
実は、今度の土曜日に、日本で試合があるんだ。
もしよかったら、見に来ないか?
日本人の選手用に知人を呼べる席があるんだが、オレの両親からは都合がつかねえって連絡があって、余っちまったんだ。
高砂の予定もあるだろうから、無理にとは言わねえが……。
都合がつくなら、教えてくれ。
じゃあ、また。 牧
おはようということは、向こうは朝なのだろうか。時差はすぐに分からなかったが、彼の事だ。不摂生な生活はしておらず、朝だからおはようと送ってきたに違いない。そして肝心の内容は、今週末の親善試合についてだ。牧のチームが日本に来る事は知っていたが、チケットの倍率は恐ろしい程に高く、平日であるにも関わらず受付開始の数分後に専用サイトがサーバーダウンしてしまったと聞いた。その後復旧はしたものの、高砂が休憩中にサイトを確認した時には、既にどの席も完売となっていた。確か試合前にはアイドルによるミニライブが行われる情報もあり、サーバーダウンとなってしまった事も納得がいった。仕方ないと思って諦めていたが、まさか。手帳を開いて確認すると、指定された土曜日には何も予定が入っていなかった。バスケの観戦も、もう何年振りになるだろうか。更に、コート上には牧もいる。断る理由は、一つもなかった。
◆◇◆◇◆◇
朝のジョギングは、牧の学生時代からの習慣だ。渡米後も欠かさず行っており、前日の練習や試合の思考の整理に役立っている。いつものコースを走り終えて、シャワーで汗を流し、それから練習用のバッグを掴んで外に出る。ただ一つ、いつもと違うのはジョギング前にメールを送っていた事だ。送信先アドレスがもう使用されていないと知らせるエラーメッセージは届いておらず、とりあえずは大丈夫だろうと思いジョギングに出ていた。練習場のロッカールームで周囲を確認してから携帯を見ると、新着メールが一件届いていた。差出人は、高砂一馬。声を掛けた日本での試合を、見に来てくれるだろうか。
『シン、もういたのか。相変わらず早いなぁ』
『……ようニック、お前も早いな。何かあったのか?』
内容を確認する前に、チームメイトに話し掛けられた。この時間帯にはまだスタッフしかいないはずだが、予想外だった。特にニックは、昨晩はシリーズ物の映画を夜通し見ると言っていた為、普段より一時間くらい遅く来てもおかしくないと他のチームメイトとも話していたくらいだ。
『まぁな。朝早くに散歩に行きてぇってサムライに起こされてよ。帰ってからも眠かったし、また寝直そうかと思ったけど……それじゃあ遅れちまうからな。ついでに寄り道しながら来たんだ。新しいバーガー屋があったぞ』
『ほう、サムライは規則正しい生活ができているんだな。感心だ。で、確かドーベルマンだったか?』
『残念、シェパードだ』
『……すまんな、毎回』
『いいさ、今見ようとしてるメールが誰からかを教えてくれたらな。この間言ってた人からの返事か?』
『ぐ……分かった。が、先に読ませてくれ』
一昨日、日本での試合について両親に連絡をしたが、ちょうど旅行中で見に来られないと返信が来た時、空席になってしまうが仕方が無いと思っていた。そこで話し掛けてきたのがニックだ。試合に向けた練習に追われてすっかり忘れてしまっており、もう少し早く連絡できていればと携帯を片手に考え込んでいた牧は、簡単に経緯を説明した。するとニックは、日本にいる大事な人を呼んだらいいと提案してきた。例えばとして挙げられたのは、日本に残してきた内緒の彼女、或いは学生時代の知り合い。具体的には、高砂。少し前に受けた取材で、色々と喋りすぎてしまったうちの一人だ。牧の特集という事もあり、発売日には練習後に買いに行くチームメイトもいたし、翌日はロッカールームのテーブルにも置かれていた。更に一週間後、高校時代のバスケ部員だった面々から、久々に連絡があった。内容は勿論牧が掲載された雑誌だ。読んでもらえて嬉しい反面、日本でも売られていた事を思い出し、羞恥から頭を抱えた事は今でも新鮮に思い出せてしまう。その中には、高砂からの連絡はなかった。忙しくしているならそれはそれで構わないのだが、便りが無いのは少し寂しい。ならばこちらから送ってみてもよいだろうと、会話がきっかけで思ったのだった。そしてニックへは、彼女がいない事は勿論伝えた。
