青い色の写真
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初めて私の世界に傷がついたのは、旅から帰ってきた村の仲間から渡された写真を見て恋をした友人を見たときだった。
言いようもない不理解が私の中に落ちてきて、それは今まで無意識に呼吸を繰り返していた私の人格を確実に傷つけた。
そして私は思い出した。いや正しくは思い出してしまった。熟れた果実がほんのわずかな刺激で弾けるようにあんまりに脆く。
私はこの村とは全く違う世界の常識を持って人生を全うしていた事。何より私たちの村「ホルガ」が怪奇映画とも言われていた「ミッドサマー」の舞台であったという事を。
今の私と過去の私がゆっくりと溶け合い、確実に今を否定していく。倒れ込むような衝撃はなかったが、ただ静かに打ちのめされた。
湧き立つ友人たちの中で茫然と立ち尽くす私に、隣に立っていた賑やかな輪を見守っていた親友のミュエラが声をかけてくる。
「どうかしたの。何か恐るべきことがあった?」
核心をついてくるような彼女の物言いに少し背筋がぞくりとしたが、彼女は秩序を重んじる人だから多分特別な意味はないのだろう。ミュエラのブルーグレーの瞳に見透かされる幻想を見るのは私がそうあればいいときっと願っているからだ。私は小さく息を飲み込んで柔らかく表情筋を動かした。
「いいえ。何も。彼女にはいい運命が与えられたわね」
ミュエラは目を細めて極めて優しく、「それは違うわ」と耳元で囁いた。
「彼女は勝ち取ったのよ、ホルガの運命を」
風が脇を通り抜ける。春の終わりが近い、底抜けに鮮やかな緑色の風だった。
一頻りその男性についての話も終わり、私たちはそれぞれの作業に戻っていくことになった。もう夕刻だから私とミュエラと、あと数人の少女たちで夕飯を作るのだ。広場から離れひたすら寡黙に煉瓦造りの厨房を目指す。昔の、と言っても前の人生の記憶には女三人寄れば喧しいという言葉があったがホルガではそんなことはなかった。
皆それぞれ口をつぐみ、言葉を貯めて他者から外部を守るようにしていた。それでいて、私たちは手を取り合い微笑み合う。表皮の温度と呼吸のリズムが私たちを結び付けている。それを包含しているのがホルガそれ自体だ。
各々持ち場につき、ナイフや火の粉の跳ねる音が声の代わりに響き合う。ウサギの肉の皮を剥ぐとき言いようのない吐き気を感じてしまったのはきっと、昔の私なのだろう。でも今の私は言葉を飲み込む術を知っていたから喉まで迫り上がった吐瀉物だって何なく飲み込んだ。
私はどうしようもなくこの村の子供として生きているのだった。
私には知らない世界の常識や「ミッドサマー」の情報が頭に流れ込んできても、それを誰かに伝えようだとかそんなことは思えなかった。何故なら私は幸福だったからである。幸福を壊すほどの価値が私の記憶にはないように思えた。
おきてには道理がある。正しさというのは結局ものの見方の一つに過ぎないのだから、私が別の社会の幸福の形を押し付けることは傲慢だ。それに逆らうには、私という存在はあまりに無力だ。
ホルガの結束は固く、他者に同情はしても、わかろうだなんてことはしない。暖かな湯の中で突出した自我なく微睡ながら呼吸をしていた私に、宿った過去というのは苦しみを負うきっかけに過ぎない。
もう直ぐ夏が来る。魂の循環の契機は直ぐそこに来ている。
手元が狂ってたらりと小指から血がこぼれた。鮮明に滴る赤い血筋を誰もが見ないフリをして夕飯の支度は進んでいく。ウサギと私の血は少し色が違うことに気づいたが手を休めることはなかった。どうせ焼いてしまうのだから構わない。
ふとナイフにぼんやりと誰かの顔が浮かんでいるのに気づいて振り向くとミュエラがいて、アロエを一房差し出された。
そうだ。彼女だけは違う。平等を遵守するホルガの中で、私の唯一の例外。きっと彼女にとっても。私たちは言葉により繋がることをひっそりと楽しむ親友同士。禁忌ではないが静まり返った秩序の水面に細波を立てる私たち。
