第1章
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星の読み方がわからない。
天文学は影の薄い科目だが、これも必須科目だ。O.W.L試験は夜中にあり、星を読んで問いに答える必要があるのだが、私はまだ望遠鏡ひとつまともに覗けずにいた。
星を見るなんて、小学校のころぺらぺらな紙とプラスチックの何かをクルクル回して以来だ。もうあのアイテムの名前すら覚えてない、星見版?星座版?そんな名前だった気がする。あれをクルクルしてたときだって星の位置は全然わからなかった。東京の空に星が少ないせいだと思ってたけどこのホグワーツではそんな言い訳はできない。
夜、夕飯を取った後8時ごろから私は1人で天文台に登った。マフラーとマントをしっかり着込んで、友達に教えてもらった望遠鏡のコツを頭で復習しながら小さなレンズを覗いた。
「うーーー寒い」
4月でもホグワーツの夜はとても寒い。かじかむ指を擦り合わせながら望遠鏡を覗き、焦点距離や光の絞り具合を調整した。しばらくそれと格闘して、ようやく月をはっきりと見ることができた。
「すごい、月面のでこぼこまではっきり見える」
1人だとどうにも独り言が増える。ぶつぶつと言いながら、私はすっかり星の位置うんぬんより星そのものを見るのに夢中になった。月の表面とは、こんな小さな望遠鏡でも見られるのか。もっと大砲みたいにでかいものでないと見られないと思っていた。
少し首が疲れたなと思って上ではなく下を見下ろしたら、誰かが真っ暗な誰も居ない校庭を横切って暴れ柳に歩いていくのが見えた。興味本位で望遠鏡の角度を変えてその人物を見れば、思った通りリーマス・ルーピンとマクゴナガル先生だった。
「そうか、今日は満月だから……」
大変だなと思いながらその背中をじっと見つめた。マクゴナガル先生が杖を振ると暴れ柳は暴れるのをやめて枝をだらりと垂らす。2人が根元の穴に消えてしばらくしてからマクゴナガル先生だけが出てきて、木から離れてまた杖を振った。暴れ柳は名前の通り暴れ始めた。
私はまた星を見上げて、今度は真面目にその位置を羊皮紙に書き込んで首をひねった。これがあっているのかどうかわからない。明日、スネイプ君に採点してもらおうかな。
そう思っていた時、また校庭を横切る小さな点が見えた。今度は誰だろうと望遠鏡を覗いて、それがスネイプ君だと気づいてハッとした。
セブルス・スネイプがリーマス・ルーピンの人狼の秘密を知るのは今なんじゃないだろうか?シリウスが暴れ柳をおとなしくさせる方法を教えてそそのかしたせいで、スネイプが人狼に噛まれそうになるイベント。間一髪のところでジェームズが助けにくる、そのはずだけど、果たして本当にそうなるのだろうか。
どこまで、あの小説を信頼していい?
私は部屋の隅に立てかけてあったホウキを引っ掴んでそれに跨った。飛べる?飛べるのかな、私。ホウキの必修授業は1年にしか無いから、私は飛んだことが無い。怖い。このサマンサって子はホウキが下手だったとスネイプ君言っていた気がする。この天文台は随分高い、ビルで言ったら何階くらい?もし飛べなかったら即死?
ああでも待って、スネイプ君がもう暴れ柳まで着いてしまった。周りを見ても牡鹿の影は見えない。
「スネイプ君!」
精一杯声を張り上げるけど届かない。暴れ柳が動きを止めて枝をだらんと垂らした。きっと木の根元のこぶを、魔法で押したんだろう。心臓がばくばくと音を立てている気がした。
私はいろんなことをやらないでいる。保身に走って、知識を何も使わずにいる。もしそのせいで今、目の前で彼が狼人間に噛まれ、一生がめちゃくちゃになったとしたら、私はそれに耐えられる気がしない。
大丈夫、ホウキなんてそんなに難しい事じゃないはずだ。ハリーは映画で、一発目からすんなり乗ってたしいけるんじゃない?自転車みたいなもんでしょ?
