アメリへ(未完)
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アメリの頭の中 に詰まっているのは雪ばかりだ。何も本当にあの冷たい物が入っているというわけではない。白く冷たいもの、それはアメリの記憶である。アメリはいわゆる記憶喪失で、ありふれた社会性とこの世の もの でないような美しさ以外を 持ち合わせていない。記憶を手探れ ばふと何かを 掴む瞬間 はあるが 指先から溶けていき、淡く崩れ去る。記憶は確かにアメリの中にある。け れども 記憶は彼女の温度に耐えられ ない。彼女に残るのは記憶があったという喪失感と指先に残る雫ばかりである。 ア メリにも一つだけ明確な、熱とも言うべき 記憶がある。「愛を していた」と言う記憶だ。アメリはその熱に触れるたびに喉の奥から焼かれるような狂おしさを思い起こされた。誰を愛していたのかはいくら 知ろうとしても、その温度に触れるこ とができなかった。 雪は相変わらず溶けるばかりで余計に空虚さをアメリの中に深めて しまった。アメリは自分に染み込んでくる孤独に耐えられなくなってきていた。愛だけを覚えている彼女は人形のように空 っぽな自分自身を受け入れて半ば投げ やりに呼吸を繰り返す動物になった。だから彼女を飼育しようと思った。 だけどあの 目は今も違う ものを見ている。彼女あの瞬間だけは俺だけを見て切れるんだ人形じゃないってわかって。アメリは妻は 美しい俺の女だ。アメリは汚さないでくれ、奪わないでくれアメリは美しくて欲しくって本当に呪いみたいな欲望の形なんだ
────これが俺が知っている彼女のことだ。なあもういいだろう?早く解放してくれよっ。なあ!かのじょがいえでまっているから俺は帰らなくちゃならないんだ
海の近くの廃工場には男の譫言のような叫び声と軽やかなタイピングの音がぶつかる事も無く響く。海の上では何も知らないフリをした冷たい風に撫でられた白銀色の満月の影が波と遊んでいる。しかし男の視界は布で遮られており、そんなことを知るはずもなかった。彼が今知っているのは底冷えする世界の温度と恐怖のみである。男は家路を急ぐ最中、攫われてそこにいるのである。彼は自分が今どこにあるかも知らない。知っているのは冷たいコンクリートの温度と先程まで自身に与えられていた痛みの数々である。得体の知れない狂気に心底怯えながらも彼の背筋は妻への思いでまだ温かった。
どこか覚束ない、サカナが波間を跳ねるようなタイピングの音が止んで、今度はキュイ、と古い回転椅子が軋む音が一つした。と思えば重みのある革靴がコンクリートの床を軽妙に蹴り始める。また音が止んで、男は近くに熱を知覚した。その熱に温もりという血の通ったものを感じることはできず、本能的な恐怖に喉が締まる。刹那、海の匂いが色濃く鼻腔に入り込んで、男の目隠しは音も立てずに外された。工場の中に差し込む眩い光が音の持ち主をありありと映し出す。空気中に舞う埃が白い光の中でゆっくりと冷たい黒に消えていく中で、一人揺らがずにそこにあるものを目にして男は目を見開いた。今度こそ背筋が凍りついた。夜陰に紛れる濃紺のセーラー服の少女は怯える男に目を合わせて、時も止まるほどにとびきり美しく笑っていた。
「いただきます」
アメリは夫に昨晩夫につけられた傷を撫でながら夕食を食べ始めた。時刻は20時、いつもなら夫は家に帰ってきてとっくに彼女を殴っている時間だ。殴る理由はいつも同じ。
「どうして愛してくれないんだ、か」
大きな肉をほろほろに煮込んだビーフシチューの味を楽しもうにも、頬の内側にまで傷が響いて液体が沁みる。アメリは文字通り匙を投げて、だらしない姿勢で天井を眺めた。銀のスプーンが白磁のスープカップを傷つける。大きな音がしたがアメリはそちらを見ることもなくダイニングテーブルの上に吊るされたガス灯の清かな光をぼうっと眺めていた。丁寧に磨かれた曇りの少ないスプーンにアメリの美しい顔が映し出される。赤い痣が天井のランプと並んで鈍く輝いているように見えた。
「勝手に与えたくせに、」
答えを口にすればまた傷が痛む。最悪だ。思えばあの男は最初から最悪なやつだった。分かりきっていたことを今更口にしたがるのはアメリに今、考えるゆとりというものがあるからだ。ゆとり、というのは少し違うかも知れない。アメリはなんだかもう全てのことがどうでもよくなっていた。
