あいびきハンバーグ
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「どうしてお肉が食べられるの……? かわいそうだと思わないの……?」
食事を一緒に摂るということは感覚の共有を前提として存在している。前提が崩されたときこそ、強く意識させられる。
アカリちゃんは堰を切ったように溜め込んでいた涙をぼろぼろと流しながら、けれども懸命に私の手にあるフォークとナイフを睨んでいる。私は今まさに夕飯のハンバーグに取り掛かろうとしていたところだった。
彼女と付き合いだして二人で悩みながら買った揃いのカトラリー。よく磨いた銀のナイフに彼女の目が映っている気がして何故か、握る手が強くなった。
向かいに座るアカリちゃんは今日はなんだかお腹が空いていないと言ったから、彼女の前にはグリーンサラダを置いた。いつものように家にきた彼女のためにご飯を用意して食べようとしていた。
いつもと違うのは、おんなじものを食べていないということ。私の前にもサラダはある。しかし親しみ慣れたサラダボールに入るものはいつもと少し違う、どこか排他的な新鮮さに満ちていた。
ベランダで育てたトマトとバジル、スーパーマーケットで一玉百三十円で売っていたのが嬉しくて二人で大量に買ってしまったレタスの数枚。そこにアカリちゃんが作ったオリーブオイルに塩と唐辛子を混ぜただけのおざなりなドレッシングががかっており、てらてら、不自然に輝いているようにみえた。
「アカリちゃんどうしちゃったの、なんかやなことあった?」
「────今がいちばん、いや」
額に当てていた手を少し悩んでからゆっくりと下にずらして目を塞ぐ、演技臭い仕草をしてアカリちゃんはこちらを見ずに言い放つ。暴力的な感情が、静かに放たれたその言葉の中で確かに蠢いているように見えた。
とらえようもない黒い魚が薄暗い部屋を泳ぎ回る。その黒さはきっと影だ。アカリちゃんがわたしを責め立てる理由を掴もうにもその一言を最後に彼女は涙の数を増やすばかりだ。ぐるぐると、目隠しするようにわたしの周りを魚が泳いでいる。
アカリちゃんのまろい膚を伝い落ちた涙は、ビニィル製のテーブルクロスの上で一度弾けてゆっくりと重力に従ってもう一度伝っていくのが見えた。この部屋は今、彼女自身なのだという腑に落ちる感覚がある。どうしてこんなにも居心地が悪いんだろう、私は彼女を愛しているというのに。
どこまでも彼女の外側にいると、私はきっと気付いているのにどうしたって私はアカリちゃんの内部に急に放り込まれたような気がしてしまっているのだ。私は必死に自分の居場所を取り返そうとして声を上げる。彼女と話さなくてはならないと思った。
「なんで? お肉すきじゃん。この間もアカリちゃん、私が作った角煮をさ、」
「ききたくない! やめてよ!」
アカリちゃんは絶叫して私の言葉を断ち切った。かち合った目の中には赤黒い熱が滲んでいる気がした。そんな、事実じゃないか。昨日までおいしいねって笑いあったじゃん。アカリちゃんはなんでもよく食べたが肉料理がすきな普通の子だったじゃないか。
どうしちゃったのアカリちゃん。じゃあ全部嘘だったっていうの? 無理して私のご飯を食べていたの? どうして、なんで、似たような文句ばかりが口をつきそうになってはつかえてしまう。彼女はもう私を見ていなかった。机に突っ伏してただおいおいと泣くばかりだ。
オレンジ色の蛍光灯に照らされる私たちの食卓は全くの暖さを欠いていた。二人で決めて買ったグラスもカトラリーもテーブルクロスも何もかもが、急にチープな灰色に見えてくるのが怖くて一度目を閉じて、そして開いた。
世界はそう簡単に変わらない。私はわざとらしく唾液を飲み込む仕草をする。彼女の嗚咽が少しずつ大きくなるのに混じって、わたしはどうしようもなくナイフを動かした。
音もなくハンバーグのほそぼそとした結合を蔑ろにして分断する。中までしっかりと火の通ったハンバーグは我ながら美味しそうにできている。それもそうだ、だってこれは何度も作ったアカリちゃんの好物なのだから。
生活を、生活をしよう。彼女が私の世界に帰ってきてまた同じご飯を食べられるように。舌の上に乗る合挽き肉はもぞもぞと咀嚼に合わせて口の中を動いた。少しぬるくなっているが、やっぱり美味しいじゃないか。私たちの生活の味だ。ねぇなんで食べてくれないのかな。私も少し泣きたくなってしまった。
体の中には空洞がある。隙間なく埋められた空腹感はいったい私の精神の何をどれだけ埋めてくれるのだろうか。口の中に放り込んだ熱を咀嚼しながらそんなことをぼんやりと考える。
いやきっと、なにも、ない。これはもう義務なのだ。生活のための儀式だ。喉元を通り過ぎていく感覚はひたすら違和感を伴って、それでもスムーズに下っていく。砂時計のようにゆっくりと、食べ物が落ちきるのを待っていた。
私はしん、と、しずまりかえっていた食卓の上にかちゃんと音を立ててナイフとフォークを置いた。ハンバーグは今日も美味しかった。ちらとアカリちゃんのサラダを見たが一ミリも嵩が減っていない。やはり不自然に油が光っている。
アカリちゃんはもう泣いていなかった。突っ伏してそのままねむってしまっていたらしい。彼女はそういうところのある人間だ。自由気ままで衝動的、猫のような柔らかさのあるそういうところ。人を振り回すことに悪気なんてない。それは彼女が得たい結果に付随してしまうもはや「どうしようもない」ことなのである。
けれども泣かれたのは初めてだった。アカリちゃんはなんだかんだ言って感情をストレートに向けることが苦手だ。自分を把握されて縛られてしまうことにいつだって怯えている。そのくせ知らず知らずのうちにそれを求めている。危うい均衡の上にいてそれでいてやじろべいのように不安定な安定を見せる。
すうすぅと聞こえてくる寝息を聞いていたら彼女の激情なんて存在しないも同じなのにな、と思う。全部嘘ならいい、彼女の前にあるのが私と同じハンバーグならよかったのに。どうしたってかなわない。
「他人の気持ちを推し量るなんてサイテー、ってまた言われちゃうかな」
私は対岸の彼女に手を伸ばす。そしてそっと髪に触れた。柔らかな髪質が私の掌で跳ねるように遊んだ。こうして近くにいるのに心に触ることはできない。理解されないなんて当たり前で理解出来ないのも当たり前なんだ、とアカリちゃんはいつも言う。私はそんな彼女に曖昧に微笑んで理解したフリを続けていた。でもそれももう限界なのだろうか。
「置いていかないでよ、アカリちゃん」
声はしりすぼみになりながら乾いたオレンジ色の世界の中に消えていった。手の内には温かい熱が宿っていく。ふとみた時計はもう十一時を回っていた。今日はまだ月曜日、私たちはまだ生活を続けなくてはならないのだ。
私たちは、一緒に生きていけるよね。だって今までだって生きてこれたんだから。私はゆっくり席を立ち、冷蔵庫の奥に突っ込んでいたウイスキィを引っ掴んだ。冷蔵庫に寄り掛かり手近なグラスに注いで一気に煽った。感情を溶かして飲み干してしまいたい気分だった。前後不覚のうちにねむってしまえるのは大人の特権だ、とアカリちゃんと笑い合った黄昏を思い出すような琥珀色の液体。とても冷たいはずのそれは激しい熱を伴って、私の中で暴れる。しかし凝り固まった感情はそのままの形で、そこにある。
何も変えてはくれない。こんなもの、自傷行為と大差が無い。思考力を落として明日の自分に全てが夢であればと願うことに、いったいどんな光があるのだろう。もう一度手にしたはずの熱が指先から溶け出していくのを感じたが、取り戻す術は知らない。それでも留めて置きたくて力強く手を握りしめる。爪が食い込んでほんの少し、血が皮膚の上に現れた。感情はどうしたって私の中から抜け出していかない。それだけが、ひたすらに悲しい。
