第三章 ギュスターヴ・ダステ
転落
出会いから8年
この日集会所にはギュスターヴとゼロ…そして先ほどどこか神妙な面持ちで入ってきたテナルディエがいた
しばらくぶりに会うので 歓迎していたが どうやらそういう雰囲気ではないらしく 彼の説明を静かに聞くこととなった
ティナ「今日パリに発つ」
ゼロ「…あぁ じゃあ」
ティナ「…なんとなく予想はできてただろ それで 壁だが」
ゼロ「君にはもう 決定権を移してる 落ち着いたらでいい 今までのように無理に来なくてもいい ただ心配ではあるから…」
テナルディエは少し悩んだ後 頷いた
状況は全くよくならなかった 一度崩れ落ちたものを元に戻すのは難しい それがまだ 若いトビーのようならまだしも 彼はすでに50を超えていて 妻と4人の子供がいる しかも下の子はようやく1歳を迎えたぐらいだ
ギュスターヴやゼロは今後のことを知っていた
もうテナルディエは笑顔を貼り付ける余裕すらない 前より少し痩せたようにも見える
この場所はテナルディエだけに優しくなるようにできていない ゼロはいくらでも料理を出せるが 最近は控えている どんなこともできるが テナルディエへの利益になり過ぎないようにしている
彼を苦しめたいわけではないが苦しむ家族をよそにテナルディエだけが満たされることは許されなかった 彼がそれを得て 分けることも それは崩壊の始まりになる
物語のために 2人は酷い人間にならなければならなかった
言わない 彼のことも彼の家族も 出会った時から 見捨てたわけではなく 最初から手を差し伸べられなかった
無理だと…わかったのもある ピレリと違いテナルディエには何を言ってもきっとダメだった
直接的なことを一切言わないので テナルディエから信頼を得られていないのは仕方ない 好転するようなアドバイスなんてできなかった
出会った時点で テナルディエの転落は始まっていた その時点で借金があり金繰りに苦労していた
テナルディエが善良であったなら まるで善人のようだったなら 物語は崩壊していた それだけは確かだ
彼が悪人であり どんなことでもできるような男であるから 生き延びる 彼らがいることで 起こる何かが 救われる誰かがいる
タイム「それは 友人としてどうなんだ」
ゼロ「君は物語を知らないから そう言えるんだよ 彼はパリに行かなければいけない」
物語を優先するのであれば なぜ彼とこの場にいるのか ただ眺めるだけではいけなかったのか
運命によって転落していく彼に 手を差し伸べれば 他の人々の幸福が失われる可能性がある だが目の前のテナルディエの家族より その人々を優先しようと思える理由を タイムは知らなかった
ゼロ「…いつか彼が気付けばいい すでに全て遅かったとしても 彼にも愛を知る道を…彼の過去は変えられない けど いつか 過去は彼を救う」
タイム「過去を知らないなど 白々しい嘘を…全部読んだのだろう 書き出された全ての内容を」
ゼロ「そして全て消えた 今は本当に知らない だからわざわざ過去にいかないといけない 嘘はついていない まだ見ていないだけ」
タイムは決してレ・ミゼラブルの物語を知ろうとはしなかった
ダステ「ティナ なぜパリなんだ?」
ティナ「…俺とロザリーの故郷…だから戻るだけだ 良い記憶はないが モンフェルメイユにいるよりはな」
パリに移ったテナルディエは その後しばらく集会所に現れなかった
どうなっているのか わからなかった テナルディエの宿屋はなくなり 壁が通じなくなった 建物自体はあるのだろうが テナルディエが閉じたようだった
レ・ミゼラブルの物語はまだ続く ただまだその時ではないが その間にも彼らの人生は続く
ワーテルローの軍曹に…
一度 彼がワーテルローの戦いの戦場にいた話を聞いたことがあった
1815年 ナポレオン率いるフランス軍と英蘭連合軍によるワーテルロー近郊で起きた戦い
歴史としてのワーテルローはギュスターヴも知ってはいるが 実際その場にいた人物から話を聞く日がくるとは思わなかった
