第五章 テナルディエ
偶然はない
出会いから14年
1935年 フランス 1月末ごろ
フュベール「…ギュスターヴ リゼット 来てくれたのか ありがとう」
ベッドの側で ギュスターヴはフュベールに話しかける
リゼットはそっとお腹を撫でながら 微笑んでいた
それを聞いて フュベールは表情が明るくなる 少し弱々しい声で 話す
フュベール「おめでとう…その日までは 元気でいなければ…!やる気が出てきたよ 最近体調もずいぶんいいんだ」
それを聞いて安心したのか ようやくギュスターヴも落ち着いた様子になる
もう長くはないのかもしれない 最初にそう言われた時には 酷くショックを受けた
彼がしばらく会えないでいる間に病を患い 酷くなり入院し1年
いつも支えてくれたフュベールのために できるだけのことがしたかった
会いにきてほしいと願う彼のために 休みのたびまずここへ来ていた 時にリゼットやファリエールを連れて
良いニュースがあれば全て伝えていた
婚約したことも 懐妊した話も
フュベール「…私は 幸せだ こうして愛されていると知れる 君たち思いやりを 優しさを 受け取ることができる ギュスターヴ リゼット レナルド 最期の時まで 側にいてくれる人がいる 私にとって これ以上ない幸福かもしれない」
まだ雪の残るパリ
深い夜の中 彼はゆっくりと眠りに落ちるように目を閉じ そして二度と目覚めなかった
ギュスターヴは父のようであった 大切な人を失った 彼の妻が待ち 両親やアンドレたちがいる場所に 旅立ってしまった
深い悲しみの中 彼からもらった言葉を 少しずつ思い出す
恩は返せただろうか
2月 集会所
トビー「髭を?もちろん 任せてください」
その日 昼すぎのこと テナルディエは集会所へ来た
トビーしかいなかったので とりあえず いつも彼が善意でしてくれていることを頼み 道具を取りに行く間 椅子に座ってポケットから5フランを取り出し 眺め ジッと考えていた
ため息をつき 帽子を取り 部屋の中にあるチェストの上の 写真立ての方をぼうっと眺めた
パンを買う金にも困るジョンドレット一家にとって5フランは貴重な金だったが テナルディエにとっては満足いく額ではない
5フラン それを今日どのようにして得たのか
彼はいつも慈善家などにすがる手紙を何通か書き 2人の娘に持たせていた
しかし昨晩 娘らはその手紙を全部届けた上で全て断られたらしく 仕方なく今朝もいくつか書いていた
それで今朝 隣の…先生と呼んでいる…青年が住んでいて 過去家賃を代わりに払ってくれたというので お礼と家族の悲惨な現状を書き記し 上の娘エポニーヌに持たせた
お優しい隣の弁護士先生は 娘に5フラン持たせた
ただ今彼がその5フランを眺めるのは その後のことが理由だった
エポニーヌが家に帰った時の第一声が“来るよ!”だった
テナルディエが手紙を書いた相手に 慈善家の爺さんがいて いつもの会堂にいるのでエポニーヌは手紙を渡した
すると彼は娘の用事を済ませたあとに家に向かうと約束をした
本当に来るかと彼女は確認しにいくと その娘と共に辻馬車に乗り それがゴルボー屋敷へ向かってくるのも先ほど確認し 大急ぎで帰ってきた
雪が降るほど寒い日だが 彼は暖炉の火を消し 下の娘アゼルマに窓ガラスを素手で割らせ
そのせいで怪我をした手に 自分のシャツを引き裂いた細い布を巻いてやる
アゼルマは傷が痛むので泣き ロザリーはそれを側で慰める しかしテナルディエは泣いた方がいいと伝える
より貧しそうに より可哀想に
割れた窓から吹く風は 碌なものを着ていない彼らには 凍ってしまうような冷たさで 突き刺さるようだった
