空に帰る
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
義母の履く、赤いハイヒィルが恐ろしかった。冷徹で奔放に傲慢だと評される彼女の符号にもなっているあの赤は彼女が今まで傅かせてきた人間の血の色なのだと下賎なことを口に戸も立てずに人は言う。無論そんなことはない。タンニンでなめした、よく磨かれた品の良い深紅の牛皮の赤だ。牛の血の色でさえ無い。
しかし人がそんなふうに彼女を評したくなるのもわからなくは無かった。前述したように、義母は傲慢なのである。これは「革命家」の気風である。旧時代の人間は我が身を砕くことは得意だが、身を切ることは苦手なのである。義母はその世界を斬り刻み、社会を変えようとしているのだ。
そんなことをしても無駄なのに。半径何里の社会を変革して何になると言うのだろう。世界なんて変えようもないのに。うっすらと確かに彼女を軽蔑していたが、同時に尊敬もしていた。適合ではなく革命に歩めるのは強かな人間である証明だ。私は迎合することのたやすさを知っている。きっと義母だって知っているだろうに、それをしないということを選択するのは彼女の強さに他ならない。もっともこの彼女の性格は後天的なものであることも、また知っている。爛々と輝く瞳が私ばかりを見ていることも。
私は人間として彼女に憧憬はあったが、彼女に取り巻くモガたちのように革命を口にする人間になりたいとは願えなかった。あの赤いハイヒィルはこれからも彼女たちの革命の礎になるのだろう。あの踵は蜘蛛の糸と大差のない、弱い人間の縋るべきものなのである。
しかし光にすがっても自分自身が光になれるわけではない。あの眩い恐ろしい高潔さに少女たちはめくらになってしまったのだろうか。私は目蓋を伏せて彼女のハイヒィルの音を頭の中に響かせてみた。
玄関に並べられる彼女の靴が恐ろしかった。彼女たちのおままごとみたいな革命に手を伸ばしたいと思いたくなってしまう自分を貫かれる幻想を見させられるから。
玄関に並べられる彼女の靴が恐ろしかった。彼女を嘲笑していたいと思いつつも、心の奥に爪の先ほどに畳み込んだ感情を暴かれて私の手を引いてここから出して、発見してと叫びたくなるから。
家での彼女の靴は池に迷い込んだ金魚と同じだ。主人を失ったその靴はどこにあっても居心地悪そうに跳ねている。主人も鎧をなくしてどこか頼りなく、柳のように笑う。呪いだなと思う、しかし只今帰りましたの声を響かせるのはやはり暖かい家がよかったのだ。軒先に灯るあのガスランプにかなうだけの夢を随分前から渇望していたように思う。
二
「真知子、俺は結婚する。これは君の新しいお母様だよ。よろしくなさい」
義母が義母になった運びは、実に簡単な政略結婚である。義母はもともとどこかの貿易商の御令嬢で、たまたま父とご実家との会議に顔を出したところ見初められたという。私家は新貴族ではあるが名の知れた家であり、力関係的に義母は差し出された生贄ということらしかった。単純な摂理である。
もっと言えばこのことは全くの不意打ちであった。母を亡くして五年ほど経ったある日、世に憚らず、恋愛結婚で結婚して愛妻家であった月命日には必ず喪に服しているような父が突然彼女を連れてきた。喜色満面のそれは、普段見る黴びたタイルのような蒼ざめた、他者を受け入れることを知らない顔では無かった。
実に人間らしかった。肌には血が通っていたし、眼だって光を受け入れている。社会を動かすパーツの一つではなく、人間としての意識ある運動が父を動かしていた。彼は今、現実を生きているという充足感に溢れている。だからその隣に立つ女の顔を見て私はかわいそうだな、と思った。
義母は美しい女性だ。そして何より、母に瓜二つであった。我が家に今残る一葉残る母の写真は彼女に似ていても、私には似ていない。あの当時大量に焼き増してあった、父の手垢に塗れたいくつもの母の写真にまぜてもすぐに気づくことは難しいだろう。そう思うほどに瓜二つであった。しかし義母は母ではない。この家にそのような機関は必要がないことを父親以外が知っている。
たとえ父が彼女の名前を呼ばなくとも、生贄が過去に食われることは無かった。彼女は肉体というよりは精神を意識させるような構造の、思うにあれは春風である。名をつけて把握することはできても、実体を閉じ込めておくことは不可能だ。人の間をすり抜けて、自分のやったことに一切の責任を感ぜない。それは全て、言うならば「徒(いたづら)」 なのである。
「よろしくお願い申し上げます。ミツと申します」
記憶にある母の声よりも高めの女性性を強く意識させられる唇だ。それでいて誰かに媚びたことの無さそうなつっけんどんな音の切り口。これは彼女が愛されてきた証拠だ。生贄の名前は、家が貿易商という割合には古風な名前だと、少しだけ可笑しかった。おざなりに口角をあげて軽蔑を隠そうともしない、少女らしさが滲んでいる。嗚呼、こんな悪魔の家に入れられて可哀想。こんな人間は日の当たる場所で呑気に笑っているべきだろうに。
同情はあるが生贄は必要だ。寝殿造の奥まった家に、数人の女中と腐敗臭のする人間とで生きていくのには辟易としていた。人間を人間たらしめるのはやはり人であろう。私の社会が美しく存在するのならばそれでいい。だから私も悪魔になって喜んで生贄を受け入れたのである。
「真知子と申します。よろしくお願いします、御義母様……」
義母の瞳に映る私は人間に見えているだろうか。学校でも美しいと褒められた、令嬢らしいカーテシーをしながらそんなことを思った。好奇心にかられ、上目に彼女を見ると義母は疲れたように目を伏せている。上流の人間に見初められた喜びも、家を離れた不安もそこにはなく、ただ、街角に座り込んでいる労働者のような疲労の匂いがした。
この生贄は自覚のある生贄だ。そう気づいて、そのときの私はこれからの平穏な生活を確証していた。丁度良い歯車を見つけてきたと父に賛辞を贈っても良いような気さえしていた。しかしその歯車は「革命家」としての歯車だったのである。今日も世界はごく小規模に革命されている。世界は不意打ちに、怯え、憎悪し、乱舞した。義母は胡蝶のように春風を纏って今日も街を闊歩している。
三
「眞魚子、眞魚子、」
学校から帰宅して自室へ向かう途中に通りかかった部屋から母の名を呼ぶ父の声がする。それに応える声が、ある。背後で鞄を持つ女中が息を飲む音がした。とたとた足音を立てるこの女中はどうやら初(うぶ)らしい。そういえば見たこともない顔だった。私はなんとなく、足を止めてみた。後ろでもつれそうになった足を押しとどめる音が聞こえる。
隔絶された次元の物語を、障子という薄い間仕切りの奥に眺めた。夏の香りがだいぶ薄れたと思ったのに、日はまだ長い。橙色の中に浮かび上がる影は燃え上がる薪から溢れる灰のように脆くみえた。
「はい旦那さま、」
鳥の囀りの音の中に肉を叩(はた)く音がして、父の幻想が壊されたことを今日も悟った。ありふれた生活音の中にこの音が組み込まれて、もう幾月だろうか。今日はだいぶ初歩的な誤りだ。どうして心を砕かないのだろう。そうすれば楽になるになれるのに、私はいつもそう思った。口に出すことはしない。彼女は選択できる、人間なのだから。風がそよいで枯葉が足元に落ちてくる。手を伸ばす間も無く、新たな風に攫われて消えてしまった。
「眞魚子」
地を掠めるように低く威圧的な父の声に負けて、生贄は「あなた……」と息を溢す中にようやく音を繕って見せた。障子越しで影しか見えないが父は叩いた義母の頬を撫でているのだろう、二つの影が一つに見えた。
地の底にいる彼女にメシアのごとく手を差し延べて醜い現実に連れ戻し、目と目を合わせて自分の世界を教え込む。地獄に落としたのは自分だというのに、そんなことは忘れさせてしまうほど優しく愛を注いでいる、正しく言えば義母の中に植え付けている母に愛を注いでいた。