「大丈夫!私は魔女!魔女のキキ!」
魔女だけどキキではないと誰かに突っ込んで欲しいところだ。ホウキに股がったまま床を蹴って前に飛び出した。柵を乗り越えて宙に浮いて、意外といける?と思ったのもつかの間、体がぐんと地面に引き寄せられる。
「わああああまってまってまって!死ぬ!死ぬ!」
声を出して恐怖心を和らげながら、私は必死でホウキを握りしめた。
「むりむりむり!浮いて!止まって!」
ぎゃあぎゃあと叫びながら落ちてくるように降りてくる私にスネイプ君が気付いたけど、もう私はスネイプ君を見る余裕は無かった。目的の場所と随分逸れながら、校庭に雑多に生えている木に突っ込んだ。
ああ、ネビルの気持ちが今ならわかるよ。賢者の石の時、怖かったね、君も。
「な、何してるんだ!」
ガサガサと足音が聞こえて、驚いた顔のスネイプ君がこっちに来た。もう身体中をあちこちに打って声も出せない。アドレナリンなのかなんなのか、体の痛みはあまり感じなかったけどどう考えてもどこか折れてる、絶対。それから背中だか胸だかをどこかに強く打った気がして、息が出来ない。自分の状態を直視できなくて、怖くて目も開けられなかった。どうしよう、骨とか飛び出してたら。開放何とか骨折って、医療ドラマで見たことがある。
「おい、生きてるか!い、今マダム・ポンフリーを呼んでくるから……!」
私は1ミリだけ首を縦に動かした。スネイプ君が立ち去ろうとした時、遠くから違う声が聞こえた。
「こっちですマダム・ポンフリー!」
ジェームズ君の声だった。ああ、別に私が死ぬ気で飛び降りなくても、やっぱりジェームズ君がスネイプ君を止めていたんだ。それを察して思わず笑ってしまった。
「スネイプ、くん」
「っ、なんだ?」
「危ないから、あの先には行っちゃダメだよ……」
骨折り損のなんとやらと、そんな言葉が浮かんだ。
「なんで……君がそんなこと、知って……」
スネイプ君の動揺した声をかき消すように、ジェームズ君とマダム・ポンフリーが現れた。
「まぁ、なんて、まぁまぁまぁ!保健室に移動する前にここで大きな怪我を治しますよ、良いですか、痛みますよ、舌を噛まないで!」
マダム・ポンフリーがそう声をかけて、私の体に治癒呪文を唱えた。
「ぐ、ぅぅ……!」
タラバガニの大きな関節を、力づくで折り曲げるかのように、追加で骨が折れたんじゃないかと思う嫌な音がして、信じられない程の激痛が走った。さっきホウキで落ちた時は興奮してたいした痛みは無かったけど、今度はそうはいかなかった。
「い゛、いだぁい……」
「当たり前です!こんなに全身骨折して、いったい何をしたんですかあなたは!」
「ごめんなさぁい……」
28歳、怪我をして保健室の先生に怒られて泣きました。
それからスネイプ君とジェームズ君に見守られながら保健室に行き、マダム・ポンフリーから残りの治療を受け、とびきり苦い薬を飲んだ。これが例の骨生え薬だろうか、やったね。
「……いやぁ、ごめんねお騒がせして。天文台で星見てたらホウキがあったから、ちょっと試してみたくなっちゃって」
「正気か君、自殺願望でもあったのか?」
ジェームズ君は呆れた顔で私を見た。
彼は私が普通に体を起こしているのをみて、もう興味が無さそうに席を立った。リリーの友達だから一応無事を確認したというところだろう。「お大事に」と最低限の挨拶をして去っていった。
スネイプ君はずっと何も言わずに唇を噛んで、ベッドサイドに座ったままだった。
「……スネイプ君?」
「……なんでこんな事をした?ホウキで飛んだ記憶もないんだろう?飛び方も知らないはずだ!天文台から飛び降りたらどうなるかなんて、いくら馬鹿な君でもわかったはずだ!」
「……うん」
「おまけにどうして僕がやろうとしていたことまで知っていた?どこまで何を知っている?君は、君はいったいなんなんだ?」
「そんないっぺんに言われても質問を覚えられないよ……」
君ほど頭が良くないんだ、私。あとさっき飲んだ骨生え薬のせいでまだあちこちが痛い。
「……スネイプ君に何かあったらどうしようと思って、いけるかなと思ったんだよ。一応魔女だし。まさかこんな真っ逆さまに落ちるとは思ってなくて、心配かけてごめんね」
「ちっとも質問の答えになってない!」
スネイプ君は椅子から立ち上がって声を荒らげた。いつも冷静な君らしくなくて、私は申し訳なくなった。そりゃそうだよね、知り合いが塔の最上階から飛び降り自殺ばりに落ちてきて、目の前で死にかけて、君のためなんて言われたらパニックにもなるだろう。
「……ごめんね、怖がらせて」
「謝罪はいいから、質問に答えろと――!」
