寝覚めの悪い朝ごはん
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「墓参りにいこうか」。
夏休みが終わって数日後の日曜日、朝ごはんにソーダ味の棒アイスをかじりながら生暖かいキッチンを脱してダイニングへ入ると焦れたように、けれど切り口鮮やかに父がそういった。
咥えていたアイスはぼとりと私の体から離れ、フローリングに落ちた。慌てて拾う私の姿にクスクス父は笑ってた。
それに続けて、起き抜けに体を冷やすのはよくないよ、と父は言葉を続ける。小説家だから言葉を使い惜しみするかといえばそうでもない父は、云うだけ言って一人掛けのソファから動こうとはしない。
一日の大半をそう過ごす父はいつ仕事をしているのか知らないが、でもなんだかんだ片親で子供を中高一貫校に入れてしまうぐらいだからかなり売れているのだろう。でもこんな人全然尊敬に値しないのに。
私は一度クーラーの利いたダイニングを出て、キッチンに逆戻りした。蛇口をひねり水が流れる。シンクにたたきつけられていた水圧にアイスを差し込んで曲げる。ばしゃばしゃと水が跳ねてその部分が水色に見える。
しゃくり、と水でコーティングされたアイスの音は変わる。だがそれでもアイスだ。冷たい、感覚を取り戻すもの。私は鈍い音をダイニングへ続く生ぬるい空気の廊下で数度たてて、もどかしさを咀嚼しきった。手元にはアイスの棒だけが残る。
ドアを開けてゴミ箱に湿った気の棒を投げ入れた。私はソファに体を預け切った父の後ろに立つ。食事もいつも横並びでとる。きっかけは覚えていない。何か些細なことだったような気もするし、大きなことだったかもしれない。
「今までそんなこと言わなかったじゃん。どうしたの」
母が死んで、今年で十一年。墓参りという単語を父が出したのは母が死んで初めてのことだった。私は母が死んでから今日まで一人で八駅向こうの海の見える墓まで月に一回は欠かさず通っていた。今月はもう行った。いつもと変わらず潮風とウミネコのなく声のうるさい場所だった。父が母の霊園までたどり着けても墓の場所を知っているかすら怪しい、と私は思う。
「うん、でも行きたくなったんだ。センリと一緒に」
「ふーん」
「何か不満かい」
不満って程のことはない。父が亡くなった母の墓参りをするなんてころほど自然なことはないんじゃなかろうかってくらいの話で、それは喜ぶべき傾向なのではないだろうか。不満というか、なんで私が必要なのだろうという不可解さがあった。私たちは一人ひとりこの家の中で一緒に暮らしていただけのことじゃないのだろうか。
母という共通のつながりがあっての、私たちはたぶん共通の痛みを持ち合わせているわけではなかった。ただ私たちはそういう縁があったからここにいるだけであったはずだった。
「ねえ父さん。なにかいいことでもあった、」
父は首をゆっくりと動かしじろり、と眼鏡の奥から私を見据えていた。背筋が弾かれたように息が詰まる。
「墓に行くのかい、行かないのかい。答えなさい」
「いくよ、いくけどさぁ……ぁ」
思いだした。父の瞳が苦手になった時のこと。それは授業参観だった。参観日の父の瞳は幼心に怖かった。普段、薄く細めて柔らかい感じの父が鋭い目をして、私を、見ていた。
私を見定めようとしていた。うちの子がどんな風だろう、という柔らかい不安や好奇心とは程遠いそんな目。今時面接官でももう少し柔らかい物腰である。
「出発は二時間後」
声をかけられてようやく今に帰ってきた私と父の視線がまじりあうことなく、私の瞳は少し白髪の混じる側頭部を眺めていた。
「車で行くよ。どんな服でもいい。ああでも、ジーンズはやめた方がいいんじゃないかなあ」
金属音を立ててポケットから入り組んだ刻印の入ったキーを取り出した。キーホルダーにはそのごってりとした金属とよくなじむ深い青の球体がついていた。
家の近くの駐車場に止められている骨董車は父のものだったのかと心底驚いたが、この暑い中駅まで歩く必要がないのはありがたいことだったので私は服を着替え、ライターと線香をこの間セールで買ったカバンに放り込んでメイクをした。
墓に車で行くのは初めてだった。家をでてずーっと左の方へ行くと墓があるとなんとなく理解はしていたが、車で向かうと初めに左へ向かってからずっとまっすぐその道をたどっていく。その間、会話はなかった。もちろんカーナビもないから器械音声もない。ただ眠くなるようなクラシックをカーステレオから響かせるおんぼろの車と親子が予想外にスムーズにタイヤを転がしていた。
おんぼろ、といっても車の中はこぎれいなものだった。埃が隅にすこしあるくらいで黴臭くもない。清潔な空間だった。父がこの車を掃除している姿を想像できないが、車を丁寧に、しかもこんな古い車を、扱うなんて昔の男っぽいところがあるのだと納得した。