そこまでしても 馬車で間も無く来ると言う慈善家が来ず 苛立っていると 扉は叩かれる
年老いた男と 若い娘の2人
ゴルボー屋敷の屋根部屋の中 少しの躊躇と共に 彼らは招かれた
優しく そして悲しげな目を向ける男は 寒さに凍える彼らのために 新しい服や毛布を与えた
テナルディエは“それだけか”と思った顔を見られないようにしつつ 偽の名と職業を述べ アゼルマの怪我を嘘の話をつけて見せ 自ら作り上げた現状も嘆き悲しむ演技をして説明し
延々と嘘の話をし続けた後 本当に欲しいものを男に話す
四期分の家賃がたまり 今夜支払えなければ追い出される
熱のある家内 怪我をした下の娘 哀れな自分と上の娘 全員が この寒空の下 何もないまま放り出されると説明した
金額は60フランと嘆く
…実際 四期分では40フランほどで
そもそも隣の先生さんが二期分払ってまだ半年 四期分なんてたまっていない
もちろん全部…全部 嘘
すると男はポケットから5フラン出しテーブルの上に置く
これっぽっちでどうしろと とエポニーヌに耳打ちし文句を言うが 男はその後言葉を続けた
「ファバントゥー君 私は今これしか持ち合わせがない 一度娘を家に連れ帰り 今晩の支払いのその前に来ましょう」
ファバントゥーというのは 手紙に記された 彼の偽名である
ティナ「そうです旦那様 今晩8時 家主のところへ持っていかなくてはならないので」
「では18時に60フラン 持ってきましょう」
お礼を言いながらも テナルディエはロザリーの方へ行き 男の顔をよく見るよう伝える
そうして今晩の約束をもう一度確かめる
今晩 6時ちょうど 男は60フランを持ってここへ戻るのだ
男は外套をテナルディエに与え それを羽織り 彼は男とその娘を見送った
そうしてすぐに 大通りの向こう側 バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所にいる男に話しかける
浮浪人のような 人相の悪い男相手に 雪が降る中 慈善家の外套と薄いシャツ姿で 小声で話し合っていた
その後すぐに走って部屋へ戻る
その前に 屋敷側の また別の暗い路地をチラッと覗き そこに誰もいないのを確認し そうした後すぐ戻る
この記憶に間違いがなければ 薄暗い部屋の中 見間違いをしていないのならば
興奮を抑えながら 彼は部屋の扉を開ける
ロザリーは 慈善家の置いて行った包みを開け 服や靴下をつけ 毛布を広げていたが テナルディエの言葉を聞き呆気にとられた
ロザリー「本当なの?」
ティナ「よく見なかったのか? 同じ顔つきだ…」
落ち着かないのか部屋をうろうろと歩いていた彼だったが 怪我をした妹と寄り添う姉の方を見ると 部屋を出ていくようにと言う
ティナ「5時に戻れ いいな」
ロザリー「外は寒いし 怪我をしているのに…」
ティナ「黙ってろ…さぁ行け!」
テナルディエは小さく低い声で ロザリーに続きを話す 彼女はその言葉に突然怒り出す
ロザリー「まさか!さっきのがかい?」
ティナ「今にわかる」
ロザリーが聞いたのはある名前だったが さっきまでぼんやり静かにテナルディエの演技を眺めるばかりだった彼女が 突然立ち上がり 怒りそのままにあれこれ叫ぶ
テナルディエはそれを気にせず まだぐるぐると部屋を歩き しばらく黙った後 ロザリーの前で腕を組み 立ち止まった
隣の先生さんがさっき部屋を出たのは知っている いたとしてそもそもこちらを気にかけて話を聞くなんてしないだろう
だが少し用心して 低い声で ロザリーに話す
金が手に入る 準備はもう始まっている 60フランを持って夜6時に男は再びここへ来る