『……良かった、来れるってよ』
『おっ、なんだよぉやっぱり送ってみて正解だっただろ?』
『あぁ……ありがとな』
『いいって事よ』
『あ、シン。と、ニック。おはよう』
『ようケビン』
『なんだよ、俺はついでか?』
『そうじゃないけど……シン、昨日教えてくれた連携のやり方を練習したくて……今日は時間取れる?』
ケビンは、今年の途中に他チームから移籍してきた選手だ。故に牧のチームでのプレイスタイルについては、まだ勉強中である。何パターンかあるうち、まずは主なものを練習しており、早く体に馴染ませたいと思っているようだ。新しい環境に身を置き、まだ慣れない事も多いはずだが、積極的にコミュニケーションを取ろうとする姿勢は牧も尊敬している。ニックもそうだ。牧が加入するまではPGの中心選手だったが、加入後は牧と交代での出場が増えた。コート上での広い視野は、すぐに身に付くものではない。ニックからも学ぶ事はとても多く、また、ニックも牧に様々な質問をぶつけた。今は他のポジション練習に参加しているが、そこでも気になる部分は何度も確認していた。牧自身、他のチームメイトの練習に取り組む姿勢も勉強になっており、渡米の決断は間違っていなかったと断言できる。
『分かった。じゃあ……』
『なんだ? この時間には珍しいメンバーが集まってるな』
『アルフレッド! ……おい、なんで俺だけを見て言うんだよ』
『今日の練習の話か?』
『あぁ、ケビンとちょっとな。ただ、マークが付いてた場合もやりてぇし……』
『なら、俺とニックも混ぜてくれ。人数は足りるだろ?』
『それは助かるが……いいのか?』
『他の練習メニューも考えておきたくてな』
『俺は無視かい』
良いけどよぉ、と言うニックも参加してくれるようだ。それより、個人的な事ではあるが、先程目を通したメールへの返信もしておきたい。普段の事を考えると、チームメイトが集まるまでまだ余裕はあったはずだが、今日はそうではなかったらしい。
『あーあ、今や俺を癒やしてくれるのはサムライだけ……』
『……あれ、そういえばニック……』
『言ってやるな、彼女にフラレたんだってよ、気の毒になぁ』
『あぁそうだよ! 俺が何をしたって言うんだっ!』
『行っちゃった……』
『アイツは放っておいてもいいんだよ。どうせまたいつもの調子になるさ』
『……あ、帰ってきた』
『なぁ、最近入ったスタッフの子って今フリーか知ってるか?』
『ほらな』
『あぁ……うん……』
『それで、シンはいつまで画面見てんだ? 置いてくぞー』
『お、すまん。すぐ行く!』
頭上での会話は耳に入っていなかったが、特に問題なさそうだ。取り急ぎ高砂へ返信をすべく、事前にチームから配られていた招待席用の案内ファイルを添付し、当日はよろしく頼むと打ち込み送信した。何を頼むのかよく分からなかったが、まぁいいだろう。
ところで、何故自分はこんなにも高砂に拘っているのだろうか。招待席に限りがなければ、高校時代の監督や部員を呼んで……いや、それでも人数が多過ぎる。ならば同級生だけを……と思い浮かべても、結局神や清田も浮かび、連なって他の部員も浮かび、先程と同じ事になってしまう。他の角度から考えてみるが、どうにも腑に落ちない。部員として接していた頃にも、特別扱いしていたつもりはなく、主将の権限を使い高砂を優先して試合に出す事も進言していない。実力でスタメンを勝ち取れる、努力を積み重ねていける人だと思っている。しかしそれは他の部員にも言える事であり、どちらが凄いだとかの話ではない。更にこちらにも、後輩である神や清田も当てはまる。他に考えられるとするなら、ポジションだろうか。自身のプレイスタイルは、PGの枠から大きく飛び出していたと思う。