第1章
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5年生に上がって数か月、私がこの魔法の世界に来てからもうすぐ1年が経つ。
毎朝いつも通りホグワーツで目を覚まし、友人と談笑しながら身支度を整え、朝食を取り、8時45分からの授業に向かう。真面目に午前の授業を受けて、昼食を取ったらまた授業に向かう。夕方4時前に最後の授業が終わり、各々が自由時間を過ごす。私はたいてい図書館に行って、夕飯までをそこで過ごす。課題を中心に自習して、7時ごろいったん寮に戻って教科書などの荷物を置く。その時、自室や談話室に友達がいればその子と、居なければ一人で大広間に行って夕飯を食べる。8時ごろまた寮に戻り、シャワーを浴びて、10時ごろまで談話室で談笑したり、1人ではわからなかった課題を手伝ってもらう。部屋に戻ったら翌日使う教科書やローブを整え、ベッドの中で本を読む。それでだいたい日付が変わる前には寝る。
スマホもテレビもネットもゲームもない生活の、なんと健康的なことよ。ついでにお酒もたばこもない。この生活を続けていたら100歳まで生きられそうな気がする。
「次何だっけ」
「DADA」
「ああそうだ、やだな」
「サマンサってほんとDADA苦手よね」
「知識は興味あるんだけどね、実技が無理」
防衛術と言いながら学ぶのは対人術だ。人に向けて杖を振るのはどうも苦手、例えそれがエクスペリアームズなどの武装解除呪文でも。特別自分が優しい人間だとは思わないけれど、戦闘なんてものとは無縁でありたいのだ。
考えてもみて欲しい。例えば目の前の人間は敵だから全力で殴ってもいいですよと言われたって、ほとんどの人は躊躇うはずだ。そんな当たり前の人間性を、私も持っていたい。やっぱりそう、戦争が人を変えるのだ。戦争反対。リベラルリベラル。ハリーはいかれてる。
教室に入ると、今日は机が全て教室の隅に寄せられて、中央奥に古ぼけたチェストがあった。ああ今日はアレかとひとり納得してそっと人の後ろに隠れる。
「今日の授業はボガードだ、まだ君たちはこれをやっていなかったね。さてボガードが何だかわかる人?」
闇の魔術に対する防衛術の授業で、先生がそう言った。何人かが手を挙げて、グリフィンドールの女の子が指名された。
「はい、ボガードはまね妖怪とも呼ばれ、見る人が最も恐れるものに姿を変える魔法生物です」
「正解だ、グリフィンドールに5点」
それからボガードに対する呪文として、リディキュラス、ばかばかしいと唱える練習をした。
「さぁみんな、一列に並んで――」
先生の声に合わせて、皆が曖昧に列を作る。グリフィンドールとスリザリンの合同授業であるこの時間は、いつもちょっぴりいさかいが多い。肘がぶつかったとか、足を踏んだとか、そんなちょっとしたことでもすぐ喧嘩になる。
「緊張するね」
そんな中で、ひとりぼーっと動く私に声をかけてくれたのはリリーだった。指輪物語で意気投合して以来、私は彼女と顔見知り程度の仲になった。闇の魔術に対する防衛術、魔法薬学、魔法生物飼育学と合同授業は意外にも多く、彼女はいい子だったので拒む理由も無かった。
「うん、ちょっとね……。リリーは、自分のボガードが何になると思う?」
「私は……ディメンターかも。子供の頃、アズカバンの話をセブから聞いて、もうそれ以来怖くてたまらないのよ」
ああ、そう言えば原作でそんなシーンもあったっけとふと思い出した。小さな、まだホグワーツ入学前のリリーを同じく幼少期のセブルス・スネイプが慰めているシーン。
学校の外で魔法を使ったからアズカバン行きになってしまうとリリーが泣いてしまい、そんなことでアズカバン行きにはならないとスネイプが慰める。だが実際、ハリーは不死鳥の騎士団でそうなりかける訳だし、あの時のスネイプはどういう気持ちでハリーを見守っていたのだろうか。
なんだか、目の前の人物の、私が知らないはずの過去を垣間見ているというのはとても変な気分だった。少なくともスネイプがリリーにアズカバンとディメンターについて教える過去は発生しているようだ。ということはあの小説は正しくて、私は本当にトリップなんて馬鹿げたことになっていると思って良いのだろうか。
もしそうなら、私はこのままでは目の前の一人の女の子を見殺しにするということになる。舞台、呪いの子で、過去に戻ってセドリックを見送るとき、アルバスとスコーピウスは何を背負ったのだろう。
「……ディメンターは確かに、怖そうだよね」
私はとりあえずそう言って笑った。
あなたは息子が1歳の時に死んでしまうけど、それは必要なこと。あなたの息子は将来世界を救う英雄になって、彼はあなたに注がれた愛情を忘れないよ。なんて。私は世界の創造主か?傲慢にもほどがある。
順番が回り、リリーが一歩先に出て、私はごくりと唾を飲んだ。古ぼけた木箱から飛び出した黒いもやは、もがくようにうごめいた後、予想通りディメンターになった。リリーはそれを見て、恐怖で足がすくんでしまったのかぺたんと座り込んでしまった。
映画で、ハリーがディメンターに精神を削られ叫んでいたシーンを思い出した。彼女が友人の前でそんなことになったら可哀想だと思って、私はとっさに前に出てリリーよりボガードに近づいた。
「大丈夫?リリー」
「ご、ごめんねサマンサ」
背後でシュルシュルという音がして、ボガードが何かに変わろうとしていた。近くに居たジェームズ君がすぐに出てきて、リリーに駆け寄った。私はその姿をチラッと見てから杖を持ってボガードの方を向いた。
背中で、ジェームズ君がリリー、リリーと大袈裟に呼ぶ声が聞こえ、先生の声が混ざる。その騒動に気を取られて誰も私のボガードには興味がないように思えた。ボガードはやがて形を決めて、私の前で“本当の私”になった。
2025年の東京を生きていた、本当の私。ただ一つだけ違うのは、本来、目や鼻や口があるはずの場所には何もなくて、ただ皮膚があるだけののっぺらぼうだった。手にはそう、見覚えのある分厚い日本語の本を持っている。
「……ぁ」
背筋が寒くなって、手が震えた。
――私って、どんな顔してたっけ?というかそう、その本、こっちに持ち込んじゃ駄目じゃない?
杖を構えても、一向に呪文が浮かばない。第一、どうやってアレを、私をばかばかしい姿に変えればいい?可哀想に、もう顔も思い出して貰えない自分の姿を。
固まったまま動かない私の後ろで、ざわざわと生徒の声がした。
駄目だ、アレが注目を浴びてしまう、みんなにバレてしまう。早く隠さなきゃ、早く……早く。
「アバダ・ケ……っ」
急に、誰かに後ろから口をふさがれた。驚いて首をひねれば、塞いでいるのはシリウス君で、彼は怪訝そうな顔をしながら「呪文が違うだろ」と言った。
その瞬間、いつの間にか遠くなっていた生徒のざわめきとか、先生の声とか、自分の呼吸が戻ってきた。私は背中にじっとりと汗をかいていて、シリウス君の手は温かく、犬だからだろうかとそんな失礼なことを思い浮かべた。
私は「そうだね」と落ちついたフリで返事をして、リディキュラスと唱え直したけど、当然のように魔法はきかなかった。
アレはただ何もせず、手に持った本を開くこともせずそこに突っ立っていた。笑っているのか泣いているのか、そんなことすらわからない。
「ごめん、消しておいて」
そう小さくつぶやいて、教室の後ろの壁まで下がった。
目を閉じたまま、教室の喧騒に耳を済ませて自分の15歳の頃を思い出す。まだ心臓は嫌な跳ね方をしている。なんて事ない、私はどこにでも居る地味で普通の高校生だった。もう友達の顔も良く思い出せない。仲が良かったさおりちゃん、苗字はなんだったっけ?ここへ来る数日前に届いた同窓会の知らせには、めんどくさくて返事をしなかった。
スネイプ君はリリーのそばで、そわそわとただ突っ立っていた。ねぇ、もっと身の丈に合った人を選んだら?その方が君だって幸せになれるよ。
その日、ボガードを消せなかったのはリリーと私だけだった。窓の外では雪が降っていて、まだ新学期が始まって2ヶ月半だというのに、もう1年が終わるような気分になった。
翌週のクリスマス休暇、私は家に帰らなかった。義両親に、学校に残ってふくろう試験の対策をしたいと言えば直ぐに許可された。ホグワーツを離れると魔法を使えないので、実技に不安がある私はもう少し学校で練習したかったし、あの家は何かと息が詰まる。
一応フリットウィック先生に声をかけてから、呪文の練習用に空き教室を使わせて貰っていた。
「ウィンガーディアム レヴィオーサ」
クッションが不安定にふわふわと浮いて、動かそうと杖を降ったら何故か私に向かって飛んできた。バフンとそれなりに大きな音がして思わず鼻っつらを抑える。クッションで良かった。
「……下手くそだな」
「スネイプ君……」
同じくクリスマスを学校に残るというスネイプ君に甘えて、私はコツを教えてもらうことにした。悪意には鈍感に、好意には素直に。
「発音に気を取られてると、杖の動かし方がわからなくなっちゃって。スネイプ君は上手だね、ほんとに。……流石未来のスネイプ先生」
「君は本当にその呼び方が好きだな」
「うん」
君はほんとに凄いんだから、丈の長いローブをバサバサやって歩いて、みんなのハートを鷲掴みだよ。
「……ふくろう試験には、おそらくボガードも出るぞ」
「そうなの?まぁ、何が出るのかわかってれば、次は大丈夫だよ」
「君の出したあれは、いったいなんだ」
「見てたの?」
「当たり前だろ」
「だってスネイプ君、リリーのところに居たから」
スネイプ君は眉をひそめて、少し不機嫌そうに杖を振った。クッションがぶぉんと音を立てて私の隣を飛んでカゴに入った。
「……良かったな、好きなやつに慰められて」
「なにが?」
「好きなんだろ?シリウス・ブラックが」
そう言われてなんとなく、何の変哲もない教室の天井を仰ぎ見た。まぁでも、うん、そうかもしれない。私は別にシリウス・ブラックのこと好きではないけど、この体の女の子はシリウス君が好きだったのだから、この口で喋るならそれは私の言葉ではないのかもしれない。
「……どうなんだろうね」
「……ほらな」
ねぇ、ところでスネイプ君。いつもより不機嫌なのはそのせい?
