第1章
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4年生が終わり、このホグワーツで初めて迎える長期休暇。あちらへこちらへと視線をさ迷わせて、私は別人であると悟られないように細心の注意を払いサマンサ・クラウチとして彼女の家に帰ってきた。
そもそもここに居るのは私のせいではないのだし、記憶なんか戻っておらず別人なんだと言ってもいいのではと思ったことが無いわけではない。ただその度に思うのだ、小説のことを誰かに気づかれてしまった場合、私は本物か分からないその知識を伝えることになるだろう。例えばそう、クラウチ・ジュニアは父を恨み死食い人になりヴォルデモートに忠誠を誓ってクラウチ家を壊すとか。そんなこと、疑うだけでも大罪では無いか?もしこの知識がやはり妄想だと断じられたとき、私はどこで生きたらいい?
もちろん小説のことだけを頑なに胸に秘めておくこともできる。でも魔法とは私の思う以上に万能であり、強制力が強く、抗えないものなのだと、この半年学んで実感したのだ。
やっぱりそう、とりあえず今はサマンサ・クラウチとして過ごし、どうしようもなくなったら正直に言おう。
ああ、事なかれ主義はスラグホーン先生ではなく私か。それとも歳を取れば皆そうなるのだろうか。私だけが臆病者なのだとしたら、それはどんなにか惨めだろう。ふと学期末に盗み見たスネイプとリリーの姿を思い出して、少し心がどろりとした。リリー・エバンスはきっと、臆病とは無縁の子だ。
「成績表を出しなさい」
この家に優しい家族の団欒と言うものは無いようだ。家に着いて荷物を起き、夕食のために食卓を囲んですぐクラウチ氏がそう言った。うげぇと思いながら留年ギリギリの悲惨な結果を思い出す。ちらりと弟くんの方に目をやれば、こんな会話も当然予想していたのか成績表を手元に持ってきていた。
「すみません、部屋に置いてきてしまったので取ってきます」
「段取りが悪いな」
「すみません」
腹が立ったので、子供のように目を合わせずに謝罪した。そんな段取りしるかと悪態を飲み込んで2階に上がり、羊皮紙を手にまた1階へ降りた。異様なまでに静まり返った家の奥から、クラウチ氏の声が聞こえる。
「……それで、変身術の成績は、マクゴナガル教授からE(良)をもらったのか?」
「いえ、父上。O(優)です。学年で僕一人だけでした」
まるでスピーチのようなゆるぎない声でジュニアが答える。
「そうか。まぁクラウチ家の息子なら当然だな」
そういうところだよ、一言くらいほめればいいのに。そう思いながら、クラウチ氏の低く威厳に満ち溢れる声に負けないよう、深く深呼吸をした。
「スリザリンの寮内での交友関係はどうだ? 最近、不穏な動きを見せる家系の生徒が多いと聞く。特にブラック、レストレンジ……。法も世の中のルールも守れない、純血と言えども落ちぶれたものだ。血の上に胡坐をかく、品性のかけらもない面汚しどもが」
ドアの前でついもたもたと足を止めていたら、シニアが追い打ちをかけるように息子に声をかけた。子供の友好関係を心配するとしても、そんな言い方は無いだろう。まさに子供を自分の管理下にある部下と認識している。仕事を家庭に持ち込んでくる、典型的なエリートタイプのモラハラ……まるで私の父のような。
「すみません、遅くなりました」
「ああ……君か」
シニアは私を見て、忘れていたとでもいいだけに軽い返事をした。いくら養子にとった他人の子供だと言えども、そんなあからさまな態度の差は無いのではないだろうか。この手の人間が人として失礼な態度をとる時、それは気が回らないからではない。お前などまともに対応する価値がないと態度で示しているだけだ。
こちらを見もせずに差し出された手に自分の成績表をのせる。シニアはそれをちらりと見て、まるで下品なイラストでも見たかのように目を細め鼻の頭にしわを寄せた。でもそう、幸いにしてサマンサ・クラウチは勉強の成績が悪かったようで、今回のテスト結果も今までと大差ないらしい。
「まぁ、人には不得意なこともあるだろう。君は勉学以外のことに努力したほうが良いかもしれない。よく友人を作り、今まで通り真っ当にやりなさい」
今まで通り、まっとうに……?