私はソファの上からブランケットをとってきて未だねむったままのアカリちゃんにかける。小さな背中は穏やかな丘陵を作っていた。案外心地良さそうな眠りに見えて、額を指で弾いてやりたい気がした。指の形を作ったところで自分の手がひどく冷たいことを思い出してやめる。ブランケット越しに肩を軽く撫でて、おやすみといった。
リビングルームの灯りを消してベッドルームへ行った。この家にはもう一つ熱があるのに、そばにはない。溶け合うことはできなくても、わかりあおうとすることは出来たはずなのに。一条涙が溢れて気づかぬうちに眠ってしまった。
次の日目を覚ますとアカリちゃんはもう居らず代わりにチラシの裏に綺麗な字で「ごめんね」とだけ書いてあった。朝日の中にその手紙と手付かずのサラダ、洗わずに放置された食器が寒々しく映し出される。何もかも知っているはずの彼らはすっかり沈黙して湯気さえ立てない。アカリちゃんはどんな気持ちでこの言葉を残したのだろうか。
「他人の気持ちを推し量るなんてサイテー」
彼女の口癖がふと、口を突いた。
この一週間、アカリちゃんから連絡はなかった。私もしなかった。喧嘩をしたことは今までも何度かあったが喧嘩したまま帰ってしまうと言ったようなことは今までなかったため、私たちは歩み寄り方が分からなくなっていたのかもしれない。けれどもスマートフォンをちらちらと見てしまうようで十分に集中ができていなかった。常に心の中にはアカリちゃんがいて、細波立ってうるさかった。
生活する私のスマートフォンはもちろん沈黙することはない仕事の連絡や友人からの社会的繋がりは断ち切ることは出来ない。脊髄反射で返事をして社会の中におとなしく落とし込まれる。毎日は単調に画一的なリズムを刻む。世界は色彩に満ちていてたくさんの感情と触れ合うはずなのに何も響いてこなかった。
表面上、小手先でなぞるだけで世界と通じ合って何もかもを知った気になる。きっと誰もがそうだ。何もかも知ったかぶって本気で触れ合う気なんて、ない。こわいから遠ざけて、それでいて理解されたいなんて傲慢な願いを抱えている。
くだらないと思う。こんな余計なことを考えてしまうくらいには生活は滞りなく、一切順風満帆に進んでいた。私はアカリちゃんと出会った母校の高校で学校事務として働いているが、仕事もミスなく問題が発生するなんてことはなかった。むしろ電話対応を褒められた。これは今までの生活を鑑みての事だったから、アカリちゃんとは関係がない。関係がないからこそ、悲しい。
友人たちはいつか言っていた。彼氏とひとときだって離れたら情緒が不安定になってしまう、だとか、彼氏と毎日通じ合っていないとやる気が出ないだとか。そういう気持ちをなんとなく知った気でいた。自分の中にもきっとあるだろうことを理解していた。
それでいて、一切わかっていなかった。恋に身をやつし、主軸と据えてしまっている友人たちは気が狂っていると思った。きっとそんなふうな出会いを知らない私は劣っているのだときっと彼女らは言外に言っていたのだろう。
そんなバカな話があってたまるだろうか。何かに心を乱されることは結果的に不幸じゃないか。生活に支障が出るような心乱されることを喜ぶなんて愚かしく悲しい自己陶酔で、なんの解決にも至らない。
一笑にふしてやりたかった。けれどもきっとそれが恋なのだろうなとどこかで納得していた。どんなメディアに描かれる愛も恋もそんなものだ。美しく煌めいて、恐ろしほど暴力的な熱。人はそれを賛美し、ときに嫌悪し、渇望する。笑われるのは、私の方だ。
私とアカリちゃんの間には件のような熱いものはなかった。もっと生温い、抜け出すのも面倒になるような曖昧なたゆたいのなかにある関係性だったと思う。でも確かに私はアカリちゃんが好きで、彼女も私の言葉にうなづいた。ベッドの中で手をつないで温度を感じ合うことに幸福を感じるような私たちの関係性は恋でも愛でもないと言うのだろうか。
そもそもそんなもの誰が決めるのだろう。堂々巡りに落ち着く。マジョリティが決めたものが全ではないはずだ。関係性は当人間の間にのみ承認されていればいい。私と、アカリちゃん。私たちの世界は私たちによってのみ認め続ければこの関係の存続など容易いとそう信じていたのに。
ままならない。感情も世界も何もかも。タイピングの手を止め、小さくため息をついてそう思う。時計に目をやるともう終業時刻一時間前だ。もう一週間が経つ、仕事が終わったらアカリちゃんに電話しよう。今度こそ対話しよう、そう古ぼけた時計の秒針に誓った。最後のひと頑張りだ、息を入れ直してパソコンに向かい合ったところで電話が鳴った。どうやら取次の電話らしい。赤いランプが小さく点滅していた。白い受話器を取って受けると、切迫した女性の声が聞こえてくる。知らない声だった。
「アカリさんが、実験の途中で倒れてしまって……。今病院なのですが────」
言葉がゆっくりと体の奥に落ちてくる。あのオレンジ色に包まれた部屋が灰色になり、そのまま崩れる音を聞いた。わたしは「はい、はい、」と小さくうなづきながら電話相手の話をメモしていく。ずっと指の先は冷たくてそれから背骨が涼しかった。最近蛍光灯から変えられたばかりのLEDがくっきりと影をグレーのデスクに残している。皮膚の上でざわめいているどこまでも鮮明な感覚を、溶け出た意識が私の頭上で俯瞰していた。
取り乱すこともできない私をかわいそうだとでもいうつもりなのだろうか。なるものか、これは私の矜恃だ。アカリちゃんが褒めてくれたことのあるわたしの精神だもの。崩してなんかやらない。必要な情報を聞き取り失礼しますと発音してから受話器を優しくおき、上司のデスクへ向かい早退する旨を伝えた。
電車に飛び乗り、病院の最寄り駅を目指した。ここから四駅、わたしの家から七駅、アカリちゃんの所属する美容品の研究所から二駅。取り立てて有名なにかがあるわけでもないその駅に降り立ったことはなかった。三十年も前からある古ぼけた総合美容がひとつ、閑散とした町にぽつんと建っているのをいつも車窓から風景の一部として眺めていた。
プラットフォームに降り立つとその病院は思っていたよりも大きく見えた。いやたぶん実際に大きいのだろう。この病院のために町が存在しているように太い道路と薬局の他には田圃しかない。どことなく、生の実感が薄い場所のような気がした。この町のすべての命はあの箱に集約されているような、そんな気持ち。もともとは白かっただろう病院の壁は所々茶けた色に燻んでいた。
改札を出るために階段を下って行く。一段一段、慎重を極めて足を下ろしていくと先ほどの電話の内容が頭の中にひとつひとつ、浮かんできた。生命に別状はないこと。ここしばらく元気がなかったこと。いつもは何があっても食事をしっかり取るのに食べていなかったこと。今は点滴をしていること。保険証は持っていること。たべていたのが未調理の野菜ばかりだったこと。わたしの名前を読んでいたということ。いろいろなことが消えることなく頭の中でぶつかり、高い音を立てて響き合う。
出来事というのは終わったあとに伝えられるものだから、どうしたってやり切れないものだ。くるしい、息が苦しい。手摺をつかんでその場に蹲りたくなるのを抑えてそのままの勢いで階段を駆け下った。息が苦しいなんて、生きている証拠だ。笑っちゃいたくなっちゃうな感情の助長を止めることさえもできない。どうしようもなく生きている。ただそれだけが願いであったはずだった。
この駅で降りた人はわたしの他にいたのだろうか。大きな病院があるのだから人がもっといてもいいはずなのにあたりを見回しても人が見えない。改札に電子カードをタッチして駅の外へ出た。定期範囲内だから差し引かれるものはない。歩みを進めるたびに視界は開けていくのに袋小路にいるような気がした。