「スネイプ君は……リリーが好きなの?」
「……君には関係ない」
「そうだね、ごめん」
うん、ダメだよねやっぱり。スネイプはリリーが好きで、そうじゃないと小説が成り立たないもの。私がその純愛を邪魔したら、この世界、滅びてしまうかも。
「好きじゃないよ、シリウス君のこと」
「……じゃあ誰が好きなの?」
「……内緒」
誰が好きなの?だって、可愛い。
「ねぇ、スネイプ君は杖ってどのくらい強く握ってる?」
「は?……そんなに強くは握らない、余計な力が入るだけだ」
「それってどんな感じ?」
両手を軽く広げて首を傾げれば、スネイプ君がぎこちなく手を取ってくれる。そのまま彼の誘導に任せて、杖を軽く握ったまま振った。クッションはさっきよりずいぶんマシな軌道を描いて、でもまだカゴには入らず壁にぶつかった。
「なんかさ、クリスマスのダンスパーティみたいだね」
こんな風に手を繋いでいると。
「……僕は踊れない」
「私も踊れないよ、そんな経験ないから。サマンサちゃんは知らないけど」
スネイプ君は何かに少し悩むような、複雑な顔をしていた。
「君のボガード、なに?」
もう一度、同じ質問。でもそれには答えられない。
「……私にもよくわからない」
「何で殺そうとしたの」
「なんとなく……人に見られたくなかったの」
しゃべりながら体を反転させて彼と向き合う。そっと手を握り直して指を絡めれば、スネイプ君の指が怖々動いて私の手を包み返した。指が交互に重なって、細い指と固いふしが愛おしい。
なんだか自分がとてつもない悪い魔女になったような気がした。人の心を意のままに操り、世界を滅ぼす魔女、悪女。緊張でしっとりと汗をかく彼の手のひらが心地よくて、私はこの手を離せない。
スネイプ君は、どうして私にとってこんなにも特別なんだろう。彼だってそう、ただの登場人物に過ぎないはずなのに。
「私の出したボガード、どう思った?」
「どうって?」
「……可愛かった?」
「はぁ?顔もないのに、そんなことわからないだろ」
「それでも、雰囲気でいいよ」
「別に、何とも思わないけど……」
「そっか」
日本人だし、ぱっとしないよね。28歳なんて、16歳の君からしたらおばさんだろうし。あぁ現実ってやだやだ。私は思わず逃げるように、スネイプ君の薄い胸板に耳を寄せた。
体を寄せる私に、彼は一瞬戸惑って、ただ何もせず受け入れた。
「あったかいね、くっついてると」
「……大して変わらないだろ」
スネイプ君の心臓が動いている音が聞こえて、ゆっくりと目を細めた。私は何をやってるのだろう。ただでさえこれからたくさんのものを背負っていく君に、私の欲望まで押し付けて。
「……ごめんねスネイプ君」
「なんで謝るんだ」
「何となく」
その時、廊下で人の歩く音がして、どちらともなくぱっと体を離した。その足音はそのまま廊下を通り過ぎていったけど、私たちはもう距離を置いたままだった。
「浮遊呪文、試験までに出来るようになるかなぁ」
「……さぁ。君次第だろ」
何も無かったかのように、そんな会話をした。君を支えたいと思う、君に愛情を感じて欲しいと思うし、その心が救われて欲しいと思う。でもそんなものはやはり私のエゴだろうか。君の気持ちを無視した行動だろうか。
また少し季節が進んで、クリスマスからバレンタインになった。イギリスでは、女性だけが愛を伝える日という認識はなく、男女ともにお花やチョコレートを贈る。夫婦や恋人が双方に贈り合うのも定番だし、男女関わらず片思いの相手に贈るのも定番。
メッセージカードは匿名が普通だと聞いたから、私は宛先も名前も書かずに1文だけ書いた。
――いつも頑張ってる君に。
さぁ、後はこれを渡す機会があるかどうか。上手くいかなくても持って帰って自分で食べればいい。
放課後に、スネイプ君はまた図書館に居るだろうかとのんびり廊下を歩いていたら、柱の影に隠れるリリーを見つけた。そのままスルーしようか少し迷ったけど、リリーが私に気づいた。
「あっ」
リリーが声をかけようとして、私は人差し指を唇に当てた。廊下の先には不自然にうろうろと歩くグリフィンドールの男の子、手には真っ赤なバラの花束を持っている。モテる女の子は大変だ。
私は自分の寮の紋章が入ったマントを脱いでリリーに渡した。リリーは少し驚いたあと楽しそうに笑って、大きなフードで小さな顔を隠した。
「ごめんねサマンサ、寒くない?私、ちょっと出てくるだけのつもりだったから、マントは部屋に置いてきちゃって」
「ううん、今日はいつもよりあったかいから平気だよ」
リリーが本当に嬉しそうにマントの紋章を撫でるから、私は眩しくて目を細めた。
「借りてた本、読み終わったから今度持ってくるね」
「王の帰還よね?どうだった?」
「面白かったよ、結末は知ってたけど、改めてちゃんと自分で本を読むのっていいね」
3冊に分かれた指輪物語の最後の一冊、王の帰還。ハリー・ポッターもそうだが、やはり映画はカットシーンが多い。どのシーンが好きかなんて話をしながら歩いていたら、背後から騒がしい声が聞こえた。
「やぁリリー!こんな所で偶然……え?なんでそんな腐ったキャベ――」
「ちょっと!それ以上言ったら怒るわよ!」
どこからともなくジェームズ君が現れて、出会って3秒でリリーに酷い剣幕で怒られた。今日は傍に、シリウス君の他にもう2人の男の子がいた。多分、リーマス・ルーピンとピーター・ペティグリューだろう。
リリーとジェームズ君が2人で話しているのを横目に見ながら、私は2人と挨拶をした。リーマス君は小説で読んだとおり、大人しくて控えめな男の子だった。ピーター君はずっと私の胸ばかりちらちら見ていて少し呆れた。まぁ確かに、私のこの体の女の子は少し胸が大きい方だなとは思うが。
「グリフィンドールに来ればお前ももうちょっと楽しい学校生活送れただろうな」
シリウス君は友人に話しかけるように私にそう言った。彼は家でスリザリンに囲まれているだけあって、案外、偏見は少ないのかもしれない。
「嫌だよ、私はスリザリンの方が良い」
「は?なんで?」
シリウス君は本気でわからないという顔で不機嫌そうに眉を寄せた。
「グリフィンドールの子は少しうるさいかな、スリザリンの方が肌に合う。あなたがこっちに来ればよかったのに。ブラック家なんだから」
「死んでもお断りだな。グリフィンドールに組み分けされた瞬間が、オレの人生で最高の時だ」
シリウス君が廊下の奥を見て、ニヤリと意地悪く笑った。
「スニベルスじゃないか。お前もこっちきて楽しくお喋りするか?」
シリウス君が周りに響き渡るような大声で言って、リリーとジェームズ君も当然そちらを向いた。
「そのさ、スニベルスって嫌なんだけど」
「なんだよ、ボーイフレンドを庇うのか?」
シリウス君がこれみよがしに私の肩に手を回すから、私はため息をついてそれを払った。このまま放っておいたら、喧嘩するのは目に見えている。愛しのリリーの横で調子に乗ったジェームズ君がさらにスネイプ君を煽り、彼はムッとした顔でこちらに歩いてくる。
「リーマス君、ジェームズ君に声かけてきなよ。監督生でしょ?」
「えっ?」
急に指名されて、リーマス君は少し驚いたようだった。けど私は知ってるんだ、小説読んでたから。君はジェームズ君とシリウス君の暴走を止めるために、監督生に選ばれたんでしょう?その胸のバッチは何のためにあるの?大浴場の分くらいは働いてよ。
私はそのまま真っ直ぐ歩いて、スネイプ君の前に立った。
「……なんだよ」
「これ、あげる」
そう言って私は小さな黒い紙袋を渡した。
「……は?」
「いつも勉強教えてもらってるから、そのお礼。ハッピー・バレンタイン」
後ろでジェームズ君が盛大にからかおうとした声が聞こえたけど、リーマス君が何か話しかけて気を逸らしていた。スネイプ君はちょっと顔が赤くなって、緊張したように渡された紙袋を見ていた。
「素敵だわ」
近くにいたリリーが嬉しそうに微笑んだ。
「そういうのじゃないよ。はい、リリーにも。いつも本貸してくれてありがとね」
そう言って私はもうひとつの紙袋をリリーに渡した。本当は弟君にあげようかと思っていたけど、この流れでスネイプ君にしか渡さないのは流石に少し気まずいと思った。
「えっ、ほんとに?嬉しい!」
「まぁ、バラの花束には劣るけど」
「もう、こっちの方が何倍も嬉しいわ」
リリーが笑いながらマントを脱いで、私に手渡した。
「オレの分はないの?チョコレート」
「無いよ。シリウス君にお世話になった覚えない」
「ボガードの時、お前助けたのオレだろ?こいつじゃなくて」
シリウス君はサラッとそう言ってスネイプ君を指さす。エラそうなんだなぁ、ほんとに言動が全て。
「助けるっていうほどのことじゃなくない?恩着せがましいよね」
「そうか?顔真っ青だったけどな」
そう言いながらシリウス君が私の顔に触れようとした。
「ちょっと、いちいち触らないでよ。ほんとそういう所がさぁ――あっ、ごめん」
その手が届く前に一歩後ろに引いたら、スネイプ君にぶつかってしまった。
「君は、男なら誰でも良いんだな」
――は?なんだって?
