羽龍
「これから先、必ずというものはないだろう」
メデューサの砦を超特急で建造しなくてはならない。時間があまりにもなかった。司帝国、石化王国と戦争し、人間と争うのは三度目だ。しかしあの戦争は所詮原始的なものだったのだと改めて痛感する。それほどにスタンリーら特殊部隊は軍隊であり、統率された二十一世紀の戦争だった。
寝る時間も惜しい。だが人間は食べて、寝なくては身体が保たない。そこはマンパワーをまとめあげることに長けた、船長である龍水の腕の見せ所だった。休憩を限界まで削り、しかしオーバーワークはさせない。個々に見合った徹底したスケジュール管理をした。
誰もが焦っている。スタンリーらから見れば、こちらはこどもだ。年嵩でも社会人となって日が浅いような年齢の者たちばかり。それが圧倒的な暴力と抗戦しているのだから、焦って当然だった。
しかし誰一人諦めていない。誰一人、もう無理だと欠片も思っていない。未来を欲する科学王国は、純粋であり貪欲であった。
欲しい。未来が。停滞など望まない。見たこともない明日が欲しい。
皆がこうも貪欲になったのは、きっと千空が科学が万人を未来へ導くと示したからだ。科学の動力源は欲しいであると示したからだ。そしてそんな千空が、世界を欲しがる龍水を肯定した。千空と龍水、この二人が手を取り合い未来を欲する。それは必ず手に入ると、皆に覚めない夢を見させた。
だが――否、だからこそ。誰よりも千空と龍水は現実を見ている。皆に夢を見させたその責任を果たすために、最も現実を捉え見据えていた。
「……どうしたの? そんな弱音吐いちゃって」
そんな龍水が突然、必ずというものはないと口にする。羽京は目を眇め、寝転がりながら宙を見る男を見つめた。病気にならないよう、最低限整えたに過ぎない身なりはみすぼらしく、匂いとて石鹸のような爽やかな匂いはしない。龍水のような男がするべきではないような、そんな姿だ。しかし月明かりが彼の金糸を照らせばきらきらと輝き、思わず手を伸ばせば宙を見たまま甘えるように頬を寄せられた。
指通りはあまりよくない。けれどこんな状態でも指を通せ、はらはらと指の隙間から落ちていくその髪は美しい。この男が美しくないときなどあるのだろうか。そう思うほどに、その時、その環境で最も美しい姿を見せる龍水に羽京は口付けたくなり身を起こす。
夜は視界を塞がれる。視界のない世界では羽京が最も力を発揮する。だが夜警ばかりをさせては身体を壊すし、何より時間はないとはいえまだスタンリーは物理的に来ない。いまから気を張り詰め過ぎても効率が悪いと、龍水に連れ去らわれるようにして寝床に連れて来られた。しかし気を張り詰め過ぎて気が立ってしまって眠れない羽京に気付いてか、とつとつと龍水は語り掛けた。
あれが欲しい。これがしたい。そうきらきらと夢を語りながら、必ずはないと口にする彼が切なくて愛しい。羽京が覆い被さるようにして口付けようとすれば、いつでも受け止める龍水にしては珍しく、指先で唇を押し留めた。
「はっはー! なに、これは弱音ではない! 事実だ、違うか?」
かつてひび割れていた黒い指先は、いまはただひどく硬い。以前から年齢、家柄の割に働き者の手をしていると感じていたが、いまはただただ守る者の手だ。その手にされるがまま、羽京は龍水の隣に座らさせられ見詰め合う。
知っているよ。君が弱音なんか口にしないことくらい。そんな軽口は言わず、羽京は微笑む。
「事実から目を背けること、それこそが逃げるということだ。俺は逃げん! そして諦めない!」