それ以上のものが 手に入るのだと話す
それで もし最後まで テナルディエや仲間の前でその慈善家が降参することのないままならば 果たしてどうなるか ロザリーが問うと
ティナ「そうなれば…後悔することになるだけだ」
テナルディエは笑う 人を慄然とさせるような冷ややかな笑みに ロザリーはおそれを抱く
彼は帽子と外套を取り まだ済ませなければならない用事があると外へ出る
その前に火鉢で火を起こしておくようロザリーに頼み 慈善家のくれた5フランを彼女に渡す
まだこちらで買うものもあるから炭以外で無駄に使うなと告げ 彼は外へ出た
ちょうどその頃 教会は午後1時の鐘を鳴らした
外へ出たテナルディエは用事の前に 壁の中へ入る
しばらくトビーを避けている間 髭を剃ることも無かったが おかげで助かった
このヒゲのおかげで あの男はこちらに気づいていなかったのだと思われた
だが次に会う時には 気づかせてやりたかった
偶然トビーがいたのも 運が良かった
ようやく運が向いてきた
金が手に入る 貧乏ともおさらばできるかもしれない
ヒゲのおかげで気づかれず 男は約束をきっちり守るだろう こちらに気づいていれば きっと二度と来なかった
外套をもらえたおかげで 外の寒さもマシに感じられ 他の用事も済ませられる これも運が良かった
そしてテナルディエは 彼に髭を剃ってもらった後 集会所を訪れたゼロとテンプスを見て 笑みを浮かべた
ゼロ「…何かいいことでもあった?」
ティナ「最高にいいことだ 俺の運命はここで変わるんだ」
テナルディエは先ほどの出来事の中の あまりに出来すぎた偶然は もちろん運命なのだろうと理解していた
今までゼロが 貧しい運命の中にあるテナルディエに それでも時折手を差し伸べることがあったのは いつかそこから抜け出せると知っていたからなのだろうと 思えた
テンプスもだ 慈善家への手紙 というアイデアは 彼によって与えられた
選択を誤るな という言葉も この日のためだったのだろう
大切な金の使い道は間違えない
テナルディエに対し全ていい方向に運命は働いていると実感していた
ゼロ「また悪事…?」
ティナ「物語の中の 悪事だ 日付を見ても ピンと来ないか?これが終われば またここに来る余裕もできる」
ゼロ「そんなに 確信を持てるほどいい話なの?」
ティナ「パトロン・ミネットと一緒にやるしな」
ゼロ「なんで物語の中だと思うのさ」
ティナ「そうじゃなきゃ なぜ俺が偶然 アルエットとそれを連れて行ったあの男とまた会える?俺の人生の中で もう二度会うこともないだろうと思っていたあの男と こんな偶然があるのか?」
ゼロ「まさか あの?また会ったの?疑うほどの偶然だ それで それが運命かどうか 答えが欲しいの?」
テナルディエのいうアルエットとは雲雀のことで それはつまりかつて彼が宿屋の主人だったころ預かっていたコゼットの呼び名であり
そのコゼットという娘の話は 約8年前のこと それもまだピレリが生きていた頃にまで遡る
ファンティーヌという母親から養育費として金を手に入れ続けるために宿に置いてやっていただけの小さな子供
我が子のように育てるなんてこともせず 宿の仕事をさせていた
だがある時 死んだというファンティーヌに代わり コゼットを連れて行った貧乏人のような見た目の金持ちの男がいた
テナルディエは今日 その男と成長したコゼットに再会した
それも偶然 知らずにただの慈善家相手に手紙を届けただけ
それでその 印象深い出来事の相手に しかも違う町で会うなんて 金持ちなのは知っているから 金をたんまり手に入れる機会が来た それが偶然?