一瞬、そんな風に言い返そうと思ったが、なんだか急に何もかもがどうでもいいような気分になった。だってそう、16歳の卑屈な男の子のゆがみを、馬鹿正直に受け取る必要などないのだから。
「そうかもね」
それに、スネイプ君の言う通り、私は誰でも良いのかもしれない。シリウス君もそれほど嫌な奴じゃないなと思ってる自分がいるし。
「ちょっとセブ!なんてこと言うの!」
「いいよ、リリー」
スネイプ君に食ってかかるリリーを私がとめた。人数が増えて、少し人目を引いているのも嫌だった。
「ごめんねスネイプ君、気の利かないことをして。そのチョコレート、本当に深い意味はないんだ。甘いもの好きじゃなかったら適当に友達にあげて」
「別に……そういうことを言いたかったわけじゃない」
「うん、わかってる」
ただ君はそう、私がシリウス君とじゃれあってるのが嫌なんだよね。その嫉妬は嬉しいけど、やっぱり言葉は選んで欲しい。
「じゃぁリリー、またね」
「あ、サマンサ!」
リリーがどこか焦ったように私を呼んだ。一拍置いてから、私はリリーに向き直った。
「なあに?リリー」
「あの……サマンサはナルニア国物語、好き?」
「タンスの中の世界ね……好きだよ」
ナルニアは映画が中途半端なところで打ち切りになってしまったから、あんまりストーリーは知らないけれど。
そこで私は、ロンドンの本屋で平積みにされていた橙色の本を思い出した。
「リリーは、モモ読んだことある?」
「あ、ううん、気になったけど買わなかったの。面白い?」
「じゃぁ今度貸してあげる、家に置いてきたから来年になっちゃうけど。リリーはきっと気に入ると思うよ、優しい物語だから」
ドイツ人のミヒャエル・エンデの作品、モモ。2025年の未来でも、世界的に有名な児童文学作品。去年ドイツで出版され、今年英語版が出て、本屋でも1番目立つところに置いてあった。タイトルだけは知っていて、暇だったから休暇中に読んだ。不思議な女の子モモが人々の時間を奪う“灰色の男”たちに立ち向かうお話。
正直、私は途中でつまらないなと思ってしまった。子供じみているなと。きっと私はもう、灰色の男たちに時間を吸い取られた後なのかもしれない。
「今度持ってくるよ、またね」
「うん、ありがとうサマンサ」
知れば知るほど、リリーは本当にいい子だ。明るくて前向きで芯があって、人を惹きつける魅力がある。彼女になら何でも話してしまいそうになるこの感覚はまるでモモみたいだ。
そうやってみんなが彼女を選ぶなら、私は選ばなくてもいいよね……。
2月が終わって3月になると、空の向こうから春の気配がしてくる。暦の上で春を知らせる、啓蟄がいつだったかはっきり覚えてないけれど、多分この時期だったような気がする。
この前のバレンタインからスネイプ君は図書館に来ないし、なんとなく目も合わないし、どうやら嫌われたみたいだ。いつ、どうして、なんでそうなったかはわからないけど、彼がそうしたいなら私はそれを受け入れるべきなんだろう。
私は馬鹿みたいに大きなため息をつきながら、寝る前の談話室で暖炉の火を眺めた。
「最近ため息多いね、サマンサ。なに?フラれたの?」
「うーんまぁ、そんなとこぉ」
「うっそ!誰?いつの間に?」
「秘密」
友達と甘ったるいバタービールを飲み、トランプに興じる。ブリッジという、イギリスでは定番の遊び方。当然知らなかったが、何度かやるうちに少しずつルールを理解した。
「あれでしょ、バレンタインでチョコ渡した相手でしょ?」
「何々?どういうこと?」
「サマンサ、ホグズミートでこっそり買ってたの、スターリング&ソーンの一番いいやつ!あれは絶対本命よ、だってたった5粒で3ガリオンもするんだから!」
「えーほんと!?誰にあげたの?」
「だから言わないって、おまけにフラれてるのに。ほら、ソフィのターンだよ」
「ブリッジなんてどうでもいいわよ、誤魔化さないでサマンサ」
「負けそうだからって無しにしないでよ、誤魔化さないでソフィ」
ふふっと軽く笑いながら、早口でまくし立てる友人に同じくらい早口で答える。3ガリオン、感覚的には大体3千円弱だ。それでチョコレート5粒なのだから、だいたいゴディバ並。ホグズミードでは1番高級なチョコレート屋さんだった。
美味しかったかどうかくらい聞いてみてもいいだろうか。いや、やめとこうか。食べずに捨ててるかもしれないし。……さすがにリリーに聞くのはちょっと癪かも。
「自分のこと好きになってくれる相手だけを好きになれればいいのにね」
どこかで聞いたようなドラマのセリフ。そんなセンチメンタルな言葉を自分が、それも15、6歳の女の子たちと話すなんて。恋愛は老若男女古今東西、人類共通の話題なのかもしれない。
「ああ……わかる。サマンサの恋バナってほんと久々、シリウスの時以来じゃない?だれ?結局またシリウスなの?」
「ないない、それはない。タイプじゃない」
「じゃぁどういう人がタイプなの?」
「んー、一途な人」
ある意味、最強の一途だよね、セブルス・スネイプって。結局そう、原作は変えられないのかな。セブルス・スネイプはリリー・エバンスが好き、ハリー・ポッターってそういう物語なのかも。
「で、どうするの?フラれて、諦めるの?」
「別に、何もしないよ。迷惑かけたくないしね、いつかのラブレターみたいに」
「やだ、サマンサが大人だわ。寂しい」
まぁ、大人だからね。くすくすと笑いながら「残り全部もらうよ」と声をかけて手札をテーブルに並べた。
「ついでにこれで終わり、10回目。コントラクト達成ね」
「あー!負けたー!」
例え自分を選んでもらえなくても、彼にはやっぱりもう少しマシな未来を過ごしてほしいし、死食い人になる選択を回避できればいいのだけれど。トランプを回収してまとめながら、一番手前にあるハートの7をじっと見つめた。私のままごとのような恋愛感情など、邪魔になるだけだ。
翌日、変身術の授業ではネズミを消す練習だった。クリスマス明けから、カタツムリの消失をやったりと、ずっと生物の消失呪文をやっている。私はこれが苦手だった。もともと変身術の授業は計算が多く苦手というのもあるが、消失という概念にどうも抵抗がある。いつか自分も消えるのかもしれないと、それが頭によぎるのだ。先週どうにか消すことができた私のかわいいカタツムリは、いったいどこに行ったのだろうか。目の前のネズミもそう、穴が開くほど見ているとだんだんと愛着がわいてしまう。
「エバネスコ 消えよ!」
カクカクと動き回り、机の匂いを嗅いでいる灰色のミッキーマウス。毛の一本だって消えていない。もうすぐ授業が終わる時間だし、ここまで何の成果も無いのはさすがに私くらいだ。どんなに下手くそな子でも、ネズミの尻尾くらいは消えている。
教室の中を縫うようにして歩き回っているマクゴナガル先生が、一人ひとり生徒の様子を見て、私の前で足を止めた。
「ミス・クラウチ、消失呪文の理論について、次回までに追加でレポートを提出するように」
「あー、はい。マクゴナガル先生」
口を結んでため息を堪える私に、友人が薄笑いで肩を叩いた。今週はイースター休暇前で、ただでさえ課題が多い。イースター休暇って言ったって、土日含めてたったの4日間なのに。他の授業も合わせるととても終わる気がしなくて、少し泣きそうだった。秘密の個人授業も終わってしまったのに。
放課後、いつものようにまっすぐ図書館に向かって、奥まった本棚の影に滑り込む。窓のない、明かりの少ない、空気のよどんだ二人掛けのテーブルに重たい鞄をどさりと下す。隣の空席にちらりと目をやって、黙ったままカバンを開ける。インク壺、羽ペン、教科書を取り出して並べ、カバンを椅子に掛けてから座る。
とにかくそう、戦争真っただ中のこの魔法界で、自分がどう動くにせよ、知識が無ければ何もできない。誰も救えない、何の役にも立てない、誰の傍にいることもできない。ハーマイオニーに知識が無ければ、きっと一年生の時、ハリーは死んでいる。
「……よし」
小さくつぶやいて、教科書をめくった。集中して羽ペンを動かして、ときおりそれを置いて。ただひたすら、言葉を頭の中で反芻して理解する。
――消失とは、物体が完全に完全に無に帰す状態ではなく、「形態の変換」を意味する。「形態の変換」とはつまりエネルギー保存の法則である。たとえば物質が燃えて消えたように見えても、それは熱エネルギーや煙(気体)に姿を変えただけで、宇宙全体の質量エネルギーの総和は変わらない。消失呪文もこれと同様である。物質に正しく魔法を衝突させることで、物体は魔法力そのものに変換される。物質としての形は消えるが、エネルギーとしてその場に存続する。
あーね、うん、うん……。消えるけど消えないってこと?