どうしてそれができていたのかと考えるなら、自分の後ろを何も心配せず任せていたからではないだろうか。そしてその、後ろを任せていたのが、高砂。そう考えるのが自然だろう。……自然か? だが、そこに安心感があった事は事実で。今のチームメイトに不満は無く、自らも高校生の頃に比べ、やりたい事やできる事も増えた。満足しているはずなんだ。ただ、ゴール下に高砂がいない事が、違和感のようなものとして、ずっと居座り続けているのかもしれない。……いつからか、その存在に安心していた。今でも近くにいてほしいなんて、言ってはいけないと思っている。連絡がついて、元気そうで、試合も見に来てくれる。それで十分だと、そう思わなければならないと言い聞かせる。
『おい、シン。大丈夫か?』
『アルフレッド……どうしたんだ?』
『それはこっちのセリフだ。どうしたんだよ、そんな難しい顔して……ニックに何か言われたか?』
『いや、大丈夫だ』
『大丈夫に見えねぇから聞いてんだ』
既に練習に向かったかと思い、油断していた。名前の無い感情をどうしようかと考えていたなんて、どう説明したら良いのか。そもそも説明できる程、自らの考えも纏まっていないのに。
『……ま、無理に聞き出す気はねぇけどな。ただ、抱え込んだままだと疲れちまうだろ』
時計を確認して、アルフレッドは自分のロッカー近くに置いていたバッグから手帳を取り出し、隣に腰を降ろした。予定を書き留めている動作は、相手の話を聞ける体勢でもあった。言っても言わなくても構わない、言いたければ言えばいい。そういった雰囲気作りが上手いのがアルフレッドだった。
『……その……オレの、友人の、話、なんだが……学生時代に、だな……凄く、世話に、なったと、いうか……』
『おう、それで?』
『いつも、いてほしい時に、近くにいてくれたと、いうか……だが、今となっては、アイツにもアイツの世界が、あるし……』
『今も近くにいてほしいが強制はしたくない、けれどどう伝えたらいいか分からない、ってところか』
『……あぁ、そうだ。……あっ、そう聞いた』
途中から友人の話という前提である事をすっかり忘れて話していた。アルフレッドは気付いているだろうか。気付かれていないといいが。
『その友人ってのは、男か? あとはその世話になった人は?』
『どっちも男だ』
『ふぅん……学校を卒業して離れてからもそう思っているなんて、余程親しかったんだな。いてほしいなら素直に言ってみたらいいんじゃねぇか? 相手だって子供じゃねぇんだ、嫌なら嫌だって言うだろ。ライクもラブも思うだけじゃ伝わらねぇし、相手に受け取ってもらえて初めて伝わった、に変わるモンじゃねぇの? ……だが、そういった感情に気付くのは、大抵伝えたい相手がいなくなってからだ。シンの場合は、まだ間に合うんだろ? その人がどこにいるかは知らんが、チャンスがあるなら伝えるだけ伝えてみても良いんじゃねぇか?』
そこまで言ってから手帳を閉じる。アルフレッドの用事は済んだらしく、放られた手帳は綺麗な弧を描いてバッグに入らなかった。今日はスリーも練習するか、と言いながら手帳を拾い、バッグに仕舞ってチャックを閉める。
『ま、この考えが合うかは分からんがな。……上手くいくといいな』
そう言ってから、アルフレッドは練習へと向かう。最後にはしっかりと牧の目を見ていた。聞いた話をゆっくり噛み砕き……そして自分の事だとバレていませんようにと、牧は願いながらロッカールームを後にした。
「そっ。確か一番最初の研修で言ったと思うけど……覚えてる?」
先週末の打ち上げが思い出される。先輩達が話題にしたアメリカ行きが、本当に自分だとは微塵も予想していなかった。
「……はい」
「おぉ、流石だ。確か……長くて五年、短くても二年は向こうで過ごす、それで向こうでもっとやりたいなら、更にもう数年って事なんだけどね。よく覚えてたね」
火曜日の午後、いきなり五十嵐に呼ばれ会議室に通されたと思ったらこれだ。当然ながら、期待よりも疑問が多く浮かぶ。とはいえ、五十嵐の口振りからしてほぼ確定事項だと思っていいだろう。断るなら急ぐべきだが、即座に挙げられる理由がなかった。
