【第一部】ようこそフュージョン部へ

 日曜日。ミチルは午前中に退院し、ようやく自宅に戻ると、数日間のブランクを埋めるため、ラッカー仕上げのサックスで練習を始めた。
 吹き始めてみると不思議なもので、ブランクの前よりもむしろスムーズに吹けることにミチルは気付いた。それを昼食時にグラフィックデザイナーの父親に話すと、こんな答えが返ってきた。
「ああ、楽器の事はわからないけど、似た経験ならあるよ。学生のころ、静物デッサンがどうしても思うように描けなくてね。手法は理解できてる筈なのに、どうしても上手く描けない。ところが、投げ出して数日経ってから、しぶしぶ再開したら、なぜか描けるようになっていたんだ。あれは不思議な体験だった」
 父の推論だと、脳が無駄なこだわりや思い込みを整理したことで、学んだ知識や技術が正確に発揮されたのではないか、という。ミチルは本当かどうか判断もつかないまま、冷や麦と唐揚げの昼食を片付けると、親戚から送られてきたポンカンをひとつ掴んでまた部屋に戻った。両親は、今日はもう晩までサックスの音に付き合わされる事になるな、と覚悟と諦めの表情で冷や麦をすすった。

 そこへ、ミチルにLINEが入った。自分で描いた、羽根の生えたよくわからない生き物のアイコンで、マヤだとすぐにわかった。お見舞いの挨拶もそこそこに、マヤは本題に入った。
『入部した例の三人、部員勧誘ライブで自分たちも何かやりたい、って言ってるんだよね。あたしのパート、あの子たちに参加させてあげてもいいかな』
 どうやら、動画配信もやっているデジタル民らしく、マヤとは相性がいいらしい。ミチルは少し考えて訊ねた。
『マヤがいいならそれでいいよ。マヤと四人でやるって事ね』
『そう。デジタルパーカッションも持ち込みたいって』
『ふうん、面白いじゃん。わかった』
 なかなかどうして、まだ会ってはいないが積極的な三人だな、とミチルは感心した。ミチルたちのような、正統的なフュージョンバンドとは異なるかも知れないが、YMOみたいなデジタル主体のグループもいる。フュージョンに決まった形は存在しない。
 あした登校してからの楽しみが増えたな、とミチルは思った。五時限目の、苦手なプログラミングの授業さえ除けばだが。

 ところが、翌朝登校したミチルを待っていたのは、戸田リアナの沈んだ表情だった。ミチルが鍵を持って部室を訪れると、ドアの前にリアナが、ギターケースを持って訪れていた。
「おはようリアナ、早いね」
「あっ、先輩、おはようございます。お体もういいんですか」
 なんとも丁寧というか、育ちが良さそうである。クレハも育ち良さそうなのは一緒だが、あっちは妙に肝が座っているところがある。
「うん、もう大丈夫」
「えっと、実は」
 とりあえず部室に入った二人は、腰を下ろして放課後の演奏について確認をしあった。
「そのギターは?」
「私の、ガットギターです」
「クラシックギターか。やっぱ大きいなあ」
「ジュナ先輩が、持って来いっていうんです。ピックアップマイクも」
 ケースを開けると、やや年季の入ったオレンジ色の木目のガットギターに、アンプを通すためのマイクが取り付けてあった。
「ライブで弾くってこと?」
「はい。ジュナ先輩が…でも」
 そこで、リアナの表情がさっきから沈んでいる事にミチルは気付いた。
「どうしたの」
「あの、なんていうか…自信がなくて」
「自信って」
 リアナの答えは主語がなく、曖昧だった。何の自信についてなのか、とミチルは訊ねた。リアナは相変わらず、それこそ自信なさげな表情で続けた。
「みなさんの演奏に私、合わせられるのかなって」
「ギターが、ってこと?」
「はい。やっぱり私の演奏って、みなさんがやってるような音楽に、合わせられないような気がして」
 ミチルはそこで、リアナの語る内容にひとつのポイントを見付け、無言で頷いた。そして、ジュナがギターを持って来るよう指示した意味も、なんとなくわかってしまった。
「なるほど」
「先輩、私この部活で、やって行けると思いますか」
「うーん。ちょっと保留だ、この話は。とりあえず、ジュナに任せてみなさい」
「え?」
「あいつも一応、アンプラグドでもやれるからね。同じギタリストとして、アドバイスがあると思う。ギタリストはギタリストに相談する方がいいよ」
 ミチルの返答はなんとなく丸投げの感もあったが、リアナはそれなりに納得してくれたようだった。そこへ、ドヤドヤと一年生の新入部員三人が入ってくる。もうすでにこの部活に馴染んでいる。これが若さか、と一年ばかり年長のミチルは思った。
「おはようございます! あれっ、ひょっとして大原部長ですか」
 何やら大きなバッグを担いでいる背の高い男子が、ミチルを見ると頭を下げた。ショートカットの女子、おかっぱ眼鏡の女子もそれに倣う。
「はじめまして、獅子王サトルです! フュージョン部に加入する事になりました、よろしくです!」
「長嶺キリカです!」
「鈴木アオイです!」
 その勢いに若干気圧されつつ、ミチルも立ち上がって改めて名前を名乗る。
「大原ミチルです。……まだ正式に部長じゃないけど、よろしくね」
「先輩のサックス聴いてました! すごいです」
 ショートカットの子が、いつの時代の少女マンガだ、というふうに両手を合わせて微笑んだ。
「ありがと。あなた達の動画も観たけど、面白いね。配信関係はみんなに任せようかな、編集得意でしょ」
「任せてください。というかもうすでに取り掛かってます」
 おかっぱ眼鏡、鈴木アオイのレンズがキラリと光った。地味すぎて逆に目立つ、こいつの妙なオーラは只者じゃない、とミチルは感じた。