右手は羽ペンをインク壺につけたまま、左手でレポートの奥に置いてある教科書をめくる。その瞬間、背後でこつりと小さな靴音が聞こえた。反射的に後ろを振り返り、それにつられるように羽ペンがインク壺のふちをひっかけた。
「あっ、やばっ」
咄嗟の焦りもむなしく、インク壺が手前に倒れてレポートと教科書を黒く染めていく。インク壺はさっき新しいものを開けたばかりだから、中身までたっぷりだ。
「あぁ……」
「……悪い」
「いや、スネイプ君のせいじゃないよ」
軽く笑いながらそっとインク壺を縦に直し、真っ黒に染まった指と反対の手で教科書を摘まんだ。だらんと真上に持ち上げて、ぽたぽたと黒い雫が垂れていくのを見守る。
「ごめん、拭ってもらっていい?私相変わらずあれ、下手だから」
「あぁ」
スネイプ君が杖を取り出して、そっと教科書をなぞる。そのまま机をゆっくりなぞって、レポートの上まで杖を動かしていく。まるでこぼれたインクの逆再生を見ているように、杖の先にインクが吸い込まれていく。机の上をあらかた綺麗にして、スネイプ君は杖を手元に戻した。
「……手は」
「あ、うん、お願い」
私は黒く汚れた自分の両てのひらを上に向けて、スネイプ君に差し出した。肌の上を、さっきと同じようにそっと杖先でなぞっていく。それがまるで生き物の様で、先週、消失呪文を唱えたカタツムリを思い出した。魔法をかけてもらうという行為は、どうにも形容しがたい近さがある。指で触れる、なぞる……こう拭うという動作は特に、まるで舌で舐められているような。
流石に自分の思考が気持ち悪いなと思って、きまずくなって目を逸らした。
「……ありがとう。もう大丈夫」
震える指先をごまかすように、指の間に残ったわずかなインクをハンカチで強く拭いた。
「久しぶりだね、もう来てくれないかなと思ってた」
「そう……しようかと思っていた」
「ん……そっか」
あー、あれかな。わざわざちゃんとお断りをしに来てくれた感じだろうか。そんなの別に、いいのに。
「……それは1年のテキストか?」
「あぁ、うん。基礎が無いからね、おとなしくイチからやろうと思って」
机の端に寄せていた、『変身術入門』のテキストをスネイプ君が手に取った。
「なぜそこまでやる?君に魔法は無理だ。ホグワーツがなぜ11歳で入学するか、知っているか?一説には、それより後の年齢では魔法の、特に杖を振り使用する魔法の定着率が明らかに落ちるからだ。だから魔法は、なるべく幼いうちから学ぶべきものであり、論理的思考が形成され理論を理解できる11歳がホグワーツ入学時期とされているが、それでも遅いと指摘する魔法使いもいる。君では……初めて魔法に触れたのが14歳の君では、遅すぎる」
「あぁ、まぁ、うん」
まるで英語の学習のようだ。幼少期でないと、耳が作られないとかなんとか。魔法もそういうのがあるのか、どうりで。
容赦ない彼の言葉で、自分がこの先も永久にポンコツだということを飲み込むのに5秒はかかって、気を取り直して言葉を続けた。
「先週も、闇の印が上がったって、新聞に載ってた」
「……あぁ」
「この先どうなるのかわからないけど、いざという時に動けるようにしておきたいの。物事の流れについていけるように」
「物事の流れ?」
「そう……。きっといろいろ、あるでしょう?こんな世の中なんだもん。そういう時に、できれば……こう、身近な人には笑っていて欲しいなぁとか」
ああもう、まどろっこしいなぁ。
「守りたいなと思う人が居るの。私が力になれるかなんて知らないけど」
またもや臭いセリフを吐いてしまったと、心の中で斜に構えるそんな自分に、笑いながら軽くため息をついた。
「それで?スネイプ君は?私に言いたいことがあってきてくれたんでしょう?」
責めるつもりなんて全くないのに、なんだか詰めるような言い方になってしまった。誤魔化すようにわざとらしく肩をすくめて、怒ってないよと示すように両手を開いた。
「別に、君が課題に困ってるだろうから、見に来ただけだ」
「……そう、ありがとう。うん、手伝ってくれるとすごく助かるよ」
フラれる覚悟を決めた分、拍子抜けではあるけど、スネイプ君がそれを先延ばしにするならそれでもいい。
「ちょうどね、マクゴナガル先生の追加課題やってたんだけど……消滅呪文の理論についてって、範囲広すぎない?論文一個でもまとまらないよ。どこを拾えばいいのか、迷ってたところなの」
「君は……!」
突然、彼が緊張気味に言葉をかぶせるから、私はへらへらと笑うのを止めた。数秒の沈黙の後、スネイプ君がまたしゃべりだした。
「……守りたい人って?」
「……さすがにもう、わかってるんじゃない?」
ここから、なんて繋げるのが正解なんだろう。
「ね、別に私、怒ったりしてないよ。君を責めるつもりもないし……当たり前だけど。あー、だからその、これからも友達で居よう?いや、居てくれると嬉しいな。うん。……もう、君を困らせることもしないよ、誓ってもいい。……人前でチョコレートなんて渡して、ごめんね」
よりにもよって、リリーの前で。あれから彼に嫌われた理由をいろいろ考えていたが、きっとこれだろうと思っていた。
だから、彼が続けた言葉に驚いた。
「どうして僕なんだ……」
――それはそれは、目の前にいる私にも届かないほどの、小さな声で。
私は思わず目を丸くした。そんなことが、そんなに疑問なのかと。でもそう、彼にとってはそうなのだ。誰にも愛情を注がれてこなかった、彼にとっては。それを理解して、胸の奥が少し苦しくなった。
「君が、私を見つけてくれたからだよ。サマンサ・クラウチじゃない、私を。……誰も信じない私の話を、君が信じてくれたから、君に何かを返したいと思った」
「……偶然だ。君がそのことを、僕以外に主張しなかっただけだ。今改めて、君がその話をすれば、もっと多くの人が耳を傾ける」
「いや、私はそう思わないよ。もうずいぶん長い事、サマンサ・クラウチをやってきたし、周りもすっかり信じてる。……もう遅い」
そう、もう遅い……。私が今から、勇気を出して正義を掲げて、正しいと思うことのために行動する、グリフィンドールのようになるには。もう、あまりにも。
だから私は、身の保身のために、リリー・エバンスを始めとする多くの人を見殺しにするのだ。思考がそれに行き着いて、固く唇を噛む。
「……なまえ」
「……日本だと、ずいぶん親しい関係にならないと、異性間でファーストネームは呼ばないの」
君が私の名前を憶えていると、思わなかった。
「僕らはそうじゃないって、言いたいのか?」
「……ううん」
スネイプ君が、一歩私に近づいて、曖昧にそっと手を伸ばす。私からその手を掴んで、少しだけ上を見上げる。
「スネイプ君を見てると、少し勇気をもらえる気がするよ」
「……意味が分からない」
少しでもそばで、君を守ることができるなら、何でもできる気がする。掴んだ手に力を込めて、私なりに、私にできることで君を守るからと、そんな決意を頭に浮かべる。
そっと目を閉じて顔を上に向ければ、唇にささやかなぬくもりが触れた。
これを、私のファーストキスということにしたいと思う。
毎朝いつも通りホグワーツで目を覚まし、友人と談笑しながら身支度を整え、朝食を取り、8時45分からの授業に向かう。真面目に午前の授業を受けて、昼食を取ったらまた授業に向かう。夕方4時前に最後の授業が終わり、各々が自由時間を過ごす。私はたいてい図書館に行って、夕飯までをそこで過ごす。課題を中心に自習して、7時ごろいったん寮に戻って教科書などの荷物を置く。その時、自室や談話室に友達がいればその子と、居なければ一人で大広間に行って夕飯を食べる。8時ごろまた寮に戻り、シャワーを浴びて、10時ごろまで談話室で談笑したり、1人ではわからなかった課題を手伝ってもらう。部屋に戻ったら翌日使う教科書やローブを整え、ベッドの中で本を読む。それでだいたい日付が変わる前には寝る。
スマホもテレビもネットもゲームもない生活の、なんと健康的なことよ。ついでにお酒もたばこもない。この生活を続けていたら100歳まで生きられそうな気がする。
「次何だっけ」
「DADA」
「ああそうだ、やだな」
「サマンサってほんとDADA苦手よね」
「知識は興味あるんだけどね、実技が無理」
防衛術と言いながら学ぶのは対人術だ。人に向けて杖を振るのはどうも苦手、例えそれがエクスペリアームズなどの武装解除呪文でも。特別自分が優しい人間だとは思わないけれど、戦闘なんてものとは無縁でありたいのだ。
