旅立つ学者に語る物語
15歳になり身体が変化すると、夏至の夜に「男」が迎えにきた。
カンッ――― カンッ―――
里の出口の岩柱を叩く音が、虫の音の騒々しさに混じる。
ソアは寝床に潜り込み、薄い掛け布を頭から被って聴こえなかったフリを決め込んだ。しかし母達はその音に即座に反応し、湯を沸かして一杯の茶を用意する。
寝床で丸くなるソアの隣に獣皮で包んだ一抱えの荷物を置くと、薄い掛け布越しに我が子の身体を優しく撫で、静かに木戸を開け家を離れていった。
カンッ――― カンッ―――
静かになった室内に、遠く再び岩柱を叩く音が鳴った。
音が消え入ると、虫の音をかき消す程の己の鼓動が響く。
里の子供たちでかくれんぼをするとき、周りに誰の気配もなく、一人で隠れている緊張感。それを何倍にも膨らませたような、恐怖とも言うべき竦みがソアの全身を満たしていく。
遂に迎えが来てしまった。何度掟を説かれても理解し難い、護人としての生と死が訪れようとしている。
掛け布の中で、このまま見過ごしてはくれないだろうかと願った時、室内に男の声が響いた。
「ソアだな。立て」
低く力強い一声を受けて反射的に飛び起きる。寝床から勢いよく立ち上がったソアの前には、初対面の男が立っていた。
がっしりとした体躯。結われた長い白髪。褐色の肌には何筋もの傷跡があり、琥珀のような薄茶色の瞳でソアを見下ろす。
「ソア(黒)=スケィヴ(曲がった)名の通りの髪と耳だな」
ソアは脳裏に大きな獣を思い描きながら男を見上げ、「はい」と返事する。
大型の獣と対峙したら、こんな感じだろうか。初めて真正面に対峙する雄の姿は、同じヒトとは思えない程に強靭で美しく見えて息を飲んだ。
男はソアから視線を外すと、背負っていた大きな籠を床に下ろして居間の椅子を乱暴に引き、どかりと腰かけた。
木造りの椅子が聞いた事のない音で軋み、男が腰に帯びた刀や装飾が重たく鈍い音を立てる。
先ほど母達が淹れた一杯の茶に手を伸ばすと、香りを確かめ、少し口を付けて熱そうに顔をしかめた。
その動作があまりにも普通のヒトだったので、ソアの緊張が少しほぐれる。暑い夜でもないのに、額からだらだらと汗を流していた事に気づいた。
深く静かに息を吐くと、黙ってちまちま茶を飲んでいた男が不意に声を発した。
「かみは預けたか」
「かみ?」
「お前が死んだ時に焚べる髪だ」
何の事かと一瞬理解が遅れたが、ああ、葬儀の時には精霊様の炎で髪を燃やすんだったと思い出す。次いで、想像していた最悪の通り、護人になれば死に近い生活を強いられるのだという現実がすとんと胸に落ちてきた。
「預けてないです」
「なら今切っていけ」
男は腰の短刀を抜くとソアに柄を差し出した。一目に使い込まれた物と分かる短刀はずっしりと重たく、刃は薄く輝いている。
ソアが恐る恐る前髪を摘むと、男は「もっと切れ」とうなじを指差した。
男に従って肩に掛かってうねる後髪を一房掴み、思い切って刃を引く。
髪は驚くほど軽い感触ではらりと切れた。
男は腰の鞄からソアの手のひら程の大きさのパピルスを取り出すと、ちょいちょいと手招きして髪をそれに包ませ、卓の上に置いた。
黒い髪がはみ出したそれを眺め、母はどう感じるんだろうか、と思う。
虫の音だけの静かな時間が流れる。色々と質問してみたい気もしたが、鋭い眼光の男に自分から話し掛ける勇気は出なかった。
「俺は熱い茶が苦手でな」
ソアの戸惑いを知ってか知らずか、男が口を開く。
「…お前の母が用意した時間だ。
里を出たら、一人前になるまで戻る事はない。今のうちに惜しんでおけ」
どうやら飲み干さないとならないようで、単に茶が熱いのか、わざと時間を掛けてくれているのかどちらか測りかねる。少し口を付けては時間を置いている所を見ると前者なのかもしれない。
ソアは「はい」と返事をして見慣れた室内を見渡した。
木組に漆喰を塗った壁には色とりどりの布が掛かり、高い天井の梁には母と採った薬草が干されている。
整理された棚には凝った絵柄の食器類。母たちと自分が毎日使った椀や杯が目に入った。
母二人と自分の三人で過ごした小さな家で、子供を失った母の姿を思い浮かべるのは、とても寂しい。
しかし、不思議な事に、この短い時間のどこかで、受け入れがたい現状が腑に落ちてきたのだろうか。容易に自分がいない世界を思い描いたのがどこか可笑しくなってソアは笑った。
喉元過ぎれば何とやらだ。目の前の男に視線を戻して口を開く。
「あの」
「なんだ」
「あなたの名前は」
問いかけると男はぐいと湯呑を仰ぎ、立ち上がった。
===
ーささくれてる、痛い、狭い!最悪だ!
