第五章 テナルディエ
プティ・ジョンドレット
1740年ごろからパリのとある場所に安料理屋もしている宿屋があり 仲のいい夫婦で経営していたが奥さんの方は幼い子供を残し病で亡くなってしまった
1769年に夫妻の一人娘であるオセアンヌが結婚した その頃父親が体調を崩し あっという間に亡くなってしまい 娘夫婦が主人となって店を切り盛りするようになった
ロザリーの家だったバハビエのパン屋の隣にあるのがその宿屋で 看板にはジョンドレットの宿屋とだけ書かれていた
オセアンヌの夫は他の町から来た男で ジャンという名前であり 親と喧嘩をして家を出て 住むところもお金もないので仕事を探し 彼女の父に仕事をもらい 出会い やがて結婚することになった
宿の夜はいつも賑やかで 大勢集まって酒を飲み食事をし笑い語り合っていた
みんな前の主人やその娘のオセアンヌのことも好きで集まっていたが 今はよそから来たジャンという男が好きで店に来ていて 彼を慕って会いにくる人も何人かいた
家出をしたらしい ということとパリの出身ではないということ以外周りの誰もが彼のことをよく知らなかった 謎が多いが 彼は人が良く 周りを明るくする才能があり 読み書きができて本を読むのでいろんなことをよく知っていて 頭が良かったが人を見下すことは全くなく むしろ謙遜しがちなところがあり 分け隔てなく接し 紳士的で温厚だったが 必要な時には怒り 普段と真逆の顔を見せることもあった
どうやらいい家の出身のような振る舞いをすることもあるが そこを出たということは何か事情はあるのだろうとあえて聞かないで彼が話せば聞いてやろうと仲間内で話し合い 誰も過去を詮索することはないようにされていた
1774年12月17日
その日の夜もジョンドレットの店は盛況だったが オセアンヌの方が今年産まれた赤ん坊を医者に診せに行っていた 少し前から熱があるようだったが急に様子がおかしくなったので 大慌てで飛び出していった
客がいたのでとりあえず妻だけ行かせたものの 気が気でないジャンを見て 客たちが構わないと出て行かせた
だが結局 夫婦は何もできないまま我が子を抱えて帰ることになった 医者には原因がわからず 息は弱くなる一方で せめてもの薬は飲ませてみたものの ほとんど諦めた様子で 我が家で最期まで側に…と連れ帰っていた
店を閉めるしかないだろうと客たちは片付けを手伝い 友人たちの気遣いに感謝し 泊まりの客はいなかったのもあって いつもより早い時間に店は閉まった
深夜 突然戸が叩かれた 普段なら店が開いている時間なので来てしまった馴染みの客だろうかと思いながら ジャンが戸の方へ行く
すると戸が激しく叩かれる 何でそんなに急がせるようにするのかと思いながら開けると 若い男が息を切らしながら立っていた
「兄さん 助けてほしい…」
今日もし店がいつも通り営業していたなら ジャンはこの男を酔っ払いの訳の分からない発言だと客に言いながら追い出していたかもしれない 過去を知られたくないジャンにとって 弟の存在すら知られたくなかった
だが今夜は 不幸なことが起き 結果店は閉まり客はいない
ジャン「…ルイ どうした」
だからジャンは話を聞くことにした ほんとうはこんなこと 店がやっていなくともしたくなかったが 兄弟の嫌な再会の仕方をしながら 彼を店の中に入れ 蝋燭に火を灯し 話を聞いた
しばらく話を聞いていて ジャンは一度大きな声をあげ ルイと呼ばれた弟はそれでも食い下がらず とにかく頭を下げて 下を向いたままずっと助けを求めた
ジャン「しばらく会ってなかった弟に突然きてこんなことを頼まれる俺の気持ちを考えてくれ」
ルイ「かかったお金は必ず返す だから…頼む」
ジャン「金がどうこうの問題じゃないだろう!そんな責任持てるわけがない!話は理解しただろ もう帰るんだ…!」
声を聞いて降りてきたオセアンヌが ジャンを落ち着かせ オセアンヌがジャンに弟を助けるよう泣いて頼み ついに頼みを聞くこととなった
ルイ「本当に…いいんですか」
オセアンヌ「兄弟なんだから…ね そんなこと言わないで 話を聞いてたら 助けないわけにいかないよ さ…うまくおやりよ」
オセアンヌは目に涙を浮かべたまま 笑顔でルイを見送り 腕に抱いた子が泣くのを 同じように泣きながら それでも愛のこもった笑顔で 子守唄を歌ってあやしていた
こんな日の夜に弟と再会し しかも助けて欲しいと言われ ジャンはルイと話していたテーブルの前でまだ怒りがおさまっていなかったが 妻の抱く子が 元気に泣いているのを見て 今度はジャンまで泣き始め しばらくみんな泣いていた
次の日 ジョンドレット夫妻と昔からの知り合いであり昨日来ていた客が様子を見に行くと すっかり元気な我が子をあやすオセアンヌの姿があったのでホッとし 仲間にも話を伝えて またいつも通り開いた店に集まって みんなで喜んだ
1791年9月
ジャン「プティ!おいどこにいるんだプティ!」
店に来ている馴染みの客はプティと叫ぶ姿を幾度も見ているので またいつものが始まったと笑い プティは嫌そうな顔をしながら外へ出たとジャンに言ってやっていた
「いつものことだな」
「今年で18だってのに いつまでもプティが似合うやつだな」
客たちはそう言いながら笑っている ジャンが外へ出て行ったあと 店の中の別の場所からそのプティが顔を出し こちらを見て笑う客と同じ席について不機嫌そうな顔をする
プティ「その“プティ(ぼうや)”ってのをやめれば俺だって大人になってやるよ」
彼は幼い頃からその名で呼ばれ続け 顔見知り程度の人なら彼はプティ・ジョンドレットという名前なんだと思うほどだったが 両親の方は本名ではないとだけ客に言っていて プティはそれを知って名前で呼ばない両親を嫌い プティという呼び名も そもそも背はとっくに父親より高く 体は大きいのにプティ(小さい)というのはなんなんだと思っていた
両親は自分を何も見てないからそうするのだと考えていた