だから、龍水が好きなんだ。強かに鼓動を刻む心臓が叫ぶ。龍水が好きだ。龍水を愛している。不殺を掲げた羽京を、覚悟のない臆病者と罵らず、剰えそれこそが龍水の求める欲しいに繋がるのだと理由を与えた。その瞬間から羽京は漠然と龍水に惹かれる思いから、七海龍水その人を愛するようになった。
龍水の突き進むその道を共に歩みたい。自分の願いが彼の力となれるなら、それ以上に望むものはなかった。
まっすぐと、微かにも揺るがないその瞳に太陽を見る。焼き付くさんほどに轟々と燃えながら、しかしあたたかいそれに悲しくもないのに泣きそうになる。きゅっと唇を噛んで涙を堪えれば、眉尻をすこし下げて龍水は微笑んだ。
やさしく頬を撫で、包み込み額を重ねる。ふたりにしか聞こえないほどに、ほとんどない距離で龍水は囁いた。
「だからこそ、貴様に伝えたかった。羽京、この先誰が死ぬとしれない。石化装置とてどれほど万能か知れなければ、いつ使えるようになるかもわからん。こればかりは時間との勝負だ」
コーンシティで残った皆が、ジョエルが頑張っている。ここではカセキが必死にダイヤモンドを削り続けている。しかし成果は芳しくない。時間さえあれば必ず彼らならやり遂げるだろう。だがいまは時間がなかった。
信じている。だが、できないと思ってもいる。それほど時間は残酷だった。だが諦めないのだ、誰ひとり。できないからと諦める方が、よっぽど難しい。強欲な彼らはそういう生き方しかできない。
重なった額からじわりと伝わる体温が愛しい。このぬくもりを守りたいと思うと同時に、彼は決して守られる男ではないとも思う。
この石の世界で復活してから、ずっと矛盾とともに生きてきた。特に龍水と出会ってからずっとだ。守りたいと思いながら、守られるような男ではない彼を愛している。平和に静かに生きたいと思いながら、圧倒的な脅威と未知を前に止まれない彼と突き進む。その矛盾が歯痒くも、こうして生きる日々は輝いていた。だからいまも、時間が許さなくとも彼らならできると信じて自分たちができることをする。そうすることしかできない。そしてそうすることが、なによりも不謹慎に言えば楽しかった。それはこの男とて同じなのだと、あまりに近すぎて焦点の合わない龍水の表情を予想すれば、ふっと微かに彼は笑った。
「道半ばで俺が貴様が、或いは両方が地に伏すこともあるだろう。貴様は自衛官だ。この石の世界で生きていく上で、己の死とて覚悟しているだろう? だが、俺のそれとて覚悟してほしい」
目頭が熱い。唇を噛んでいるのに堪えきれず、触れ合った額だけでは足りなかった。もっと龍水の熱を感じたくて、彼を掻き抱く。首元に額を押し付けて、彼のぬくもりを忘れないように刻みつけるように。龍水もそれに応えて、羽京の背中に腕を回した。
「俺と貴様は、道半ばに倒れることがあれば、共にいることはないだろう。看取ることなどできないに違いない」
これも事実だ。船なら異なるが、陸では龍水と羽京の役割は大きく異なる。全体を見て、管制し、ときには大胆な決定をして自ら動くリーダーである龍水と、外敵をいち早く見付け欺き守る羽京では戦場が異なる。スタンリーらに攻め込まれたその時、共に在ることはないだろう。
石化装置が生命の石、Dr.STONEとなることを信じている。しかしそれはいま、この戦いで得られるとは限らない。いつか、この積み重ねてきた道を繋ぐ誰かが掴むものかもしれない。寧ろその可能性の方が高い。それを無情と嘆きはしなくとも、それでも惜しく思う。せっかくこうして触れ合える距離にいるのに、と。
矛盾だらけだ。矛盾しかない。もう羽京のこころはぐちゃぐちゃだった。