駅前には幾ばくかのチェーン店があるが扉を開けなければ音もしない。バスの音はしないが遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。曇天に吹く風が異様に冷たく感じられて、左手の指を右手で擦って見ながら病院までの一本道を歩んだ。硬いアスファルトの上に響くわたしの靴音だけが今のわたしの現実の全てに感じられるような世界は甚だ不安定だった。
近くで見てみると病院は、思ったよりもきれいなものだった。自動ドアだし、何より院内の灯りが柔らかな色のLEDだった。とこどころに観葉植物が置いてあり、建物自体は古ぼけたものだが全体としては温かみのある場所だった。
たくさんの老人と、すこしの子供が入り口すぐに横並びになっているイスに思い想いに腰掛けている。全体的にどこか疲れた印象を受ける雰囲気が漂っている。平日の夕方の病院なんてこんなものだろうか。時折鳴る電子音と空調の効いた他は外と大差がない気がした。
わたしは電話で聞いた処置室の場所を見つけあぐねて受付に立ち寄った。柔和な表情を貼り付けた骨の固そうな看護師が私の応対をして導いてくれた。そこは受付を過ぎて右に曲がりだいぶ奥まったところにあるちっぽけな部屋だった。処置室と大きくスライドドアに書いてある。看護師はそれじゃあ、と小さな笑みを作ってお辞儀をし去っていった。私もその背中に向かってお辞儀を返した。
硬いそのドアを軽くノックすると少し嗄れた男性の声でどうぞと聞こえた。銀色の取っ手を掴みゆっくりとスライドさせると、窓から入り込んでいる夕日が目にトゲのように刺さって、目を細める。
「サエちゃん」
アカリちゃんが私の名前を呼んだ。たった一週間くらい聞いていなかっただけのその音はとても懐かしい響きをしている気がした。アカリちゃんの目にはうっすらと水の膜が張っており頬も少し赤くて、迷子になってしまった子供のようにちっぽけな孤独に支配されてしょうがないようだった。
今ここで救ってやるのはきっと容易くて、手を伸ばせば彼女は今私にすがってくれるだろうことを知っていた。いつもの生活に戻って笑い合うことを願っていたはずなのにこうしてアカリちゃんを目の前にすると打ち壊したくてたまらない。何もかもままならないから、私は私と心中したい。
そんな逡巡に打ちのめされていると、この部屋の主人であろう初老の男性に声をかけられた。アカリちゃんの隣の椅子を勧められたのでおとなしくそこに座る。
「サエさん、でしたね。アカリさんとはどのようなご関係ですか」
「友人です」
「ご友人ですか」
「ええ、ねぇアカリちゃん」
アカリちゃんの方を向くと彼女は目を見開き、私の片腕を力強く握りしめてきた。倒れたと聞いていたのに思ったより手に力が入っている。
「痛いよアカリちゃん。離して」
「サエちゃん、なんで、」
「何?」
彼女は口をわなわなと震わせたが言うべきことを結局見つけられず、私の腕から力は解けていった。きっと跡も残らない。彼女はこういうやつだ。相手の口から愛を引き出したがる、卑怯な臆病者。私は不謹慎にも笑いそうになってしまった。医師はぎこちない私たちの空気を感じ取って会話を再開した。
「仲がよろしンですね」
「ええ。とても」
「アカリさんは昔からよくおばあさまの付き添いでこの病院にきていましてね。しかし本人は至って健康そのものですから久しぶりに会ってびっくりしましたよ。まさか栄養不足で倒れるなんてね。貧血程度の症状で良かったですよ。一応、精密検査もしましたが概ね大丈夫。点滴もして処置は完了していますのでお家に連れて行ってあげてください」
「はい、わかりました」
私はもうすっかり彼女の母親に仕立て上げられてしまっているような気がして嫌だった。わたいたちは同い年で対等な生き物だったはずなのに、どうしてこうも私だけが一生懸命に彼女を愛さなくてはならないのだろう。
「それじゃあ、これで」
「ええはい。アカリさんお元気でね」
アカリちゃんは何も言わず小さくうなづいて私の後を追って立ち上がった。私はドアを開ける前に振り返り一礼した。医師は気の良さそうな笑顔を作って手を振る。やっぱりアカリちゃんは何にも言わずにどこか遠くを眺めていた。
私たちは精算をするために、溜息の滞留するあの入り口近くのベンチでしばらく待つことになった。人はあまり減っていないような気がしたが日は少し傾き、冷たい風が自動ドアが開閉するたびに入り込んできた。
黄昏時に入って人々の疲労はピークに至っているような気がした。誰もが口を黙み、小さな音でついているニュースをぼうっと眺めている。私も隣にあるアカリちゃんの温もりに少し体を固くしながら眺めていた。
遠くの県で起こった殺人事件をレポーターが深刻そうに語り、暖かい色彩のスタジオでは怖い事件ですねと判を押したような相槌を打ってことの説明に入る。生活は繰り返される。その中で何かが壊れてしまう。たったそれだけの、他人事だ。
そんなふうに自分の世界に閉じこもっていると、不意にアカリちゃんが手を握ってきた。彼女の手は私より高い熱を持っている。皮膚の上から染み込むようにじんわりと熱が伝わってくるのが恐ろしかった。アカリちゃんの少しひび割れた硬い指先を私の上から遠ざけようと掴むと力を込められた。
「サエちゃん、あのね、」
私より頭がよくて強いはずの彼女がこんなにも弱く、私にすがってくるのは若干の優越感を感じるが同時に浅い絶望を私に抱かせた。とびきり優しくしなくてはならないとこうしておもわされてしまうのが悔しい。愛なんてくだらない。執着があることは不幸だ。わかっているのに感情は止められない。なるべく空気を震わさないように声を出した。
「どうしたの?」
「あの、ね。会計が終わったらスーパーに行きたいの。良い?」
「スーパー?」
「うん。一緒に行ってくれる?」
「そんなに薄情じゃないよ」
私は喉の奥で小さく笑ってあげた。アカリちゃんは猫のように目を細めて本当に嬉しそうに笑った。やっぱりそんな彼女を見て、私は何か柔らかいものが心から剥がれ落ちていくような気がした。
「あのね、お肉が食べられなくなったのは本当になんでもないことなんだ」
病院を出て、私の家がある駅に着くまでアカリちゃんは私の手を離さなかった。よくいくスーパーに着き、カートを掴んでからアカリちゃんはぽつぽつと話を始める。夕飯時のスーパーは空いていて歩きやすかったが活気の裏打ちをそこらじゅうに感じる。
「あの日もいつものように動物に実験していたんだ。口紅を動物の皮膚に塗ったりね、いつも通りだったんだ」
やっぱりこのスーパーはレタスが安い。この間のはダメになってしまったから一つかごに入れた。
「でもよく考えたらいつも通りじゃなかったのかも。あの日はいつもよりウサギが鳴いていたかも」
きゅうりは最近高いなあ。栄養もそんなにないし買わなくてもいいか。
「その日のお昼ご飯食べたら吐いちゃってさ。生姜焼きだったんだけどさ。頭の中に声がするんだ。ダメなんだよね。怖いの」
人を感知をして呼び込みをする機械の声がうるさい。特売の品は別の店の方が安い醤油だった。
「声が聴こえる気がして、罪なんだよ。肉を食べるって罪なの。逃げられないって苦しくなっちゃったんだ」
アカリちゃんは急に止まった。そこは野菜売り場と肉売り場のちょうど境目で、彼女は口を抑えて辛そうに立ちすくんでいる。私がカートに手を伸ばして支え直そうとすると押し留められる。薄く目を閉じてゆっくりとその前を通り抜けていった。私は背後を守るように歩みを進めた。
「あ、」
アカリちゃんは声を上げて一つの食品を取り上げて私に見せてきた。心から喜んだふうに私を見上げてくるアカリちゃんの手の中にあったのは「豆腐ハンバーグ」だった。
「これでおんなじもの食べられるね。やったあ」
ひたすらに惨めだった。これは不器用な彼女なりの誠意なんだということはわかりきっていた。私なんかに縋り、翻って感情を吐露するなんて彼女らしくないことをしないでほしかった。誰も彼もかわいそうで醜くて、惨めったらしい。サイテーだよと笑うのはいつも彼女の方だった。