宿屋の仕事を幼い頃から手伝っていて 読み書きもできるが 父親のように完璧というわけではなかったし あのようになりたいと思ったこともなかった
ジャン「隣の店でいつものパンを買ってくるんだ」
プティ「…わかったよ」
赤ん坊の頃 死にかけた時には本当に心配していて もうダメかもしれないと帰ってきた時には 両親の方が死にそうな顔だったと聞かされた時 全く信じられなかった その時の愛情がわずかでもあるなら 息子というより雇った人間といるような関係になることはないだろうに
父から受けとった硬貨を手に持ったまま 外へ出てすぐ隣の店に向かう その時 店の間の暗くて細い路地からこちらを見る少女と目が合う 何度か通っていても全く気づいていなかったのに その日だけなんとなく右を見たら 畳石の上で膝を抱えているので驚いたが 何しているのかと思いながらバハビエのパン屋へさっさと向かう
プティ「よう旦那」
メサジェ「いつものな」
メサジェは隣人相手に店には入れないと言い切ったジョンドレット一家があまり好きではなかった
店に入れないのは そもそもこの男が再三ジャンに言われていたのに飲むたび他の客にからんでは急に怒り出し暴れるので迷惑していたからだったのだが メサジェの方は全く覚えていないのもあって 相手に原因があり ジャンは適当なことを言って嫌いな自分を追い出したのだとまで思っていた
ただジョンドレットが店で出すためにパンをたくさん買ってくれるのを止めることはできず ジャンもそこまで関係を悪くしたくはないのがあって 代わりにプティが買いに行くことになっていた
プティ「そういえば 店の間でどっかの子供が座ってたが あそこで遊ぶなと言っておこうか」
メサジェ「ありゃうちのチビだ ほっとけ」
プティ「そうか」
娘がいるなんて知らなかったが ほっとけというなら構わない方がいいのかと パンを抱えて店を出る
バハビエの奥さんは長男と先日産まれた次男を溺愛していて こっちの家族は子供が好きなんだなと眺めていたが 娘だと外に放っておくのかと思いながら 路地でじっとしている娘を帰り際にチラッと見て すぐに店に戻った
家族というのはどこもそんなもんで もしかしたら自分の両親は娘のが良かったのかもしれない
ある夜
彼が寝たのを確認して 下で1人椅子に座るジャンの元へオセアンヌが来る
オセアンヌ「ねぇそろそろいいんじゃないのかい」
ジャン「…何がだ」
オセアンヌ「家族のことだよ 話を…」
ジャン「俺は親父が死ぬまで絶対に許さない 会うなんてこともしない いいか あのやろうはルイやフロリーヌを殺すとまで言いやがった 絶対にダメだ バラすのも許さないからな」
オセアンヌ「…あの子も帰って来なかったね」
ジャン「あぁあの弟もダメだ 結局約束を破りやがって…とにかくダメだ それに…手遅れだ」
オセアンヌ「それでもさ…せめて…」
ジャン「絶対に ダメだ」
ジャンは頑なで オセアンヌも 今は諦めるしかなかった
1794年 春ごろ
その頃 なぜか両親は穏やかになっていた
以前のように怒鳴られることも少なくなり むしろ褒められることの方が増えた
こっちがうまくできるようになったとかそういうことも関係するのかもしれないが それにしても変な感じだった
ただやっぱり プティはプティだった
それより彼が気になっていたのはバハビエの娘の方だった
似た境遇かもしれないとなんとなく思っていて バハビエの店を訪ねようとしたが まだあの路地にいるのを見つけて 3年経ってもここに追い出されて日中過ごしてるのかと彼女を憐れみ 話し相手にでもなってやろうかと近づいた
プティ「…よう」
しゃがんで できる限り優しい声で話しかける
プティ「名前聞いてもいいか?」
自分と同じように いや それ以上に親から愛されてない子に同情し 隣の家の子供だったから 気になって話しかけただけ 最終的にはただの気まぐれの行動だった
「ロザリー・バハビエ」
プティ「あぁそうか バハビエの娘な」
前にも一度姿は見ているし知っているが 知らなかったことにして 色々質問をしてみる
5歳で 母親に言われて日中ここにいて ずっと1人で寂しいのだと答える
プティ「…じゃあ暇な時にはきてやるよ そうだ文字は習ったか?」
首を傾げたので まぁそうかと呟き 少し考えて明日から本を持ってここへきて 文字を教えるのも面白そうだと思いつく
宿の主人はジャンなので 未だ手伝いくらいしかしようがないし まず宿の仕事から覚えるんだと言われていたので 夜まで暇な時間も多かった
かといって暇な時間 なんだか以前とは態度の違う両親といるのも 理由がわからないのもあって落ち着かない
いい暇つぶしだと思い ロザリーに提案すると 良くわかってはいないものの 明日も話し相手ができると思って 頷いた
プティ「よし じゃあ明日また来るからな」
ロザリー「…あなたはなんて名前なの?」
プティ「あぁ俺…俺な…」
プティという名前は嫌いだが ただジョンドレットでは両親との区別がない
プティ「…プティ・ジョンドレットだ」
ロザリー「プティ・ジョンドレット」
小さな声で呼ばれる 彼女の場合 そう呼ばれても 嫌な気分にはならなかった まぁこれでいいだろうと自分を納得させ ロザリーと別れた
家へは戻らず 近くを歩き 今この胸の中にある感情をどうしたものかと 苛立つ
似た境遇かもしれないと それ以上にあの子は可哀想かもしれないと そんな思いで近づいたのが間違いだった
彼女ですら 名前で呼ばれる 本当の名前 その子のためだけの最初の愛の証 羨ましい あんな扱いを受ける子供ですら 親から与えられた名前で呼ばれるのに…
けれど 明日も来ると言った時の彼女の顔を見た時初めて嬉しそうな顔をした こんな顔もできるのかと 幼い子の無邪気さに触れたためなのか 暇つぶしに会うくらい 嫌ではない と思うことにした
…それから暇な時には本を持って家を出て すぐに間の路地で ロザリーと同じように座り パンをかじりながら 読み聞かせて 文字を教える
ロザリーにとってかけがえない時間だった
プティの方は 段々とロザリーがなつくので それが面白くて楽しかった