見慣れた水平線が見えてきたとき私は花を買っていないことを思い出した。何分急だったからすっぽ抜けていた。母はかなり花が好きで思い出の中だと小花柄のワンピースを身にまとっている。いつもは前日に母が好きそうな花を買っておくのだ。
「花屋があったら止めて」
数百メートル先にちょうどよく花屋があった。色褪せたビニール屋根のこじんまりとした花屋である。いつもは墓と駅とたまに駅前のスタバによって帰るだけでこんなところに花屋があるなんて知らなかった。
カチコチ、時計の針のようなランプが点滅をする音がして車は道の端に緩やかに停車した。私はいそいそと車を出て道の向かいの花屋へ急いだ。
花屋の中は淡い花の香りに満ちていた。店内にいくつも並んだ金属のバケツに花が各々無造作に活けられているように見えた。
店は小さい四角形の寄せ集めだった。壁に沿ってタイルを敷き詰めた棚があり、またその中に花がみな顔をうつむかせて買われるのを待っている。折り紙で作ることができそうな単純な、それでいくつも表層を重ねた溶けあわないそれらが強制的にそこに生きながらえていた。
瑞々しいはずのそれらは店の雰囲気にのまれてか、色が薄くあせ、平坦に乾いた質感がそこにあった。新鮮な香りは私の体にこうも訴えかけるのに目の前にある命の塊は生も死も同じ事と完全にあきらめきっている。
私は完全に退色しきった自分の薄茶色の髪を指に絡めた。皮膚に硬くつつく髪の感覚とは別にゆずの香りのハンドクリームが香った。くるくる人差し指に巻き付けた髪を離して私は花を選ぶことに戻った。
気づいたことに、こんな生活に根付いた店らしいのに仏花はなかった。もっと言えば季節感がなかった。子供の描く「お花屋さん」のように無意識にすき好んだ花だけがそこにあるのではないかと思う。
私はそこで青い花を見つけた。日焼けした写真の中の、海のかけら。何度となくみた母が海を背景に微笑んでいる写真に良く似ていた。心がひかれる、とは違った。何か記憶の深いところに触ってくる、ざわめきの発端であり、同時に記憶のひとピースであった。
ふいに人の気配を背中に感じた。振り向くより先に声をかけられる。それは父だった。ゆるく腕を組んで、私を見下ろしている。
「かわないのかい」
「うん」
目をそらしたその先に、カスミソウがあった。私はそれを一束選らんで店の奥のレジへ向かった。新聞紙にくるまれたカスミソウは地面に体を預けた雪と同じだった。溶けずにずっとそこにあるのが痛々しいくらいだ。
「さき、車戻るね」
父はうなずいて「カギはそのままだから」といった。エンジンがかかったままだったはずの車の中はクーラーが全然きいていなかった。窓を開けて線路越しに海を見ていると赤いものを抱えて父が帰ってきた。
それはバラだった。赤いバラに赤いリボンと薄い白の布のデコレーション。あの店に本当にあったのかと思うくらい瑞々しく艶やかなベルベットの花びらを持ち合わせていた。
「またどでかいのをかったね」
後部座席にやさしく花を置いた父はシートベルトを着けながら
「言葉遣い」
と注意して、それから「ロマンチックだろう」といった。
「うん」
けど母さんはバラは好きじゃなかったよ。
「一緒に買えばよかったのに」
「こどもにかっこつけてるところを見られるのは恥ずかしいだろう」
「いまみせてるじゃん」
変なとこ繊細で、大胆なんだよな。父は何も言わずにアクセルをゆっくり踏み始め、私たちは再び霊園への道を進んだ。
墓はこの間来たばっかりだったから、そこそこにきれいだった。しかし花は枯れ、水も乾いている。意外なことに父は迷わずに先を歩き母の墓前でぽつねんとしていた。
「伊井弥家之墓」
つるつるした石に刻まれたおおざっぱな文字。文字の中に薄く苔が巣食い、ざらざらとした空間を作っていた。改めてまじまじと見ると汚れがある。桶に水を汲んで掃除を始めた。
掃除をしながら私は母に心のなかで話しかける。父はその間突っ立っていた。でも、怖くはなかった。
ねえかあさん、父さんが来たよ。私が小学生の時に一回来ただけだったのに覚えてた。すごいね。母さんは父さんのこと、まってた?石は答えない。それで、いいのだ。
一通り終えて、私はバッグから線香とライターを取り出し慣れた手つきでライターから火を出す。海風で風を遮りながらじっと線香の端に火をつけて束の半分を、父に渡した。
するといぶかしげにしている父の瞳とかち合った。
「センリお前煙草とかやってないだろうね」
思わず私は噴き出す。
「やってないよ。火で遊ぶ時期じゃないし。なんでそんなことになんの」
「墓の前だからね。健康について気を付けてもらいたいんだ」
