タコまめゴマは本当にコスプレか
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うみは、つめたい。うみは、いったいわたしのなんであるのだろうか。うみは、わたしをつくったのに。
わたしは自分の小さな白い手を見つめながらそう考えていた。考える、ということは私に与えられた新しい行動だった。浮かびあった点と点が頭の中で結ばれていく感覚はわたしに心地よい。知ること、それは失われていたこと。わたしの中には今、光のような余白が存在している。わたしがこれを求めていたのかはわからない、けれどもこれは私を幸せにしている。だからいいのだ、たとえここがどんなに小さな海であっても———————。
わたしは人間に「タコまめゴマ」と呼ばれる存在だ。頭にはタコの形を模したモノが生まれつきついている。もちろん取れない。岩にこすってみたりホンモノのタコに引っ張られたこともあるけれどビクともせずにぴったりとわたしの身体にくっついている。つまり「タコ」は私の一部なのだ。けれどもわたしのソースは「まめゴマ」。しかもそれも完全ではないものだ。ほかの個体がひらべったいお腹を持ち横に向かって優雅に泳ぐのに、わたしの泳ぎ方は四肢をすべて動かしたばたばたと忙しない泳ぎ。ほかのまめゴマは呼吸を吸いに水面を破ることもあるのに、わたしは呼吸をしなくても大丈夫(吸ったって害にはならなかったけれど)。
とうぜんやせいのなかではじぶんとちがうものはおそろしい。りかいができない。するひつようもない。そうゆうりゆうでわたしはいじめられていた。
たとえば「タコ」。わたしの頭を引っ張ったり足を持って振り回したりボールにして投げられたり。体に張り付く吸盤がチクリと刺さるような強さを持ちながら凄い速さで私を弄ぶのでわたしは彼らにあそばれるとぐったりしてしまった。彼らの触手が隙を生んだ瞬間に私は逃げ出してもの陰に隠れたりもしたが、相手も軟体動物。小さな隙間もなんのその。ようやく彼らも入れないようなほんの小さな洞窟までにも触手が入ってきたときには喉の奥に苦い液がたまり呼吸が止まりそうになった。
「まめゴマ」について言えば直接的な痛めつけは無かった。だけれどもまめゴマの声は比較的海の中でもよく響く。
「なにあのこ」「わかんない」「きもちわるい」「おそろしい」「いったいなんなの」「わたしたち?」「わたしたち?」「ちがうわあんなの」「そうよね」「そうよね」
形は違くても一応わたしは「まめゴマ」だ。だからその言葉が理解出来てしまった。どこへ逃げてもその声は響く、私の頭の中で。排他的で他者を受け入れないコロニー。まめゴマはそういう性質をもつ。だからわたしはいつも1人で逃げ回っていた。ただ、ひたすらに海の隙間を探して毎日泳いでいた。
転機は唐突に訪れた。海に嵐が吹いたのだ
。海の中は真っ暗で、砂が舞い上がって視界を遮るだけでなくひとつひとつが凶器となって私の体を削っていく。誰も私を守ってくれない。海は平等に無慈悲だ。海藻に縋るもつるりとしたその面にたよりなく短い私の手はあえなく離される。わたしはどこへ行くのだろう。この広い海の中でわたしは淘汰される。この広い海に殺される。あなたが生かしたんじゃないか!わたしを!しにたくない!わたしはしにたくない!私は誰に願うこともなくそう音もなく叫ぶ。激流の中でわたしはわたしさえも見失ってしまったわたしはついに意識までも手放した。
次に目を覚ましたら私の体を知らない熱がささえていた。生きている喜びよりもその苦しみが私を襲う。
なに?これはなに?やめて、やめて。
目が開けられないまま、わたしは飛び上がった。下からは親しみの匂いがする。今なら大丈夫だと思って私は逃げ出した。ばしゃん!耳元を大きな音が襲う。不規則に揺れる波の中でわたしはぐるぐるともがきながら逃げ出そうとしていたが次の瞬間には別のなにかが私を捉えた。それは、タコの手よりも優しくまめゴマよりも無機質なものだった。
私は小さな海に突っ込まれガシャガシャ揺られる。たくさんの海の外の生き物に見られて、わたしの「かいぬし」というのはわたしをタコのように弄びはしなかったが、まめゴマのようにもうひとつの同じ形の物体とこそりこそりと何かを話していた。「かいぬし」を最後に見た日は熱のある海を私に与えて何か音を発した。なにもわからなかったがきっとそれは優しさというものだったのだろう。
次に与えられた海は前の海よりは大きく前の前の海よりは狭すぎた。いや、大きさなどはもはやいいのだ。私は素晴らしい出会いをしたのだ!私と同じ半分ずつの命が、そこにはいくつもいた。噂で聞いたペンギンやイルカシロクマなんかもいた。そのどれも私と同じで半端な命。でも感情はひとつだ。悲しみや憎しみ苦しみに支配されるこころと優しさ楽しさ好きという感情を持つこころとが混じりあって私たちは生きていた。ほかの完全ないきものと同じように私たちは存在していた。形が違うというだけで迫害されていたわたしたちはようやく安寧の地を見つけた。私たちはそれぞれの言葉を完全に理解することは出きながったがおおよそ理解しあうことができた?きっと、魂が似ているからだろう。溶け合わない温度を共有していることには変わりはない。でも「同じ」という安心感というのはなかなか逃れられるものではない。ここは小さい海だけれどもそれ以上にここは優しい海だ。海の行き止まりで、私は今日も呼吸をするのだ。