父の愛が発芽することはない。生贄は生贄であることを知っているのだから。自我の自覚がある人間に人格を組み込むことは難しい。どれだけ種を埋めたって土壌が合わなくては意味がない。人格はヴィールスのように罹患するものでもなく、生まれてからずっと生育されていくものなのだ。生きていた確証のある人間に芸のように人格を仕込むなど土台無理な話なのだ。
「もう良いわ、」
私は態とらしく女中に声をかけて鞄を受け取りゆっくりと障子の前を過ぎた。障子の奥ではまだ追憶じみた絵空のままごとが繰り広げられている。世界は別に揺らぎなどしない。あの世もこの世も人の生きる場所だ。私たちは悪魔だ。どんな道理だって私たちに過ちはない、そこにあるのは快不快の選択のみである。父は母の名前を呼び続ける。それこそ譫言のように。
女中の足音が聞こえないことに気づいて振り返ると、果たして彼女はまだそこにいた。女中の顔は青や赤に変化して忙しない。その場に立ち尽くし、地の細動を感じるように震えている。そう言えばこの女中は入って間もなかったのだったと思い出す。みんなみんな、可愛そうだ。私は踵を返して彼女のそばに寄った。
「ねえあなた、ほんとうのさいわいってご存知……」
名も知らぬ女中は私に声をかけられてようやく世界に帰ってきた。いつの間にか私の顔が近くにあって驚いたようである。そして頓狂な声を上げ損なって変に小さな小声で私に質問を返してきた。しかしその声も徐々に大きくなる。
「ほ、んとうの、さいわい、ですか?」
「ええそうよ。あなたのさいわいってなにかしら……」
「なにぶん、不勉強でござぃま、すもの、で。考え、たこともござい、ませんわ」
女中は怯えながらも気丈にも私の目を覗き込む。女にしては上背のある私にむかって澄んだ瞳できゃんきゃんと吠えてくるのが聞こえる。媚の売り方を知らないように反抗的で真っ直ぐな、誇りを感じる瞳の作りだ。
幸福について考えたことも無い幸福な人間だったのだろう。彼女は私にのまれまいと必死だ。多分それは、理性というより本能的な行動で、この女の芯から生まれた損な気質であろう。女中の目には私しか映っておらず、先ほどの父らの痴情のもつれなど問題ではないように思えているようだ。
うちにくる女中というのはよっぽど困窮した人間だ。この女は大方没落した貴族の娘だろう。肌の肌理も細かく、白粉の香りがほのかに香っていた。反対に紅は必要以上に紅く少女の顔を飾っていた。そういえば、どこかのパーティで見かけたような気もする。浮かんだのは鳥の羽のついた髪飾の似合うつまらない女だった。身なりも綺麗で肌にも汚れのない、手先もささくれのない、陶磁のような肉体の持ち主は自分を飼い慣らす術すらしらず放逐された。社会の責任は問えない。何故ならその選択を迫ったのは他でもない父だからである。
四
父は真正の悪魔である。柔和な表情が顔によく馴染む顔に載った薄い唇が動けば相手を威圧させない程度の優しい声音、話し方もごく滑らかに、棘の立つところは見つけられない。ペンより剣が強い時代の男性にしては腰も細く、杉のような風貌で頼り甲斐のなさそうにも見える。商才はあるが、虫も殺せなさそうな男であると言うのが外に聞く父の形である。その商才すらも誰か背後に糸を引くものがあるのではないかと言われるほどである。
しかし父と商談の席に着いた人間はそのような口を聞けない。その柔らかさは全て偽りなのだ。その偽りこそ父の姿であると多くの人間は思い込んでいる。薔薇(しょうび)に触れて棘に刺されたときのような、あの拭いきれない人間主義に不意打ちを与えられて人は父(悪魔)の前におよそひれ伏すしかないのである。ふだん世界を愛玩するようにゆるく細められた目は開かれ、夜の池のように沈んだら帰ってこれない魔力を溢れさす。あの唇の中に閉じ込められた舌は銀にかわり鋭く人々を切り刻む。そこに一切の感情は宿っていない、単に利益を求めるのみなのだ。
父が愉しくもないのにここまで利益を追求するのは実に単純な理由である。母の遺言が家を興して、と言う色気もない商家の娘としての言葉であったからだ。父が心を動かすの母の言葉によってのみであったからこれは当然と言えば当然だ。母が犬になれとでも言えば父は喜んで彼女の前にひざまづき、足蹴にされても喜んでいた。
父と母の関係は社会的に見れば父が圧倒的に優位だったが、家では真逆だった。授業のない日に母に遊んでもらおうと、離れである小さな煉瓦造りの家を尋ねると母は笑顔で私を迎え入れた、父の上に座って。父は黒色の背広を纏い四つん這いになってこちらを見ずにただ家具としてそこに在った。母は藤色のワンピースを見に纏い、英国の絵本に出てくるような少女然として美しく輝いていた。大きな窓を背にしているから、木の床にはなんとも歪な一つの影が伸びている。
母がおいで、と腕を広げるので私は駆け寄り腕の中に収まった。母は私の肩を痛くなるほど抱きしめ、それから私を抱えあげ自身の膝の上に座らせる。およそ五歳くらいの時分だからよっぽど重くはなかったはずだが父は加重に少しよろめいた。すると母はぞっとするような冷たい声で「だらしがない人」と呟いた。父は何も言わず、しかしその後は背筋に力が入りよろめくことはなかった。私は紫色の幸福の上で持ってきた本を朗読してもらい、家族の温かさを感じていた。あの静かすぎる部屋に時折ぽたぽたと滴っていたのが何だったのかまだ知らない頃の話である。
あれが愛で、あれは家族の形であったと父に言われればそうなのかも知れないと私はきっと思う。失われた形について論を深めることは幸福ではない。それは私にとっての父への愛である。だから同じ夢を見ているふりをしてやるのだ。
最愛の人に愛されることもなく死なれたし、誰と繋がることも幸福をもたらさない。義母の来るまでの5年間父はたびたび母に似た顔の女を連れ込んでは行為の最中で放り出して、母の遺品に縋り、穢れてしまった、穢れてしまったと泣くのである。
父は悪魔だ。けれども悪魔になったのは人間だからである。私は父の血も涙も知っている。その流れ出るものこそが彼を悪魔に仕立て上げていく。いくら体液を流そうとも苦しみの原因は体外に排出されない。悪魔になるのは容易だ。しかし今再び人間になることは難しい。揮発した感情は彼の周りを蠢いているように見えるが、見えるだけだ。覆水は盆に帰らない。手の内に溜めていた彼の悲しみを抱えていたって何にもならないことを重々理解しているのだ。
「真知子さま……?何か、」
どうしてこうも真摯に瞳を見れるのだろう。ほんのわずか、過去に引き摺られてかわいそうな気持ちに触れた。今、体と心が重なって初めて目にしたのは女中のあまりに無垢気な瞳である。青空を思わせるように濃く澄んだ瞳は根元的な高貴さで、私が一生てすることのない美しさだった。
いやただ単に考えられないのだろう。こんなに落ちぶれて尚、世界は自分に優しいと思っているのだろう。少女だった。未成熟なこの熱に冷や水を浴びせてやらなくてはならないと心が溜息を吐く。
この家ではありふれた通過儀礼なのだ。世の中にはこんな人間がいるのだと、君はここで生きていかなくてはならないのだと私は教えてやるのだ。この愛されてきた子供に。まんじりともせずいたときにふと落ちた夢の中で見る純粋な悪に少女は似ている。ごくありふれた不快感を今はただ弄んでいたかった。
「ほんのみぢかなことよ。あなたはどんなふうに世界を見ているの。何が楽しい?何がさいわい?何が欲しくて、何がいらない……」
父の仕草の真似をする。女中と目を合わせそっと、鞄を持っていない左手を彼女の頬に寄せた。父と義母の影に自らを重ねるようだった。父の鼻に抜ける甘く母の名を呼ぶ声は未だ絶えずスクリーン越しに聞こえていた。水が滲むようにじんわりと彼女の熱が私の手に入ってくるのが気持ちが悪い。吐気を抑えながら赫らむ女中の耳に口びるを寄せて私は静かに声を響かせた。
「ほんとうのさいわいっていうのは自分の幸せを願わないことよ……、自分の命を誰かに開け渡せること。ねぇ貴方、私のために死んでくださる」