朝起きて 店を手伝い 昼間にロザリーと過ごし 夕方店のためのパンを買い 夜に店の仕事を教わる そんな生活を続けていた
年が明けて半年が経った6月のこと
両親の穏やかさも 歳をとったのかもしれないと解釈して受け入れ 前より褒められるのが満更でもなく ただやはり 何があったのだろうという疑問は消えなかった
その頃 ジャンがしばらく店をプティに任せて どこか遠くへ出かけて行った
用事をプティに言うことはなかったが 彼の予想では 最近届いた手紙の内容が関係しているように思われた
母と2人で店の仕事をすること以外 特に変わったこともなく いつも通り過ごしていた
6月14日
その日の夜にジャンが帰ってきて 明日は店を閉めると友人たちに話しながら 店の奥へ入って行った
オセアンヌ「どうだった…?」
ジャン「…まぁ 行ってよかったとは…思うな」
オセアンヌ「そうかい…」
何か2人にしかわからない話をしてんな…とプティは眺めていたが 客に呼ばれたので 特に何も聞かないまま すぐ店の中へ戻った
次の日
昨日は泊まりの客もいなかったのもあって 朝の仕事は少しで済み ロザリーの様子でも見に行こうかと外へ出て 路地を覗くと やはりそこにいて プティを見つけて 顔をパァっと明るくさせた
両親は優しくなったし ロザリーは慕ってくれるし 仕事も順調に覚えてきた
ようやく毎日が楽しく思える
今までずっと愛されない子供だと思いながら生きてきて 辛いことの方が多かったが プティという名前でしか呼ばれなくても なんだかもういいような気がするしてきた
これで本当に両親と家族になれたならと思うが 名前がこれではなぁ…と心の中でため息をつく
仕事もないのでゆっくり過ごし 店用のパンを買う用事もないので 夕方ごろ ロザリーも夕食のために家の戻るだろうから 母親の方に会わないうちにとプティは先に家に戻った
仕事のない夜をのんびり過ごしていたが 両親の方は何かそわそわして落ち着きがないようだった
何かあったのかと思っていると 深夜になって2人がプティを呼び 店のテーブルを前に家族が揃って座ることとなった
普段なら店を閉めているぐらいの時間だった
ジャン「実はお前に…話しておきたいことがある」
覚悟を決めた様子のジャンだったが 話し始めると嬉しそうな表情に変わった
プティ「なんだよ 急に笑って」
ジャン「ようやく本当の自分でいられるようで嬉しいんだ」
プティ「本当の自分?」
ジャンとオセアンヌは顔を見合わせた後 プティに微笑んだ
ジャン「どれから話したらいいか…まず俺たち家族の名前はな ジョンドレットじゃない これはオセアンヌの結婚する前の元の名字なんだ」
嬉しそうに話すので どんな話かと思えば 家族の秘密の話だった
どんな顔して聞けばいいのかわからず 戸惑う
急に言われても よくわからない
プティ「ど…どういうことだよ」
ジャン「俺の父に見つからないために ずっと名前を隠して暮らしてきたんだ 見つかれば…家に連れ戻されるか 最悪…あの親なら俺たちを殺しかねなかった 危険だから 周りに名乗る名前を偽っていた」
不穏な話だ プティにとって祖父にあたる人があまりに危険人物すぎる まずなんで家を出たのか知らないが そんな親なら離れたくもなるのだろうか…
プティ「じゃあ 俺のこの名前が本名じゃないってのも…」
ジャン「そういうことだ 親父はお前の名前も知っているから 隠す他なかったんだ…」
まだ複雑な思いだが 名前で呼ばれなかった理由が説明されて ほんの少しだけホッとしていた
早く知りたかったが ジャンの方はある程度順を追って説明をしようとしていた
ジャン「親父が死ぬまで隠す気だったんだ ただ…昨日まで葬式に行っていた 弟から手紙が来た時にはもう死んだ後だった これでもう隠す必要がない あの親父は家名が汚れるだとか言って俺が家を出るのも弟が結婚するのも反対し続けて 俺も弟もそれを押し切って勝手してたが それにしたって殺されるのはたまったもんじゃない だから お前のことも ようやく本当のことが言える」
なんとなく 名前を知れる喜びよりも この先父が話そうとしている他のことに対し 何かゾワゾワした…嫌な予感がした
ジャン「俺の本名はフェリクス=ジャンだ」
答えを待っているのに ジャンは欲しい答えをくれない
ジャン「…いや まずこの話をしなくてはいけないな……お前の名前をつけたのは 俺たちじゃない 俺たちはお前の本当の両親ではなく 死んだ弟夫婦が お前の親なんだ お前の親の名前はルイ=フィリップとフロリーヌだ」
とてもショックを受けたのは覚えている
21年間 それでもどこかで…ずっと思いを…両親で…それで…
その先の会話をよく覚えていない
両親は本当の両親ではなく 自分は甥で 本当の両親はもう死んでいるらしくて それで名前は?名前はなんなんだ
親はいない?会うこともないまま 祖父のせい?この家はなんなんだ 何が問題でそうなったのか
それ以上を思い出そうとすると 全部同じ景色になり 記憶の蓋は閉じる
ロザリー「プティ・ジョンドレット」
ロザリーの泣き声で意識を取り戻す
いつここに来たのかわからない 真っ暗な中 ロザリーは目の前にいるようだった
情報量の多さから家を飛び出したのか よくわからない 暗くて何も見えなかったが だんだん目が慣れて ぼんやりと…
そういえば なぜロザリーは泣いているのか そもそも夜には家に入れるはずなのに なぜこんな時間にいつもの路地にいるのか
プティ「…ロザリー?どうしたんだ」
ロザリー「痛いよ…」
腕を押さえて泣いている ラシェルに何かされたのかと思い よく見えないので店から灯りを持ってこようと立ち上がると 少しふらつく よくわからないが 手が震える まだ何かを 思い出せない
ロザリーを見る 押さえている腕のあたり 服が汚れている ボロだから…という感じではない 一体何だ? 痛がっているが わからないので触れる 血が出ている 酷い怪我だ
プティ「待ってろ 店から何か…」
店?