スネイプ君の声が大きくて、どこからともなくマダム・ポンフリーが飛んできた。
「ここは保健室です!お見舞いならまだしも患者に声を荒らげるなんて言語道断、そういうのは怪我が治ってからにするように!さぁ、あなたはもう寮に戻りなさい、間もなく消灯時間です!」
まだ不満気なスネイプ君だったけど、マダム・ポンフリーに追い出されるように保健室を出ていった。それから私もまたマダム・ポンフリーに小言を言われて、その日は保健室に泊まった。
翌朝からはまた普通に授業を受けられるくらい回復したのだから本当に魔法には驚かされる。
その日の放課後、私はスネイプ君に捕まって空き教室で質問責めを受けていた。
「なんで天文台から飛び降りるような真似をしたんだ!」
「いやそんな……深く考えてた訳じゃないよ」
「僕が何をしようとしてたのか、わかってたのか?」
「何となくだよ、上から見てて、リーマス君とマクゴナガル先生が入っていくのも見てたから……」
私はしどろもどろで、スネイプ君は納得がいかないという顔をしてずっと怒っていた。
「あの、暴れ柳の根元の先がどうなっているのか、中に何があるのか、君は知ってるのか?」
そう聞かれて、なんていったらいいのかわからなかった。知らないと言えばスネイプ君はまた見に行ってしまうんだろうか。そうしたら今度こそ人狼に噛まれてしまうのではないか。でも知っていると言って本当のことを教えたら、なぜ知っているんだと問い詰められるに決まってる。
「わからないけど、きっとその危ないから、行ってほしく無くて……」
「そんな曖昧な理由で君はあそこから飛び降りたのか?触ったこともないホウキで?」
心配されて怒られるというのは、いくつになっても居心地が悪いものだ。
「……っ、死んでもおかしくなかった……!」
「大丈夫だよ、今は生きてるし、たった一晩で退院出来ちゃったし」
スネイプ君はまだ怒りを燻らせて私を睨んだ。私はなるべく優しく笑って、誤魔化すようにスネイプ君の手を握った。
「心配かけてごめんね」
「……もう二度とやるな、二度とだ」
「うん、わかったよ」
「自分のせいで人が死ぬなんて……気分が悪い」
「……そうだね、ごめん」
スネイプ君は唇をキツく噛んだまま、きっと癖なんだろう。たまにこうしているのを見かける。自然と、私は手を伸ばして乾いた唇を軽く撫でた。
「唇、噛んじゃだめだよ。癖になっちゃうから」
スネイプ君が怯えるように私を見る。
「心配してくれてありがとう」
すり、と頬を撫でればスネイプ君はようやく体の力を抜いて、逃げるように顔をそむけた。
「君は……死にたいのか?」
もしかしたら飛び降り自殺かもと、そう思われているのだろうか。いやいや、そんなことするわけないじゃんと、軽く返事をするにはあまりにも彼が真剣で、私は慎重に言葉を選んだ。
「……スネイプ君は?死にたいの?」
「……たまに、そう思う」
「そう……」
16歳、そういう多感な年頃だ。私だって、そんなに深刻でなくとも自殺願望のひとつやふたつくらいあったかもしれない。死んだら人はどうなるんだろうとか良く考えていた。普通の家庭で普通に育った私ですらそうなのだ、スネイプ君には毎日がもっとどんよりと暗く見えるんだろう。きっと未来も不安だろう。
「少し座ろうか」
教壇の20センチほどの段差に腰かけて、彼にも隣に座ってもらって、前を向いたまま手をつないだ。
「死にたいなってさ、思うことあるよ。衝動的なそれじゃなくてさ、自分が生きてる理由あるのかなって。いっそ死んでみたら、何かが変わるんじゃないかなって。なんかさ、わかる?こう……本気で死にたいわけじゃないのよ」
「……説明が下手だな」
スネイプ君がそう言って鼻で笑うから、私も少し笑って、手を握り直した。彼の指がほんの少し動いて、私の手を握り返してくれたから、それがたまらなく嬉しかった。
将来の夢はなんですか。愛する人を作りなさい。学生の友は一生の友になる。希望を持って歩みなさい。どれもきっと、子供にはそう思って生きていて欲しいという大人のエゴだ。子供にだけ無限の可能性があって、自分にはもうそれが無いからと未来を託す。それが悪いとは思わない、正しいと思う。でもそれが、子供心に苦しくなる時がある。そういう時期を、きっと思春期と呼ぶ。
「死ぬのはさ、いつでもできるから。生きるのって疲れる。生きるってのは、まずはそう、ご飯を食べておいしいなと思う。面白い本を見つければ、それが嬉しいと思う。好きな子と目があえば、幸せだなと思う。朝すっきり目が覚めると、なんとなく気分がよくなる。そういうことの積み重ね。すごく平凡」
