第五章 テナルディエ
テオドール・テナルディエ
冷たい檻の中で 天井を眺めながら考える
右手の指輪に 誰も気づかない様子なのは ゼロの力が影響しているのだろうか
全て順調だった
捕まって足に枷があるのを順調と言わなければならない状況だが それでも良かった
18時 予定通りきたバルジャンを部屋に案内し60フランを受け取り 彼を椅子に座らせ パトロン・ミネットを招き マリウスにも聞こえるように はっきりと自らの正体を明かし 動きを牽制しつつ時を待つ あの時は必死で どれくらい時間が経ってジャベールたちが来たんだか覚えていない
本気で金を取る気はない それにこの男にはうまいこと逃げてもらわないといけない だが早すぎるのはダメだ
色々と考えながら 以前と同じ状況になることを心掛け やがて警察が乗り込み 今から逮捕されるのにやっと来たかと安堵する訳のわからない感情になり 見事同じ牢獄の同じ檻の中に入れられることに成功した
事件きっかけに逮捕されたテナルディエはもちろん 番についていたエポニーヌ アゼルマも逮捕され さらには調べられた結果ロザリーも一度は逮捕されたが テナルディエ以外は証拠不十分などの理由から早いうちに出獄できていた
ゼロが また牢の中に現れて言う
ゼロ「ギュスターヴに 何を頼んだの?」
そのうちわかるだろうよ
そう心で呟く
ゼロ「…あれだけ言っても 諦めないなんてね…やれるだけやってみるのはいいよ うまくいけば…私の想造を超えることもできるのかもしれない」
麻酔剤入りの酒を手に入れ 時を待つ
全て順調 あとは時が来るのを待つばかり…
雨風の激しい夜 知らせを受け眠らずにいると 窓の外にブリジョンの影
午前2時 テナルディエの脱獄は始まった
外へ出ると 一層激しい雨風と夜の闇に包まれる
全く同じルートを通らなければ脱獄は難しいだろう しかしあの日 命をかけた遁走の際の力が 一度経験した後の今 あるのだろうか
こちらに来いと言うように 闇の中に白い姿がぼんやりとした光のようにある
覚悟を決め 再び走るしかない
手の皮が擦りむけても 肘や膝が血に塗れようと どれだけ雨に濡れようと
右手にはめた指輪を親指で擦る
罪を重ねるために より不自由になるために それでも生きるために 他の家族が救えないと言う運命を拒否し 助けるために
ティナ「全く同じ道を通るなんて あの暗闇だ 難しいぞ」
時を戻す前 ゼロにそう言うと 彼女はなんてことないと言った
ゼロ「私は君がどう脱獄したか 側で見ていた」
深い溝も高い壁も 望めば越えられる
あり得ないことも 現実になる
誰もが予想もつかないような 到底乗り越えられないような道も 一度成功したのなら 大丈夫だと 不安を抱くのをやめ ただ走った
ゼロがいる場所へ進み だんだん思い出してくる
ようやく同じ壁の上にたどり着いた彼は 疲労からまた横たわった
教会の鐘の音を聞いてから 用心深く周りの声に耳を澄ませる 仲間たちの声を聞き逃してはいけない 自分がここにいることを知らせなければ 全て失敗に終わってしまう
テナルディエが壁の上にいると気づいたパトロン・ミネットだったが 彼が降りるための縄を渡す術がなく 彼自身縄をくくる力が残っていない
子供なら登れる場所を見つけたのでモンパルナスがガブローシュを連れてくる
下に降りたテナルディエと仲間たちは 早速次の仕事や身を隠すことなどの話をし始める
後ろでは ガブローシュが座って 父親が振り返りはしないかと待っていた
以前のテナルディエなら 助けた子供の顔を見ても気づかない上 下へ降りたら一切興味はなかった
落ち着いて見れば それが倅だとなんとかわかった これが最後かもしれないと 顔だけ見たくて振り向くと 目が合った
今までずっと碌な目に合わせていない 世話をした記憶も薄い それでも彼は自身の力で生き延びてきた
ガブローシュは立ち上がり もう用はないなと呟いてその場を去った
最後くらい 名前を呼んで別れようと思ったが すぐに姿が見えなくなる彼を突然引き止めるのもおかしいと思い 見送るだけになった
壁を抜ける 体力に限界が来て こんなところまで同じでなくていいのに…と思いながら 集会所までたどり着いたところで 足に力が入らなくなる
ゼロは後ろから追ってきていたのか 背後から支える
ゼロ「…少し休みなよ あと怪我の手当てを…」
ティナ「椅子で…いいからな…ロザリーの居場所は お前の口からは言えないか?」
ゼロ「うーん…まぁ予定通りだよ 隠れ場所にいる」
しばらくすると ギュスターヴが集会所へ来て 時計を合わせていた
ゼロ「ねぇ テナルディエに何か頼まれたでしょ」
ダステ「…頼まれはしたな」
ゼロ「何を?」
ダステ「話してないのか?ティナ」
ティナ「ない」
怪我の手当てを済ませたゼロは テナルディエに水を出し ギュスターヴが教えてくれるのを待った
ダステ「…ガブローシュを助ける手段を考えていた 彼がバリケードを抜けた時に接触して 弾と…逃げる先を伝えられないかと…どう思う」
ゼロ「弾…か でも外へ出るのはリスクがある ガブローシュがティナの言うことを聞くかもわからない」
ティナ「やれるだけのことは…な」
やがて彼はロザリーやアゼルマと再会をする
今のテナルディエは ロザリーが初めて会った頃のようになっていて 不思議ではあったが 側にいて嫌なわけではなかった
彼は2人が無事であることに安堵し ゼロたちに感謝をしていた
エポニーヌと再会したのは バルジャンとコゼットを襲撃しようとした時だった
もう一度同じようにパトロン・ミネットと向かうと やはりそこにはエポニーヌがいた