「……もしかしてご存じないのですか?」
今年、散々周囲に迷惑をかけた私の虚言騒動を。
「何をだ?」
ここでようやく、クラウチ氏が初めて目線をあげて、私を見た。
「あ、いえあなた、別に大したことではないのよ」
横からあわてたように口を挟んできたのは母親で、私はあぁと納得した。おそらくスラグホーン先生から入っているであろう報告も、母親が受け取り夫に報告していなかったのだろう。この家は全て父親の機嫌次第のようだ。きっと今までもそうやってきたに違いない。思わず天井を仰ぎ見て、高そうなシャンデリアの輝きを瞳に閉じ込めた。
「そうですね、大したことではありません。食事をとりましょう」
クラウチ氏は黙ったまま私を睨み、そのまま母親に目を向けた。母親は怯えるように身をすくめ、お食事を再開しましょう?と言って彼のグラスにワインを注いだ。私はクラウチ・ジュニアの隣の席にまた戻り、小さな声で囁いた。
「マクゴナガル先生からO(優)なんてすごいね、おめでとう。ねぇ、あとで変身術教えてよ」
「なんで僕が、そんなこと……」
「絶対私より頭良いもの。お願い。これ以上酷い成績とったら来年は私きっと退学させられるわ。『お前はクラウチ家の恥さらしだ、お前など学校に行く価値もないー』ってね」
「なにそれ、父さんのつもり?」
「どう?似てると思ったんだけど」
ジュニアは唇を片側だけ歪めるように笑った。彼はもう少し、まっとうな反抗心を覚えるべきだろう。溜めに溜めて死食い人とかになる道ではない、小悪党で済む道を。
クラウチ氏は私が何をやらかしたのかを母親に問い詰め、私に何も言わずに母親を責めた。お前の教育が悪い、躾が不十分だ、子供の監督は母親の仕事だと。せめてそういうものは私の見えないところでやってもらいたい。母親に申し訳なさを感じつつも、この母親が徹頭徹尾頭を下げることすら加害に感じる。
もしシニアが誰かの言葉を聞くとしたら、それはきっと妻であるはずだ。シニアの暴挙は母親が止めるべきで、夫婦とは本来そうあるべきだ。夕飯のメインの肉料理はステーキの上にフォアグラが載ったロッシーニで、姉の結婚式を思い出した。
休暇中、ずっとこんな空気だったらさすがに気が滅入るなと思ったが、幸いなことにシニアはほとんど家に居なかった。今はヴォルデモートが台頭し、魔法省が混乱に陥り始めているときだろう。きっと職場では誰が味方で誰が敵かも分からない。
クラウチ氏は望まれた強いリーダーとして、魔法法執行部長への階段を猛烈な勢いで駆け上がっている頃のはずだ。彼のすべてが間違えているとは言わないが、父親としては最悪だ。
「ねぇバーテミウス、勉強教えてもらってもいい?」
2か月間、とくに予定は無かったし、進級に危機を感じていた私はそれなりに真面目に机に向かった。次は5年生でO.W.L試験があるし、小説の感じで行くならばしょっぱなから課題が山盛り出され、みんなついていくのに精いっぱいになるはずだ。セブルス・スネイプにいつまでも迷惑をかけるわけにもいかない。
「……本気だったのか、あれ」
「ほんとお願いよー!もうなりふり構っていられないの、ね?」
クラウチ・ジュニアは少し嫌そうに顔をしかめた後、僕が姉さんの部屋に行くと言って立ち上がった。自分のテリトリーに他人を入れたくないタイプのようだ。休暇中、未成年の私たちが魔法を使うことはできないので、当然座学のみの勉強になる。大きくて立派な勉強机に椅子を二つ並べて、私は教科書を読んでもわからなかった部分をひたすら彼に質問した。
実際、読んでもなおわからないという部分はそこまで多くは無いのだ。ただどうにも4年間分となると範囲が膨大で、覚えるのが追い付かない。特に元のマグルとしての知識がこれっぽちも役に立たない、変身術なんかは苦労している。
これはどちらかというと数学の、幾何学に近いような気がした。点・線・面・立体などのシンプルな構造から、それらが存在する空間の性質、つまり距離や角度、面積や体積などを計算する。もともと文系出身の私には最悪だ。おまけに私の息の根を止めるヤード・ポンド法。泣きそうだ。
「まってまって、そこなんで杖の角度が30度になるの?」
「『変身の三角形』の基礎なんだよ。ほら、教科書の56ページにある図を見て。変身術っていうのは、魔法エネルギーを対象物の分子構造の隙間に流し込む作業だ、それくらいわかるだろう?」
「ブンシコウゾウのスキマに流し込む作業……」
「……嘘だろ、そこから?」
私、ただ福山雅治を心に宿し、ガリレオ先生みたいに頭の中で猛烈な暗算ができればどうにかなると思っていたんですが、違うんですか?
「分子構造の隙間っていうのは、僕たちが杖を通じて感じる抵抗のなさのことだ。マッチ棒を針に変えるとき、ただの木の棒だと思って振っちゃダメなんだよ。木目の間にある、ほんのわずかな魔法的な通り道を意識するんだ。『変身の三角形』はその角度を理解するために必要な公式。……前から思ってたけど、姉さんってバカだよね」
「……頑張ってみる」
わかんなくて泣きそう。
「……姉さん、本当に全部思い出してるの?本当は記憶まだないんじゃないの?」