「ありがとう」と小さくいって、長いアロエの真ん中から血を吸ったナイフで切り落とした。新鮮な切り口からは豊かに水を称える断面が見える。しかしうっすらと赤い膜がついてしまったことに心がざわめいた。手の上に冷たくのせたアロエが体温に近くなった頃、私は感情の名前を思い出して絶望した。
─────────────────────────────────────────────────────────────────
薄い壁の奥からあの子と、誓いの音がする。体全体を使って喜びと苦しみを分かち合っている。始まりの行為で、それはある種のお終いなのかもしれない。私が好きな彼女は今日も澄んだ瞳に男を映し、美しく微笑んで村から遠く離れたこの1LDKの部屋で、今日会ったばかりの男とセックスをしている。
彼女たちが使っているのは、部屋いっぱいの大きさのダブルベッドだ。事が済めば、今夜いつも通りに私とミュエラがブランケットを引っ張りあってひっそり笑いあう優しいはずの寝床は、どんどん濡れて冷たくなっていく。所在なく舌を軽く噛んだ。温かいような気がした。
私はホルガに転生した現代日本の女子大生だった。生まれ落ちた先はミッドサマーという映画の中の世界だった。いや、地続きの現代なのかもしれない。google earthでさえわからないように、巧妙に隠された、というわけでもなく、ただ単に発見されていない村に生まれおちてしまっただけの。実際私が生きていたはずの時間から少し経っている。私は前世を少し覚えているだけの普通の人間なのかもしれない。
なんで死んだのかも覚えていない。しかし強い既視感を覚えた。見たことのある風景、どこか馴染めない空気感。少し遅れた手拍子を打ち続ける。遅れないように必死に手を叩いているうちにまたリズムが狂う。
記憶がどこから始まったのかすら覚えていない。気づいたら五歳くらいで誰かと追いかけっこをしていた。記憶の始まりはそんなところだ。でもだれだってそんなものではないだろうか。誰の腹から生まれたって同じことだ。命は結局巡るのだから。
ホルガには写真なんて外部から持ち込まれたものしかないから自分の思い出と正面切って向き合えない。親は村の人みんなで、誰かを母と呼んだことはなかった。でも十分に生きていけた。
儀式がある。人が飛び降りて、当然弾けて死んで、当然のように世界を祝福する。それは掟でグロテスクだとかそんなこと言ってられない。自我が目覚めるずっと前から刷り込まれてるから、可笑しいだなんて本当に思わなかった。日本人がタコを食べるのと同じくらい本人には自然で、他人には奇異なことだ。文化の違い。言って仕舞えばそれだけのことではないか。
でも文化の違いで恋心を抑え込めるほど、二回の人生を通しても成熟することはできなかった。
生産性がない恋愛は封殺されてしまう。ホルガの女は連帯して、シンクロする。だから突然変異など認めない。
黙っている。黙って、大袈裟に呼吸をして、呼吸を合わせて飲み込んでしまう。大丈夫?などとは聞かない、大丈夫にならなくてはいけないのだから。
もしくは呼吸を一切合わせない。それは違うとは言わないが、合っているとも仲間内に直接言わない。ホルガの正しさを突きつけられる。気づいた時には断罪されている。
多様性などない、全てを踏み均して飼い殺しにする。村も人も同じだ。草原が広がっていて、周りは高い木々が見下ろすように立っている。
切り開かれた分だけの幸せ。自由。愛。障害などなく、手を伸ばせば草も掠めぬほどに容易く人々は抱きしめ合う。けれども混じり合えるのは男女だけだ。
村を出るということは、子を孕むことと同義だった。それは使命だった。ヒーローになれるチャンスだった。なりたくなんかなかった。村長がホルガを出る前に肩を叩いて一言だけ、「良い種を持ち帰るんだ」と言った。