考えてもみて欲しい。例えば目の前の人間は敵だから全力で殴ってもいいですよと言われたって、ほとんどの人は躊躇うはずだ。そんな当たり前の人間性を、私も持っていたい。やっぱりそう、戦争が人を変えるのだ。戦争反対。リベラルリベラル。ハリーはいかれてる。
教室に入ると、今日は机が全て教室の隅に寄せられて、中央奥に古ぼけたチェストがあった。ああ今日はアレかとひとり納得してそっと人の後ろに隠れる。
「今日の授業はボガードだ、まだ君たちはこれをやっていなかったね。さてボガードが何だかわかる人?」
闇の魔術に対する防衛術の授業で、先生がそう言った。何人かが手を挙げて、グリフィンドールの女の子が指名された。
「はい、ボガードはまね妖怪とも呼ばれ、見る人が最も恐れるものに姿を変える魔法生物です」
「正解だ、グリフィンドールに5点」
それからボガードに対する呪文として、リディキュラス、ばかばかしいと唱える練習をした。
「さぁみんな、一列に並んで――」
先生の声に合わせて、皆が曖昧に列を作る。グリフィンドールとスリザリンの合同授業であるこの時間は、いつもちょっぴりいさかいが多い。肘がぶつかったとか、足を踏んだとか、そんなちょっとしたことでもすぐ喧嘩になる。
「緊張するね」
そんな中で、ひとりぼーっと動く私に声をかけてくれたのはリリーだった。指輪物語で意気投合して以来、私は彼女と顔見知り程度の仲になった。闇の魔術に対する防衛術、魔法薬学、魔法生物飼育学と合同授業は意外にも多く、彼女はいい子だったので拒む理由も無かった。
「うん、ちょっとね……。リリーは、自分のボガードが何になると思う?」
「私は……ディメンターかも。子供の頃、アズカバンの話をセブから聞いて、もうそれ以来怖くてたまらないのよ」
ああ、そう言えば原作でそんなシーンもあったっけとふと思い出した。小さな、まだホグワーツ入学前のリリーを同じく幼少期のセブルス・スネイプが慰めているシーン。
学校の外で魔法を使ったからアズカバン行きになってしまうとリリーが泣いてしまい、そんなことでアズカバン行きにはならないとスネイプが慰める。だが実際、ハリーは不死鳥の騎士団でそうなりかける訳だし、あの時のスネイプはどういう気持ちでハリーを見守っていたのだろうか。
なんだか、目の前の人物の、私が知らないはずの過去を垣間見ているというのはとても変な気分だった。少なくともスネイプがリリーにアズカバンとディメンターについて教える過去は発生しているようだ。ということはあの小説は正しくて、私は本当にトリップなんて馬鹿げたことになっていると思って良いのだろうか。
もしそうなら、私はこのままでは目の前の一人の女の子を見殺しにするということになる。舞台、呪いの子で、過去に戻ってセドリックを見送るとき、アルバスとスコーピウスは何を背負ったのだろう。
「……ディメンターは確かに、怖そうだよね」
私はとりあえずそう言って笑った。
あなたは息子が1歳の時に死んでしまうけど、それは必要なこと。あなたの息子は将来世界を救う英雄になって、彼はあなたに注がれた愛情を忘れないよ。なんて。私は世界の創造主か?傲慢にもほどがある。
順番が回り、リリーが一歩先に出て、私はごくりと唾を飲んだ。古ぼけた木箱から飛び出した黒いもやは、もがくようにうごめいた後、予想通りディメンターになった。リリーはそれを見て、恐怖で足がすくんでしまったのかぺたんと座り込んでしまった。
映画で、ハリーがディメンターに精神を削られ叫んでいたシーンを思い出した。彼女が友人の前でそんなことになったら可哀想だと思って、私はとっさに前に出てリリーよりボガードに近づいた。
「大丈夫?リリー」
「ご、ごめんねサマンサ」
背後でシュルシュルという音がして、ボガードが何かに変わろうとしていた。近くに居たジェームズ君がすぐに出てきて、リリーに駆け寄った。私はその姿をチラッと見てから杖を持ってボガードの方を向いた。
背中で、ジェームズ君がリリー、リリーと大袈裟に呼ぶ声が聞こえ、先生の声が混ざる。その騒動に気を取られて誰も私のボガードには興味がないように思えた。ボガードはやがて形を決めて、私の前で“本当の私”になった。
2025年の東京を生きていた、本当の私。ただ一つだけ違うのは、本来、目や鼻や口があるはずの場所には何もなくて、ただ皮膚があるだけののっぺらぼうだった。手にはそう、見覚えのある分厚い日本語の本を持っている。
「……ぁ」
背筋が寒くなって、手が震えた。
――私って、どんな顔してたっけ?というかそう、その本、こっちに持ち込んじゃ駄目じゃない?
杖を構えても、一向に呪文が浮かばない。第一、どうやってアレを、私をばかばかしい姿に変えればいい?可哀想に、もう顔も思い出して貰えない自分の姿を。
固まったまま動かない私の後ろで、ざわざわと生徒の声がした。
駄目だ、アレが注目を浴びてしまう、みんなにバレてしまう。早く隠さなきゃ、早く……早く。
「アバダ・ケ……っ」
急に、誰かに後ろから口をふさがれた。驚いて首をひねれば、塞いでいるのはシリウス君で、彼は怪訝そうな顔をしながら「呪文が違うだろ」と言った。
その瞬間、いつの間にか遠くなっていた生徒のざわめきとか、先生の声とか、自分の呼吸が戻ってきた。私は背中にじっとりと汗をかいていて、シリウス君の手は温かく、犬だからだろうかとそんな失礼なことを思い浮かべた。
私は「そうだね」と落ちついたフリで返事をして、リディキュラスと唱え直したけど、当然のように魔法はきかなかった。
アレはただ何もせず、手に持った本を開くこともせずそこに突っ立っていた。笑っているのか泣いているのか、そんなことすらわからない。
「ごめん、消しておいて」
そう小さくつぶやいて、教室の後ろの壁まで下がった。
目を閉じたまま、教室の喧騒に耳を済ませて自分の15歳の頃を思い出す。まだ心臓は嫌な跳ね方をしている。なんて事ない、私はどこにでも居る地味で普通の高校生だった。もう友達の顔も良く思い出せない。仲が良かったさおりちゃん、苗字はなんだったっけ?ここへ来る数日前に届いた同窓会の知らせには、めんどくさくて返事をしなかった。
スネイプ君はリリーのそばで、そわそわとただ突っ立っていた。ねぇ、もっと身の丈に合った人を選んだら?その方が君だって幸せになれるよ。
その日、ボガードを消せなかったのはリリーと私だけだった。窓の外では雪が降っていて、まだ新学期が始まって2ヶ月半だというのに、もう1年が終わるような気分になった。
翌週のクリスマス休暇、私は家に帰らなかった。義両親に、学校に残ってふくろう試験の対策をしたいと言えば直ぐに許可された。ホグワーツを離れると魔法を使えないので、実技に不安がある私はもう少し学校で練習したかったし、あの家は何かと息が詰まる。
一応フリットウィック先生に声をかけてから、呪文の練習用に空き教室を使わせて貰っていた。
「ウィンガーディアム レヴィオーサ」
クッションが不安定にふわふわと浮いて、動かそうと杖を降ったら何故か私に向かって飛んできた。バフンとそれなりに大きな音がして思わず鼻っつらを抑える。クッションで良かった。
「……下手くそだな」
「スネイプ君……」
同じくクリスマスを学校に残るというスネイプ君に甘えて、私はコツを教えてもらうことにした。悪意には鈍感に、好意には素直に。
「発音に気を取られてると、杖の動かし方がわからなくなっちゃって。スネイプ君は上手だね、ほんとに。……流石未来のスネイプ先生」
「君は本当にその呼び方が好きだな」
「うん」
君はほんとに凄いんだから、丈の長いローブをバサバサやって歩いて、みんなのハートを鷲掴みだよ。
「……ふくろう試験には、おそらくボガードも出るぞ」
「そうなの?まぁ、何が出るのかわかってれば、次は大丈夫だよ」
「君の出したあれは、いったいなんだ」
「見てたの?」
「当たり前だろ」
「だってスネイプ君、リリーのところに居たから」
スネイプ君は眉をひそめて、少し不機嫌そうに杖を振った。クッションがぶぉんと音を立てて私の隣を飛んでカゴに入った。
「……良かったな、好きなやつに慰められて」
「なにが?」
「好きなんだろ?シリウス・ブラックが」
そう言われてなんとなく、何の変哲もない教室の天井を仰ぎ見た。まぁでも、うん、そうかもしれない。私は別にシリウス・ブラックのこと好きではないけど、この体の女の子はシリウス君が好きだったのだから、この口で喋るならそれは私の言葉ではないのかもしれない。
「……どうなんだろうね」
「……ほらな」
ねぇ、ところでスネイプ君。いつもより不機嫌なのはそのせい?