「えっ、いや思い出してるよ、ほんとに。ただまぁちょっとうん、混濁してるところはあるかもしれないけど……。さすがに、バカすぎて引いた?」
「別に、姉さんが勉強できないのは昔から変わらない。ただちょっと……今までと違うなと思ったから」
とりあえず確信的な質問ではなかったことに安心しながら、こっそりため息をついて前かがみの体を後ろに倒した。羽ペンをペン立てに置いて腕を組む。
弟の彼にも、スネイプ君と同じように本当のことを言ってもいいかもしれない。でもやっぱり未来が悲惨なだけに言いづらいし、もし何かあってこの家で反感を買い勘当でもされたら生活に困ってしまう。保身が最優先で申し訳ないが、リスクは負いたくない。
「やっぱさ、虚言って言われてちょっとショックだったんだよね。全部自分が悪いんだけど……。でもあの時さ、バーテミウスはあんまり態度変わらなかったじゃん?それすごくありがたかったの。ちゃんとお礼言ってなくてごめんね。私みたいな姉のせいで、君の評判まで落としたらどうしようと思って、あんまり声かけられなくて……。だからうん、せめてあんまり迷惑かからないようにしようかなって、勉強も。ほら、私がお父さん……を怒らせたら、きっと君にしわ寄せが行っちゃうでしょう?」
「別に……姉さんの成績が悪くたって、父さんは僕に何も言わない」
「んーそりゃね、直接はそうだと思うけど、この前も食卓でさ、あんな風にお母さんのこと責め立てて、見てるこっちも気分悪いじゃない?きっとさ、君のことは責めないよ。あのバカな姉の様になるんじゃないぞ、反面教師にすればいい、とかね。そう言うと思うよ。でもそれって、言われる方も結構嫌な気分にならない?」
バーテミウス君は何も言わなかった。
「あの人はさ、今の時代の魔法法執行部としてはそんなに間違ってない部分もあると思うよ。でも父親としては最悪。A(可)でもないよ、D(ひどい)かT(トロール並み)だね。あんなのと13年も暮らしてる、バーテミウスはすごいよ」
「ふっ……今日一番、唯一まともなことを言ってると思うよ」
バーテミウスはそう言って力を抜いて笑った。
「ついでにその呼び方止めてくれる?あれと同じ名前なんてごめんなんだ」
「もちろん。なんて呼ぶのがいい?バーティ?」
「まぁ、それでいいよ」
「うん、じゃぁ改めてよろしくバーティ」
笑いながら右手を差し出せば、彼は一瞬だけ軽く握ってすぐに離した。手のひらは暖かくて少し湿っていて、指にある立派なペンだこが、彼が今までどれほど努力してきたのかを現わしていた。将来何でも選べるような優秀な君が死食い人を選ぶなんて、ほんと悲劇だ。
その日は3時間ほど勉強して、食事に呼ばれて揃ってリビングに降りた。私が声をかけると母親はぎこちなく笑い、父親不在の夕飯はそれなりに穏やかだった。魔法省で一生トラブルが続きますようにと最悪なお祈りをして、ふかふかのベッドで眠った。
そうやってのんびり勉強をしつつ、父親が不在の時にこっそり買い物に出掛けてロンドンを練り歩く。1975年のロンドン、その街並みだけで心が踊る。それからダイアゴン横丁を歩き、ノクターン横丁の入り口だけ眺めて、漏れ鍋でバタービールを飲む。
映画が参考になるのか知らないが、賢者の石でハリーが学用品を買いに来た時より随分閑散としている。やはりヴォルデモートの影響だろうか。明るいうちにまたこっそり家に帰り、買ってきた色鉛筆とスケッチブックで暇を潰す。
娯楽の少なさに辟易しながら、スケッチブックに時間をかけて丁寧にスネイプ君を書いた。映画じゃない、小説じゃない、私が仲良くなったスネイプ君。キスなんかしてごめんねと思いつつ、嫌がられなかったことに喜んでしまう28歳。思わず自虐的な笑みがこぼれる。
ぺったりと油っぽい髪の毛、不揃いな毛先、いつもくたっとしているシャツの襟の内側は少し黄ばんでる。不潔と言うほどではない、でも清潔とも言い難い。彼の父親は家庭内暴力を匂わす表現があった、母親はどうなんだろう。スネイプ君を守るのだろうか、ただ見て見ぬふりなのか。
――愛しい君に、髪の毛1本まで愛をこめて。
絵というのは本当に重たいと思う。自分の絵がこんな風に書かれていると知れば、本人はきっと嫌がるだろう。だからこそいいのだ。ここは私だけの完璧な世界、私と彼だけの2人の対話。誰の目にも触れられず誰の批判も来ない。
彼の生い立ちを可哀想、なんて偉そうに言うつもりは無いけど、仲良くなれたらいいなと思う。キラキラと青春を謳歌する他の同級生達とくらべたら、スネイプ君と居る方が落ち着くのは確かだ。何となく、そこに自分の居場所を感じてしまう。
コンコンとノックの音が聞こえて、私はそっとスケッチブックを引き出しの奥の、見えないところにしまった。
「どうしたの?バーティ」
「食事が出来たから呼んでこいって」
「あ、もうそんな時間か。そうだ、ねぇちょっと待って」
そう言ってドアを開けっ放しにして、私は今日散歩のついでに買ってきた袋を持ってきた。
「はい、あなたに。きっとバーティの成績、学年トップとかでしょう?だからこれ、そのお祝い」
「……何これ」