彼は戦地の凄惨な光景についてだったり 将軍を助けた話ぐらいをしていた
戦争の話はあまり聞きたくないのだが ワーテルローとなると興味を持つ自分もいた
テナルディエはフランス革命時もナポレオン政権時も当時の人間として生きてきた
話の途中で テナルディエが何か思い出しポケットを探る
ちょうど将軍を助けた時の話をしていた
ティナ「財布は…金がない時に売っちまったが 時計だけは持ってるんだ」
ダステ「…これがその?」
まさかまだ持っているなんて…と盗んだことを知っているギュスターヴとしては驚きだった
戦地で盗ったものは全部宿屋を始める資金にしたと思っていた
戦地帰りの懐中時計は 傷がかなりついていたが 動いてはいた これが本で読んだあの時計かとまじまじ見てしまう
ティナ「…助けた証だ どうせ大した値にもならない」
おそらくは数少ないであろう彼の善行の証
思わぬところで感謝された出来事が 彼にとってそんなに嬉しかったのだろうか
ダステ「いいじゃないか 今はまだ持っていても いつか役に立つかもしれない」
手放さなければならない日が来るかもしれないが せめてそれまで大事にしていてほしい
しばらくテナルディエに会わないでいる時に ふとギュスターヴは先ほどの会話を思い出していた
なんとなく日記を読み返していた
集会所ではゼロとトビーとテンプスが色々と話をしていた
トビー「それで 今日は3人 いつも通り髭剃りだけ」
16歳になったトビーは 背もだいぶ伸び 声変わりもし ずいぶん大人びてきた
リドルフォから教わり 今では彼と店に立つようになったトビーは 現在ひたすら髭剃りをして腕をあげていた
再開したコリンズ理髪店はトビーの願いで看板の名前をそのままにしていた
いつかギュスターヴが来る時に 名前が違ったらわからないだろうからと彼は言っていた
テンプス「私は髭生えないからな…もしあったら君にやってもらっただろうな」
ゼロ「生やしてあげようか」
テンプス「それだと練習し放題ですね」
トビー「ちょっとやってみたい…」
今は幸せだというトビーを見て 彼女たちは安心していた トラウマの象徴である剃刀も 問題なく持てる
トビー「…ピレリさんが大切にしていたケース…いつか僕の剃刀を作ったら このケースの中に一本入れようかと」
トビーの部屋には 大切そうにケースが飾られている 絶対に暖炉の上には置かないように…
理髪の腕は確かな人たちだった トッドもピレリも その部分だけ今では尊敬している
壁の向こうの友人たちはトビーにとって心の支えだった テナルディエですら この部屋の影響も少なからずあるだろうが 彼に対して元気付ける言葉を言うこともあった
トビー「テナルディエ…大丈夫でしょうか」
ゼロ「大変だろうけど 生きてはいるはずだよ」
パリでのテナルディエは 決していい状況とは言えなかった 仕事はほとんど見つからない 家もない 冬の近づく時期であったために 余計辛かった
破産して金はなんとかパリへたどり着ける程度しかなく 育ち盛りの子を抱える一家は 毎日生きるので精一杯だった
飢えて死ぬか 寒さで死ぬか
先のことを考える余裕ができず 毎日なんとか金を手に入れ 食べ物や衣服に変え また金を集め…
運良く仕事を見つけても 数日凌げれば運がいい方だった
元々貧乏の知恵はあるのか やりくり自体はうまかったが ほんの少し助けになった程度だった
家族全員 死なせないように とにかく足掻くしかなかった
なんとか寒さを凌げる場所に入れるようになったおかげで その冬は越せた
そして出会いから9年の3月 ようやくレ・ミゼラブルの壁が繋がった
そこから出てきたテナルディエは 生活の苦しさをその身で表すような様子で 非常に疲れていた
トビー「テナルディエ!」
心配そうにトビーが駆け寄る
何も知らないがゆえに心から心配するトビー
成長したトビーを見て 時の流れと それでも変わらない集会所という空間を感じ 安堵していた