 ほどなくして全メンバーが集まり、放課後のセットリストの確認作業に入った。ところが、マヤがアレンジを変更したいと言い出す。マヤは、すでに新入部員の三人とオンラインで打ち合わせ済みで、ミチルだけは予定どおりサックスを吹いて欲しい、との事だった。セットリストは以下のとおりである。

1.うまぴょい伝説/ウマ娘プリティーダービー (マヤ)
2.RAGE OF DUST/SPYAIR (クレハ)
3.Smooth Criminal/マイケル・ジャクソン (マーコ)
4.Get up, stand up/ リー・リトナー(ジュナ)
5.OMENS OF LOVE/ザ・スクェア (ミチル)

 後半3曲はフュージョン部の「いつもやっている曲」なので、そもそも練習する必要さえない。3年の男子の先輩は「寝ながらでも弾ける」と豪語して、実際ステージで寝ながら演奏した、という謎のエピソードも残っていた。現三年生は基本的に変人揃いである。
 一曲目はマヤと「こりあんだー」の三人が胸を張っているので、ミチルだけがサポートでサックスを入れれば事足りる。二曲目もカラオケの定番曲で、たぶんぶっつけ本番でいけると全員が思っていた。
「あたし達、気付いたらレパートリー多いよね」
 と、我ながらミチルは感心した。マーコも頷く。
「あの変な先輩たちに鍛えられたせいだよ」
「この間の先輩たちの演奏も、地味に上手かったもんなあ」
 ミチル達が話し込む中で、ジュナがさり気なくリアナのそばに近寄った。
「リアナ、ちょっといいか」
「え?はっ、はい」
 
 ジュナは、リアナを連れて部室わきの木陰にやって来た。朝の冷気はとっくに去り、じわじわと気温が高くなり始める。朝練の陸上部員たちが、広域農道を走っていた。
「リアナ、お前何かやりたい曲あるか」
「へっ!?」
 唐突な質問に、リアナは若干裏返りながら反応した。
「や、やりたい曲、ですか」
「ああ。なんでもいい」
「わたっ、私は、まずみなさんの演奏に合わせて…」
 すると、ジュナは微笑んで指を振った。
「そうじゃないんだな、リアナ」
「えっ」
「お前がやりたい曲だよ。"お前が"だ」
 振っていた指を、リアナの胸に向けてジュナは言った。
「あたしも、入部してすぐギターの先輩に言われたんだ。お前やりたい曲を言え、メタルでもパンクでも何でもいい、ってな」
「えっ」
「言いたいこと、わかるか。今、あたし達がやってる事の意味も」
 ジュナの顔は真剣だった。リアナは、だんだん言われている言葉の意味を理解し始めたが、それを受け容れるにはあと一歩が必要だった。
「宿題だ。昼休みまで、お前がやりたい曲……そうだな、できれば演奏をマスターしてて、すぐできる曲を、あたしに送ってくれ」
「どっ、どういう…」
「いいな。宿題だ」
 ぽんと肩を叩いて、ジュナはその場を離れた。部室の前では、一昨日突貫工事で改造したPAがミチルにお披露目されていた。
「なにこれ、どうなってんの。っていうか、このスタンドは何?」
「なんかずっと前に、他の科に廃材で作らせた鉄製のスピーカースタンドだって。二七キログラムあるみたい」
 マヤ達が話し込んでいる様子を見て土曜日の奮闘を思い出したジュナは、会話に割って入ると、自分がどの作業を担当したのか説明を始めた。