皆を信じている。必ずこの道は未来へ繋がる。きっともう一度、皆で海に行ける。月にだって必ず行ける。そう思うが、突きつけられる現実を前に何ひとつ保証はない。嘗て宇宙飛行士たちが、千空の父が繋いでくれたように、自分たちも受け取ったバトンを繋ぐのだ。そのためにも、いまできることをする。ただそれだけだ。それだけだとわかっているのに、失いたくない。このぬくもりを手離したくない。離れたくない。否、離れてもいい。龍水に生きて欲しい。
嗚咽を押し殺し震える身体を押さえつけるためにしがみつく。痛いほどに絡みつく四肢に、きっと痛みを感じるだろうに龍水はそれを受け止めた。そして、龍水も背中に回した腕に力を込める。
服は着込み、肌さえほぼ触れ合っていない。それでも性交しているときより、近くに互いを感じられた。
「だからこそ、俺と共に生きてくれ、羽京。貴様にこの生命を預けたい」
龍水にしては弱々しく、震える声だった。けれど芯の通った声はしっかりと羽京の鼓膜を、こころを震わせる。
「俺とて人間だ。他人の悪意に揉まれたことはあれど、ただの民間人で戦争を知らない。圧倒的な暴力の前に、為す術なく殺されることを恐れないほど愚かではない」
羽京も自衛官とはいえ、戦争を体験したことはない。だが龍水よりも圧倒的な暴力――自然災害や、それにより奪われた生命を知っている。だからこそこの恐怖は決して弱さではないと理解している。そしてその弱さを龍水が見せてくれたこと、それに羽京は零れそうな程に目を見開いた。
ぐちゃぐちゃになっていた思考が一瞬にして明快になる。
すべてを欲しがる強欲な男がいま、ただひとつのものをくれようとしている。それを感じ取り、その顔を見たいと腕から力を抜けば龍水がその分、腕に力を込めた。
「俺の生命はひとつだ。すべてを愛しても、この生命は全員にくれてやることはできない。それなら俺は羽京を選ぶ。貴様がいい。貴様が預かってくれるならば、俺は恐怖に打ち勝てる」
生命なんて、そう簡単に預けるものではない。そう窘めるべきなのだろうか。しかし殺されることが恐ろしいと、弱さを見せた龍水が簡単にそれを口にするはずがない。誰よりも現実を見据えている彼が、欲しがるのではなく預けたいと羽京を選んだ。これはどんな誓いの言葉より、深く重い意味がある。
「……龍水」
ようやく意味のある言葉を口にできた。泣きじゃくり目が霞み、口の中も乾いて酷い響きだ。しかし羽京の肩も気付けば微かに濡れていた。
「龍水」
もう一度名前を呼べば、ようやく腕から力を抜き顔を上げた龍水は泣いてはいなかった。すこしばかり瞳に水分を感じられたがそれだけ。下がっていた眉も凛々しく上がり、ニッと歯茎が見えそうなほど大きく口を開け、いつものように彼は笑う。
「俺は千空を信じる。貴様と歩んできた道(科学)を信じる!」
こんなに自分は口下手だっただろうか。しかし言葉は要らないように思えた。
君の生命を預かると、君に生命を預けると、そんな言葉はもう彼の言葉だけで充分だった。それならと唇を重ねる。深く、長く、呼気からその生命を交換するように口付ければ、龍水は嬉しそうに笑った。
――一瞬でいい。一秒でもいい。それだけ、一歩でも多く千空たちは、科学の未来へと進む。
それなら僕も、こんなところで立ち止まれない。
砦は既に銃撃された。劈くようなゲンの悲鳴に、誰かが圧倒的な暴力の前に打ち破れたのだと知る。鳴り響く破壊音に頭が壊れそうだった。それでもそこに龍水がいるなら、千空が皆がいるなら、そこで終わるはずがない。戦場は既に情報が錯綜し、誰が無事かもわからない。
考えろ。考えろ。僕は何ができる? 龍水たちは何を求めている?
