花の吸盤
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お母さんは朝起きたら、布団を真っ赤にして茫然としていた私を殴ってから、あんたもついに女になったのねとタバコをふかしながら笑った。昨日からテーブルに置いてあった乾いたウインナーを一本齧り、トイレに行ってゴワゴワな紙の塊をとってきて頭に投げられた。
「これ以上汚さないでね。生理の血ってさあ落ちにくいし。くさいんだよね」
タバコのヤニの匂いとゴミ、排水溝の中から漂う街の匂い、私の血の匂いが混じっていつもよりごちゃごちゃ、とした部屋。どこから綺麗にすればいいのかもわからない。もう綺麗になりようもないのかもしれない。お母さんもきっとずいぶん前に諦めちゃったんだろう。
お母さんが仕事に行ったのは九時過ぎだった。どうにも動けないから、学校に電話もせずに休んだ。いつもの事だから担任の先生からの連絡も放課後にならないとこない。寝ようと思ったのに体が重くて痛くてゴミの間に埋もれている。布団がこれ以上汚くならないというのはほんの少し、安心した。
風が吹くたび、じぶんの空っぽさに気づく。隙間風はどこからやってくるのかわからない。ひりひりとお腹の底から湧き上がる、熱。熱はただそこにあってぐわんぐわんと楽しげに遊んでいる。何もないのに熱い。何もないから、熱い。燃やせるものは何かないかと体の外へ外へ、下へ下へ、端へ端へとスライムみたいにめちゃくちゃにいろんなことを混ぜ込みながら。
こんなもの可愛くない。どんどん可愛くなくなる。無敵じゃなくなる。熱がでて今日は学校を休んでいた。昨日から体がポーッとしているのに体を包む膜、肉の上、血をたっぷりすっているはずなのに普段はクリーム色の皮膚がちょっとピンクになる。なのに、可愛くない。そして血が自分の足と足の間から止めようがなく溢れる。こんなに弱い、こんなに弱いのにどうして誰も助けてくれないんだろう。
担任の先生はえこひいきする。サッカーが得意だったり字が上手かったり、普段学校に来ないけど運動会には来る子だけにはとびきり優しい。それ以外の子には、本当にどうでも良さそうな顔をする。でも目の前にくれば笑ってくれる。ちょっと怖い人だ。
先生3年目、小学5年生の担任は初めてです。彼氏はいませんと春の初めの自己紹介で言っていた。男子にはからかわれていた。処女なのー?って。先生は笑顔のまま、ええ、と微笑んでいた。教室はそれきり静かになって一時間目の国語の授業が始まった。窓の外では桜が咲いていて、掃除の時間、銀色のさんにはペトペトいくつも花びらがくっついていて虫のようだった。家で虫なんかいくらでもみるのにゾッとしてしまった。
手を止めていたら、さらさらした長い髪を持つ、鼻のちょっと大きい優等生っぽい女の子に怒られた。実際その子、長浜さんは優等生だった。いつも教室の掃除を率先してやっていてたくさん手も挙げる。でも学級委員にはならなかった。教室の端でじっと、青い表紙の本をつかんで読んでいる。会話したことはあの一回しかなかった。もう十月になった。
長浜さんは、今日もあのうるさい教室で一人で静かに、長い鉛筆を動かしてノートとってるのかなあ。普段考えもしないそんなことが気になった。いつの間にか寝ていたら、教室の天井に張り付いている夢を見た。長浜さんはシワのないシャツを着てよく削った鉛筆で真剣にノートを書き写していた。あ、その計算まちがっているよと言おうとしたところで目が覚めた。
相変わらずお腹が痛い。頬に触る風はそう冷たくもないはずなのに体と心をガンガン責め立てた。