思考は唯一許された逃避だったのに彼女はそんなことも忘れてしまうくらいに張り詰めた精神状態に陥っていた。家のいたるところにはあの男の目となるものがいくつもある。あの男、つまり夫につねに監視・監禁され、あの男の思い通りの女でいなければ暴力を振るわれた。そんな生活をもう何年送っていたろうか。数字という感覚は思えばあの男に出会った時から曖昧だったかも知れない。それでいて良妻賢母のあり方だけ知っているなんてことにほとほと呆れて、アメリはため息をついた。アメリと夫が結婚したのは半ば強制のような、馬鹿げた男の言葉によるものだった。
アメリには記憶がない。生活の記憶も家族の記憶も、何もない。アメリは砂浜に記憶喪失の状態で打ち上げられていたのだ。だから名前も本物じゃない。拾ってくれた人がそう仮の名をあたえてくそこを近くの診療所の人間に拾われたのである。
しかしそんな日々をあの男、夫が壊したのだ。そしてアメリの一番大切なものの記憶を見つけさせてしまった。アメリにとって夫は悪という概念そのものだ。
よく晴れた春の、風も少ない真昼にその男は狭い病室に似合わない大きなバラの花束を持って紳士然とした態度で入ってきた。目鼻立ちの整った派手な顔の中に鋭い光を隠すこともなく携えていた。病室の空気は明らかに男に支配され、アメリの肌は冷たく痺れた。白のスリーピースを身にまとった男はプラスチックのスツールに優雅に腰掛けるとゆっくりと口を開いた。とても、優しげな口ぶりで。
「俺は、君の夫だよ」
「わたしの、夫……?」
ほらこれ、と婚姻届のコピーを男は目の前にみせてくる。困惑しているアメリに念押しするように諭すように男はもう一度口を開く、
「君が愛した人間ということだよ」
愛、という言葉を聞いた刹那、ぞわり、とアメリは首筋を何かぬめりとしたものがなぞるような感覚を覚えた。愛?「お前ごとき」が口に出すな!感情の濁流に呑まれる。憎い、憎い、憎い。許せない、愛だなんて。あまつさえ夫婦だなんて。呆れを通り越して怒りを彼女は覚えていた。それはアメリになって初めての感覚だった。激情が彼女を支配する。燃え上がる感情の中で叫びをあげる自分自身という感覚には覚えがあった。アメリになる前の、記憶だ。
「分からない、です」
「記憶喪失なんだろう。仕方がないよ。でも俺はそんな君でも愛している。俺の腕においでよ」
「わからないんです。あなたのこと」
「うんそれでも、」
恐怖とも憎悪ともつかない感情が、理解ができないと叫びをあげる心の声をきいた。助けて欲しい、そう願っていたら本当に、気持ちの悪いことを喋り続ける男の口に彼女が幕を降ろしてくれた。ベッド周りに取り付けられた簡素な間仕切りの薄緑色のカーテンを勢いよく開ける音は光と少女を連れてきた。開けた世界の先にはセーラー服の美しい少女が立っていた。アメリの胸はどくんと揺れた。少女の瞳は嵐の前のように黒いのにどこまでも凪いでいる。
「ダメですよ。病人をいじめちゃあ」
鈴を転がすような静かでよく通る声の震わせ方だったが、それに似合わず間延びした子供っぽい喋り方だった。顔立ちよりも、ずっと幼いことを真新しい仕立てのセーラー服が表していた。心地の良い春風が窓から入ってくるのに彼女の手には分厚い毛皮が抱えられていた。
「何だお前は」
スツールから立ち上がって腹から叫ぶ男の声を軽く去なす美しい声が聞こえてきた。が、情報としては少女の言葉は一切アメリの頭の中に残らなかった。柔和で暖かな風がドアをノックするように極めて優しく彼女を穿ったからだ。少女の声を機構とすればするほど風が吹きすさぶ。絶え間ないそれはけれども激しくはあらず、アメリの上をそっとなぜてゆく心地は子守唄のようでさえあった。
混迷を極めていた内なるアメリの荒を、知りともしないはずの彼女が与えてくれた熱はあまりにも心地が良かった。指通りの良さそうな艶のある黒髪に、白磁の肌、桜貝を思わせる唇、アメリは今、言葉を尽くして再度彼女のことを構築しようとしたが、どの言葉もあの美しい少女には遠く及ばない気がしてしまってそのうちに諦めてしまう。ただ本当に心から目をうわれてしまった。仄暗いこんな狭い世界で空想の中で踊る少女はこんな地獄でさえも美しい。アメリはそのとき漸くあの美しい少女を忘れていたことを思い出した。