少女は私の毒を嚥下させられて鯉のようにはくはくと口を動かし、顔を先ほど以上に赫らめた。今度は鼻の先まで赫くなっている。女の口の端が歪んで罵詈雑言でも述べようかというように戦慄いていた。しかし彼女は人間だから、私に立ち向かうのが怖いのだ。この家は、この女は狂っていると知ってしまった。しかしこのご時世だ。世界にも自分の世界はきっとない。そんなところだろう、彼女の逡巡なんて。
少女はよろめいて後ろに倒れてしまった。貴族らしい誇りも軽く折られ、こちらを見る目に鋭さも優しさもない、弱い人間の目になった。こんなものでいいだろう、とようやく口から笑いを零した。高らかに勝利の宣言をするように腹の底から声をあげて、彼女を思い切り踏み躙るのだ。
「あんたの死なんていらないわ、社会のために死んでご覧なさいよ。誇りを抱えて死ねたならきっと心地が好いわよ……それじゃあ、さようなら」
踵を返して今度こそ自室へ向かう。家を取り囲む金木犀はまだ蕾さえもっていないのだろう。世界は無味乾燥に柔らかい風だけを吹かせる。香木は魔を退けるというが内側にいては意味もない。今日も絶えずに悪夢を見るような予感がしたが、予感に反してその日は、誰かの温もりを側に感じる揺籃の中にあるべき乳臭い夢を見た。
五
次の日起こしにきた女中に聞くと、昨日の女中は夜のうちに家の横の川に身投げしたらしい。
幸福な死だこと、欠伸を嚙み殺しながら私はそう思った。部屋に朝食を運ばせた際、名も知らぬ女中の遺書が私に届けられたが読まずにそれを燃やした。宛名の字画が一本足りなかったからだ。父が使っている舶来物の灰皿を掴んで手紙を入れ、マッチを、花でも手向けるように優しく載せた。音も無く不完全な手紙は朽ちていく。記憶の中の彼女が完全な灰になるまで、頬杖をつきながら焼ける文字を見ていた。
休日であったため、火が燃え尽きるのを看取った後も、私は何をするでもなく薄らぼんやりと天井を眺めると言ったような怠惰を楽しんでいた。頭の中には薄い靄がかかり、微睡と覚醒の狭間で揺蕩う。ふと目を瞑ってみると、部屋に入り込む光を近くに感じることができた。然し眠ることはできない、それはもうだいぶ前からのことであった。障子もあるのに、太陽の光は遠慮なく降り注いでいる。しかしそれも心地よい気がしていた。私はこうしている時が一番生きている気がすると思う。
ゆらぎを楽しんでいると、廊下を走る人の音がする。女中がその音の主を引き留める声が再三したがそれでも足音は止まらない。どうやら私の部屋に向かってくるようだ。「おやめください、奥様!」女中頭が声を張り上げているところを初めて聞いた。そう思っているうちに足音はもう、目前に迫っていて驚く間も無く障子は大胆にも開かれた。
「わたし、貴方のために死にます」
太陽を背中にして高らかに宣言するはだけた着物の女がそこにある。逆光で顔はうまく見えないがきっと母によく似たその顔には見たこともない笑顔が宿っているのだろうな、とわたしは目を細めた。望んでないことばかり、どうしてこうも簡単に、階段を上がるように積み重なってしまうのか。文机の端に置いた銀のロザリオがまばゆく朝の光を受けて煌めいているのを見た。
「御義母様、いったいどういうことでしょうか」
私は向き直り、興奮冷めやらぬ様子で私の前に正座する生贄に相対した。生贄は確かに年齢が私より上で、母と同い年だったはずなのに学校で見る子女たちよりも幼い、絵に描いたような少女の口ぶりでまくし立てる。
「おかあさま、なんて呼ばないでください。あたし、貴方様に救われましたの。障子の向こうで貴方、私を見つけ出してくだすったのね。蜘蛛の糸でも降りてきたようだったわ。貴方様は天女なのでしょう。だからこんな家でも強く或れるのでしょう。あの瞬間に極めましたの。地獄で生きること、貴方のために死ぬことを!なんて甘美なのかしらん、」
ああ、と息が零れる。恍惚に浸り爛々と目を潤ませる少女を見て本当に心の底から可笑しかった。喉の奥が急に締まったと思ったらすぐに解放される。反動に引きずられるように私は大口を開けて笑った。あははははははは。あはははははは……。彼女はただにこやかに私を眺めているのに気づいて冷たい鉄が首筋に当てられた気がした。腹を決めろと彼女は私を脅迫している。強欲な信者もあったものだと最後に一笑して私は急に真面目な顔を作った。
「ミツさん」
「ハイ、なんでございましょう」
「あなたの死、間近で見たいわ。美しく死んでちょうだいね」
生贄はただ、はいと自信ありげに一度頷いてから準備があるのでこれで、と慌ただしく部屋を出て行った。その背中が廊下を曲がったとき、彼女が身に纏っていた着物は母がかつて私を抱いてくれたときに来ていた物だと気づく。芥子色の布地に浮かぶ蕨の柄の着物の袖に優しいだけの光が注いで妙に眩く映った。
外はよく晴れている。なんの気なしに通り過ぎた風が金木犀の香りを私のそばに運んできてひどく困惑した。昨日まで咲いていないはずだったのに。そしてため息を吐く。金木犀は父を狂わせる花だ。何故なら母が生前父にねだった唯一のものだからである。
母は魔を退けるからと言って家の周りに金木犀を埋めさせるように父に強請った。庭師がいくら止めても父はやめなかったから、最後には父が自ら買ってきてそれで諦めさせて植えたらしい。時折、母は本当は父を愛していたんじゃないかと思う。彼女は魔を内側に閉じ込めてどこにも行けないようにしてしまったのだから。
あの甘い香りがすると世界の空気は清らかに歪み、リアリズムに刃を差し込んで白昼夢を深めてしまう。夢を現実にする装置は果して吉と出るのか凶と出るのだろうか。考えても仕方のないことではある。庭へ出て香りの方へ寄った。金木犀は家の横に流れる川との垣根になるように庭の外線に沿って世界を隔てるように植えられていた。
真っ当なことではない、と思う。昨日までたくさん雨が降っていたから川の流れは早い。人間の血液の送る速度を見たことはないがこのくらいなのではないだろうか。私は洗い晒しの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。死に甘い夢を見てしまうのは私も同じだった。手を伸ばした先の、枝はそう容易く折れない。揺さぶられて土に降り注ぐいくつもの香り立つ星が哀しく青空を眺めていた。
六
それからのミツの行動は早かった。彼女は私の部屋を出て行ったその足で街へ出かけてゆき件の赤いハイヒィルと流行りらしいワンピースをいくつか買ってきた。そして女学校時代の友人の元へ向かい、その日のうちに「赤靴社」という女性解放集団を作り上げてしまったのである。
帰ってきたミツは朝とは違う、流行り物の装いのまま、玄関に回らず庭へ来て障子の向こうから叫んで私を呼んだ。橙色の光の中に立つ女は罪悪感のある親しみとは掛け離れた人間になっていた。そして彼女は褒められるのを待つ犬のようにただにこにことそんな話をした。
もちろん、これらは父に大きな衝撃を与えてしまった。父は昼間は母の言いつけを守って日夜、家を大きくするために真っ当に仕事をしている。生贄の来る前は顔を合わせない日も多かったが、彼女が家にやってきてからは必ず夕食には帰ってきた。
私たちは畳の上に豪奢な絨毯を敷き、その上に大きな西洋机を置いた和洋折衷の間で夕飯は必ず一緒に取ることになっていた。これは母の頃には無かった習慣である。父は悪魔である、しかし狂いきれてはいない。
私たちは席について主人を待たねばならなかった。いつもこの空間には柱時計の生む音しか無かったが今日はミツの口がよくまわる。たわいもない話が煩わしいように思えて少し嬉しかった。心の奥にふつと湧いた暖かさも静かに重い父の足音に熱を奪われていく。そして扉は開かれた。父の瞳には怒りの感情が隠されることもなく迸っている。
「真魚子、なんだその服は。ふざけているのか」
「いいえちっとも」
「だったらなんだってそんな服装をしているんだい。破廉恥だし君に似合っていない。僕が買ってきた服を着ているのが一番良いと君も言っていただろう」
「いいえ言っていません」