「業務内容についても、今とそんなには変わらないかな。国内での出張で、滞在期間が長いって感じで。それから向こうでの教育係というか、日本人のスタッフもいるから言葉とかはどうにかなるんじゃないかな。そのスタッフが言うには、英語は嫌でも覚えるらしいし……僕は苦手だから多分無理だろうけど。って、それは別に後でもいいか。えーっと、あぁそうだ。向こうでの部屋なんだけど、特に希望がないなら会社で借りてる部屋があってね。まぁ、アパートの一室なんだけど、それが国内出張とは違うところかも。国内だと、出張先に近い辺りでホテルを探してるもんね。けど、ウチって定期的に海外にも行ってもらってるからさ、毎回向こうで宿泊先を探すのも大変でしょ? 行ってもらう先は変わらないし……だからもうね、部屋借りちゃおうってなったんだよね。あ、けどこれは、有期の出張とか駐在での話ね! もしも向こうに残りたいってなった場合には、新たに部屋や家を探してもらうようにはなるんだけど……って、色々一気に言われてもパンクしちゃうよね。後でメールで送るから、また目を通しておいてね! 決めるのはそれからでも大丈夫なんだけど、できたら今月中には教えてくれるととてもありがたいな……!」
「……今月中、ですか……分かりました」
「ごめんねぇ色々と急で。こっちも困るんだよって上にも伝えてはみるからね!」
「あぁ、いえ……」
「じゃっ、僕これから会議あったの忘れてたからちょっと行ってくるね! この部屋の電気だけ消しておいてくれると、わわっ、電話きちゃった! はいもしもし今行きます!」
風のように五十嵐が退出した。嵐のように、の方が近いかもしれない。とんでもないものを置いて、だ。まさか本当に、自らに白羽の矢が立つとは。何かへの大きな貢献や、取り返しのつかない失敗も、これといって思い当たらない。かといって理由を挙げてもらったところで、それを基準として判断するかは……なんとも言えず。念の為確認した今日の日付は、世間では中旬と呼ばれる範囲だろう。月末とは聞いたが、実際の期限は二週間程しかなかった。とはいえこのまま座っていても、何も始まらない。どの角度で考えたとしても、今できる事は一度自席に戻り、届くであろうメールを待つだけとしか思えず。天井を見上げ深く呼吸をしてから会議室を後にした。
「あ、高砂さんお帰り……って、なんか元気ない? 大丈夫?」
「あぁ……大丈夫です」
「本当に? まぁ、大丈夫ならいいんだけど……悩み事とかあったら聞くからね? それに業務が落ち着いてるなら、半休にしてもいいし……何かあったらできる範囲になっちゃうけど、手伝うからさ。無理しないでね」
「……ありがとうございます」
気にかけてもらえてありがたい気持ちはあれど、相談してもいいのかどうかの確認を失念していた。うっかり口外してしまい、五十嵐が大変な思いをするのは高砂も望んでいない。とりあえず仕事場にいる限りは、仕事をしなければ。離席中に置かれていた書類やメモを集め、一枚ずつ目を通す。重要度が高いものと期限が近いものと、それ以外とを簡単に振り分け、パソコンに向き直る。新規メールの通知で見えた件名の【さっきの概要】の文字と差出人は、今は見なかった事にした。
それから一時間程経過したが、やはり落ち着かない。メールも確認したが、概ね五十嵐から聞いた内容と同じようなものだった。新たに悩む事が増えた訳ではないのだが、それでも普段より処理速度が落ちている。何度も切り替えろと念じてはいるが、上手くいっていない。小さく溜息を零した。
「……高砂さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫です、すみません」
「んーホントかなぁ……ロビーとかで十分くらい息抜きしてきたら? はい、これあげる。食べ終わったら帰っておいでよ」
「……ありがとうございます、いただきます」