プティ「…なぁ 誰がこんなことしたんだ」
ロザリー「おとうさん」
プティ「メサジェはどこだ」
ロザリーは自分の家ではなく ジョンドレットの店を指差した
ロザリー「…一緒にみたよ みたんだよ」
プティ「何を」
ロザリー「おとうさんは?おかあさんは?」
プティ「ロザリー 頼む 痛いだろうがちゃんと…」
店を見に行けばいいのに 体が動かない ロザリーに聞くしかない
ロザリー「痛いよ みんないないよ 2人だけだって あなたが言ったのよ」
ロザリーを抱きかかえて 店へ戻る 何も言葉は出て来ない 嫌な汗が流れる 呼吸がおかしくなりそうで 心臓がバクバクとうるさい
戸は開いている 中の蝋燭には火が付いていて明るい ロザリーの服はやっぱり血がついていて 自分の服も血で汚れていて
店の中はどうだったとか 3人がどうなっていたとか 全部鮮明に覚えている 30年以上前だとか あの日は混乱してばかりだったとか
ロザリーを抱いたまま 惨状を目の前に 泣き叫ぶと ロザリーはそれに驚いて 腕が痛いのに プティの腕の中で体勢を変えて 膝をついて項垂れる彼を小さな腕で抱きしめた
あの日から 始まるはずだった
過去のことはもうどうでもいいと 割り切れた
本当の親じゃない でも関係ない 今から また家族に
家族
愛してなんかいない 大切でもない あんな奴らは親じゃない 本当の親じゃないと聞いてようやくわかった そういうことだったんだ 大事じゃない だから辛くない
ロザリーを抱いたまま 走って警察署へ向かう
怪我をした少女を腕に抱いて駆け込んできた 服に嫌な赤色がついた青年が叫ぶ
プティ「助けてくれ!店が襲われた!隣の旦那が酔って斬りつけてきやがった このままじゃ親父たちが殺される!向こうの家はもうダメだ 娘が1人逃げ延びただけで 助けを求めて駆け込んできたんだ でも見てくれ 怪我してる どうしたらいい 助けてくれ お願いだ!」
「おい落ち着け 落ち着くんだ どこの店だ」
プティ「ジョンドレットの宿屋!バハビエの隣の…」
ロザリーの怪我の手当がされる横で プティはずっと項垂れたまま ぼうっとしていた
その夜何があったのか 後から調べられ 逃げ延びた2人の話も聞いた結果わかったことだが
まずメサジェが飲んでいたであろう酒瓶が家の中で割れていて ラシェルと息子のエルマンとワルテールが殺されていた
その後外に出て 父親を見つけたロザリーが声をかけると 怒りながら持っていた刃物で腕をきりつけたが その後ジョンドレットの店の方へ行き 戸が閉まっていなかったのでそのまま入り 中にいた一家も襲った 息子だけなんとか逃げ去り 怪我をしたロザリーを抱えて警察署へ駆け込む
警官が到着するころには乱闘の跡だけ残り オセアンヌは殺され ジャンとメサジェは揉み合いになったようだが 結果2人とも刃物が刺さった状態で倒れ 死んでいた
2人だけになってしまったプティとロザリー
遺体だけ無くなり それ以外自分たちでなんとかするしかなく プティはジャンの友人たちに励まされながら 一緒に片付けた
ロザリーは孤児になり 行き場がなく 包帯の巻かれた腕が痛くても我慢してプティを手伝って なんとか側に置いてもらおうとしたが プティにそんな余裕はなく ロザリーも諦めて家族の誰もいない家の中で眠っていた
なんとか店を再開させたかったが 店の中にいるとトラウマが蘇り あの日の会話すら全て思い出したくなくなった
ついに精神的に限界のきたプティは 店を売り払い パリも出ていくことにした
友人たちも名残惜しんだが 彼のことを思い 前日は明るく彼を見送るために1人の友人の家にみんなで集まり飲んだ
次の日 午前中に最後の別れを済ませ 昼頃には荷物をまとめ 20年近く暮らした家に別れを告げた 何を思い出しても辛く 仕方ないんだと俯いた
なんとなく いつもの癖で店の間の暗い路地を覗く 店の片付けをして以来 ロザリーとは数日会っていない
すると そこにはいつものように座る彼女の姿があった
プティ「ロザリー…」
同じように 家族を亡くした
自分はただあの光景がトラウマでここを離れるが 彼女は家族を失い きっと辛いだろう
ロザリー「……プティ・ジョンドレット どこかへ行くの?」
プティ「俺はこの町を出る さよならだ」
ロザリー「いやだ!」
ロザリーはプティに駆け寄り 足に抱きついて離れない
ロザリー「おねがいプティ・ジョンドレット 私をあなたの家族にして 一緒にいたい ずっと一緒に 私もあなたも 家族みんな死んじゃったから 私たちは一緒にいよう さみしいよ 辛いよ 悲しいよ」
そう言いながらずっと泣いていて プティがそっとしゃがむと 一度腕を離し 今度は首のあたりに腕を回し ぎゅっと抱きしめる
ここで見捨てられたら多分死ぬのかもな…とプティは思った 家族が死んだのはお前の父親のせいだと言ってやりたかったが 生きている人間である彼女の温かさが だんだんと辛く感じ そっと彼女を抱きしめてやった
わんわんと泣いていたロザリーが泣き止み きょとんとした顔になる
プティ「わかった お前が望むならそうする」
せっかく一緒に生きのびたのだから
プティ「いいかロザリー 俺の名前はプティ・ジョンドレットじゃない」
ロザリー「…じゃあなんていうの?」
結局 ファーストネームは分からずじまい
それでも これだけは 覚えている
プティ「…テナルディエだ」
END
1740年ごろからパリのとある場所に安料理屋もしている宿屋があり 仲のいい夫婦で経営していたが奥さんの方は幼い子供を残し病で亡くなってしまった
1769年に夫妻の一人娘であるオセアンヌが結婚した その頃父親が体調を崩し あっという間に亡くなってしまい 娘夫婦が主人となって店を切り盛りするようになった
ロザリーの家だったバハビエのパン屋の隣にあるのがその宿屋で 看板にはジョンドレットの宿屋とだけ書かれていた
