花の香りのする手紙
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今でもあの子の恋を思い出す。それはあまりにも優しい花の香りをからさせていたから――――。
それは決まり極った未来の宣告であった。学校が終わって寮に帰って受け取った父からの手紙のことである。
父から手紙が送られてくることなど一度もなかったため部屋に帰ってペーパーカッターで口をあければ、そこには有無を言わせぬ力強い筆で書かれた夏には学校を辞めて家庭へ入れとのお達しがある。
ああきたか、とどこか他人事につぶやきが溢れた。動揺がないかと言われればそんなことは無く、しかし諦めていたことではある。それ以上に、満を持して訪れた事実にどう対処すべきなのかを私はわかっていなかった。
「結婚、か」
喜ばしいことであるはずだ。私たち女は良い妻となるために学校に入れられたのだ。女学校は上等な妻を出荷するための工場だと私は思っている。それなのにどうしてこうも感情が絡まっているのであろうか。
顔も写真でしか見たことがない、名前も2度ほどしか口にしたことの無い相手に持つべき感情とはなんであろうか。これから夫婦になるっていうのは、一体どういうことなんだろうか……。逡巡する感情は絡まった毛糸玉のようで糸口を見つけることもできず、湧き上がる疑問が現れては消えてゆく。
「おねぇ様!」
その絶え間なく溢れていた質問を一瞬で可愛らしい声が飛ばしてしまった。
「ユキコさん、」
気づくと私は寮の中庭に立っていた。手紙を持ったまま部屋から当てどなくぼうっと歩いていたようだ。
ユキコは麦わら帽子を被ってなにやら花をいじっていたらしく制服から微かに土と緑の匂いがする。世話を終えて片付けたところのようで手は綺麗なものだった。花の世話は妻のやることではないと、つい先日教師に怒られていたのにあまり懲りてはいないようだ。
「おねぇ様が中庭へいらっしゃるなんて珍しいですね」
きゃらきゃらと口を開けて笑う彼女を端ないとは思わなかった。笑顔から覗く白い歯がとてもかわいらしい。
「そうね……わたしもそう思うわ」
「どうしてここに?私に逢いに来てくださったんですか?」
コロコロと表情を変える万華鏡のような女の子。潤んだ目でこちらを見てくるので私はくすっと笑って、先ほどまでの悩みを彼女という春風がどこまでも吹き飛ばしてくれたのだと改めて感じる。
「そうかもしれないわ」
ユキコは感激したようで私の手を取ろうとして、やめた。私も存在を忘れていたけれど私の手の内には一通の手紙があったからだ。ユキコはちいさく、それでも分かりやすく息を呑むようだった。下を向いていて顔はよく見えない。彼女には伝えねばならないと思っていたがどうにも膠を貼り付けられたようで上手く口を開くことは出来ず、私たちの間には静寂が訪れる。後方では光と草葉が踊っていた。
「わたしね、結婚するのよ」
もう一度深く呼吸をする音がした。ユキコはどんな表情を作るのだろう。それにはとても、興味があった。ゆっくりと顔を上げたユキコは慈しみを表現するように目を細めて私に向かっておめでとうございますと微笑んだ。また静寂が幕をおろそうとした時に今度はユキコが口をあける。
「実は私すきな方がいるんです。」
唐突な告白だった。え、と私の口からは戸惑いが音となって毀れる。
「手紙を書いたんです。それで、英語で書いたんですけど、私文法が苦手で。おねぇ様添削していただけませんこと?私、今持っていますの」
ユキコは真っ直ぐ私の目を見つめてくる。有無を言わせないのはこの子もおなじか。それでも嫌な気はしなかった。大切な後輩の恋を応援したいと心から思ったからだ。
「いいわよ」
「ありがとうございますおねぇ様!」