平凡でいい。平凡で、そのままで。それが少しでも、名をあげることより魅力的に思ってもらいたい。死食い人に、ならないで欲しい。
「向上心が無いな」
「ふふっ、あってもいいけど、生きることとは少し方向が違う気がする。なんていうかさ、わかる?向上心は、たまに人を殺すから」
――絵を。最高の絵を。人を黙らせるほどの作品を。誰もがうらやむ才能を。たとえ悪魔に魂を売ってでも。
学生時代、そう思っていたのは自分なのに。その時の自分に、さっきの私の言葉は響くだろうか。
あの頃の焦燥と情熱を、少し懐かしく思う自分もいる。もうあの時のようなエネルギーを、絵に注ぐことはできない。私はきっと、強すぎる憧憬と引き換えに平凡を受け入れ、今、生きる喜びを感じている。
あぁ、この世界で私がどうしてもスネイプ君にこだわってしまうのは、彼が昔の自分と少し重なるからなのかもしれない。真面目にやってきたのに、欲しいものは手に入らなくて、不器用に腐っていくその生き方が。そう思うと途端に彼が愛おしくて、苦しいほど強く抱きしめたいような気持になった。代わりに左手をぎゅっと握りしめて、彼の手を潰した。
「……まぁ、私はスネイプ君に死んで欲しくは無いってこと」
「……天文台から飛び降りたのは君だろう」
「あれはまぁ、本気で飛べると思ったんだよ」
「それなら君はただのドジで死んでいくつもりか」
「それはほんと……反省してる」
「とてもそうは見えない。君はいつも……死にたがっている」
そんな事ないよと言おうと思ったけど、彼からそう見えるならそれも正しいのかもしれない。
「何でそう思うの?」
「蛇の時も、昨日も。君は死にそうな時に笑っていた」
「……そうだっけ?」
あまり自覚がなかったけど、言われてみればそうかもしれない。どっちの時も、死にかけたとき、目の前に君がいた。
「どっちもきっと、君が心配してくれたからだよ」
私の答えに納得がいかなかったからなのか、スネイプ君は不機嫌そうに黙った。
「ほんとだよ?」
「君の言葉はすべて嘘くさい」
「えぇ待って、ほんとに?そんな風に思ってたの?」
「まずはそのへらへら笑うのを止めろ」
「いや逆にスネイプ君が不機嫌すぎるからね?君の分まで笑ってるだけだから」
「面白いこともないのに笑う方が失礼だ」
「嘘、私のこと失礼な女だと思ってたの?」
「ちがったか?」
「君が失礼だな!」
気取ったように鼻で笑う彼が、自分の楽しそうな表情を見せまいと横を向くのが可愛い。ただ楽しくて、この世界に来てよかったなと思った。
その後、天文台は放課後出入りが禁止になった。あそこはカップルの良いデートスポットだったので、私のせいだとばれないように素知らぬ顔をした。
O.W.L試験まで一ヶ月を切り、みんないよいよ切羽詰まって勉強をし始める。睡眠中に夢の中で歴史を読み上げる催眠人形が流行ったり、集中力をあげるという魔法薬が出回ったり、先生に絶対バレないというカンニングペーパーを売り出す上級生が居たり。
私はいつものように図書館の定位置で勉強して、スネイプ君も毎日そこに来た。ほとんどの時間、私たちは真面目に勉強した。
大学受験の時の、予備校の自習室のようだと思った。家で1人で勉強するより隣で勉強している誰かが居ると集中ができる。ちょっと疲れたなと思って顔をあげると、横で真剣に教科書の小さい文字を追いかける君がいるから、私ももう少し頑張ろうかなと思う。
ホグズミートで少し美味しいチョコレートのお菓子を買って、二人の間に置いて、頭が疲れたらそれを食べた。バレンタインの時ほど、高級なそれではないけど。スネイプ君は多分、お小遣いというものを貰っていないんだろう。私は困らない程度には貰っていたので、いつもちょっと多めに買ってスネイプ君にあげた。
最初は要らないと言われたけど、そもそも私はクラウチ家の娘という実感はないからこれはほぼ他人のお金だと自己本位な理論を展開したら、スネイプ君は面倒になったのか誘惑に負けたのか、チョコレートを食べるようになった。
最後の一粒に手を伸ばして、2人で顔を見合わせた。
「あ、どうぞ」
「そもそも君が買ってきたんだから君が食べればいい」
「いや、でも私さっきから食べ過ぎてるし、これ以上食べたらほら、またにきびができちゃう」
「今更だろ、それこそ」
「そこはそんなことないよ可愛いよって否定するところだよ」
「君の外見を褒めても意味が無いだろう、別人なんだから」
「……前から不思議に思ってたんだけどさ、どうしてスネイプ君は私が別人だと思ってるの?」
「……は?君がそう言ったんだろう」
「そうだけど……そうだけどさ……」
