みなそこにねむるしろ
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みなそこにねむるしろ
揺籃の中にいるような錯覚を覚えたところで私は目を覚ました。がたんがたんと刻まれる、電車特有の音楽が分厚い睡魔を呼び起こし、透明な膜を作って私を包み込んでいたらしい。眠っていると自覚している夢を見た。
ただ瞼の奥の光りをどこかで感じながら呼吸を繰り返す、日常の中の動作を確認し続ける夢だ。温度はただずっと均一でまるで胎児のような心持ちであった。セルロイドの卵にヒビが入るより簡単に微睡みの膜は裂けて、私の目はいつになく冴えていた。
唇におもむろに指を当てると乾いた感覚が引っかかる。始発駅から終点まで。単調な一本道を文明任せに行く私の旅は漸く真ん中を過ぎたくらいだった。折り良く響いた車内アナウンスは今にもあくびをしそうな壮年のものだった。
向かいの窓をぼうっと見やって、焦点のあっていく感覚に酔いながらそれでも外を見続ける。目が離せなかったのは、どこか既視感を覚えたからだろうか。薄い窓の向こうには光を受けた海面が凪いで広がっている。光は洗ったように澄んで、高い位置から遠慮もなしに降り注ぎ、どこまでも混じり合わない温度をそこに感じた。
シルクのカーテンが秋の日によく見せる風景だった。坂の上にある、家族の待つ家で空気を入れ替えようとすると遠慮がちに金木犀の香りを纏った、夕日の色をした風がふわりと膨らむ。動いているのに止まっている。木造の家は呼吸をするという。築30年の家は私と夫の結婚生活とともに歴史を刻んできた。飴色の床は子供がはしゃいで傷つけることもなくなり、どうしようもなく停滞している。
電車はカーブに差し掛かり、人々の痕跡にあふれた電車の床で照り返した夕日が直接瞳にぶつかって、つんといたむ。今度は、記憶の深いところに覚えのある感覚だった。
胸の奥を実体のない痛みが無邪気に胸のそこで跳ねる。弓矢にも似た鋭い光が目の中でぐるぐると回っていて頭痛を呼び起こした。薄く口元を覆う吐き気の中で、私はこんな光を何度だって見てきたことを炭素になった姉をつよく抱えなおしながら思い出す。
月が腕の中にあるような、曖昧でなけなしの温もりをわたしは感じていた。平日の昼間、都心をすぎて伽藍堂の車内には鉄と鉄の触れ合う音がどこかにとけてはまた生まれ、ひっきりなしになりつづける。疲れているのは電車も同じらしかった。
白い小鳥が線となり流れていった。海は遠く、隔たりを持ったはずなのに潮風の香りを感じた。長いトンネルに入って、とたんに寒々しく蛍光灯が私を照らし出す。黒い服で来なくてよかったと、ただそれだけを風呂敷に包んだ木箱を眺めて一人で思った。喚く車輪の音楽に心が壊されることを求めているのはあの頃の私の幻想だ。
隣で私の傷に触れて微笑んでくれる人などいないこと、私は、本当はわかっていたんだ。
姉は海を嫌っていた。そこにはすべてが眠っていると、姉は私によく言い聞かせていた。けれども町の誰よりも海に親しんでいたのもまた彼女である。彼女は私を守るために全てを飲み込もうとしていたのだった、多分出来ることなら姉は海を飲み干したかったのだろうと思う。父も母もきっと兄もそこに沈んでいったのだ。
姉が口にするのはいつも茶碗の半分にも満たない僅かな米と海産物、私の卓には野菜と豆腐と、そして干しためざしだとかをことことと並べるくせに姉は欠けのある薄桃色の茶碗と刀のように美しい黒塗りの長方形の皿にいつも潮の香りがする食べ物だけを、副菜も置かずにポンと並べる。例えわかめであろうと魚であろうと全部その美しい一枚の皿に絵のように載った。
黒い土を焼いた照りのある長方形の大皿はいつもいちばんに洗われ、使い終わったら洗いざらしの柔らかい木綿に包まれた。彼女にとっては大切な儀式の道具だったから。姉は皿に穴が開きそうなくらいにじろりと目標物を睨めつけて目を鋭くしながら箸をあやつった。サンマをまるまる焼いた時は白くなったその目を睨みながら食いつぶす。流石に貝殻を私達は食すことが出来ないので綺麗に洗って暫く貯めておく。だいぶ集まったなという頃に金槌で細かくして鳥餌に混ぜるのだ。
私たちの住んでいる家の周りで数匹の鶏を共同で管理しており、餌に貝殻を入れると殻が固くなって、荒れる鶏の足が勢い余って卵を割りやしないかと以前より怯えなくて済むようになった。その卵はかわりばんこに貰えたけれどたいてい一個で私達はそれを溶き卵にして半分ずつ食べた。姉は配給で貰った卵は全部私の腹に収めさせたが私たちが作った卵だけはちゃんと食べた。
「ねぇサン、卵、美味しいなぁ」
向日葵のような黄色が椀の中でふわふわと揺れる。闇市で手に入れた味噌を薄く溶いた汁に卵をながしてふわふわにしあげた簡単な汁物だったが、私は嬉しかった。姉と同じものを食べるのは希なことだから。