「開けてみて?」
少し反応を楽しみにしながら、私は両手を後ろに回してかかとを上げたり下ろしたりしていた。
黒いシンプルな箱に入っているのは、シルバーの、飾りのないシンプルなストックピン。ストックピンとはまぁネクタイピンのようなものだ。
魔法界の伝統的な紳士諸君は、首元にクラバットとかストックとかいう布を巻く。ネクタイの元となる、もっと布量が多いものだ。分かりやすいところで言えばナポレオンが首の下に巻いてるあの白いモコモコ。流石にあんな巻き方、年頃の男の子はしないけど。
「どう?まぁ気に入らなかったら適当に引き出しの奥にでも放り込んで置いてよ」
「いや……別に。……ありがとう」
「うん、どういたしまして。いつも勉強見てくれてありがとね」
「……なんでこれにしたの?」
「前に見かけたの家紋入りだったから、そうじゃないのあってもいいかなって」
視線を手元のストックピンに落としたまま、無言で部屋に戻っていく後ろ姿を眺めて微笑んだ。気に入ってくれたなら嬉しい。
長いようで短い2ヶ月が過ぎ、トランクに大荷物を詰め込んでまたロンドンのキング・クロス駅に向かった。2ヶ月前、向こうから出てくる時は、それなりに門のような場所を通り抜けて気づいたらホーム居たから、この壁に激突するスタイルは初だ。
駅まで見送りに来てくれているのは当然母親のみ。父親は仕事だ。母親はバーティを非常に気にかけて、何かあったら連絡するように、4年生になったからといってホグズミードでも危険なことをしないようにと何度も念を押した。まっとうな、いい母親だと思う。
壁に向き合ってごくりと唾を飲み込んで、目を閉じ無いように堪えてカートに力を込めた。だってそう、目をつぶってしまったら勿体ないじゃない、夢にまでみたあの9と3/4番線を、本当に突っ切ろうとしているのだから。
まるでテーマパークのジェットコースターに乗ったようなときめきで、心臓が楽しそうに飛び跳ねた。
こんな喜んでいる場合じゃないのかも知れない、いったい私に何が起こっていて、私は私なのかサマンサ・クラウチなのか、夏休みの間にもっとちゃんと考えるべきだったかも知れない。でもやっぱり、ホグワーツは私の夢の場所だ。
「何そんなニヤニヤしてるの」
「え?いやーあの家出れたのが嬉しくて。バーティもそうでしょう?」
「別にどっちでもいいね、やることは変わらない」
「クールだねぇ。顔も中身もかっこいい」
魔法界側のホームで弟と肩を並べてガラガラとカートを押す。直ぐに彼のお友達が手を上げて声をかけてきた。
「じゃあまた後でね、バーティ」
「ああ」
一方で私はと言えば、ホームで見かける友達の目線をさりげなく避けていた。お友達は嫌いでも何でもないが、3時間近くある列車の旅、出来れば1人で静かに寝ていたい。
ずりずりと思いトランクを引きずりながら列車のステップを上がり、どこかに都合の良さそうなコンパートメントが無いかと探しながら歩いていた。5つ目くらいで覗き込んだコンパートメントで、見慣れた黒い瞳と目が合った。
あ。と思わずその場で声をあげ足を止めた。
――良かった、元気そうで。
その隣には緑色の瞳を持つ、綺麗な赤毛の女の子が居た。その子は私に気付くと直ぐに笑顔でコンパートメントのドアを開けた。
「あの、もし良かったら一緒にどう?あなたとその、ちゃんと話したいと思ってたの」
リリーにそんな風に誘われて断れる人は居ないだろう。スネイプ君が嫌がりそうと思ったけど、私は促されるままにそのコンパートメントに入った。リリーに言われてスネイプ君が私のトランクを網の上に乗っけてくれた。
6人掛けのコンパートメントに、3人。スネイプ君はもう魔法使いのローブに着替えている。
ありがとうと彼に声をかけたけど、別にとぶっきらぼうにそう言って、私と一切目を合わせてくれなかった。スネイプ君とリリーは向かい合って座っていて、私はリリーの隣に座った。
「あの、嬉しいわ。あなたが来てくれて!私てっきり嫌われてると思ったから……」
「えっ、別に……」
私は私がリリー・エバンスを嫌う理由を必死で考えた。グリフィンドールとスリザリンだから?他になんかあった?とりあえず嫌ってるそうだし無愛想にしとく?そんなことを考え迷っていたら、再びリリーが話し始めた。
「謝りたかったの、ずっと」
「謝る?あなたが?私に?」
思わず助けを求めるようにスネイプ君を見れば、リリーの影で彼も首を竦めた。どうやら知らないらしい。
「別にいいよ、どうせ過ぎたことでしょう」
とりあえずそう言って、何となくスリザリンっぽさを意識してそれ以上の会話を拒むように腕と足を組んだ。
「でも……そうね、過ぎたことだわ。ありがとう」
「……別に」
なんだろう、凄く気になる……。
「2人は仲良いの?同じコンパートメントに居るなんて」
でもボロが出る前に話題を変えなくてはと、私からそんな話を振った。
「うん、家が近所なの」
「へぇそう、魔法界出身なの?」
まぁ、知ってるけど。……いや待てよ、それくらいサマンサ・クラウチも知ってるだろうからとんでもない嫌味になっては居ないだろうか。スリザリンっぽいからアリか……?