彼女はぺこっとおじぎをしてそれかららしくもない純白のレースハンカチに包んだ手紙をたもとから取り出して私の手のひらに載せた。
「お願いしますねおねぇ様」
神に願いを込めるように手紙をひとなでしてユキコはもう一度私に微笑んだ。彼女は本当に愛らしい。こんなふうに思われる人は幸せだなぁと胸の奥がちくりとうずくのを感じていた。私は2つの手紙を持って自室へと戻った。気持ちは依然として重くはあったが、先程の鉛のような重さから曇天のときの、なんとも言えない気の晴れなさに似た感覚だった。部屋に備え付けの学習机の前の椅子に座って、机へちょっと投げやりに手紙を置こうとしてやめる。音を立てないように手を机に重ねる風に手紙を机へそっと置く。
「あの子にそんな人がいたなんてね」
衝撃がようやく追いついてきて溜息にもにた吐息がそう声を作った。あのきらきらとした瞳が見つめていたのは誰なんであろう。
英語で書いていたとは言ったが、相手は英語教師ではないだろう。彼女は英語教師のクィーンズイングリッシュを毛嫌いしていたし、学校では恋文を英語で書くのが一種のルールだ。私たちの恋愛感情は隠匿されるべきものである。自由恋愛なんて御伽噺の中にしかない。明るみになれば親や社会という柵の上に自分の立場を築けなくなってしまう。英語は確かに言語ではあるが、この閉鎖的な空間でいえば非日常的なツールであったのもまた事実である。今こうして有用に使われているのだから無駄ではないと思うけれども。
手紙の口を三日月形のナイフがそっとなぞれば木苺のような甘い匂いとともに淡い皐色の紙が二つ折りで入っていた。紺色のペンで美しい文字が書かれている。流れるような筆致の中に彼女の収まりきらない恋の滲みを感じる。溢れ続けるその気持ちはこの紙の中にも息づいているように思われてユキコの心臓を預かったような気になった。
文法よりもその内容を読んでしまう。出会った喜び、過ごした日々の美しさ、恋に身を染める我が身のつらさ……。一文字一文字が太陽を反映して煌めく彼女の心の欠片で、狂おしいほど眩しい一文字一文字がまるで呪いのように私に降りかかる。自分にないものをこうもあからさまに与えられると水の中にいるような心地がする。皮膚でする呼吸など生きていく上では必要は無いのにどうにも息苦しくてかなわない。
何度も文章を読んで、幾つかの初歩的ミスを見つけた。普段のユキコなら使わないような言い回しも多く用いられていたことで辞書を使って努力したのだろうということが分かる。美しいといえる文ではないが彼女の思いの丈は十分に汲み取ることが出来る。赤い鉛筆で彼女の文字の上に私の文字を重ねた。胸に疼く熱をそのまま文字にしないようにいつもより慎重に書いたのに、気づいたら文字が震えていた。私は鉛筆を紙から離して両手で握りしめる。どこから震えが引き起こっているのかは分からなかった。ただ、この震えは私のものだ。この苦しみは、私のものだった。
翌日、ユキコに手紙を渡すと彼女は照れたような不思議そうな顔で私を見上げた。
「あなた英語上手くなったわね」
私がそう声をかけると、虚をつかれたようにユキコは目を見開いたが直ぐにいつもの笑顔に戻って
「ありがとうございます」
とほほえんだ。ユキコの笑顔の意味をこの時はまだ知らなかった。
「ところでおねぇ様、いつ結婚なさるんですか?」
「夏季休暇が始まる日よ」
「もう日がないですね」
「そうね。でも未練と言ったらあなたの門出を見送れないことだわ」
「……じゃあ私は幸福ですね。おねぇ様が幸せになるところを見送れるんですから」
そう言われて、今度は私が虚をつかれた。幸せを結婚に見いだせていない自分に気づいてしまったからだ。でもそんなことを言うなんて今までの人生の否定にほかならない。私は何も言いたくなくて、でも何かをわかって欲しくて彼女をいつの間にかユキコを抱きしめていた。