けれど、姉にとってはそうでもないことなんだと私は知っていた。一緒に食事を食べることより大事なことが、食事を取ることに愛として含まれている。自分の愛を確かめるように何回も繰り返し食べているんだろう。姉の手は冬の寒さにも負けずに一切の皮膚の欠けもなく綺麗な手をしていた。
「あァ…。そやなぁ。」
ぼうっとまたどこかを見つめていた姉にようやく私の声が届いたようで、ふっとこの世に帰ってきたように明らかに取り繕った曖昧な笑みを浮かべてそう答えた。目頭が熱くなる。耳まで熱を持った。私はわざとらしく音を立てて半ば冷めた汁を啜り、姉から目をそらした。すでに椀のそこが透けて見えていたのを全部開けてしまう。
「熱いわァ」
私はちろりと舌をみせておどけてみせて、姉はきいつけてぇやとバラック小屋の四畳半にかわいた笑いを提供する。姉、という存在は彼女にとって消し去ってしまってもいいものなのだ。だから、これは私のわがままだけれども姉にはこの世にいて欲しい。あねも、きっと私の願いを知っているのだ。
私の世界の半分だから。私はゆっくりと、傷の多い椀を唇に当て傾けながら姉を思った。姉は食事にまずいもうまいも言わないでまるごと消費する。そりゃ選り好みできるご時世ではないけれど、姉はたとえ私がたまに夕飯の当番して焼いた魚が炭のようだとしても話の種にもしないで黙々と消費してしまう。
怒りも何にもなく、私の悲しみや私そのものを置き去りにぺろりと食べてしまうのだ。贅沢にも私はそんな姉がこの世でいちばん不幸なんだと思ってしまった。ひりりと舌が痛むような気がして反射的に口を離す。喉の奥で海水がはじけた気がした。苦しくって、たまらない。姉さんは違うんだろうか。姉は私を見てくすりと笑う。
「そんなに焦らんでもあんたの分食べたりせんよ」
あぁ、よかったって私は機械油の染みた手にある器を眺めて思った。
一人また一人と高台に思い思いの家を作る。子供の遊びのような、寄せ集めの家を作るのにみんな必死だった。みんな安心して眠れる場所が欲しかった。
私と姉さんは五つ離れた姉妹で戦争が終わったとき、姉は十七で私は十ニだった。ガタガタとゆれるバラックごやは姉と私で作ったものだ。男手のすっかり絶えた港町で私たちは生きる術を自ら見繕うほかなかった。僅かな資金で手に入るのはそこまで良い土地ではなかったけれど、衣食住足りてこそ、人は本当に人で有れる。寂れた土地を泡銭で買った。
近くには私たちと似たような、息を殺して生きていくべきだとお天道様に嗤われているよう家族ばかりだった。海沿いだけあって光はさんさんと私たちの家々を照らし出すのにいつも静まり返っている。家事をする音も幼子のなく声も誰かにはばかるように響いていたから、耳がいつの間にか聞くことをやめたようだった。
慰めるように波音が響く場所。
母が身投げした岬を南に見上げると眺められる小さな家が漸く完成したときに、姉は鋸で右腕に衝動的に傷をつけてみせた。姉は岬を眺めてぼうっとしながら緩く口元を笑ったようにつくる。流れ出る血が肌の白い彼女の手にまで滴り落ちて地面に黒い痕を円形に遺す。
「ねぇサン…?!」
私は彼女の手に握られていた鋸の柄を払った。もう、何もかも遅いんだけれど。鈍い鋼にも血が纏いつき黒い雨がふっていた。死んでしまった魂が、彼女の中で、生きているはずなのに。いやきっと、だからこそなんだろう。彼女の中で何もかもが鬩ぎ合い叫び合いそうして限界を迎えたんだろう。
「あっ」
目線は交じりあったのに心が通わない。姉は支えを失ったように崩れ落ちて呻き出した。
剥き出しの湿った黒土が彼女のモンペに擦れてしまう。せっかく先日洗ったのに。関係ない言葉が渦のように溢れてくる。その中で私は白い炎の声を見つけた。誰よりも人格者であろうとして人間になり損ねたこの哀れな屍を私は一生愛していこうと決めたのだ。彼女のわがままを総て飲み込むという我儘はもはや彼女の課した私への義務だ。
「ごめん、ごめん」
苦しげに喉の奥で渦をまくその感情が、海から生まれた錆びた鉄釘が、わたしの耳に突き刺さる。私は膝をついて彼女を抱きしめ胸に寄せた。
「ええんよ、ありがとうなぁ」
彼女が欲しい言葉を耳元で注ぎ返した。姉は堰を切ったように私の胸元を濡らし続ける。ふと海の香りが強くなって、私はまた悲しくなった。この戦争で死んだ誰よりも生きている姉が一番に惨めで美しかった。その日から姉は泣かなくなったこと、私はずっと覚えている。新しい姉が生まれたその日は2年前に母の死体が見つかり命日と定めた日の数日前のことだった。
また2年が立って私は13、姉は19になった頃のことだ。私たちの町の近くにはアメリカ軍の基地が作られ、姉はその人達に春を売って生きることに決めた。身入りが良くって大体定められた時間に帰ってくる。布団を2枚敷くときつい四畳半のこの部屋におしろいの匂いとアルコォルの交じった香水の香りがするようになったのは最近のこと。