何ひとつそれを証明できないのに、どうしてそう言い張り続けることができるだろう。
「なまえ」
それは本当に唐突で、まったく予想していなかったことで、完全に私の意識の外側にあった。
「なまえ・みょうじ」
青天の霹靂といいますか、白黒の文字ばかりの本に急に色鮮やかな挿絵が入るような、何の備えもない手のひらに突然大切な宝物を渡されたような、そんな瞬間。
「……名前を呼ばれて泣くほどの人間が、本人以外にどこに居るんだ」
「……うん」
彼は私の顔を見ないようにそっぽを向いて、最後に残ったチョコレートを突き出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
口に入れたら舌にまとわりつくような甘みが広がって、すぐに形が曖昧になった。
「スネイプ君、スラグホーン先生との面談もう終わった?」
「いや、まだだけど。君は?」
「私もまだ」
気を遣わせないように話題を変えて、椅子の背もたれに体重を預けた。
「スネイプ君はもう進路決めてる?」
「……いや」
「魔法薬学の先生は?」
「またそれか」
スネイプ君は呆れたように私を見た。
「君は?もう決めたのか」
「ううん、まだ」
「元々……何をしていたんだ?働いていたのか?」
ああ、そっか。私がどんな人間か、彼は何も知らないのだ。正直、黙っておきたいなと思っていた。顔が見えない分楽なところがあった、ちょうどコロナ禍のマスクのような。でもずっと隠し続けるのは少しずるいだろう。私は目の前の事象以上に、彼のことを詳しく知っているのに。
「うん、働いてたよ。もう28歳だったからね」
「28……結婚、子供は?」
「いないよ。独身」
辛い。何だか猛烈に後ろめたい。
「仕事は、小さいIT企業で、主にサイトを作るプログラマーをしてた。コーディングって言うんだけど……まぁ、うん。なんのこっちゃって感じよね、わかる」
パコソンすら見たことの無い彼にその説明をするのは難しいなと思いながら、斜め上を見て言葉を探した。
「私は1997年に生まれて、こっちに来るときは2025年だったから今より少し先の未来だね。そこではもうパーソナルコンピュータがとても普及していてね、小学生でも一人一台持ってるような、そんな時代。パーソナルコンピュータっていうのはね、うーん、自分でいじれるテレビみたいなやつだよ」
私はそう言いながら、計算用のメモ書きの羊皮紙に、さらさらと小さなノートパソコンやタブレットのイラストを描いた。今はまだ1976年、PCはデスクトップ型だって普及してない時代だ。私の説明はちんぷんかんぷんだろうなと思いながら、それでも説明した。
「こんな感じの小さい持ち運べるパーソナルコンピュータが、いつ頃だろう……多分2000年くらいに出てくる。もうちょっと後かも。でもあっという間だよ、マグルの世界は急激に変わる」
私が書く小さなイラストすべてを、スネイプ君が目を丸くして見ているのが可愛かった。
「インターネットっていう、うーん、説明が難しいな、電子情報の網みたいなのが、パーソナルコンピュータの普及と一緒に当たり前になる。ほら、電話はさ、音声だけを遠くの人と繋げるでしょう?あんな感じで、文字、写真、映像も簡単に世界中の人と共有できるようになるの。プログラマーってのはね、そのインターネットの中で、情報を見やすく書き換える仕事。パーソナルコンピュータに、専用の言語で指示を出すの。ふふふ、ごめん、ちょっとたくさん話しすぎたね。わけわかんないよね」
なるべくわかりやすいように絵を描きながら話したけど、自分で見てもあんまり良い説明じゃないなと思った。
「……随分専門的な分野に思える」
どこまで分かったかわからないけど、スネイプ君はぽつりとそう言った。
「うん、割とそんな感じ。それすらも今はAIにとって代わられようとしてるけど、あ、AIっていうのは簡単に言うとロボットね。自分で考えることができる機械の脳みそ。まぁそれはうん、ずっとずっと未来の話だよ。でもきっといつか、スネイプ君も生きてるうちに見ることになると思うなぁ」
そうであって欲しい。ナギニに噛まれて死ぬような、そんな未来は来ないで欲しい。
「……君は、じゃぁ、未来から来た人間ってことなのか?」
「さぁ、私にもよくわからないよ。それは。私は、元の世界に魔法は存在していなかったように思うけど、マグルだったから知らないだけかもしれないし」
そう言いながら今度はホウキに乗って飛ぶ、女の子の絵をかいた。頭に大きなリボンをつけて、肩に猫をのせて、ホウキの前に荷物をぶら下げて。