「スネイプ君は……リリーが好きなの?」
「……君には関係ない」
「そうだね、ごめん」
うん、ダメだよねやっぱり。スネイプはリリーが好きで、そうじゃないと小説が成り立たないもの。私がその純愛を邪魔したら、この世界、滅びてしまうかも。
「好きじゃないよ、シリウス君のこと」
「……じゃあ誰が好きなの?」
「……内緒」
誰が好きなの?だって、可愛い。
「ねぇ、スネイプ君は杖ってどのくらい強く握ってる?」
「は?……そんなに強くは握らない、余計な力が入るだけだ」
「それってどんな感じ?」
両手を軽く広げて首を傾げれば、スネイプ君がぎこちなく手を取ってくれる。そのまま彼の誘導に任せて、杖を軽く握ったまま振った。クッションはさっきよりずいぶんマシな軌道を描いて、でもまだカゴには入らず壁にぶつかった。
「なんかさ、クリスマスのダンスパーティみたいだね」
こんな風に手を繋いでいると。
「……僕は踊れない」
「私も踊れないよ、そんな経験ないから。サマンサちゃんは知らないけど」
スネイプ君は何かに少し悩むような、複雑な顔をしていた。
「君のボガード、なに?」
もう一度、同じ質問。でもそれには答えられない。
「……私にもよくわからない」
「何で殺そうとしたの」
「なんとなく……人に見られたくなかったの」
しゃべりながら体を反転させて彼と向き合う。そっと手を握り直して指を絡めれば、スネイプ君の指が怖々動いて私の手を包み返した。指が交互に重なって、細い指と固いふしが愛おしい。
なんだか自分がとてつもない悪い魔女になったような気がした。人の心を意のままに操り、世界を滅ぼす魔女、悪女。緊張でしっとりと汗をかく彼の手のひらが心地よくて、私はこの手を離せない。
スネイプ君は、どうして私にとってこんなにも特別なんだろう。彼だってそう、ただの登場人物に過ぎないはずなのに。
「私の出したボガード、どう思った?」
「どうって?」
「……可愛かった?」
「はぁ?顔もないのに、そんなことわからないだろ」
「それでも、雰囲気でいいよ」
「別に、何とも思わないけど……」
「そっか」
日本人だし、ぱっとしないよね。28歳なんて、16歳の君からしたらおばさんだろうし。あぁ現実ってやだやだ。私は思わず逃げるように、スネイプ君の薄い胸板に耳を寄せた。
体を寄せる私に、彼は一瞬戸惑って、ただ何もせず受け入れた。
「あったかいね、くっついてると」
「……大して変わらないだろ」
スネイプ君の心臓が動いている音が聞こえて、ゆっくりと目を細めた。私は何をやってるのだろう。ただでさえこれからたくさんのものを背負っていく君に、私の欲望まで押し付けて。
「……ごめんねスネイプ君」
「なんで謝るんだ」
「何となく」
その時、廊下で人の歩く音がして、どちらともなくぱっと体を離した。その足音はそのまま廊下を通り過ぎていったけど、私たちはもう距離を置いたままだった。
「浮遊呪文、試験までに出来るようになるかなぁ」
「……さぁ。君次第だろ」
何も無かったかのように、そんな会話をした。君を支えたいと思う、君に愛情を感じて欲しいと思うし、その心が救われて欲しいと思う。でもそんなものはやはり私のエゴだろうか。君の気持ちを無視した行動だろうか。
また少し季節が進んで、クリスマスからバレンタインになった。イギリスでは、女性だけが愛を伝える日という認識はなく、男女ともにお花やチョコレートを贈る。夫婦や恋人が双方に贈り合うのも定番だし、男女関わらず片思いの相手に贈るのも定番。
メッセージカードは匿名が普通だと聞いたから、私は宛先も名前も書かずに1文だけ書いた。
――いつも頑張ってる君に。
さぁ、後はこれを渡す機会があるかどうか。上手くいかなくても持って帰って自分で食べればいい。
放課後に、スネイプ君はまた図書館に居るだろうかとのんびり廊下を歩いていたら、柱の影に隠れるリリーを見つけた。そのままスルーしようか少し迷ったけど、リリーが私に気づいた。
「あっ」
リリーが声をかけようとして、私は人差し指を唇に当てた。廊下の先には不自然にうろうろと歩くグリフィンドールの男の子、手には真っ赤なバラの花束を持っている。モテる女の子は大変だ。
私は自分の寮の紋章が入ったマントを脱いでリリーに渡した。リリーは少し驚いたあと楽しそうに笑って、大きなフードで小さな顔を隠した。
「ごめんねサマンサ、寒くない?私、ちょっと出てくるだけのつもりだったから、マントは部屋に置いてきちゃって」
「ううん、今日はいつもよりあったかいから平気だよ」
リリーが本当に嬉しそうにマントの紋章を撫でるから、私は眩しくて目を細めた。
「借りてた本、読み終わったから今度持ってくるね」
「王の帰還よね?どうだった?」
「面白かったよ、結末は知ってたけど、改めてちゃんと自分で本を読むのっていいね」
3冊に分かれた指輪物語の最後の一冊、王の帰還。ハリー・ポッターもそうだが、やはり映画はカットシーンが多い。どのシーンが好きかなんて話をしながら歩いていたら、背後から騒がしい声が聞こえた。
「やぁリリー!こんな所で偶然……え?なんでそんな腐ったキャベ――」
「ちょっと!それ以上言ったら怒るわよ!」
どこからともなくジェームズ君が現れて、出会って3秒でリリーに酷い剣幕で怒られた。今日は傍に、シリウス君の他にもう2人の男の子がいた。多分、リーマス・ルーピンとピーター・ペティグリューだろう。
リリーとジェームズ君が2人で話しているのを横目に見ながら、私は2人と挨拶をした。リーマス君は小説で読んだとおり、大人しくて控えめな男の子だった。ピーター君はずっと私の胸ばかりちらちら見ていて少し呆れた。まぁ確かに、私のこの体の女の子は少し胸が大きい方だなとは思うが。
「グリフィンドールに来ればお前ももうちょっと楽しい学校生活送れただろうな」
シリウス君は友人に話しかけるように私にそう言った。彼は家でスリザリンに囲まれているだけあって、案外、偏見は少ないのかもしれない。
「嫌だよ、私はスリザリンの方が良い」
「は?なんで?」
シリウス君は本気でわからないという顔で不機嫌そうに眉を寄せた。
「グリフィンドールの子は少しうるさいかな、スリザリンの方が肌に合う。あなたがこっちに来ればよかったのに。ブラック家なんだから」
「死んでもお断りだな。グリフィンドールに組み分けされた瞬間が、オレの人生で最高の時だ」
シリウス君が廊下の奥を見て、ニヤリと意地悪く笑った。
「スニベルスじゃないか。お前もこっちきて楽しくお喋りするか?」
シリウス君が周りに響き渡るような大声で言って、リリーとジェームズ君も当然そちらを向いた。
「そのさ、スニベルスって嫌なんだけど」
「なんだよ、ボーイフレンドを庇うのか?」
シリウス君がこれみよがしに私の肩に手を回すから、私はため息をついてそれを払った。このまま放っておいたら、喧嘩するのは目に見えている。愛しのリリーの横で調子に乗ったジェームズ君がさらにスネイプ君を煽り、彼はムッとした顔でこちらに歩いてくる。
「リーマス君、ジェームズ君に声かけてきなよ。監督生でしょ?」
「えっ?」
急に指名されて、リーマス君は少し驚いたようだった。けど私は知ってるんだ、小説読んでたから。君はジェームズ君とシリウス君の暴走を止めるために、監督生に選ばれたんでしょう?その胸のバッチは何のためにあるの?大浴場の分くらいは働いてよ。
私はそのまま真っ直ぐ歩いて、スネイプ君の前に立った。
「……なんだよ」
「これ、あげる」
そう言って私は小さな黒い紙袋を渡した。
「……は?」
「いつも勉強教えてもらってるから、そのお礼。ハッピー・バレンタイン」
後ろでジェームズ君が盛大にからかおうとした声が聞こえたけど、リーマス君が何か話しかけて気を逸らしていた。スネイプ君はちょっと顔が赤くなって、緊張したように渡された紙袋を見ていた。
「素敵だわ」
近くにいたリリーが嬉しそうに微笑んだ。
「そういうのじゃないよ。はい、リリーにも。いつも本貸してくれてありがとね」
そう言って私はもうひとつの紙袋をリリーに渡した。本当は弟君にあげようかと思っていたけど、この流れでスネイプ君にしか渡さないのは流石に少し気まずいと思った。
「えっ、ほんとに?嬉しい!」
「まぁ、バラの花束には劣るけど」
「もう、こっちの方が何倍も嬉しいわ」
リリーが笑いながらマントを脱いで、私に手渡した。
「オレの分はないの?チョコレート」
「無いよ。シリウス君にお世話になった覚えない」
「ボガードの時、お前助けたのオレだろ?こいつじゃなくて」
シリウス君はサラッとそう言ってスネイプ君を指さす。エラそうなんだなぁ、ほんとに言動が全て。
「助けるっていうほどのことじゃなくない?恩着せがましいよね」
「そうか?顔真っ青だったけどな」
そう言いながらシリウス君が私の顔に触れようとした。
「ちょっと、いちいち触らないでよ。ほんとそういう所がさぁ――あっ、ごめん」
その手が届く前に一歩後ろに引いたら、スネイプ君にぶつかってしまった。
「君は、男なら誰でも良いんだな」
――は?なんだって?