私が何をしたっていうんだろう。何もしてないよ。お母さんには殴られるし。今日の給食なんだっただろう。ゴミみたい。ゴミ袋がたくさんある中で生きてるのは私だけ、ではない。多分ゴキブリとかハエとかダニとかいるんだろうなあ。でも一人なことに変わりなかった。だって一と人という字を使うんだからそうじゃないとおかしい。一人だからこんなに苦しいんだ。
不意に、ガタンという音が隣の部屋からした。そうだ、どうして忘れていたんだろう。私を愛してくれる人ならすぐ近くにいるじゃないか。どんなにキモくても人間なだけいいんだ。
中途半端に暖かい布団から出るのはそう難しいことじゃなかった。だってどこよりもきっとここよりマシだから。
夏の砂場を思い出す。バケツに汲んだ水を何度砂場に流し込んでも砂はちょっと黒くなるだけでどんどん乾いて白くなっていく。終わりがない、乾き。砂をかけばかくほど手の内側は熱い。汗が垂れるほど舌の先が痺れる。
布団から出て玄関のお母さんのハイヒールに足を取られないようにノブに手をかけると驚くほど冷たかった。もう冬が来るのかな。窓側の席になることが全然ないから知らなかった。桜はもう怖くないかもしれない。でも春以外の桜って綺麗なのかな、寂しくなるだけかもしれない。
隣の部屋のドアを開ける。鍵はいつもかかってない。今日もかかっていなかった。カーテンを閉め切った暗い部屋であの人が、振り向いた。布団からぴょっとでた。学校で飼ってるうさぎみたい。部屋から布団まで一本道ができていて、それ以外はうちみたいにゴミ部屋だった。パソコンをいじっていたのだろう。ぼんやりとした明るい光がお兄さんの首の皺と汚れた眼鏡を浮かび上がらせた。
「な、なんで」
「なんでって前お兄さんが言ったんじゃん。いつでもきていいよって」
「それは、だって、もう」
「嘘つきになるの?もうしゃかいふてきゴー者なのに、それ以上最悪な人間になっちゃうんだ」
こういう人の扱いはよくわかってる。お母さんがそうだから。怒ることでしか話し合えないんだ。だから私も酷いこと言うの。ネットで見たよくわかんないけど人を傷つける言葉。お母さんに言われた言葉。
「ざーこ、ねくら人間、寂しがり、何も生み出さないゴミ…!」
お兄さんは大股でどんどん音を立てて玄関にやってくる。目はちょっと赤くなっている。お兄さんは人を殴れない。その代わり、私を毎回処女じゃ無くさせてくれる。お兄さんの無闇に分厚い手で肩を掴まれた。
「くそ、わからせてやるよ」
馬鹿みたいなセリフだ。あんなことで何がわかるっていうんだろう。私が処女じゃないってだけだろう。そんなの大したことじゃないじゃん。でもあの必要とされてる感じ、何かが埋まる感じは好きだった。早く、何かがわかるっていうなら早くして。
でもお兄さんはやめた。たっぷり三秒くらいして肩を離された。黙って後ろ向いて布団の中に戻っていく。そんなの許せない。私は自分の体が痛いのも忘れてお兄さんの膝の裏を蹴飛ばした。
どすんと大きい音とお兄さんのうめき声。六月の田んぼから聞こえてくるカエルの声みたいな。私はお兄さんの背中に乗っかった。自分の血が出ててくさい部分を擦り付けるような形で、首を握った。
「してよ、気持ち良くもなんともないけど、いっぱいになりたいの。助けてよ助けて、助けろよ全部あんたのせいだ責任取って。助けて、助けてください……」
お兄さんの背中は思ったより、小さかった。太ってるから大きいと思ってたのにそんなことはなかった。柔らかくもなくてでもグニョっとして腐ったキャベツみたいだった。涙が出た。どんどん体は乾くのにもう誰も助けてくれない。
「なんで、なんでお願いしてるじゃん助けて」
お兄さんは起き上がらずに君はもう、かわいい年じゃないからと答えた。わかってんだよとも。何がわかってんだよ、何もわかってないよ、こんなに近くに苦しんでる人がいるのに何をわかって、悟った気になってんだよ!