「あ、ううん……マグル……」
そう言いながらリリーはチラッとスネイプ君の顔色を伺う。スネイプ君は何も言わない。
「そう、じゃぁ尚更珍しいね。……素敵だと思うよ、幼馴染って」
私はとりあえず、不自然な肯定で会話を繕った。こうやって嘘を重ねていくことにも、少しうんざりしてくる。
「そう、そうなのよ。だからそう、魔法のことも私最初セブから教えてもらったの。セブの……親御さんは魔法界の出身だからね」
さりげなくスネイプ君の血筋までフォローするリリーの気が利くことよ。
「私はセブに教えてもらうまで魔法も何も知らなくて、だからホグワーツに入るまでは唯一の魔法界友達だったの」
「それはあれね、運命みたいな出会いだね」
「そうかも……だからその、私たち友達よ。ね、セブ」
「あぁ、もちろん」
ようやく列車が進み出して、ゴトンという鈍い音の後、キィという金属音が続く。私は黙ったままゆっくり移り変わる窓の外をじっと眺めた。ホグワーツ特急に乗るのは2度目だけど、やっぱり特別だ。
「ホグワーツ特急の景色、綺麗よね」
「うん……落ち着くよね」
そうして特に何も考えずに、ぼーっと車窓を楽しむ。しばらく沈黙が支配したコンパートメントの中で、リリーが私に「休暇中は何してたの?」と聞いた。
「んー、ずっと家かな。リリーは?」
「そうよね、お父様お忙しいわよね、今は特に……。私も遠出はしなかったわ、家で本を読んだりとか」
「へぇどんな本読むの?」
「マグルの本だから知らないかも知れないけど、指輪物語っていう長編のファンタジーよ」
「指輪物語……?」
どうでもいい世間話に知っている単語が聞こえて、急に興味をそそられる。
「それってあの、フロドが指輪を壊すための物語であってる?」
「そうよ!知ってるの?」
「いや、ちゃんとは読んだことないんだけど、そう……そうなんだ……うわー私も買えば良かった……!」
本屋には一度立ち寄ったがそんなに隅々までは見なかった。やっぱり爆発的ヒットは映画化されてからなんだろうか、原作がこんな古くからあったとは。すっかり思考から外れ探しもしなかったことに、映画ファンとして敗北すら感じる。今ならそう、苦労せずに真の原作、つまり日本語訳前が読めるではないか。
「……あれっていつ出版された本なの?」
「私も詳しく覚えてないけど、確か1950年代だったと思うわ。母が勧めてくれたの」
「そんなに古くからあるんだ!知らなかったぁ、私もっと新しい作品だと思ってた」
「ふふふ、わかるわ。私も初めて読んだ時に同じことを思った!ねぇ、サマンサはどのキャラクターが好き?」
「うーん、私は意外とゴラムかな。まぁ、ビジュアルだけでいうならレゴラスだけど。リリーは?」
「あぁ、わかるわ!ゴラムも本当に憎めなくて……。私はやっぱり王道だけどフロドが好き。ねぇ、良かったら貸すわよ、私持ってきてるから」
「え、いいよ、リリーが読むために持ってきたんでしょう?」
「ううん、私はもう読んだし、友達に勧めようと思って持ってきたの」
そう言いながら立ち上がって、リリーが網棚の上のトランクに手を伸ばす。私も笑いながら一緒に手を伸ばして、重たいトランクを支えた。
「……そんなに面白いのか?」
それまで黙っていたスネイプ君がぼそっと口を開いて、私たちは一瞬顔を見合わせた後にんまり笑った。
「そうよ、面白いわ!セブもマグルのどうこうなんて言ってないで読んでみるといいわ、魔法への理解も深まるわよきっと」
「そうそう、魔法はもっと恐ろしいものとして書かれるの、その世界観の奥深さがすごいんだから。もちろん、ハ……!」
思わず自分の口を両手でパッと抑えて、2人の注目を浴びてしまった。危ない、ハリー・ポッターも面白いけどね、なんて言いそうになってしまった。
「どうしたの、サマンサ?」
「あ、いや、くしゃみが出そうで出なかっただけ、ハハハ……」
ちょうどそのタイミングで、お菓子を販売するワゴンが来た。
「あ。私買う」
ぱっとコンパートメントの扉を開けて、念願のあのお菓子を三つ買った。私はそれをひとつずつスネイプ君とリリーに渡した。
「はい、どうぞ」
「カエルチョコレート?」
「僕は要らない」
「いいじゃん。去年、命救ってくれたお礼だよ」
「……だとしたら安すぎると思うが」
「命って?何があったの?」
「去年ね、いろいろあって蛇に噛まれて死にそうだった時に、スネイプ君がさっと解毒剤持ってきてくれたのよ。アレが無かったら今頃は私、ゴーストだったかも」
「そうなの?聞いてないわ、セブ。なんで言ってくれないの?」
「別に……君に言うほどのことじゃないと思ったからだよ、リリー」
「ほんとにね、かっこよかったんだよ?スネイプ君。マルシベールが暴走してさ、ほら、あの性格じゃない?みんな何にもできなくて遠巻きに見てるだけだったんだけどね、スネイプ君だけがぱっと動いたの。リリーがその場に居たらちょっと見直してと思うなぁ、幼馴染のこと」
リリーは私の言葉を聞いて、今日一番うれしそうな顔をした。私と指輪物語で盛り上がってる時より、ずっと。
「もう、ちゃんと言ってよセブ!私もうてっきりあなたがそういう、マルシベールだとか、エイブリーだとか、あの人たちと同じことをしようとしてるのかと……」
「別に、エイブリーやマルシベールだって、ただの知り合いだ。同調してるわけじゃないって言ってるだろう。第一君だって、人の友人関係に口を出す前に、自分はどうなんだ」
「なに?私の友人が何かしたって言いたいの?それはもちろん、全員が聖人君主ではないけれども、あなたのお友達の様におぞましい事には手を出さないわ」
「君の友人のすべてとは言わないが……アイツらだって十分……」
だんだんと空気が悪くなってきたところで、どうしようかと中途半端に手元のカエルチョコを弄っていたら、中身がぴょんと飛び出てしまった。
