第1章
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ラブレター騒動に記憶喪失の虚言騒動。こんなにわかりやすくネタを連発する学生も少ないだろう。散々からかわれるのはこの際どうでもよいが、私にとって困ったのは行ったことのない教室の場所、原作では書かれることのなかった細かい生活習慣、そういう当たり前のことだった。
例えば紅茶が飲みたくてもお湯の沸かし方がわからない、魔法だから。シャワーの時間はみんな驚くほど短くて、朝派が多いのでどのタイミングで行くか迷う。水は使わずに魔法で済ませるのが真の魔女のたしなみみたいな価値観の人もいる。個人的には毎日シャワーを浴びて髪の毛を洗いたいのだけど、そんな人は1人もいなかった。もしそんなことをしていたらマグルかぶれの軟弱者として悪目立ち必須、そんな空気。トイレットペーパーなどの消耗品は基本的に複製魔法をかけて使うようで、複製魔法のスペルもわからない私は詰み。さすがにこれには参った。
おまけに今の私がわからないことを素直に聞いても、まだ記憶喪失ごっこを続けるのと笑われて終わってしまう。仕方ないのでなんとなく人についていくように日々を過ごして、その場を合わせるように笑った。
「記憶喪失は嘘だけど、忘却術の失敗で、ところどころ思い出せない部分があるのは本当なの。でももう忘却術師の人にも言い出せなくて……ごめん。迷惑かけないから、少しだけ手伝ってほしい」
そんな風にしおらしく友人に頭を下げて悲しそうに微笑めば、たいていはしょうがないなと許してくれた。それでとにかく大人しく、気配を殺してそっと輪の中から抜ける。まぁ元から10代の女の子に囲まれるのはきついなと思っていたし、トイレと教室移動も一人で動きたかったから悪くなかったのかもしれない。
ただ酷く、そう、すべてにおいて実感がない。目の前の出来事が現実と思えない。そんなかで嘘を重ねていくとより自己の感覚が希薄になっていく。
焦燥感とは違う、目や耳をそっと閉じていくような緩やかな消失。ホグワーツ城を包む真っ白な雪すらあたたかな毛布に見えた。
ホグワーツに来て1週間、2週間が過ぎて、一ヶ月近く経てばなんとなく生活にも慣れてくる。授業にはまだ全然ついていけないが、人並みのふるまいをすることは難しくなくなってきた。
どうせ落ち込んでいてもしょうがないし、ここが憧れのホグワーツであることには変わりないのだから、ただ楽しめばいいじゃないと思う程度には心の余裕もできてきた。……強がりと言われてしまえばそれまでだけど。
だから今日は、子供のような気持ちで雪の積もる校庭を歩いてみることにした。雪にくっきりと残る自分の足跡が愛おしい。
「風邪をひく気か」
ふと後ろから声がして、私は自然と笑った。
「スネイプ君」
「こんな吹雪の日に校庭を出歩くやつがいるとは思わなかった」
「スネイプ君こそ、風邪ひくよ」
「君が……マフラーもつけずに歩いているからだろう」
カレンダーはいつの間にか2月も終わろうとしていて、最近は吹雪が続いていた。こんなところも東京とはちがう。こんなに降り続く雪を、私は人生で見たことが無かった。雪なんてせいぜい靴が半分埋まる程度で、それだけで電車は止まるしバスは遅れるしで大変だった。
「見て、湖が凍ってるの。スケートでもできそうだね」
「スケートを……君は知っているのか?」
「……わからない」
ああ、またちょっと墓穴を掘ったな。スケートはそうか、マグルの遊びか。難しいな、他人になり切るって。
「君は……」
「戻ろう、スネイプ君。君に言われた通り、ちょっと寒いや」
ほらほら早く、そういって少し走って笑いながら振り返る。そんな風にはしゃいだら、案の定、私は雪に足を取られて尻餅をついた。
「何というか、馬鹿だな君」
彼は少し驚いた後、口角を片側だけあげた。
「やだなぁ、手を貸してスネイプ君」
じんと痺れる腰を押さえながら右手を出せば、彼も渋々右手を伸ばしてくれる。ぐっと引っ張られると思ったよりも力が強くて、男の子なんだなと思った。
私の手は当然雪で冷え切っていたけれど、彼の手も負けず劣らずだった。さっきまでどこで何をしていたのだろう。
「スネイプ君、今日はシャワーであったまってね。私のせいで風邪をひいたらとても申し訳ないから」