「結局彼女のなまえ、教えてもらえなかったんだわ」
言葉を尽くせば尽くすほど深淵を深める謎の少女はあの日から頻繁にアメリの病室にやってくるようになった。相変わらず彼女とセーラー服は乖離しており、その様を見るとアメリは悪いとは思いつつもいつも笑みが溢れてしまった。少女はそんなアメリを見ると極めて優しく微笑んだ。話すのは当たり障りのないことばかりで、少女はいつも聞き役に回り、アメリが口を動かした。少女の前ではアメリはこの世の全てを知っているような気さえして口からはいくらでも言葉を紡げた。そんな時間がひたすらに愛おしかった。ただ病室にはあの男が毎日持ってくるバラの香りが胸焼けするように甘く香っていた。決して二人の世界に分断させない、という男の意思が常に世界に入り込んでいた。
バラはまるで血を思わせるような赤で、アメリが間違って花弁に触れたとき。落ちたそのひとひらはぎょっとするほど瑞々しくて自分の手の先に傷口がないか探してしまった。男はアメリを神聖な砂糖菓子のように丁寧に扱うものだから、もちろんバラにひとつの刺だってありはしなかった。けれどもアメリは傷つけてくれればとどこか望んでいたのである。心にどこか致命的な傷、絶対的な愛の記憶を男は与えてしまった。そのことにアメリは感謝以上の感情はなかった。ただ物理的な傷さえあれば男を拒絶するいい理由になると考えていたからだった。男に向けて溢れた憎しみはあの一時で、アメリはいまいちどんな感情を向ければいいのか分かっていなかった。不気味ではある、たしかに優しくもある、結婚していたという事実も、存在してしまっている。
しかしやはりアメリを支配している観念はあの狂おしく燃え上がる愛である。 バラの花が一本ずつ増えていくごとに僅かにだが確かに匂いも濃くなってゆく。空っぽの心の中に沢山の花が落ちてきて窒息するような気さえした。少女との楽しいはずの対話の中でもその苦しさを抑えることはできなくなっていた。苦しそうなのが見て取れたのだろう、少女は優しげな温度を眼差しに宿らせてアメリの目を覗き込んだ。
「どうかしたんですか」
他人行儀らしい口ぶりに聞こえるが、心の底から心配しているのがわかる声の滲み方である。少女は自らの冷たい額をアメリの額に当てて熱は無いですねと耳元近くで呟く。彼女の温度が離れていくことに若干の安堵と名残惜しさを抱いている自分をアメリは恥じた。
「一体何を悩んでいらっしゃるんですか」
少女は窓辺に背中を預けて聞いた。窓は空けていないがすぐ近くに海があるからそこからは海の音がよく聞こえていたはずだ。少女の長い睫毛は肌理細やかな白砂の上に長い影を作っていた。
「あのね、あの人、夫が」
「うん」
静かな夜がこちらを見つめている。吹く風の多少変わるような心地がした。次に繰り出す言葉を思って唇が震えた。
「愛してるっていうの」
なんとも言えない沈黙が落ちる。真昼の神聖な病室にゆらぎのないふたつの呼吸だけがあると思わせるような静けさだった。波の音もバラの香りさえも感じることが出来なかった。それでいて何も見失うことなどなく、むしろ心理と向き合っている気さえ、アメリはしていた。しかし少女の方は心理を受け取ることを拒否してみせた。
「 へぇ」
「へぇって、他に言うことはないの、」
少女はニヒルな笑みを浮かべて意地悪に、なんて言って欲しいんですか、と静かなせせら笑いをした。窓辺のテーブルに置かれた花瓶のバラの花弁を右手でなぞりながら呟くように口を開く。入り込んだ風でカーテンが膨らんで窓辺に居た白い彼女の手に影の波が落ちたかと思えば去ってゆき、それはどこかアメリの背筋を冷たく嬲った。
「夫婦なんだからあたりまえなんじゃないですかね」
「夫婦なんだから?」
「夫婦って、愛をもつもの同士の関係の名前でしょう。まぁもちろん契約だから愛がなくたって出来るでしょうけどねぇ」
良かったじゃないですかァ、愛されてるなんて。少女の鈴のような声がぐわんとハウリングしてアメリの中でぶつかり合う。しかしそれでも彼女の言葉に反抗しなくてはいけないという熱がアメリには宿っていた。ただその願いと裏腹に脳は曖昧な働きしか見せない。
「でも、でもね、彼の愛を私認められないの、愛の記憶が彼を否定するの。私このまま彼の妻で居ていいのかな」
「────あなたの望むことがきっと彼の望むことですよ」