「父さんが墓に来ないからじゃん。授業参観にはくるくせに」
「授業参観、懐かしいひびきだね」
灰が落ちる。ゆっくり煙が昇る。青い空の、白い雲に吸い込まれる前に煙は消える。
「おまえはいつもばかだったなあ」
父の瞳は空を見ている。決して私たちの視線は交じり合わなかった。
「いや、センリの頑張りはいつも空回るんだ。目立ちたいわけじゃないが、発見されたい。多分僕たちに。あの狭い教室の中で、埋まりそうなほど弱いお前の個性を何か別の、誰かの個性と一緒くたになろうとして、お前はいつも間違える。間違った解釈、お前は変になろうとする」
「そんなふうにみてたの」
怒りというにはあまりにもさらっとした、それでいて確かな振動が私の中に届いた。父は目線をようやくこちらに遣り、至極当然そうに二の句を継ぐ。
「自分の子供が、どんなふうにしているか気になるだろう」
「人間観察が趣味なんだっけお父さんは」
人間観察というにはあまりに冷徹で好奇心というよりは猜疑心に近いものを感じていた私は言葉を突き返すつもりでそう言った。けれどもそんなことに父は気づかない。微笑んでいる。
「よく覚えていたね。前何かの雑誌で答えたな。それを見たのかい」
「違う。小学生のときの宿題」
「ああ個性を表すための、自己紹介ね」
「ああよく覚えてる。覚えてないことなんてきっとないさ」
父はくだらないウソをつく。そう思った。
「そういえばバラは、」
「彼女はバラなんか好きじゃなかったろう。車だよ」
帰りに寄りたいところがあるんだよ、と空っぽになった桶の中でひしゃくをからころ言わせながら父はそう言った。
「このもう少し先のカフェー。緑色の屋根のところ。覚えているかい」
言ったことがあるかではなく、覚えているかを尋ねられて驚く。
「この街に所縁なんてあったっけ、」
「ゆかりってお前、小四まではこの街で暮らしていたじゃないか」
そうだっけ、そんなような気もする。確かに母が死んで数年後、引っ越しをして転校して今の一貫校に編入した。思い出に潮風の香りは少しもかからない。幼いころの、十一歳から下の思い出は薄らぼんやりとしている。父は言葉で私の記憶の輪郭を作ろうとしてくる。
「お前はホットケーキとメロンソーダを頼んだ。俺はビーフシチューを食べた。ほら、授業参観の帰り」
「違う、私が頼んだのはチョコレートパフェ。生クリームがちゃんと牛乳の味がするやつ」
思い出の中の授業参観に母は不在で、いつも父がクラスメイトの父母の中で溶けあわない冷たい目をしていた。でも帰りにおいしいものを食べたような気がする。
じゃ父はだれとホットケーキとメロンソーダを目の前に置いたのだろう。私はもうすでにそのころから彼の目の前でご飯を食べるのが怖かったはずだ。
記憶に誰かの影が落ちているのに気づく。小さな影。当時の私と同じくらいの、影。子供っぽいメニュウ。大人びた少女。
ふいに父の声が耳をかすめた。声は前の方に通る。
「まやさん」
まやさん、まやちゃん。ああそんな名前だった。
奥田摩耶。
小学校の教室でひとりぼっちでいようとする私に寄り添っていた女の子。長い前髪におさげのテンプレートにじみ目な女の子。ミステリアスそうで、何かを抱えているわけでもない浅い、お揃いを持ちたがるようなどこにでもいる子。彼女から始まる物語がいくつあってもおかしくはない、そんな平凡さだった。
霊園の出口、彼女は立っていた。影を陽炎のように伸ばすのは、長い髪がほどかれ潮風に揺れるからだ。麦わら帽子に白いワンピース。不健康に青白い肌。「これから失われるもの」の完ぺきなコスプレ衣装。眼鏡の奥で瞳を細めて、笑ってる。
「こんにちは」
これは彼女なりの宣戦布告なのかもしれない。私は悟りきった気になって、ずいぶんなめられたものだなあとだけ思った。それだけだった。それからすっかり凪いでいた。
「これからレストランにいくのは、彼女もいっしょ?私がいていいの、」
「もちろん。俺たち、家族になる、んだから」
私は先月十八歳になった。父親にはロマンチシズムはあっても社会経験はない。多くの人が失念していることを私も今思い出した。しかし父の声はやけに苦い声、例えばグレープフルーツみたいな、声を絞ってにじませた。
車に戻った父はすっかり熱くなった車の中からバラを取り出して「どうぞ」とまやちゃんに渡した。花びらが縮みこみ苦しそうな花束を赤子を授けられた母にでもなったかのようにまやちゃんは抱えてうれしそうに笑う。何とも言えないアンバランスさだ。バラなんて少女が抱えるもんじゃないだろう。あほくさい、さっさ助手席に乗り込んでドアを音をたてて閉める。