オセアンヌの夫は他の町から来た男で ジャンという名前であり 親と喧嘩をして家を出て 住むところもお金もないので仕事を探し 彼女の父に仕事をもらい 出会い やがて結婚することになった
宿の夜はいつも賑やかで 大勢集まって酒を飲み食事をし笑い語り合っていた
みんな前の主人やその娘のオセアンヌのことも好きで集まっていたが 今はよそから来たジャンという男が好きで店に来ていて 彼を慕って会いにくる人も何人かいた
家出をしたらしい ということとパリの出身ではないということ以外周りの誰もが彼のことをよく知らなかった 謎が多いが 彼は人が良く 周りを明るくする才能があり 読み書きができて本を読むのでいろんなことをよく知っていて 頭が良かったが人を見下すことは全くなく むしろ謙遜しがちなところがあり 分け隔てなく接し 紳士的で温厚だったが 必要な時には怒り 普段と真逆の顔を見せることもあった
どうやらいい家の出身のような振る舞いをすることもあるが そこを出たということは何か事情はあるのだろうとあえて聞かないで彼が話せば聞いてやろうと仲間内で話し合い 誰も過去を詮索することはないようにされていた
1774年12月17日
その日の夜もジョンドレットの店は盛況だったが オセアンヌの方が今年産まれた赤ん坊を医者に診せに行っていた 少し前から熱があるようだったが急に様子がおかしくなったので 大慌てで飛び出していった
客がいたのでとりあえず妻だけ行かせたものの 気が気でないジャンを見て 客たちが構わないと出て行かせた
だが結局 夫婦は何もできないまま我が子を抱えて帰ることになった 医者には原因がわからず 息は弱くなる一方で せめてもの薬は飲ませてみたものの ほとんど諦めた様子で 我が家で最期まで側に…と連れ帰っていた
店を閉めるしかないだろうと客たちは片付けを手伝い 友人たちの気遣いに感謝し 泊まりの客はいなかったのもあって いつもより早い時間に店は閉まった
深夜 突然戸が叩かれた 普段なら店が開いている時間なので来てしまった馴染みの客だろうかと思いながら ジャンが戸の方へ行く
すると戸が激しく叩かれる 何でそんなに急がせるようにするのかと思いながら開けると 若い男が息を切らしながら立っていた
「兄さん 助けてほしい…」
今日もし店がいつも通り営業していたなら ジャンはこの男を酔っ払いの訳の分からない発言だと客に言いながら追い出していたかもしれない 過去を知られたくないジャンにとって 弟の存在すら知られたくなかった
だが今夜は 不幸なことが起き 結果店は閉まり客はいない
ジャン「…ルイ どうした」
だからジャンは話を聞くことにした ほんとうはこんなこと 店がやっていなくともしたくなかったが 兄弟の嫌な再会の仕方をしながら 彼を店の中に入れ 蝋燭に火を灯し 話を聞いた
しばらく話を聞いていて ジャンは一度大きな声をあげ ルイと呼ばれた弟はそれでも食い下がらず とにかく頭を下げて 下を向いたままずっと助けを求めた
ジャン「しばらく会ってなかった弟に突然きてこんなことを頼まれる俺の気持ちを考えてくれ」
ルイ「かかったお金は必ず返す だから…頼む」
ジャン「金がどうこうの問題じゃないだろう!そんな責任持てるわけがない!話は理解しただろ もう帰るんだ…!」
声を聞いて降りてきたオセアンヌが ジャンを落ち着かせ オセアンヌがジャンに弟を助けるよう泣いて頼み ついに頼みを聞くこととなった
ルイ「本当に…いいんですか」
オセアンヌ「兄弟なんだから…ね そんなこと言わないで 話を聞いてたら 助けないわけにいかないよ さ…うまくおやりよ」
オセアンヌは目に涙を浮かべたまま 笑顔でルイを見送り 腕に抱いた子が泣くのを 同じように泣きながら それでも愛のこもった笑顔で 子守唄を歌ってあやしていた
こんな日の夜に弟と再会し しかも助けて欲しいと言われ ジャンはルイと話していたテーブルの前でまだ怒りがおさまっていなかったが 妻の抱く子が 元気に泣いているのを見て 今度はジャンまで泣き始め しばらくみんな泣いていた
次の日 ジョンドレット夫妻と昔からの知り合いであり昨日来ていた客が様子を見に行くと すっかり元気な我が子をあやすオセアンヌの姿があったのでホッとし 仲間にも話を伝えて またいつも通り開いた店に集まって みんなで喜んだ
1791年9月
ジャン「プティ!おいどこにいるんだプティ!」
店に来ている馴染みの客はプティと叫ぶ姿を幾度も見ているので またいつものが始まったと笑い プティは嫌そうな顔をしながら外へ出たとジャンに言ってやっていた
「いつものことだな」
「今年で18だってのに いつまでもプティが似合うやつだな」
客たちはそう言いながら笑っている ジャンが外へ出て行ったあと 店の中の別の場所からそのプティが顔を出し こちらを見て笑う客と同じ席について不機嫌そうな顔をする
プティ「その“プティ(ぼうや)”ってのをやめれば俺だって大人になってやるよ」
彼は幼い頃からその名で呼ばれ続け 顔見知り程度の人なら彼はプティ・ジョンドレットという名前なんだと思うほどだったが 両親の方は本名ではないとだけ客に言っていて プティはそれを知って名前で呼ばない両親を嫌い プティという呼び名も そもそも背はとっくに父親より高く 体は大きいのにプティ(小さい)というのはなんなんだと思っていた
両親は自分を何も見てないからそうするのだと考えていた
宿屋の仕事を幼い頃から手伝っていて 読み書きもできるが 父親のように完璧というわけではなかったし あのようになりたいと思ったこともなかった
ジャン「隣の店でいつものパンを買ってくるんだ」
プティ「…わかったよ」
赤ん坊の頃 死にかけた時には本当に心配していて もうダメかもしれないと帰ってきた時には 両親の方が死にそうな顔だったと聞かされた時 全く信じられなかった その時の愛情がわずかでもあるなら 息子というより雇った人間といるような関係になることはないだろうに