エポニーヌはそこにいるのがコゼットであり マリウスにとって大切な人だとわかり それをテナルディエたちが今まさに襲おうとしているのを理解し 身を挺して そこに何もないのだと訴えるため テナルディエとパトロン・ミネットら6人の悪党の前に立つ
エポニーヌが何か言う前に テナルディエが彼女の方を見た 暗がりでも確かに目が合い やはり以前の父とは違う異様さに少し怯むが それでもエポニーヌは明るい声で 父に抱きついた
ティナ「どうした」
低く 小さく それでいて優しく子供に声をかける父のような声を聞いて エポニーヌはむしろゾッとした
エポニーヌ「父さんこそ こんなところに来るなんて ここはとてもダメよ ねぇ私を抱きしめてよ だいぶ会わなかったんだから ようやく出てきてくれたのね」
ティナ「あぁまぁ…出てきたな ほら さっさとどこか行くんだ」
そう言って エポニーヌの腕を離そうとする しかしエポニーヌは離さず そのまま甘えるような仕草をする
エポニーヌ「父さん一体どうやったの?ねぇ話してよ 母さんのとこには行ったの?近頃会ってないの 聞かせてよ」
ティナ「……母さんには会ったさ アゼルマにもな 元気だ さぁ離してくれ もうどこかに…」
エポニーヌ「いやよ行かないわ 何ヶ月も会わないでいたのに どうしてすぐ追い払うの?」
テナルディエとしては 穏便に済ませ それっぽく理由をつけて さっさとこの場から立ち去りたかった 来ないで済むならいいが あの事件後 脱獄までの間にここの話はパトロン・ミネットにも入っている 動かないのはおかしく思われる 下手な真似をして 彼らに何か…怪しまれるのも 今後のためにならない
親子が何やら言い合っていると 盗賊たちの方が色々言い出した テナルディエはなんとかエポニーヌを追い払いたかったが 彼女がそれをするはずがなかった
テナルディエ相手ではダメだと思い エポニーヌは盗賊たちの方に声をかけ ここに値打ちはないと訴え 退けようとした
彼らがエポニーヌに手をかけることはないだろうが 一歩間違えれば誰が何をしだすかわからない かと言って以前のように エポニーヌに辛く当たるのでは最悪の別れ方になる
エポニーヌ「じゃあこの家に入るつもりなの?入れないよ 少しでも触れてごらん 戸を強く叩いて 大声で叫んでやるから 人を起こして おまわりを呼んでやる 全員捕まえさせてやる 父さんから…真っ先に…!」
同じ道筋を辿れば やがてパトロン・ミネットは退く その前に叫ばれてしまえば こっちが捕まる テナルディエはできるだけ何も言わずに 黙ってエポニーヌの方を見ていた
エポニーヌとしては 父に何か言われるかと思っていたが 何も言わない 不気味だが 今の父なら こうしていればやがていなくなるかもしれない 以前のような態度ではない むしろ弱々しく感じる あの父が…
盗賊たちは相談を始めた テナルディエはその輪に入らず ただ耳だけそちらに向け 彼らの判断がどうなるのかを待っていた
やがて以前のように 仲間の1人モンパルナスがエポニーヌを自分が見張るから行けと言い 袖からナイフを見せた
最後に事件の発頭人であるブリジョンという男に意見を聞くと 彼は頭を振り 今朝不吉なものを見たのもあり今日はどうにも縁起が悪いと言い やめにしようとそこを去った
去りながらモンパルナスは やれというなら別にエポニーヌをやったのに と言い
ティナ「娘をやれと言えねぇさ」
列の最後をゆっくりと歩くテナルディエがそう呟いた
エポニーヌは彼らが去るまでじっと目を離さないでいた そのため 最後に一度だけテナルディエが振り返り 街灯に照らされた顔が 気味の悪いことにどこか後悔に満ちていたのを見逃さなかった エポニーヌに邪魔されたことで何もやれなかったのを悔やむ様子ではない なぜか悲しそうなのだ そこに怒りは無かった
「テナルディエ 門の鍵は持っているか」
街角で立ち止まった仲間にそう聞かれ また前を向き 頷く
エポニーヌはその後をつけたが やがて彼らは別々の場所へ行き 闇に溶けるように姿を消していった
…思わず 先のことがわかるようなことを言いそうになった だが盗賊たちの相談を聞く間も口は一切開かなかった
気づけば振り返っていたが 全ては以前の通りに済んでしまった 言葉数は少なくとも 何も問題がないようだった
ティナ「…ダメか」
ゼロ「だから言ったじゃないか エポニーヌは救えないと」
ティナ「そうか…」
ゼロ「しかたないよ 物語自体に修正されたんじゃね…私も少し手は加えたけど…彼女がバリケードへ行く理由は 変えようがないし…」
バリケードか…とテナルディエは呟く
学生たちによる 革命を起こそうとする日
マリウス エポニーヌ ガブローシュがそこにいた
マリウスは志を同じくする友のために
エポニーヌは叶わない恋の中 せめて最後まで彼と共にいるために
そしてガブローシュは…
ガブローシュは革命の日 マリウスに頼まれて手紙を届けるべく走っていた
できるだけ早く届けて すぐにバリケードへ戻る気だった
マリウスはコゼットへの手紙を預けていた
コゼットの父…バルジャンに無事手紙を届け バリケードへ戻る最中 暗い路地の中から声をかけられた
ガブローシュ と名前を呼ばれて路地の方を見ると ボロボロの外套で頭を覆い隠すようにしている父親の姿だった
彼から バリケードで必要になった時に開けるようにと 口を紐で縛った包みをガブローシュに手渡した
なぜ急に しかも狙っていたようにこんな場所にいて バリケードへ行こうとしているのも全部わかっているのか 疑問は多かった