 コンクールも近く、吹奏楽部はこの時期だけは朝練がある。市橋菜緒も、いよいよ練習に集中していた。
「あなた達、一人ひとりの演奏は問題ないのだけど」
 菜緒は、例のフュージョン部にちょっかいを出した二人組に、それまでより強めの指導を始めていた。
「いいこと。私に合わせろ、とは言わない。全員が合わせるのよ。こんな初歩的な事、今更言う事ではないけれど」
 二人は、困惑しているようだった。無理もない、例のフュージョン部への"流言"を流した犯人が自分たちだという事を、菜緒が看破している事は二人とも知っていた。除名処分も覚悟していたのだ。
 だが、菜緒の指導は違った。叱責して除名するのではなく、より厳しく演奏を指導する形を取ったのだ。その厳しさは周りから見てもわかった。決して声を張り上げたりはしないが、やんわりと、しかし徹底的に指導する様子は、少なくとも事情を知らない他の部員達は、菜緒がコンクールに向けて本気になっているのだ、と解釈してくれているようだった。
 もともとは、フュージョン部の千住クレハからの進言で除名を避けたのだが、結果としては菜緒の指導の強化により、二人の演奏能力は確実に向上した。結果的に菜緒は、二人の基礎的な演奏能力が決してミチルに劣るものではない、と確信するに至る。決定的な、頭一つ抜けた部分ではミチルに差を付けられてしまうが、調和を旨とする吹奏楽では、むしろ好ましい。これによって、吹奏楽部全体の士気も高まる事になった。
「参ったわね」
 休憩時、市橋菜緒は苦笑しながら独りごちた。大原ミチルとの、確執とまではいかないが摩擦とは言える関係が解消したあと、友人であった佐々木ユメとの交流も改善した。結局、ミチルを無理に自分の手元に置こうとしたのが間違いだった、という事に菜緒は気付かされ、それを受け容れたとたん全てが良い方向に向かったのだ。
 もう吹奏楽部もコンクールに向け追い込みなので、先週までのようにフュージョン部にお節介は焼けない。もとより、表立って協力はしないと宣言したのだ。だが、それでも何もせずにはいられない自分を、菜緒は否定できずにいた。

 三時限目が終わった時、ジュナはリアナからメッセージが入っている事に気が付いた。音楽ストリーミングサービスの、曲目のリンクつきである。
 そのタイトルを見て、ジュナは小さく笑い「了解」とだけ返信した。


 放課後、部室にクレハとマーコが先に訪れると、遅れてジュナ、リアナがやって来た。そのあと、何やら奇怪な笑い声が部室に近付いてくるのがわかった。
「あはははは。ひーっひっひっひっ」
「いつまで笑ってんのよ!!」
 聞こえてきたのは、マヤとミチルの声だった。憮然としてミチルがドアを開けると、その後ろから腹をかかえてマヤが入ってきた。
「どうした。ゲームのやりすぎでついにおかしくなったか」
 さっそくギターをチューニングしながら、ジュナが冷ややかに見た。マヤは笑いがおさまらない様子で、涙目でジュナの肩をバンバンと叩いた。リアナが怪訝そうに上級生の様子を見ている。
「みっ、ミチルがね、授業中にね、頭を、キーボードに、ひっひっひっ」
「うるさいわね、もう!」
「いだだだだ」
 ミチルのヘッドロックを受けてなお、マヤは笑い涙を浮かべていた。のちに冷静になったマヤから聞いたところによると、プログラミング実習室での授業中、ミチルは傍目にわかるくらい、眠気をこらえ切れずにいた。ミチルの上下する頭に、クラスメイト達は男女問わず。笑うのを必死で耐えた。だが、睡魔に耐え切れなかったミチルはついに地球の引力に負け、目の前のキーボードにしたたかに額を打ち付けたのだ。
 ただそれだけの事なのだが、静かな授業中のハプニングというものは、学生なら誰でも経験しているだろうが、爆弾級の破壊力を持っている。そのただ一瞬の出来事のせいで、爆笑の渦が発生して三分くらい授業にならなかったらしい。ジュナはとりあえずマヤに「演奏中に思い出さないようにしろよ」とだけ言った。