ミュエラは長いまつ毛の陰を濃くして軽く首肯し、私は立ち尽くした。ミュエラに手を引かれて村をでた。私たちは一度も振り返らなかった。
ミュエラはピルを飲んでいる。それも良い種を残すための方法だった。軽い女だと思われていた方が、精力的で野生的な男性と出会えるからだ。
村を出る前に教わったいろんな草をブレンドして発酵させた臭いドリンクも飲んでいた。毎朝私もテーブルに置かれるので飲むことになっている。子宮を柔らかくし、良い卵子を精製するという。男に蹂躙されるために、体を拓く。それは良い種を受け入れる、もらう側からすれば当然の戦略の一つ
グラスジャーになみなみと入ったその液体は毎日継ぎ足される液体は泥水のように濁り、曇る。正直泥水の方がマシだった。だってこれは奪われるためのお膳立てなのだから。健康にも美しくもなれない泥水を啜って毎日をやり過ごす方がずっといいように思えた。
でも面と向かって彼女を裏切ることができなかった。怖かったのだ。目の前で、シンクにこのグラスの中の液体をながしたらどう思うだろう。そう考えたことはある。怒るだろうか、それともライ麦のパンを微笑みながら齧ってわたしのことを眺めているだろうか。
反応されないことが怖かった。正しく言えば欲しい反応をくれないのがすごく、嫌だった。彼女はきっと私と一緒になってこの液体を下水に流してはくれない。悠然と喉に流し込み、もう一杯自分のグラスに注いで私に差し出して見せるだろう。
だからせめて、抵抗として、私は泥水よりひどいジュースを飲むけど体を明け渡す気はなかった。この体は村の所有物ではなく、私のものだと。液体が体の管を通るたび意識した。自分は選んだのだとそう言い聞かせていた。
村を出て私たちは大学を受験し、受かった。私は日本文化を専攻し、ミュエラは経済学を学んだ。ミュエラは大学入学初日から男を連れ込み昼間から義務としてセックスをした。確かめるようにゆっくり激しく音がした。
私は彼女がそうしている間、いつもリビングで黒いテレビの画面を見つめていた。電源はオンにしない。ぼんやりと白い私の影が液晶に映っているところを眺める。
マジックマッシュルームを焚いてセックスをする彼女たちの奏でるお世辞にも美しくない原始的なリズムに眠くなりながら、自分と会話していた。
足の指の隙間から、歪んだ本棚の真横から、ミュエラの書き残した分数の向こう側から自分はいつも現れて、早く答えを出せという。簡単に言う。それができないからこうして私は一人にされてしまうのに。
幻覚は正直でうるさい。痛いところしか触らない。気持ちよくなどなかった。どこにもいけなかった。ぼんやりと液晶に映っていたはずの影が耳元でなんで自我なんてあるの消しちゃえと日本語で言う。私はリモコンを掴んで液晶に、投げ込んでいた。
われた。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。ただ幻覚の中でもがいていたら。裸のまま男と女がのっそり部屋から歩いてきた。下半身からは液体がダダ漏れだ。男は無精髭をはやし、くるくるした髪を指で遊びながら言う。
「君はやらないの」
何がとは聞くまでもなかった。いい種袋を見つけたんだと悟った。憎たらしかった。私は限界を迎えていた。
「ミュエラが好き。あなたが好き。セックスして、私と…」
ミュエラは何一つ変化なく、裸で私に微笑んでいた。知っていた。少しの驚きも彼女にはなかった。侮蔑もない代わりに彼女には理解も一切なかった。
アロエを差し出したあの時だって、私が気づかない思いにきっと誰か気づいていたのだ。ミュエラは所謂お目付役として私に優しくしていたのだろう思った。あの時アロエを彼女に差し出されなければ気づきやしなかったのに。
どうして生まれ変わることはできたのに、過去に戻ることはできないのだろう。幸せになれないのだろう。自我さえきっとないのだから、彼女はプログラミングされたロボットより愚直に私に向き合っていたのだろう。