「…いいなガブローシュ また会えたら…その時は」
そう言われて 路地の奥へ去ろうとする父親を ガブローシュは呼び止めた
ガブローシュ「親父のそっくりさん 何が目的なんだい!」
その言葉を聞いて 彼の父親は足を止めた
「…なんだその そっくりさんってのは」
ガブローシュ「親父は俺をガブローシュって呼ばないよ 顔も声もおんなじに思えるけど 全然違う 知り合いかい」
しばらく黙った後 少し笑ったような声が聞こえた
「確かにそうだが その包みは確かに君の親父さんからのものだ 彼は今危険な状態だから 代わりに私が渡しにきたんだ」
ガブローシュ「へぇ まぁいいや 俺は急いでるんだ!」
テナルディエからの包みを持って ガブローシュはまたバリケードのある方へ走っていった
その姿を見た後 壁に手を触れ 中へ消える
壁の外に映る景色の方を見ながら 扉の方へ向かおうとすると 声をかけられる
ゼロ「ギュスターヴ 何その格好」
ダステ「……ゼロか」
ゼロ「うまくいきそうかな」
ダステ「手紙もある…あとは君次第…だろうな」
夜 テナルディエは走っていた
立ち止まり 用心深くあたりを見回し 何かに気づいて 今度は早歩きぐらいのスピードで進む
彼の後をつける男がいた
一定の距離を保ち 決して見失わないようについてきていた
ひとつひとつ間違いのないように 確認しながら テナルディエはある下水道の入り口の場所まで辿り着いた
後をつけてきていた男はその時テナルディエを見失い それでも辺りを探していた
それもわかっていた彼は 急いで下水道への扉…格子状になっている場所に手を伸ばした
中に人がいる
テナルディエは笑いながら声をかけた
…テナルディエと取引し バリケードへの最後の攻撃で負傷したマリウスを担いでバルジャンたちは下水道から逃げ延びた
その際 テナルディエを見つけ追っていたジャベールと遭遇し そのジャベールのおかげでマリウスを家まで送り届けることができた
迷路のような暗い下水道の中から別の場所へ移動し逃げたテナルディエの手にはマリウスがはめていた指輪があった
ティナ「…これなら証拠になるか」
バルジャンとのやりとりの中で マリウスの服の裾を掴み それが破れて取れるはずが 意識してやるとうまくいかず 咄嗟に指輪に手を伸ばしたのだった
下水道を歩きながらテナルディエは考えていた 隠れ家にいる間 ロザリーとアゼルマは おそらく突然人が変わったように見える自分を それでも受け入れ 関わっていた
良い関係になれるとは少しも思わないが この先をマシにできただろうかと 不安ではあった
もうすぐ全て終われる
ロザリー「お前さん どうしたの」
ティナ「何がだ」
ロザリー「…様子が……いや なんでもないよ」
テナルディエは以前よりも憔悴した顔になっているように見えた 罪悪感を抱いたことは ロザリーを救ったが…彼自身が救われたかはまた別だった
愛なのか 良心の呵責なのか
過去の出来事を思い出したことが彼に何をもたらしたのか それは ゼロの理想による改変なのだろうが せめてこの世界で 1人でも多く助かるのなら
ダステ「本来の物語とは違うかもしれないが…私としては…」
マリウスは手紙を受け取る 以前にも見たことのある紙 筆跡 タバコの匂い 書かれた名前はテナール…
部屋に入ってきたのは 装いだけは綺麗だが 正体を隠すことはしていないテナルディエだった
すでに正体をわかっていたマリウスだが その姿を見て少し驚いた様子だった
媚びるような態度もなく 要件だけを伝える
マリウスはそれ全てを 黙って聞いていた
コゼットの父がバルジャンという男であること そして彼の罪…下水道での証拠の指輪…
マリウス「…どういう心変わりだ テナルディエ」
それを全て聞き終えたマリウスは 冷たい声でそう言った
ティナ「心変わり…?」
マリウス「オピタル通りの破屋で あの人を逃すような動きをしたり 君の妻を遠くへ離したり…ガブローシュのことも 今の態度も 全部…君は 前の記憶があるようだが どういうことなんだ」
ティナ「なんの話を…」
そう言いながら テナルディエは困惑を隠せなかった マリウスの言うことが明らかにおかしい
マリウス「ガブローシュに宛てた手紙 あの子は字が読めないから 僕が代わりに読んだ そこまで頭がまわらなかったのか?」
テナルディエとロザリーはそうだが エポニーヌたちもある程度字が読めたので つい忘れてしまっていたが ガブローシュはほとんど放っておかれて育った子なので 学校には行っていないし 教えられるような機会はなかった
マリウス「読んだのが僕で良かったな…あの時思い出していたから 手紙の内容を見ても動揺はなかった」
ティナ「…どうして 記憶が そんなはずは」
マリウス「やはり何か知っているんだな…エポニーヌが…死んだ時 急に全てを思い出したんだ そしてまた同じことが繰り返されることも…」
バリケードの中で 弾が無くなった
マリウスやバルジャンが 危険を顧みずバリケードの向こう側へ行き 死んだ兵士から弾を回収しようと言っていた
その時マリウスには記憶が蘇っていた それが確かに起こった出来事だと自覚できているが それでいてなぜ今 過去に戻っているのか 全くわからず それでも時は過ぎていった
このままではガブローシュが死んでしまう それがわかっていたので なんとか防ごうと必死だった
だがガブローシュは 自分が行くと言わなかった
ガブローシュ「弾ならある!」
掲げたのは 紐で縛られた包み その中にはガブローシュへあてられた手紙と 大量の弾の入った袋
仲間たちは弾を分け合い マリウスはガブローシュに手紙の内容を教えていた