小川から渡されたのは、チョコマシュマロだった。受け取るだけ受け取って仕事を続けようと思ってはいたが、席を立つまで小川はこちらから視線を外そうとしない。一つ会釈をして、ロビーに向かうしかなかった。
業務中という事もあり、誰もいないロビーは静かだった。一番手前のテーブルに座り、貰ったものを眺める。緑茶を片手にこちらを見るチョコマシュマロのイラストにはどこか懐かしさもあり、先程に比べて心は幾らか落ち着いた。まだ思考は落ち着かないが、いい加減戻らねばならないだろう。立ち上がりかけた時、人の気配がした。
「お、珍しい。お疲れ」
「お疲れ様です」
「……本当に珍しいな。ん? それ……小川のだろ。何かあったのか?」
気配の主は志賀崎だった。隣りに座ると同時に、高砂の手に持つものに気付く。抱えていた書類を机で整えたくてロビーに寄ったらしい。数枚のクリアファイルに入れながら、高砂からの答えを待っていた。
「いえ、大したことでは……」
「それ、小川のお気に入りなんだよ。だから人にあげるなんて、よっぽどの事だろうと思ったが……もしかしてアメリカか?」
何故、と顔に出ていたのだろう。志賀崎が少し笑いながら、種明かしをした。
「俺、来月から人事部に異動になるんだわ。それで来月以降の人事の話も耳に入って……あぁ、まだ確定じゃねぇんだけど、声掛ける候補に高砂さんの名前があってな。……先週の打ち上げの時にはもう知ってたんだ。本人より先に知ってたとは思わなかったけどな」
五十嵐さんだしなぁまぁそうだよなぁ、と続ける志賀崎はクリアファイルを並べ替えて順番の確認をしていた。納得がいく順番を見付けたようで、揃えて立ち上がる。
「ま、考えすぎないようにな。俺らの同期なんか、英語もできねぇのに行くって決めてたし……理由なんてあってもなくても、行く奴は行くし行かねぇ奴は行かねぇ。そんな中で俺が言えるのはただ一つ。五十嵐さんは多分返事の期日を早めてくるだろうな。あの人も上から色々言われて大変みてぇだしよ。焦って後悔する方を選ばないようにな。じゃな」
程々にしろよ、と言い残し立ち去る志賀崎の背を見送った。ロビーに残ったのは、高砂とチョコマシュマロだけだ。包装に描かれた顔の付いたマシュマロを再び見つめ、高砂は封を開けて口に放った。後悔の無い選択。それができれば苦労はしないが、それも知った上でのアドバイスだろう。改めて自分の考えを整理してみる必要がありそうだ。どちらに傾くのか、或いは敢えて傾けるのか。自分が納得する答えとは、何か。先程までより幾らか思考は纏まり、少しは穏やかになれた。続きを考えるのは退社後に。そう切り替る為に、短い深呼吸をした。
ロビーから戻ると、五十嵐からの追加メールが届いていた。思わず零した短い溜息。ふと、溜息をつくと幸せが逃げる、なんて言葉を思い出したが、今日くらいは見逃してほしかった。
帰宅後、高砂の脳内を占めるのは五十嵐の話で。アメリカへの駐在。希望者の中から決める年もあれば、上層部が話し合い候補者を絞る年もあると、追加で届いたメールには書かれていた。今年も希望者は数人いたらしいが、抱えている業務的に、すぐに日本を離れられなかったのだとか。それだけ評価してもらえているのは、とてもありがたい事であるのは分かっている。だが、異国の地への不安が全く無いとは言えない。それに今日の話を聞いて真っ先に浮かんだのは、仕事についてではなく、牧だ。理由は単純で、駐在中に利用するアパートがある住所が、牧の所属するチームの本拠地近くだったのだ。こんな事で揺らいでいる状態の自分が、本当にアメリカに行っていいのか。やはりずるずる悩んで最終的に断るよりは、早く連絡してしまうべきだろう。しかし早すぎるのもどうなのかと悩み始めた時に、携帯が震えた。そういえばマナーモードにしたままだった。現在二十一時三〇分。こんな時間に誰なのかと数人を頭に浮かべたが、差出人は予想外の人物だった。
おはよう。
この時間なら大丈夫だろうが、起こしたら悪い。
久し振りだな、元気にしてるか?