「ばか」
「うん。ごめんね」
学校の毛並みの悪いうさぎは掴むとグニッとする。生きているのがわかる。手の内側から「く」と「る」の字を描いて逃げ出す。お兄さんの喉もそんな風に動くから思わず、離した。私は近くにあった本棚の山を白くなった指先で弾いて家に戻った。
玄関に蹲って泣いていると聞きなれない音がなった。5時に鳴る帰りなさいのチャイムに似てるけどそれより全然短くて、よく響く。後で知ったことだけどそれはうちのインターホンの音だった。しばらく時間を置いてどんどんと背中を預けていたドアが叩かれた。加減のない音は、痛い頭とお腹までよく伝わった。
「佐賀さん。いないの。ねえ、プリント持ってきたの」
かわい気がないけどハキハキしたその声の持ち主は今日、夢に見たばかりだ。
「長浜さん…」
ドアの前に立っている彼女は私より身長が大きく、眩しい夕暮れのなかに青い上品なランドセルを光らせている。肩紐が窮屈そうにシャツに皺を作っている。長浜さんはちょっと顔を顰めながら元気じゃなさそうねと言った。私はとりあえずわらっとこうと思ったけどそれはできなかった。だって倒れてしまったから。
次に目を覚ましたのは長浜さんの背中の上だった。オレンジ色に染まったアスファルトを蹴り上げ走る。長浜さんて走るの早いんだなあ。揺れはひどいし吐いちゃいそうだけど、吐き出すものなんて入ってないから大丈夫だ。あったかい居場所で、心の底からいいなあ、友達になりたいなあと思った。
長浜さんは私が目を覚ましたことに気がつかないままだったので私はもう一度目を瞑り彼女に全てを任せることにした。彼女の背中は液体のりの匂いがしたけど全然布団より柔らかかった。
着いたのは放課後の保健室で、柔らかすぎるベッドに寝かされたところで目が覚めた。
「佐賀さん、起きたんだ。もう大丈夫だよ」
おおきな鼻を中心に長浜さんは顔を柔らかく動かした。
私はほっとしたと同時に吐き気と腹痛が込み上げるのを感じた。その様子を読み取って保健室の先生が洗面器をくれる。少しだけ、昨日食べたものが出た。
「大丈夫、だいじょうぶだよ…」
近くで唱えるように長浜さんは言う。そうかな、そうかもしれない。信じる代わりに何かちょうだい。もうずっと空っぽなんだよ。
「友達になってください」
吐きながらそういう。涙も混じる。外から男子がサッカーをする声が聞こえた。よく聞き取れなかったのかな、と思ってもう一度口を開こうとすると抱きしめられた。
「うん、ともだち」
彼女のシャツは白いから、私のいつ洗ったかもわからないパジャマと擦れ合うのは嫌だったろうに、飛び越えて抱きしめてくれた。
嬉しいのにどこまでも渇いていた。保健室の先生はどこかに電話をしている。
水道場に口を濯ぎにいく途中私は友達に質問した。それは仲良くなるために一番だと思ったから。
「どうして助けてくれたの」
「私の家の逆だろうなと思って」
「逆?」
「私、家だとお父さんになるのよ」
「え?」
「正確に言うとお父さんの生まれ変わり、かな。お母さんはね専業主婦。お父さんは海外に単身赴任だけど向こうにも家族がいて、わたしはその代わりに生まれたオーダーメイドお父さん。お母さんとセックスもするし、家では堂々としてればいい。楽だよ。お母さんはお父さんが大好きなの。」
「そんなのって」
「別にいいんだよ。でもせめて男に生まれてればなあ」
生理用品、お小遣いで買ってるんだ。男子は楽そうでいいよね、あっけらかんとしてるけど彼女は何かすごいことをいっているのではないか。そんな気がした。今度は逆に羽実ちゃん(彼女の名前。やわらかい音ですき)が質問した。
「家にさ、灯りがついてるの、嬉しい?」
「うーむ、お母さんが家にいるってこと?ちょっと嬉しいけど怖いのも半分かなあ」
「一緒だ。あの灯りがついてなきゃなあって毎日帰りながら思うんだよ。ずっとおままごとさせられるんだ」