テナルディエは男と対峙して ただならぬ雰囲気を感じていた
その男とまた会うのが この人生の中において 物語でもなんでもない 単なる偶然などと
ティナ「…どっちなんだ」
ゼロ「私から言えるのは そんな危険なこと できればして欲しくないってだけだよ」
ティナ「十分に準備はする その時間 屋敷には俺らの他にいない 上手くやって やつから大金手に入れる 何が危険だって?」
ゼロ「パトロン・ミネットが動けば もしかしたら警察に目をつけられるかも それに勘違いだったら 君は関係のない人に…」
ティナ「…いや 絶対に合ってる あの時から 顔も声も変わってねぇ」
ゼロがテナルディエの悪事に対し 危険だなんだと言うのはこれが初めてではない 数年前から 壁を悪用してるのも 文句を言いつつ見逃してはいた
ゼロは黙ってしまった テンプスは呆れた顔でテナルディエを見る トビーはただならぬ雰囲気に戸惑っている
テナルディエは なぜゼロが止めようとするのか 考えついた 彼女はいい奴だ 善良な心のある彼女は静かに暮らす仲睦まじい父と娘を恐ろしい目に遭わそうとするテナルディエを止めたいのだろうと
ティナ「残念だが 俺はお前の言いなりはごめんだ お前の望むとおりの善人になんかならねぇよ 俺は自分で選ぶ」
ゼロ「忠告はした 好きなようにすればいい」
ティナ「はぁ…お前は俺に何を望んで そんな顔してるんだ」
ゼロ「後悔して欲しくないだけ」
ティナ「後悔する前に 死にたくないんでな…じゃあな」
テナルディエはさっさと部屋を出て行った
ゼロは腕を組み テンプスの方に少しだけ体を傾けながら 話しかけた
ゼロ「契約を使わずに済めばいいけど」
テンプス「あの様子では 十中八九失敗しますが」
ゼロ「原作通りか…それとも別か…どのみち あの格好だとマリウスは動いてるし ジャベールには知られてるか…」
テンプス「悪人ですから 制裁を受けて然るべきでしょう」
ゼロ「…助かる道もある」
テンプス「全員は無理ですが さて…」
不穏な内容にトビーはテナルディエがこの先どうなっていくのか もっと不安になる
ゼロは心配そうなのに対し テンプスは全くそんなことを思ってはいないようだ
想造力を使って どこからか本を出現させ 勝手に開いた本の中を眺めながら パラパラと自動でめくれるページのスピードを指先で調整しているような動作をする
トビー「あの テナルディエは…何を」
ゼロ「…何を…か しばらく会えなくなるようなこと」
トビー「危険なんですか」
ゼロ「すでに警察には知られてる 彼がもし事を起こせば…」
ピタッと手を止める
ゼロ「この辺りか…ジョンドレット買い物をなす」
ふと時刻を確認する
まだ“この時間”ではないようだ
テンプス「契約の件 少し話したいことがありましたが 今のところ やつがそのために使うとも思えないので その時が来たら お教えします…では」
本に集中するゼロは目線を文章に向けたまま 頷いた
トビーは何を書いてあるのか気になって中を覗いたが 知らない言語で書かれていて 全く読めなかった
ゼロ「…彼がどうなるか気になるなら 全部話そうかこの本は私の母国語で書かれてるからね」
ゼロは難しい顔のままページをめくる
トビーは不安そうな顔で頷いた
ゼロ「それとも 見るか」
トビー「み…見る?」
ゼロ「これから起こることは全て 私が昔からこの目で見たいと思っていたこと 私は君たちの物語を見るためにここにいる だから」
部屋の中で唯一 何もない壁がある そこに向かって ゼロが腕を大きく上から下へ振ると どこかの映像が映る
ゼロ「今現在の ティナの世界」
トビー「…これで か…勝手にいいんでしょうか」
ゼロ「本のページをめくるのと同じだよ…文字が映像になるだけ それを言ったら 私だいぶ長い事 なんなら人間の頃から 無許可で君らの物語 見てるけど…」
トビー「そ…そう…ですけど」
自分が物語の中の人物なのだと感じることはまずない
本や映像を見比べているゼロの姿を見る
彼女たちの知る通りにテナルディエは行動しているのだとしたら…
それでもよくわからない感覚だ 確かに頭で考えて 自分の意思で生きているはずなのに 決められた到着地点に向かって 見えない紐で引っ張られて歩いているだけなんて
自分が無いような感覚になるので 基本考えない方がいいことだった