ここだけはいつでも 心を穏やかにしてくれる 荒む心を癒す
テナルディエが折れてしまえば 一家は途方に暮れる 彼は一家の指針だった どれだけ悪人であろうと 一家にとっては必要な存在だった
トビー「また会えて嬉しいです そうだ!僕 今理髪師の仕事をずいぶん任されるようになったんです 座ってください 綺麗に剃ってみせます」
急いで自分の世界に戻り 道具一式を抱えて戻ってくる テナルディエは返事こそしなかったが 大人しく座っていた
刃物は持っているので 髭は剃ってはいたが ここ最近では切れ味も落ちてやっていなかった
トビー「いつもどんな刃物でお髭を…あぁ あとで研ぎますよ それくらいなら問題ないはずです」
テナルディエを助けすぎることは 結果彼らのためにならないとトビーも聞かされてはいた
けれどせめてこれくらいはと クリームを泡立てる
ティナ「…昔ピレリにも ここで」
トビー「そうなんですか?」
ティナ「ここは少しこないだけで異様に懐かしくなる 何もかもそうなる あいつの力のせいで…」
トビー「…僕はゼロのこと嫌いじゃないです おかげでみなさんと会えました…さ 喋っていると危ないですから…」
トビーのやり方は ピレリを思い出す つまりはリドルフォのやり方なのだろう
綺麗に剃り終わった後 トビーはテナルディエの持っているナイフを研ぐ 剃刀ではなかったが今の彼に複数の刃物を持ち扱う余裕はないのだろう
穏やかな集会所での時間
けれどもう戻らなければならなかった
トビー「僕はきっとあなたの助けになれないけれど…僕でよければいつでも 理髪師としての仕事はしますよ」
笑顔のトビーに見送られる
救ってくださる神様は 天にはいなかった
壁の向こう側で 自分を友と呼ぶ存在が神だと 誰も知らない
全部決められた人生なら
ゼロ「君たちは 自分が物語のキャラクターだとかそういうことを考えずに生きればいい 運命は君たちの選択の先に…」
ティナ「約束は 忘れてないだろうな」
ゼロ「もちろん これは絶対だ 唯一変えられる運命は 君の選択次第で変わる」
テナルディエは外ではその名前を名乗らなくなっていた 普段はジョンドレットといった 家族もみんな 名字をそれにしていった
やがて彼は複数の名を名乗るようになる
しかし普段はジョンドレットだった 名前を隠すならこれだとだけ説明し それ以上は友人たちには伝えなかった
元々狩猟の腕があり 密猟などもしていたが パリではその銃も売った もはやなりふり構わずやるしかない 1スーでも多く そして確実に
それでも時計だけは手放せなかった これを失うと いよいよ自分は 何も失うものはないかのように どんなこともできてしまいそうになる
その方が いいのだろうかと思う日もあったが 死んではならない 捕まるわけにはいかない 悪事に手を染めるが うまく逃れる
その点 壁は非常に役に立った 路地に逃げ込み 壁を繋げ 中に入る 追いかける側からすれば 袋小路に入り込んで追い詰めたと思った相手が消えている
どんな手を使ったかなんてわかりはしない 誰が壁の中に入れるなんて考えるだろうか
それに壁は内側からでも場所を変えることができた
全ては想像 思った場所 それだけ
ゼロ「悪用してるじゃん!!」
ティナ「悪用なぁ…ならもう奪うか?」
ゼロ「しないけど…あまりそれに甘えてちゃ今後が…」
ティナ「どのみちしばらく同じ場所にいるなんてことはねぇよ まだ借りてないとな?」
ゼロ「うーん…まぁ制限つけなかったのは私だけど…」
テナルディエがそれをどう使うかは彼に委ねている こうなることは予想できないことではなかった ゼロ側にも多少問題はある
犯罪行為を肯定したいわけではないが 止めることもできない
彼の家族の命もかかっている
ゼロ「…まぁ捕まらないように 上手くやりなよ」
ティナ「忠告どうもゼロ じゃあな」
テナルディエが去った後 ゼロは扉の上に揺れる年数を見る
ゼロ「まだ捕まらないし 誰も死なないにしてもさ…」
パリでの彼の物語は まだ先の話…