実は、今度の土曜日に、日本で試合があるんだ。
もしよかったら、見に来ないか?
日本人の選手用に知人を呼べる席があるんだが、オレの両親からは都合がつかねえって連絡があって、余っちまったんだ。
高砂の予定もあるだろうから、無理にとは言わねえが……。
都合がつくなら、教えてくれ。
じゃあ、また。 牧
おはようということは、向こうは朝なのだろうか。時差はすぐに分からなかったが、彼の事だ。不摂生な生活はしておらず、朝だからおはようと送ってきたに違いない。そして肝心の内容は、今週末の親善試合についてだ。牧のチームが日本に来る事は知っていたが、チケットの倍率は恐ろしい程に高く、平日であるにも関わらず受付開始の数分後に専用サイトがサーバーダウンしてしまったと聞いた。その後復旧はしたものの、高砂が休憩中にサイトを確認した時には、既にどの席も完売となっていた。確か試合前にはアイドルによるミニライブが行われる情報もあり、サーバーダウンとなってしまった事も納得がいった。仕方ないと思って諦めていたが、まさか。手帳を開いて確認すると、指定された土曜日には何も予定が入っていなかった。バスケの観戦も、もう何年振りになるだろうか。更に、コート上には牧もいる。断る理由は、一つもなかった。
◆◇◆◇◆◇
朝のジョギングは、牧の学生時代からの習慣だ。渡米後も欠かさず行っており、前日の練習や試合の思考の整理に役立っている。いつものコースを走り終えて、シャワーで汗を流し、それから練習用のバッグを掴んで外に出る。ただ一つ、いつもと違うのはジョギング前にメールを送っていた事だ。送信先アドレスがもう使用されていないと知らせるエラーメッセージは届いておらず、とりあえずは大丈夫だろうと思いジョギングに出ていた。練習場のロッカールームで周囲を確認してから携帯を見ると、新着メールが一件届いていた。差出人は、高砂一馬。声を掛けた日本での試合を、見に来てくれるだろうか。
『シン、もういたのか。相変わらず早いなぁ』
『……ようニック、お前も早いな。何かあったのか?』
内容を確認する前に、チームメイトに話し掛けられた。この時間帯にはまだスタッフしかいないはずだが、予想外だった。特にニックは、昨晩はシリーズ物の映画を夜通し見ると言っていた為、普段より一時間くらい遅く来てもおかしくないと他のチームメイトとも話していたくらいだ。
『まぁな。朝早くに散歩に行きてぇってサムライに起こされてよ。帰ってからも眠かったし、また寝直そうかと思ったけど……それじゃあ遅れちまうからな。ついでに寄り道しながら来たんだ。新しいバーガー屋があったぞ』
『ほう、サムライは規則正しい生活ができているんだな。感心だ。で、確かドーベルマンだったか?』
『残念、シェパードだ』
『……すまんな、毎回』
『いいさ、今見ようとしてるメールが誰からかを教えてくれたらな。この間言ってた人からの返事か?』
『ぐ……分かった。が、先に読ませてくれ』
一昨日、日本での試合について両親に連絡をしたが、ちょうど旅行中で見に来られないと返信が来た時、空席になってしまうが仕方が無いと思っていた。そこで話し掛けてきたのがニックだ。試合に向けた練習に追われてすっかり忘れてしまっており、もう少し早く連絡できていればと携帯を片手に考え込んでいた牧は、簡単に経緯を説明した。するとニックは、日本にいる大事な人を呼んだらいいと提案してきた。例えばとして挙げられたのは、日本に残してきた内緒の彼女、或いは学生時代の知り合い。具体的には、高砂。少し前に受けた取材で、色々と喋りすぎてしまったうちの一人だ。牧の特集という事もあり、発売日には練習後に買いに行くチームメイトもいたし、翌日はロッカールームのテーブルにも置かれていた。更に一週間後、高校時代のバスケ部員だった面々から、久々に連絡があった。内容は勿論牧が掲載された雑誌だ。読んでもらえて嬉しい反面、日本でも売られていた事を思い出し、羞恥から頭を抱えた事は今でも新鮮に思い出せてしまう。その中には、高砂からの連絡はなかった。忙しくしているならそれはそれで構わないのだが、便りが無いのは少し寂しい。ならばこちらから送ってみてもよいだろうと、会話がきっかけで思ったのだった。そしてニックへは、彼女がいない事は勿論伝えた。