そんなこと気にせずに 自分は確かに自分で選択し 自由に生きているのだと 自信を持たないと よくわからなくなってくる
そういうもの…なのだ
壁の中で 雪の積もる町中を テナルディエが歩いている
物語の中での出来事以外は運命では無いのなら
これは全て 偶然 その行動をとっているのだろうか
だがその先にまた運命の出来事が待つなら…
運命は全てのものを繋げる
対峙すると思われなかった者たちを ひとつの場所へと導く
卑しく醜い欲が
清く善をなす思いが
悪を捕らえる使命が
愛のため救おうとする心が
ゴルボー屋敷というその場所に 集まり
ついに運命の日は訪れる
テナルディエが去ってしばらく時が経ち 扉の上の文字は揺れる文字をゼロとトビーが見ていた
Les Misérables
1832/02/03
17:32:14
文字は 赤い色へと変化した
この先に”偶然の出来事”はない
トビーはただ その行く末を 見るだけしかできない
壁も扉も閉じられた
END
出会いから14年
1935年 フランス 1月末ごろ
フュベール「…ギュスターヴ リゼット 来てくれたのか ありがとう」
ベッドの側で ギュスターヴはフュベールに話しかける
リゼットはそっとお腹を撫でながら 微笑んでいた
それを聞いて フュベールは表情が明るくなる 少し弱々しい声で 話す
フュベール「おめでとう…その日までは 元気でいなければ…!やる気が出てきたよ 最近体調もずいぶんいいんだ」
それを聞いて安心したのか ようやくギュスターヴも落ち着いた様子になる
もう長くはないのかもしれない 最初にそう言われた時には 酷くショックを受けた
彼がしばらく会えないでいる間に病を患い 酷くなり入院し1年
いつも支えてくれたフュベールのために できるだけのことがしたかった
会いにきてほしいと願う彼のために 休みのたびまずここへ来ていた 時にリゼットやファリエールを連れて
良いニュースがあれば全て伝えていた
婚約したことも 懐妊した話も
フュベール「…私は 幸せだ こうして愛されていると知れる 君たち思いやりを 優しさを 受け取ることができる ギュスターヴ リゼット レナルド 最期の時まで 側にいてくれる人がいる 私にとって これ以上ない幸福かもしれない」
まだ雪の残るパリ
深い夜の中 彼はゆっくりと眠りに落ちるように目を閉じ そして二度と目覚めなかった
ギュスターヴは父のようであった 大切な人を失った 彼の妻が待ち 両親やアンドレたちがいる場所に 旅立ってしまった
深い悲しみの中 彼からもらった言葉を 少しずつ思い出す
恩は返せただろうか
2月 集会所
トビー「髭を?もちろん 任せてください」
その日 昼すぎのこと テナルディエは集会所へ来た
トビーしかいなかったので とりあえず いつも彼が善意でしてくれていることを頼み 道具を取りに行く間 椅子に座ってポケットから5フランを取り出し 眺め ジッと考えていた
ため息をつき 帽子を取り 部屋の中にあるチェストの上の 写真立ての方をぼうっと眺めた
パンを買う金にも困るジョンドレット一家にとって5フランは貴重な金だったが テナルディエにとっては満足いく額ではない
5フラン それを今日どのようにして得たのか
彼はいつも慈善家などにすがる手紙を何通か書き 2人の娘に持たせていた
しかし昨晩 娘らはその手紙を全部届けた上で全て断られたらしく 仕方なく今朝もいくつか書いていた
それで今朝 隣の…先生と呼んでいる…青年が住んでいて 過去家賃を代わりに払ってくれたというので お礼と家族の悲惨な現状を書き記し 上の娘エポニーヌに持たせた
お優しい隣の弁護士先生は 娘に5フラン持たせた
ただ今彼がその5フランを眺めるのは その後のことが理由だった
エポニーヌが家に帰った時の第一声が“来るよ!”だった
テナルディエが手紙を書いた相手に 慈善家の爺さんがいて いつもの会堂にいるのでエポニーヌは手紙を渡した
すると彼は娘の用事を済ませたあとに家に向かうと約束をした
本当に来るかと彼女は確認しにいくと その娘と共に辻馬車に乗り それがゴルボー屋敷へ向かってくるのも先ほど確認し 大急ぎで帰ってきた
雪が降るほど寒い日だが 彼は暖炉の火を消し 下の娘アゼルマに窓ガラスを素手で割らせ