海に捕らわれた姉の、色素の抜けた髪と焼けにくい私と違う肌質は兵士たち好みらしかった。姉は私に隠そうとするけれどもう何も知らない子供ではない。首元に赤い印がのこっているのは季節外れの虫じゃないなんてことももちろん。私は咎めるつもりなんてさらさらなかったし彼女の正しく生きる術なのだ。世の中に溢れている、職業のひとつ。止まったら死んでしまうのは私も姉も同じだった。
私は歩いて1時間ほどの紡績工場で働きはじめていた。姉は昼頃出かけて夜ぐらいに帰ってくる。私は朝早くから夜まで。顔をきちんと合わせるのは夕食の時くらいになってしまっていた。今晩、毎日機械に触れて爪が削れるのを誇らしいのよと姉に語れば寂しそうにごめんねと笑った。私は業腹の思いに一瞬感情を飲まれたが、これが彼女の愛だったとすぐに思い返す。私も曖昧な笑みを浮かべた。ガス灯が優しく私たちを照らす。ジジっと光が揺れて世界がぶれる。
「なぁ姉さん、」
姉はまだ海とともにある。相変わらず姉の骨は細っていた。姉は化粧を落とし海に入ってきたのだろうか。潮のかおりがする。それにしても最近とれる魚は細くなった。
「うん?」
「膝枕してくれないかな」
姉は虚をつかれたようにしたが嬉しそうにええよと言った。ちゃぶ台替わりの木箱を端によけて、ぽんぽんと軽く膝を叩く。受け入れることに慣れたそんな仕草だった。
姉の膝は暖かく柔らかかった。なるほど、男はこういうのが好きなのか。思い人もいないくせにそう思った。同時にその感情は心に冷たいしずくを落とした。私は姉を姉として見れていない。私は姉になにか、それ以上の欲望をいだいている悟られないようにわざと呼吸を軽く乱して、姉の呼吸に近づける。
私たちは姉妹。この世にたったふたり。わかりあえるもの。そうでしょう?と聞きたくなって見上げた姉の瞳の深さにうろたえる。どこまでも、受け止める、夜の海。二つの瞳は私の見てきたものをいくらつなげても勝てないくらい広くて深くて、暗い。
姉はずっと私の黒いだけでぼさぼさの髪をひっかかりなく撫でている。たまに耳に触れた手は水につけていたようにひんやりとしていたが薄い皮膚の奥には熱がちゃんとあった。
姉の平らな腹が呼吸のたびに起伏するのを頭で感じる。じじっと揺れるガスランプ。供給されるガスのシューっという獣の息を殺したような音が遠くのさざ波と混じって穏やかな雑音になる。
手がゆっくりうなじまで範囲を広げる。頭の中がぞわぞわしてたまらないがふふと笑う呼吸が聞こえてためらった。薄い腹の奥から聞こえる消化音になきそうになる。姉の体はどこまでも私のために動いている。それなのに動かしてやれなくてごめんね、何もできなくてごめんねということすらきっと許されない。それは冒涜だ。やっぱりたまらず声を出す。それが姉との世界で生きていくうえで、ずっと処世術だったのだから。
「くすぐったいよねえさん」
「ええやろ、ちょっとお遊びにつきあいなさいな」
姉はわたしがどんなふうに育ったのか知ろうともしないで輪郭にふわふわ、産毛をつぶさないようになでた。しょうがないなあ、とつぶやいて猫のように撫でられる。たまに伸びをしたり姉の膝に頬をこすりつけたりした。
ゆっくりと悠久のように時間が流れるのを感じていた。そんなこと、あるはずもないのに。ふしぎと眠くはなかったが、肌の感覚はにぶったような気がしていた。だからその穏やかな時間を終わらせた不用意な言葉を出したとき瞬間に毛が逆立った。
「うち、この腹から生まれたかったわァ…」
私は寝返りを打つ。逃げられないように姉の細い腰を精一杯抱き留める。でもごめんなさいはいえなかった。腹に鼻を押し付けながら右手で姉の肩の骨を撫でる。自分の言葉が恍惚とした響きを持っていたことに愕然とした。
どうしようどうしようと慌てふためくほど頭の中で波の音が強く聞こえる。考えはまともに思い浮かぶ前に高くもない波にあっけなく消される。沈黙。私たちの間にいま、どれだけ確からしいものがあるんだろう。真昼の月の様なしこりが波にもまれることもなく、そこに残った
「 ……なにいうとるん、あんたのかあさんも父さんも、にいやんも、みんな世界一やったで。」
先に声を出したのは姉だった。姉の声は咎める、というよりはひたすら悲しみをただよわせるイントネーションを持っていた。
「あぁ…そっかァ。ごめんなぁ。」
橙色の夕陽に似た灯が私たちを静かに照らす。姉は今度は荒い手つきで頭を撫でた。私は全てを知った気になった。喉の奥がくつりと動く。溢れ出たからからと笑う声。姉の服に顔を何度もこすりつけると「あまえたやねえ、もう働いてもいるのに」とけたけたと笑って見せてこの空気に光を指そうとした。私はそれでも顔をあげられなかった。