私は曖昧に笑いながら、「いらないよそんなもの」と言い捨てて彼女の手から商品を取り棚に戻す。アカリちゃんはもうどうしようもなく健気に、私に何を言い返すこともなく唇を噛んでしまった。ただでさえ白い肌はより白さを増していく。
「向こう向いといて。外でまっててもいいよ」
私は近くの肉のトレーに手を伸ばす仕草をして彼女をおどしてみる。アカリちゃんはいじらしく首を振って目を伏せた。急に興がそがれて私はその日肉を買うのをやめた。彼女の手綱になっているカートの先頭を掴んで緩やかに引いていった。
私たちのかごの中は緑黄色に満ちていて、いつもより品数は少ないはずなのにレジ袋に入れたら想像以上に重かった。病人に持たせるわけにもいかないので私が持つ。さいわいに大きなエコバッグに収まるくらいだった。私たちは家に着くまで一言だって話さなかった。それでいて私とあかりちゃんの距離は最近で一番近かったように思う。
家の鍵をあけて照明をつけた。アカリちゃんはいつもは何にも言わないのに「お邪魔します」と小さな声を挟んで靴を脱ぎ始めた。私が荷物を置きに先に台所へ向かおうとしたところで、「うわっ」とアカリちゃんの声がして振り向いた。彼女はよろめき今にも倒れそうになっていたので慌てて支える。
「ごめん、なさい」
私は答えてやれなかった。アカリちゃんは軽いということはなかった。むしろちゃんとした質量のある、手応えを感じた。平均的な女性の体重とおんなじくらいだろう。なのにどうしてこんなに空洞のある振る舞いばかりが私の目につくのだろうか。一週間ぶりの彼女は全く知らない匂いがした。
私はそのまま彼女を支えていつも食卓を囲むときの椅子に連れて行った。幾分かくったりとアカリちゃんはそこに腰掛け、私もいつものように彼女の前に座る。
「お腹空いてる?」
特別な会話は思い浮かばなかった。ただわたしはいつものようにそう聞いてみた。きっかけに困るといつも食事の話をしてきっかけにする。そうすると彼女はいつも頷いて、それ今日もおんなじだった。
「うん、」
「何が食べたい?」
「こんにゃくある?」
「うん、あるよ。なんで? 好きだったっけ?」
「特に好きというわけじゃないけど嫌いじゃないよ。あのね、一緒のものが食べたいんだよ。サエちゃ、」
私は急にもう限界だと思った。彼女の歩み寄りが何より私を刺激した。笑みが崩れて顔の力が一気に抜ける。立ち上がって、呆然としたままのアカリちゃんを見下ろした。
「ふざけないでよ」
飛び出た言葉は思ったよりも鋭利だった。そして私の感情に大胆な切り込みを入れる。溢れるのは血でも涙でもなく、ましてや純な恋でも愛でもなく、ただの憎しみだった。
「ふざけないでよ。捨てるならちゃんと捨てなさいよ。意気地無し」
「捨てるって何を……」
「何もかもよ。私のことも生活も、あの日捨てる気だったんじゃないの。だから私にあんなことが言えたんでしょう」
「違う、そんな気じゃ、」
「そうよね私がいつも許してきたもんね。私が悪いってきっと言いたいのよね。そんなこと許さない。選択したのはあんたじゃないの」
「違う、ちがうよう。ねえサエちゃん話聞いて」
「じゃあ聞かせて、なんでおんなじものが食べたいなんていうの」
目を合わせてアカリちゃんに聞いた。彼女の目にはゆらぎと迷いがある。秒針の音が固く私たちの距離を測り始める。そうしてようやく口を開いた彼女の瞳にはあの日と同じように涙が溜め込まれていた。
「わかって、ほしかったから。サエちゃんに、これ以上罪を。重ねて、欲しくなかったから、」
死んでしまった、と思った。私が愛したアカリちゃんはもうどこにもいなかった。ただ弱く孤独な女の形の入れ物が水をたらたらこぼしている。それはもうアカリちゃんではないのに私は座ったままのその女の足元に蹲り縋って叫ぶことしかできなかった。
「返してよ、どうしてわたしのあの子を殺したのよ。望んでなかった。なんで置いていくのよ。罪なら一緒に背負うから。どうしておいていくの、ねえ返してよぅ……」
入れ物は「ごめんなさい」を繰り返す。頭上に水が落ちてきた。わたしの熱は鎮まることなくむしろ昂った。
「裏切り者。偽善者。結局私のこと一人で罪人にしておいていく気だったんだ。ひどいよお。仏にでもなるつもりなの。じゃあわたしを救ってよ!これ以上わたしを残虐にしないでよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、」
「どんなものを殺してだって、アカリちゃんさえ生きていればよかったのに! どうしておいていくの、ねぇ。ねぇ!」
「ごめん、ごめんね」
「他人の気持ちを推し量るなんて、サイテー。ははは……」
渇いた笑いが出てようやくわたしの目から涙が溢れた。相変わらず暗い部屋で私たちは叫び合い、お互いの絶叫で傷付き合った。そしていつの間にか眠りについて、その部屋には生者がいないような静寂さが訪れた。
私は硬い床の上で目を覚ます。カーテンの間から光が道のように延びていた。体を起こすとよく知った声が上の方から「おはよう」と声がした。それは紛れもないあかりちゃんの声で私は飛び上がる。アカリちゃんは頬杖をついて私を眺めていた。
「お、はよう」
ひらひら手を振る猫のように柔らかな仕草が朝日の中で洗われたように清らかに輝いていた。私は彼女の前の椅子を引き、座る。いつもとは反対の席だった。そして座ってみると私たちの前にはそれぞれあの日のようなハンバーグの乗った皿がある。私はそれをまじまじと見つめてから顔を上げる。アカリちゃんは相変わらずにゃあという声の似合いそうな口の歪め方をして微笑んでいた。
「サエちゃん、私と共犯者になってくれるんだよね」
答えは言うまでも無かった。私はうなづいてアカリちゃんの瞳を見つめる。
「良かった。これで全て報われるね。ずっと一緒に、生活をしようね」
アカリちゃんは私にナイフとフォークを渡し、自らも携えた。いただきますと声を上げて小さなその肉の集まりをほぐし、口に運んだ。わたしも同じように口へと肉を放り込んだ。
その肉は知らない味がした。すこし甘くて柔らかいくせに筋っぽい舌触り。飲み込む前に、アカリちゃんの方を見るともう嚥下したらしい彼女はただ満面の笑みで私をみていた。銀色の幸福な生活の一部が確かに今私たちを傷つけるのがわかった。それでもどうしようもなく、彼女と生きていたかった。わたしは喉を通り過ぎる物体の質量から逃げることができずに何かにつかまっていたくてナイフとフォークを握りしめた。
「目の前の死は変わらないよね」
頬杖をついてわたしから目を逸らして彼女はそう言った。彼女は遠く、窓の奥のその先の光を受け入れる気なんてないだろうに優しい面差しで見つめていた。光の偶像のように、白昼夢にも似た踏み込み難い幻が映し出されている。問いには到底堪えられそうにもなかった。空白があるのが耐えられなくてわたしは肉を口に何度も放り込み、噛んで、飲んで脳を黙らせようとした。
「人間に最後まで残る欲は食欲らしいよ。だれも罪から逃げきれない。聞こえない痛みは知らない、存在しないのと一緒だ。わかったんだ。どんなものにも感情が認められるならその全てを背負って呼吸する他ないんだってね」
聞きたくなかった。それは断罪に他ならなかった。彼女は何一つ諦めてはいない。そうして私に全てをわからせてうなづかせる気でいるのだ。何か人生に置いて瑕疵があるのだとすればそれは呼吸することによってできるのだ。世界を捨てるには十分な理由だと、私に飲み込ませる。皿にはもう、食べるものはない。
「一緒にね」
私は言った。朝日の中で煌めく銀食器に罪はなかった。全ての罪は私たちによって生産される。そしてそれを食べるのも私達だ。どんなものだって食べられる。生活するとはそういうことだよ。対岸の彼女は今私に手を伸ばしている。その手はいつでも陽だまりのように温かった。