そのせいで怪我をした手に 自分のシャツを引き裂いた細い布を巻いてやる
アゼルマは傷が痛むので泣き ロザリーはそれを側で慰める しかしテナルディエは泣いた方がいいと伝える
より貧しそうに より可哀想に
割れた窓から吹く風は 碌なものを着ていない彼らには 凍ってしまうような冷たさで 突き刺さるようだった
そこまでしても 馬車で間も無く来ると言う慈善家が来ず 苛立っていると 扉は叩かれる
年老いた男と 若い娘の2人
ゴルボー屋敷の屋根部屋の中 少しの躊躇と共に 彼らは招かれた
優しく そして悲しげな目を向ける男は 寒さに凍える彼らのために 新しい服や毛布を与えた
テナルディエは“それだけか”と思った顔を見られないようにしつつ 偽の名と職業を述べ アゼルマの怪我を嘘の話をつけて見せ 自ら作り上げた現状も嘆き悲しむ演技をして説明し
延々と嘘の話をし続けた後 本当に欲しいものを男に話す
四期分の家賃がたまり 今夜支払えなければ追い出される
熱のある家内 怪我をした下の娘 哀れな自分と上の娘 全員が この寒空の下 何もないまま放り出されると説明した
金額は60フランと嘆く
…実際 四期分では40フランほどで
そもそも隣の先生さんが二期分払ってまだ半年 四期分なんてたまっていない
もちろん全部…全部 嘘
すると男はポケットから5フラン出しテーブルの上に置く
これっぽっちでどうしろと とエポニーヌに耳打ちし文句を言うが 男はその後言葉を続けた
「ファバントゥー君 私は今これしか持ち合わせがない 一度娘を家に連れ帰り 今晩の支払いのその前に来ましょう」
ファバントゥーというのは 手紙に記された 彼の偽名である
ティナ「そうです旦那様 今晩8時 家主のところへ持っていかなくてはならないので」
「では18時に60フラン 持ってきましょう」
お礼を言いながらも テナルディエはロザリーの方へ行き 男の顔をよく見るよう伝える
そうして今晩の約束をもう一度確かめる
今晩 6時ちょうど 男は60フランを持ってここへ戻るのだ
男は外套をテナルディエに与え それを羽織り 彼は男とその娘を見送った
そうしてすぐに 大通りの向こう側 バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所にいる男に話しかける
浮浪人のような 人相の悪い男相手に 雪が降る中 慈善家の外套と薄いシャツ姿で 小声で話し合っていた
その後すぐに走って部屋へ戻る
その前に 屋敷側の また別の暗い路地をチラッと覗き そこに誰もいないのを確認し そうした後すぐ戻る
この記憶に間違いがなければ 薄暗い部屋の中 見間違いをしていないのならば
興奮を抑えながら 彼は部屋の扉を開ける
ロザリーは 慈善家の置いて行った包みを開け 服や靴下をつけ 毛布を広げていたが テナルディエの言葉を聞き呆気にとられた
ロザリー「本当なの?」
ティナ「よく見なかったのか? 同じ顔つきだ…」
落ち着かないのか部屋をうろうろと歩いていた彼だったが 怪我をした妹と寄り添う姉の方を見ると 部屋を出ていくようにと言う
ティナ「5時に戻れ いいな」
ロザリー「外は寒いし 怪我をしているのに…」
ティナ「黙ってろ…さぁ行け!」
テナルディエは小さく低い声で ロザリーに続きを話す 彼女はその言葉に突然怒り出す
ロザリー「まさか!さっきのがかい?」
ティナ「今にわかる」
ロザリーが聞いたのはある名前だったが さっきまでぼんやり静かにテナルディエの演技を眺めるばかりだった彼女が 突然立ち上がり 怒りそのままにあれこれ叫ぶ
テナルディエはそれを気にせず まだぐるぐると部屋を歩き しばらく黙った後 ロザリーの前で腕を組み 立ち止まった
隣の先生さんがさっき部屋を出たのは知っている いたとしてそもそもこちらを気にかけて話を聞くなんてしないだろう
だが少し用心して 低い声で ロザリーに話す
金が手に入る 準備はもう始まっている 60フランを持って夜6時に男は再びここへ来る
それ以上のものが 手に入るのだと話す
それで もし最後まで テナルディエや仲間の前でその慈善家が降参することのないままならば 果たしてどうなるか ロザリーが問うと
ティナ「そうなれば…後悔することになるだけだ」
テナルディエは笑う 人を慄然とさせるような冷ややかな笑みに ロザリーはおそれを抱く