ふとアメリの視界が閉ざされる。極めて優しい冷たい手がアメリの目を覆ったからだ。今度の彼女の声は雨粒が雫から零れ落ちる時のように静謐に聞こえてきた。その水はアメリの心の中にじんわり染み込んで息をふきかえさせた。正常な呼吸の仕方をいつの間にか忘れていたらしかったアメリは深呼吸を繰り返す。
「熱はない。あなたは今自分を見失っている。お眠りなさい。忘れてなんかない。もう一度いきなおせばいい。今度はどうか私のことなんか忘れて、ね」
幾分か低い少女の声が眠り薬のようにアメリを包み込む。わすれてなど、やるものか。そう決意して今度こそ少女の目を見て文句を言ってやろうとアメリは思っていたがそれは叶わなかった。次に目を覚ますと彼女はもうおらず、バラの香りのする暗闇の中、一点月光の当たるテーブルの上に一筆箋と白い貝殻だけが残っていた。一言、サヨナラと記されたそれは紛れもなく少女の言葉である。。ぼろぼろはらはらと涙はそれでいて静かに零れる。彼女がもう二度と来ないことをアメリはは理解した。予想通り少女は来なくなった。アメリは今まで巡らせていた感情の糸を断ち切られたように、もうどうでも良くなっていた。噎せかえりそうなバラの匂いに耐えられなくて男の手を掴んでしまうくらいには。折しもその日は男が100本目のバラを捧げに来た日であった。
F
アメリの意識は未だ薄暗いダイニングの上を泳いでいた。遊泳する中で日常の自分の意識を発見する。その一つ、よく考えなくてもわかること、偽物の婚姻届。キッチン横のカウンターテーブルにはまるで賞状を飾るように凝った金の額縁に入ったそれがある。鮮明にコピーされたそれを、男はアメリを殴ったあといつも幸せそうに眺めていた。白濁する意識の中で鮮明に浮かび上がる夫の笑顔は無垢な子供といっても差し支えなかった。腹を殴られ首を閉められたアメリは浅い呼吸を繰り返しながらああどうしようもないなあ、と心のどこかでいつも思っていた。だってそれには「佐藤 アメリ」って書いてあるのだから。ありふれた苗字に適当な名前。少し字体は変えてあるが似通った芯のある字は男のものだ。
どうしようもない人間だなあ。そんな嘘にすくわれちゃうなんて。アメリは呼吸を整えながらいつも寝堕ちてしまった。気絶するようなそれは死にも似ている気がした。こときれる、生活という線の途絶えてしまうこと、目の前から世界が消えてしまうこと。ただ、そんなふう1-3(厂 に眠れるのはまだ良い日で、男は時間に余裕があればアメリの髪を引っ掴んで目を覚まさせた。そして無理に開けさせた口腔に指を突っ込み、歯列をなぞって舌を引っ張り、アメリ自身に存在を知覚させた。そしていつもアメリをベッドの上に引き連れて膝枕をさせて終わる。男はいつもアメリに背を向けて眠っていたから首を絞めることくらい簡単なことだったがアメリは足の痺れが脳まで回って、いつも殺意に手が届かなかった。男の寝息が聞こえてしばらくしてから男の頭をベ下ろし、そして自分もその隣で蹲るように眠った。これ以上離れてしまうと男は何故だか起きてしまい、また痛みが降り注ぐのだ。呼吸はいつからか小さくなってしまった。そうして夢を見ることもなくなった。そんな毎日だったからアメリは明日がくるのが憂鬱であった。けれどもなぜだか死にたいとは望むことはなかった。多分それはアメリの中に宿ったあの愛が、本当のアメリの名前を叫ぶからである。
薄暗い部屋の中でアメリは自分の身体を見下ろしてみた。体のどこにも侵されていないところは無かった。男は毎日アメリの体を所有物と捉えて好き放題に蹂躙して見せた。男にとって言えばそれこそが愛の証明に他ならないのだということは、アメリも薄らと知っていた。足の爪は れたしアキレス腱はだいぶ前に片方切られてしまった。爪の無い足先は空気と触れるたびに喉までこみ上げるような嫌悪感と恐怖に苛まれたが、アメリは生まれ持った性質として痛みをため込むことが得意だったからわざわざ声を上げて痛みに耐えることもなかった。タダ痛みがあるのみ。それはやはり愛だとは思えなかったし、奪われてしまった体の一部は痛みの他にもなにか得体の知れない感情をアメリに孕ませた。
腹にはいくつもタバコの押し付けられた跡が黒々と残っている。この熱はだいぶ