「あぁちょっと待って……」
それがまず、スネイプ君の顔に張り付いて、リリーがぷっと噴き出した。
「おい、何するんだ」
「ああごめん二人の会話を邪魔するつもりはなったんだけど、あっ」
今度はカエルがリリーの顔に飛び乗る。スネイプ君がいらだったように手に持っていた自分のカエルチョコレートの箱を窓枠に置いたら、バランスが崩れて床に落ち、2匹目のカエルが解き放たれてしまった。
「ああ、カエルが2匹に……」
「……えいっ」
「ちょっとリリー?」
3つ目の箱をリリーが楽しそうに開けた。コンパートメント内を3匹のカエルがぴょこぴょこしている。
「何で開けた?」
スネイプ君がはぁと軽くため息をついて、でも口角を少し上げてリリーを見た。
「その方が楽しいかなと思ったの」
リリーは悪戯っぽく笑った。
「ねぇごめんなさいセブ、確かに私はあなたのことに口を出しすぎてるかもしれないわ。でもそれはその、あなたが心配なの、わかって欲しい」
「……そういう話は、頭にカエルチョコレートを乗せながら話すことではないと思うけど……君の考えはわかったよ」
それは二人だけの世界で、望ましい変化だと思った。ただ原作が変わっていくようなその流れに少しだけ不安を感じた。もし、セブルス・スネイプが死食い人にならなかったら……その世界では誰がヴォルデモートを打ち滅ぼすのだろうか。ヴォルデモートは確かに存在して、この2か月の間にも3回、蛇の印を空に掲げているのに。
私がやっていることは結局、呪いの子でアルバス・ポッターがやっていたことと同じではないだろうか。手元のカエルチョコレートの箱に残っていたカードはダンブルドアで、私はそれを読んでいるふりをしていた。
急に、誰かがノックもせずにコンパートメントの戸を開け、私は驚いて振り返った。開いた扉の隙間から茶色いカエルが一匹逃げ出すのが見え、代わりにジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックが入ってきた。
「やあリリー!こんな所に居たのか、探したよ!」
「……せめてノックくらいしてから開けてくれない?それに私は貴方に探して欲しいなんて思ってないわ」
リリーは眉を寄せて嫌そうな顔をした後、私とスネイプ君の顔色を伺った。スネイプ君は見るからに不快そうな顔をしてジェームズ・ポッターを睨んでいて、私はリリーの視線に曖昧に微笑んだ。
「リリー、君は誰とでも仲良くしてほんと優しいな?」
シリウス・ブラックが鼻で笑うようにそう言って私を見た。去年、地獄に堕ちろと捨て台詞を吐いたのが最後だから好印象では無さそうだ。
「シリウス!あなたはまずサマンサに謝るべきだわ!」
リリーがキッと強く睨みつけて毅然とした態度でそう言った。それはいかにもリリーらしいと思うけど、なかなか出来ることでは無い。
「オレが?こいつに?冗談だろ?何を謝ることがある?むしろ被害者だねオレは、こんなキモい女に付きまとわれてポエムみたいなラブレターまで貰って、ゾッとしたぜ!」
「シリウス!」
リリーが声を荒げて怒ったけど、私はどうでも良かったし、彼の言うことに一理あると思った。
「別にいいよリリー。もうどうでもいいというか……目が覚めたの。あなたがあんな幼稚なことをする人だと思わなかった、がっかりだわ」
「……はっ、そうかよ。強がりもここまで来ると芸術だな」
そう言ってシリウス君は私がさっき座っていた位置の隣にどかっと腰を下ろした。
「居座るの?自分のコンパートメント戻って欲しいな」
そう言ったのに、今度はジェームズ君もシリウスの正面に座った。リリーが渋々また座って、その正面にスネイプ君が座って、私もリリーとシリウス君の間に腰を下ろす。
「そうよ、戻りなさいよ2人とも」
リリーがうんざりしながらそう言った。ジェームズに好かれるって、結構大変だったんだなと少し同情した。リリーは近くのカエルを一匹箱に戻したが、最後の一匹は網棚の上に逃げてしまった。
「そんなこと言うなよ、リリーに会いたくてずっと探してたんだから!」
ジェームズ君が芝居がかったように大きな身振り手振りで喋る。自分の目の前を掠める手を、スネイプ君が不愉快そうに睨んだ。
「しつこいな、彼女が嫌がってるじゃないか。出ていけよ」
スネイプ君がローブのポケットに手を突っ込んでそう言った。きっと杖を掴んでいるのだろう。ジェームズ君もそれに気づいて同じように手をポケットに持っていった。
「いい加減にして!こんな狭い列車の中で魔法で喧嘩なんてし始めたら、私もう2人と一生口きかないからね!」
リリーのこの言葉は効果的面だったのか、スネイプ君もジェームズ君も2人ともお互いを睨みつけながら右手をすっと元に戻した。それを見て、私は思わずふふっと笑った。
「リリーも大変ね」
「もう、ほんと……。ごめんねサマンサ、嫌な思いさせて」
そう言って、リリーはチラッとシリウスを見た。
「ううん、リリーが謝ることじゃないよ」
リリーははぁとため息をつき眉毛を下げた。
「なんだよ2人してオレが悪者みたいにさ?」
そう言ってシリウスが両手をあげた。それだけで肩がちょっと触れるのが嫌だったから、体を縮めてリリーの方に寄った。
「何もしてねぇだろ?ラブレター貼ったのは悪かったよ、な?ほら、仲直りしよう」
シリウス君はそう言って私に右手を差し出したから、私も渋々握手をした。筋肉質で大きな手だった。
それからシリウス君はジェームズ君とグリフィンドール寮の話ばかりをして、たまに百味ビーンズの不味そうなやつばかりを私に寄越した。当然、スリザリン寮のスネイプ君も私も会話には入れない。これならいっそ、私がスネイプ君の隣に行って二人で話したい。それが自然な形でしょう?