男が背負ってきた籠がまさか自分を入れる物だとは思わなかった。茶を飲み終わるや否や、母たちが用意した荷物と共に籠に入れと言われ、愕然とした。
その籠を軽々と背負って歩く男は里の出口に辿り着くと、男のものなのだろう。岩柱に立てかけた巨大な戦斧を手に取って柄で岩柱を叩いた。
カンッ――― カンッ―――
大きな音が夜の森に溶けて遠くなる。里からは何の返答もなく、闇に静けさが満ちた。
「お前の名前は今から「カイ」だ」
籠の中でもぞもぞと、なんとか楽な姿勢を模索しながら復唱する。
「カイ」
「気に入らなければ好きに変えて構わない。あとさっきの」
「はい」
「俺の名前は、お前が一人前まで生きてたら教えてやる。
俺の名前を呼びながら死なれたら、たまったもんじゃない。師と呼べ」
「はい師匠」
「2日移動する。籠の中で死ぬなよ」
なるほど籠の中で死ぬこともあるのか。素直に受け止め、いかにして籠地獄から生還するかを思索する。
生きていればまた里に帰る事もあるかもしれない。出来る限り精いっぱい、なんとか頑張って、生き残ろうと、カイは狭い籠の中、単純で前向きな決意をした。
15
カイになった日
22/2/21
カンッ――― カンッ―――
里の出口の岩柱を叩く音が、虫の音の騒々しさに混じる。
ソアは寝床に潜り込み、薄い掛け布を頭から被って聴こえなかったフリを決め込んだ。しかし母達はその音に即座に反応し、湯を沸かして一杯の茶を用意する。
寝床で丸くなるソアの隣に獣皮で包んだ一抱えの荷物を置くと、薄い掛け布越しに我が子の身体を優しく撫で、静かに木戸を開け家を離れていった。
カンッ――― カンッ―――
静かになった室内に、遠く再び岩柱を叩く音が鳴った。
音が消え入ると、虫の音をかき消す程の己の鼓動が響く。
里の子供たちでかくれんぼをするとき、周りに誰の気配もなく、一人で隠れている緊張感。それを何倍にも膨らませたような、恐怖とも言うべき竦みがソアの全身を満たしていく。
遂に迎えが来てしまった。何度掟を説かれても理解し難い、護人としての生と死が訪れようとしている。
掛け布の中で、このまま見過ごしてはくれないだろうかと願った時、室内に男の声が響いた。
「ソアだな。立て」
低く力強い一声を受けて反射的に飛び起きる。寝床から勢いよく立ち上がったソアの前には、初対面の男が立っていた。
がっしりとした体躯。結われた長い白髪。褐色の肌には何筋もの傷跡があり、琥珀のような薄茶色の瞳でソアを見下ろす。
「ソア(黒)=スケィヴ(曲がった)名の通りの髪と耳だな」
ソアは脳裏に大きな獣を思い描きながら男を見上げ、「はい」と返事する。
大型の獣と対峙したら、こんな感じだろうか。初めて真正面に対峙する雄の姿は、同じヒトとは思えない程に強靭で美しく見えて息を飲んだ。
男はソアから視線を外すと、背負っていた大きな籠を床に下ろして居間の椅子を乱暴に引き、どかりと腰かけた。
木造りの椅子が聞いた事のない音で軋み、男が腰に帯びた刀や装飾が重たく鈍い音を立てる。
先ほど母達が淹れた一杯の茶に手を伸ばすと、香りを確かめ、少し口を付けて熱そうに顔をしかめた。
その動作があまりにも普通のヒトだったので、ソアの緊張が少しほぐれる。暑い夜でもないのに、額からだらだらと汗を流していた事に気づいた。
深く静かに息を吐くと、黙ってちまちま茶を飲んでいた男が不意に声を発した。
「かみは預けたか」
「かみ?」
「お前が死んだ時に焚べる髪だ」