一瞬、そんな風に言い返そうと思ったが、なんだか急に何もかもがどうでもいいような気分になった。だってそう、16歳の卑屈な男の子のゆがみを、馬鹿正直に受け取る必要などないのだから。
「そうかもね」
それに、スネイプ君の言う通り、私は誰でも良いのかもしれない。シリウス君もそれほど嫌な奴じゃないなと思ってる自分がいるし。
「ちょっとセブ!なんてこと言うの!」
「いいよ、リリー」
スネイプ君に食ってかかるリリーを私がとめた。人数が増えて、少し人目を引いているのも嫌だった。
「ごめんねスネイプ君、気の利かないことをして。そのチョコレート、本当に深い意味はないんだ。甘いもの好きじゃなかったら適当に友達にあげて」
「別に……そういうことを言いたかったわけじゃない」
「うん、わかってる」
ただ君はそう、私がシリウス君とじゃれあってるのが嫌なんだよね。その嫉妬は嬉しいけど、やっぱり言葉は選んで欲しい。
「じゃぁリリー、またね」
「あ、サマンサ!」
リリーがどこか焦ったように私を呼んだ。一拍置いてから、私はリリーに向き直った。
「なあに?リリー」
「あの……サマンサはナルニア国物語、好き?」
「タンスの中の世界ね……好きだよ」
ナルニアは映画が中途半端なところで打ち切りになってしまったから、あんまりストーリーは知らないけれど。
そこで私は、ロンドンの本屋で平積みにされていた橙色の本を思い出した。
「リリーは、モモ読んだことある?」
「あ、ううん、気になったけど買わなかったの。面白い?」
「じゃぁ今度貸してあげる、家に置いてきたから来年になっちゃうけど。リリーはきっと気に入ると思うよ、優しい物語だから」
ドイツ人のミヒャエル・エンデの作品、モモ。2025年の未来でも、世界的に有名な児童文学作品。去年ドイツで出版され、今年英語版が出て、本屋でも1番目立つところに置いてあった。タイトルだけは知っていて、暇だったから休暇中に読んだ。不思議な女の子モモが人々の時間を奪う“灰色の男”たちに立ち向かうお話。
正直、私は途中でつまらないなと思ってしまった。子供じみているなと。きっと私はもう、灰色の男たちに時間を吸い取られた後なのかもしれない。
「今度持ってくるよ、またね」
「うん、ありがとうサマンサ」
知れば知るほど、リリーは本当にいい子だ。明るくて前向きで芯があって、人を惹きつける魅力がある。彼女になら何でも話してしまいそうになるこの感覚はまるでモモみたいだ。
そうやってみんなが彼女を選ぶなら、私は選ばなくてもいいよね……。
2月が終わって3月になると、空の向こうから春の気配がしてくる。暦の上で春を知らせる、啓蟄がいつだったかはっきり覚えてないけれど、多分この時期だったような気がする。
この前のバレンタインからスネイプ君は図書館に来ないし、なんとなく目も合わないし、どうやら嫌われたみたいだ。いつ、どうして、なんでそうなったかはわからないけど、彼がそうしたいなら私はそれを受け入れるべきなんだろう。
私は馬鹿みたいに大きなため息をつきながら、寝る前の談話室で暖炉の火を眺めた。
「最近ため息多いね、サマンサ。なに?フラれたの?」
「うーんまぁ、そんなとこぉ」
「うっそ!誰?いつの間に?」
「秘密」
友達と甘ったるいバタービールを飲み、トランプに興じる。ブリッジという、イギリスでは定番の遊び方。当然知らなかったが、何度かやるうちに少しずつルールを理解した。
「あれでしょ、バレンタインでチョコ渡した相手でしょ?」
「何々?どういうこと?」
「サマンサ、ホグズミートでこっそり買ってたの、スターリング&ソーンの一番いいやつ!あれは絶対本命よ、だってたった5粒で3ガリオンもするんだから!」
「えーほんと!?誰にあげたの?」
「だから言わないって、おまけにフラれてるのに。ほら、ソフィのターンだよ」
「ブリッジなんてどうでもいいわよ、誤魔化さないでサマンサ」
「負けそうだからって無しにしないでよ、誤魔化さないでソフィ」
ふふっと軽く笑いながら、早口でまくし立てる友人に同じくらい早口で答える。3ガリオン、感覚的には大体3千円弱だ。それでチョコレート5粒なのだから、だいたいゴディバ並。ホグズミードでは1番高級なチョコレート屋さんだった。
美味しかったかどうかくらい聞いてみてもいいだろうか。いや、やめとこうか。食べずに捨ててるかもしれないし。……さすがにリリーに聞くのはちょっと癪かも。
「自分のこと好きになってくれる相手だけを好きになれればいいのにね」
どこかで聞いたようなドラマのセリフ。そんなセンチメンタルな言葉を自分が、それも15、6歳の女の子たちと話すなんて。恋愛は老若男女古今東西、人類共通の話題なのかもしれない。
「ああ……わかる。サマンサの恋バナってほんと久々、シリウスの時以来じゃない?だれ?結局またシリウスなの?」
「ないない、それはない。タイプじゃない」
「じゃぁどういう人がタイプなの?」
「んー、一途な人」
ある意味、最強の一途だよね、セブルス・スネイプって。結局そう、原作は変えられないのかな。セブルス・スネイプはリリー・エバンスが好き、ハリー・ポッターってそういう物語なのかも。
「で、どうするの?フラれて、諦めるの?」
「別に、何もしないよ。迷惑かけたくないしね、いつかのラブレターみたいに」
「やだ、サマンサが大人だわ。寂しい」
まぁ、大人だからね。くすくすと笑いながら「残り全部もらうよ」と声をかけて手札をテーブルに並べた。
「ついでにこれで終わり、10回目。コントラクト達成ね」
「あー!負けたー!」
例え自分を選んでもらえなくても、彼にはやっぱりもう少しマシな未来を過ごしてほしいし、死食い人になる選択を回避できればいいのだけれど。トランプを回収してまとめながら、一番手前にあるハートの7をじっと見つめた。私のままごとのような恋愛感情など、邪魔になるだけだ。
翌日、変身術の授業ではネズミを消す練習だった。クリスマス明けから、カタツムリの消失をやったりと、ずっと生物の消失呪文をやっている。私はこれが苦手だった。もともと変身術の授業は計算が多く苦手というのもあるが、消失という概念にどうも抵抗がある。いつか自分も消えるのかもしれないと、それが頭によぎるのだ。先週どうにか消すことができた私のかわいいカタツムリは、いったいどこに行ったのだろうか。目の前のネズミもそう、穴が開くほど見ているとだんだんと愛着がわいてしまう。
「エバネスコ 消えよ!」
カクカクと動き回り、机の匂いを嗅いでいる灰色のミッキーマウス。毛の一本だって消えていない。もうすぐ授業が終わる時間だし、ここまで何の成果も無いのはさすがに私くらいだ。どんなに下手くそな子でも、ネズミの尻尾くらいは消えている。
教室の中を縫うようにして歩き回っているマクゴナガル先生が、一人ひとり生徒の様子を見て、私の前で足を止めた。
「ミス・クラウチ、消失呪文の理論について、次回までに追加でレポートを提出するように」
「あー、はい。マクゴナガル先生」
口を結んでため息を堪える私に、友人が薄笑いで肩を叩いた。今週はイースター休暇前で、ただでさえ課題が多い。イースター休暇って言ったって、土日含めてたったの4日間なのに。他の授業も合わせるととても終わる気がしなくて、少し泣きそうだった。秘密の個人授業も終わってしまったのに。
放課後、いつものようにまっすぐ図書館に向かって、奥まった本棚の影に滑り込む。窓のない、明かりの少ない、空気のよどんだ二人掛けのテーブルに重たい鞄をどさりと下す。隣の空席にちらりと目をやって、黙ったままカバンを開ける。インク壺、羽ペン、教科書を取り出して並べ、カバンを椅子に掛けてから座る。
とにかくそう、戦争真っただ中のこの魔法界で、自分がどう動くにせよ、知識が無ければ何もできない。誰も救えない、何の役にも立てない、誰の傍にいることもできない。ハーマイオニーに知識が無ければ、きっと一年生の時、ハリーは死んでいる。
「……よし」
小さくつぶやいて、教科書をめくった。集中して羽ペンを動かして、ときおりそれを置いて。ただひたすら、言葉を頭の中で反芻して理解する。
――消失とは、物体が完全に完全に無に帰す状態ではなく、「形態の変換」を意味する。「形態の変換」とはつまりエネルギー保存の法則である。たとえば物質が燃えて消えたように見えても、それは熱エネルギーや煙(気体)に姿を変えただけで、宇宙全体の質量エネルギーの総和は変わらない。消失呪文もこれと同様である。物質に正しく魔法を衝突させることで、物体は魔法力そのものに変換される。物質としての形は消えるが、エネルギーとしてその場に存続する。
あーね、うん、うん……。消えるけど消えないってこと?