食事を一緒に摂るということは感覚の共有を前提として存在している。前提が崩されたときこそ、強く意識させられる。
アカリちゃんは堰を切ったように溜め込んでいた涙をぼろぼろと流しながら、けれども懸命に私の手にあるフォークとナイフを睨んでいる。私は今まさに夕飯のハンバーグに取り掛かろうとしていたところだった。
彼女と付き合いだして二人で悩みながら買った揃いのカトラリー。よく磨いた銀のナイフに彼女の目が映っている気がして何故か、握る手が強くなった。
向かいに座るアカリちゃんは今日はなんだかお腹が空いていないと言ったから、彼女の前にはグリーンサラダを置いた。いつものように家にきた彼女のためにご飯を用意して食べようとしていた。
いつもと違うのは、おんなじものを食べていないということ。私の前にもサラダはある。しかし親しみ慣れたサラダボールに入るものはいつもと少し違う、どこか排他的な新鮮さに満ちていた。
ベランダで育てたトマトとバジル、スーパーマーケットで一玉百三十円で売っていたのが嬉しくて二人で大量に買ってしまったレタスの数枚。そこにアカリちゃんが作ったオリーブオイルに塩と唐辛子を混ぜただけのおざなりなドレッシングががかっており、てらてら、不自然に輝いているようにみえた。
「アカリちゃんどうしちゃったの、なんかやなことあった?」
「────今がいちばん、いや」
額に当てていた手を少し悩んでからゆっくりと下にずらして目を塞ぐ、演技臭い仕草をしてアカリちゃんはこちらを見ずに言い放つ。暴力的な感情が、静かに放たれたその言葉の中で確かに蠢いているように見えた。
とらえようもない黒い魚が薄暗い部屋を泳ぎ回る。その黒さはきっと影だ。アカリちゃんがわたしを責め立てる理由を掴もうにもその一言を最後に彼女は涙の数を増やすばかりだ。ぐるぐると、目隠しするようにわたしの周りを魚が泳いでいる。
アカリちゃんのまろい膚を伝い落ちた涙は、ビニィル製のテーブルクロスの上で一度弾けてゆっくりと重力に従ってもう一度伝っていくのが見えた。この部屋は今、彼女自身なのだという腑に落ちる感覚がある。どうしてこんなにも居心地が悪いんだろう、私は彼女を愛しているというのに。
どこまでも彼女の外側にいると、私はきっと気付いているのにどうしたって私はアカリちゃんの内部に急に放り込まれたような気がしてしまっているのだ。私は必死に自分の居場所を取り返そうとして声を上げる。彼女と話さなくてはならないと思った。
「なんで? お肉すきじゃん。この間もアカリちゃん、私が作った角煮をさ、」
「ききたくない! やめてよ!」
アカリちゃんは絶叫して私の言葉を断ち切った。かち合った目の中には赤黒い熱が滲んでいる気がした。そんな、事実じゃないか。昨日までおいしいねって笑いあったじゃん。アカリちゃんはなんでもよく食べたが肉料理がすきな普通の子だったじゃないか。
どうしちゃったのアカリちゃん。じゃあ全部嘘だったっていうの? 無理して私のご飯を食べていたの? どうして、なんで、似たような文句ばかりが口をつきそうになってはつかえてしまう。彼女はもう私を見ていなかった。机に突っ伏してただおいおいと泣くばかりだ。
オレンジ色の蛍光灯に照らされる私たちの食卓は全くの暖さを欠いていた。二人で決めて買ったグラスもカトラリーもテーブルクロスも何もかもが、急にチープな灰色に見えてくるのが怖くて一度目を閉じて、そして開いた。
世界はそう簡単に変わらない。私はわざとらしく唾液を飲み込む仕草をする。彼女の嗚咽が少しずつ大きくなるのに混じって、わたしはどうしようもなくナイフを動かした。
音もなくハンバーグのほそぼそとした結合を蔑ろにして分断する。中までしっかりと火の通ったハンバーグは我ながら美味しそうにできている。それもそうだ、だってこれは何度も作ったアカリちゃんの好物なのだから。
生活を、生活をしよう。彼女が私の世界に帰ってきてまた同じご飯を食べられるように。舌の上に乗る合挽き肉はもぞもぞと咀嚼に合わせて口の中を動いた。少しぬるくなっているが、やっぱり美味しいじゃないか。私たちの生活の味だ。ねぇなんで食べてくれないのかな。私も少し泣きたくなってしまった。
体の中には空洞がある。隙間なく埋められた空腹感はいったい私の精神の何をどれだけ埋めてくれるのだろうか。口の中に放り込んだ熱を咀嚼しながらそんなことをぼんやりと考える。
いやきっと、なにも、ない。これはもう義務なのだ。生活のための儀式だ。喉元を通り過ぎていく感覚はひたすら違和感を伴って、それでもスムーズに下っていく。砂時計のようにゆっくりと、食べ物が落ちきるのを待っていた。
私はしん、と、しずまりかえっていた食卓の上にかちゃんと音を立ててナイフとフォークを置いた。ハンバーグは今日も美味しかった。ちらとアカリちゃんのサラダを見たが一ミリも嵩が減っていない。やはり不自然に油が光っている。
アカリちゃんはもう泣いていなかった。突っ伏してそのままねむってしまっていたらしい。彼女はそういうところのある人間だ。自由気ままで衝動的、猫のような柔らかさのあるそういうところ。人を振り回すことに悪気なんてない。それは彼女が得たい結果に付随してしまうもはや「どうしようもない」ことなのである。
けれども泣かれたのは初めてだった。アカリちゃんはなんだかんだ言って感情をストレートに向けることが苦手だ。自分を把握されて縛られてしまうことにいつだって怯えている。そのくせ知らず知らずのうちにそれを求めている。危うい均衡の上にいてそれでいてやじろべいのように不安定な安定を見せる。
すうすぅと聞こえてくる寝息を聞いていたら彼女の激情なんて存在しないも同じなのにな、と思う。全部嘘ならいい、彼女の前にあるのが私と同じハンバーグならよかったのに。どうしたってかなわない。
「他人の気持ちを推し量るなんてサイテー、ってまた言われちゃうかな」
私は対岸の彼女に手を伸ばす。そしてそっと髪に触れた。柔らかな髪質が私の掌で跳ねるように遊んだ。こうして近くにいるのに心に触ることはできない。理解されないなんて当たり前で理解出来ないのも当たり前なんだ、とアカリちゃんはいつも言う。私はそんな彼女に曖昧に微笑んで理解したフリを続けていた。でもそれももう限界なのだろうか。
「置いていかないでよ、アカリちゃん」
声はしりすぼみになりながら乾いたオレンジ色の世界の中に消えていった。手の内には温かい熱が宿っていく。ふとみた時計はもう十一時を回っていた。今日はまだ月曜日、私たちはまだ生活を続けなくてはならないのだ。
私たちは、一緒に生きていけるよね。だって今までだって生きてこれたんだから。私はゆっくり席を立ち、冷蔵庫の奥に突っ込んでいたウイスキィを引っ掴んだ。冷蔵庫に寄り掛かり手近なグラスに注いで一気に煽った。感情を溶かして飲み干してしまいたい気分だった。前後不覚のうちにねむってしまえるのは大人の特権だ、とアカリちゃんと笑い合った黄昏を思い出すような琥珀色の液体。とても冷たいはずのそれは激しい熱を伴って、私の中で暴れる。しかし凝り固まった感情はそのままの形で、そこにある。
何も変えてはくれない。こんなもの、自傷行為と大差が無い。思考力を落として明日の自分に全てが夢であればと願うことに、いったいどんな光があるのだろう。もう一度手にしたはずの熱が指先から溶け出していくのを感じたが、取り戻す術は知らない。それでも留めて置きたくて力強く手を握りしめる。爪が食い込んでほんの少し、血が皮膚の上に現れた。感情はどうしたって私の中から抜け出していかない。それだけが、ひたすらに悲しい。
私はソファの上からブランケットをとってきて未だねむったままのアカリちゃんにかける。小さな背中は穏やかな丘陵を作っていた。案外心地良さそうな眠りに見えて、額を指で弾いてやりたい気がした。指の形を作ったところで自分の手がひどく冷たいことを思い出してやめる。ブランケット越しに肩を軽く撫でて、おやすみといった。