END
出会いから8年
この日集会所にはギュスターヴとゼロ…そして先ほどどこか神妙な面持ちで入ってきたテナルディエがいた
しばらくぶりに会うので 歓迎していたが どうやらそういう雰囲気ではないらしく 彼の説明を静かに聞くこととなった
ティナ「今日パリに発つ」
ゼロ「…あぁ じゃあ」
ティナ「…なんとなく予想はできてただろ それで 壁だが」
ゼロ「君にはもう 決定権を移してる 落ち着いたらでいい 今までのように無理に来なくてもいい ただ心配ではあるから…」
テナルディエは少し悩んだ後 頷いた
状況は全くよくならなかった 一度崩れ落ちたものを元に戻すのは難しい それがまだ 若いトビーのようならまだしも 彼はすでに50を超えていて 妻と4人の子供がいる しかも下の子はようやく1歳を迎えたぐらいだ
ギュスターヴやゼロは今後のことを知っていた
もうテナルディエは笑顔を貼り付ける余裕すらない 前より少し痩せたようにも見える
この場所はテナルディエだけに優しくなるようにできていない ゼロはいくらでも料理を出せるが 最近は控えている どんなこともできるが テナルディエへの利益になり過ぎないようにしている
彼を苦しめたいわけではないが苦しむ家族をよそにテナルディエだけが満たされることは許されなかった 彼がそれを得て 分けることも それは崩壊の始まりになる
物語のために 2人は酷い人間にならなければならなかった
言わない 彼のことも彼の家族も 出会った時から 見捨てたわけではなく 最初から手を差し伸べられなかった
無理だと…わかったのもある ピレリと違いテナルディエには何を言ってもきっとダメだった
直接的なことを一切言わないので テナルディエから信頼を得られていないのは仕方ない 好転するようなアドバイスなんてできなかった
出会った時点で テナルディエの転落は始まっていた その時点で借金があり金繰りに苦労していた
テナルディエが善良であったなら まるで善人のようだったなら 物語は崩壊していた それだけは確かだ
彼が悪人であり どんなことでもできるような男であるから 生き延びる 彼らがいることで 起こる何かが 救われる誰かがいる
タイム「それは 友人としてどうなんだ」
ゼロ「君は物語を知らないから そう言えるんだよ 彼はパリに行かなければいけない」
物語を優先するのであれば なぜ彼とこの場にいるのか ただ眺めるだけではいけなかったのか
運命によって転落していく彼に 手を差し伸べれば 他の人々の幸福が失われる可能性がある だが目の前のテナルディエの家族より その人々を優先しようと思える理由を タイムは知らなかった
ゼロ「…いつか彼が気付けばいい すでに全て遅かったとしても 彼にも愛を知る道を…彼の過去は変えられない けど いつか 過去は彼を救う」
タイム「過去を知らないなど 白々しい嘘を…全部読んだのだろう 書き出された全ての内容を」
ゼロ「そして全て消えた 今は本当に知らない だからわざわざ過去にいかないといけない 嘘はついていない まだ見ていないだけ」
タイムは決してレ・ミゼラブルの物語を知ろうとはしなかった
ダステ「ティナ なぜパリなんだ?」
ティナ「…俺とロザリーの故郷…だから戻るだけだ 良い記憶はないが モンフェルメイユにいるよりはな」
パリに移ったテナルディエは その後しばらく集会所に現れなかった
どうなっているのか わからなかった テナルディエの宿屋はなくなり 壁が通じなくなった 建物自体はあるのだろうが テナルディエが閉じたようだった
レ・ミゼラブルの物語はまだ続く ただまだその時ではないが その間にも彼らの人生は続く
ワーテルローの軍曹に…
一度 彼がワーテルローの戦いの戦場にいた話を聞いたことがあった
1815年 ナポレオン率いるフランス軍と英蘭連合軍によるワーテルロー近郊で起きた戦い
歴史としてのワーテルローはギュスターヴも知ってはいるが 実際その場にいた人物から話を聞く日がくるとは思わなかった