私はおままごと好きだったけど、多分羽実ちゃんは本当に生活させられちゃうんだろうな。怖いなと思った。
口を濯いで綺麗になったし潤ったけど、喉は渇いたままだった。私は一つ天才的な思いつきをした。羽実ちゃんでいっぱいになる方法。
「ね、キスしてくれない?二人じゃないとできないし。友達ならいいよね」
羽実ちゃんは急に「長浜さん」の時の顔になって、でもいいよと言って背をかがめた。
唇の端を噛まれ、驚いて目を見開くと優しい顔になって、いつか全部大丈夫になるよとだけ言った。驚いたけどでも胸はいっぱいになった。見透かされているようで体がかあっと熱くなった。
最終下校のチャイムは初めて聴く曲だった。
「新世界より、だ」
古いスピーカから割れながら響き渡る音楽の名前がずっと胸の奥で消えなかった。
「これ以上汚さないでね。生理の血ってさあ落ちにくいし。くさいんだよね」
タバコのヤニの匂いとゴミ、排水溝の中から漂う街の匂い、私の血の匂いが混じっていつもよりごちゃごちゃ、とした部屋。どこから綺麗にすればいいのかもわからない。もう綺麗になりようもないのかもしれない。お母さんもきっとずいぶん前に諦めちゃったんだろう。
お母さんが仕事に行ったのは九時過ぎだった。どうにも動けないから、学校に電話もせずに休んだ。いつもの事だから担任の先生からの連絡も放課後にならないとこない。寝ようと思ったのに体が重くて痛くてゴミの間に埋もれている。布団がこれ以上汚くならないというのはほんの少し、安心した。
風が吹くたび、じぶんの空っぽさに気づく。隙間風はどこからやってくるのかわからない。ひりひりとお腹の底から湧き上がる、熱。熱はただそこにあってぐわんぐわんと楽しげに遊んでいる。何もないのに熱い。何もないから、熱い。燃やせるものは何かないかと体の外へ外へ、下へ下へ、端へ端へとスライムみたいにめちゃくちゃにいろんなことを混ぜ込みながら。
こんなもの可愛くない。どんどん可愛くなくなる。無敵じゃなくなる。熱がでて今日は学校を休んでいた。昨日から体がポーッとしているのに体を包む膜、肉の上、血をたっぷりすっているはずなのに普段はクリーム色の皮膚がちょっとピンクになる。なのに、可愛くない。そして血が自分の足と足の間から止めようがなく溢れる。こんなに弱い、こんなに弱いのにどうして誰も助けてくれないんだろう。
担任の先生はえこひいきする。サッカーが得意だったり字が上手かったり、普段学校に来ないけど運動会には来る子だけにはとびきり優しい。それ以外の子には、本当にどうでも良さそうな顔をする。でも目の前にくれば笑ってくれる。ちょっと怖い人だ。
先生3年目、小学5年生の担任は初めてです。彼氏はいませんと春の初めの自己紹介で言っていた。男子にはからかわれていた。処女なのー?って。先生は笑顔のまま、ええ、と微笑んでいた。教室はそれきり静かになって一時間目の国語の授業が始まった。窓の外では桜が咲いていて、掃除の時間、銀色のさんにはペトペトいくつも花びらがくっついていて虫のようだった。家で虫なんかいくらでもみるのにゾッとしてしまった。
手を止めていたら、さらさらした長い髪を持つ、鼻のちょっと大きい優等生っぽい女の子に怒られた。実際その子、長浜さんは優等生だった。いつも教室の掃除を率先してやっていてたくさん手も挙げる。でも学級委員にはならなかった。教室の端でじっと、青い表紙の本をつかんで読んでいる。会話したことはあの一回しかなかった。もう十月になった。
長浜さんは、今日もあのうるさい教室で一人で静かに、長い鉛筆を動かしてノートとってるのかなあ。普段考えもしないそんなことが気になった。いつの間にか寝ていたら、教室の天井に張り付いている夢を見た。長浜さんはシワのないシャツを着てよく削った鉛筆で真剣にノートを書き写していた。あ、その計算まちがっているよと言おうとしたところで目が覚めた。
相変わらずお腹が痛い。頬に触る風はそう冷たくもないはずなのに体と心をガンガン責め立てた。