美しい彼女は私の手を取った。
「良いことなのよ」
そういって男の前に立たせた。男を介して私たちは繋がることになった。男と私の粘液が混じり合う。彼女が受け入れいてたもの。白濁を飲み込む。私の体は私のものだと自我に言う。ちがうよと頭で誰かが言う。広がる背の低い草、色とりどりの花、松明のチラつき、笑い声。反響せずに染みる声と声。
涙が出るのは初めてだったからじゃない。彼女もまた泣いていた。私を飲み込もうと横で美しい顔の筋肉を精一杯動かして、喘ぐスピードさえ揃えた。
彼女と何を分かち合えるだろう。朝食を一緒に取ってさえ、同じにはなれないのに。あなたと溶け合うこともできないのに。
ミュエラは私にも股を開いた。中からは男の液体が出てきていた。私は彼女の女性器を余すことなく舐め、下で少しでも掻き出そうとしたが許されなかった。ミュエラは感じてはいたが、感じるとすぐに男に体を返すように言った。
彼女の長く白い足の間に当然のように男が挟まった。子供を作れるのがそんなに偉いのか。私にはお膳立てしかできないのか。みすみす奪われることを理解してますます美しくなる彼女の一番近くで恋をジャムのように煮詰めて、棄てさせることが優しさだと思っているのだろうか。
狂うこともできない。正気で、愛する人が、自我もないのに私に触れ合ったふりをするその心がこんなに愛しいのに何もかも捨てろと言うのか。
彼女は行為中、ずっと手を握っていてくれた。喜ばしいことはそれだけだった。
男が二度果てて、シャワーを浴びに行っているとき彼女は「ピルを飲み忘れたわ」となんでもなさげに言った。そんなはずはないことは知っていた。だってそれは祈りの一つなのだから、敬虔な彼女が忘れるはずはないのだ。
セミも死なない国の夏に、私の恋心だけが死んで、新しい命が生まれる。今度生まれるならば赤い目が良い。白いけむくじゃらで長い耳の生き物になら生まれ変わってもいい。そうでないならばもう二度と、生まれない。
言いようもない不理解が私の中に落ちてきて、それは今まで無意識に呼吸を繰り返していた私の人格を確実に傷つけた。
そして私は思い出した。いや正しくは思い出してしまった。熟れた果実がほんのわずかな刺激で弾けるようにあんまりに脆く。
私はこの村とは全く違う世界の常識を持って人生を全うしていた事。何より私たちの村「ホルガ」が怪奇映画とも言われていた「ミッドサマー」の舞台であったという事を。
今の私と過去の私がゆっくりと溶け合い、確実に今を否定していく。倒れ込むような衝撃はなかったが、ただ静かに打ちのめされた。
湧き立つ友人たちの中で茫然と立ち尽くす私に、隣に立っていた賑やかな輪を見守っていた親友のミュエラが声をかけてくる。
「どうかしたの。何か恐るべきことがあった?」
核心をついてくるような彼女の物言いに少し背筋がぞくりとしたが、彼女は秩序を重んじる人だから多分特別な意味はないのだろう。ミュエラのブルーグレーの瞳に見透かされる幻想を見るのは私がそうあればいいときっと願っているからだ。私は小さく息を飲み込んで柔らかく表情筋を動かした。
「いいえ。何も。彼女にはいい運命が与えられたわね」
ミュエラは目を細めて極めて優しく、「それは違うわ」と耳元で囁いた。
「彼女は勝ち取ったのよ、ホルガの運命を」
風が脇を通り抜ける。春の終わりが近い、底抜けに鮮やかな緑色の風だった。
一頻りその男性についての話も終わり、私たちはそれぞれの作業に戻っていくことになった。もう夕刻だから私とミュエラと、あと数人の少女たちで夕飯を作るのだ。広場から離れひたすら寡黙に煉瓦造りの厨房を目指す。昔の、と言っても前の人生の記憶には女三人寄れば喧しいという言葉があったがホルガではそんなことはなかった。
皆それぞれ口をつぐみ、言葉を貯めて他者から外部を守るようにしていた。それでいて、私たちは手を取り合い微笑み合う。表皮の温度と呼吸のリズムが私たちを結び付けている。それを包含しているのがホルガそれ自体だ。