リビングルームの灯りを消してベッドルームへ行った。この家にはもう一つ熱があるのに、そばにはない。溶け合うことはできなくても、わかりあおうとすることは出来たはずなのに。一条涙が溢れて気づかぬうちに眠ってしまった。
次の日目を覚ますとアカリちゃんはもう居らず代わりにチラシの裏に綺麗な字で「ごめんね」とだけ書いてあった。朝日の中にその手紙と手付かずのサラダ、洗わずに放置された食器が寒々しく映し出される。何もかも知っているはずの彼らはすっかり沈黙して湯気さえ立てない。アカリちゃんはどんな気持ちでこの言葉を残したのだろうか。
「他人の気持ちを推し量るなんてサイテー」
彼女の口癖がふと、口を突いた。
この一週間、アカリちゃんから連絡はなかった。私もしなかった。喧嘩をしたことは今までも何度かあったが喧嘩したまま帰ってしまうと言ったようなことは今までなかったため、私たちは歩み寄り方が分からなくなっていたのかもしれない。けれどもスマートフォンをちらちらと見てしまうようで十分に集中ができていなかった。常に心の中にはアカリちゃんがいて、細波立ってうるさかった。
生活する私のスマートフォンはもちろん沈黙することはない仕事の連絡や友人からの社会的繋がりは断ち切ることは出来ない。脊髄反射で返事をして社会の中におとなしく落とし込まれる。毎日は単調に画一的なリズムを刻む。世界は色彩に満ちていてたくさんの感情と触れ合うはずなのに何も響いてこなかった。
表面上、小手先でなぞるだけで世界と通じ合って何もかもを知った気になる。きっと誰もがそうだ。何もかも知ったかぶって本気で触れ合う気なんて、ない。こわいから遠ざけて、それでいて理解されたいなんて傲慢な願いを抱えている。
くだらないと思う。こんな余計なことを考えてしまうくらいには生活は滞りなく、一切順風満帆に進んでいた。私はアカリちゃんと出会った母校の高校で学校事務として働いているが、仕事もミスなく問題が発生するなんてことはなかった。むしろ電話対応を褒められた。これは今までの生活を鑑みての事だったから、アカリちゃんとは関係がない。関係がないからこそ、悲しい。
友人たちはいつか言っていた。彼氏とひとときだって離れたら情緒が不安定になってしまう、だとか、彼氏と毎日通じ合っていないとやる気が出ないだとか。そういう気持ちをなんとなく知った気でいた。自分の中にもきっとあるだろうことを理解していた。
それでいて、一切わかっていなかった。恋に身をやつし、主軸と据えてしまっている友人たちは気が狂っていると思った。きっとそんなふうな出会いを知らない私は劣っているのだときっと彼女らは言外に言っていたのだろう。
そんなバカな話があってたまるだろうか。何かに心を乱されることは結果的に不幸じゃないか。生活に支障が出るような心乱されることを喜ぶなんて愚かしく悲しい自己陶酔で、なんの解決にも至らない。
一笑にふしてやりたかった。けれどもきっとそれが恋なのだろうなとどこかで納得していた。どんなメディアに描かれる愛も恋もそんなものだ。美しく煌めいて、恐ろしほど暴力的な熱。人はそれを賛美し、ときに嫌悪し、渇望する。笑われるのは、私の方だ。
私とアカリちゃんの間には件のような熱いものはなかった。もっと生温い、抜け出すのも面倒になるような曖昧なたゆたいのなかにある関係性だったと思う。でも確かに私はアカリちゃんが好きで、彼女も私の言葉にうなづいた。ベッドの中で手をつないで温度を感じ合うことに幸福を感じるような私たちの関係性は恋でも愛でもないと言うのだろうか。
そもそもそんなもの誰が決めるのだろう。堂々巡りに落ち着く。マジョリティが決めたものが全ではないはずだ。関係性は当人間の間にのみ承認されていればいい。私と、アカリちゃん。私たちの世界は私たちによってのみ認め続ければこの関係の存続など容易いとそう信じていたのに。
ままならない。感情も世界も何もかも。タイピングの手を止め、小さくため息をついてそう思う。時計に目をやるともう終業時刻一時間前だ。もう一週間が経つ、仕事が終わったらアカリちゃんに電話しよう。今度こそ対話しよう、そう古ぼけた時計の秒針に誓った。最後のひと頑張りだ、息を入れ直してパソコンに向かい合ったところで電話が鳴った。どうやら取次の電話らしい。赤いランプが小さく点滅していた。白い受話器を取って受けると、切迫した女性の声が聞こえてくる。知らない声だった。
「アカリさんが、実験の途中で倒れてしまって……。今病院なのですが────」
言葉がゆっくりと体の奥に落ちてくる。あのオレンジ色に包まれた部屋が灰色になり、そのまま崩れる音を聞いた。わたしは「はい、はい、」と小さくうなづきながら電話相手の話をメモしていく。ずっと指の先は冷たくてそれから背骨が涼しかった。最近蛍光灯から変えられたばかりのLEDがくっきりと影をグレーのデスクに残している。皮膚の上でざわめいているどこまでも鮮明な感覚を、溶け出た意識が私の頭上で俯瞰していた。
取り乱すこともできない私をかわいそうだとでもいうつもりなのだろうか。なるものか、これは私の矜恃だ。アカリちゃんが褒めてくれたことのあるわたしの精神だもの。崩してなんかやらない。必要な情報を聞き取り失礼しますと発音してから受話器を優しくおき、上司のデスクへ向かい早退する旨を伝えた。
電車に飛び乗り、病院の最寄り駅を目指した。ここから四駅、わたしの家から七駅、アカリちゃんの所属する美容品の研究所から二駅。取り立てて有名なにかがあるわけでもないその駅に降り立ったことはなかった。三十年も前からある古ぼけた総合美容がひとつ、閑散とした町にぽつんと建っているのをいつも車窓から風景の一部として眺めていた。
プラットフォームに降り立つとその病院は思っていたよりも大きく見えた。いやたぶん実際に大きいのだろう。この病院のために町が存在しているように太い道路と薬局の他には田圃しかない。どことなく、生の実感が薄い場所のような気がした。この町のすべての命はあの箱に集約されているような、そんな気持ち。もともとは白かっただろう病院の壁は所々茶けた色に燻んでいた。
改札を出るために階段を下って行く。一段一段、慎重を極めて足を下ろしていくと先ほどの電話の内容が頭の中にひとつひとつ、浮かんできた。生命に別状はないこと。ここしばらく元気がなかったこと。いつもは何があっても食事をしっかり取るのに食べていなかったこと。今は点滴をしていること。保険証は持っていること。たべていたのが未調理の野菜ばかりだったこと。わたしの名前を読んでいたということ。いろいろなことが消えることなく頭の中でぶつかり、高い音を立てて響き合う。
出来事というのは終わったあとに伝えられるものだから、どうしたってやり切れないものだ。くるしい、息が苦しい。手摺をつかんでその場に蹲りたくなるのを抑えてそのままの勢いで階段を駆け下った。息が苦しいなんて、生きている証拠だ。笑っちゃいたくなっちゃうな感情の助長を止めることさえもできない。どうしようもなく生きている。ただそれだけが願いであったはずだった。
この駅で降りた人はわたしの他にいたのだろうか。大きな病院があるのだから人がもっといてもいいはずなのにあたりを見回しても人が見えない。改札に電子カードをタッチして駅の外へ出た。定期範囲内だから差し引かれるものはない。歩みを進めるたびに視界は開けていくのに袋小路にいるような気がした。
駅前には幾ばくかのチェーン店があるが扉を開けなければ音もしない。バスの音はしないが遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。曇天に吹く風が異様に冷たく感じられて、左手の指を右手で擦って見ながら病院までの一本道を歩んだ。硬いアスファルトの上に響くわたしの靴音だけが今のわたしの現実の全てに感じられるような世界は甚だ不安定だった。