次が最後の攻撃だ 下水道へ逃げ込め この道順を覚えろ 途中マリウス・ポンメルシーを担ぐ男を見つけられる 共に行動をし助けるんだ マリウスの側にいれば お前の疑問もやがて晴れる せめてお前を逃すために
下水道でバルジャン マリウスと共にガブローシュがいるのを見て テナルディエは笑った ちゃんとその言葉に従ったのだと
実際はマリウスが彼に頼んでいた 生き延びるために 下水道へ そこに意味があるのだと
ガブローシュはマリウスに間一髪命を助けられていた そして今度は彼が マリウスを助けた
ティナ「理由は言えないが 俺も以前のことは覚えている 家族を助けるためにな」
マリウス「ガブローシュは今 僕らと暮らしている 彼をお前には渡せない これから幸せに暮らせるように…だからもうここから去れ 金は同額やる ワーテルローのことも ガブローシュのことも お前の本当のことは何もわからないが それでも僕は お前に2度と会いたくない 今度こそ…見送る」
テナルディエは静かに頷いた
ガブローシュは助かった しかも 自分たちといるより ずっと良い環境で これからより良くなれる機会を得た
マリウスは 父からの遺言通り 恩の限りを尽くした
ティナ「わかった どのみち 捕まれば死ぬ この国を出るしか道はない…あと もし…倅が嫌がらないなら…本当の名前で呼んでやってくれないか…」
マリウス「本当の…?」
ガブローシュというのは テナルディエがジョンドレットなど偽名を名乗ったのを真似て 彼が名乗った名前で 本名ではない
テナルディエは子供たちの名前はちゃんと覚えている それは 彼にとって1番の愛の形だった その自覚は一切なかったわけだが…
ティナ「あいつの名前は…ティエリーだ 俺たちがつけた名前が嫌なら そのままガブローシュでいいだろうが…」
マリウスは頷いた後 金を取り出し手渡した
それをポケットに入れた後 そのポケットに元々入っていたものを代わりに取り出した
約束通りタイムから返してもらっていた懐中時計
それは ポンメルシー大佐からテナルディエが盗み取った後 彼がテナルディエにあげようとしたもの
ティナ「ワーテルローで…大佐が…俺にくれると言ったものだ もう俺が…持つべきではないと思う これだけ渡したら もうここから出ていく」
マリウス「…父の?」
マリウスは受け取ろうと手を伸ばしたが すぐに下ろした
どういう経緯かわからない 本当にこの男が立派な兵士で 父を救ったのか 今となっては怪しいが それでも 父のような人が息子である自分に礼をして欲しいと頼むほど 恩を感じていたなら きっとそれは事実なのだろう
マリウス「父が…お前に渡したなら 僕にも持つ資格はない それはお前のものだ」
テナルディエはそれを言われ ポケットに時計をしまって 頭を下げた
ティナ「この恩は忘れない ティエリーを…どうか」
ポンメルシー邸を去るテナルディエを 追う子供の姿があった
…ガブローシュだった
彼もテナルディエが来るのはわかっていた
ガブローシュは彼に名前を尋ねた それ以外は何も言わなかった
ティナ「…テオドール…だが」
ガブローシュ「そっか」
ティナ「ティエリー…?」
ガブローシュ「うん さよなら」
そう言ってガブローシュは屋敷の方へ走り出し 途中で一度立ち止まり 振り返った
ガブローシュ「…名前だけは 忘れないでいるから 俺のこと 忘れるなよ 親父」
そしてまた走り 屋敷の中へ入っていった
テナルディエは深く帽子を被り直し 歩き出した
ガブローシュは 屋敷の中で少し笑った
これで最後なら もう一度だけ顔が見たかった 本当は名前を呼んで 抱きしめて欲しかった 愛が欲しかった ずっと けれどあの父は 母よりも自分に無関心だった 名前すら 忘れているんじゃないかと けれど 部屋の中から聞こえた声は 確かに自分の名前を呼んでいた むしろそう呼んでやってほしいとまで
親が自分に少しだが関心があったと知れただけ 良かった それだけでも 愛を受けられなかった少年には嬉しい出来事だった
もう二度会えなくても 悲しくないが 姉にまで会えないのは寂しかった
ガブローシュは 忘れられるのだけは嫌だった 自分に確かに家族がいたと思っていたかった その事実まで拒否できるほど ガブローシュは冷たくなれなかった まだ 少年だったからなのか 今までのことがあってなお 親からの愛が欲しかったからなのか…
テナルディエがその思いまでを知ることはなかった それでも 彼の中の愛の証である名は 記憶の中に刻まれた
彼は家族の名前を忘れることなく この先も生きる 彼らがいたのだという証は 確かに残った
例えそれが ゼロによるひとつの…ある意味でのハッピーエンドなのだとしても 彼にとっては良かった
そう それこそ寄せ集めの展開による 本来の道筋を消し去り作られた理想の世界なのだとしても…
家族に今後の話をして 彼は次の日を迎えた
そして次の日の朝 マリウスとの約束通り アメリカへ向かう船が着いた港に テナルディエたちの姿はあった
船はまだ出発の時間ではなく 表に姿を見せられるアゼルマがマリウスを探すが どうやらまだ到着していないようだった
それを確認したテナルディエは ロザリーにその場でアゼルマからの連絡を待つように言った
ロザリー「…それで あんたはどこに行くのさ」
ティナ「出発前に済ませることがある できるだけ短く済ませるから とにかく待っていろ」
それだけ言い テナルディエはできるだけ人目につかない道を選びながら 誰もいない路地を探し 奥へ進んだ
壁の前に立ち これが最後かと思いながら 手を伸ばした