父は弾かれたように後部座席のドアを開けて彼女をエスコートした。たおやかに彼女が座り、シートベルトは父が閉めた。続いて父が運転席に座り、幸せそうな顔でハンドルを握る。車を走らせて五分くらい、父とまやちゃんは音楽の話をしていた。眠くなるような音楽が嫌に耳について離れなかった。
「何食べよっかな、私オムライス」
「俺はブルーマウンテン、まやさんは今日はオレンジジュースでいいかい。あ、ストローをつけて」
私は四人掛けの席につくなりメニュウを適当に眺めて空腹を思いだしそれを注文した。案内をした老人はポケットからメモを取り出し焦ることもなく書き留める。
父はメニュウも見ずに自分と彼女の分を注文した。父がかいがいしく誰かに世話を焼くところを初めて見た。世話を焼く、というよりはこうであってほしいという祈りを押し付けているのかもしれない。
「よくくるの」
「ああ、思い出の場所だしね」
「このひとわたしのことミューズって呼ぶの。意味、分かる、」
「女神さん、ね」
「赤い糸でね、つながっているの」
少女は女になっている。女は少女になっている。幸福を身にまとった人間それでもやっぱりテンプレートだ。私はまっすぐ彼女の瞳を見た後、父の瞳をちらりとみた。彼の瞳はどこまでも静かにそこにあった。
「おしまいでいいよ」
「え?」
「おしまいでいい、家族なんてもうおしまいでいいんじゃないかな」
女は意外と動揺した。父は瞳を閉じて、深くうなずき口を開かない。
「センリちゃん、どうしてそんなこというの」
「だって私たちは運命じゃないもん」
赤い糸でつながっているのは女と男で、血縁があるのは私と父だけどそれだってやっぱり他人なのだ。だから、他人とやっていく必要なんてどこにもないんだ。家族だからって理由にはならない。
「でも家族になるじゃない」
「ならない」
父は言った。さっき霊園で言った言葉にシャっとボールペンで削除のしるしを入れるように彼女の言葉を切った。
「結婚するのは俺と君だ。きみがあの家に来ても家族になれない。俺たちは一人だから」
彼女は運命で女神さまだというのも多分事実なのだろう。しかしそれは神様を逃がさないすべというだけで、先ほど自ら削除した言葉の通り、父には家族になる気などもう無いようだった。
しばらく少女は黙り込み、「先生らしいおかしさね」と笑った。
ああ、合わないなあと心から思った。あんな間違いだらけの生活で今更何かを正しくしようと無意味で無価値だと私は考えていた。多分父もそうだろう。彼女は女神であるしかなくなった。
夏を終わらせようと思った。湿気かけの花火に火をつける。あふれる光の花々は目にいたい。
家に帰ると夕暮れ時だった。一度彼女の家の前で止まったが彼女は降りることはなかった。唇をかみしめたまま、そこから動かなかった。父が困ったように私を見るから「じゃあ今日はうちにきなよ」と声をかけた。
七時くらいに私は適当に鍋にそうめんを入れてゆでた。ざるに雑に盛り、めんつゆで食べ始めた。ズルズル音をたてて食べているとそぞろにふたりがやってきて黙って二人がやってきて同じように食べ始める。なんだか滑稽だった。滑稽ついでに私は二人に花火をしようと提案した。
そして今に至る。バケツの中にはすでに燃えカスがたくさん。今はもう線香花火の段階だ。一つの夏が終わる。家族の季節が終わる。冬には大学に受かってこの家を出ていこうと私は決めていた。
「きれいね」
まやちゃんは言う。暗闇の中にぼんやり浮かび上がる白い彼女の胸元に、めんつゆの跳ねがない方が私にはすごいことのように思えた。大した人を好きになったものだった。
「どうして父と家族になるの」
聞いてみた。まやちゃんはきれいね、と言っていた線香花火の玉を落ちきる前に自らバケツにつけた。花火はジュ、と音をたてて消える。ぽつぽつ遠くに光る街灯と静かになく虫の声の中で
「センリちゃんのお父さんに見つけてもらったから。センリちゃんは、見つけてくれなかったから」
とだけ言った。彼女の瞳はよく見えなかったが、私の線香花火が彼女のメガネの銀フレームをまぶしく照らした。心に確かなざわつきがあった。そして柘榴の実がはじけるように私の線香花火も落ちて、私たちの夏の供養は終わった。
翌朝学校の準備をして玄関で靴を履いていると父に声をかけられた。手には赤い巾着を持っている。
「もういくのか」
「うん」
それだけだった。それからわたしにその赤い巾着を押し付けて、背中を向けて寝床に戻ろうと廊下をあるって行く。
「行ってきます」
背中に声をかけると、父は立ち止まり手をひらひらとさせた。私は家を出た。次に父と出会ったとき、父は骨になっていた。帰る家はもうなかった。電車の中で開けた巾着の中には色こそ褪せていないが古ぼけたデザインの通帳と印鑑だった。
引き返す電車の中で、私は焦げっぽい秋風のにおいを感じて泣いてしまった。長い葬式の季節が始まる。太陽はまださんさんと輝いていた。