『……良かった、来れるってよ』
『おっ、なんだよぉやっぱり送ってみて正解だっただろ?』
『あぁ……ありがとな』
『いいって事よ』
『あ、シン。と、ニック。おはよう』
『ようケビン』
『なんだよ、俺はついでか?』
『そうじゃないけど……シン、昨日教えてくれた連携のやり方を練習したくて……今日は時間取れる?』
ケビンは、今年の途中に他チームから移籍してきた選手だ。故に牧のチームでのプレイスタイルについては、まだ勉強中である。何パターンかあるうち、まずは主なものを練習しており、早く体に馴染ませたいと思っているようだ。新しい環境に身を置き、まだ慣れない事も多いはずだが、積極的にコミュニケーションを取ろうとする姿勢は牧も尊敬している。ニックもそうだ。牧が加入するまではPGの中心選手だったが、加入後は牧と交代での出場が増えた。コート上での広い視野は、すぐに身に付くものではない。ニックからも学ぶ事はとても多く、また、ニックも牧に様々な質問をぶつけた。今は他のポジション練習に参加しているが、そこでも気になる部分は何度も確認していた。牧自身、他のチームメイトの練習に取り組む姿勢も勉強になっており、渡米の決断は間違っていなかったと断言できる。
『分かった。じゃあ……』
『なんだ? この時間には珍しいメンバーが集まってるな』
『アルフレッド! ……おい、なんで俺だけを見て言うんだよ』
『今日の練習の話か?』
『あぁ、ケビンとちょっとな。ただ、マークが付いてた場合もやりてぇし……』
『なら、俺とニックも混ぜてくれ。人数は足りるだろ?』
『それは助かるが……いいのか?』
『他の練習メニューも考えておきたくてな』
『俺は無視かい』
良いけどよぉ、と言うニックも参加してくれるようだ。それより、個人的な事ではあるが、先程目を通したメールへの返信もしておきたい。普段の事を考えると、チームメイトが集まるまでまだ余裕はあったはずだが、今日はそうではなかったらしい。
『あーあ、今や俺を癒やしてくれるのはサムライだけ……』
『……あれ、そういえばニック……』
『言ってやるな、彼女にフラレたんだってよ、気の毒になぁ』
『あぁそうだよ! 俺が何をしたって言うんだっ!』
『行っちゃった……』
『アイツは放っておいてもいいんだよ。どうせまたいつもの調子になるさ』
『……あ、帰ってきた』
『なぁ、最近入ったスタッフの子って今フリーか知ってるか?』
『ほらな』
『あぁ……うん……』
『それで、シンはいつまで画面見てんだ? 置いてくぞー』
『お、すまん。すぐ行く!』
頭上での会話は耳に入っていなかったが、特に問題なさそうだ。取り急ぎ高砂へ返信をすべく、事前にチームから配られていた招待席用の案内ファイルを添付し、当日はよろしく頼むと打ち込み送信した。何を頼むのかよく分からなかったが、まぁいいだろう。