「おねぇ様……?」
「私、きっと、しあわせになるわ。あなたに誇れるくらい」
「えぇ待っていますおねぇ様。私いつまでも待っていますわ」
彼女の子供のような呪いのような言葉に笑ってしまう。
「いつまでもなんて待たないでね。ユキコがしあわせになってくれればそれでいいわ」
「難しいことを言いますねおねぇ様は、」
今度はユキコが笑いだした。私たちは2人で笑いあって、いくつかの雫をこぼした。この夜のことをいつまでも忘れない。
そうしていつの間にか時は過ぎた。いつものように生活をし、いつものように笑いあっていた。変化を見つめる前に毎日を大切に生きていた。
訪れた夏季休暇の始まる日、学友が笑いあって薄い旅行鞄を掴み寮を出て行くなかで私だけ分厚い旅行鞄に学園での思い出を全て詰め込んで部屋を出た。軋む廊下の音を一つ一つ聴きながら歩いていく。中庭には彼女が育てていたひまわりが光を受けて美しく咲いている。あんな風になりたいとそっと心に決めてついに玄関までたどり着いた。振り返って一礼してから敷居を跨いだ。夏の香りがする方へ私は歩む。陽炎がその奥には見える気がした。
呼んでおいた馬車に乗り駅へと向かう。15分ほどの短い時間ではあったが様々な思い出が泣くまいと極めて締め付けた心から漏れ出始めた。その中でいくどもユキコのことが思い出された。最後にもう一度会っておけばよかったわ、と今更悲しんでも仕方のないことを声にしてしまいそうになった。だから馬車を降りたとき驚いてしまった。そこにユキコがいたからだ。
「ユキコさん、どうしてここに?」
「何にも聞かないでくださいな、おねぇ様。私、何を言っても嘘を言ってしまいそうになるから」
彼女は涙を目の端に浮かべながらそう言う。
「それってどういうこと、」
「おねぇ様にこれを渡したくて。だって、さよならだから」
そう言ってユキコが差し出したのはあの中庭に咲いていたひまわりのブーケだった。
「許してくださいおねぇ様。どうか許すと言ってください」
「私が何を許すの」
ユキコの顔には涙の軌跡が刻まれていた。溢れた雫を救うことも私にはできなかった。ただ微笑んでそれ以上はもう何も言わなかった。汽車が黒煙とともにレールを走ってくる音が聞こえてきた。
「さようならおねぇ様」
私の胸に花を押し付けてユキコは走って行ってしまった。なにもかも振り払って彼女を追いかけることはできなかった。それは彼女に対する裏切りでも会ったからだ。そんなことは、言い訳である。ただ単に私に覚悟がなかっただけなのである。
私は崩された心のまま、若干の放心状態で汽車へ乗り込んだ。このまま結婚相手の元へ行く。ひまわりと旅行鞄、私にあるのはこれだけだった。流れていく風景をただ眺めていた。山なりの道を行くからレールは悪路に敷かれていて、ガタンガタンと時折揺れた。その弾みで一通の手紙がどこからか落ちた。私はそれに気づいて拾い上げると、見慣れた字で私の名前が書かれていた。それはユキコの文字であった。わたしは大急ぎで手紙を開けた。
そこにあったのはわたしが手直しをした、赤い鉛筆で加筆されたままの初稿のはずの手紙である。そこでようやくわたしは気づいた。この手紙がユキコからわたしへの最後な恋文であったことを。封をし直しただけのあの日と何一つ変わらない思いの込められた手紙が今わたしの手元にある。
全てが繋がって、なんてひどい子なんだろうと私は思った。私はもう彼女を愛することなどできないのに、私に愛を与えるだなんて。あの町にはもう、あの場所にはもう戻れない。彼女の元へなど戻るすべは私にはない。全ては明日から美しい思い出へと変わってしまうのだから。
「わたしあなたのこと、きっと許せないわ」
ひまわりからは朝露が溢れた。わたしは帰省に賑わう電車の中で、下唇を噛みながら涙を流さないようにじっと忍んで耐えていた。それからもう二度と、人生でわたしが泣くことはなかった。