END
冷たい檻の中で 天井を眺めながら考える
右手の指輪に 誰も気づかない様子なのは ゼロの力が影響しているのだろうか
全て順調だった
捕まって足に枷があるのを順調と言わなければならない状況だが それでも良かった
18時 予定通りきたバルジャンを部屋に案内し60フランを受け取り 彼を椅子に座らせ パトロン・ミネットを招き マリウスにも聞こえるように はっきりと自らの正体を明かし 動きを牽制しつつ時を待つ あの時は必死で どれくらい時間が経ってジャベールたちが来たんだか覚えていない
本気で金を取る気はない それにこの男にはうまいこと逃げてもらわないといけない だが早すぎるのはダメだ
色々と考えながら 以前と同じ状況になることを心掛け やがて警察が乗り込み 今から逮捕されるのにやっと来たかと安堵する訳のわからない感情になり 見事同じ牢獄の同じ檻の中に入れられることに成功した
事件きっかけに逮捕されたテナルディエはもちろん 番についていたエポニーヌ アゼルマも逮捕され さらには調べられた結果ロザリーも一度は逮捕されたが テナルディエ以外は証拠不十分などの理由から早いうちに出獄できていた
ゼロが また牢の中に現れて言う
ゼロ「ギュスターヴに 何を頼んだの?」
そのうちわかるだろうよ
そう心で呟く
ゼロ「…あれだけ言っても 諦めないなんてね…やれるだけやってみるのはいいよ うまくいけば…私の想造を超えることもできるのかもしれない」
麻酔剤入りの酒を手に入れ 時を待つ
全て順調 あとは時が来るのを待つばかり…
雨風の激しい夜 知らせを受け眠らずにいると 窓の外にブリジョンの影
午前2時 テナルディエの脱獄は始まった
外へ出ると 一層激しい雨風と夜の闇に包まれる
全く同じルートを通らなければ脱獄は難しいだろう しかしあの日 命をかけた遁走の際の力が 一度経験した後の今 あるのだろうか
こちらに来いと言うように 闇の中に白い姿がぼんやりとした光のようにある
覚悟を決め 再び走るしかない
手の皮が擦りむけても 肘や膝が血に塗れようと どれだけ雨に濡れようと
右手にはめた指輪を親指で擦る
罪を重ねるために より不自由になるために それでも生きるために 他の家族が救えないと言う運命を拒否し 助けるために
ティナ「全く同じ道を通るなんて あの暗闇だ 難しいぞ」
時を戻す前 ゼロにそう言うと 彼女はなんてことないと言った
ゼロ「私は君がどう脱獄したか 側で見ていた」
深い溝も高い壁も 望めば越えられる
あり得ないことも 現実になる
誰もが予想もつかないような 到底乗り越えられないような道も 一度成功したのなら 大丈夫だと 不安を抱くのをやめ ただ走った
ゼロがいる場所へ進み だんだん思い出してくる
ようやく同じ壁の上にたどり着いた彼は 疲労からまた横たわった
教会の鐘の音を聞いてから 用心深く周りの声に耳を澄ませる 仲間たちの声を聞き逃してはいけない 自分がここにいることを知らせなければ 全て失敗に終わってしまう
テナルディエが壁の上にいると気づいたパトロン・ミネットだったが 彼が降りるための縄を渡す術がなく 彼自身縄をくくる力が残っていない
子供なら登れる場所を見つけたのでモンパルナスがガブローシュを連れてくる
下に降りたテナルディエと仲間たちは 早速次の仕事や身を隠すことなどの話をし始める
後ろでは ガブローシュが座って 父親が振り返りはしないかと待っていた
以前のテナルディエなら 助けた子供の顔を見ても気づかない上 下へ降りたら一切興味はなかった
落ち着いて見れば それが倅だとなんとかわかった これが最後かもしれないと 顔だけ見たくて振り向くと 目が合った
今までずっと碌な目に合わせていない 世話をした記憶も薄い それでも彼は自身の力で生き延びてきた
ガブローシュは立ち上がり もう用はないなと呟いてその場を去った
最後くらい 名前を呼んで別れようと思ったが すぐに姿が見えなくなる彼を突然引き止めるのもおかしいと思い 見送るだけになった
壁を抜ける 体力に限界が来て こんなところまで同じでなくていいのに…と思いながら 集会所までたどり着いたところで 足に力が入らなくなる
ゼロは後ろから追ってきていたのか 背後から支える
ゼロ「…少し休みなよ あと怪我の手当てを…」
ティナ「椅子で…いいからな…ロザリーの居場所は お前の口からは言えないか?」
ゼロ「うーん…まぁ予定通りだよ 隠れ場所にいる」
しばらくすると ギュスターヴが集会所へ来て 時計を合わせていた
ゼロ「ねぇ テナルディエに何か頼まれたでしょ」
ダステ「…頼まれはしたな」
ゼロ「何を?」
ダステ「話してないのか?ティナ」
ティナ「ない」
怪我の手当てを済ませたゼロは テナルディエに水を出し ギュスターヴが教えてくれるのを待った
ダステ「…ガブローシュを助ける手段を考えていた 彼がバリケードを抜けた時に接触して 弾と…逃げる先を伝えられないかと…どう思う」
ゼロ「弾…か でも外へ出るのはリスクがある ガブローシュがティナの言うことを聞くかもわからない」
ティナ「やれるだけのことは…な」
やがて彼はロザリーやアゼルマと再会をする
今のテナルディエは ロザリーが初めて会った頃のようになっていて 不思議ではあったが 側にいて嫌なわけではなかった
彼は2人が無事であることに安堵し ゼロたちに感謝をしていた
エポニーヌと再会したのは バルジャンとコゼットを襲撃しようとした時だった
もう一度同じようにパトロン・ミネットと向かうと やはりそこにはエポニーヌがいた