ところで、何故自分はこんなにも高砂に拘っているのだろうか。招待席に限りがなければ、高校時代の監督や部員を呼んで……いや、それでも人数が多過ぎる。ならば同級生だけを……と思い浮かべても、結局神や清田も浮かび、連なって他の部員も浮かび、先程と同じ事になってしまう。他の角度から考えてみるが、どうにも腑に落ちない。部員として接していた頃にも、特別扱いしていたつもりはなく、主将の権限を使い高砂を優先して試合に出す事も進言していない。実力でスタメンを勝ち取れる、努力を積み重ねていける人だと思っている。しかしそれは他の部員にも言える事であり、どちらが凄いだとかの話ではない。更にこちらにも、後輩である神や清田も当てはまる。他に考えられるとするなら、ポジションだろうか。自身のプレイスタイルは、PGの枠から大きく飛び出していたと思う。どうしてそれができていたのかと考えるなら、自分の後ろを何も心配せず任せていたからではないだろうか。そしてその、後ろを任せていたのが、高砂。そう考えるのが自然だろう。……自然か? だが、そこに安心感があった事は事実で。今のチームメイトに不満は無く、自らも高校生の頃に比べ、やりたい事やできる事も増えた。満足しているはずなんだ。ただ、ゴール下に高砂がいない事が、違和感のようなものとして、ずっと居座り続けているのかもしれない。……いつからか、その存在に安心していた。今でも近くにいてほしいなんて、言ってはいけないと思っている。連絡がついて、元気そうで、試合も見に来てくれる。それで十分だと、そう思わなければならないと言い聞かせる。
『おい、シン。大丈夫か?』
『アルフレッド……どうしたんだ?』
『それはこっちのセリフだ。どうしたんだよ、そんな難しい顔して……ニックに何か言われたか?』
『いや、大丈夫だ』
『大丈夫に見えねぇから聞いてんだ』
既に練習に向かったかと思い、油断していた。名前の無い感情をどうしようかと考えていたなんて、どう説明したら良いのか。そもそも説明できる程、自らの考えも纏まっていないのに。
『……ま、無理に聞き出す気はねぇけどな。ただ、抱え込んだままだと疲れちまうだろ』
時計を確認して、アルフレッドは自分のロッカー近くに置いていたバッグから手帳を取り出し、隣に腰を降ろした。予定を書き留めている動作は、相手の話を聞ける体勢でもあった。言っても言わなくても構わない、言いたければ言えばいい。そういった雰囲気作りが上手いのがアルフレッドだった。
『……その……オレの、友人の、話、なんだが……学生時代に、だな……凄く、世話に、なったと、いうか……』
『おう、それで?』
『いつも、いてほしい時に、近くにいてくれたと、いうか……だが、今となっては、アイツにもアイツの世界が、あるし……』
『今も近くにいてほしいが強制はしたくない、けれどどう伝えたらいいか分からない、ってところか』
『……あぁ、そうだ。……あっ、そう聞いた』
途中から友人の話という前提である事をすっかり忘れて話していた。アルフレッドは気付いているだろうか。気付かれていないといいが。
『その友人ってのは、男か? あとはその世話になった人は?』
『どっちも男だ』
『ふぅん……学校を卒業して離れてからもそう思っているなんて、余程親しかったんだな。いてほしいなら素直に言ってみたらいいんじゃねぇか? 相手だって子供じゃねぇんだ、嫌なら嫌だって言うだろ。ライクもラブも思うだけじゃ伝わらねぇし、相手に受け取ってもらえて初めて伝わった、に変わるモンじゃねぇの? ……だが、そういった感情に気付くのは、大抵伝えたい相手がいなくなってからだ。シンの場合は、まだ間に合うんだろ? その人がどこにいるかは知らんが、チャンスがあるなら伝えるだけ伝えてみても良いんじゃねぇか?』
そこまで言ってから手帳を閉じる。アルフレッドの用事は済んだらしく、放られた手帳は綺麗な弧を描いてバッグに入らなかった。今日はスリーも練習するか、と言いながら手帳を拾い、バッグに仕舞ってチャックを閉める。
『ま、この考えが合うかは分からんがな。……上手くいくといいな』
そう言ってから、アルフレッドは練習へと向かう。最後にはしっかりと牧の目を見ていた。聞いた話をゆっくり噛み砕き……そして自分の事だとバレていませんようにと、牧は願いながらロッカールームを後にした。