その瞬間音に違和感を覚えた。何かを飲み込むような、得体の知れない寒気のするような音のない音だ。それには覚えがある。そしてそれは砦からではなく北から来る。
急いで矢を継がえた。光に気付き、皆が驚愕しているその間に僕が成すべきことはひとつ。あれほど破壊されたならばきっと、復活液は千空たちの所にはない。復活液。それを千空に届ければそれだけでこの形成は大逆転する。
フランソワの縄を切れば、フランソワはその意図を察したように松風と銀狼の縄を切り、二人は敵を抑え込んだ。そのまま復活液へとスイカも諸共駆け出すその姿を見ながら僕も駆け出す。
「千空たちは復活液を失った! なんとか届けて……」
「――その通りだよ」
なんで。
「――復活液という名のノアの箱舟はここにしか無い」
なんでゼノがここに。その先を考えるのはやめた。ゼノの隣に居たはずの龍水のことを考えてしまえば、僕は動けなくなる。彼の生命は僕が預かっている。この胸に彼はいる。そしていま、僕たちには生命の石の輝きがそこまで来ている。
それなら一瞬でいい。一秒でもいい。時間を稼いで、誰かが千空に復活液を届ければ僕たちの勝ちだ。
この身体が蜂の巣にされ、復元しようがないほどずたぼろにされても構わない。一秒でも多く稼ぐ為にスイカを庇うように立つ銀狼とフランソワの前に立ち弓を継がえた。
弓がマシンガンに敵うわけもない。それでもすこしでも時間を稼げれば。
ガガガガガと破壊音が響く。痛みはなかった。ただ熱くて感覚が遠くて、音が石化したその時のように一切聞こえなくなった。僕が頽れたあとも銃弾の嵐は止まない。つまりは僕は一秒でも時間を稼げたのだろう。そう思うと笑みが浮かぶ。
「りゅ、す……」
僕たちが歩んできた道はきっと未来に繋がったよ。
そう笑みを浮かべ投げ出した腕は石となり、僕の意識と共に全ては石となった。
ガンシューティングゲームこそしてきたが、実際の武力には興味はなかった。
人類の叡智であるダイナマイト。あれも立派な力だが、それが成せることにこそ興味があった。どんなに硬い岩盤でも破壊できるその力は、土木工事に大いに貢献した。その力が街を作り出す。それにこそ興味を覚えど、人の生命を奪う行為に欠片も興味を覚えなかった。
そんな俺が銃を持ったとして、銃の真価は発揮されない。しかしそれでいいのだ。相手が俺たちを皆殺ししようとして、俺たちが奴らを殺せばそのとき決定的な溝が生まれる。もう二度と奴らの持つ圧倒的な武力も技術も手に入らない。それなら俺は、時間さえ稼げればそれだけでいい。
ゼノの隣に立ち、銃を構える。そうすれば最優先のターゲットであるゼノ奪還のために、奴らは制圧のための攻撃の手を一瞬だが緩める。そしてスタンリーが必ず俺を仕留めるために銃を構える。千空たちから意識を数瞬でも外させることが出来ればそれでよかった。
狙い通り、スタンリーは俺の心臓に風穴を開けた。欠片も容赦のない狙撃だ。ヘッドショットでないだけやさしいかもしれないが、それでもこれで俺の死は確定した。
心臓を撃ち抜かれても人間は即死しない。痛みも何もわからなかった。ただ熱くて、寒くもあって、これが死なのだと痛感する。石化よりずっと恐ろしい感覚だった。
心臓を撃ち抜かれ、俯せに倒れた俺に目もくれない。ゼノの黒い革靴が真横を通り過ぎて行くのをただ見ていた。もう、全身どこにも力が入らないのだ。それでも地面を見て死ぬなんて御免だと、最後の力を振り絞り仰向けになれば彼方から緑の光を見た。
さすがだ。コーンシティに残った皆が石化装置を起動させたのだと悟るが、もう指を動かすことも声を出すこともできない。全員に褒美をくれてやらなければ、そう思うも目も霞んで光さえ見えなくなった。それでも耳は、まるで羽京のように働く。
復活液が壊され、千空が撃たれた。だが復活液ならまだある。そうだろう? 羽京。貴様なら、フランソワやスイカを逃がし、必ず復活液を届けてくれる。