夏休みが終わって数日後の日曜日、朝ごはんにソーダ味の棒アイスをかじりながら生暖かいキッチンを脱してダイニングへ入ると焦れたように、けれど切り口鮮やかに父がそういった。
咥えていたアイスはぼとりと私の体から離れ、フローリングに落ちた。慌てて拾う私の姿にクスクス父は笑ってた。
それに続けて、起き抜けに体を冷やすのはよくないよ、と父は言葉を続ける。小説家だから言葉を使い惜しみするかといえばそうでもない父は、云うだけ言って一人掛けのソファから動こうとはしない。
一日の大半をそう過ごす父はいつ仕事をしているのか知らないが、でもなんだかんだ片親で子供を中高一貫校に入れてしまうぐらいだからかなり売れているのだろう。でもこんな人全然尊敬に値しないのに。
私は一度クーラーの利いたダイニングを出て、キッチンに逆戻りした。蛇口をひねり水が流れる。シンクにたたきつけられていた水圧にアイスを差し込んで曲げる。ばしゃばしゃと水が跳ねてその部分が水色に見える。
しゃくり、と水でコーティングされたアイスの音は変わる。だがそれでもアイスだ。冷たい、感覚を取り戻すもの。私は鈍い音をダイニングへ続く生ぬるい空気の廊下で数度たてて、もどかしさを咀嚼しきった。手元にはアイスの棒だけが残る。
ドアを開けてゴミ箱に湿った気の棒を投げ入れた。私はソファに体を預け切った父の後ろに立つ。食事もいつも横並びでとる。きっかけは覚えていない。何か些細なことだったような気もするし、大きなことだったかもしれない。
「今までそんなこと言わなかったじゃん。どうしたの」
母が死んで、今年で十一年。墓参りという単語を父が出したのは母が死んで初めてのことだった。私は母が死んでから今日まで一人で八駅向こうの海の見える墓まで月に一回は欠かさず通っていた。今月はもう行った。いつもと変わらず潮風とウミネコのなく声のうるさい場所だった。父が母の霊園までたどり着けても墓の場所を知っているかすら怪しい、と私は思う。
「うん、でも行きたくなったんだ。センリと一緒に」
「ふーん」
「何か不満かい」
不満って程のことはない。父が亡くなった母の墓参りをするなんてころほど自然なことはないんじゃなかろうかってくらいの話で、それは喜ぶべき傾向なのではないだろうか。不満というか、なんで私が必要なのだろうという不可解さがあった。私たちは一人ひとりこの家の中で一緒に暮らしていただけのことじゃないのだろうか。
母という共通のつながりがあっての、私たちはたぶん共通の痛みを持ち合わせているわけではなかった。ただ私たちはそういう縁があったからここにいるだけであったはずだった。
「ねえ父さん。なにかいいことでもあった、」
父は首をゆっくりと動かしじろり、と眼鏡の奥から私を見据えていた。背筋が弾かれたように息が詰まる。
「墓に行くのかい、行かないのかい。答えなさい」
「いくよ、いくけどさぁ……ぁ」
思いだした。父の瞳が苦手になった時のこと。それは授業参観だった。参観日の父の瞳は幼心に怖かった。普段、薄く細めて柔らかい感じの父が鋭い目をして、私を、見ていた。
私を見定めようとしていた。うちの子がどんな風だろう、という柔らかい不安や好奇心とは程遠いそんな目。今時面接官でももう少し柔らかい物腰である。
「出発は二時間後」
声をかけられてようやく今に帰ってきた私と父の視線がまじりあうことなく、私の瞳は少し白髪の混じる側頭部を眺めていた。
「車で行くよ。どんな服でもいい。ああでも、ジーンズはやめた方がいいんじゃないかなあ」
金属音を立ててポケットから入り組んだ刻印の入ったキーを取り出した。キーホルダーにはそのごってりとした金属とよくなじむ深い青の球体がついていた。
家の近くの駐車場に止められている骨董車は父のものだったのかと心底驚いたが、この暑い中駅まで歩く必要がないのはありがたいことだったので私は服を着替え、ライターと線香をこの間セールで買ったカバンに放り込んでメイクをした。
墓に車で行くのは初めてだった。家をでてずーっと左の方へ行くと墓があるとなんとなく理解はしていたが、車で向かうと初めに左へ向かってからずっとまっすぐその道をたどっていく。その間、会話はなかった。もちろんカーナビもないから器械音声もない。ただ眠くなるようなクラシックをカーステレオから響かせるおんぼろの車と親子が予想外にスムーズにタイヤを転がしていた。
おんぼろ、といっても車の中はこぎれいなものだった。埃が隅にすこしあるくらいで黴臭くもない。清潔な空間だった。父がこの車を掃除している姿を想像できないが、車を丁寧に、しかもこんな古い車を、扱うなんて昔の男っぽいところがあるのだと納得した。