「君は老人のようなことを言うな」
「老人……とまではいかないと思うんだけどな」
そこまでじゃないはずだ、確かに君よりは年上だけど。けれどもそんな年齢の差も、この体では意味はない。年上だと思ってることすらただの強烈な妄想かもしれないのに。
校舎に戻り雪をはたいていたら、「珍しい組み合わせだなぁ」と誰かの声がした。聞いたことない声だったけど、顔を見てすぐに分かった。シリウス・ブラックと、その隣にいるのはジェームズ・ポッターだろう。
ああ、容姿が完全に原作の描写通りだ。とても分かりやすくて、私は少し笑った。やっぱりここはハリー・ポッターの世界なのかと。
「いこう、スネイプ君。あんまり構いたくない、彼らと」
スネイプ君はポケットの中に手を突っ込んでいて、杖を掴んでるんだろうと思った。
「付き合ってんのかお前ら?残り物同士お似合いだな。俺にフラれたからって、ずいぶんランク下げるじゃないか。男ならだれでもよかったのか?」
シリウス・ブラックの安い挑発は無視しようと思ったけど、私の愛するセブルス・スネイプが馬鹿にされたままだったのは嫌だった。
「付き合ってないし、残り物でもない。スネイプ君はお前よりよほどいい男だし、ランクが低いのはあなた。男ならだれでもいいわけじゃないし、お前だけは死んでもお断り」
私は少し声を大きくして、はっきりとそう言った。シリウス・ブラックも、ジェームス・ポッターも、スネイプ君も、みんな同じ顔で私を見た。ここに居る女は誰だと、幽霊でも見た様な顔。
今だけは他人の人生で良かったと思った。さすがに自分の人生だったら、こんなに落ち着いてはいられなかっただろう。
なんだか漫画みたいで、今の私かっこよくないかなと思ったら楽しくなり、あははと声をあげて笑った。ずっと不器用になぞっていたサマンサ・クラウチを裏切ることも心地よかった。
「地獄に堕ちろ、ノンデリカシークズ男!」
中指を立てながら大声で叫んで、私はどさくさに紛れてスネイプ君の手を掴み走った。シリウス君に報復とかされたら怖いし、私まだルーモス以外の呪文をろくに使えないし。
「ちょっと……おい、放せっ」
「無理!」
廊下を全力で走り抜けたら、自然と顔がほころんだ。しばらく息が切れるまで走って、人気のない廊下の端で私はようやく立ち止まって彼の手を離した。彼も息を切らしながら膝に手をついて、私の隣で大きく息を吸った。
このローブという服はどうにも動きにくいし、革靴も走ることに向いてるとは言えない。それでもホグワーツの馬鹿みたいに長い廊下を、男の子と手を繋いで走って、先生の目を避けて誰かにぶつかりそうになるそんな1分は、間違いなく青春映画のワンシーンだった。
「君が、そういう奴だとは、知らなかった!」
「私も、あんなこと、人生で初めて言った!」
この時、15歳のセブルス・スネイプが楽しそうに笑うところを初めて見た。この一ヶ月、なんとなくずっと彼を目で追っていた。他にやることもないし、やっぱり気になるし。
だからそう、わかってる。今スネイプ君が笑っているのは、ただ息を切らして廊下を走ったことが楽しいだけ。
「君、本当に別人みたいだ」
「うん、そう。別人なんだよ。別人」
どう頑張って自分を説得しても、私は私だし、そもそもサマンサって誰?ほんとに。
私に話しかけるのはみんな彼女を知っている人たちばかりだったから、友人の顔色を伺って、なんとなく次はこうしたらいいのかな、こんな女の子だったのかなと、小さなパズルのピースを集めていくようにふるまった。正解の絵がわからないまま組み立てる1万ピースのパズル。
いい加減、そんな日々にはもううんざり。もっと好きなように生きたい。
「……スネイプ君、恋人とか、あー、好きな人いる?」
「……は?急になんだ」
「もしそうだったら、悪い事したなって思って」
スネイプ君はちょっと顔を逸らして、顔を赤くした。
「別に、いないけど」
わからないなぁ、これは。どっちだろう。わからないのが楽しい。セブルス・スネイプが目の前で生きていて、小説の型にはまっていないことが楽しい。空想の人物でなくて、生身であることが愛おしい。
欲を言うならもう少し年上の彼と出会いたかったけど、今は私も14歳なのだし、もしかしたらもっと傍に居られるのかもしれない。友人として、もしくはそれ以上に。
「じゃぁ、良かった」