恐怖はない。穴から俺の生命が流れ落ちても、この胸には羽京の生命がある。そして流れ落ちた生命とて羽京に預けた。ならば恐れるものはない。
科学の真髄は、未来へとただ地道に楔を打ち続けることだ。誰が道半ばで倒れようと、最後に勝つのは俺たちだ。現に未来の科学の光はすぐそこまで迫っている。すべてを石にし、すべてを救う。Dr.STONEはいまここに得られた。ならばもう俺たちの勝ちだ。時間だけが問題であり、それがクリアしたなら必ず誰かが人類を救う。
「……う、きょ……」
もしかしたら、次目覚めるまでにまた数千年経ってしまうかもしれない。そうしたら、またすべてが一からやり直しだ。だがそれもいいだろう。今度は羽京と一から文明の復興、そして発展に尽力するのだ。それはそれで魅力的だ。
そんな甘美な誘惑とともに、俺の意識は途絶えた。
メデューサの砦を超特急で建造しなくてはならない。時間があまりにもなかった。司帝国、石化王国と戦争し、人間と争うのは三度目だ。しかしあの戦争は所詮原始的なものだったのだと改めて痛感する。それほどにスタンリーら特殊部隊は軍隊であり、統率された二十一世紀の戦争だった。
寝る時間も惜しい。だが人間は食べて、寝なくては身体が保たない。そこはマンパワーをまとめあげることに長けた、船長である龍水の腕の見せ所だった。休憩を限界まで削り、しかしオーバーワークはさせない。個々に見合った徹底したスケジュール管理をした。
誰もが焦っている。スタンリーらから見れば、こちらはこどもだ。年嵩でも社会人となって日が浅いような年齢の者たちばかり。それが圧倒的な暴力と抗戦しているのだから、焦って当然だった。
しかし誰一人諦めていない。誰一人、もう無理だと欠片も思っていない。未来を欲する科学王国は、純粋であり貪欲であった。
欲しい。未来が。停滞など望まない。見たこともない明日が欲しい。
皆がこうも貪欲になったのは、きっと千空が科学が万人を未来へ導くと示したからだ。科学の動力源は欲しいであると示したからだ。そしてそんな千空が、世界を欲しがる龍水を肯定した。千空と龍水、この二人が手を取り合い未来を欲する。それは必ず手に入ると、皆に覚めない夢を見させた。
だが――否、だからこそ。誰よりも千空と龍水は現実を見ている。皆に夢を見させたその責任を果たすために、最も現実を捉え見据えていた。
「……どうしたの? そんな弱音吐いちゃって」
そんな龍水が突然、必ずというものはないと口にする。羽京は目を眇め、寝転がりながら宙を見る男を見つめた。病気にならないよう、最低限整えたに過ぎない身なりはみすぼらしく、匂いとて石鹸のような爽やかな匂いはしない。龍水のような男がするべきではないような、そんな姿だ。しかし月明かりが彼の金糸を照らせばきらきらと輝き、思わず手を伸ばせば宙を見たまま甘えるように頬を寄せられた。
指通りはあまりよくない。けれどこんな状態でも指を通せ、はらはらと指の隙間から落ちていくその髪は美しい。この男が美しくないときなどあるのだろうか。そう思うほどに、その時、その環境で最も美しい姿を見せる龍水に羽京は口付けたくなり身を起こす。
夜は視界を塞がれる。視界のない世界では羽京が最も力を発揮する。だが夜警ばかりをさせては身体を壊すし、何より時間はないとはいえまだスタンリーは物理的に来ない。いまから気を張り詰め過ぎても効率が悪いと、龍水に連れ去らわれるようにして寝床に連れて来られた。しかし気を張り詰め過ぎて気が立ってしまって眠れない羽京に気付いてか、とつとつと龍水は語り掛けた。
あれが欲しい。これがしたい。そうきらきらと夢を語りながら、必ずはないと口にする彼が切なくて愛しい。羽京が覆い被さるようにして口付けようとすれば、いつでも受け止める龍水にしては珍しく、指先で唇を押し留めた。
「はっはー! なに、これは弱音ではない! 事実だ、違うか?」