ちいさなうみ。ほんのちいさなわたしたちのうみ。はぐれもののたちの、ゆいいつのうみ。だからここでねむるの。あしたをいきるために。
わたしは自分の小さな白い手を見つめながらそう考えていた。考える、ということは私に与えられた新しい行動だった。浮かびあった点と点が頭の中で結ばれていく感覚はわたしに心地よい。知ること、それは失われていたこと。わたしの中には今、光のような余白が存在している。わたしがこれを求めていたのかはわからない、けれどもこれは私を幸せにしている。だからいいのだ、たとえここがどんなに小さな海であっても———————。
わたしは人間に「タコまめゴマ」と呼ばれる存在だ。頭にはタコの形を模したモノが生まれつきついている。もちろん取れない。岩にこすってみたりホンモノのタコに引っ張られたこともあるけれどビクともせずにぴったりとわたしの身体にくっついている。つまり「タコ」は私の一部なのだ。けれどもわたしのソースは「まめゴマ」。しかもそれも完全ではないものだ。ほかの個体がひらべったいお腹を持ち横に向かって優雅に泳ぐのに、わたしの泳ぎ方は四肢をすべて動かしたばたばたと忙しない泳ぎ。ほかのまめゴマは呼吸を吸いに水面を破ることもあるのに、わたしは呼吸をしなくても大丈夫(吸ったって害にはならなかったけれど)。
とうぜんやせいのなかではじぶんとちがうものはおそろしい。りかいができない。するひつようもない。そうゆうりゆうでわたしはいじめられていた。
たとえば「タコ」。わたしの頭を引っ張ったり足を持って振り回したりボールにして投げられたり。体に張り付く吸盤がチクリと刺さるような強さを持ちながら凄い速さで私を弄ぶのでわたしは彼らにあそばれるとぐったりしてしまった。彼らの触手が隙を生んだ瞬間に私は逃げ出してもの陰に隠れたりもしたが、相手も軟体動物。小さな隙間もなんのその。ようやく彼らも入れないようなほんの小さな洞窟までにも触手が入ってきたときには喉の奥に苦い液がたまり呼吸が止まりそうになった。
「まめゴマ」について言えば直接的な痛めつけは無かった。だけれどもまめゴマの声は比較的海の中でもよく響く。
「なにあのこ」「わかんない」「きもちわるい」「おそろしい」「いったいなんなの」「わたしたち?」「わたしたち?」「ちがうわあんなの」「そうよね」「そうよね」
形は違くても一応わたしは「まめゴマ」だ。だからその言葉が理解出来てしまった。どこへ逃げてもその声は響く、私の頭の中で。排他的で他者を受け入れないコロニー。まめゴマはそういう性質をもつ。だからわたしはいつも1人で逃げ回っていた。ただ、ひたすらに海の隙間を探して毎日泳いでいた。
転機は唐突に訪れた。海に嵐が吹いたのだ
。海の中は真っ暗で、砂が舞い上がって視界を遮るだけでなくひとつひとつが凶器となって私の体を削っていく。誰も私を守ってくれない。海は平等に無慈悲だ。海藻に縋るもつるりとしたその面にたよりなく短い私の手はあえなく離される。わたしはどこへ行くのだろう。この広い海の中でわたしは淘汰される。この広い海に殺される。あなたが生かしたんじゃないか!わたしを!しにたくない!わたしはしにたくない!私は誰に願うこともなくそう音もなく叫ぶ。激流の中でわたしはわたしさえも見失ってしまったわたしはついに意識までも手放した。
次に目を覚ましたら私の体を知らない熱がささえていた。生きている喜びよりもその苦しみが私を襲う。
なに?これはなに?やめて、やめて。
目が開けられないまま、わたしは飛び上がった。下からは親しみの匂いがする。今なら大丈夫だと思って私は逃げ出した。ばしゃん!耳元を大きな音が襲う。不規則に揺れる波の中でわたしはぐるぐるともがきながら逃げ出そうとしていたが次の瞬間には別のなにかが私を捉えた。それは、タコの手よりも優しくまめゴマよりも無機質なものだった。
私は小さな海に突っ込まれガシャガシャ揺られる。たくさんの海の外の生き物に見られて、わたしの「かいぬし」というのはわたしをタコのように弄びはしなかったが、まめゴマのようにもうひとつの同じ形の物体とこそりこそりと何かを話していた。「かいぬし」を最後に見た日は熱のある海を私に与えて何か音を発した。なにもわからなかったがきっとそれは優しさというものだったのだろう。
次に与えられた海は前の海よりは大きく前の前の海よりは狭すぎた。いや、大きさなどはもはやいいのだ。私は素晴らしい出会いをしたのだ!私と同じ半分ずつの命が、そこにはいくつもいた。噂で聞いたペンギンやイルカシロクマなんかもいた。そのどれも私と同じで半端な命。でも感情はひとつだ。悲しみや憎しみ苦しみに支配されるこころと優しさ楽しさ好きという感情を持つこころとが混じりあって私たちは生きていた。ほかの完全ないきものと同じように私たちは存在していた。形が違うというだけで迫害されていたわたしたちはようやく安寧の地を見つけた。私たちはそれぞれの言葉を完全に理解することは出きながったがおおよそ理解しあうことができた?きっと、魂が似ているからだろう。溶け合わない温度を共有していることには変わりはない。でも「同じ」という安心感というのはなかなか逃れられるものではない。ここは小さい海だけれどもそれ以上にここは優しい海だ。海の行き止まりで、私は今日も呼吸をするのだ。
ちいさなうみ。ほんのちいさなわたしたちのうみ。はぐれもののたちの、ゆいいつのうみ。だからここでねむるの。あしたをいきるために。
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