彼は帽子と外套を取り まだ済ませなければならない用事があると外へ出る
その前に火鉢で火を起こしておくようロザリーに頼み 慈善家のくれた5フランを彼女に渡す
まだこちらで買うものもあるから炭以外で無駄に使うなと告げ 彼は外へ出た
ちょうどその頃 教会は午後1時の鐘を鳴らした
外へ出たテナルディエは用事の前に 壁の中へ入る
しばらくトビーを避けている間 髭を剃ることも無かったが おかげで助かった
このヒゲのおかげで あの男はこちらに気づいていなかったのだと思われた
だが次に会う時には 気づかせてやりたかった
偶然トビーがいたのも 運が良かった
ようやく運が向いてきた
金が手に入る 貧乏ともおさらばできるかもしれない
ヒゲのおかげで気づかれず 男は約束をきっちり守るだろう こちらに気づいていれば きっと二度と来なかった
外套をもらえたおかげで 外の寒さもマシに感じられ 他の用事も済ませられる これも運が良かった
そしてテナルディエは 彼に髭を剃ってもらった後 集会所を訪れたゼロとテンプスを見て 笑みを浮かべた
ゼロ「…何かいいことでもあった?」
ティナ「最高にいいことだ 俺の運命はここで変わるんだ」
テナルディエは先ほどの出来事の中の あまりに出来すぎた偶然は もちろん運命なのだろうと理解していた
今までゼロが 貧しい運命の中にあるテナルディエに それでも時折手を差し伸べることがあったのは いつかそこから抜け出せると知っていたからなのだろうと 思えた
テンプスもだ 慈善家への手紙 というアイデアは 彼によって与えられた
選択を誤るな という言葉も この日のためだったのだろう
大切な金の使い道は間違えない
テナルディエに対し全ていい方向に運命は働いていると実感していた
ゼロ「また悪事…?」
ティナ「物語の中の 悪事だ 日付を見ても ピンと来ないか?これが終われば またここに来る余裕もできる」
ゼロ「そんなに 確信を持てるほどいい話なの?」
ティナ「パトロン・ミネットと一緒にやるしな」
ゼロ「なんで物語の中だと思うのさ」
ティナ「そうじゃなきゃ なぜ俺が偶然 アルエットとそれを連れて行ったあの男とまた会える?俺の人生の中で もう二度会うこともないだろうと思っていたあの男と こんな偶然があるのか?」
ゼロ「まさか あの?また会ったの?疑うほどの偶然だ それで それが運命かどうか 答えが欲しいの?」
テナルディエのいうアルエットとは雲雀のことで それはつまりかつて彼が宿屋の主人だったころ預かっていたコゼットの呼び名であり
そのコゼットという娘の話は 約8年前のこと それもまだピレリが生きていた頃にまで遡る
ファンティーヌという母親から養育費として金を手に入れ続けるために宿に置いてやっていただけの小さな子供
我が子のように育てるなんてこともせず 宿の仕事をさせていた
だがある時 死んだというファンティーヌに代わり コゼットを連れて行った貧乏人のような見た目の金持ちの男がいた
テナルディエは今日 その男と成長したコゼットに再会した
それも偶然 知らずにただの慈善家相手に手紙を届けただけ
それでその 印象深い出来事の相手に しかも違う町で会うなんて 金持ちなのは知っているから 金をたんまり手に入れる機会が来た それが偶然?
テナルディエは男と対峙して ただならぬ雰囲気を感じていた
その男とまた会うのが この人生の中において 物語でもなんでもない 単なる偶然などと
ティナ「…どっちなんだ」
ゼロ「私から言えるのは そんな危険なこと できればして欲しくないってだけだよ」
ティナ「十分に準備はする その時間 屋敷には俺らの他にいない 上手くやって やつから大金手に入れる 何が危険だって?」
ゼロ「パトロン・ミネットが動けば もしかしたら警察に目をつけられるかも それに勘違いだったら 君は関係のない人に…」
ティナ「…いや 絶対に合ってる あの時から 顔も声も変わってねぇ」
ゼロがテナルディエの悪事に対し 危険だなんだと言うのはこれが初めてではない 数年前から 壁を悪用してるのも 文句を言いつつ見逃してはいた
ゼロは黙ってしまった テンプスは呆れた顔でテナルディエを見る トビーはただならぬ雰囲気に戸惑っている