ある日のことだった。暁、日も登り切る前の事。この辺りの組合長の丹羽さんの家のお嬢ちゃんが家にきた。相変わらず冷めた湯の水面のようになにもかも寒々しく思われる瞳だ。玄関を声もかけずにガラリと開けるその少女は家を出る用意をしていた私にひとつの包みをん、と差し出す。
「なんなん、これ」
少女は何も答えない。正座して応対していた私の手元に押し付けて走って言ってしまった。小さな背中は芯から寒そうだった。黄ばんだ古紙に包まれのはどうやら硬いものらしく軽く振ってみるとカランコロンと金属の音がくぐもって聞こえた。嫌な予感がした。
可愛らしい鐘の音を福音という人がいたとしても私はこれを地獄の音と呼ぼう。耳障りで仕方がない空襲警報とも感覚が似ていた。こわい、こわいと火の溢れる荒野にたつ私が叫ぶ。私は投げるようにしてちゃぶ台に置いた。すっかりそのことを忘れて私は出かけていていった。
工場での仕事を終えて帰ると玄関の前にランプの丸い灯火があった。これは私と姉の、在宅の合図なのだ。私はその光が灯っているのをみて嬉しくなりかけ出す。戸を開ければきっと姉は繕いやら炊事やらをしているのだろうと信じて疑うことは無かった。
喫驚した。木戸の奥は一切の振動もなく、ラムネ瓶に取り残されたガラス玉のようなうら寂しさがあった。姉は卓袱台の前に背筋をピンと伸ばして正座して小包を睨め付けていた。私は頭にキン、とした衝撃を感じて戸にかけていた手をするりと落とす。誤って震わせてしまった木の音が家中に響く。姉は私にようやく気付いて、いつの日にか見た一番嫌いな笑みを浮かべて、おかえりといった。私はうん、とだけ返す。
私は震えそうになる足を必死に抑えながらほぼ頽れるように卓袱台の前に座る。黄ばんだ和紙の上に掠れた朱印が載った包みは、じっと見ずとも軍から届いたものだとわかった。
「姉さん…」
私はすがるような気持ちで姉を見つめたが、彼女はちらりともこちらを見ていない。姉はため息を吐きながら麻紐を綺麗な指で解く。にぶい銀色が現れて姉はひっと呻き軽く飛び退いた。包みの中には睡蓮の花が彫られたシガレットケースが、ひとつ寂しげに眠っていた。一枚の短冊がその下から覗懐かしい兄の名前が浮かんでいたのを私は見 認めた。
が、わたしは悲しいことになんとも思えなかった。兄の痕跡が私たちの中にぐん、と落ちてきたはずなんだろう。それは飲み込みようのない感情に思われた、しかし私の願いは潰えてしまった。私は複雑な他者をさらりと飲み込んでしまう自分という獣に怯えた。
姉は震える手つきでシガレットケースを開けて逆さにした。姉の手のひらに石灰石にも似た物体が落ちる。のちにわかったことにはそれは珊瑚の破片で兄が戦死した島のものだったということだった。
また嫌な予感がする。姉の、姉の手を払わなくちゃなのに。そんな風に思考は身体よりも早く動くのにどうにも麻痺して繋がらない。がりっ。こぎみのいい音がしてしまった。生活の壊れる、何より恐れた音だった
「あぁっ」
叫んだのは意外にも姉だった。悦びにも絶望にも聞こえる声が聞こえた後に乾いたすすり泣きがくぐもって響く。
ぷちんと、張り詰めた焦りの切れる音。私からも疲れたように涙が溢れる。一番嫌いな臭いが私からする。がらがらと振動する私の視界の中の姉は泣いた目を擦って、青ざめた私の顔を見てどこか幸せそうに微笑んでいた。終わってしまったのだ、とおもう。
崩れ落ちる私の積み重ねが嘲笑うように音を立てて頭の中を震わせ続ける。振動が私をかき混ぜて嗚咽混じりの涙を加速させる。姉は、今度こそ本当に音を立てて笑った。
姉はひとしきり腹の底から笑い終えると腹を撫でて「おなか、すいたねぇ」と呟いた。本当に何気なく、小さな家の灰色のあかりの中で照らされることも無く、隙間風に攫われてしまうような生活の一要素だった。水たまりに落ちた雨が跳ね上がるのと同じように、本当にごく当たり前でそれでも世界は揺れるのだった。姉にとって食事はもう、儀式ではないらしかった。
「今日は肉でも食べよか。市にいってくるわ、あんたは……まだここにいとき」
姉の口調は他人が聞けば何も切り裂かない優しいものだった。しかし今までの臆病な狂気を含んだものとは、確かに変わっていた。またひとしずく零れ落ちた私の涙を見て姉はうっそりと笑う。
「や。わたしも、いく」
悔しかった。気づけば喉がきゅうきゅう鳴るところを押し広げて私は声を出していた程に。姉は驚きもなく「そう」と言うと私に背を向けて玄関へと歩んで行った。
私はそのあとを追いかける。走ることは出来なかった。涙が私の力をゆっくりと削いでいったから、もうだいぶ疲れてしまっていたのだ。足下の畳は少し湿っていた。こんなにも泣いていたのに苦しみはどこにも抜けていっておらず、むしろ胸の中にあった苦しみを浮き彫りにさせてしまった。
終わってしまった。あれだけ大切に守ってきた私の姉が、こんなにも単純に変えられてしまった。それは戦争が終わった日の玉音よりはるかにあっけなく絶望的な、だれにも訴えようのない敗北の気持ちを私に与えたのだった。