エポニーヌはそこにいるのがコゼットであり マリウスにとって大切な人だとわかり それをテナルディエたちが今まさに襲おうとしているのを理解し 身を挺して そこに何もないのだと訴えるため テナルディエとパトロン・ミネットら6人の悪党の前に立つ
エポニーヌが何か言う前に テナルディエが彼女の方を見た 暗がりでも確かに目が合い やはり以前の父とは違う異様さに少し怯むが それでもエポニーヌは明るい声で 父に抱きついた
ティナ「どうした」
低く 小さく それでいて優しく子供に声をかける父のような声を聞いて エポニーヌはむしろゾッとした
エポニーヌ「父さんこそ こんなところに来るなんて ここはとてもダメよ ねぇ私を抱きしめてよ だいぶ会わなかったんだから ようやく出てきてくれたのね」
ティナ「あぁまぁ…出てきたな ほら さっさとどこか行くんだ」
そう言って エポニーヌの腕を離そうとする しかしエポニーヌは離さず そのまま甘えるような仕草をする
エポニーヌ「父さん一体どうやったの?ねぇ話してよ 母さんのとこには行ったの?近頃会ってないの 聞かせてよ」
ティナ「……母さんには会ったさ アゼルマにもな 元気だ さぁ離してくれ もうどこかに…」
エポニーヌ「いやよ行かないわ 何ヶ月も会わないでいたのに どうしてすぐ追い払うの?」
テナルディエとしては 穏便に済ませ それっぽく理由をつけて さっさとこの場から立ち去りたかった 来ないで済むならいいが あの事件後 脱獄までの間にここの話はパトロン・ミネットにも入っている 動かないのはおかしく思われる 下手な真似をして 彼らに何か…怪しまれるのも 今後のためにならない
親子が何やら言い合っていると 盗賊たちの方が色々言い出した テナルディエはなんとかエポニーヌを追い払いたかったが 彼女がそれをするはずがなかった
テナルディエ相手ではダメだと思い エポニーヌは盗賊たちの方に声をかけ ここに値打ちはないと訴え 退けようとした
彼らがエポニーヌに手をかけることはないだろうが 一歩間違えれば誰が何をしだすかわからない かと言って以前のように エポニーヌに辛く当たるのでは最悪の別れ方になる
エポニーヌ「じゃあこの家に入るつもりなの?入れないよ 少しでも触れてごらん 戸を強く叩いて 大声で叫んでやるから 人を起こして おまわりを呼んでやる 全員捕まえさせてやる 父さんから…真っ先に…!」
同じ道筋を辿れば やがてパトロン・ミネットは退く その前に叫ばれてしまえば こっちが捕まる テナルディエはできるだけ何も言わずに 黙ってエポニーヌの方を見ていた
エポニーヌとしては 父に何か言われるかと思っていたが 何も言わない 不気味だが 今の父なら こうしていればやがていなくなるかもしれない 以前のような態度ではない むしろ弱々しく感じる あの父が…
盗賊たちは相談を始めた テナルディエはその輪に入らず ただ耳だけそちらに向け 彼らの判断がどうなるのかを待っていた
やがて以前のように 仲間の1人モンパルナスがエポニーヌを自分が見張るから行けと言い 袖からナイフを見せた
最後に事件の発頭人であるブリジョンという男に意見を聞くと 彼は頭を振り 今朝不吉なものを見たのもあり今日はどうにも縁起が悪いと言い やめにしようとそこを去った
去りながらモンパルナスは やれというなら別にエポニーヌをやったのに と言い
ティナ「娘をやれと言えねぇさ」
列の最後をゆっくりと歩くテナルディエがそう呟いた
エポニーヌは彼らが去るまでじっと目を離さないでいた そのため 最後に一度だけテナルディエが振り返り 街灯に照らされた顔が 気味の悪いことにどこか後悔に満ちていたのを見逃さなかった エポニーヌに邪魔されたことで何もやれなかったのを悔やむ様子ではない なぜか悲しそうなのだ そこに怒りは無かった
「テナルディエ 門の鍵は持っているか」
街角で立ち止まった仲間にそう聞かれ また前を向き 頷く
エポニーヌはその後をつけたが やがて彼らは別々の場所へ行き 闇に溶けるように姿を消していった
…思わず 先のことがわかるようなことを言いそうになった だが盗賊たちの相談を聞く間も口は一切開かなかった
気づけば振り返っていたが 全ては以前の通りに済んでしまった 言葉数は少なくとも 何も問題がないようだった
ティナ「…ダメか」
ゼロ「だから言ったじゃないか エポニーヌは救えないと」
ティナ「そうか…」
ゼロ「しかたないよ 物語自体に修正されたんじゃね…私も少し手は加えたけど…彼女がバリケードへ行く理由は 変えようがないし…」
バリケードか…とテナルディエは呟く
学生たちによる 革命を起こそうとする日
マリウス エポニーヌ ガブローシュがそこにいた
マリウスは志を同じくする友のために
エポニーヌは叶わない恋の中 せめて最後まで彼と共にいるために
そしてガブローシュは…
ガブローシュは革命の日 マリウスに頼まれて手紙を届けるべく走っていた
できるだけ早く届けて すぐにバリケードへ戻る気だった
マリウスはコゼットへの手紙を預けていた
コゼットの父…バルジャンに無事手紙を届け バリケードへ戻る最中 暗い路地の中から声をかけられた
ガブローシュ と名前を呼ばれて路地の方を見ると ボロボロの外套で頭を覆い隠すようにしている父親の姿だった
彼から バリケードで必要になった時に開けるようにと 口を紐で縛った包みをガブローシュに手渡した
なぜ急に しかも狙っていたようにこんな場所にいて バリケードへ行こうとしているのも全部わかっているのか 疑問は多かった
「…いいなガブローシュ また会えたら…その時は」