父から受けとった硬貨を手に持ったまま 外へ出てすぐ隣の店に向かう その時 店の間の暗くて細い路地からこちらを見る少女と目が合う 何度か通っていても全く気づいていなかったのに その日だけなんとなく右を見たら 畳石の上で膝を抱えているので驚いたが 何しているのかと思いながらバハビエのパン屋へさっさと向かう
プティ「よう旦那」
メサジェ「いつものな」
メサジェは隣人相手に店には入れないと言い切ったジョンドレット一家があまり好きではなかった
店に入れないのは そもそもこの男が再三ジャンに言われていたのに飲むたび他の客にからんでは急に怒り出し暴れるので迷惑していたからだったのだが メサジェの方は全く覚えていないのもあって 相手に原因があり ジャンは適当なことを言って嫌いな自分を追い出したのだとまで思っていた
ただジョンドレットが店で出すためにパンをたくさん買ってくれるのを止めることはできず ジャンもそこまで関係を悪くしたくはないのがあって 代わりにプティが買いに行くことになっていた
プティ「そういえば 店の間でどっかの子供が座ってたが あそこで遊ぶなと言っておこうか」
メサジェ「ありゃうちのチビだ ほっとけ」
プティ「そうか」
娘がいるなんて知らなかったが ほっとけというなら構わない方がいいのかと パンを抱えて店を出る
バハビエの奥さんは長男と先日産まれた次男を溺愛していて こっちの家族は子供が好きなんだなと眺めていたが 娘だと外に放っておくのかと思いながら 路地でじっとしている娘を帰り際にチラッと見て すぐに店に戻った
家族というのはどこもそんなもんで もしかしたら自分の両親は娘のが良かったのかもしれない
ある夜
彼が寝たのを確認して 下で1人椅子に座るジャンの元へオセアンヌが来る
オセアンヌ「ねぇそろそろいいんじゃないのかい」
ジャン「…何がだ」
オセアンヌ「家族のことだよ 話を…」
ジャン「俺は親父が死ぬまで絶対に許さない 会うなんてこともしない いいか あのやろうはルイやフロリーヌを殺すとまで言いやがった 絶対にダメだ バラすのも許さないからな」
オセアンヌ「…あの子も帰って来なかったね」
ジャン「あぁあの弟もダメだ 結局約束を破りやがって…とにかくダメだ それに…手遅れだ」
オセアンヌ「それでもさ…せめて…」
ジャン「絶対に ダメだ」
ジャンは頑なで オセアンヌも 今は諦めるしかなかった
1794年 春ごろ
その頃 なぜか両親は穏やかになっていた
以前のように怒鳴られることも少なくなり むしろ褒められることの方が増えた
こっちがうまくできるようになったとかそういうことも関係するのかもしれないが それにしても変な感じだった
ただやっぱり プティはプティだった
それより彼が気になっていたのはバハビエの娘の方だった
似た境遇かもしれないとなんとなく思っていて バハビエの店を訪ねようとしたが まだあの路地にいるのを見つけて 3年経ってもここに追い出されて日中過ごしてるのかと彼女を憐れみ 話し相手にでもなってやろうかと近づいた
プティ「…よう」
しゃがんで できる限り優しい声で話しかける
プティ「名前聞いてもいいか?」
自分と同じように いや それ以上に親から愛されてない子に同情し 隣の家の子供だったから 気になって話しかけただけ 最終的にはただの気まぐれの行動だった
「ロザリー・バハビエ」
プティ「あぁそうか バハビエの娘な」
前にも一度姿は見ているし知っているが 知らなかったことにして 色々質問をしてみる
5歳で 母親に言われて日中ここにいて ずっと1人で寂しいのだと答える
プティ「…じゃあ暇な時にはきてやるよ そうだ文字は習ったか?」
首を傾げたので まぁそうかと呟き 少し考えて明日から本を持ってここへきて 文字を教えるのも面白そうだと思いつく
宿の主人はジャンなので 未だ手伝いくらいしかしようがないし まず宿の仕事から覚えるんだと言われていたので 夜まで暇な時間も多かった
かといって暇な時間 なんだか以前とは態度の違う両親といるのも 理由がわからないのもあって落ち着かない
いい暇つぶしだと思い ロザリーに提案すると 良くわかってはいないものの 明日も話し相手ができると思って 頷いた
プティ「よし じゃあ明日また来るからな」
ロザリー「…あなたはなんて名前なの?」
プティ「あぁ俺…俺な…」
プティという名前は嫌いだが ただジョンドレットでは両親との区別がない
プティ「…プティ・ジョンドレットだ」
ロザリー「プティ・ジョンドレット」
小さな声で呼ばれる 彼女の場合 そう呼ばれても 嫌な気分にはならなかった まぁこれでいいだろうと自分を納得させ ロザリーと別れた
家へは戻らず 近くを歩き 今この胸の中にある感情をどうしたものかと 苛立つ
似た境遇かもしれないと それ以上にあの子は可哀想かもしれないと そんな思いで近づいたのが間違いだった
彼女ですら 名前で呼ばれる 本当の名前 その子のためだけの最初の愛の証 羨ましい あんな扱いを受ける子供ですら 親から与えられた名前で呼ばれるのに…
けれど 明日も来ると言った時の彼女の顔を見た時初めて嬉しそうな顔をした こんな顔もできるのかと 幼い子の無邪気さに触れたためなのか 暇つぶしに会うくらい 嫌ではない と思うことにした
…それから暇な時には本を持って家を出て すぐに間の路地で ロザリーと同じように座り パンをかじりながら 読み聞かせて 文字を教える
ロザリーにとってかけがえない時間だった
プティの方は 段々とロザリーがなつくので それが面白くて楽しかった
朝起きて 店を手伝い 昼間にロザリーと過ごし 夕方店のためのパンを買い 夜に店の仕事を教わる そんな生活を続けていた