「お前何、やっぱりスニベルスに気があんの?」
急にシリウス君が耳元でそう囁いて、思わずぱっと手で抑えた。耳に吐息がかかりそうな距離で、自然と顔が赤くなった。
「近い」
「ああ悪いな、3人座ってると狭くてな」
「どう見てもシリウス君が2人分とってる。その邪魔な足閉じてよ」
シリウス君が電車の中の迷惑おじさんばりに足を開くから、本当に私はリリーとくっつくように座っていた。
「悪ぃな、足が長くてな」
「ああほんと、蜘蛛男みたいでかっこいいね」
これがほんとのスパイダーマンってか。ため息をつきながら、そうボソッと返事をすれば、意外にも笑ったのはジェームズ君だった。
「意外と仲良くなれそうだなぁ、君」
嫌な空気だと思った。私がここで彼らと仲良くなれば、仲間外れはあと1人だけだ。それに気付かないほど馬鹿ではない。
「シリウスも楽しそうだし?」ジェームズ君は相棒にウィンクする。
「前はもっとつまらない女だと思たんだがな」
シリウス君が偉そうに、まるで肘掛けに手を置くように、私の肩に腕を回した。
「……もうシリウス君の隣、嫌だ」
「オレは楽しくなったきたところだけど?」
そんなシリウス君の言葉に被せるように、ジェームズ君が「じゃあ俺と変わってよ!」と言った。
私は「いいよ」と言って腕を払いつつ席を立ってから、はっとなった。シリウス君の隣を離れられるのは良いけど、ここにジェームズ君が座ったらリリーの隣じゃないか。
「いや、やっぱ……」スネイプ君と変わった方がいいかも。そう思った瞬間、スネイプ君が立ち上がってぐいっと私の腕を引っ張った。
「さっさと座れよ」
スネイプ君はジェームズ君を睨んで、私を掴んだまま元いた場所に戻った。私も引っ張られるように隣に座って、思わずスネイプ君の顔を見た。
「……なんだよ」
「ううん、ありがとうスネイプ君」
ジェームズ君はもう私たちにはお構い無しでリリーばかりを見て、リリーはそれに心底嫌そうにしていた。スネイプ君は私の腕を掴んだままで、きっと無意識なんだろうけどその指が思ったより強かった。
「私もそっちがいいわ」
リリーがそう言って、至近距離でベラベラと喋り続けるジェームズ君から逃げるように立ち上がった。スネイプ君がぱっと私の腕から手を離して、ほんの少しだけ捨てられたような気分になった。
それでも私はちゃんと空気を読んで、スネイプ君との間に1人分の席をあけた。
「ここどうぞ、リリー」
「ありがとうサマンサ」
リリーは嬉しそうに私に笑いかけて、ジェームズ君が文句を言った。色々と席替えをして、結局また狭くなったが、さっきよりは随分マシだった。
相変わらずコンパートメントの会話はジェームズ君が主導でリリーを独占していたけど、スネイプ君はリリーが隣に来てさっきより機嫌が良さそうだった。ただ私の正面にはシリウス君が座っていて、ずっとこちらを見てくるのが居心地悪かった。
「なんか用?」
「別に?面白ぇなと思っただけ」
「感じ悪」
「人のこと言えねぇだろ」
シリウス君はにやにやと笑いながら長い足を組み直した。彼も私と同じ15歳のはずなのに、ずっと年上に見える。案外、彼の顔は老け顔と言えるのかもしれない。成功してるタイプの老け顔。
「それ、好きなの?」
私はなんとなく手持ち無沙汰に感じて、シリウス君がずっと食べてる百味ビーンズを指さした。
「別に?ほら」
今度は箱ごと渡されたので、私は興味本位で1粒とった。赤い色をしていて、鼻くそとかゲロとかじゃなさそうだったので恐る恐るそれを食べた。
「何味?」
「これは……マグロの刺身かな」
何となく、食べ慣れたそれのような気がした。常温で、食感はジェリーだから美味しいとは言えない。
「うぇえ、ハズレだな」
「うん、まぁ……ハズレだね」
からかうのに飽きたシリウス君に残ったのはただのかっこいい顔だけだった。調子に乗らなければ彼はきっともっとモテるだろうに。
それから少しぼそぼそと会話をして、彼が好きだというロックバンドを教えてもらった。クイーンとかデヴィッド・ボウイとかはさすがに聞き覚えがあって、彼らはこんな時代から人気だったのかと思うと少し面白かった。ボヘミアン・ラプソディの、あの映画の時代に居るのかと点と点がつながった。
「あー、マイケル・ジャクソンって知ってる?」
正直、クラウチ家にはテレビは無いし、私は特段イギリスのロックバンドに興味があるわけでは無いけれど、きっと彼もこのくらいの時代じゃないかと思ってそう聞いた。
「嘘だろ、お前ジャクソン5知ってんの?絶対興味ないと思ってた」
シリウス君が驚いた顔で組んでいた足を戻し、前のめりになったので、私は思わず少し引いた。ジャクソン5ってなんだ、マイケル・ジャクソンじゃないのか。
「全然詳しくはないよ、名前だけ」
まぁでもやっぱりそうなんだ、次の長期休暇ではレコードプレーヤーでも買ってみようか。
列車が目的地につく少し前に彼らはようやくコンパートメントを出ていって、少しスペースが出来た。私とリリーは慌ててローブに着替える。トランクを下すとき、最後に残った一匹のカエルが出てきて、スネイプ君がそれを魔法で簡単に回収して箱に詰めて渡してくれた。
「……僕は要らない」
「うん……ありがとう」
スネイプ君はあまり面白そうではなかった。