揺籃の中にいるような錯覚を覚えたところで私は目を覚ました。がたんがたんと刻まれる、電車特有の音楽が分厚い睡魔を呼び起こし、透明な膜を作って私を包み込んでいたらしい。眠っていると自覚している夢を見た。
ただ瞼の奥の光りをどこかで感じながら呼吸を繰り返す、日常の中の動作を確認し続ける夢だ。温度はただずっと均一でまるで胎児のような心持ちであった。セルロイドの卵にヒビが入るより簡単に微睡みの膜は裂けて、私の目はいつになく冴えていた。
唇におもむろに指を当てると乾いた感覚が引っかかる。始発駅から終点まで。単調な一本道を文明任せに行く私の旅は漸く真ん中を過ぎたくらいだった。折り良く響いた車内アナウンスは今にもあくびをしそうな壮年のものだった。
向かいの窓をぼうっと見やって、焦点のあっていく感覚に酔いながらそれでも外を見続ける。目が離せなかったのは、どこか既視感を覚えたからだろうか。薄い窓の向こうには光を受けた海面が凪いで広がっている。光は洗ったように澄んで、高い位置から遠慮もなしに降り注ぎ、どこまでも混じり合わない温度をそこに感じた。
シルクのカーテンが秋の日によく見せる風景だった。坂の上にある、家族の待つ家で空気を入れ替えようとすると遠慮がちに金木犀の香りを纏った、夕日の色をした風がふわりと膨らむ。動いているのに止まっている。木造の家は呼吸をするという。築30年の家は私と夫の結婚生活とともに歴史を刻んできた。飴色の床は子供がはしゃいで傷つけることもなくなり、どうしようもなく停滞している。
電車はカーブに差し掛かり、人々の痕跡にあふれた電車の床で照り返した夕日が直接瞳にぶつかって、つんといたむ。今度は、記憶の深いところに覚えのある感覚だった。
胸の奥を実体のない痛みが無邪気に胸のそこで跳ねる。弓矢にも似た鋭い光が目の中でぐるぐると回っていて頭痛を呼び起こした。薄く口元を覆う吐き気の中で、私はこんな光を何度だって見てきたことを炭素になった姉をつよく抱えなおしながら思い出す。
月が腕の中にあるような、曖昧でなけなしの温もりをわたしは感じていた。平日の昼間、都心をすぎて伽藍堂の車内には鉄と鉄の触れ合う音がどこかにとけてはまた生まれ、ひっきりなしになりつづける。疲れているのは電車も同じらしかった。
白い小鳥が線となり流れていった。海は遠く、隔たりを持ったはずなのに潮風の香りを感じた。長いトンネルに入って、とたんに寒々しく蛍光灯が私を照らし出す。黒い服で来なくてよかったと、ただそれだけを風呂敷に包んだ木箱を眺めて一人で思った。喚く車輪の音楽に心が壊されることを求めているのはあの頃の私の幻想だ。
隣で私の傷に触れて微笑んでくれる人などいないこと、私は、本当はわかっていたんだ。
姉は海を嫌っていた。そこにはすべてが眠っていると、姉は私によく言い聞かせていた。けれども町の誰よりも海に親しんでいたのもまた彼女である。彼女は私を守るために全てを飲み込もうとしていたのだった、多分出来ることなら姉は海を飲み干したかったのだろうと思う。父も母もきっと兄もそこに沈んでいったのだ。
姉が口にするのはいつも茶碗の半分にも満たない僅かな米と海産物、私の卓には野菜と豆腐と、そして干しためざしだとかをことことと並べるくせに姉は欠けのある薄桃色の茶碗と刀のように美しい黒塗りの長方形の皿にいつも潮の香りがする食べ物だけを、副菜も置かずにポンと並べる。例えわかめであろうと魚であろうと全部その美しい一枚の皿に絵のように載った。
黒い土を焼いた照りのある長方形の大皿はいつもいちばんに洗われ、使い終わったら洗いざらしの柔らかい木綿に包まれた。彼女にとっては大切な儀式の道具だったから。姉は皿に穴が開きそうなくらいにじろりと目標物を睨めつけて目を鋭くしながら箸をあやつった。サンマをまるまる焼いた時は白くなったその目を睨みながら食いつぶす。流石に貝殻を私達は食すことが出来ないので綺麗に洗って暫く貯めておく。だいぶ集まったなという頃に金槌で細かくして鳥餌に混ぜるのだ。
私たちの住んでいる家の周りで数匹の鶏を共同で管理しており、餌に貝殻を入れると殻が固くなって、荒れる鶏の足が勢い余って卵を割りやしないかと以前より怯えなくて済むようになった。その卵はかわりばんこに貰えたけれどたいてい一個で私達はそれを溶き卵にして半分ずつ食べた。姉は配給で貰った卵は全部私の腹に収めさせたが私たちが作った卵だけはちゃんと食べた。
「ねぇサン、卵、美味しいなぁ」
向日葵のような黄色が椀の中でふわふわと揺れる。闇市で手に入れた味噌を薄く溶いた汁に卵をながしてふわふわにしあげた簡単な汁物だったが、私は嬉しかった。姉と同じものを食べるのは希なことだから。
けれど、姉にとってはそうでもないことなんだと私は知っていた。一緒に食事を食べることより大事なことが、食事を取ることに愛として含まれている。自分の愛を確かめるように何回も繰り返し食べているんだろう。姉の手は冬の寒さにも負けずに一切の皮膚の欠けもなく綺麗な手をしていた。