苦しかった。普段はいかなる暴行にも人形のようにしてやり過ごしていたアメリが声をあげて背中を反らせてしまった。男はその反応に喜色満面になって何度もあの快楽の先_と軽い音がして、けれども分かりやすい外傷では無かった。薄く赤くなった右手小指の赤い腫れが見落としてしまいそうな些細な痛みの証拠として存在している。男はまた泣いた。だんだんと赤みと痛みを増していく小指を大事そうにもう一度掴み直して今度は本当に優しく握った。やっぱり意味がわからずにアメリは考えるのを諦めて目を瞑った。
世界の全ては薄い皮膜の外側で行われているようなきがしていた。痛みは確かにあるが、耐えきれないほどではなく、どこか奥行のある、諦めのつく痛みである。アメリの頭の中では十分に世界は処理されていなかった。いや、そうすることで自分を保っていたのかもしれない、
────これが俺が知っている彼女のことだ。なあもういいだろう?早く解放してくれよっ。なあ!かのじょがいえでまっているから俺は帰らなくちゃならないんだ
海の近くの廃工場には男の譫言のような叫び声と軽やかなタイピングの音がぶつかる事も無く響く。海の上では何も知らないフリをした冷たい風に撫でられた白銀色の満月の影が波と遊んでいる。しかし男の視界は布で遮られており、そんなことを知るはずもなかった。彼が今知っているのは底冷えする世界の温度と恐怖のみである。男は家路を急ぐ最中、攫われてそこにいるのである。彼は自分が今どこにあるかも知らない。知っているのは冷たいコンクリートの温度と先程まで自身に与えられていた痛みの数々である。得体の知れない狂気に心底怯えながらも彼の背筋は妻への思いでまだ温かった。
どこか覚束ない、サカナが波間を跳ねるようなタイピングの音が止んで、今度はキュイ、と古い回転椅子が軋む音が一つした。と思えば重みのある革靴がコンクリートの床を軽妙に蹴り始める。また音が止んで、男は近くに熱を知覚した。その熱に温もりという血の通ったものを感じることはできず、本能的な恐怖に喉が締まる。刹那、海の匂いが色濃く鼻腔に入り込んで、男の目隠しは音も立てずに外された。工場の中に差し込む眩い光が音の持ち主をありありと映し出す。空気中に舞う埃が白い光の中でゆっくりと冷たい黒に消えていく中で、一人揺らがずにそこにあるものを目にして男は目を見開いた。今度こそ背筋が凍りついた。夜陰に紛れる濃紺のセーラー服の少女は怯える男に目を合わせて、時も止まるほどにとびきり美しく笑っていた。
「いただきます」
アメリは夫に昨晩夫につけられた傷を撫でながら夕食を食べ始めた。時刻は20時、いつもなら夫は家に帰ってきてとっくに彼女を殴っている時間だ。殴る理由はいつも同じ。
「どうして愛してくれないんだ、か」
大きな肉をほろほろに煮込んだビーフシチューの味を楽しもうにも、頬の内側にまで傷が響いて液体が沁みる。アメリは文字通り匙を投げて、だらしない姿勢で天井を眺めた。銀のスプーンが白磁のスープカップを傷つける。大きな音がしたがアメリはそちらを見ることもなくダイニングテーブルの上に吊るされたガス灯の清かな光をぼうっと眺めていた。丁寧に磨かれた曇りの少ないスプーンにアメリの美しい顔が映し出される。赤い痣が天井のランプと並んで鈍く輝いているように見えた。
「勝手に与えたくせに、」
答えを口にすればまた傷が痛む。最悪だ。思えばあの男は最初から最悪なやつだった。分かりきっていたことを今更口にしたがるのはアメリに今、考えるゆとりというものがあるからだ。ゆとり、というのは少し違うかも知れない。アメリはなんだかもう全てのことがどうでもよくなっていた。
思考は唯一許された逃避だったのに彼女はそんなことも忘れてしまうくらいに張り詰めた精神状態に陥っていた。家のいたるところにはあの男の目となるものがいくつもある。あの男、つまり夫につねに監視・監禁され、あの男の思い通りの女でいなければ暴力を振るわれた。そんな生活をもう何年送っていたろうか。数字という感覚は思えばあの男に出会った時から曖昧だったかも知れない。それでいて良妻賢母のあり方だけ知っているなんてことにほとほと呆れて、アメリはため息をついた。アメリと夫が結婚したのは半ば強制のような、馬鹿げた男の言葉によるものだった。
アメリには記憶がない。生活の記憶も家族の記憶も、何もない。アメリは砂浜に記憶喪失の状態で打ち上げられていたのだ。だから名前も本物じゃない。拾ってくれた人がそう仮の名をあたえてくそこを近くの診療所の人間に拾われたのである。