見慣れた水平線が見えてきたとき私は花を買っていないことを思い出した。何分急だったからすっぽ抜けていた。母はかなり花が好きで思い出の中だと小花柄のワンピースを身にまとっている。いつもは前日に母が好きそうな花を買っておくのだ。
「花屋があったら止めて」
数百メートル先にちょうどよく花屋があった。色褪せたビニール屋根のこじんまりとした花屋である。いつもは墓と駅とたまに駅前のスタバによって帰るだけでこんなところに花屋があるなんて知らなかった。
カチコチ、時計の針のようなランプが点滅をする音がして車は道の端に緩やかに停車した。私はいそいそと車を出て道の向かいの花屋へ急いだ。
花屋の中は淡い花の香りに満ちていた。店内にいくつも並んだ金属のバケツに花が各々無造作に活けられているように見えた。
店は小さい四角形の寄せ集めだった。壁に沿ってタイルを敷き詰めた棚があり、またその中に花がみな顔をうつむかせて買われるのを待っている。折り紙で作ることができそうな単純な、それでいくつも表層を重ねた溶けあわないそれらが強制的にそこに生きながらえていた。
瑞々しいはずのそれらは店の雰囲気にのまれてか、色が薄くあせ、平坦に乾いた質感がそこにあった。新鮮な香りは私の体にこうも訴えかけるのに目の前にある命の塊は生も死も同じ事と完全にあきらめきっている。
私は完全に退色しきった自分の薄茶色の髪を指に絡めた。皮膚に硬くつつく髪の感覚とは別にゆずの香りのハンドクリームが香った。くるくる人差し指に巻き付けた髪を離して私は花を選ぶことに戻った。
気づいたことに、こんな生活に根付いた店らしいのに仏花はなかった。もっと言えば季節感がなかった。子供の描く「お花屋さん」のように無意識にすき好んだ花だけがそこにあるのではないかと思う。
私はそこで青い花を見つけた。日焼けした写真の中の、海のかけら。何度となくみた母が海を背景に微笑んでいる写真に良く似ていた。心がひかれる、とは違った。何か記憶の深いところに触ってくる、ざわめきの発端であり、同時に記憶のひとピースであった。
ふいに人の気配を背中に感じた。振り向くより先に声をかけられる。それは父だった。ゆるく腕を組んで、私を見下ろしている。
「かわないのかい」
「うん」
目をそらしたその先に、カスミソウがあった。私はそれを一束選らんで店の奥のレジへ向かった。新聞紙にくるまれたカスミソウは地面に体を預けた雪と同じだった。溶けずにずっとそこにあるのが痛々しいくらいだ。
「さき、車戻るね」
父はうなずいて「カギはそのままだから」といった。エンジンがかかったままだったはずの車の中はクーラーが全然きいていなかった。窓を開けて線路越しに海を見ていると赤いものを抱えて父が帰ってきた。
それはバラだった。赤いバラに赤いリボンと薄い白の布のデコレーション。あの店に本当にあったのかと思うくらい瑞々しく艶やかなベルベットの花びらを持ち合わせていた。
「またどでかいのをかったね」
後部座席にやさしく花を置いた父はシートベルトを着けながら
「言葉遣い」
と注意して、それから「ロマンチックだろう」といった。
「うん」
けど母さんはバラは好きじゃなかったよ。
「一緒に買えばよかったのに」
「こどもにかっこつけてるところを見られるのは恥ずかしいだろう」
「いまみせてるじゃん」
変なとこ繊細で、大胆なんだよな。父は何も言わずにアクセルをゆっくり踏み始め、私たちは再び霊園への道を進んだ。
墓はこの間来たばっかりだったから、そこそこにきれいだった。しかし花は枯れ、水も乾いている。意外なことに父は迷わずに先を歩き母の墓前でぽつねんとしていた。
「伊井弥家之墓」
つるつるした石に刻まれたおおざっぱな文字。文字の中に薄く苔が巣食い、ざらざらとした空間を作っていた。改めてまじまじと見ると汚れがある。桶に水を汲んで掃除を始めた。
掃除をしながら私は母に心のなかで話しかける。父はその間突っ立っていた。でも、怖くはなかった。
ねえかあさん、父さんが来たよ。私が小学生の時に一回来ただけだったのに覚えてた。すごいね。母さんは父さんのこと、まってた?石は答えない。それで、いいのだ。
一通り終えて、私はバッグから線香とライターを取り出し慣れた手つきでライターから火を出す。海風で風を遮りながらじっと線香の端に火をつけて束の半分を、父に渡した。
するといぶかしげにしている父の瞳とかち合った。
「センリお前煙草とかやってないだろうね」
思わず私は噴き出す。
「やってないよ。火で遊ぶ時期じゃないし。なんでそんなことになんの」
「墓の前だからね。健康について気を付けてもらいたいんだ」
「父さんが墓に来ないからじゃん。授業参観にはくるくせに」
「授業参観、懐かしいひびきだね」
灰が落ちる。ゆっくり煙が昇る。青い空の、白い雲に吸い込まれる前に煙は消える。