「あァ…。そやなぁ。」
ぼうっとまたどこかを見つめていた姉にようやく私の声が届いたようで、ふっとこの世に帰ってきたように明らかに取り繕った曖昧な笑みを浮かべてそう答えた。目頭が熱くなる。耳まで熱を持った。私はわざとらしく音を立てて半ば冷めた汁を啜り、姉から目をそらした。すでに椀のそこが透けて見えていたのを全部開けてしまう。
「熱いわァ」
私はちろりと舌をみせておどけてみせて、姉はきいつけてぇやとバラック小屋の四畳半にかわいた笑いを提供する。姉、という存在は彼女にとって消し去ってしまってもいいものなのだ。だから、これは私のわがままだけれども姉にはこの世にいて欲しい。あねも、きっと私の願いを知っているのだ。
私の世界の半分だから。私はゆっくりと、傷の多い椀を唇に当て傾けながら姉を思った。姉は食事にまずいもうまいも言わないでまるごと消費する。そりゃ選り好みできるご時世ではないけれど、姉はたとえ私がたまに夕飯の当番して焼いた魚が炭のようだとしても話の種にもしないで黙々と消費してしまう。
怒りも何にもなく、私の悲しみや私そのものを置き去りにぺろりと食べてしまうのだ。贅沢にも私はそんな姉がこの世でいちばん不幸なんだと思ってしまった。ひりりと舌が痛むような気がして反射的に口を離す。喉の奥で海水がはじけた気がした。苦しくって、たまらない。姉さんは違うんだろうか。姉は私を見てくすりと笑う。
「そんなに焦らんでもあんたの分食べたりせんよ」
あぁ、よかったって私は機械油の染みた手にある器を眺めて思った。
一人また一人と高台に思い思いの家を作る。子供の遊びのような、寄せ集めの家を作るのにみんな必死だった。みんな安心して眠れる場所が欲しかった。
私と姉さんは五つ離れた姉妹で戦争が終わったとき、姉は十七で私は十ニだった。ガタガタとゆれるバラックごやは姉と私で作ったものだ。男手のすっかり絶えた港町で私たちは生きる術を自ら見繕うほかなかった。僅かな資金で手に入るのはそこまで良い土地ではなかったけれど、衣食住足りてこそ、人は本当に人で有れる。寂れた土地を泡銭で買った。
近くには私たちと似たような、息を殺して生きていくべきだとお天道様に嗤われているよう家族ばかりだった。海沿いだけあって光はさんさんと私たちの家々を照らし出すのにいつも静まり返っている。家事をする音も幼子のなく声も誰かにはばかるように響いていたから、耳がいつの間にか聞くことをやめたようだった。
慰めるように波音が響く場所。
母が身投げした岬を南に見上げると眺められる小さな家が漸く完成したときに、姉は鋸で右腕に衝動的に傷をつけてみせた。姉は岬を眺めてぼうっとしながら緩く口元を笑ったようにつくる。流れ出る血が肌の白い彼女の手にまで滴り落ちて地面に黒い痕を円形に遺す。
「ねぇサン…?!」
私は彼女の手に握られていた鋸の柄を払った。もう、何もかも遅いんだけれど。鈍い鋼にも血が纏いつき黒い雨がふっていた。死んでしまった魂が、彼女の中で、生きているはずなのに。いやきっと、だからこそなんだろう。彼女の中で何もかもが鬩ぎ合い叫び合いそうして限界を迎えたんだろう。
「あっ」
目線は交じりあったのに心が通わない。姉は支えを失ったように崩れ落ちて呻き出した。
剥き出しの湿った黒土が彼女のモンペに擦れてしまう。せっかく先日洗ったのに。関係ない言葉が渦のように溢れてくる。その中で私は白い炎の声を見つけた。誰よりも人格者であろうとして人間になり損ねたこの哀れな屍を私は一生愛していこうと決めたのだ。彼女のわがままを総て飲み込むという我儘はもはや彼女の課した私への義務だ。
「ごめん、ごめん」
苦しげに喉の奥で渦をまくその感情が、海から生まれた錆びた鉄釘が、わたしの耳に突き刺さる。私は膝をついて彼女を抱きしめ胸に寄せた。
「ええんよ、ありがとうなぁ」
彼女が欲しい言葉を耳元で注ぎ返した。姉は堰を切ったように私の胸元を濡らし続ける。ふと海の香りが強くなって、私はまた悲しくなった。この戦争で死んだ誰よりも生きている姉が一番に惨めで美しかった。その日から姉は泣かなくなったこと、私はずっと覚えている。新しい姉が生まれたその日は2年前に母の死体が見つかり命日と定めた日の数日前のことだった。
また2年が立って私は13、姉は19になった頃のことだ。私たちの町の近くにはアメリカ軍の基地が作られ、姉はその人達に春を売って生きることに決めた。身入りが良くって大体定められた時間に帰ってくる。布団を2枚敷くときつい四畳半のこの部屋におしろいの匂いとアルコォルの交じった香水の香りがするようになったのは最近のこと。