かつてひび割れていた黒い指先は、いまはただひどく硬い。以前から年齢、家柄の割に働き者の手をしていると感じていたが、いまはただただ守る者の手だ。その手にされるがまま、羽京は龍水の隣に座らさせられ見詰め合う。
知っているよ。君が弱音なんか口にしないことくらい。そんな軽口は言わず、羽京は微笑む。
「事実から目を背けること、それこそが逃げるということだ。俺は逃げん! そして諦めない!」
だから、龍水が好きなんだ。強かに鼓動を刻む心臓が叫ぶ。龍水が好きだ。龍水を愛している。不殺を掲げた羽京を、覚悟のない臆病者と罵らず、剰えそれこそが龍水の求める欲しいに繋がるのだと理由を与えた。その瞬間から羽京は漠然と龍水に惹かれる思いから、七海龍水その人を愛するようになった。
龍水の突き進むその道を共に歩みたい。自分の願いが彼の力となれるなら、それ以上に望むものはなかった。
まっすぐと、微かにも揺るがないその瞳に太陽を見る。焼き付くさんほどに轟々と燃えながら、しかしあたたかいそれに悲しくもないのに泣きそうになる。きゅっと唇を噛んで涙を堪えれば、眉尻をすこし下げて龍水は微笑んだ。
やさしく頬を撫で、包み込み額を重ねる。ふたりにしか聞こえないほどに、ほとんどない距離で龍水は囁いた。
「だからこそ、貴様に伝えたかった。羽京、この先誰が死ぬとしれない。石化装置とてどれほど万能か知れなければ、いつ使えるようになるかもわからん。こればかりは時間との勝負だ」
コーンシティで残った皆が、ジョエルが頑張っている。ここではカセキが必死にダイヤモンドを削り続けている。しかし成果は芳しくない。時間さえあれば必ず彼らならやり遂げるだろう。だがいまは時間がなかった。
信じている。だが、できないと思ってもいる。それほど時間は残酷だった。だが諦めないのだ、誰ひとり。できないからと諦める方が、よっぽど難しい。強欲な彼らはそういう生き方しかできない。
重なった額からじわりと伝わる体温が愛しい。このぬくもりを守りたいと思うと同時に、彼は決して守られる男ではないとも思う。
この石の世界で復活してから、ずっと矛盾とともに生きてきた。特に龍水と出会ってからずっとだ。守りたいと思いながら、守られるような男ではない彼を愛している。平和に静かに生きたいと思いながら、圧倒的な脅威と未知を前に止まれない彼と突き進む。その矛盾が歯痒くも、こうして生きる日々は輝いていた。だからいまも、時間が許さなくとも彼らならできると信じて自分たちができることをする。そうすることしかできない。そしてそうすることが、なによりも不謹慎に言えば楽しかった。それはこの男とて同じなのだと、あまりに近すぎて焦点の合わない龍水の表情を予想すれば、ふっと微かに彼は笑った。
「道半ばで俺が貴様が、或いは両方が地に伏すこともあるだろう。貴様は自衛官だ。この石の世界で生きていく上で、己の死とて覚悟しているだろう? だが、俺のそれとて覚悟してほしい」
目頭が熱い。唇を噛んでいるのに堪えきれず、触れ合った額だけでは足りなかった。もっと龍水の熱を感じたくて、彼を掻き抱く。首元に額を押し付けて、彼のぬくもりを忘れないように刻みつけるように。龍水もそれに応えて、羽京の背中に腕を回した。
「俺と貴様は、道半ばに倒れることがあれば、共にいることはないだろう。看取ることなどできないに違いない」
これも事実だ。船なら異なるが、陸では龍水と羽京の役割は大きく異なる。全体を見て、管制し、ときには大胆な決定をして自ら動くリーダーである龍水と、外敵をいち早く見付け欺き守る羽京では戦場が異なる。スタンリーらに攻め込まれたその時、共に在ることはないだろう。
石化装置が生命の石、Dr.STONEとなることを信じている。しかしそれはいま、この戦いで得られるとは限らない。いつか、この積み重ねてきた道を繋ぐ誰かが掴むものかもしれない。寧ろその可能性の方が高い。それを無情と嘆きはしなくとも、それでも惜しく思う。せっかくこうして触れ合える距離にいるのに、と。