しかしそんな日々をあの男、夫が壊したのだ。そしてアメリの一番大切なものの記憶を見つけさせてしまった。アメリにとって夫は悪という概念そのものだ。
よく晴れた春の、風も少ない真昼にその男は狭い病室に似合わない大きなバラの花束を持って紳士然とした態度で入ってきた。目鼻立ちの整った派手な顔の中に鋭い光を隠すこともなく携えていた。病室の空気は明らかに男に支配され、アメリの肌は冷たく痺れた。白のスリーピースを身にまとった男はプラスチックのスツールに優雅に腰掛けるとゆっくりと口を開いた。とても、優しげな口ぶりで。
「俺は、君の夫だよ」
「わたしの、夫……?」
ほらこれ、と婚姻届のコピーを男は目の前にみせてくる。困惑しているアメリに念押しするように諭すように男はもう一度口を開く、
「君が愛した人間ということだよ」
愛、という言葉を聞いた刹那、ぞわり、とアメリは首筋を何かぬめりとしたものがなぞるような感覚を覚えた。愛?「お前ごとき」が口に出すな!感情の濁流に呑まれる。憎い、憎い、憎い。許せない、愛だなんて。あまつさえ夫婦だなんて。呆れを通り越して怒りを彼女は覚えていた。それはアメリになって初めての感覚だった。激情が彼女を支配する。燃え上がる感情の中で叫びをあげる自分自身という感覚には覚えがあった。アメリになる前の、記憶だ。
「分からない、です」
「記憶喪失なんだろう。仕方がないよ。でも俺はそんな君でも愛している。俺の腕においでよ」
「わからないんです。あなたのこと」
「うんそれでも、」
恐怖とも憎悪ともつかない感情が、理解ができないと叫びをあげる心の声をきいた。助けて欲しい、そう願っていたら本当に、気持ちの悪いことを喋り続ける男の口に彼女が幕を降ろしてくれた。ベッド周りに取り付けられた簡素な間仕切りの薄緑色のカーテンを勢いよく開ける音は光と少女を連れてきた。開けた世界の先にはセーラー服の美しい少女が立っていた。アメリの胸はどくんと揺れた。少女の瞳は嵐の前のように黒いのにどこまでも凪いでいる。
「ダメですよ。病人をいじめちゃあ」
鈴を転がすような静かでよく通る声の震わせ方だったが、それに似合わず間延びした子供っぽい喋り方だった。顔立ちよりも、ずっと幼いことを真新しい仕立てのセーラー服が表していた。心地の良い春風が窓から入ってくるのに彼女の手には分厚い毛皮が抱えられていた。
「何だお前は」
スツールから立ち上がって腹から叫ぶ男の声を軽く去なす美しい声が聞こえてきた。が、情報としては少女の言葉は一切アメリの頭の中に残らなかった。柔和で暖かな風がドアをノックするように極めて優しく彼女を穿ったからだ。少女の声を機構とすればするほど風が吹きすさぶ。絶え間ないそれはけれども激しくはあらず、アメリの上をそっとなぜてゆく心地は子守唄のようでさえあった。
混迷を極めていた内なるアメリの荒を、知りともしないはずの彼女が与えてくれた熱はあまりにも心地が良かった。指通りの良さそうな艶のある黒髪に、白磁の肌、桜貝を思わせる唇、アメリは今、言葉を尽くして再度彼女のことを構築しようとしたが、どの言葉もあの美しい少女には遠く及ばない気がしてしまってそのうちに諦めてしまう。ただ本当に心から目をうわれてしまった。仄暗いこんな狭い世界で空想の中で踊る少女はこんな地獄でさえも美しい。アメリはそのとき漸くあの美しい少女を忘れていたことを思い出した。
「結局彼女のなまえ、教えてもらえなかったんだわ」
言葉を尽くせば尽くすほど深淵を深める謎の少女はあの日から頻繁にアメリの病室にやってくるようになった。相変わらず彼女とセーラー服は乖離しており、その様を見るとアメリは悪いとは思いつつもいつも笑みが溢れてしまった。少女はそんなアメリを見ると極めて優しく微笑んだ。話すのは当たり障りのないことばかりで、少女はいつも聞き役に回り、アメリが口を動かした。少女の前ではアメリはこの世の全てを知っているような気さえして口からはいくらでも言葉を紡げた。そんな時間がひたすらに愛おしかった。ただ病室にはあの男が毎日持ってくるバラの香りが胸焼けするように甘く香っていた。決して二人の世界に分断させない、という男の意思が常に世界に入り込んでいた。