彼は戦地の凄惨な光景についてだったり 将軍を助けた話ぐらいをしていた
戦争の話はあまり聞きたくないのだが ワーテルローとなると興味を持つ自分もいた
テナルディエはフランス革命時もナポレオン政権時も当時の人間として生きてきた
話の途中で テナルディエが何か思い出しポケットを探る
ちょうど将軍を助けた時の話をしていた
ティナ「財布は…金がない時に売っちまったが 時計だけは持ってるんだ」
ダステ「…これがその?」
まさかまだ持っているなんて…と盗んだことを知っているギュスターヴとしては驚きだった
戦地で盗ったものは全部宿屋を始める資金にしたと思っていた
戦地帰りの懐中時計は 傷がかなりついていたが 動いてはいた これが本で読んだあの時計かとまじまじ見てしまう
ティナ「…助けた証だ どうせ大した値にもならない」
おそらくは数少ないであろう彼の善行の証
思わぬところで感謝された出来事が 彼にとってそんなに嬉しかったのだろうか
ダステ「いいじゃないか 今はまだ持っていても いつか役に立つかもしれない」
手放さなければならない日が来るかもしれないが せめてそれまで大事にしていてほしい
しばらくテナルディエに会わないでいる時に ふとギュスターヴは先ほどの会話を思い出していた
なんとなく日記を読み返していた
集会所ではゼロとトビーとテンプスが色々と話をしていた
トビー「それで 今日は3人 いつも通り髭剃りだけ」
16歳になったトビーは 背もだいぶ伸び 声変わりもし ずいぶん大人びてきた
リドルフォから教わり 今では彼と店に立つようになったトビーは 現在ひたすら髭剃りをして腕をあげていた
再開したコリンズ理髪店はトビーの願いで看板の名前をそのままにしていた
いつかギュスターヴが来る時に 名前が違ったらわからないだろうからと彼は言っていた
テンプス「私は髭生えないからな…もしあったら君にやってもらっただろうな」
ゼロ「生やしてあげようか」
テンプス「それだと練習し放題ですね」
トビー「ちょっとやってみたい…」
今は幸せだというトビーを見て 彼女たちは安心していた トラウマの象徴である剃刀も 問題なく持てる
トビー「…ピレリさんが大切にしていたケース…いつか僕の剃刀を作ったら このケースの中に一本入れようかと」
トビーの部屋には 大切そうにケースが飾られている 絶対に暖炉の上には置かないように…
理髪の腕は確かな人たちだった トッドもピレリも その部分だけ今では尊敬している
壁の向こうの友人たちはトビーにとって心の支えだった テナルディエですら この部屋の影響も少なからずあるだろうが 彼に対して元気付ける言葉を言うこともあった
トビー「テナルディエ…大丈夫でしょうか」
ゼロ「大変だろうけど 生きてはいるはずだよ」
パリでのテナルディエは 決していい状況とは言えなかった 仕事はほとんど見つからない 家もない 冬の近づく時期であったために 余計辛かった
破産して金はなんとかパリへたどり着ける程度しかなく 育ち盛りの子を抱える一家は 毎日生きるので精一杯だった
飢えて死ぬか 寒さで死ぬか
先のことを考える余裕ができず 毎日なんとか金を手に入れ 食べ物や衣服に変え また金を集め…
運良く仕事を見つけても 数日凌げれば運がいい方だった
元々貧乏の知恵はあるのか やりくり自体はうまかったが ほんの少し助けになった程度だった
家族全員 死なせないように とにかく足掻くしかなかった
なんとか寒さを凌げる場所に入れるようになったおかげで その冬は越せた
そして出会いから9年の3月 ようやくレ・ミゼラブルの壁が繋がった
そこから出てきたテナルディエは 生活の苦しさをその身で表すような様子で 非常に疲れていた
トビー「テナルディエ!」
心配そうにトビーが駆け寄る
何も知らないがゆえに心から心配するトビー
成長したトビーを見て 時の流れと それでも変わらない集会所という空間を感じ 安堵していた
ここだけはいつでも 心を穏やかにしてくれる 荒む心を癒す