海に捕らわれた姉の、色素の抜けた髪と焼けにくい私と違う肌質は兵士たち好みらしかった。姉は私に隠そうとするけれどもう何も知らない子供ではない。首元に赤い印がのこっているのは季節外れの虫じゃないなんてことももちろん。私は咎めるつもりなんてさらさらなかったし彼女の正しく生きる術なのだ。世の中に溢れている、職業のひとつ。止まったら死んでしまうのは私も姉も同じだった。
私は歩いて1時間ほどの紡績工場で働きはじめていた。姉は昼頃出かけて夜ぐらいに帰ってくる。私は朝早くから夜まで。顔をきちんと合わせるのは夕食の時くらいになってしまっていた。今晩、毎日機械に触れて爪が削れるのを誇らしいのよと姉に語れば寂しそうにごめんねと笑った。私は業腹の思いに一瞬感情を飲まれたが、これが彼女の愛だったとすぐに思い返す。私も曖昧な笑みを浮かべた。ガス灯が優しく私たちを照らす。ジジっと光が揺れて世界がぶれる。
「なぁ姉さん、」
姉はまだ海とともにある。相変わらず姉の骨は細っていた。姉は化粧を落とし海に入ってきたのだろうか。潮のかおりがする。それにしても最近とれる魚は細くなった。
「うん?」
「膝枕してくれないかな」
姉は虚をつかれたようにしたが嬉しそうにええよと言った。ちゃぶ台替わりの木箱を端によけて、ぽんぽんと軽く膝を叩く。受け入れることに慣れたそんな仕草だった。
姉の膝は暖かく柔らかかった。なるほど、男はこういうのが好きなのか。思い人もいないくせにそう思った。同時にその感情は心に冷たいしずくを落とした。私は姉を姉として見れていない。私は姉になにか、それ以上の欲望をいだいている悟られないようにわざと呼吸を軽く乱して、姉の呼吸に近づける。
私たちは姉妹。この世にたったふたり。わかりあえるもの。そうでしょう?と聞きたくなって見上げた姉の瞳の深さにうろたえる。どこまでも、受け止める、夜の海。二つの瞳は私の見てきたものをいくらつなげても勝てないくらい広くて深くて、暗い。
姉はずっと私の黒いだけでぼさぼさの髪をひっかかりなく撫でている。たまに耳に触れた手は水につけていたようにひんやりとしていたが薄い皮膚の奥には熱がちゃんとあった。
姉の平らな腹が呼吸のたびに起伏するのを頭で感じる。じじっと揺れるガスランプ。供給されるガスのシューっという獣の息を殺したような音が遠くのさざ波と混じって穏やかな雑音になる。
手がゆっくりうなじまで範囲を広げる。頭の中がぞわぞわしてたまらないがふふと笑う呼吸が聞こえてためらった。薄い腹の奥から聞こえる消化音になきそうになる。姉の体はどこまでも私のために動いている。それなのに動かしてやれなくてごめんね、何もできなくてごめんねということすらきっと許されない。それは冒涜だ。やっぱりたまらず声を出す。それが姉との世界で生きていくうえで、ずっと処世術だったのだから。
「くすぐったいよねえさん」
「ええやろ、ちょっとお遊びにつきあいなさいな」
姉はわたしがどんなふうに育ったのか知ろうともしないで輪郭にふわふわ、産毛をつぶさないようになでた。しょうがないなあ、とつぶやいて猫のように撫でられる。たまに伸びをしたり姉の膝に頬をこすりつけたりした。
ゆっくりと悠久のように時間が流れるのを感じていた。そんなこと、あるはずもないのに。ふしぎと眠くはなかったが、肌の感覚はにぶったような気がしていた。だからその穏やかな時間を終わらせた不用意な言葉を出したとき瞬間に毛が逆立った。
「うち、この腹から生まれたかったわァ…」
私は寝返りを打つ。逃げられないように姉の細い腰を精一杯抱き留める。でもごめんなさいはいえなかった。腹に鼻を押し付けながら右手で姉の肩の骨を撫でる。自分の言葉が恍惚とした響きを持っていたことに愕然とした。
どうしようどうしようと慌てふためくほど頭の中で波の音が強く聞こえる。考えはまともに思い浮かぶ前に高くもない波にあっけなく消される。沈黙。私たちの間にいま、どれだけ確からしいものがあるんだろう。真昼の月の様なしこりが波にもまれることもなく、そこに残った
「 ……なにいうとるん、あんたのかあさんも父さんも、にいやんも、みんな世界一やったで。」
先に声を出したのは姉だった。姉の声は咎める、というよりはひたすら悲しみをただよわせるイントネーションを持っていた。
「あぁ…そっかァ。ごめんなぁ。」
橙色の夕陽に似た灯が私たちを静かに照らす。姉は今度は荒い手つきで頭を撫でた。私は全てを知った気になった。喉の奥がくつりと動く。溢れ出たからからと笑う声。姉の服に顔を何度もこすりつけると「あまえたやねえ、もう働いてもいるのに」とけたけたと笑って見せてこの空気に光を指そうとした。私はそれでも顔をあげられなかった。
ある日のことだった。暁、日も登り切る前の事。この辺りの組合長の丹羽さんの家のお嬢ちゃんが家にきた。相変わらず冷めた湯の水面のようになにもかも寒々しく思われる瞳だ。玄関を声もかけずにガラリと開けるその少女は家を出る用意をしていた私にひとつの包みをん、と差し出す。