各々持ち場につき、ナイフや火の粉の跳ねる音が声の代わりに響き合う。ウサギの肉の皮を剥ぐとき言いようのない吐き気を感じてしまったのはきっと、昔の私なのだろう。でも今の私は言葉を飲み込む術を知っていたから喉まで迫り上がった吐瀉物だって何なく飲み込んだ。
私はどうしようもなくこの村の子供として生きているのだった。
私には知らない世界の常識や「ミッドサマー」の情報が頭に流れ込んできても、それを誰かに伝えようだとかそんなことは思えなかった。何故なら私は幸福だったからである。幸福を壊すほどの価値が私の記憶にはないように思えた。
おきてには道理がある。正しさというのは結局ものの見方の一つに過ぎないのだから、私が別の社会の幸福の形を押し付けることは傲慢だ。それに逆らうには、私という存在はあまりに無力だ。
ホルガの結束は固く、他者に同情はしても、わかろうだなんてことはしない。暖かな湯の中で突出した自我なく微睡ながら呼吸をしていた私に、宿った過去というのは苦しみを負うきっかけに過ぎない。
もう直ぐ夏が来る。魂の循環の契機は直ぐそこに来ている。
手元が狂ってたらりと小指から血がこぼれた。鮮明に滴る赤い血筋を誰もが見ないフリをして夕飯の支度は進んでいく。ウサギと私の血は少し色が違うことに気づいたが手を休めることはなかった。どうせ焼いてしまうのだから構わない。
ふとナイフにぼんやりと誰かの顔が浮かんでいるのに気づいて振り向くとミュエラがいて、アロエを一房差し出された。
そうだ。彼女だけは違う。平等を遵守するホルガの中で、私の唯一の例外。きっと彼女にとっても。私たちは言葉により繋がることをひっそりと楽しむ親友同士。禁忌ではないが静まり返った秩序の水面に細波を立てる私たち。
「ありがとう」と小さくいって、長いアロエの真ん中から血を吸ったナイフで切り落とした。新鮮な切り口からは豊かに水を称える断面が見える。しかしうっすらと赤い膜がついてしまったことに心がざわめいた。手の上に冷たくのせたアロエが体温に近くなった頃、私は感情の名前を思い出して絶望した。
─────────────────────────────────────────────────────────────────
薄い壁の奥からあの子と、誓いの音がする。体全体を使って喜びと苦しみを分かち合っている。始まりの行為で、それはある種のお終いなのかもしれない。私が好きな彼女は今日も澄んだ瞳に男を映し、美しく微笑んで村から遠く離れたこの1LDKの部屋で、今日会ったばかりの男とセックスをしている。
彼女たちが使っているのは、部屋いっぱいの大きさのダブルベッドだ。事が済めば、今夜いつも通りに私とミュエラがブランケットを引っ張りあってひっそり笑いあう優しいはずの寝床は、どんどん濡れて冷たくなっていく。所在なく舌を軽く噛んだ。温かいような気がした。
私はホルガに転生した現代日本の女子大生だった。生まれ落ちた先はミッドサマーという映画の中の世界だった。いや、地続きの現代なのかもしれない。google earthでさえわからないように、巧妙に隠された、というわけでもなく、ただ単に発見されていない村に生まれおちてしまっただけの。実際私が生きていたはずの時間から少し経っている。私は前世を少し覚えているだけの普通の人間なのかもしれない。
なんで死んだのかも覚えていない。しかし強い既視感を覚えた。見たことのある風景、どこか馴染めない空気感。少し遅れた手拍子を打ち続ける。遅れないように必死に手を叩いているうちにまたリズムが狂う。
記憶がどこから始まったのかすら覚えていない。気づいたら五歳くらいで誰かと追いかけっこをしていた。記憶の始まりはそんなところだ。でもだれだってそんなものではないだろうか。誰の腹から生まれたって同じことだ。命は結局巡るのだから。