その翌日からさっそく授業が始まり、課題がどっさりでた。今年はふくろう試験の年だからと、先生も気合いが入っているようだ。夏休みの間に少しは挽回したつもりだったけど全然ついていけなくてため息をつく。結局、去年と同じように毎日図書館にこもって勉強する日々になりそうだ。
「はぁ……わかんない」
私は行き詰まったレポートを投げ出し、教科書を無意味にぱらぱらと捲った。またスネイプ君に教えて貰おうかなと思ったけど、彼も彼なりに自分の勉強があるだろうと遠慮した。
図書館の定位置に腰掛けて、テキストを捲りながらうとうとと船を漕ぐ。古い本の匂い、誰かがページをめくる音、静かに歩く足音、ひそひそと話す声、風のないこもった空気、生暖かい温度、窓から差し込む柔らかい陽の光。そのどれもが心地いい。
「……寝るだけなら寮に戻ったらどうだ」
「……スネイプ君」
分厚い本を3冊ほど持って、スネイプ君は私の隣に座った。
「わからない所が沢山あって、君に聞きに行こうか迷ってたんだ」
「なら来ればいいだろ、去年みたいに」
当たり前のように、迷いなく彼はそう言った。
「いいの?」
「迷惑だったらその場で断る」
「ありがとう、スネイプ君」
机の上を片付けて、彼のためのスペースをあけた。
「……また会えて嬉しい」
私は少し俯いて笑った。来た時と同じように唐突に帰るのかもしれない、帰るところなんか無いのかもしれない、私という人格がふわっとどこかに消えるのかもしれない。それは一体、死ぬのとどう違うんだろうと、夏休みの間ぼんやり考えていた。
「普通に会えるだろう、別に」
「うん、そうだね」
普通に、当たり前の日常。このホグワーツが、私にとってのそれになろうとしている。サマンサとしての私が通常で、みょうじとしての私が異常……。
「で?どこが分からないんだ」
スネイプ君は開いたままの私の教科書を引き寄せながらそう言った。
「ここのね、月長石の粉のところ」
「ああ、ここは――」
スネイプ君の解説をふんふんと聞きながら、追加でいくつか質問をした。その全てに、スネイプ君はすらすらと答えた。
「すごい、わかりやすいね。やっぱりスネイプ先生だ」
「……またそれか」
スネイプ君は顔を顰めて、めんどくさそうに視線を逸らした。
「本当に、向いてると思うんだ」
そう言いながら、私は書き上げたレポートに誤字がないか確認していた。
「……随分マシになったな」
「うん?何が?」
「レポートの内容」
「うん、スネイプ先生のおかげでね」
「そうじゃなくて……まぁ、うん」
どこか歯切れの悪い返事だなと思ったが、スネイプ君は私から目を逸らして、ムスッと唇を突き出していた。少し考えたけど明確な理由は分からなかったので、虫の居所でも悪いんだろうと片付けた。
「……スネイプ君さ、もう進路決めてる?」
今年は5年生で、O.W.L試験の前には寮監との個人面談もあるし、みんなこの話題でソワソワしていた。
「……まだだけど」
死喰い人だと宣言されなかったことに少しほっとして、握りしめていた羽根ペンを置いた。
「じゃあホグワーツの先生ね。魔法薬学の。私が決めた」
「なんで君が決めるんだ、僕のことを。君こそ決めたのか?」
「いや……でも友達に聞くと、私は幼稚園の先生になりたかったそうなんだよ。だからそうしようかなと」
「君は?それになりたいのか?」
「んーあんまり。子供苦手だし、給料安い割には仕事キツそうだし」
スネイプ君は呆れたようにため息をついた。
「ならやめといた方が良いだろう。君がなりたいものになった方がいい」
「うんまぁ、そうだね」
サマンサ・クラウチではない、私がなりたいものを考えても良いんだろうか。
「そうね……じゃぁドラゴン使いかな。響きに夢がある」
「……今からは流石に無理だろう。あれは一にも二にもホウキが全てだ。君にそのイメージはない」
「スネイプ君が自由に考えていいって言ったのに」
「そんなことは言ってない、もう5年生なんだから可能な範囲で選ぶべきだ」
「固いなぁ、スネイプ君は」
スネイプ君は真面目な顔のまま教科書に目を落として、私はなんとなくその皮脂で束になった髪の毛を横から見ていた。いつもシャワーで、髪の毛をどのように洗っているのだろう。シャンプー液は泡立たないものとか思っているのだろうか。でも確かに、学校の備え付けのジャンプー、泡立ちにくいんだよね。
長い前髪が落ちて顔にかかって邪魔そうだったから、そっと彼の髪を指先だけで耳にかけた。スネイプ君はピクリと反応し体を固くして不快そうにしていたけど、逃げはしなかった。
「隠しちゃうのもったいない。綺麗な顔なのに」
スネイプ君は私の手を振り払って「馬鹿にしてるのか」と憤慨した。スネイプ君は人に触れられることを嫌う。馴れ馴れしく肩に手を回してきたシリウス君とは対照的だ。
「馬鹿になんかしてないよ、ほんとに」
スネイプ君は何も言わないで、ぐっと手を握りしめて私を睨みつけた。嘘をつけと直ぐに怒ることはしない、でもありがとうと受け入れることもしない。
「そんなに警戒しないでよ……。2ヶ月経ったらリセットされちゃうの、猫みたい」
「……もうレポートはみない」
「あぁうそうそ、冗談だよ、ごめんね?お願い教えて、私ひとりじゃ完成できないよ」
少し大げさにそう言って眉を下げる。手を伸ばせば触れることができる、夢のような距離。君が犯罪者になんかならないで、幸せを感じることができて、誰かに殺されることもない、そんな未来を望んだ。