バラはまるで血を思わせるような赤で、アメリが間違って花弁に触れたとき。落ちたそのひとひらはぎょっとするほど瑞々しくて自分の手の先に傷口がないか探してしまった。男はアメリを神聖な砂糖菓子のように丁寧に扱うものだから、もちろんバラにひとつの刺だってありはしなかった。けれどもアメリは傷つけてくれればとどこか望んでいたのである。心にどこか致命的な傷、絶対的な愛の記憶を男は与えてしまった。そのことにアメリは感謝以上の感情はなかった。ただ物理的な傷さえあれば男を拒絶するいい理由になると考えていたからだった。男に向けて溢れた憎しみはあの一時で、アメリはいまいちどんな感情を向ければいいのか分かっていなかった。不気味ではある、たしかに優しくもある、結婚していたという事実も、存在してしまっている。
しかしやはりアメリを支配している観念はあの狂おしく燃え上がる愛である。 バラの花が一本ずつ増えていくごとに僅かにだが確かに匂いも濃くなってゆく。空っぽの心の中に沢山の花が落ちてきて窒息するような気さえした。少女との楽しいはずの対話の中でもその苦しさを抑えることはできなくなっていた。苦しそうなのが見て取れたのだろう、少女は優しげな温度を眼差しに宿らせてアメリの目を覗き込んだ。
「どうかしたんですか」
他人行儀らしい口ぶりに聞こえるが、心の底から心配しているのがわかる声の滲み方である。少女は自らの冷たい額をアメリの額に当てて熱は無いですねと耳元近くで呟く。彼女の温度が離れていくことに若干の安堵と名残惜しさを抱いている自分をアメリは恥じた。
「一体何を悩んでいらっしゃるんですか」
少女は窓辺に背中を預けて聞いた。窓は空けていないがすぐ近くに海があるからそこからは海の音がよく聞こえていたはずだ。少女の長い睫毛は肌理細やかな白砂の上に長い影を作っていた。
「あのね、あの人、夫が」
「うん」
静かな夜がこちらを見つめている。吹く風の多少変わるような心地がした。次に繰り出す言葉を思って唇が震えた。
「愛してるっていうの」
なんとも言えない沈黙が落ちる。真昼の神聖な病室にゆらぎのないふたつの呼吸だけがあると思わせるような静けさだった。波の音もバラの香りさえも感じることが出来なかった。それでいて何も見失うことなどなく、むしろ心理と向き合っている気さえ、アメリはしていた。しかし少女の方は心理を受け取ることを拒否してみせた。
「 へぇ」
「へぇって、他に言うことはないの、」
少女はニヒルな笑みを浮かべて意地悪に、なんて言って欲しいんですか、と静かなせせら笑いをした。窓辺のテーブルに置かれた花瓶のバラの花弁を右手でなぞりながら呟くように口を開く。入り込んだ風でカーテンが膨らんで窓辺に居た白い彼女の手に影の波が落ちたかと思えば去ってゆき、それはどこかアメリの背筋を冷たく嬲った。
「夫婦なんだからあたりまえなんじゃないですかね」
「夫婦なんだから?」
「夫婦って、愛をもつもの同士の関係の名前でしょう。まぁもちろん契約だから愛がなくたって出来るでしょうけどねぇ」
良かったじゃないですかァ、愛されてるなんて。少女の鈴のような声がぐわんとハウリングしてアメリの中でぶつかり合う。しかしそれでも彼女の言葉に反抗しなくてはいけないという熱がアメリには宿っていた。ただその願いと裏腹に脳は曖昧な働きしか見せない。
「でも、でもね、彼の愛を私認められないの、愛の記憶が彼を否定するの。私このまま彼の妻で居ていいのかな」
「────あなたの望むことがきっと彼の望むことですよ」
ふとアメリの視界が閉ざされる。極めて優しい冷たい手がアメリの目を覆ったからだ。今度の彼女の声は雨粒が雫から零れ落ちる時のように静謐に聞こえてきた。その水はアメリの心の中にじんわり染み込んで息をふきかえさせた。正常な呼吸の仕方をいつの間にか忘れていたらしかったアメリは深呼吸を繰り返す。
「熱はない。あなたは今自分を見失っている。お眠りなさい。忘れてなんかない。もう一度いきなおせばいい。今度はどうか私のことなんか忘れて、ね」