年が明けて半年が経った6月のこと
両親の穏やかさも 歳をとったのかもしれないと解釈して受け入れ 前より褒められるのが満更でもなく ただやはり 何があったのだろうという疑問は消えなかった
その頃 ジャンがしばらく店をプティに任せて どこか遠くへ出かけて行った
用事をプティに言うことはなかったが 彼の予想では 最近届いた手紙の内容が関係しているように思われた
母と2人で店の仕事をすること以外 特に変わったこともなく いつも通り過ごしていた
6月14日
その日の夜にジャンが帰ってきて 明日は店を閉めると友人たちに話しながら 店の奥へ入って行った
オセアンヌ「どうだった…?」
ジャン「…まぁ 行ってよかったとは…思うな」
オセアンヌ「そうかい…」
何か2人にしかわからない話をしてんな…とプティは眺めていたが 客に呼ばれたので 特に何も聞かないまま すぐ店の中へ戻った
次の日
昨日は泊まりの客もいなかったのもあって 朝の仕事は少しで済み ロザリーの様子でも見に行こうかと外へ出て 路地を覗くと やはりそこにいて プティを見つけて 顔をパァっと明るくさせた
両親は優しくなったし ロザリーは慕ってくれるし 仕事も順調に覚えてきた
ようやく毎日が楽しく思える
今までずっと愛されない子供だと思いながら生きてきて 辛いことの方が多かったが プティという名前でしか呼ばれなくても なんだかもういいような気がするしてきた
これで本当に両親と家族になれたならと思うが 名前がこれではなぁ…と心の中でため息をつく
仕事もないのでゆっくり過ごし 店用のパンを買う用事もないので 夕方ごろ ロザリーも夕食のために家の戻るだろうから 母親の方に会わないうちにとプティは先に家に戻った
仕事のない夜をのんびり過ごしていたが 両親の方は何かそわそわして落ち着きがないようだった
何かあったのかと思っていると 深夜になって2人がプティを呼び 店のテーブルを前に家族が揃って座ることとなった
普段なら店を閉めているぐらいの時間だった
ジャン「実はお前に…話しておきたいことがある」
覚悟を決めた様子のジャンだったが 話し始めると嬉しそうな表情に変わった
プティ「なんだよ 急に笑って」
ジャン「ようやく本当の自分でいられるようで嬉しいんだ」
プティ「本当の自分?」
ジャンとオセアンヌは顔を見合わせた後 プティに微笑んだ
ジャン「どれから話したらいいか…まず俺たち家族の名前はな ジョンドレットじゃない これはオセアンヌの結婚する前の元の名字なんだ」
嬉しそうに話すので どんな話かと思えば 家族の秘密の話だった
どんな顔して聞けばいいのかわからず 戸惑う
急に言われても よくわからない
プティ「ど…どういうことだよ」
ジャン「俺の父に見つからないために ずっと名前を隠して暮らしてきたんだ 見つかれば…家に連れ戻されるか 最悪…あの親なら俺たちを殺しかねなかった 危険だから 周りに名乗る名前を偽っていた」
不穏な話だ プティにとって祖父にあたる人があまりに危険人物すぎる まずなんで家を出たのか知らないが そんな親なら離れたくもなるのだろうか…
プティ「じゃあ 俺のこの名前が本名じゃないってのも…」
ジャン「そういうことだ 親父はお前の名前も知っているから 隠す他なかったんだ…」
まだ複雑な思いだが 名前で呼ばれなかった理由が説明されて ほんの少しだけホッとしていた
早く知りたかったが ジャンの方はある程度順を追って説明をしようとしていた
ジャン「親父が死ぬまで隠す気だったんだ ただ…昨日まで葬式に行っていた 弟から手紙が来た時にはもう死んだ後だった これでもう隠す必要がない あの親父は家名が汚れるだとか言って俺が家を出るのも弟が結婚するのも反対し続けて 俺も弟もそれを押し切って勝手してたが それにしたって殺されるのはたまったもんじゃない だから お前のことも ようやく本当のことが言える」
なんとなく 名前を知れる喜びよりも この先父が話そうとしている他のことに対し 何かゾワゾワした…嫌な予感がした
ジャン「俺の本名はフェリクス=ジャンだ」
答えを待っているのに ジャンは欲しい答えをくれない
ジャン「…いや まずこの話をしなくてはいけないな……お前の名前をつけたのは 俺たちじゃない 俺たちはお前の本当の両親ではなく 死んだ弟夫婦が お前の親なんだ お前の親の名前はルイ=フィリップとフロリーヌだ」
とてもショックを受けたのは覚えている
21年間 それでもどこかで…ずっと思いを…両親で…それで…
その先の会話をよく覚えていない
両親は本当の両親ではなく 自分は甥で 本当の両親はもう死んでいるらしくて それで名前は?名前はなんなんだ
親はいない?会うこともないまま 祖父のせい?この家はなんなんだ 何が問題でそうなったのか
それ以上を思い出そうとすると 全部同じ景色になり 記憶の蓋は閉じる
ロザリー「プティ・ジョンドレット」
ロザリーの泣き声で意識を取り戻す
いつここに来たのかわからない 真っ暗な中 ロザリーは目の前にいるようだった
情報量の多さから家を飛び出したのか よくわからない 暗くて何も見えなかったが だんだん目が慣れて ぼんやりと…
そういえば なぜロザリーは泣いているのか そもそも夜には家に入れるはずなのに なぜこんな時間にいつもの路地にいるのか
プティ「…ロザリー?どうしたんだ」
ロザリー「痛いよ…」
腕を押さえて泣いている ラシェルに何かされたのかと思い よく見えないので店から灯りを持ってこようと立ち上がると 少しふらつく よくわからないが 手が震える まだ何かを 思い出せない
ロザリーを見る 押さえている腕のあたり 服が汚れている ボロだから…という感じではない 一体何だ? 痛がっているが わからないので触れる 血が出ている 酷い怪我だ
プティ「待ってろ 店から何か…」
店?