「真魚子!」
「いいえ、旦那様。私の名前は真魚子ぢゃありません」
父は顔に明らかな怒りと戸惑いを浮かべながら、ミツのもとへ歩み寄る。ミツは紙のようにさらりと音もなく立ち上がった。やはりその顔には笑顔があった、そして彼女の手には銀色の鋏が握られている。
じゃぎん、とわかりやすく憑物の落ちる音がした。それは彼女と、母の表象であった長く豊かな緑の髪の絶たれた音でもあった。
父はすっかり憔悴してそこにだらしなくへたり込んでしまった。そうして久しく見せていなかった涙をいくつも絨毯に染み込ませる。手にはたった今切られた彼女の髪が握られている。ミツは大きな声で高笑いを始めた。
七
そうして一年が経ち、また金木犀が眠りから覚めた。父はこの一年でだいぶ骨ぎすになり、その商才も鈍り、一度家に入り込んだ凋落の兆しは否応なくこの家を蹂躙する。そしてもう誰も彼のことも、この家のことも話題には昇らせなかった。ただでさえ少なかった女中も一人また一人といなくなり、昨日は最後の女中に暇(いとま)を出した、家財も売った。そうする度、いつもミツは泣きそうな顔をして私に、後悔はしていないかと聞くのであった。
私は今日もいかにも苦しそうな顔をつくって尋ね来たミツを、庭から呼び寄せ、伽藍堂になった部屋に引き込んでその勢いのまま隣に寝かせた。布団は敷いていなく、ふるぼったい継ぎ目のほつれてきた畳の上で私たちは一つのもののようになった気がしていた。動くことはしなかった。無意識に動く心臓、繰り返される呼吸。それすらも時として止めたくなるような狂った世界の上で私は彼女の時間を鑑賞しているつもりだった。けれども確かに私たちの間には越えがたい時間が流れている。
縁側に赤いしがらみは土の上に乱雑に投げ捨てられている。私が、そうさせた。何もない部屋を見て一層彼女の悲しみの匂いは深くなる。繋いだ手も、力強く返される。彼女はすっかり革命家の顔つきで、たまに家に帰っては泣きそうな顔でハイヒィルを急いで脱いで私に縋り許しを乞うのだ。私は断然よかった。彼女の目を見て自信をもって答えるたびに彼女の瞳は陰り、完全なる同情を私に見せた。ミツに同情されるのは存外私を幸福にしてくれた。もう何もいらなかった。欲しいものは死ぬときにきっと与えられる。金木犀が強く香る。私は立ち上がって「全て終わらせなきゃあね」とミツに笑った。
こんな場所に縋れる幸福なんぞもうないのだ。私に残されたものはミツと数ヶ月前に辞めた女学校で握らされた銀の十字架のみである。父はずいぶん前に母の残したものを食い潰してからは幻想をより顕著に追いかけている。父の部屋は今や孤独な阿片窟だ。何もかも捨てるべきなのだ、私たちは。ひどく軋むようになった廊下を一人歩いた。
八
声変わりして気づいたことがある。私と母の声音はよく似ている。私は一切優しさを知らないふりして、襖越しに滞留する父の夢へと手を伸ばした。
「起きてらっしゃいますか……」
「……真魚子、真魚子なのかい。ああ起きているとも!今は人生のどんなときより目が覚めているさ。どうしたんだいこんな昼間に。君はいつもあの家で眠って、僕を待っているのだろう。今にきっと家を大きくして見せるから。待っていてくれ。必ず……」
「もういいわ」
「もういいって。なんで、なんでなんだい」
「あなたって、ほんとうにかわいそう」
突然襖の向こうで大きな音がした。ぞくりと背筋が揺らめく。ああでもきっとこれを求めていたのだと思う。ミツを信奉するものの気持ちがよくわかった。襖が倒れ、醜い生き物が現れる。血走った目を持って今にも私に飛びかかりそうなかわいそうな孤独の匂いのする生き物がそこにいた。
「お前は誰だ、真魚子を返せ!」
「返せだなんてひどいわ、奪われたのは私も一緒よ」
「誰だ誰だ、誰だ」
暗闇の中で赤い目が光っている。夢に溺れている目だ。がりがりと枯れ枝のような指が畳に爪を立ててがりがりと振動を生み出す。この敷居の向こうにいるのはもはや父ではなく、狡猾な悪魔でさえなく、何者にもなれずただそこにある化け物である。
「お母様は死んだわ!あんたが殺したのよ!」
ひどく滑稽な幸福をそこに見た。黄色く汚れた壁や床、散乱する女物の品々。そしてその真ん中で母の服を羽織って泣いている男。夕焼けに映し出される私「たち」の思い出は一厘の隙間もなく汚されていた。みんなみんなかわいそうだ。
「お父さま……」
彼は小脇に置いておいたらしい一升瓶を掴み、頭の上で逆さにし懐から出したライタァを自分に押し当てた。夢に死ぬことしかできない幸福な人間の成れの果てだ。秋晴れの空は火を煽り立ててやまない。にじり寄ってくる化物を愛せと昔の私に叫ばれたが、愛された記憶もないのにと私はもう振替っることも無かった。走りだした。愛は一つ分あれば十分だ。
九
「ミツ!ミツ!」
小走りしながらその名を叫んだ。奥まったあの男の部屋から走り出てようやく開けた廊下の先、草の伸び切った庭に一本吊り下がった糸のようにミツは控えていた。夕焼けの中に彼女は混じり合うこともなく立ちすくみ、あの日私に投げつけた静かな熱を灯していた。ミツは覚悟を決めた顔で、あの日より幾分か立派な大人の顔をして「はい」と神妙に返事をした。前にも後ろにも熱が迫る。私はこのかわいそうな人間のためにはにせものだとしても高貴さを示さなくてはならない気がした。彼女の熱に応えたいと思った。瞬間、廊下の上で木の軋む音がした。足の裏に土の感触が触れたとき、大きく息を吹き返した。一呼吸置いて、笑う。
「約束、果たして頂戴ね」
彼女の首元に巻かれていたスカーフを解き、足元にしゃがみ込む。華奢な靴紐がくるぶしを支えている上にスカーフを添えて自らの足と繋いで一つの輪を作った。その間ミツはずっと黙っていた。私も顔を見ることはしなかった。彼女と私の足は擦れ合うほどの距離にあった。くるぶしに浮かぶ青い血管になぜかぞくりと背筋が震えた。
「わかったよ」
上から伸びてきた小麦色の細い手が結び目を撫でた。浮上した優しい手が私の頭上を撫でた後、そのまま降りてきて赤いハイヒィルを取り除いた。導かれて顔を上げるとミツはいつの間にか「母」の顔をしていた。私はその瞬間生まれて初めて心が動いたような気がした。噛んだ唇は知らぬ間に笑顔になる。もう、戻れやしないのだ。炎の匂いはもうそこにまできていた。そうして繋がった私たちは素足で庭を駆け、門をぬけ、世界へ繋がる橋から身投げした。弾ける白い飛沫が最後に見た呼吸のある記憶だ。
水の中は暗い。冷たい。息もできない。それなのにどうしてこんなに心地が良いのだろう。強く引っ張られるこの紐だけがこの世で、私とミツの関係性を証明してくれる。切れるな、切れないで。
死はあっけない。一瞬の決断で世界は変わってしまうものなのだ。どれだけ苦しみが長かろうとも劇的な死など訪れようもないのだ。死んでゆく。ずっと待ち望んでいたものが今こうして与えられる。
金木犀が私たちと同じように水の中で揉まれている。結局、この小さな星々は私を一度だって守ってくれなかった。恨まない、それは人間の勝手な願いだ。そうあれば良いと言う願望を自然に押し付けるのは人間の醜さだろう。彼らもまた消えていくものだ私たちと一緒なのである。
冷たく暗い水の中で熱というのは存在の証拠と一緒だ。私という形がだんだんと確かなものになっていく。その中で一つ、夢を見た。次生まれてくるときはこんなふうに、ミツと繋がってずっと本当の親子でいられたら、ということだ。
我ながら馬鹿げた夢だ。こんなに家族に苦しめられてなお、家にともる灯火に夢みることを辞められない。誰も叶えてくれなくていい、ただ願うことを許して欲しかった。涙は完全に形になる前に川の流れに飲み込まれる。終ぞ彼に汚されることのなかったあの思い出と現在における呪いのような星々が今私たちと一緒に泳いでいた。水の激情に抗うこともできずただそこにちいさな死を保っていた。匂いさえ、もうどこにもない。意味なんてもうだいぶ前からない。