テナルディエが折れてしまえば 一家は途方に暮れる 彼は一家の指針だった どれだけ悪人であろうと 一家にとっては必要な存在だった
トビー「また会えて嬉しいです そうだ!僕 今理髪師の仕事をずいぶん任されるようになったんです 座ってください 綺麗に剃ってみせます」
急いで自分の世界に戻り 道具一式を抱えて戻ってくる テナルディエは返事こそしなかったが 大人しく座っていた
刃物は持っているので 髭は剃ってはいたが ここ最近では切れ味も落ちてやっていなかった
トビー「いつもどんな刃物でお髭を…あぁ あとで研ぎますよ それくらいなら問題ないはずです」
テナルディエを助けすぎることは 結果彼らのためにならないとトビーも聞かされてはいた
けれどせめてこれくらいはと クリームを泡立てる
ティナ「…昔ピレリにも ここで」
トビー「そうなんですか?」
ティナ「ここは少しこないだけで異様に懐かしくなる 何もかもそうなる あいつの力のせいで…」
トビー「…僕はゼロのこと嫌いじゃないです おかげでみなさんと会えました…さ 喋っていると危ないですから…」
トビーのやり方は ピレリを思い出す つまりはリドルフォのやり方なのだろう
綺麗に剃り終わった後 トビーはテナルディエの持っているナイフを研ぐ 剃刀ではなかったが今の彼に複数の刃物を持ち扱う余裕はないのだろう
穏やかな集会所での時間
けれどもう戻らなければならなかった
トビー「僕はきっとあなたの助けになれないけれど…僕でよければいつでも 理髪師としての仕事はしますよ」
笑顔のトビーに見送られる
救ってくださる神様は 天にはいなかった
壁の向こう側で 自分を友と呼ぶ存在が神だと 誰も知らない
全部決められた人生なら
ゼロ「君たちは 自分が物語のキャラクターだとかそういうことを考えずに生きればいい 運命は君たちの選択の先に…」
ティナ「約束は 忘れてないだろうな」
ゼロ「もちろん これは絶対だ 唯一変えられる運命は 君の選択次第で変わる」
テナルディエは外ではその名前を名乗らなくなっていた 普段はジョンドレットといった 家族もみんな 名字をそれにしていった
やがて彼は複数の名を名乗るようになる
しかし普段はジョンドレットだった 名前を隠すならこれだとだけ説明し それ以上は友人たちには伝えなかった
元々狩猟の腕があり 密猟などもしていたが パリではその銃も売った もはやなりふり構わずやるしかない 1スーでも多く そして確実に
それでも時計だけは手放せなかった これを失うと いよいよ自分は 何も失うものはないかのように どんなこともできてしまいそうになる
その方が いいのだろうかと思う日もあったが 死んではならない 捕まるわけにはいかない 悪事に手を染めるが うまく逃れる
その点 壁は非常に役に立った 路地に逃げ込み 壁を繋げ 中に入る 追いかける側からすれば 袋小路に入り込んで追い詰めたと思った相手が消えている
どんな手を使ったかなんてわかりはしない 誰が壁の中に入れるなんて考えるだろうか
それに壁は内側からでも場所を変えることができた
全ては想像 思った場所 それだけ
ゼロ「悪用してるじゃん!!」
ティナ「悪用なぁ…ならもう奪うか?」
ゼロ「しないけど…あまりそれに甘えてちゃ今後が…」
ティナ「どのみちしばらく同じ場所にいるなんてことはねぇよ まだ借りてないとな?」
ゼロ「うーん…まぁ制限つけなかったのは私だけど…」
テナルディエがそれをどう使うかは彼に委ねている こうなることは予想できないことではなかった ゼロ側にも多少問題はある
犯罪行為を肯定したいわけではないが 止めることもできない
彼の家族の命もかかっている
ゼロ「…まぁ捕まらないように 上手くやりなよ」
ティナ「忠告どうもゼロ じゃあな」
テナルディエが去った後 ゼロは扉の上に揺れる年数を見る
ゼロ「まだ捕まらないし 誰も死なないにしてもさ…」
パリでの彼の物語は まだ先の話…
END