そう言われて 路地の奥へ去ろうとする父親を ガブローシュは呼び止めた
ガブローシュ「親父のそっくりさん 何が目的なんだい!」
その言葉を聞いて 彼の父親は足を止めた
「…なんだその そっくりさんってのは」
ガブローシュ「親父は俺をガブローシュって呼ばないよ 顔も声もおんなじに思えるけど 全然違う 知り合いかい」
しばらく黙った後 少し笑ったような声が聞こえた
「確かにそうだが その包みは確かに君の親父さんからのものだ 彼は今危険な状態だから 代わりに私が渡しにきたんだ」
ガブローシュ「へぇ まぁいいや 俺は急いでるんだ!」
テナルディエからの包みを持って ガブローシュはまたバリケードのある方へ走っていった
その姿を見た後 壁に手を触れ 中へ消える
壁の外に映る景色の方を見ながら 扉の方へ向かおうとすると 声をかけられる
ゼロ「ギュスターヴ 何その格好」
ダステ「……ゼロか」
ゼロ「うまくいきそうかな」
ダステ「手紙もある…あとは君次第…だろうな」
夜 テナルディエは走っていた
立ち止まり 用心深くあたりを見回し 何かに気づいて 今度は早歩きぐらいのスピードで進む
彼の後をつける男がいた
一定の距離を保ち 決して見失わないようについてきていた
ひとつひとつ間違いのないように 確認しながら テナルディエはある下水道の入り口の場所まで辿り着いた
後をつけてきていた男はその時テナルディエを見失い それでも辺りを探していた
それもわかっていた彼は 急いで下水道への扉…格子状になっている場所に手を伸ばした
中に人がいる
テナルディエは笑いながら声をかけた
…テナルディエと取引し バリケードへの最後の攻撃で負傷したマリウスを担いでバルジャンたちは下水道から逃げ延びた
その際 テナルディエを見つけ追っていたジャベールと遭遇し そのジャベールのおかげでマリウスを家まで送り届けることができた
迷路のような暗い下水道の中から別の場所へ移動し逃げたテナルディエの手にはマリウスがはめていた指輪があった
ティナ「…これなら証拠になるか」
バルジャンとのやりとりの中で マリウスの服の裾を掴み それが破れて取れるはずが 意識してやるとうまくいかず 咄嗟に指輪に手を伸ばしたのだった
下水道を歩きながらテナルディエは考えていた 隠れ家にいる間 ロザリーとアゼルマは おそらく突然人が変わったように見える自分を それでも受け入れ 関わっていた
良い関係になれるとは少しも思わないが この先をマシにできただろうかと 不安ではあった
もうすぐ全て終われる
ロザリー「お前さん どうしたの」
ティナ「何がだ」
ロザリー「…様子が……いや なんでもないよ」
テナルディエは以前よりも憔悴した顔になっているように見えた 罪悪感を抱いたことは ロザリーを救ったが…彼自身が救われたかはまた別だった
愛なのか 良心の呵責なのか
過去の出来事を思い出したことが彼に何をもたらしたのか それは ゼロの理想による改変なのだろうが せめてこの世界で 1人でも多く助かるのなら
ダステ「本来の物語とは違うかもしれないが…私としては…」
マリウスは手紙を受け取る 以前にも見たことのある紙 筆跡 タバコの匂い 書かれた名前はテナール…
部屋に入ってきたのは 装いだけは綺麗だが 正体を隠すことはしていないテナルディエだった
すでに正体をわかっていたマリウスだが その姿を見て少し驚いた様子だった
媚びるような態度もなく 要件だけを伝える
マリウスはそれ全てを 黙って聞いていた
コゼットの父がバルジャンという男であること そして彼の罪…下水道での証拠の指輪…
マリウス「…どういう心変わりだ テナルディエ」
それを全て聞き終えたマリウスは 冷たい声でそう言った
ティナ「心変わり…?」
マリウス「オピタル通りの破屋で あの人を逃すような動きをしたり 君の妻を遠くへ離したり…ガブローシュのことも 今の態度も 全部…君は 前の記憶があるようだが どういうことなんだ」
ティナ「なんの話を…」
そう言いながら テナルディエは困惑を隠せなかった マリウスの言うことが明らかにおかしい
マリウス「ガブローシュに宛てた手紙 あの子は字が読めないから 僕が代わりに読んだ そこまで頭がまわらなかったのか?」
テナルディエとロザリーはそうだが エポニーヌたちもある程度字が読めたので つい忘れてしまっていたが ガブローシュはほとんど放っておかれて育った子なので 学校には行っていないし 教えられるような機会はなかった
マリウス「読んだのが僕で良かったな…あの時思い出していたから 手紙の内容を見ても動揺はなかった」
ティナ「…どうして 記憶が そんなはずは」
マリウス「やはり何か知っているんだな…エポニーヌが…死んだ時 急に全てを思い出したんだ そしてまた同じことが繰り返されることも…」
バリケードの中で 弾が無くなった
マリウスやバルジャンが 危険を顧みずバリケードの向こう側へ行き 死んだ兵士から弾を回収しようと言っていた
その時マリウスには記憶が蘇っていた それが確かに起こった出来事だと自覚できているが それでいてなぜ今 過去に戻っているのか 全くわからず それでも時は過ぎていった
このままではガブローシュが死んでしまう それがわかっていたので なんとか防ごうと必死だった
だがガブローシュは 自分が行くと言わなかった
ガブローシュ「弾ならある!」
掲げたのは 紐で縛られた包み その中にはガブローシュへあてられた手紙と 大量の弾の入った袋
仲間たちは弾を分け合い マリウスはガブローシュに手紙の内容を教えていた