私が何をしたっていうんだろう。何もしてないよ。お母さんには殴られるし。今日の給食なんだっただろう。ゴミみたい。ゴミ袋がたくさんある中で生きてるのは私だけ、ではない。多分ゴキブリとかハエとかダニとかいるんだろうなあ。でも一人なことに変わりなかった。だって一と人という字を使うんだからそうじゃないとおかしい。一人だからこんなに苦しいんだ。
不意に、ガタンという音が隣の部屋からした。そうだ、どうして忘れていたんだろう。私を愛してくれる人ならすぐ近くにいるじゃないか。どんなにキモくても人間なだけいいんだ。
中途半端に暖かい布団から出るのはそう難しいことじゃなかった。だってどこよりもきっとここよりマシだから。
夏の砂場を思い出す。バケツに汲んだ水を何度砂場に流し込んでも砂はちょっと黒くなるだけでどんどん乾いて白くなっていく。終わりがない、乾き。砂をかけばかくほど手の内側は熱い。汗が垂れるほど舌の先が痺れる。
布団から出て玄関のお母さんのハイヒールに足を取られないようにノブに手をかけると驚くほど冷たかった。もう冬が来るのかな。窓側の席になることが全然ないから知らなかった。桜はもう怖くないかもしれない。でも春以外の桜って綺麗なのかな、寂しくなるだけかもしれない。
隣の部屋のドアを開ける。鍵はいつもかかってない。今日もかかっていなかった。カーテンを閉め切った暗い部屋であの人が、振り向いた。布団からぴょっとでた。学校で飼ってるうさぎみたい。部屋から布団まで一本道ができていて、それ以外はうちみたいにゴミ部屋だった。パソコンをいじっていたのだろう。ぼんやりとした明るい光がお兄さんの首の皺と汚れた眼鏡を浮かび上がらせた。
「な、なんで」
「なんでって前お兄さんが言ったんじゃん。いつでもきていいよって」
「それは、だって、もう」
「嘘つきになるの?もうしゃかいふてきゴー者なのに、それ以上最悪な人間になっちゃうんだ」
こういう人の扱いはよくわかってる。お母さんがそうだから。怒ることでしか話し合えないんだ。だから私も酷いこと言うの。ネットで見たよくわかんないけど人を傷つける言葉。お母さんに言われた言葉。
「ざーこ、ねくら人間、寂しがり、何も生み出さないゴミ…!」
お兄さんは大股でどんどん音を立てて玄関にやってくる。目はちょっと赤くなっている。お兄さんは人を殴れない。その代わり、私を毎回処女じゃ無くさせてくれる。お兄さんの無闇に分厚い手で肩を掴まれた。
「くそ、わからせてやるよ」
馬鹿みたいなセリフだ。あんなことで何がわかるっていうんだろう。私が処女じゃないってだけだろう。そんなの大したことじゃないじゃん。でもあの必要とされてる感じ、何かが埋まる感じは好きだった。早く、何かがわかるっていうなら早くして。
でもお兄さんはやめた。たっぷり三秒くらいして肩を離された。黙って後ろ向いて布団の中に戻っていく。そんなの許せない。私は自分の体が痛いのも忘れてお兄さんの膝の裏を蹴飛ばした。
どすんと大きい音とお兄さんのうめき声。六月の田んぼから聞こえてくるカエルの声みたいな。私はお兄さんの背中に乗っかった。自分の血が出ててくさい部分を擦り付けるような形で、首を握った。
「してよ、気持ち良くもなんともないけど、いっぱいになりたいの。助けてよ助けて、助けろよ全部あんたのせいだ責任取って。助けて、助けてください……」
お兄さんの背中は思ったより、小さかった。太ってるから大きいと思ってたのにそんなことはなかった。柔らかくもなくてでもグニョっとして腐ったキャベツみたいだった。涙が出た。どんどん体は乾くのにもう誰も助けてくれない。
「なんで、なんでお願いしてるじゃん助けて」
お兄さんは起き上がらずに君はもう、かわいい年じゃないからと答えた。わかってんだよとも。何がわかってんだよ、何もわかってないよ、こんなに近くに苦しんでる人がいるのに何をわかって、悟った気になってんだよ!