J.K.ローリングさんが本物の魔女で実は本当にあった魔法界の近代史を本にしたわけじゃないのなら、私が居た2025年の東京と今ホグワーツが存在しているこの世界は、同じ世界ではないだろう。もしあちらの世界にも魔法のような超常現象があったとしても、きっともっと違う形だ。
「内緒だよ、全部。頭がおかしくなったと思われちゃうからね」
スネイプ君は理解できないという顔で、私の顔と絵を交互に見ていた。私は少し笑って、新しい羊皮紙に今度はスネイプ君の絵を描き始めた。散々見てきた二次創作の絵、私もちょっと書く側だったけど、その時のイメージより目の前のスネイプ君はずっと大人びて見える。一人前の、一人の男の子。
「絵を描くのもね、好きだったんだ。こっちは仕事じゃないけどね。でもたまには仕事でも書いてたよ。WEBページにイラストアイコンを要求するお客さんもたまにいたからね」
まぁこんなこと言っても何が何だかわからないだろうと思いながら、でもちょっと楽しくなって羽ペンをせっせと動かした。まる1年ぶりにする仕事の話も楽しかった。
「……ならそれを仕事にしたらいいじゃないか」
「うーん、絵はあんまり仕事にしたくないなぁ」
スネイプ君が杖を振ったら、さっき羊皮紙に落書きしたキキがアニメのように絵の中を動き、目の前を危なっかしく飛んでいた。私はびっくりしてそれを穴が空くほど見つめた。
「……え、すごい。魔法みたい、なにこれ……」
「別に動かすのは大したことじゃない、絵が描ける方がその……すごいと思う」
キキは羊皮紙の縁にゆっくりと降りて、ホウキから荷物を取った。ジジが足元を歩いて、キキがその後ろをホウキを掴んで転びそうになりながら追いかけた。まるで、本物のジブリのワンシーンのようだった。キャラクターに命が宿っている。やがてキキとジジはもともと自分が書かれていたあたりまで歩いていき、ぴたりと動かなくなった。
私はぽかんと口を開けて、真剣に自分が書いたキキの絵を見た。しばらく見ていたら、キキは少し恥ずかしそうに私に手を振った。
「こういう、絵を仕事にしている人もいる。マグルとは違うんだ、魔女や魔法使いが絵を書けば、絵に魔法が宿る。……常識だ」
「うわー、すごい、夢みたい……。スネイプ君すごい……」
自分が書いた絵が勝手に動いてくれたらいいのにと、それを願ったことがない描き手はいないだろう。とんでもないものを見てしまった。今私はとんでもない人類の夢を叶えてしまった気がする。
「いやだから、別に動かすのはそんなに難しい事じゃないと言っただろう」
そう言ってスネイプ君は少し気まずそうにして、私の手元をチラッと見て固まった。
「あ、ごめん。書き上げちゃうね」
私はそう言って、目の前のスネイプ君を見ながら落書きのようなスネイプ君を書き上げた。百万回くらい書いてきたから、こんなものはふぉふぉいのふぉいさ。今は彼の人となりも本当に知っているから、まるで魂の形まで簡単に吹き込めるような気がする。まぁただの錯覚だ。
羊皮紙に書いた上半身だけのスネイプ君はすぐに動き出して、少し神経質に自分の手を見た後、私を見て小さく笑って照れるようにその口元を隠した。
「えっ、うそっ……!かっ……わいい!」
「っ、変な絵を描くな!バカ!」
目の前の本物のスネイプ君が焦ったようにそう言って羊皮紙に手を伸ばしたけど、私はパッとその羊皮紙を後ろ手に隠した。
「ダメだよ、こんなにかわいいのに!……もう本当に、可愛すぎる!ときめきが収まらない!」
「なっ、ときめ……!い、いい加減にバカなこと言うな!」
「どうしよう、勉強なんか手につかないよもう!百枚くらい君の絵を描きたい!君の絵と結婚できる!」
「絶対にやめろ!」
スネイプ君が顔を真っ赤にしながら手を伸ばして慌てるから、私はもうすべてが楽しくて仕方がなかった。図書館だからお互い小さい声でバタバタと控えめに暴れた。ホグワーツに来て1年がたって、こんなに楽しかった瞬間はない、心が躍ったこともない。嬉しすぎて胸がいっぱいで呼吸が苦しい、もうなにこれ最高。私魔女になって良かった、魔法にスタンディングオベーション。
思わず目の前のスネイプ君に力の限り抱き着いた。
「く、くるしい……」
「今だけ!ちょっとだけ!」
もうたまらない、好きすぎる大好き。キャラクターとしてのスネイプ君も、今目の前にいるスネイプ君も、どっちも好き。生命とは、現実とは、命とは、存在とは。小説の世界に来てしまってそんなことを延々と考えていたけれど、そんなものをどうでもいいと吹き飛ばしてしまうのが愛の力かもしれない。なんて。
「君に会えてよかった、スネイプ君!魔法界最高!」
「い、いい加減にしろ、離せ……」