口に星が入り込む。そうしておもうのだ。私は今。本当に。幸福だ。水の中を一緒に浮遊するいくつもの星と片腕の痛み。ずっと欲しかったものが今、すべてある。願望は内側に滞留する。わたしはこのいっさいをすててなどやらない。星は今、泳いでいる。そうしていつか帰るのだ。
しかし人がそんなふうに彼女を評したくなるのもわからなくは無かった。前述したように、義母は傲慢なのである。これは「革命家」の気風である。旧時代の人間は我が身を砕くことは得意だが、身を切ることは苦手なのである。義母はその世界を斬り刻み、社会を変えようとしているのだ。
そんなことをしても無駄なのに。半径何里の社会を変革して何になると言うのだろう。世界なんて変えようもないのに。うっすらと確かに彼女を軽蔑していたが、同時に尊敬もしていた。適合ではなく革命に歩めるのは強かな人間である証明だ。私は迎合することのたやすさを知っている。きっと義母だって知っているだろうに、それをしないということを選択するのは彼女の強さに他ならない。もっともこの彼女の性格は後天的なものであることも、また知っている。爛々と輝く瞳が私ばかりを見ていることも。
私は人間として彼女に憧憬はあったが、彼女に取り巻くモガたちのように革命を口にする人間になりたいとは願えなかった。あの赤いハイヒィルはこれからも彼女たちの革命の礎になるのだろう。あの踵は蜘蛛の糸と大差のない、弱い人間の縋るべきものなのである。
しかし光にすがっても自分自身が光になれるわけではない。あの眩い恐ろしい高潔さに少女たちはめくらになってしまったのだろうか。私は目蓋を伏せて彼女のハイヒィルの音を頭の中に響かせてみた。
玄関に並べられる彼女の靴が恐ろしかった。彼女たちのおままごとみたいな革命に手を伸ばしたいと思いたくなってしまう自分を貫かれる幻想を見させられるから。
玄関に並べられる彼女の靴が恐ろしかった。彼女を嘲笑していたいと思いつつも、心の奥に爪の先ほどに畳み込んだ感情を暴かれて私の手を引いてここから出して、発見してと叫びたくなるから。
家での彼女の靴は池に迷い込んだ金魚と同じだ。主人を失ったその靴はどこにあっても居心地悪そうに跳ねている。主人も鎧をなくしてどこか頼りなく、柳のように笑う。呪いだなと思う、しかし只今帰りましたの声を響かせるのはやはり暖かい家がよかったのだ。軒先に灯るあのガスランプにかなうだけの夢を随分前から渇望していたように思う。
二
「真知子、俺は結婚する。これは君の新しいお母様だよ。よろしくなさい」
義母が義母になった運びは、実に簡単な政略結婚である。義母はもともとどこかの貿易商の御令嬢で、たまたま父とご実家との会議に顔を出したところ見初められたという。私家は新貴族ではあるが名の知れた家であり、力関係的に義母は差し出された生贄ということらしかった。単純な摂理である。
もっと言えばこのことは全くの不意打ちであった。母を亡くして五年ほど経ったある日、世に憚らず、恋愛結婚で結婚して愛妻家であった月命日には必ず喪に服しているような父が突然彼女を連れてきた。喜色満面のそれは、普段見る黴びたタイルのような蒼ざめた、他者を受け入れることを知らない顔では無かった。
実に人間らしかった。肌には血が通っていたし、眼だって光を受け入れている。社会を動かすパーツの一つではなく、人間としての意識ある運動が父を動かしていた。彼は今、現実を生きているという充足感に溢れている。だからその隣に立つ女の顔を見て私はかわいそうだな、と思った。
義母は美しい女性だ。そして何より、母に瓜二つであった。我が家に今残る一葉残る母の写真は彼女に似ていても、私には似ていない。あの当時大量に焼き増してあった、父の手垢に塗れたいくつもの母の写真にまぜてもすぐに気づくことは難しいだろう。そう思うほどに瓜二つであった。しかし義母は母ではない。この家にそのような機関は必要がないことを父親以外が知っている。
たとえ父が彼女の名前を呼ばなくとも、生贄が過去に食われることは無かった。彼女は肉体というよりは精神を意識させるような構造の、思うにあれは春風である。名をつけて把握することはできても、実体を閉じ込めておくことは不可能だ。人の間をすり抜けて、自分のやったことに一切の責任を感ぜない。それは全て、言うならば「徒(いたづら)」 なのである。
「よろしくお願い申し上げます。ミツと申します」
記憶にある母の声よりも高めの女性性を強く意識させられる唇だ。それでいて誰かに媚びたことの無さそうなつっけんどんな音の切り口。これは彼女が愛されてきた証拠だ。生贄の名前は、家が貿易商という割合には古風な名前だと、少しだけ可笑しかった。おざなりに口角をあげて軽蔑を隠そうともしない、少女らしさが滲んでいる。嗚呼、こんな悪魔の家に入れられて可哀想。こんな人間は日の当たる場所で呑気に笑っているべきだろうに。
同情はあるが生贄は必要だ。寝殿造の奥まった家に、数人の女中と腐敗臭のする人間とで生きていくのには辟易としていた。人間を人間たらしめるのはやはり人であろう。私の社会が美しく存在するのならばそれでいい。だから私も悪魔になって喜んで生贄を受け入れたのである。
「真知子と申します。よろしくお願いします、御義母様……」
義母の瞳に映る私は人間に見えているだろうか。学校でも美しいと褒められた、令嬢らしいカーテシーをしながらそんなことを思った。好奇心にかられ、上目に彼女を見ると義母は疲れたように目を伏せている。上流の人間に見初められた喜びも、家を離れた不安もそこにはなく、ただ、街角に座り込んでいる労働者のような疲労の匂いがした。
この生贄は自覚のある生贄だ。そう気づいて、そのときの私はこれからの平穏な生活を確証していた。丁度良い歯車を見つけてきたと父に賛辞を贈っても良いような気さえしていた。しかしその歯車は「革命家」としての歯車だったのである。今日も世界はごく小規模に革命されている。世界は不意打ちに、怯え、憎悪し、乱舞した。義母は胡蝶のように春風を纏って今日も街を闊歩している。
三
「眞魚子、眞魚子、」
学校から帰宅して自室へ向かう途中に通りかかった部屋から母の名を呼ぶ父の声がする。それに応える声が、ある。背後で鞄を持つ女中が息を飲む音がした。とたとた足音を立てるこの女中はどうやら初(うぶ)らしい。そういえば見たこともない顔だった。私はなんとなく、足を止めてみた。後ろでもつれそうになった足を押しとどめる音が聞こえる。
隔絶された次元の物語を、障子という薄い間仕切りの奥に眺めた。夏の香りがだいぶ薄れたと思ったのに、日はまだ長い。橙色の中に浮かび上がる影は燃え上がる薪から溢れる灰のように脆くみえた。
「はい旦那さま、」
鳥の囀りの音の中に肉を叩(はた)く音がして、父の幻想が壊されたことを今日も悟った。ありふれた生活音の中にこの音が組み込まれて、もう幾月だろうか。今日はだいぶ初歩的な誤りだ。どうして心を砕かないのだろう。そうすれば楽になるになれるのに、私はいつもそう思った。口に出すことはしない。彼女は選択できる、人間なのだから。風がそよいで枯葉が足元に落ちてくる。手を伸ばす間も無く、新たな風に攫われて消えてしまった。
「眞魚子」
地を掠めるように低く威圧的な父の声に負けて、生贄は「あなた……」と息を溢す中にようやく音を繕って見せた。障子越しで影しか見えないが父は叩いた義母の頬を撫でているのだろう、二つの影が一つに見えた。
地の底にいる彼女にメシアのごとく手を差し延べて醜い現実に連れ戻し、目と目を合わせて自分の世界を教え込む。地獄に落としたのは自分だというのに、そんなことは忘れさせてしまうほど優しく愛を注いでいる、正しく言えば義母の中に植え付けている母に愛を注いでいた。
父の愛が発芽することはない。生贄は生贄であることを知っているのだから。自我の自覚がある人間に人格を組み込むことは難しい。どれだけ種を埋めたって土壌が合わなくては意味がない。人格はヴィールスのように罹患するものでもなく、生まれてからずっと生育されていくものなのだ。生きていた確証のある人間に芸のように人格を仕込むなど土台無理な話なのだ。