矛盾だらけだ。矛盾しかない。もう羽京のこころはぐちゃぐちゃだった。
皆を信じている。必ずこの道は未来へ繋がる。きっともう一度、皆で海に行ける。月にだって必ず行ける。そう思うが、突きつけられる現実を前に何ひとつ保証はない。嘗て宇宙飛行士たちが、千空の父が繋いでくれたように、自分たちも受け取ったバトンを繋ぐのだ。そのためにも、いまできることをする。ただそれだけだ。それだけだとわかっているのに、失いたくない。このぬくもりを手離したくない。離れたくない。否、離れてもいい。龍水に生きて欲しい。
嗚咽を押し殺し震える身体を押さえつけるためにしがみつく。痛いほどに絡みつく四肢に、きっと痛みを感じるだろうに龍水はそれを受け止めた。そして、龍水も背中に回した腕に力を込める。
服は着込み、肌さえほぼ触れ合っていない。それでも性交しているときより、近くに互いを感じられた。
「だからこそ、俺と共に生きてくれ、羽京。貴様にこの生命を預けたい」
龍水にしては弱々しく、震える声だった。けれど芯の通った声はしっかりと羽京の鼓膜を、こころを震わせる。
「俺とて人間だ。他人の悪意に揉まれたことはあれど、ただの民間人で戦争を知らない。圧倒的な暴力の前に、為す術なく殺されることを恐れないほど愚かではない」
羽京も自衛官とはいえ、戦争を体験したことはない。だが龍水よりも圧倒的な暴力――自然災害や、それにより奪われた生命を知っている。だからこそこの恐怖は決して弱さではないと理解している。そしてその弱さを龍水が見せてくれたこと、それに羽京は零れそうな程に目を見開いた。
ぐちゃぐちゃになっていた思考が一瞬にして明快になる。
すべてを欲しがる強欲な男がいま、ただひとつのものをくれようとしている。それを感じ取り、その顔を見たいと腕から力を抜けば龍水がその分、腕に力を込めた。
「俺の生命はひとつだ。すべてを愛しても、この生命は全員にくれてやることはできない。それなら俺は羽京を選ぶ。貴様がいい。貴様が預かってくれるならば、俺は恐怖に打ち勝てる」
生命なんて、そう簡単に預けるものではない。そう窘めるべきなのだろうか。しかし殺されることが恐ろしいと、弱さを見せた龍水が簡単にそれを口にするはずがない。誰よりも現実を見据えている彼が、欲しがるのではなく預けたいと羽京を選んだ。これはどんな誓いの言葉より、深く重い意味がある。
「……龍水」
ようやく意味のある言葉を口にできた。泣きじゃくり目が霞み、口の中も乾いて酷い響きだ。しかし羽京の肩も気付けば微かに濡れていた。
「龍水」
もう一度名前を呼べば、ようやく腕から力を抜き顔を上げた龍水は泣いてはいなかった。すこしばかり瞳に水分を感じられたがそれだけ。下がっていた眉も凛々しく上がり、ニッと歯茎が見えそうなほど大きく口を開け、いつものように彼は笑う。
「俺は千空を信じる。貴様と歩んできた道(科学)を信じる!」
こんなに自分は口下手だっただろうか。しかし言葉は要らないように思えた。
君の生命を預かると、君に生命を預けると、そんな言葉はもう彼の言葉だけで充分だった。それならと唇を重ねる。深く、長く、呼気からその生命を交換するように口付ければ、龍水は嬉しそうに笑った。
――一瞬でいい。一秒でもいい。それだけ、一歩でも多く千空たちは、科学の未来へと進む。
それなら僕も、こんなところで立ち止まれない。
砦は既に銃撃された。劈くようなゲンの悲鳴に、誰かが圧倒的な暴力の前に打ち破れたのだと知る。鳴り響く破壊音に頭が壊れそうだった。それでもそこに龍水がいるなら、千空が皆がいるなら、そこで終わるはずがない。戦場は既に情報が錯綜し、誰が無事かもわからない。
考えろ。考えろ。僕は何ができる? 龍水たちは何を求めている?