「おまえはいつもばかだったなあ」
父の瞳は空を見ている。決して私たちの視線は交じり合わなかった。
「いや、センリの頑張りはいつも空回るんだ。目立ちたいわけじゃないが、発見されたい。多分僕たちに。あの狭い教室の中で、埋まりそうなほど弱いお前の個性を何か別の、誰かの個性と一緒くたになろうとして、お前はいつも間違える。間違った解釈、お前は変になろうとする」
「そんなふうにみてたの」
怒りというにはあまりにもさらっとした、それでいて確かな振動が私の中に届いた。父は目線をようやくこちらに遣り、至極当然そうに二の句を継ぐ。
「自分の子供が、どんなふうにしているか気になるだろう」
「人間観察が趣味なんだっけお父さんは」
人間観察というにはあまりに冷徹で好奇心というよりは猜疑心に近いものを感じていた私は言葉を突き返すつもりでそう言った。けれどもそんなことに父は気づかない。微笑んでいる。
「よく覚えていたね。前何かの雑誌で答えたな。それを見たのかい」
「違う。小学生のときの宿題」
「ああ個性を表すための、自己紹介ね」
「ああよく覚えてる。覚えてないことなんてきっとないさ」
父はくだらないウソをつく。そう思った。
「そういえばバラは、」
「彼女はバラなんか好きじゃなかったろう。車だよ」
帰りに寄りたいところがあるんだよ、と空っぽになった桶の中でひしゃくをからころ言わせながら父はそう言った。
「このもう少し先のカフェー。緑色の屋根のところ。覚えているかい」
言ったことがあるかではなく、覚えているかを尋ねられて驚く。
「この街に所縁なんてあったっけ、」
「ゆかりってお前、小四まではこの街で暮らしていたじゃないか」
そうだっけ、そんなような気もする。確かに母が死んで数年後、引っ越しをして転校して今の一貫校に編入した。思い出に潮風の香りは少しもかからない。幼いころの、十一歳から下の思い出は薄らぼんやりとしている。父は言葉で私の記憶の輪郭を作ろうとしてくる。
「お前はホットケーキとメロンソーダを頼んだ。俺はビーフシチューを食べた。ほら、授業参観の帰り」
「違う、私が頼んだのはチョコレートパフェ。生クリームがちゃんと牛乳の味がするやつ」
思い出の中の授業参観に母は不在で、いつも父がクラスメイトの父母の中で溶けあわない冷たい目をしていた。でも帰りにおいしいものを食べたような気がする。
じゃ父はだれとホットケーキとメロンソーダを目の前に置いたのだろう。私はもうすでにそのころから彼の目の前でご飯を食べるのが怖かったはずだ。
記憶に誰かの影が落ちているのに気づく。小さな影。当時の私と同じくらいの、影。子供っぽいメニュウ。大人びた少女。
ふいに父の声が耳をかすめた。声は前の方に通る。
「まやさん」
まやさん、まやちゃん。ああそんな名前だった。
奥田摩耶。
小学校の教室でひとりぼっちでいようとする私に寄り添っていた女の子。長い前髪におさげのテンプレートにじみ目な女の子。ミステリアスそうで、何かを抱えているわけでもない浅い、お揃いを持ちたがるようなどこにでもいる子。彼女から始まる物語がいくつあってもおかしくはない、そんな平凡さだった。
霊園の出口、彼女は立っていた。影を陽炎のように伸ばすのは、長い髪がほどかれ潮風に揺れるからだ。麦わら帽子に白いワンピース。不健康に青白い肌。「これから失われるもの」の完ぺきなコスプレ衣装。眼鏡の奥で瞳を細めて、笑ってる。
「こんにちは」
これは彼女なりの宣戦布告なのかもしれない。私は悟りきった気になって、ずいぶんなめられたものだなあとだけ思った。それだけだった。それからすっかり凪いでいた。
「これからレストランにいくのは、彼女もいっしょ?私がいていいの、」
「もちろん。俺たち、家族になる、んだから」
私は先月十八歳になった。父親にはロマンチシズムはあっても社会経験はない。多くの人が失念していることを私も今思い出した。しかし父の声はやけに苦い声、例えばグレープフルーツみたいな、声を絞ってにじませた。
車に戻った父はすっかり熱くなった車の中からバラを取り出して「どうぞ」とまやちゃんに渡した。花びらが縮みこみ苦しそうな花束を赤子を授けられた母にでもなったかのようにまやちゃんは抱えてうれしそうに笑う。何とも言えないアンバランスさだ。バラなんて少女が抱えるもんじゃないだろう。あほくさい、さっさ助手席に乗り込んでドアを音をたてて閉める。
父は弾かれたように後部座席のドアを開けて彼女をエスコートした。たおやかに彼女が座り、シートベルトは父が閉めた。続いて父が運転席に座り、幸せそうな顔でハンドルを握る。車を走らせて五分くらい、父とまやちゃんは音楽の話をしていた。眠くなるような音楽が嫌に耳について離れなかった。