右手は羽ペンをインク壺につけたまま、左手でレポートの奥に置いてある教科書をめくる。その瞬間、背後でこつりと小さな靴音が聞こえた。反射的に後ろを振り返り、それにつられるように羽ペンがインク壺のふちをひっかけた。
「あっ、やばっ」
咄嗟の焦りもむなしく、インク壺が手前に倒れてレポートと教科書を黒く染めていく。インク壺はさっき新しいものを開けたばかりだから、中身までたっぷりだ。
「あぁ……」
「……悪い」
「いや、スネイプ君のせいじゃないよ」
軽く笑いながらそっとインク壺を縦に直し、真っ黒に染まった指と反対の手で教科書を摘まんだ。だらんと真上に持ち上げて、ぽたぽたと黒い雫が垂れていくのを見守る。
「ごめん、拭ってもらっていい?私相変わらずあれ、下手だから」
「あぁ」
スネイプ君が杖を取り出して、そっと教科書をなぞる。そのまま机をゆっくりなぞって、レポートの上まで杖を動かしていく。まるでこぼれたインクの逆再生を見ているように、杖の先にインクが吸い込まれていく。机の上をあらかた綺麗にして、スネイプ君は杖を手元に戻した。
「……手は」
「あ、うん、お願い」
私は黒く汚れた自分の両てのひらを上に向けて、スネイプ君に差し出した。肌の上を、さっきと同じようにそっと杖先でなぞっていく。それがまるで生き物の様で、先週、消失呪文を唱えたカタツムリを思い出した。魔法をかけてもらうという行為は、どうにも形容しがたい近さがある。指で触れる、なぞる……こう拭うという動作は特に、まるで舌で舐められているような。
流石に自分の思考が気持ち悪いなと思って、きまずくなって目を逸らした。
「……ありがとう。もう大丈夫」
震える指先をごまかすように、指の間に残ったわずかなインクをハンカチで強く拭いた。
「久しぶりだね、もう来てくれないかなと思ってた」
「そう……しようかと思っていた」
「ん……そっか」
あー、あれかな。わざわざちゃんとお断りをしに来てくれた感じだろうか。そんなの別に、いいのに。
「……それは1年のテキストか?」
「あぁ、うん。基礎が無いからね、おとなしくイチからやろうと思って」
机の端に寄せていた、『変身術入門』のテキストをスネイプ君が手に取った。
「なぜそこまでやる?君に魔法は無理だ。ホグワーツがなぜ11歳で入学するか、知っているか?一説には、それより後の年齢では魔法の、特に杖を振り使用する魔法の定着率が明らかに落ちるからだ。だから魔法は、なるべく幼いうちから学ぶべきものであり、論理的思考が形成され理論を理解できる11歳がホグワーツ入学時期とされているが、それでも遅いと指摘する魔法使いもいる。君では……初めて魔法に触れたのが14歳の君では、遅すぎる」
「あぁ、まぁ、うん」
まるで英語の学習のようだ。幼少期でないと、耳が作られないとかなんとか。魔法もそういうのがあるのか、どうりで。
容赦ない彼の言葉で、自分がこの先も永久にポンコツだということを飲み込むのに5秒はかかって、気を取り直して言葉を続けた。
「先週も、闇の印が上がったって、新聞に載ってた」
「……あぁ」
「この先どうなるのかわからないけど、いざという時に動けるようにしておきたいの。物事の流れについていけるように」
「物事の流れ?」
「そう……。きっといろいろ、あるでしょう?こんな世の中なんだもん。そういう時に、できれば……こう、身近な人には笑っていて欲しいなぁとか」
ああもう、まどろっこしいなぁ。
「守りたいなと思う人が居るの。私が力になれるかなんて知らないけど」
またもや臭いセリフを吐いてしまったと、心の中で斜に構えるそんな自分に、笑いながら軽くため息をついた。
「それで?スネイプ君は?私に言いたいことがあってきてくれたんでしょう?」
責めるつもりなんて全くないのに、なんだか詰めるような言い方になってしまった。誤魔化すようにわざとらしく肩をすくめて、怒ってないよと示すように両手を開いた。
「別に、君が課題に困ってるだろうから、見に来ただけだ」
「……そう、ありがとう。うん、手伝ってくれるとすごく助かるよ」
フラれる覚悟を決めた分、拍子抜けではあるけど、スネイプ君がそれを先延ばしにするならそれでもいい。
「ちょうどね、マクゴナガル先生の追加課題やってたんだけど……消滅呪文の理論についてって、範囲広すぎない?論文一個でもまとまらないよ。どこを拾えばいいのか、迷ってたところなの」
「君は……!」
突然、彼が緊張気味に言葉をかぶせるから、私はへらへらと笑うのを止めた。数秒の沈黙の後、スネイプ君がまたしゃべりだした。
「……守りたい人って?」
「……さすがにもう、わかってるんじゃない?」
ここから、なんて繋げるのが正解なんだろう。
「ね、別に私、怒ったりしてないよ。君を責めるつもりもないし……当たり前だけど。あー、だからその、これからも友達で居よう?いや、居てくれると嬉しいな。うん。……もう、君を困らせることもしないよ、誓ってもいい。……人前でチョコレートなんて渡して、ごめんね」
よりにもよって、リリーの前で。あれから彼に嫌われた理由をいろいろ考えていたが、きっとこれだろうと思っていた。
だから、彼が続けた言葉に驚いた。
「どうして僕なんだ……」
――それはそれは、目の前にいる私にも届かないほどの、小さな声で。
私は思わず目を丸くした。そんなことが、そんなに疑問なのかと。でもそう、彼にとってはそうなのだ。誰にも愛情を注がれてこなかった、彼にとっては。それを理解して、胸の奥が少し苦しくなった。
「君が、私を見つけてくれたからだよ。サマンサ・クラウチじゃない、私を。……誰も信じない私の話を、君が信じてくれたから、君に何かを返したいと思った」
「……偶然だ。君がそのことを、僕以外に主張しなかっただけだ。今改めて、君がその話をすれば、もっと多くの人が耳を傾ける」
「いや、私はそう思わないよ。もうずいぶん長い事、サマンサ・クラウチをやってきたし、周りもすっかり信じてる。……もう遅い」
そう、もう遅い……。私が今から、勇気を出して正義を掲げて、正しいと思うことのために行動する、グリフィンドールのようになるには。もう、あまりにも。
だから私は、身の保身のために、リリー・エバンスを始めとする多くの人を見殺しにするのだ。思考がそれに行き着いて、固く唇を噛む。
「……なまえ」
「……日本だと、ずいぶん親しい関係にならないと、異性間でファーストネームは呼ばないの」
君が私の名前を憶えていると、思わなかった。
「僕らはそうじゃないって、言いたいのか?」
「……ううん」
スネイプ君が、一歩私に近づいて、曖昧にそっと手を伸ばす。私からその手を掴んで、少しだけ上を見上げる。
「スネイプ君を見てると、少し勇気をもらえる気がするよ」
「……意味が分からない」
少しでもそばで、君を守ることができるなら、何でもできる気がする。掴んだ手に力を込めて、私なりに、私にできることで君を守るからと、そんな決意を頭に浮かべる。
そっと目を閉じて顔を上に向ければ、唇にささやかなぬくもりが触れた。
これを、私のファーストキスということにしたいと思う。