次が最後の攻撃だ 下水道へ逃げ込め この道順を覚えろ 途中マリウス・ポンメルシーを担ぐ男を見つけられる 共に行動をし助けるんだ マリウスの側にいれば お前の疑問もやがて晴れる せめてお前を逃すために
下水道でバルジャン マリウスと共にガブローシュがいるのを見て テナルディエは笑った ちゃんとその言葉に従ったのだと
実際はマリウスが彼に頼んでいた 生き延びるために 下水道へ そこに意味があるのだと
ガブローシュはマリウスに間一髪命を助けられていた そして今度は彼が マリウスを助けた
ティナ「理由は言えないが 俺も以前のことは覚えている 家族を助けるためにな」
マリウス「ガブローシュは今 僕らと暮らしている 彼をお前には渡せない これから幸せに暮らせるように…だからもうここから去れ 金は同額やる ワーテルローのことも ガブローシュのことも お前の本当のことは何もわからないが それでも僕は お前に2度と会いたくない 今度こそ…見送る」
テナルディエは静かに頷いた
ガブローシュは助かった しかも 自分たちといるより ずっと良い環境で これからより良くなれる機会を得た
マリウスは 父からの遺言通り 恩の限りを尽くした
ティナ「わかった どのみち 捕まれば死ぬ この国を出るしか道はない…あと もし…倅が嫌がらないなら…本当の名前で呼んでやってくれないか…」
マリウス「本当の…?」
ガブローシュというのは テナルディエがジョンドレットなど偽名を名乗ったのを真似て 彼が名乗った名前で 本名ではない
テナルディエは子供たちの名前はちゃんと覚えている それは 彼にとって1番の愛の形だった その自覚は一切なかったわけだが…
ティナ「あいつの名前は…ティエリーだ 俺たちがつけた名前が嫌なら そのままガブローシュでいいだろうが…」
マリウスは頷いた後 金を取り出し手渡した
それをポケットに入れた後 そのポケットに元々入っていたものを代わりに取り出した
約束通りタイムから返してもらっていた懐中時計
それは ポンメルシー大佐からテナルディエが盗み取った後 彼がテナルディエにあげようとしたもの
ティナ「ワーテルローで…大佐が…俺にくれると言ったものだ もう俺が…持つべきではないと思う これだけ渡したら もうここから出ていく」
マリウス「…父の?」
マリウスは受け取ろうと手を伸ばしたが すぐに下ろした
どういう経緯かわからない 本当にこの男が立派な兵士で 父を救ったのか 今となっては怪しいが それでも 父のような人が息子である自分に礼をして欲しいと頼むほど 恩を感じていたなら きっとそれは事実なのだろう
マリウス「父が…お前に渡したなら 僕にも持つ資格はない それはお前のものだ」
テナルディエはそれを言われ ポケットに時計をしまって 頭を下げた
ティナ「この恩は忘れない ティエリーを…どうか」
ポンメルシー邸を去るテナルディエを 追う子供の姿があった
…ガブローシュだった
彼もテナルディエが来るのはわかっていた
ガブローシュは彼に名前を尋ねた それ以外は何も言わなかった
ティナ「…テオドール…だが」
ガブローシュ「そっか」
ティナ「ティエリー…?」
ガブローシュ「うん さよなら」
そう言ってガブローシュは屋敷の方へ走り出し 途中で一度立ち止まり 振り返った
ガブローシュ「…名前だけは 忘れないでいるから 俺のこと 忘れるなよ 親父」
そしてまた走り 屋敷の中へ入っていった
テナルディエは深く帽子を被り直し 歩き出した
ガブローシュは 屋敷の中で少し笑った
これで最後なら もう一度だけ顔が見たかった 本当は名前を呼んで 抱きしめて欲しかった 愛が欲しかった ずっと けれどあの父は 母よりも自分に無関心だった 名前すら 忘れているんじゃないかと けれど 部屋の中から聞こえた声は 確かに自分の名前を呼んでいた むしろそう呼んでやってほしいとまで
親が自分に少しだが関心があったと知れただけ 良かった それだけでも 愛を受けられなかった少年には嬉しい出来事だった
もう二度会えなくても 悲しくないが 姉にまで会えないのは寂しかった
ガブローシュは 忘れられるのだけは嫌だった 自分に確かに家族がいたと思っていたかった その事実まで拒否できるほど ガブローシュは冷たくなれなかった まだ 少年だったからなのか 今までのことがあってなお 親からの愛が欲しかったからなのか…
テナルディエがその思いまでを知ることはなかった それでも 彼の中の愛の証である名は 記憶の中に刻まれた
彼は家族の名前を忘れることなく この先も生きる 彼らがいたのだという証は 確かに残った
例えそれが ゼロによるひとつの…ある意味でのハッピーエンドなのだとしても 彼にとっては良かった
そう それこそ寄せ集めの展開による 本来の道筋を消し去り作られた理想の世界なのだとしても…
家族に今後の話をして 彼は次の日を迎えた
そして次の日の朝 マリウスとの約束通り アメリカへ向かう船が着いた港に テナルディエたちの姿はあった
船はまだ出発の時間ではなく 表に姿を見せられるアゼルマがマリウスを探すが どうやらまだ到着していないようだった
それを確認したテナルディエは ロザリーにその場でアゼルマからの連絡を待つように言った
ロザリー「…それで あんたはどこに行くのさ」
ティナ「出発前に済ませることがある できるだけ短く済ませるから とにかく待っていろ」
それだけ言い テナルディエはできるだけ人目につかない道を選びながら 誰もいない路地を探し 奥へ進んだ
壁の前に立ち これが最後かと思いながら 手を伸ばした
END