プティ「…なぁ 誰がこんなことしたんだ」
ロザリー「おとうさん」
プティ「メサジェはどこだ」
ロザリーは自分の家ではなく ジョンドレットの店を指差した
ロザリー「…一緒にみたよ みたんだよ」
プティ「何を」
ロザリー「おとうさんは?おかあさんは?」
プティ「ロザリー 頼む 痛いだろうがちゃんと…」
店を見に行けばいいのに 体が動かない ロザリーに聞くしかない
ロザリー「痛いよ みんないないよ 2人だけだって あなたが言ったのよ」
ロザリーを抱きかかえて 店へ戻る 何も言葉は出て来ない 嫌な汗が流れる 呼吸がおかしくなりそうで 心臓がバクバクとうるさい
戸は開いている 中の蝋燭には火が付いていて明るい ロザリーの服はやっぱり血がついていて 自分の服も血で汚れていて
店の中はどうだったとか 3人がどうなっていたとか 全部鮮明に覚えている 30年以上前だとか あの日は混乱してばかりだったとか
ロザリーを抱いたまま 惨状を目の前に 泣き叫ぶと ロザリーはそれに驚いて 腕が痛いのに プティの腕の中で体勢を変えて 膝をついて項垂れる彼を小さな腕で抱きしめた
あの日から 始まるはずだった
過去のことはもうどうでもいいと 割り切れた
本当の親じゃない でも関係ない 今から また家族に
家族
愛してなんかいない 大切でもない あんな奴らは親じゃない 本当の親じゃないと聞いてようやくわかった そういうことだったんだ 大事じゃない だから辛くない
ロザリーを抱いたまま 走って警察署へ向かう
怪我をした少女を腕に抱いて駆け込んできた 服に嫌な赤色がついた青年が叫ぶ
プティ「助けてくれ!店が襲われた!隣の旦那が酔って斬りつけてきやがった このままじゃ親父たちが殺される!向こうの家はもうダメだ 娘が1人逃げ延びただけで 助けを求めて駆け込んできたんだ でも見てくれ 怪我してる どうしたらいい 助けてくれ お願いだ!」
「おい落ち着け 落ち着くんだ どこの店だ」
プティ「ジョンドレットの宿屋!バハビエの隣の…」
ロザリーの怪我の手当がされる横で プティはずっと項垂れたまま ぼうっとしていた
その夜何があったのか 後から調べられ 逃げ延びた2人の話も聞いた結果わかったことだが
まずメサジェが飲んでいたであろう酒瓶が家の中で割れていて ラシェルと息子のエルマンとワルテールが殺されていた
その後外に出て 父親を見つけたロザリーが声をかけると 怒りながら持っていた刃物で腕をきりつけたが その後ジョンドレットの店の方へ行き 戸が閉まっていなかったのでそのまま入り 中にいた一家も襲った 息子だけなんとか逃げ去り 怪我をしたロザリーを抱えて警察署へ駆け込む
警官が到着するころには乱闘の跡だけ残り オセアンヌは殺され ジャンとメサジェは揉み合いになったようだが 結果2人とも刃物が刺さった状態で倒れ 死んでいた
2人だけになってしまったプティとロザリー
遺体だけ無くなり それ以外自分たちでなんとかするしかなく プティはジャンの友人たちに励まされながら 一緒に片付けた
ロザリーは孤児になり 行き場がなく 包帯の巻かれた腕が痛くても我慢してプティを手伝って なんとか側に置いてもらおうとしたが プティにそんな余裕はなく ロザリーも諦めて家族の誰もいない家の中で眠っていた
なんとか店を再開させたかったが 店の中にいるとトラウマが蘇り あの日の会話すら全て思い出したくなくなった
ついに精神的に限界のきたプティは 店を売り払い パリも出ていくことにした
友人たちも名残惜しんだが 彼のことを思い 前日は明るく彼を見送るために1人の友人の家にみんなで集まり飲んだ
次の日 午前中に最後の別れを済ませ 昼頃には荷物をまとめ 20年近く暮らした家に別れを告げた 何を思い出しても辛く 仕方ないんだと俯いた
なんとなく いつもの癖で店の間の暗い路地を覗く 店の片付けをして以来 ロザリーとは数日会っていない
すると そこにはいつものように座る彼女の姿があった
プティ「ロザリー…」
同じように 家族を亡くした
自分はただあの光景がトラウマでここを離れるが 彼女は家族を失い きっと辛いだろう
ロザリー「……プティ・ジョンドレット どこかへ行くの?」
プティ「俺はこの町を出る さよならだ」
ロザリー「いやだ!」
ロザリーはプティに駆け寄り 足に抱きついて離れない
ロザリー「おねがいプティ・ジョンドレット 私をあなたの家族にして 一緒にいたい ずっと一緒に 私もあなたも 家族みんな死んじゃったから 私たちは一緒にいよう さみしいよ 辛いよ 悲しいよ」
そう言いながらずっと泣いていて プティがそっとしゃがむと 一度腕を離し 今度は首のあたりに腕を回し ぎゅっと抱きしめる
ここで見捨てられたら多分死ぬのかもな…とプティは思った 家族が死んだのはお前の父親のせいだと言ってやりたかったが 生きている人間である彼女の温かさが だんだんと辛く感じ そっと彼女を抱きしめてやった
わんわんと泣いていたロザリーが泣き止み きょとんとした顔になる
プティ「わかった お前が望むならそうする」
せっかく一緒に生きのびたのだから
プティ「いいかロザリー 俺の名前はプティ・ジョンドレットじゃない」
ロザリー「…じゃあなんていうの?」
結局 ファーストネームは分からずじまい
それでも これだけは 覚えている
プティ「…テナルディエだ」
END