「ばか」
「うん。ごめんね」
学校の毛並みの悪いうさぎは掴むとグニッとする。生きているのがわかる。手の内側から「く」と「る」の字を描いて逃げ出す。お兄さんの喉もそんな風に動くから思わず、離した。私は近くにあった本棚の山を白くなった指先で弾いて家に戻った。
玄関に蹲って泣いていると聞きなれない音がなった。5時に鳴る帰りなさいのチャイムに似てるけどそれより全然短くて、よく響く。後で知ったことだけどそれはうちのインターホンの音だった。しばらく時間を置いてどんどんと背中を預けていたドアが叩かれた。加減のない音は、痛い頭とお腹までよく伝わった。
「佐賀さん。いないの。ねえ、プリント持ってきたの」
かわい気がないけどハキハキしたその声の持ち主は今日、夢に見たばかりだ。
「長浜さん…」
ドアの前に立っている彼女は私より身長が大きく、眩しい夕暮れのなかに青い上品なランドセルを光らせている。肩紐が窮屈そうにシャツに皺を作っている。長浜さんはちょっと顔を顰めながら元気じゃなさそうねと言った。私はとりあえずわらっとこうと思ったけどそれはできなかった。だって倒れてしまったから。
次に目を覚ましたのは長浜さんの背中の上だった。オレンジ色に染まったアスファルトを蹴り上げ走る。長浜さんて走るの早いんだなあ。揺れはひどいし吐いちゃいそうだけど、吐き出すものなんて入ってないから大丈夫だ。あったかい居場所で、心の底からいいなあ、友達になりたいなあと思った。
長浜さんは私が目を覚ましたことに気がつかないままだったので私はもう一度目を瞑り彼女に全てを任せることにした。彼女の背中は液体のりの匂いがしたけど全然布団より柔らかかった。
着いたのは放課後の保健室で、柔らかすぎるベッドに寝かされたところで目が覚めた。
「佐賀さん、起きたんだ。もう大丈夫だよ」
おおきな鼻を中心に長浜さんは顔を柔らかく動かした。
私はほっとしたと同時に吐き気と腹痛が込み上げるのを感じた。その様子を読み取って保健室の先生が洗面器をくれる。少しだけ、昨日食べたものが出た。
「大丈夫、だいじょうぶだよ…」
近くで唱えるように長浜さんは言う。そうかな、そうかもしれない。信じる代わりに何かちょうだい。もうずっと空っぽなんだよ。
「友達になってください」
吐きながらそういう。涙も混じる。外から男子がサッカーをする声が聞こえた。よく聞き取れなかったのかな、と思ってもう一度口を開こうとすると抱きしめられた。
「うん、ともだち」
彼女のシャツは白いから、私のいつ洗ったかもわからないパジャマと擦れ合うのは嫌だったろうに、飛び越えて抱きしめてくれた。
嬉しいのにどこまでも渇いていた。保健室の先生はどこかに電話をしている。
水道場に口を濯ぎにいく途中私は友達に質問した。それは仲良くなるために一番だと思ったから。
「どうして助けてくれたの」
「私の家の逆だろうなと思って」
「逆?」
「私、家だとお父さんになるのよ」
「え?」
「正確に言うとお父さんの生まれ変わり、かな。お母さんはね専業主婦。お父さんは海外に単身赴任だけど向こうにも家族がいて、わたしはその代わりに生まれたオーダーメイドお父さん。お母さんとセックスもするし、家では堂々としてればいい。楽だよ。お母さんはお父さんが大好きなの。」
「そんなのって」
「別にいいんだよ。でもせめて男に生まれてればなあ」
生理用品、お小遣いで買ってるんだ。男子は楽そうでいいよね、あっけらかんとしてるけど彼女は何かすごいことをいっているのではないか。そんな気がした。今度は逆に羽実ちゃん(彼女の名前。やわらかい音ですき)が質問した。
「家にさ、灯りがついてるの、嬉しい?」
「うーむ、お母さんが家にいるってこと?ちょっと嬉しいけど怖いのも半分かなあ」
「一緒だ。あの灯りがついてなきゃなあって毎日帰りながら思うんだよ。ずっとおままごとさせられるんだ」
私はおままごと好きだったけど、多分羽実ちゃんは本当に生活させられちゃうんだろうな。怖いなと思った。
口を濯いで綺麗になったし潤ったけど、喉は渇いたままだった。私は一つ天才的な思いつきをした。羽実ちゃんでいっぱいになる方法。
「ね、キスしてくれない?二人じゃないとできないし。友達ならいいよね」
羽実ちゃんは急に「長浜さん」の時の顔になって、でもいいよと言って背をかがめた。
唇の端を噛まれ、驚いて目を見開くと優しい顔になって、いつか全部大丈夫になるよとだけ言った。驚いたけどでも胸はいっぱいになった。見透かされているようで体がかあっと熱くなった。
最終下校のチャイムは初めて聴く曲だった。
「新世界より、だ」
古いスピーカから割れながら響き渡る音楽の名前がずっと胸の奥で消えなかった。
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