その瞬間音に違和感を覚えた。何かを飲み込むような、得体の知れない寒気のするような音のない音だ。それには覚えがある。そしてそれは砦からではなく北から来る。
急いで矢を継がえた。光に気付き、皆が驚愕しているその間に僕が成すべきことはひとつ。あれほど破壊されたならばきっと、復活液は千空たちの所にはない。復活液。それを千空に届ければそれだけでこの形成は大逆転する。
フランソワの縄を切れば、フランソワはその意図を察したように松風と銀狼の縄を切り、二人は敵を抑え込んだ。そのまま復活液へとスイカも諸共駆け出すその姿を見ながら僕も駆け出す。
「千空たちは復活液を失った! なんとか届けて……」
「――その通りだよ」
なんで。
「――復活液という名のノアの箱舟はここにしか無い」
なんでゼノがここに。その先を考えるのはやめた。ゼノの隣に居たはずの龍水のことを考えてしまえば、僕は動けなくなる。彼の生命は僕が預かっている。この胸に彼はいる。そしていま、僕たちには生命の石の輝きがそこまで来ている。
それなら一瞬でいい。一秒でもいい。時間を稼いで、誰かが千空に復活液を届ければ僕たちの勝ちだ。
この身体が蜂の巣にされ、復元しようがないほどずたぼろにされても構わない。一秒でも多く稼ぐ為にスイカを庇うように立つ銀狼とフランソワの前に立ち弓を継がえた。
弓がマシンガンに敵うわけもない。それでもすこしでも時間を稼げれば。
ガガガガガと破壊音が響く。痛みはなかった。ただ熱くて感覚が遠くて、音が石化したその時のように一切聞こえなくなった。僕が頽れたあとも銃弾の嵐は止まない。つまりは僕は一秒でも時間を稼げたのだろう。そう思うと笑みが浮かぶ。
「りゅ、す……」
僕たちが歩んできた道はきっと未来に繋がったよ。
そう笑みを浮かべ投げ出した腕は石となり、僕の意識と共に全ては石となった。
ガンシューティングゲームこそしてきたが、実際の武力には興味はなかった。
人類の叡智であるダイナマイト。あれも立派な力だが、それが成せることにこそ興味があった。どんなに硬い岩盤でも破壊できるその力は、土木工事に大いに貢献した。その力が街を作り出す。それにこそ興味を覚えど、人の生命を奪う行為に欠片も興味を覚えなかった。
そんな俺が銃を持ったとして、銃の真価は発揮されない。しかしそれでいいのだ。相手が俺たちを皆殺ししようとして、俺たちが奴らを殺せばそのとき決定的な溝が生まれる。もう二度と奴らの持つ圧倒的な武力も技術も手に入らない。それなら俺は、時間さえ稼げればそれだけでいい。
ゼノの隣に立ち、銃を構える。そうすれば最優先のターゲットであるゼノ奪還のために、奴らは制圧のための攻撃の手を一瞬だが緩める。そしてスタンリーが必ず俺を仕留めるために銃を構える。千空たちから意識を数瞬でも外させることが出来ればそれでよかった。
狙い通り、スタンリーは俺の心臓に風穴を開けた。欠片も容赦のない狙撃だ。ヘッドショットでないだけやさしいかもしれないが、それでもこれで俺の死は確定した。
心臓を撃ち抜かれても人間は即死しない。痛みも何もわからなかった。ただ熱くて、寒くもあって、これが死なのだと痛感する。石化よりずっと恐ろしい感覚だった。
心臓を撃ち抜かれ、俯せに倒れた俺に目もくれない。ゼノの黒い革靴が真横を通り過ぎて行くのをただ見ていた。もう、全身どこにも力が入らないのだ。それでも地面を見て死ぬなんて御免だと、最後の力を振り絞り仰向けになれば彼方から緑の光を見た。
さすがだ。コーンシティに残った皆が石化装置を起動させたのだと悟るが、もう指を動かすことも声を出すこともできない。全員に褒美をくれてやらなければ、そう思うも目も霞んで光さえ見えなくなった。それでも耳は、まるで羽京のように働く。
復活液が壊され、千空が撃たれた。だが復活液ならまだある。そうだろう? 羽京。貴様なら、フランソワやスイカを逃がし、必ず復活液を届けてくれる。
恐怖はない。穴から俺の生命が流れ落ちても、この胸には羽京の生命がある。そして流れ落ちた生命とて羽京に預けた。ならば恐れるものはない。
科学の真髄は、未来へとただ地道に楔を打ち続けることだ。誰が道半ばで倒れようと、最後に勝つのは俺たちだ。現に未来の科学の光はすぐそこまで迫っている。すべてを石にし、すべてを救う。Dr.STONEはいまここに得られた。ならばもう俺たちの勝ちだ。時間だけが問題であり、それがクリアしたなら必ず誰かが人類を救う。
「……う、きょ……」
もしかしたら、次目覚めるまでにまた数千年経ってしまうかもしれない。そうしたら、またすべてが一からやり直しだ。だがそれもいいだろう。今度は羽京と一から文明の復興、そして発展に尽力するのだ。それはそれで魅力的だ。
そんな甘美な誘惑とともに、俺の意識は途絶えた。
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