それは決まり極った未来の宣告であった。学校が終わって寮に帰って受け取った父からの手紙のことである。
父から手紙が送られてくることなど一度もなかったため部屋に帰ってペーパーカッターで口をあければ、そこには有無を言わせぬ力強い筆で書かれた夏には学校を辞めて家庭へ入れとのお達しがある。
ああきたか、とどこか他人事につぶやきが溢れた。動揺がないかと言われればそんなことは無く、しかし諦めていたことではある。それ以上に、満を持して訪れた事実にどう対処すべきなのかを私はわかっていなかった。
「結婚、か」
喜ばしいことであるはずだ。私たち女は良い妻となるために学校に入れられたのだ。女学校は上等な妻を出荷するための工場だと私は思っている。それなのにどうしてこうも感情が絡まっているのであろうか。
顔も写真でしか見たことがない、名前も2度ほどしか口にしたことの無い相手に持つべき感情とはなんであろうか。これから夫婦になるっていうのは、一体どういうことなんだろうか……。逡巡する感情は絡まった毛糸玉のようで糸口を見つけることもできず、湧き上がる疑問が現れては消えてゆく。
「おねぇ様!」
その絶え間なく溢れていた質問を一瞬で可愛らしい声が飛ばしてしまった。
「ユキコさん、」
気づくと私は寮の中庭に立っていた。手紙を持ったまま部屋から当てどなくぼうっと歩いていたようだ。
ユキコは麦わら帽子を被ってなにやら花をいじっていたらしく制服から微かに土と緑の匂いがする。世話を終えて片付けたところのようで手は綺麗なものだった。花の世話は妻のやることではないと、つい先日教師に怒られていたのにあまり懲りてはいないようだ。
「おねぇ様が中庭へいらっしゃるなんて珍しいですね」
きゃらきゃらと口を開けて笑う彼女を端ないとは思わなかった。笑顔から覗く白い歯がとてもかわいらしい。
「そうね……わたしもそう思うわ」
「どうしてここに?私に逢いに来てくださったんですか?」
コロコロと表情を変える万華鏡のような女の子。潤んだ目でこちらを見てくるので私はくすっと笑って、先ほどまでの悩みを彼女という春風がどこまでも吹き飛ばしてくれたのだと改めて感じる。
「そうかもしれないわ」
ユキコは感激したようで私の手を取ろうとして、やめた。私も存在を忘れていたけれど私の手の内には一通の手紙があったからだ。ユキコはちいさく、それでも分かりやすく息を呑むようだった。下を向いていて顔はよく見えない。彼女には伝えねばならないと思っていたがどうにも膠を貼り付けられたようで上手く口を開くことは出来ず、私たちの間には静寂が訪れる。後方では光と草葉が踊っていた。
「わたしね、結婚するのよ」
もう一度深く呼吸をする音がした。ユキコはどんな表情を作るのだろう。それにはとても、興味があった。ゆっくりと顔を上げたユキコは慈しみを表現するように目を細めて私に向かっておめでとうございますと微笑んだ。また静寂が幕をおろそうとした時に今度はユキコが口をあける。
「実は私すきな方がいるんです。」
唐突な告白だった。え、と私の口からは戸惑いが音となって毀れる。
「手紙を書いたんです。それで、英語で書いたんですけど、私文法が苦手で。おねぇ様添削していただけませんこと?私、今持っていますの」
ユキコは真っ直ぐ私の目を見つめてくる。有無を言わせないのはこの子もおなじか。それでも嫌な気はしなかった。大切な後輩の恋を応援したいと心から思ったからだ。
「いいわよ」
「ありがとうございますおねぇ様!」
彼女はぺこっとおじぎをしてそれかららしくもない純白のレースハンカチに包んだ手紙をたもとから取り出して私の手のひらに載せた。
「お願いしますねおねぇ様」