「もう良いわ、」
私は態とらしく女中に声をかけて鞄を受け取りゆっくりと障子の前を過ぎた。障子の奥ではまだ追憶じみた絵空のままごとが繰り広げられている。世界は別に揺らぎなどしない。あの世もこの世も人の生きる場所だ。私たちは悪魔だ。どんな道理だって私たちに過ちはない、そこにあるのは快不快の選択のみである。父は母の名前を呼び続ける。それこそ譫言のように。
女中の足音が聞こえないことに気づいて振り返ると、果たして彼女はまだそこにいた。女中の顔は青や赤に変化して忙しない。その場に立ち尽くし、地の細動を感じるように震えている。そう言えばこの女中は入って間もなかったのだったと思い出す。みんなみんな、可愛そうだ。私は踵を返して彼女のそばに寄った。
「ねえあなた、ほんとうのさいわいってご存知……」
名も知らぬ女中は私に声をかけられてようやく世界に帰ってきた。いつの間にか私の顔が近くにあって驚いたようである。そして頓狂な声を上げ損なって変に小さな小声で私に質問を返してきた。しかしその声も徐々に大きくなる。
「ほ、んとうの、さいわい、ですか?」
「ええそうよ。あなたのさいわいってなにかしら……」
「なにぶん、不勉強でござぃま、すもの、で。考え、たこともござい、ませんわ」
女中は怯えながらも気丈にも私の目を覗き込む。女にしては上背のある私にむかって澄んだ瞳できゃんきゃんと吠えてくるのが聞こえる。媚の売り方を知らないように反抗的で真っ直ぐな、誇りを感じる瞳の作りだ。
幸福について考えたことも無い幸福な人間だったのだろう。彼女は私にのまれまいと必死だ。多分それは、理性というより本能的な行動で、この女の芯から生まれた損な気質であろう。女中の目には私しか映っておらず、先ほどの父らの痴情のもつれなど問題ではないように思えているようだ。
うちにくる女中というのはよっぽど困窮した人間だ。この女は大方没落した貴族の娘だろう。肌の肌理も細かく、白粉の香りがほのかに香っていた。反対に紅は必要以上に紅く少女の顔を飾っていた。そういえば、どこかのパーティで見かけたような気もする。浮かんだのは鳥の羽のついた髪飾の似合うつまらない女だった。身なりも綺麗で肌にも汚れのない、手先もささくれのない、陶磁のような肉体の持ち主は自分を飼い慣らす術すらしらず放逐された。社会の責任は問えない。何故ならその選択を迫ったのは他でもない父だからである。
四
父は真正の悪魔である。柔和な表情が顔によく馴染む顔に載った薄い唇が動けば相手を威圧させない程度の優しい声音、話し方もごく滑らかに、棘の立つところは見つけられない。ペンより剣が強い時代の男性にしては腰も細く、杉のような風貌で頼り甲斐のなさそうにも見える。商才はあるが、虫も殺せなさそうな男であると言うのが外に聞く父の形である。その商才すらも誰か背後に糸を引くものがあるのではないかと言われるほどである。
しかし父と商談の席に着いた人間はそのような口を聞けない。その柔らかさは全て偽りなのだ。その偽りこそ父の姿であると多くの人間は思い込んでいる。薔薇(しょうび)に触れて棘に刺されたときのような、あの拭いきれない人間主義に不意打ちを与えられて人は父(悪魔)の前におよそひれ伏すしかないのである。ふだん世界を愛玩するようにゆるく細められた目は開かれ、夜の池のように沈んだら帰ってこれない魔力を溢れさす。あの唇の中に閉じ込められた舌は銀にかわり鋭く人々を切り刻む。そこに一切の感情は宿っていない、単に利益を求めるのみなのだ。
父が愉しくもないのにここまで利益を追求するのは実に単純な理由である。母の遺言が家を興して、と言う色気もない商家の娘としての言葉であったからだ。父が心を動かすの母の言葉によってのみであったからこれは当然と言えば当然だ。母が犬になれとでも言えば父は喜んで彼女の前にひざまづき、足蹴にされても喜んでいた。
父と母の関係は社会的に見れば父が圧倒的に優位だったが、家では真逆だった。授業のない日に母に遊んでもらおうと、離れである小さな煉瓦造りの家を尋ねると母は笑顔で私を迎え入れた、父の上に座って。父は黒色の背広を纏い四つん這いになってこちらを見ずにただ家具としてそこに在った。母は藤色のワンピースを見に纏い、英国の絵本に出てくるような少女然として美しく輝いていた。大きな窓を背にしているから、木の床にはなんとも歪な一つの影が伸びている。
母がおいで、と腕を広げるので私は駆け寄り腕の中に収まった。母は私の肩を痛くなるほど抱きしめ、それから私を抱えあげ自身の膝の上に座らせる。およそ五歳くらいの時分だからよっぽど重くはなかったはずだが父は加重に少しよろめいた。すると母はぞっとするような冷たい声で「だらしがない人」と呟いた。父は何も言わず、しかしその後は背筋に力が入りよろめくことはなかった。私は紫色の幸福の上で持ってきた本を朗読してもらい、家族の温かさを感じていた。あの静かすぎる部屋に時折ぽたぽたと滴っていたのが何だったのかまだ知らない頃の話である。
あれが愛で、あれは家族の形であったと父に言われればそうなのかも知れないと私はきっと思う。失われた形について論を深めることは幸福ではない。それは私にとっての父への愛である。だから同じ夢を見ているふりをしてやるのだ。
最愛の人に愛されることもなく死なれたし、誰と繋がることも幸福をもたらさない。義母の来るまでの5年間父はたびたび母に似た顔の女を連れ込んでは行為の最中で放り出して、母の遺品に縋り、穢れてしまった、穢れてしまったと泣くのである。
父は悪魔だ。けれども悪魔になったのは人間だからである。私は父の血も涙も知っている。その流れ出るものこそが彼を悪魔に仕立て上げていく。いくら体液を流そうとも苦しみの原因は体外に排出されない。悪魔になるのは容易だ。しかし今再び人間になることは難しい。揮発した感情は彼の周りを蠢いているように見えるが、見えるだけだ。覆水は盆に帰らない。手の内に溜めていた彼の悲しみを抱えていたって何にもならないことを重々理解しているのだ。
「真知子さま……?何か、」
どうしてこうも真摯に瞳を見れるのだろう。ほんのわずか、過去に引き摺られてかわいそうな気持ちに触れた。今、体と心が重なって初めて目にしたのは女中のあまりに無垢気な瞳である。青空を思わせるように濃く澄んだ瞳は根元的な高貴さで、私が一生てすることのない美しさだった。
いやただ単に考えられないのだろう。こんなに落ちぶれて尚、世界は自分に優しいと思っているのだろう。少女だった。未成熟なこの熱に冷や水を浴びせてやらなくてはならないと心が溜息を吐く。
この家ではありふれた通過儀礼なのだ。世の中にはこんな人間がいるのだと、君はここで生きていかなくてはならないのだと私は教えてやるのだ。この愛されてきた子供に。まんじりともせずいたときにふと落ちた夢の中で見る純粋な悪に少女は似ている。ごくありふれた不快感を今はただ弄んでいたかった。
「ほんのみぢかなことよ。あなたはどんなふうに世界を見ているの。何が楽しい?何がさいわい?何が欲しくて、何がいらない……」
父の仕草の真似をする。女中と目を合わせそっと、鞄を持っていない左手を彼女の頬に寄せた。父と義母の影に自らを重ねるようだった。父の鼻に抜ける甘く母の名を呼ぶ声は未だ絶えずスクリーン越しに聞こえていた。水が滲むようにじんわりと彼女の熱が私の手に入ってくるのが気持ちが悪い。吐気を抑えながら赫らむ女中の耳に口びるを寄せて私は静かに声を響かせた。
「ほんとうのさいわいっていうのは自分の幸せを願わないことよ……、自分の命を誰かに開け渡せること。ねぇ貴方、私のために死んでくださる」
少女は私の毒を嚥下させられて鯉のようにはくはくと口を動かし、顔を先ほど以上に赫らめた。今度は鼻の先まで赫くなっている。女の口の端が歪んで罵詈雑言でも述べようかというように戦慄いていた。しかし彼女は人間だから、私に立ち向かうのが怖いのだ。この家は、この女は狂っていると知ってしまった。しかしこのご時世だ。世界にも自分の世界はきっとない。そんなところだろう、彼女の逡巡なんて。