近くで見てみると病院は、思ったよりもきれいなものだった。自動ドアだし、何より院内の灯りが柔らかな色のLEDだった。とこどころに観葉植物が置いてあり、建物自体は古ぼけたものだが全体としては温かみのある場所だった。
たくさんの老人と、すこしの子供が入り口すぐに横並びになっているイスに思い想いに腰掛けている。全体的にどこか疲れた印象を受ける雰囲気が漂っている。平日の夕方の病院なんてこんなものだろうか。時折鳴る電子音と空調の効いた他は外と大差がない気がした。
わたしは電話で聞いた処置室の場所を見つけあぐねて受付に立ち寄った。柔和な表情を貼り付けた骨の固そうな看護師が私の応対をして導いてくれた。そこは受付を過ぎて右に曲がりだいぶ奥まったところにあるちっぽけな部屋だった。処置室と大きくスライドドアに書いてある。看護師はそれじゃあ、と小さな笑みを作ってお辞儀をし去っていった。私もその背中に向かってお辞儀を返した。
硬いそのドアを軽くノックすると少し嗄れた男性の声でどうぞと聞こえた。銀色の取っ手を掴みゆっくりとスライドさせると、窓から入り込んでいる夕日が目にトゲのように刺さって、目を細める。
「サエちゃん」
アカリちゃんが私の名前を呼んだ。たった一週間くらい聞いていなかっただけのその音はとても懐かしい響きをしている気がした。アカリちゃんの目にはうっすらと水の膜が張っており頬も少し赤くて、迷子になってしまった子供のようにちっぽけな孤独に支配されてしょうがないようだった。
今ここで救ってやるのはきっと容易くて、手を伸ばせば彼女は今私にすがってくれるだろうことを知っていた。いつもの生活に戻って笑い合うことを願っていたはずなのにこうしてアカリちゃんを目の前にすると打ち壊したくてたまらない。何もかもままならないから、私は私と心中したい。
そんな逡巡に打ちのめされていると、この部屋の主人であろう初老の男性に声をかけられた。アカリちゃんの隣の椅子を勧められたのでおとなしくそこに座る。
「サエさん、でしたね。アカリさんとはどのようなご関係ですか」
「友人です」
「ご友人ですか」
「ええ、ねぇアカリちゃん」
アカリちゃんの方を向くと彼女は目を見開き、私の片腕を力強く握りしめてきた。倒れたと聞いていたのに思ったより手に力が入っている。
「痛いよアカリちゃん。離して」
「サエちゃん、なんで、」
「何?」
彼女は口をわなわなと震わせたが言うべきことを結局見つけられず、私の腕から力は解けていった。きっと跡も残らない。彼女はこういうやつだ。相手の口から愛を引き出したがる、卑怯な臆病者。私は不謹慎にも笑いそうになってしまった。医師はぎこちない私たちの空気を感じ取って会話を再開した。
「仲がよろしンですね」
「ええ。とても」
「アカリさんは昔からよくおばあさまの付き添いでこの病院にきていましてね。しかし本人は至って健康そのものですから久しぶりに会ってびっくりしましたよ。まさか栄養不足で倒れるなんてね。貧血程度の症状で良かったですよ。一応、精密検査もしましたが概ね大丈夫。点滴もして処置は完了していますのでお家に連れて行ってあげてください」
「はい、わかりました」
私はもうすっかり彼女の母親に仕立て上げられてしまっているような気がして嫌だった。わたいたちは同い年で対等な生き物だったはずなのに、どうしてこうも私だけが一生懸命に彼女を愛さなくてはならないのだろう。
「それじゃあ、これで」
「ええはい。アカリさんお元気でね」
アカリちゃんは何も言わず小さくうなづいて私の後を追って立ち上がった。私はドアを開ける前に振り返り一礼した。医師は気の良さそうな笑顔を作って手を振る。やっぱりアカリちゃんは何にも言わずにどこか遠くを眺めていた。
私たちは精算をするために、溜息の滞留するあの入り口近くのベンチでしばらく待つことになった。人はあまり減っていないような気がしたが日は少し傾き、冷たい風が自動ドアが開閉するたびに入り込んできた。
黄昏時に入って人々の疲労はピークに至っているような気がした。誰もが口を黙み、小さな音でついているニュースをぼうっと眺めている。私も隣にあるアカリちゃんの温もりに少し体を固くしながら眺めていた。
遠くの県で起こった殺人事件をレポーターが深刻そうに語り、暖かい色彩のスタジオでは怖い事件ですねと判を押したような相槌を打ってことの説明に入る。生活は繰り返される。その中で何かが壊れてしまう。たったそれだけの、他人事だ。
そんなふうに自分の世界に閉じこもっていると、不意にアカリちゃんが手を握ってきた。彼女の手は私より高い熱を持っている。皮膚の上から染み込むようにじんわりと熱が伝わってくるのが恐ろしかった。アカリちゃんの少しひび割れた硬い指先を私の上から遠ざけようと掴むと力を込められた。
「サエちゃん、あのね、」
私より頭がよくて強いはずの彼女がこんなにも弱く、私にすがってくるのは若干の優越感を感じるが同時に浅い絶望を私に抱かせた。とびきり優しくしなくてはならないとこうしておもわされてしまうのが悔しい。愛なんてくだらない。執着があることは不幸だ。わかっているのに感情は止められない。なるべく空気を震わさないように声を出した。
「どうしたの?」
「あの、ね。会計が終わったらスーパーに行きたいの。良い?」
「スーパー?」
「うん。一緒に行ってくれる?」
「そんなに薄情じゃないよ」
私は喉の奥で小さく笑ってあげた。アカリちゃんは猫のように目を細めて本当に嬉しそうに笑った。やっぱりそんな彼女を見て、私は何か柔らかいものが心から剥がれ落ちていくような気がした。
「あのね、お肉が食べられなくなったのは本当になんでもないことなんだ」
病院を出て、私の家がある駅に着くまでアカリちゃんは私の手を離さなかった。よくいくスーパーに着き、カートを掴んでからアカリちゃんはぽつぽつと話を始める。夕飯時のスーパーは空いていて歩きやすかったが活気の裏打ちをそこらじゅうに感じる。
「あの日もいつものように動物に実験していたんだ。口紅を動物の皮膚に塗ったりね、いつも通りだったんだ」
やっぱりこのスーパーはレタスが安い。この間のはダメになってしまったから一つかごに入れた。
「でもよく考えたらいつも通りじゃなかったのかも。あの日はいつもよりウサギが鳴いていたかも」
きゅうりは最近高いなあ。栄養もそんなにないし買わなくてもいいか。
「その日のお昼ご飯食べたら吐いちゃってさ。生姜焼きだったんだけどさ。頭の中に声がするんだ。ダメなんだよね。怖いの」
人を感知をして呼び込みをする機械の声がうるさい。特売の品は別の店の方が安い醤油だった。
「声が聴こえる気がして、罪なんだよ。肉を食べるって罪なの。逃げられないって苦しくなっちゃったんだ」
アカリちゃんは急に止まった。そこは野菜売り場と肉売り場のちょうど境目で、彼女は口を抑えて辛そうに立ちすくんでいる。私がカートに手を伸ばして支え直そうとすると押し留められる。薄く目を閉じてゆっくりとその前を通り抜けていった。私は背後を守るように歩みを進めた。
「あ、」
アカリちゃんは声を上げて一つの食品を取り上げて私に見せてきた。心から喜んだふうに私を見上げてくるアカリちゃんの手の中にあったのは「豆腐ハンバーグ」だった。
「これでおんなじもの食べられるね。やったあ」
ひたすらに惨めだった。これは不器用な彼女なりの誠意なんだということはわかりきっていた。私なんかに縋り、翻って感情を吐露するなんて彼女らしくないことをしないでほしかった。誰も彼もかわいそうで醜くて、惨めったらしい。サイテーだよと笑うのはいつも彼女の方だった。