神に願いを込めるように手紙をひとなでしてユキコはもう一度私に微笑んだ。彼女は本当に愛らしい。こんなふうに思われる人は幸せだなぁと胸の奥がちくりとうずくのを感じていた。私は2つの手紙を持って自室へと戻った。気持ちは依然として重くはあったが、先程の鉛のような重さから曇天のときの、なんとも言えない気の晴れなさに似た感覚だった。部屋に備え付けの学習机の前の椅子に座って、机へちょっと投げやりに手紙を置こうとしてやめる。音を立てないように手を机に重ねる風に手紙を机へそっと置く。
「あの子にそんな人がいたなんてね」
衝撃がようやく追いついてきて溜息にもにた吐息がそう声を作った。あのきらきらとした瞳が見つめていたのは誰なんであろう。
英語で書いていたとは言ったが、相手は英語教師ではないだろう。彼女は英語教師のクィーンズイングリッシュを毛嫌いしていたし、学校では恋文を英語で書くのが一種のルールだ。私たちの恋愛感情は隠匿されるべきものである。自由恋愛なんて御伽噺の中にしかない。明るみになれば親や社会という柵の上に自分の立場を築けなくなってしまう。英語は確かに言語ではあるが、この閉鎖的な空間でいえば非日常的なツールであったのもまた事実である。今こうして有用に使われているのだから無駄ではないと思うけれども。
手紙の口を三日月形のナイフがそっとなぞれば木苺のような甘い匂いとともに淡い皐色の紙が二つ折りで入っていた。紺色のペンで美しい文字が書かれている。流れるような筆致の中に彼女の収まりきらない恋の滲みを感じる。溢れ続けるその気持ちはこの紙の中にも息づいているように思われてユキコの心臓を預かったような気になった。
文法よりもその内容を読んでしまう。出会った喜び、過ごした日々の美しさ、恋に身を染める我が身のつらさ……。一文字一文字が太陽を反映して煌めく彼女の心の欠片で、狂おしいほど眩しい一文字一文字がまるで呪いのように私に降りかかる。自分にないものをこうもあからさまに与えられると水の中にいるような心地がする。皮膚でする呼吸など生きていく上では必要は無いのにどうにも息苦しくてかなわない。
何度も文章を読んで、幾つかの初歩的ミスを見つけた。普段のユキコなら使わないような言い回しも多く用いられていたことで辞書を使って努力したのだろうということが分かる。美しいといえる文ではないが彼女の思いの丈は十分に汲み取ることが出来る。赤い鉛筆で彼女の文字の上に私の文字を重ねた。胸に疼く熱をそのまま文字にしないようにいつもより慎重に書いたのに、気づいたら文字が震えていた。私は鉛筆を紙から離して両手で握りしめる。どこから震えが引き起こっているのかは分からなかった。ただ、この震えは私のものだ。この苦しみは、私のものだった。
翌日、ユキコに手紙を渡すと彼女は照れたような不思議そうな顔で私を見上げた。
「あなた英語上手くなったわね」
私がそう声をかけると、虚をつかれたようにユキコは目を見開いたが直ぐにいつもの笑顔に戻って
「ありがとうございます」
とほほえんだ。ユキコの笑顔の意味をこの時はまだ知らなかった。
「ところでおねぇ様、いつ結婚なさるんですか?」
「夏季休暇が始まる日よ」
「もう日がないですね」
「そうね。でも未練と言ったらあなたの門出を見送れないことだわ」
「……じゃあ私は幸福ですね。おねぇ様が幸せになるところを見送れるんですから」
そう言われて、今度は私が虚をつかれた。幸せを結婚に見いだせていない自分に気づいてしまったからだ。でもそんなことを言うなんて今までの人生の否定にほかならない。私は何も言いたくなくて、でも何かをわかって欲しくて彼女をいつの間にかユキコを抱きしめていた。
「おねぇ様……?」
「私、きっと、しあわせになるわ。あなたに誇れるくらい」
「えぇ待っていますおねぇ様。私いつまでも待っていますわ」
彼女の子供のような呪いのような言葉に笑ってしまう。