すりすりと頬擦りしたい気持ちを抑えて私はほぅと夢見心地で深呼吸した。
「魔法って……凄いね……」
「……じゃあ進路は決まったのか」
「ううん、全然」
「……は?」
「いやぁ、絵は仕事にはしないよ。死ぬまで趣味で君の絵を描きたいね」
「……勘弁してくれ」
さすがにちょっとごめんと思いながら、にまにまと笑って口を閉じた。ああ楽しい。
「よし、勉強頑張ろ」
「さっきの絵、絶対消せよ」
「………………うん」
タップリ間を作ってから頷けば、スネイプ君は心底嫌そうな顔で私を見た。世界一可愛い照れ隠しだと思う。
翌週の水曜日、私はリリーとがっちり両手を繋いで、薄暗い禁じられた森の中を歩いていた。きっかけは些細なことだった、魔法生物飼育学の時、私がユニコーンを見たことが無いと言ったら、リリーが見せてあげると言ってくれたのだ。当然、ユニコーンに興味を持った私は二つ返事でついてきた。
ユニコーンはトワイライト、つまり黄昏時によく活動するらしい。その時間に湖に居るから案内するわと、リリーが手を引いてくれた。
「わ、ほんとだ……きれい、本当に輝いてるみたい」
「そうでしょう私もたまに見に来るの。本当に初めて見るの?」
「……うん」
「……誰にも教えてない、秘密の場所よ。あんまり大勢で見るとユニコーンが警戒してしまうから」
リリーにそう言われて、私は少し驚いた。そんな秘密の場所を教えてもらうほど、仲の良い友人になったという認識は無かった。横を向いてまじまじとリリーを見れば、それだけでリリーはふっと笑った。
「……私たち、ユニコーンを見てるわ。3年生の授業で。サマンサ……あなたは幼体のユニコーンを撫でてる」
「……え」
驚いて横を見て、私は固まった。つまりそう、試したのだ。リリーは、私の記憶を。
「あれかな、忘れちゃってたのかも……ほら、私去年、忘却術で馬鹿やったから」
「あのね、サマンサ、私別に怒ったり疑ったりしてるわけじゃないの、本当よ。私、あなたと本の話をするの、とても好き。ただ……知りたかったの」
私はもう何も言えずに、ただリリーの言葉を待った。
「あなたの、シリウスに宛てた恋文、届けたのが私なの……覚えてる?」
「……覚えてない」
「私とあなたは、グリフィンドールとスリザリンだけど、友達だった……。すれ違うことも、多かったけど。……覚えてる?」
「ごめん……」
リリーが悲しそうな顔で笑いながら涙を流し、私はそんな彼女の震える肩を抱きしめた。いつからだろう、いつから私は彼女を傷つけていたのだろう。今年、ホグワーツに来るときのコンパートメントで、私はまるで初対面の様にリリーと接した。知り合いでも、ましてや友達なわけがないと思った。リリーも、そんな私に合わせていたし、今日この日まで私は何の疑問も持たなかった。
「忘れてしまっているのね、サマンサ……っ」
「ごめん、ごめんねリリー……」
こういうことを、考えなかったわけでは無い。つまり、私はサマンサ・クラウチという女の子の体を乗っ取っているわけで、私がここに居るせいでサマンサは消えたことにすら気付いてもらえない。私がサマンサ・クラウチを演じることで、本物のサマンサは探してもらうことすらないのだと。
こちらに来てすぐ、憑依と降霊、その違いをスネイプ君に教えてもらったことを思い出す。
――憑依だったら私のせい、降霊だったらサマンサ、もしくは第三者のせい。
こんなことを思うことすら、どうかしている。私は人を殺したようなものだ。
「ごめんね……今まで黙ってて」
「ううん、あなたにもいろいろあったんだと思う……シリウスが酷いことをして、あなたが塞ぎこんでるとは聞いてたの、でも私、なにも出来なくて……!私が謝ったところで、あなたの気を悪くさせてしまうだろうと思ったの。でも、でもそしたら……そしたら……」
「そしたら、そうだよね、うん。……私が、まるで初対面みたいにあなたに話しかけたんだよね」
私がリリーに、魔法界出身なの?と聞くなんて、とんでもないバカげた質問だったわけだ。自分の失態を思い出し、思わず唇を噛んだ。
「ごめんね、リリー。こんなこと言っても、信じてもらえるかはわからないんだけど……私本当はサマンサ・クラウチとしての記憶、ひとつも戻ってないの」
「……うそ……ひとつも?」
「ごめん……でもこれ以上、あなたに嘘をつくのは誠実じゃないと思って……」
「……記憶喪失の、ままってこと?」
「………………うん」
長い沈黙の間で、現代の記憶のことを打ち明けるか、とても迷った。ただの記憶喪失と、別人とでは、受け取り方は大きく変わるだろう。記憶喪失なら、たとえどんなに別人のように見えても本質的にサマンサ本人だ。でも別人であれば、それがどんなにサマンサに似ていても、いや、サマンサになり切っているからこそ、友人として拒絶は大きいかもしれない。