私は曖昧に笑いながら、「いらないよそんなもの」と言い捨てて彼女の手から商品を取り棚に戻す。アカリちゃんはもうどうしようもなく健気に、私に何を言い返すこともなく唇を噛んでしまった。ただでさえ白い肌はより白さを増していく。
「向こう向いといて。外でまっててもいいよ」
私は近くの肉のトレーに手を伸ばす仕草をして彼女をおどしてみる。アカリちゃんはいじらしく首を振って目を伏せた。急に興がそがれて私はその日肉を買うのをやめた。彼女の手綱になっているカートの先頭を掴んで緩やかに引いていった。
私たちのかごの中は緑黄色に満ちていて、いつもより品数は少ないはずなのにレジ袋に入れたら想像以上に重かった。病人に持たせるわけにもいかないので私が持つ。さいわいに大きなエコバッグに収まるくらいだった。私たちは家に着くまで一言だって話さなかった。それでいて私とあかりちゃんの距離は最近で一番近かったように思う。
家の鍵をあけて照明をつけた。アカリちゃんはいつもは何にも言わないのに「お邪魔します」と小さな声を挟んで靴を脱ぎ始めた。私が荷物を置きに先に台所へ向かおうとしたところで、「うわっ」とアカリちゃんの声がして振り向いた。彼女はよろめき今にも倒れそうになっていたので慌てて支える。
「ごめん、なさい」
私は答えてやれなかった。アカリちゃんは軽いということはなかった。むしろちゃんとした質量のある、手応えを感じた。平均的な女性の体重とおんなじくらいだろう。なのにどうしてこんなに空洞のある振る舞いばかりが私の目につくのだろうか。一週間ぶりの彼女は全く知らない匂いがした。
私はそのまま彼女を支えていつも食卓を囲むときの椅子に連れて行った。幾分かくったりとアカリちゃんはそこに腰掛け、私もいつものように彼女の前に座る。
「お腹空いてる?」
特別な会話は思い浮かばなかった。ただわたしはいつものようにそう聞いてみた。きっかけに困るといつも食事の話をしてきっかけにする。そうすると彼女はいつも頷いて、それ今日もおんなじだった。
「うん、」
「何が食べたい?」
「こんにゃくある?」
「うん、あるよ。なんで? 好きだったっけ?」
「特に好きというわけじゃないけど嫌いじゃないよ。あのね、一緒のものが食べたいんだよ。サエちゃ、」
私は急にもう限界だと思った。彼女の歩み寄りが何より私を刺激した。笑みが崩れて顔の力が一気に抜ける。立ち上がって、呆然としたままのアカリちゃんを見下ろした。
「ふざけないでよ」
飛び出た言葉は思ったよりも鋭利だった。そして私の感情に大胆な切り込みを入れる。溢れるのは血でも涙でもなく、ましてや純な恋でも愛でもなく、ただの憎しみだった。
「ふざけないでよ。捨てるならちゃんと捨てなさいよ。意気地無し」
「捨てるって何を……」
「何もかもよ。私のことも生活も、あの日捨てる気だったんじゃないの。だから私にあんなことが言えたんでしょう」
「違う、そんな気じゃ、」
「そうよね私がいつも許してきたもんね。私が悪いってきっと言いたいのよね。そんなこと許さない。選択したのはあんたじゃないの」
「違う、ちがうよう。ねえサエちゃん話聞いて」
「じゃあ聞かせて、なんでおんなじものが食べたいなんていうの」
目を合わせてアカリちゃんに聞いた。彼女の目にはゆらぎと迷いがある。秒針の音が固く私たちの距離を測り始める。そうしてようやく口を開いた彼女の瞳にはあの日と同じように涙が溜め込まれていた。
「わかって、ほしかったから。サエちゃんに、これ以上罪を。重ねて、欲しくなかったから、」
死んでしまった、と思った。私が愛したアカリちゃんはもうどこにもいなかった。ただ弱く孤独な女の形の入れ物が水をたらたらこぼしている。それはもうアカリちゃんではないのに私は座ったままのその女の足元に蹲り縋って叫ぶことしかできなかった。
「返してよ、どうしてわたしのあの子を殺したのよ。望んでなかった。なんで置いていくのよ。罪なら一緒に背負うから。どうしておいていくの、ねえ返してよぅ……」
入れ物は「ごめんなさい」を繰り返す。頭上に水が落ちてきた。わたしの熱は鎮まることなくむしろ昂った。
「裏切り者。偽善者。結局私のこと一人で罪人にしておいていく気だったんだ。ひどいよお。仏にでもなるつもりなの。じゃあわたしを救ってよ!これ以上わたしを残虐にしないでよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、」
「どんなものを殺してだって、アカリちゃんさえ生きていればよかったのに! どうしておいていくの、ねぇ。ねぇ!」
「ごめん、ごめんね」
「他人の気持ちを推し量るなんて、サイテー。ははは……」
渇いた笑いが出てようやくわたしの目から涙が溢れた。相変わらず暗い部屋で私たちは叫び合い、お互いの絶叫で傷付き合った。そしていつの間にか眠りについて、その部屋には生者がいないような静寂さが訪れた。
私は硬い床の上で目を覚ます。カーテンの間から光が道のように延びていた。体を起こすとよく知った声が上の方から「おはよう」と声がした。それは紛れもないあかりちゃんの声で私は飛び上がる。アカリちゃんは頬杖をついて私を眺めていた。
「お、はよう」
ひらひら手を振る猫のように柔らかな仕草が朝日の中で洗われたように清らかに輝いていた。私は彼女の前の椅子を引き、座る。いつもとは反対の席だった。そして座ってみると私たちの前にはそれぞれあの日のようなハンバーグの乗った皿がある。私はそれをまじまじと見つめてから顔を上げる。アカリちゃんは相変わらずにゃあという声の似合いそうな口の歪め方をして微笑んでいた。
「サエちゃん、私と共犯者になってくれるんだよね」
答えは言うまでも無かった。私はうなづいてアカリちゃんの瞳を見つめる。
「良かった。これで全て報われるね。ずっと一緒に、生活をしようね」
アカリちゃんは私にナイフとフォークを渡し、自らも携えた。いただきますと声を上げて小さなその肉の集まりをほぐし、口に運んだ。わたしも同じように口へと肉を放り込んだ。
その肉は知らない味がした。すこし甘くて柔らかいくせに筋っぽい舌触り。飲み込む前に、アカリちゃんの方を見るともう嚥下したらしい彼女はただ満面の笑みで私をみていた。銀色の幸福な生活の一部が確かに今私たちを傷つけるのがわかった。それでもどうしようもなく、彼女と生きていたかった。わたしは喉を通り過ぎる物体の質量から逃げることができずに何かにつかまっていたくてナイフとフォークを握りしめた。
「目の前の死は変わらないよね」
頬杖をついてわたしから目を逸らして彼女はそう言った。彼女は遠く、窓の奥のその先の光を受け入れる気なんてないだろうに優しい面差しで見つめていた。光の偶像のように、白昼夢にも似た踏み込み難い幻が映し出されている。問いには到底堪えられそうにもなかった。空白があるのが耐えられなくてわたしは肉を口に何度も放り込み、噛んで、飲んで脳を黙らせようとした。
「人間に最後まで残る欲は食欲らしいよ。だれも罪から逃げきれない。聞こえない痛みは知らない、存在しないのと一緒だ。わかったんだ。どんなものにも感情が認められるならその全てを背負って呼吸する他ないんだってね」
聞きたくなかった。それは断罪に他ならなかった。彼女は何一つ諦めてはいない。そうして私に全てをわからせてうなづかせる気でいるのだ。何か人生に置いて瑕疵があるのだとすればそれは呼吸することによってできるのだ。世界を捨てるには十分な理由だと、私に飲み込ませる。皿にはもう、食べるものはない。
「一緒にね」
私は言った。朝日の中で煌めく銀食器に罪はなかった。全ての罪は私たちによって生産される。そしてそれを食べるのも私達だ。どんなものだって食べられる。生活するとはそういうことだよ。対岸の彼女は今私に手を伸ばしている。その手はいつでも陽だまりのように温かった。
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