少女はよろめいて後ろに倒れてしまった。貴族らしい誇りも軽く折られ、こちらを見る目に鋭さも優しさもない、弱い人間の目になった。こんなものでいいだろう、とようやく口から笑いを零した。高らかに勝利の宣言をするように腹の底から声をあげて、彼女を思い切り踏み躙るのだ。
「あんたの死なんていらないわ、社会のために死んでご覧なさいよ。誇りを抱えて死ねたならきっと心地が好いわよ……それじゃあ、さようなら」
踵を返して今度こそ自室へ向かう。家を取り囲む金木犀はまだ蕾さえもっていないのだろう。世界は無味乾燥に柔らかい風だけを吹かせる。香木は魔を退けるというが内側にいては意味もない。今日も絶えずに悪夢を見るような予感がしたが、予感に反してその日は、誰かの温もりを側に感じる揺籃の中にあるべき乳臭い夢を見た。
五
次の日起こしにきた女中に聞くと、昨日の女中は夜のうちに家の横の川に身投げしたらしい。
幸福な死だこと、欠伸を嚙み殺しながら私はそう思った。部屋に朝食を運ばせた際、名も知らぬ女中の遺書が私に届けられたが読まずにそれを燃やした。宛名の字画が一本足りなかったからだ。父が使っている舶来物の灰皿を掴んで手紙を入れ、マッチを、花でも手向けるように優しく載せた。音も無く不完全な手紙は朽ちていく。記憶の中の彼女が完全な灰になるまで、頬杖をつきながら焼ける文字を見ていた。
休日であったため、火が燃え尽きるのを看取った後も、私は何をするでもなく薄らぼんやりと天井を眺めると言ったような怠惰を楽しんでいた。頭の中には薄い靄がかかり、微睡と覚醒の狭間で揺蕩う。ふと目を瞑ってみると、部屋に入り込む光を近くに感じることができた。然し眠ることはできない、それはもうだいぶ前からのことであった。障子もあるのに、太陽の光は遠慮なく降り注いでいる。しかしそれも心地よい気がしていた。私はこうしている時が一番生きている気がすると思う。
ゆらぎを楽しんでいると、廊下を走る人の音がする。女中がその音の主を引き留める声が再三したがそれでも足音は止まらない。どうやら私の部屋に向かってくるようだ。「おやめください、奥様!」女中頭が声を張り上げているところを初めて聞いた。そう思っているうちに足音はもう、目前に迫っていて驚く間も無く障子は大胆にも開かれた。
「わたし、貴方のために死にます」
太陽を背中にして高らかに宣言するはだけた着物の女がそこにある。逆光で顔はうまく見えないがきっと母によく似たその顔には見たこともない笑顔が宿っているのだろうな、とわたしは目を細めた。望んでないことばかり、どうしてこうも簡単に、階段を上がるように積み重なってしまうのか。文机の端に置いた銀のロザリオがまばゆく朝の光を受けて煌めいているのを見た。
「御義母様、いったいどういうことでしょうか」
私は向き直り、興奮冷めやらぬ様子で私の前に正座する生贄に相対した。生贄は確かに年齢が私より上で、母と同い年だったはずなのに学校で見る子女たちよりも幼い、絵に描いたような少女の口ぶりでまくし立てる。
「おかあさま、なんて呼ばないでください。あたし、貴方様に救われましたの。障子の向こうで貴方、私を見つけ出してくだすったのね。蜘蛛の糸でも降りてきたようだったわ。貴方様は天女なのでしょう。だからこんな家でも強く或れるのでしょう。あの瞬間に極めましたの。地獄で生きること、貴方のために死ぬことを!なんて甘美なのかしらん、」
ああ、と息が零れる。恍惚に浸り爛々と目を潤ませる少女を見て本当に心の底から可笑しかった。喉の奥が急に締まったと思ったらすぐに解放される。反動に引きずられるように私は大口を開けて笑った。あははははははは。あはははははは……。彼女はただにこやかに私を眺めているのに気づいて冷たい鉄が首筋に当てられた気がした。腹を決めろと彼女は私を脅迫している。強欲な信者もあったものだと最後に一笑して私は急に真面目な顔を作った。
「ミツさん」
「ハイ、なんでございましょう」
「あなたの死、間近で見たいわ。美しく死んでちょうだいね」
生贄はただ、はいと自信ありげに一度頷いてから準備があるのでこれで、と慌ただしく部屋を出て行った。その背中が廊下を曲がったとき、彼女が身に纏っていた着物は母がかつて私を抱いてくれたときに来ていた物だと気づく。芥子色の布地に浮かぶ蕨の柄の着物の袖に優しいだけの光が注いで妙に眩く映った。
外はよく晴れている。なんの気なしに通り過ぎた風が金木犀の香りを私のそばに運んできてひどく困惑した。昨日まで咲いていないはずだったのに。そしてため息を吐く。金木犀は父を狂わせる花だ。何故なら母が生前父にねだった唯一のものだからである。
母は魔を退けるからと言って家の周りに金木犀を埋めさせるように父に強請った。庭師がいくら止めても父はやめなかったから、最後には父が自ら買ってきてそれで諦めさせて植えたらしい。時折、母は本当は父を愛していたんじゃないかと思う。彼女は魔を内側に閉じ込めてどこにも行けないようにしてしまったのだから。
あの甘い香りがすると世界の空気は清らかに歪み、リアリズムに刃を差し込んで白昼夢を深めてしまう。夢を現実にする装置は果して吉と出るのか凶と出るのだろうか。考えても仕方のないことではある。庭へ出て香りの方へ寄った。金木犀は家の横に流れる川との垣根になるように庭の外線に沿って世界を隔てるように植えられていた。
真っ当なことではない、と思う。昨日までたくさん雨が降っていたから川の流れは早い。人間の血液の送る速度を見たことはないがこのくらいなのではないだろうか。私は洗い晒しの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。死に甘い夢を見てしまうのは私も同じだった。手を伸ばした先の、枝はそう容易く折れない。揺さぶられて土に降り注ぐいくつもの香り立つ星が哀しく青空を眺めていた。
六
それからのミツの行動は早かった。彼女は私の部屋を出て行ったその足で街へ出かけてゆき件の赤いハイヒィルと流行りらしいワンピースをいくつか買ってきた。そして女学校時代の友人の元へ向かい、その日のうちに「赤靴社」という女性解放集団を作り上げてしまったのである。
帰ってきたミツは朝とは違う、流行り物の装いのまま、玄関に回らず庭へ来て障子の向こうから叫んで私を呼んだ。橙色の光の中に立つ女は罪悪感のある親しみとは掛け離れた人間になっていた。そして彼女は褒められるのを待つ犬のようにただにこにことそんな話をした。
もちろん、これらは父に大きな衝撃を与えてしまった。父は昼間は母の言いつけを守って日夜、家を大きくするために真っ当に仕事をしている。生贄の来る前は顔を合わせない日も多かったが、彼女が家にやってきてからは必ず夕食には帰ってきた。
私たちは畳の上に豪奢な絨毯を敷き、その上に大きな西洋机を置いた和洋折衷の間で夕飯は必ず一緒に取ることになっていた。これは母の頃には無かった習慣である。父は悪魔である、しかし狂いきれてはいない。
私たちは席について主人を待たねばならなかった。いつもこの空間には柱時計の生む音しか無かったが今日はミツの口がよくまわる。たわいもない話が煩わしいように思えて少し嬉しかった。心の奥にふつと湧いた暖かさも静かに重い父の足音に熱を奪われていく。そして扉は開かれた。父の瞳には怒りの感情が隠されることもなく迸っている。
「真魚子、なんだその服は。ふざけているのか」
「いいえちっとも」
「だったらなんだってそんな服装をしているんだい。破廉恥だし君に似合っていない。僕が買ってきた服を着ているのが一番良いと君も言っていただろう」
「いいえ言っていません」
「真魚子!」
「いいえ、旦那様。私の名前は真魚子ぢゃありません」
父は顔に明らかな怒りと戸惑いを浮かべながら、ミツのもとへ歩み寄る。ミツは紙のようにさらりと音もなく立ち上がった。やはりその顔には笑顔があった、そして彼女の手には銀色の鋏が握られている。