私はそう言って笑いながら、マントを脱いでばさばさと振り、溶けた雪を払った。こんな吹雪の日なのに、ローブの内側は汗だくだ。私は緩む頬を隠すこともなく、正面から彼を見た。彼は気まずそうに目を逸らした。
音もなく派手に振り続ける雪はどこまでも積もっていくように見えたけれど、3月が終わる頃にはしっかりと降りやんで、山の上にも春の日差しが降り注いだ。
春は好きだ。優しくてピリピリと張りつめた空気を癒してくれる。昔はそれが嫌いだった、自分を凡人に変えられてしまうような気がした。
まだ私が高校生で、絵で生きて行けたらと将来に夢を見ていたころ、私は春のような色だけは絶対に使わなかった。もっと暗く冷たく、重たい色を使って、誰にも描けないような、自分だけの一枚を追い続けた。そんなものはないと知った時、私は春の色を使わずに油絵そのものを捨てたのだから、結局その程度だったんだろう。
今になって春が好きだとそう思うのは、もう夢を捨てたのだとわざわざ自分に言い聞かせているような気分になる。そんなことは無い、私は春の温かな日差しも、花も緑も土の色も、全て好きなのだ。でももう、そんな綺麗な色を純粋な心で手に取ることはできないのだろう。
人の多い放課後の談話室で、レポートに向き合いながら、どうでもいいそんな思考を頭の中でぐるぐると繰り返した。14歳をやり直しているから、こんな懐かしい感情を思い出すのだろうか。教科書の内容がさっぱり頭に入らない。
真っ白な羊皮紙に、羽根ペンの練習と心の中で言い訳をして手を動かす。魔法使いの男の子が1人、フードを被って後ろを向き、魔法薬の鍋をかき混ぜている絵。突然、私の隣にドスンと座り、偉そうに紙をひったくって見始めたのはマルシベールだった。
マルシベール――セブルス・スネイプの学友の1人。エイブリーと組んでリリー・エバンスの友人に『おぞましいこと』をする。卒業後は友人のエイブリー、スネイプと共に死喰い人となり、後にアズカバンへ収監される。
おそらくサマンサ・クラウチはそれなりにマルシベールと交流があったようで、彼はよく私に絡んであざ笑った。彼はまさにこの学年のスリザリンのボスだった。感じも悪いし面倒だからなるべく避けていたのに、やっぱりレポートは談話室ではなくて部屋か図書館でやれば良かったと後悔した。
「……おいおい、これは何だ? 勉強が出来ないから落書きをするなんて、今どきガキでもやらないぞ」
マルシベールはひったくった羊皮紙をわざと高く掲げ、周囲の生徒たちにも見えるようにひらひらと振って下品に笑った。
「記憶だけじゃなく、脳みその中身までマグルみたいに薄っぺらになったのか。それとも、あの公開ラブレターで恥をかきすぎて、今度は自分で自分に錯乱の呪文でもかけたか?」
「やめてよ。ただの落書きで、何の意味もないよ。返して」
「意味がない? お前が存在していることと同じくらい無意味だってか?」
マルシベールは鼻を鳴らし、手に持っているそれを無造作に二つに折り曲げた。
「返してほしけりゃ、その忘却術師も匙を投げたっていう自慢の演技で、もっと面白いもんを見せてみろよ。スリザリンの面汚しが……。お前がここで泣き喚けば、誰かが助けに来てくれるかもしれないぜ?」
彼は立ち上がって羊皮紙を暖炉の火の方へ向けた。
「別に助けなんて求めてないし、羊皮紙くらい燃やせばいいよ」
私の絵なんて本気でどうでも良かった。ただその巻き付いている方のレポートがゼロになるのはちょっと苛立つなと思う程度だ。
マルシベールのちょっかいがあまりに子供じみていて、私はため息をついた。それが良くなかった。
彼は一瞬だけ動作を止めた。暖炉に向けた羊文字を握りつぶすように力を込め、歪んだ笑みを深くする。
「……は、何だその態度は?余裕ぶって面白くねえな」
彼は羊皮紙を暖炉の方に投げたが、少し軌道が逸れて縁に当たって床に落ちた。マルシベールにとっても私にとっても、それが燃えるか燃えないのかはどちらでもよかった。
空気が変わって、私は彼を怒らせたことを悟った。
「なぁ、そこまで言うならもっと別のものも燃やしてやろうか。……その自慢の金髪とか、どうだ?」
彼は杖を抜き、その先を私の頬に冷たく押し当てた。こうなるともう形勢逆転だ。誰か止めてくれないかと、とっさに談話室の中で視線をさ迷わせたけど、監督生の顔すらまだよく覚えていない。マルシベールは私の反応に満足そうにして、この方向で間違っていなかったと確信したようだった。