何の事かと一瞬理解が遅れたが、ああ、葬儀の時には精霊様の炎で髪を燃やすんだったと思い出す。次いで、想像していた最悪の通り、護人になれば死に近い生活を強いられるのだという現実がすとんと胸に落ちてきた。
「預けてないです」
「なら今切っていけ」
男は腰の短刀を抜くとソアに柄を差し出した。一目に使い込まれた物と分かる短刀はずっしりと重たく、刃は薄く輝いている。
ソアが恐る恐る前髪を摘むと、男は「もっと切れ」とうなじを指差した。
男に従って肩に掛かってうねる後髪を一房掴み、思い切って刃を引く。
髪は驚くほど軽い感触ではらりと切れた。
男は腰の鞄からソアの手のひら程の大きさのパピルスを取り出すと、ちょいちょいと手招きして髪をそれに包ませ、卓の上に置いた。
黒い髪がはみ出したそれを眺め、母はどう感じるんだろうか、と思う。
虫の音だけの静かな時間が流れる。色々と質問してみたい気もしたが、鋭い眼光の男に自分から話し掛ける勇気は出なかった。
「俺は熱い茶が苦手でな」
ソアの戸惑いを知ってか知らずか、男が口を開く。
「…お前の母が用意した時間だ。
里を出たら、一人前になるまで戻る事はない。今のうちに惜しんでおけ」
どうやら飲み干さないとならないようで、単に茶が熱いのか、わざと時間を掛けてくれているのかどちらか測りかねる。少し口を付けては時間を置いている所を見ると前者なのかもしれない。
ソアは「はい」と返事をして見慣れた室内を見渡した。
木組に漆喰を塗った壁には色とりどりの布が掛かり、高い天井の梁には母と採った薬草が干されている。
整理された棚には凝った絵柄の食器類。母たちと自分が毎日使った椀や杯が目に入った。
母二人と自分の三人で過ごした小さな家で、子供を失った母の姿を思い浮かべるのは、とても寂しい。
しかし、不思議な事に、この短い時間のどこかで、受け入れがたい現状が腑に落ちてきたのだろうか。容易に自分がいない世界を思い描いたのがどこか可笑しくなってソアは笑った。
喉元過ぎれば何とやらだ。目の前の男に視線を戻して口を開く。
「あの」
「なんだ」
「あなたの名前は」
問いかけると男はぐいと湯呑を仰ぎ、立ち上がった。
===
ーささくれてる、痛い、狭い!最悪だ!
男が背負ってきた籠がまさか自分を入れる物だとは思わなかった。茶を飲み終わるや否や、母たちが用意した荷物と共に籠に入れと言われ、愕然とした。
その籠を軽々と背負って歩く男は里の出口に辿り着くと、男のものなのだろう。岩柱に立てかけた巨大な戦斧を手に取って柄で岩柱を叩いた。
カンッ――― カンッ―――
大きな音が夜の森に溶けて遠くなる。里からは何の返答もなく、闇に静けさが満ちた。
「お前の名前は今から「カイ」だ」
籠の中でもぞもぞと、なんとか楽な姿勢を模索しながら復唱する。
「カイ」
「気に入らなければ好きに変えて構わない。あとさっきの」
「はい」
「俺の名前は、お前が一人前まで生きてたら教えてやる。
俺の名前を呼びながら死なれたら、たまったもんじゃない。師と呼べ」
「はい師匠」
「2日移動する。籠の中で死ぬなよ」
なるほど籠の中で死ぬこともあるのか。素直に受け止め、いかにして籠地獄から生還するかを思索する。
生きていればまた里に帰る事もあるかもしれない。出来る限り精いっぱい、なんとか頑張って、生き残ろうと、カイは狭い籠の中、単純で前向きな決意をした。
15
カイになった日
22/2/21
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