「何食べよっかな、私オムライス」
「俺はブルーマウンテン、まやさんは今日はオレンジジュースでいいかい。あ、ストローをつけて」
私は四人掛けの席につくなりメニュウを適当に眺めて空腹を思いだしそれを注文した。案内をした老人はポケットからメモを取り出し焦ることもなく書き留める。
父はメニュウも見ずに自分と彼女の分を注文した。父がかいがいしく誰かに世話を焼くところを初めて見た。世話を焼く、というよりはこうであってほしいという祈りを押し付けているのかもしれない。
「よくくるの」
「ああ、思い出の場所だしね」
「このひとわたしのことミューズって呼ぶの。意味、分かる、」
「女神さん、ね」
「赤い糸でね、つながっているの」
少女は女になっている。女は少女になっている。幸福を身にまとった人間それでもやっぱりテンプレートだ。私はまっすぐ彼女の瞳を見た後、父の瞳をちらりとみた。彼の瞳はどこまでも静かにそこにあった。
「おしまいでいいよ」
「え?」
「おしまいでいい、家族なんてもうおしまいでいいんじゃないかな」
女は意外と動揺した。父は瞳を閉じて、深くうなずき口を開かない。
「センリちゃん、どうしてそんなこというの」
「だって私たちは運命じゃないもん」
赤い糸でつながっているのは女と男で、血縁があるのは私と父だけどそれだってやっぱり他人なのだ。だから、他人とやっていく必要なんてどこにもないんだ。家族だからって理由にはならない。
「でも家族になるじゃない」
「ならない」
父は言った。さっき霊園で言った言葉にシャっとボールペンで削除のしるしを入れるように彼女の言葉を切った。
「結婚するのは俺と君だ。きみがあの家に来ても家族になれない。俺たちは一人だから」
彼女は運命で女神さまだというのも多分事実なのだろう。しかしそれは神様を逃がさないすべというだけで、先ほど自ら削除した言葉の通り、父には家族になる気などもう無いようだった。
しばらく少女は黙り込み、「先生らしいおかしさね」と笑った。
ああ、合わないなあと心から思った。あんな間違いだらけの生活で今更何かを正しくしようと無意味で無価値だと私は考えていた。多分父もそうだろう。彼女は女神であるしかなくなった。
夏を終わらせようと思った。湿気かけの花火に火をつける。あふれる光の花々は目にいたい。
家に帰ると夕暮れ時だった。一度彼女の家の前で止まったが彼女は降りることはなかった。唇をかみしめたまま、そこから動かなかった。父が困ったように私を見るから「じゃあ今日はうちにきなよ」と声をかけた。
七時くらいに私は適当に鍋にそうめんを入れてゆでた。ざるに雑に盛り、めんつゆで食べ始めた。ズルズル音をたてて食べているとそぞろにふたりがやってきて黙って二人がやってきて同じように食べ始める。なんだか滑稽だった。滑稽ついでに私は二人に花火をしようと提案した。
そして今に至る。バケツの中にはすでに燃えカスがたくさん。今はもう線香花火の段階だ。一つの夏が終わる。家族の季節が終わる。冬には大学に受かってこの家を出ていこうと私は決めていた。
「きれいね」
まやちゃんは言う。暗闇の中にぼんやり浮かび上がる白い彼女の胸元に、めんつゆの跳ねがない方が私にはすごいことのように思えた。大した人を好きになったものだった。
「どうして父と家族になるの」
聞いてみた。まやちゃんはきれいね、と言っていた線香花火の玉を落ちきる前に自らバケツにつけた。花火はジュ、と音をたてて消える。ぽつぽつ遠くに光る街灯と静かになく虫の声の中で
「センリちゃんのお父さんに見つけてもらったから。センリちゃんは、見つけてくれなかったから」
とだけ言った。彼女の瞳はよく見えなかったが、私の線香花火が彼女のメガネの銀フレームをまぶしく照らした。心に確かなざわつきがあった。そして柘榴の実がはじけるように私の線香花火も落ちて、私たちの夏の供養は終わった。
翌朝学校の準備をして玄関で靴を履いていると父に声をかけられた。手には赤い巾着を持っている。
「もういくのか」
「うん」
それだけだった。それからわたしにその赤い巾着を押し付けて、背中を向けて寝床に戻ろうと廊下をあるって行く。
「行ってきます」
背中に声をかけると、父は立ち止まり手をひらひらとさせた。私は家を出た。次に父と出会ったとき、父は骨になっていた。帰る家はもうなかった。電車の中で開けた巾着の中には色こそ褪せていないが古ぼけたデザインの通帳と印鑑だった。
引き返す電車の中で、私は焦げっぽい秋風のにおいを感じて泣いてしまった。長い葬式の季節が始まる。太陽はまださんさんと輝いていた。
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