ホルガには写真なんて外部から持ち込まれたものしかないから自分の思い出と正面切って向き合えない。親は村の人みんなで、誰かを母と呼んだことはなかった。でも十分に生きていけた。
儀式がある。人が飛び降りて、当然弾けて死んで、当然のように世界を祝福する。それは掟でグロテスクだとかそんなこと言ってられない。自我が目覚めるずっと前から刷り込まれてるから、可笑しいだなんて本当に思わなかった。日本人がタコを食べるのと同じくらい本人には自然で、他人には奇異なことだ。文化の違い。言って仕舞えばそれだけのことではないか。
でも文化の違いで恋心を抑え込めるほど、二回の人生を通しても成熟することはできなかった。
生産性がない恋愛は封殺されてしまう。ホルガの女は連帯して、シンクロする。だから突然変異など認めない。
黙っている。黙って、大袈裟に呼吸をして、呼吸を合わせて飲み込んでしまう。大丈夫?などとは聞かない、大丈夫にならなくてはいけないのだから。
もしくは呼吸を一切合わせない。それは違うとは言わないが、合っているとも仲間内に直接言わない。ホルガの正しさを突きつけられる。気づいた時には断罪されている。
多様性などない、全てを踏み均して飼い殺しにする。村も人も同じだ。草原が広がっていて、周りは高い木々が見下ろすように立っている。
切り開かれた分だけの幸せ。自由。愛。障害などなく、手を伸ばせば草も掠めぬほどに容易く人々は抱きしめ合う。けれども混じり合えるのは男女だけだ。
村を出るということは、子を孕むことと同義だった。それは使命だった。ヒーローになれるチャンスだった。なりたくなんかなかった。村長がホルガを出る前に肩を叩いて一言だけ、「良い種を持ち帰るんだ」と言った。
ミュエラは長いまつ毛の陰を濃くして軽く首肯し、私は立ち尽くした。ミュエラに手を引かれて村をでた。私たちは一度も振り返らなかった。
ミュエラはピルを飲んでいる。それも良い種を残すための方法だった。軽い女だと思われていた方が、精力的で野生的な男性と出会えるからだ。
村を出る前に教わったいろんな草をブレンドして発酵させた臭いドリンクも飲んでいた。毎朝私もテーブルに置かれるので飲むことになっている。子宮を柔らかくし、良い卵子を精製するという。男に蹂躙されるために、体を拓く。それは良い種を受け入れる、もらう側からすれば当然の戦略の一つ
グラスジャーになみなみと入ったその液体は毎日継ぎ足される液体は泥水のように濁り、曇る。正直泥水の方がマシだった。だってこれは奪われるためのお膳立てなのだから。健康にも美しくもなれない泥水を啜って毎日をやり過ごす方がずっといいように思えた。
でも面と向かって彼女を裏切ることができなかった。怖かったのだ。目の前で、シンクにこのグラスの中の液体をながしたらどう思うだろう。そう考えたことはある。怒るだろうか、それともライ麦のパンを微笑みながら齧ってわたしのことを眺めているだろうか。
反応されないことが怖かった。正しく言えば欲しい反応をくれないのがすごく、嫌だった。彼女はきっと私と一緒になってこの液体を下水に流してはくれない。悠然と喉に流し込み、もう一杯自分のグラスに注いで私に差し出して見せるだろう。
だからせめて、抵抗として、私は泥水よりひどいジュースを飲むけど体を明け渡す気はなかった。この体は村の所有物ではなく、私のものだと。液体が体の管を通るたび意識した。自分は選んだのだとそう言い聞かせていた。
村を出て私たちは大学を受験し、受かった。私は日本文化を専攻し、ミュエラは経済学を学んだ。ミュエラは大学入学初日から男を連れ込み昼間から義務としてセックスをした。確かめるようにゆっくり激しく音がした。
私は彼女がそうしている間、いつもリビングで黒いテレビの画面を見つめていた。電源はオンにしない。ぼんやりと白い私の影が液晶に映っているところを眺める。