「なんなん、これ」
少女は何も答えない。正座して応対していた私の手元に押し付けて走って言ってしまった。小さな背中は芯から寒そうだった。黄ばんだ古紙に包まれのはどうやら硬いものらしく軽く振ってみるとカランコロンと金属の音がくぐもって聞こえた。嫌な予感がした。
可愛らしい鐘の音を福音という人がいたとしても私はこれを地獄の音と呼ぼう。耳障りで仕方がない空襲警報とも感覚が似ていた。こわい、こわいと火の溢れる荒野にたつ私が叫ぶ。私は投げるようにしてちゃぶ台に置いた。すっかりそのことを忘れて私は出かけていていった。
工場での仕事を終えて帰ると玄関の前にランプの丸い灯火があった。これは私と姉の、在宅の合図なのだ。私はその光が灯っているのをみて嬉しくなりかけ出す。戸を開ければきっと姉は繕いやら炊事やらをしているのだろうと信じて疑うことは無かった。
喫驚した。木戸の奥は一切の振動もなく、ラムネ瓶に取り残されたガラス玉のようなうら寂しさがあった。姉は卓袱台の前に背筋をピンと伸ばして正座して小包を睨め付けていた。私は頭にキン、とした衝撃を感じて戸にかけていた手をするりと落とす。誤って震わせてしまった木の音が家中に響く。姉は私にようやく気付いて、いつの日にか見た一番嫌いな笑みを浮かべて、おかえりといった。私はうん、とだけ返す。
私は震えそうになる足を必死に抑えながらほぼ頽れるように卓袱台の前に座る。黄ばんだ和紙の上に掠れた朱印が載った包みは、じっと見ずとも軍から届いたものだとわかった。
「姉さん…」
私はすがるような気持ちで姉を見つめたが、彼女はちらりともこちらを見ていない。姉はため息を吐きながら麻紐を綺麗な指で解く。にぶい銀色が現れて姉はひっと呻き軽く飛び退いた。包みの中には睡蓮の花が彫られたシガレットケースが、ひとつ寂しげに眠っていた。一枚の短冊がその下から覗懐かしい兄の名前が浮かんでいたのを私は見 認めた。
が、わたしは悲しいことになんとも思えなかった。兄の痕跡が私たちの中にぐん、と落ちてきたはずなんだろう。それは飲み込みようのない感情に思われた、しかし私の願いは潰えてしまった。私は複雑な他者をさらりと飲み込んでしまう自分という獣に怯えた。
姉は震える手つきでシガレットケースを開けて逆さにした。姉の手のひらに石灰石にも似た物体が落ちる。のちにわかったことにはそれは珊瑚の破片で兄が戦死した島のものだったということだった。
また嫌な予感がする。姉の、姉の手を払わなくちゃなのに。そんな風に思考は身体よりも早く動くのにどうにも麻痺して繋がらない。がりっ。こぎみのいい音がしてしまった。生活の壊れる、何より恐れた音だった
「あぁっ」
叫んだのは意外にも姉だった。悦びにも絶望にも聞こえる声が聞こえた後に乾いたすすり泣きがくぐもって響く。
ぷちんと、張り詰めた焦りの切れる音。私からも疲れたように涙が溢れる。一番嫌いな臭いが私からする。がらがらと振動する私の視界の中の姉は泣いた目を擦って、青ざめた私の顔を見てどこか幸せそうに微笑んでいた。終わってしまったのだ、とおもう。
崩れ落ちる私の積み重ねが嘲笑うように音を立てて頭の中を震わせ続ける。振動が私をかき混ぜて嗚咽混じりの涙を加速させる。姉は、今度こそ本当に音を立てて笑った。
姉はひとしきり腹の底から笑い終えると腹を撫でて「おなか、すいたねぇ」と呟いた。本当に何気なく、小さな家の灰色のあかりの中で照らされることも無く、隙間風に攫われてしまうような生活の一要素だった。水たまりに落ちた雨が跳ね上がるのと同じように、本当にごく当たり前でそれでも世界は揺れるのだった。姉にとって食事はもう、儀式ではないらしかった。
「今日は肉でも食べよか。市にいってくるわ、あんたは……まだここにいとき」
姉の口調は他人が聞けば何も切り裂かない優しいものだった。しかし今までの臆病な狂気を含んだものとは、確かに変わっていた。またひとしずく零れ落ちた私の涙を見て姉はうっそりと笑う。
「や。わたしも、いく」
悔しかった。気づけば喉がきゅうきゅう鳴るところを押し広げて私は声を出していた程に。姉は驚きもなく「そう」と言うと私に背を向けて玄関へと歩んで行った。
私はそのあとを追いかける。走ることは出来なかった。涙が私の力をゆっくりと削いでいったから、もうだいぶ疲れてしまっていたのだ。足下の畳は少し湿っていた。こんなにも泣いていたのに苦しみはどこにも抜けていっておらず、むしろ胸の中にあった苦しみを浮き彫りにさせてしまった。
終わってしまった。あれだけ大切に守ってきた私の姉が、こんなにも単純に変えられてしまった。それは戦争が終わった日の玉音よりはるかにあっけなく絶望的な、だれにも訴えようのない敗北の気持ちを私に与えたのだった。
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