それでも、私は彼女に言うべきだ。――獅子寮の彼女に恥じないよう、自分が正しいと思う行いを。
「ごめん、やっぱり嘘!私、記憶がないわけじゃないの、私、別人としての記憶があるの……」
「……別人?」
「そう、話せば長くなるんだけど……ねぇちょっと待って、リリー」
勇気をもらおうとユニコーンの姿を一目見ようとして、その違和感に首を傾げた。異様なほど、辺りが暗い。
「私たち、そんなに長くここに居たっけ?今って、何時だっけ?」
この春の季節、イギリスの夕方は長い。7時も8時もまだ明るくて、9時になってようやく日が傾く、その程度のはずだ。6時ごろからリリーとここに来たから、今はせいぜい7時くらいなはずなのに、もうユニコーンがいるはずの湖すら暗くて見えない。瞬間、リリーがハッとして上を見上げて太陽を探した。
「……エキドナだわ」
リリーの指がカタカタと震えている。
「エキドナ……?」
聞き返す私の声も震えている。この場を支配する、異様な暗さ、音の無さ、空気の動かなさが、本能的に死の危険を告げていた。
「音を出してはいけないの……。クワイエタス 静まれ」
リリーが杖を振ると、私たちの足音が消えた。それから急速に、隣にいるリリーの輪郭さえ捉えられないほど、暗闇が濃くなっていく。私はリリーを見ながらゆっくり頷いた。つまりそう、唐突なホラー映画が始まったってことよね?音を出してはいけない系の。
そして私とリリーはがっちりと両手を強く繋いで、這うように遅く森の中を進んだ。お互い一言もしゃべらないまま、じっとりと手汗をかいて、片方の足が動かなくなったら片方が引っ張る。風が吹いて木の葉を揺らす、それだけで立ち止まってひっしりと両手を握り合い、頭の中で秒数を数えた。道もあいまいになりながら、地面の質感を確認しながら進む。もう、目を開けても閉じても視界が変わらない。
隣に居て手を繋いでいるのが本当にリリーかわからない、そのくらい何も見えない。一瞬でもこの手を放せば、私たちは互いを見つけることができないだろう。
そのまま時間の感覚もなくなるほどじりじりと、ただじりじりと進んで、急にふっとあたりが明るくなった。
「空間を抜けた……」
疲れたようにリリーがつぶやく。私もその声にほっとして息を吐いた。――その瞬間、急に目の前に大きな影が現れたものだから。
「「きゃーーーーーーー!!!」」
2人で大声をあげながらそれを見て悲鳴を上げた。大男の影はハグリットで、私たちは叫んだあとにそのままお腹を抱えて笑った。
「な、なんでぇお前さんたち!」
「は、ハグリット!脅かさないでよ!」
「もうほんとに、食べられると思った!」
「そんなことよりハグリッド、エキドナよ!」
「あぁわかっちょる、今他の先生方を待っとるところだ。おめぇさんたち以外に生徒はいねぇか?」
「わからない、多分いないと思うけど……私たち、湖畔でユニコーンを見ていたの」
「んだが、無事に戻ってきて良かった。とりあえずほれ、マダム・ポンフリーにホットミルクを貰ってこい」
「ええ、そうするわ」
エキドナの呪いには牛乳が効くのだろうか。マイクラ……などと一瞬頭によぎったのは黙っておこう。
「ありがとう、生きて出てこれたのはリリーのおかげだよ」
「ううん、私がユニコーンを見に行こうなんて誘ったから……それにあなたがとっても冷静だったから、私ひとりじゃとても……とてもあの森の中を歩けなかったわ」
「そんなこと……私も一緒だよ。あんなの絶対一人だったら一歩も歩けなかった」
学園物語からの唐突なホラー映画、ハリー・ポッターみたいじゃない。
「どうしたの?サマンサ」
「今さら思い出して、怖かったなって。ねぇ、保健室まで手をつないで居てもいい?」
「当たり前じゃない、わたしの方からお願いしたいわ。もうダメ、指がカチコチに固まって、離せそうにないの」
誰かが言った、大人になって作るのが難しいのは、恋人より友人だと。
ほんのりと抱いていたリリーへの劣等感なんて、取るに足らないちり芥。友情のためのスパイスのようだと思った。
彼女のことも守ろう、悲惨な未来から。それで一緒にハリーの成長を見守って、みんなで力を合わせてヴォルデモートを倒して、ついでに私の隣にスネイプ君がいれば万々歳じゃない?ご都合主義すぎるかな。でも二人で死の危機を脱した今なら、それが出来ちゃいそうな気がするんだよ。
その日はまるで夏の様に気温が高い日だった。雲ひとつない青い空を、まだ太陽が明るく照らしている。