じゃぎん、とわかりやすく憑物の落ちる音がした。それは彼女と、母の表象であった長く豊かな緑の髪の絶たれた音でもあった。
父はすっかり憔悴してそこにだらしなくへたり込んでしまった。そうして久しく見せていなかった涙をいくつも絨毯に染み込ませる。手にはたった今切られた彼女の髪が握られている。ミツは大きな声で高笑いを始めた。
七
そうして一年が経ち、また金木犀が眠りから覚めた。父はこの一年でだいぶ骨ぎすになり、その商才も鈍り、一度家に入り込んだ凋落の兆しは否応なくこの家を蹂躙する。そしてもう誰も彼のことも、この家のことも話題には昇らせなかった。ただでさえ少なかった女中も一人また一人といなくなり、昨日は最後の女中に暇(いとま)を出した、家財も売った。そうする度、いつもミツは泣きそうな顔をして私に、後悔はしていないかと聞くのであった。
私は今日もいかにも苦しそうな顔をつくって尋ね来たミツを、庭から呼び寄せ、伽藍堂になった部屋に引き込んでその勢いのまま隣に寝かせた。布団は敷いていなく、ふるぼったい継ぎ目のほつれてきた畳の上で私たちは一つのもののようになった気がしていた。動くことはしなかった。無意識に動く心臓、繰り返される呼吸。それすらも時として止めたくなるような狂った世界の上で私は彼女の時間を鑑賞しているつもりだった。けれども確かに私たちの間には越えがたい時間が流れている。
縁側に赤いしがらみは土の上に乱雑に投げ捨てられている。私が、そうさせた。何もない部屋を見て一層彼女の悲しみの匂いは深くなる。繋いだ手も、力強く返される。彼女はすっかり革命家の顔つきで、たまに家に帰っては泣きそうな顔でハイヒィルを急いで脱いで私に縋り許しを乞うのだ。私は断然よかった。彼女の目を見て自信をもって答えるたびに彼女の瞳は陰り、完全なる同情を私に見せた。ミツに同情されるのは存外私を幸福にしてくれた。もう何もいらなかった。欲しいものは死ぬときにきっと与えられる。金木犀が強く香る。私は立ち上がって「全て終わらせなきゃあね」とミツに笑った。
こんな場所に縋れる幸福なんぞもうないのだ。私に残されたものはミツと数ヶ月前に辞めた女学校で握らされた銀の十字架のみである。父はずいぶん前に母の残したものを食い潰してからは幻想をより顕著に追いかけている。父の部屋は今や孤独な阿片窟だ。何もかも捨てるべきなのだ、私たちは。ひどく軋むようになった廊下を一人歩いた。
八
声変わりして気づいたことがある。私と母の声音はよく似ている。私は一切優しさを知らないふりして、襖越しに滞留する父の夢へと手を伸ばした。
「起きてらっしゃいますか……」
「……真魚子、真魚子なのかい。ああ起きているとも!今は人生のどんなときより目が覚めているさ。どうしたんだいこんな昼間に。君はいつもあの家で眠って、僕を待っているのだろう。今にきっと家を大きくして見せるから。待っていてくれ。必ず……」
「もういいわ」
「もういいって。なんで、なんでなんだい」
「あなたって、ほんとうにかわいそう」
突然襖の向こうで大きな音がした。ぞくりと背筋が揺らめく。ああでもきっとこれを求めていたのだと思う。ミツを信奉するものの気持ちがよくわかった。襖が倒れ、醜い生き物が現れる。血走った目を持って今にも私に飛びかかりそうなかわいそうな孤独の匂いのする生き物がそこにいた。
「お前は誰だ、真魚子を返せ!」
「返せだなんてひどいわ、奪われたのは私も一緒よ」
「誰だ誰だ、誰だ」
暗闇の中で赤い目が光っている。夢に溺れている目だ。がりがりと枯れ枝のような指が畳に爪を立ててがりがりと振動を生み出す。この敷居の向こうにいるのはもはや父ではなく、狡猾な悪魔でさえなく、何者にもなれずただそこにある化け物である。
「お母様は死んだわ!あんたが殺したのよ!」
ひどく滑稽な幸福をそこに見た。黄色く汚れた壁や床、散乱する女物の品々。そしてその真ん中で母の服を羽織って泣いている男。夕焼けに映し出される私「たち」の思い出は一厘の隙間もなく汚されていた。みんなみんなかわいそうだ。
「お父さま……」
彼は小脇に置いておいたらしい一升瓶を掴み、頭の上で逆さにし懐から出したライタァを自分に押し当てた。夢に死ぬことしかできない幸福な人間の成れの果てだ。秋晴れの空は火を煽り立ててやまない。にじり寄ってくる化物を愛せと昔の私に叫ばれたが、愛された記憶もないのにと私はもう振替っることも無かった。走りだした。愛は一つ分あれば十分だ。
九
「ミツ!ミツ!」
小走りしながらその名を叫んだ。奥まったあの男の部屋から走り出てようやく開けた廊下の先、草の伸び切った庭に一本吊り下がった糸のようにミツは控えていた。夕焼けの中に彼女は混じり合うこともなく立ちすくみ、あの日私に投げつけた静かな熱を灯していた。ミツは覚悟を決めた顔で、あの日より幾分か立派な大人の顔をして「はい」と神妙に返事をした。前にも後ろにも熱が迫る。私はこのかわいそうな人間のためにはにせものだとしても高貴さを示さなくてはならない気がした。彼女の熱に応えたいと思った。瞬間、廊下の上で木の軋む音がした。足の裏に土の感触が触れたとき、大きく息を吹き返した。一呼吸置いて、笑う。
「約束、果たして頂戴ね」
彼女の首元に巻かれていたスカーフを解き、足元にしゃがみ込む。華奢な靴紐がくるぶしを支えている上にスカーフを添えて自らの足と繋いで一つの輪を作った。その間ミツはずっと黙っていた。私も顔を見ることはしなかった。彼女と私の足は擦れ合うほどの距離にあった。くるぶしに浮かぶ青い血管になぜかぞくりと背筋が震えた。
「わかったよ」
上から伸びてきた小麦色の細い手が結び目を撫でた。浮上した優しい手が私の頭上を撫でた後、そのまま降りてきて赤いハイヒィルを取り除いた。導かれて顔を上げるとミツはいつの間にか「母」の顔をしていた。私はその瞬間生まれて初めて心が動いたような気がした。噛んだ唇は知らぬ間に笑顔になる。もう、戻れやしないのだ。炎の匂いはもうそこにまできていた。そうして繋がった私たちは素足で庭を駆け、門をぬけ、世界へ繋がる橋から身投げした。弾ける白い飛沫が最後に見た呼吸のある記憶だ。
水の中は暗い。冷たい。息もできない。それなのにどうしてこんなに心地が良いのだろう。強く引っ張られるこの紐だけがこの世で、私とミツの関係性を証明してくれる。切れるな、切れないで。
死はあっけない。一瞬の決断で世界は変わってしまうものなのだ。どれだけ苦しみが長かろうとも劇的な死など訪れようもないのだ。死んでゆく。ずっと待ち望んでいたものが今こうして与えられる。
金木犀が私たちと同じように水の中で揉まれている。結局、この小さな星々は私を一度だって守ってくれなかった。恨まない、それは人間の勝手な願いだ。そうあれば良いと言う願望を自然に押し付けるのは人間の醜さだろう。彼らもまた消えていくものだ私たちと一緒なのである。
冷たく暗い水の中で熱というのは存在の証拠と一緒だ。私という形がだんだんと確かなものになっていく。その中で一つ、夢を見た。次生まれてくるときはこんなふうに、ミツと繋がってずっと本当の親子でいられたら、ということだ。
我ながら馬鹿げた夢だ。こんなに家族に苦しめられてなお、家にともる灯火に夢みることを辞められない。誰も叶えてくれなくていい、ただ願うことを許して欲しかった。涙は完全に形になる前に川の流れに飲み込まれる。終ぞ彼に汚されることのなかったあの思い出と現在における呪いのような星々が今私たちと一緒に泳いでいた。水の激情に抗うこともできずただそこにちいさな死を保っていた。匂いさえ、もうどこにもない。意味なんてもうだいぶ前からない。
口に星が入り込む。そうしておもうのだ。私は今。本当に。幸福だ。水の中を一緒に浮遊するいくつもの星と片腕の痛み。ずっと欲しかったものが今、すべてある。願望は内側に滞留する。わたしはこのいっさいをすててなどやらない。星は今、泳いでいる。そうしていつか帰るのだ。
1/1ページ