マジックマッシュルームを焚いてセックスをする彼女たちの奏でるお世辞にも美しくない原始的なリズムに眠くなりながら、自分と会話していた。
足の指の隙間から、歪んだ本棚の真横から、ミュエラの書き残した分数の向こう側から自分はいつも現れて、早く答えを出せという。簡単に言う。それができないからこうして私は一人にされてしまうのに。
幻覚は正直でうるさい。痛いところしか触らない。気持ちよくなどなかった。どこにもいけなかった。ぼんやりと液晶に映っていたはずの影が耳元でなんで自我なんてあるの消しちゃえと日本語で言う。私はリモコンを掴んで液晶に、投げ込んでいた。
われた。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。ただ幻覚の中でもがいていたら。裸のまま男と女がのっそり部屋から歩いてきた。下半身からは液体がダダ漏れだ。男は無精髭をはやし、くるくるした髪を指で遊びながら言う。
「君はやらないの」
何がとは聞くまでもなかった。いい種袋を見つけたんだと悟った。憎たらしかった。私は限界を迎えていた。
「ミュエラが好き。あなたが好き。セックスして、私と…」
ミュエラは何一つ変化なく、裸で私に微笑んでいた。知っていた。少しの驚きも彼女にはなかった。侮蔑もない代わりに彼女には理解も一切なかった。
アロエを差し出したあの時だって、私が気づかない思いにきっと誰か気づいていたのだ。ミュエラは所謂お目付役として私に優しくしていたのだろう思った。あの時アロエを彼女に差し出されなければ気づきやしなかったのに。
どうして生まれ変わることはできたのに、過去に戻ることはできないのだろう。幸せになれないのだろう。自我さえきっとないのだから、彼女はプログラミングされたロボットより愚直に私に向き合っていたのだろう。
美しい彼女は私の手を取った。
「良いことなのよ」
そういって男の前に立たせた。男を介して私たちは繋がることになった。男と私の粘液が混じり合う。彼女が受け入れいてたもの。白濁を飲み込む。私の体は私のものだと自我に言う。ちがうよと頭で誰かが言う。広がる背の低い草、色とりどりの花、松明のチラつき、笑い声。反響せずに染みる声と声。
涙が出るのは初めてだったからじゃない。彼女もまた泣いていた。私を飲み込もうと横で美しい顔の筋肉を精一杯動かして、喘ぐスピードさえ揃えた。
彼女と何を分かち合えるだろう。朝食を一緒に取ってさえ、同じにはなれないのに。あなたと溶け合うこともできないのに。
ミュエラは私にも股を開いた。中からは男の液体が出てきていた。私は彼女の女性器を余すことなく舐め、下で少しでも掻き出そうとしたが許されなかった。ミュエラは感じてはいたが、感じるとすぐに男に体を返すように言った。
彼女の長く白い足の間に当然のように男が挟まった。子供を作れるのがそんなに偉いのか。私にはお膳立てしかできないのか。みすみす奪われることを理解してますます美しくなる彼女の一番近くで恋をジャムのように煮詰めて、棄てさせることが優しさだと思っているのだろうか。
狂うこともできない。正気で、愛する人が、自我もないのに私に触れ合ったふりをするその心がこんなに愛しいのに何もかも捨てろと言うのか。
彼女は行為中、ずっと手を握っていてくれた。喜ばしいことはそれだけだった。
男が二度果てて、シャワーを浴びに行っているとき彼女は「ピルを飲み忘れたわ」となんでもなさげに言った。そんなはずはないことは知っていた。だってそれは祈りの一つなのだから、敬虔な彼女が忘れるはずはないのだ。
セミも死なない国の夏に、私の恋心だけが死んで、新しい命が生まれる。今度生まれるならば赤い目が良い。白いけむくじゃらで長い耳の生き物になら生まれ変わってもいい。そうでないならばもう二度と、生まれない。
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