テナルディエは なぜゼロが止めようとするのか 考えついた 彼女はいい奴だ 善良な心のある彼女は静かに暮らす仲睦まじい父と娘を恐ろしい目に遭わそうとするテナルディエを止めたいのだろうと
ティナ「残念だが 俺はお前の言いなりはごめんだ お前の望むとおりの善人になんかならねぇよ 俺は自分で選ぶ」
ゼロ「忠告はした 好きなようにすればいい」
ティナ「はぁ…お前は俺に何を望んで そんな顔してるんだ」
ゼロ「後悔して欲しくないだけ」
ティナ「後悔する前に 死にたくないんでな…じゃあな」
テナルディエはさっさと部屋を出て行った
ゼロは腕を組み テンプスの方に少しだけ体を傾けながら 話しかけた
ゼロ「契約を使わずに済めばいいけど」
テンプス「あの様子では 十中八九失敗しますが」
ゼロ「原作通りか…それとも別か…どのみち あの格好だとマリウスは動いてるし ジャベールには知られてるか…」
テンプス「悪人ですから 制裁を受けて然るべきでしょう」
ゼロ「…助かる道もある」
テンプス「全員は無理ですが さて…」
不穏な内容にトビーはテナルディエがこの先どうなっていくのか もっと不安になる
ゼロは心配そうなのに対し テンプスは全くそんなことを思ってはいないようだ
想造力を使って どこからか本を出現させ 勝手に開いた本の中を眺めながら パラパラと自動でめくれるページのスピードを指先で調整しているような動作をする
トビー「あの テナルディエは…何を」
ゼロ「…何を…か しばらく会えなくなるようなこと」
トビー「危険なんですか」
ゼロ「すでに警察には知られてる 彼がもし事を起こせば…」
ピタッと手を止める
ゼロ「この辺りか…ジョンドレット買い物をなす」
ふと時刻を確認する
まだ“この時間”ではないようだ
テンプス「契約の件 少し話したいことがありましたが 今のところ やつがそのために使うとも思えないので その時が来たら お教えします…では」
本に集中するゼロは目線を文章に向けたまま 頷いた
トビーは何を書いてあるのか気になって中を覗いたが 知らない言語で書かれていて 全く読めなかった
ゼロ「…彼がどうなるか気になるなら 全部話そうかこの本は私の母国語で書かれてるからね」
ゼロは難しい顔のままページをめくる
トビーは不安そうな顔で頷いた
ゼロ「それとも 見るか」
トビー「み…見る?」
ゼロ「これから起こることは全て 私が昔からこの目で見たいと思っていたこと 私は君たちの物語を見るためにここにいる だから」
部屋の中で唯一 何もない壁がある そこに向かって ゼロが腕を大きく上から下へ振ると どこかの映像が映る
ゼロ「今現在の ティナの世界」
トビー「…これで か…勝手にいいんでしょうか」
ゼロ「本のページをめくるのと同じだよ…文字が映像になるだけ それを言ったら 私だいぶ長い事 なんなら人間の頃から 無許可で君らの物語 見てるけど…」
トビー「そ…そう…ですけど」
自分が物語の中の人物なのだと感じることはまずない
本や映像を見比べているゼロの姿を見る
彼女たちの知る通りにテナルディエは行動しているのだとしたら…
それでもよくわからない感覚だ 確かに頭で考えて 自分の意思で生きているはずなのに 決められた到着地点に向かって 見えない紐で引っ張られて歩いているだけなんて
自分が無いような感覚になるので 基本考えない方がいいことだった
そんなこと気にせずに 自分は確かに自分で選択し 自由に生きているのだと 自信を持たないと よくわからなくなってくる
そういうもの…なのだ
壁の中で 雪の積もる町中を テナルディエが歩いている
物語の中での出来事以外は運命では無いのなら
これは全て 偶然 その行動をとっているのだろうか
だがその先にまた運命の出来事が待つなら…
運命は全てのものを繋げる
対峙すると思われなかった者たちを ひとつの場所へと導く
卑しく醜い欲が
清く善をなす思いが
悪を捕らえる使命が
愛のため救おうとする心が
ゴルボー屋敷というその場所に 集まり
ついに運命の日は訪れる
テナルディエが去ってしばらく時が経ち 扉の上の文字は揺れる文字をゼロとトビーが見ていた
Les Misérables
1832/02/03
17:32:14
文字は 赤い色へと変化した
この先に”偶然の出来事”はない
トビーはただ その行く末を 見るだけしかできない
壁も扉も閉じられた
END