幾分か低い少女の声が眠り薬のようにアメリを包み込む。わすれてなど、やるものか。そう決意して今度こそ少女の目を見て文句を言ってやろうとアメリは思っていたがそれは叶わなかった。次に目を覚ますと彼女はもうおらず、バラの香りのする暗闇の中、一点月光の当たるテーブルの上に一筆箋と白い貝殻だけが残っていた。一言、サヨナラと記されたそれは紛れもなく少女の言葉である。。ぼろぼろはらはらと涙はそれでいて静かに零れる。彼女がもう二度と来ないことをアメリはは理解した。予想通り少女は来なくなった。アメリは今まで巡らせていた感情の糸を断ち切られたように、もうどうでも良くなっていた。噎せかえりそうなバラの匂いに耐えられなくて男の手を掴んでしまうくらいには。折しもその日は男が100本目のバラを捧げに来た日であった。
F
アメリの意識は未だ薄暗いダイニングの上を泳いでいた。遊泳する中で日常の自分の意識を発見する。その一つ、よく考えなくてもわかること、偽物の婚姻届。キッチン横のカウンターテーブルにはまるで賞状を飾るように凝った金の額縁に入ったそれがある。鮮明にコピーされたそれを、男はアメリを殴ったあといつも幸せそうに眺めていた。白濁する意識の中で鮮明に浮かび上がる夫の笑顔は無垢な子供といっても差し支えなかった。腹を殴られ首を閉められたアメリは浅い呼吸を繰り返しながらああどうしようもないなあ、と心のどこかでいつも思っていた。だってそれには「佐藤 アメリ」って書いてあるのだから。ありふれた苗字に適当な名前。少し字体は変えてあるが似通った芯のある字は男のものだ。
どうしようもない人間だなあ。そんな嘘にすくわれちゃうなんて。アメリは呼吸を整えながらいつも寝堕ちてしまった。気絶するようなそれは死にも似ている気がした。こときれる、生活という線の途絶えてしまうこと、目の前から世界が消えてしまうこと。ただ、そんなふう1-3(厂 に眠れるのはまだ良い日で、男は時間に余裕があればアメリの髪を引っ掴んで目を覚まさせた。そして無理に開けさせた口腔に指を突っ込み、歯列をなぞって舌を引っ張り、アメリ自身に存在を知覚させた。そしていつもアメリをベッドの上に引き連れて膝枕をさせて終わる。男はいつもアメリに背を向けて眠っていたから首を絞めることくらい簡単なことだったがアメリは足の痺れが脳まで回って、いつも殺意に手が届かなかった。男の寝息が聞こえてしばらくしてから男の頭をベ下ろし、そして自分もその隣で蹲るように眠った。これ以上離れてしまうと男は何故だか起きてしまい、また痛みが降り注ぐのだ。呼吸はいつからか小さくなってしまった。そうして夢を見ることもなくなった。そんな毎日だったからアメリは明日がくるのが憂鬱であった。けれどもなぜだか死にたいとは望むことはなかった。多分それはアメリの中に宿ったあの愛が、本当のアメリの名前を叫ぶからである。
薄暗い部屋の中でアメリは自分の身体を見下ろしてみた。体のどこにも侵されていないところは無かった。男は毎日アメリの体を所有物と捉えて好き放題に蹂躙して見せた。男にとって言えばそれこそが愛の証明に他ならないのだということは、アメリも薄らと知っていた。足の爪は れたしアキレス腱はだいぶ前に片方切られてしまった。爪の無い足先は空気と触れるたびに喉までこみ上げるような嫌悪感と恐怖に苛まれたが、アメリは生まれ持った性質として痛みをため込むことが得意だったからわざわざ声を上げて痛みに耐えることもなかった。タダ痛みがあるのみ。それはやはり愛だとは思えなかったし、奪われてしまった体の一部は痛みの他にもなにか得体の知れない感情をアメリに孕ませた。
腹にはいくつもタバコの押し付けられた跡が黒々と残っている。この熱はだいぶ
苦しかった。普段はいかなる暴行にも人形のようにしてやり過ごしていたアメリが声をあげて背中を反らせてしまった。男はその反応に喜色満面になって何度もあの快楽の先_と軽い音がして、けれども分かりやすい外傷では無かった。薄く赤くなった右手小指の赤い腫れが見落としてしまいそうな些細な痛みの証拠として存在している。男はまた泣いた。だんだんと赤みと痛みを増していく小指を大事そうにもう一度掴み直して今度は本当に優しく握った。やっぱり意味がわからずにアメリは考えるのを諦めて目を瞑った。
世界の全ては薄い皮膜の外側で行われているようなきがしていた。痛みは確かにあるが、耐えきれないほどではなく、どこか奥行のある、諦めのつく痛みである。アメリの頭の中では十分に世界は処理されていなかった。いや、そうすることで自分を保っていたのかもしれない、
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