「いつまでもなんて待たないでね。ユキコがしあわせになってくれればそれでいいわ」
「難しいことを言いますねおねぇ様は、」
今度はユキコが笑いだした。私たちは2人で笑いあって、いくつかの雫をこぼした。この夜のことをいつまでも忘れない。
そうしていつの間にか時は過ぎた。いつものように生活をし、いつものように笑いあっていた。変化を見つめる前に毎日を大切に生きていた。
訪れた夏季休暇の始まる日、学友が笑いあって薄い旅行鞄を掴み寮を出て行くなかで私だけ分厚い旅行鞄に学園での思い出を全て詰め込んで部屋を出た。軋む廊下の音を一つ一つ聴きながら歩いていく。中庭には彼女が育てていたひまわりが光を受けて美しく咲いている。あんな風になりたいとそっと心に決めてついに玄関までたどり着いた。振り返って一礼してから敷居を跨いだ。夏の香りがする方へ私は歩む。陽炎がその奥には見える気がした。
呼んでおいた馬車に乗り駅へと向かう。15分ほどの短い時間ではあったが様々な思い出が泣くまいと極めて締め付けた心から漏れ出始めた。その中でいくどもユキコのことが思い出された。最後にもう一度会っておけばよかったわ、と今更悲しんでも仕方のないことを声にしてしまいそうになった。だから馬車を降りたとき驚いてしまった。そこにユキコがいたからだ。
「ユキコさん、どうしてここに?」
「何にも聞かないでくださいな、おねぇ様。私、何を言っても嘘を言ってしまいそうになるから」
彼女は涙を目の端に浮かべながらそう言う。
「それってどういうこと、」
「おねぇ様にこれを渡したくて。だって、さよならだから」
そう言ってユキコが差し出したのはあの中庭に咲いていたひまわりのブーケだった。
「許してくださいおねぇ様。どうか許すと言ってください」
「私が何を許すの」
ユキコの顔には涙の軌跡が刻まれていた。溢れた雫を救うことも私にはできなかった。ただ微笑んでそれ以上はもう何も言わなかった。汽車が黒煙とともにレールを走ってくる音が聞こえてきた。
「さようならおねぇ様」
私の胸に花を押し付けてユキコは走って行ってしまった。なにもかも振り払って彼女を追いかけることはできなかった。それは彼女に対する裏切りでも会ったからだ。そんなことは、言い訳である。ただ単に私に覚悟がなかっただけなのである。
私は崩された心のまま、若干の放心状態で汽車へ乗り込んだ。このまま結婚相手の元へ行く。ひまわりと旅行鞄、私にあるのはこれだけだった。流れていく風景をただ眺めていた。山なりの道を行くからレールは悪路に敷かれていて、ガタンガタンと時折揺れた。その弾みで一通の手紙がどこからか落ちた。私はそれに気づいて拾い上げると、見慣れた字で私の名前が書かれていた。それはユキコの文字であった。わたしは大急ぎで手紙を開けた。
そこにあったのはわたしが手直しをした、赤い鉛筆で加筆されたままの初稿のはずの手紙である。そこでようやくわたしは気づいた。この手紙がユキコからわたしへの最後な恋文であったことを。封をし直しただけのあの日と何一つ変わらない思いの込められた手紙が今わたしの手元にある。
全てが繋がって、なんてひどい子なんだろうと私は思った。私はもう彼女を愛することなどできないのに、私に愛を与えるだなんて。あの町にはもう、あの場所にはもう戻れない。彼女の元へなど戻るすべは私にはない。全ては明日から美しい思い出へと変わってしまうのだから。
「わたしあなたのこと、きっと許せないわ」
ひまわりからは朝露が溢れた。わたしは帰省に賑わう電車の中で、下唇を噛みながら涙を流さないようにじっと忍んで耐えていた。それからもう二度と、人生でわたしが泣くことはなかった。
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