 やがて残りの一年生と、録音役の薫も集まり、残り三日のうち初日のストリートライブの準備が始まった。
「ミチル、悪い。四曲目なんだけど、変更させてくれるか」
「えっ!?」
 唐突なジュナの申し出に、ミチルは焦って準備中の手を止めた。
「いや、みんなは演奏しなくていい。演奏はリアナにやらせる」
「リアナに?」
 ミチルは、黙々とガットギターのセッティングを確認するリアナを見た。するとリアナは突然、ミチルたちを振り向いて言った。
「あのっ、すみません。アンプなしで音量足りてるか、チェックしてほしいんですけど」
 普段のどこか控えめな態度が鳴りを潜め、かわりに堂々としたリアナがそこにいた。すると、デジタルパーカッション等の音出しをしていたキリカとアオイが「いいよー」「鳴らしてみてー」とチェック役に回っていた。その様子を見て、ジュナはニヤリと笑う。ミチルは目を細めて訊ねた。
「あんたの企てが成功したってこと?なんか仕込んだんでしょ」
「企てなんて人聞きの悪い。ほれ、お前は自分の演奏に集中しろ。四日ぶりだろ」
 リアナのガットギターの音は驚くほど大きく、保険をかけてジュナが用意させたピックアップマイクは必要なさそうだった。

 ミチルは、薫が主導してチューニングされたというPAに手を触れた。パッと見はそれほど変わっているわけではない。が、側板は厚く補強されており、フロントグリルを外すと、それまでと異なるウーファーとホーントゥイーターが、やはり補強された厚いバッフルにガッチリとビス留めされている。
「よーし、音出ししてみようか」
「それじゃお願いします」
 マヤの合図で薫がリスニングポイントに陣取り、まず一斉に何も考えず、それぞれの楽器を鳴らしてみた。
「!」
 ミチルは、音が出た瞬間に驚愕した。なんだ、この音は。この間までと全く違う。あまりにもクリアで、厚みがあり、どこまでもシャープに伸びる。まるで、生の楽器そのものだ。
「こっ、これ……」
「うーん、ちょっとシャープすぎるな。ちょっと待って」
 薫は機材のマウントラックに駆け寄ると、イコライザーをほんの少しだけ動かした。
「もう一回お願いしまーす」
「はーい」
 再び全員が音出しをする。さっきより、少し刺々しさが後退した。
「うん、いいかな。それじゃ試しに何か演奏してみてくれる?」
 薫の指示で、マヤとミチルがヒソヒソ話す。
「コナン」「ゼロとか」「いいよ。ゼロで」
 このやり取りで、二年生五人はスタンバイした。一年生四人は何の事かわからない、という顔である。すでにさっきの音出しで、オーディエンスが集まってきていた。
 音の確認のためミチルたちが短時間演奏したのは、名探偵コナンのテーマ「ゼロの執行人」バージョンである。イントロのシンセをマヤが気に入ってしまい、たびたび演奏しているうちレパートリーに納まってしまったのだ。ギターの出番が多いのでジュナもわりと気に入っている。
「なんだ、やけに音いいんじゃねえのか」
「PA買い換えたのかな」
「あのスピーカーが載ってる台、なに?」
 もはや常連のオーディエンスはそれまでのPAの音を知っており、薫のチューニングで飛躍的に音質が向上した事に気付いていた。まるで、ヘッドホンで聴いているかのような濁りのない、クリアな音質である。ユニットの交換とキャビネットの大幅な補強、コイルやコンデンサーなどネットワークの変更、内部配線の品質向上にくわえ、二七キログラムに及ぶ重量級スタンドに固定した事で振動が徹底的に抑えられた事など、全てが総合的に作用しての結果だった。

 薫は自らの仕事に満足し、部室に入るとレコーディングのためにパソコンの前に陣取った。
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