「ねぇマルシベール、これ以上私にどうしろっていうの」
「……どうもしないさ。お前が今まで通りしていればな」
マルシベールが杖の先で私の頬を軽く叩くと、肌に鈍い痛みが走った。彼は獲物を追い詰めるような愉悦に満ちた目で、私の瞳の奥を覗き込んでいる。
今まで通りと言われたって、今までがどうなのか何も知らない。頬を伝う何かが、汗なのか血なのかもわからない。
「偉そうにその透かしたツラ、反吐が出るんだよ」
マルシベールの感情につられるように、杖の先には嫌な熱がこもっていく。
あぁやだ、ハリー・ポッターっていろいろと魔法ですぐ治っちゃうから、怪我の描写がグロいんだよ。ペロペロ酸飴で舌が溶けちゃったとかさ、そんなの魔法で治ったって私ならトラウマになって飴を食べられなくなりそう。
はたしてこの杖は、私の頬をどうするつもりなのだろうか。頬に穴が開いたら、やっぱりとても痛いんだろう。
「ごめんって、ほんとに……別に見下してるつもりなんかないよ、ね?ただほら……ちょっといろいろやらかしたし、少しくらい大人しくしておこうと思ってるだけだよ」
媚びを売るように、マルシベールの目をのぞき込む。なるべく刺激しないように、やわらかく微笑んだ。
「だからお願い……その杖下ろして」
杖を掴むマルシベールの手を縋るように掴めば、マルシベールは満足そうににやりと笑った。ようやく杖を下ろして離れる……ふりをして彼は杖を振った。
「サーペンソーティア 蛇よ出でよ!」
マルシベールの杖の先からぼとりと重たい音を響かせて落ちてきたのは、体長3メートルはありそうな巨大な蛇だった。思わずその場で尻餅をついてみっともなく蜘蛛のような動きで後ろに下がる。様子を伺っていた他の生徒も、きゃあと叫んで慌てて立ち上がった。
「ほらいけ!」
そう言ってマルシベールが魔法で蛇をつつけば、蛇は勢いよく私にとびかかった。とっさに右手で体を庇ったが、布越しに腕を噛まれたような気がした。蛇はまた離れて一定の距離を保ったまま、シャーと威嚇するように顔をあげ、左右にくねくねと動いた。
私は必死で恐怖心を抑えてゆっくりと頭を下げ、蛇から目を逸らし、座りこんだままじっと動きを止めた――。30秒ほどはそうして息を殺せば、蛇はこれで充分だと判断したのか、するすると部屋の隅に移動し、他の生徒の呪文で消滅した。
「お前すごいな、蛇にも頭下げるのか。そりゃ俺たちは蛇をペットにするけどよ、蛇のペットになる魔女ははじめてだぜ!」
マルシベールは大満足で手を叩いたが、ここまでくるともう立派な犯罪だ。ああそうか、死食い人ってこういうことを言うのか、普通の人だったらそこまではやめておこうと思う一線を気にもせずに超えることが出来る人達なんだ。もしかしたら魔法という強大な力が、それを後押しするのかもしれない。
なんだかもう彼の言葉に反論する気も起きなくて、ただその異質な存在を眺めた。
「……何してる、マルシベール」
いつから居たのだろう、片手に重そうな本を持ったスネイプ君がマルシベールに声をかけた。
「ああセブルス、ちょっと遊んでたらたまたま蛇が噛んじまっただけだよ。……なんだよ、そう怒るなって」
「別にこんな奴のために僕が怒るなど……おい、蛇は何を出した」
「知らねーよ、蛇の種類なんて」
二人の会話を聞いてると、眠くもないのに急に瞼が重くなってきた。意識ははっきりしているのに、言い争ってる二人の足元が二重に見え、呼吸をするために肺を広げることすら重たい。あれ、と疑問に思うのが遅すぎたかもしれない。
嘘でしょう、こんなところで、こんなあっさり。私、死ぬの?
待て待て待てと足掻きたいけど、近頃の気だるさが生きることへの執着を捨てさせる。誰かの何かの魔法でどうにかなるかなと思っている、他力本願な自分もいる。だって魔法だし。
どちらにしたってもう体が動かなくて、諦めて床に体を預けて目を閉じる。誰かがばたばたと私の隣を走り抜けていく振動が、床に投げ出された頭に伝わった。
「……何笑ってんだよ、気持ちわりーな」
「マル、シベール……」
だからそう、前にも思ったのに。死ぬと分かってたらもうちょっといろいろ、自分に正直に生きたのになって。例えばそう、セブルス・スネイプにキスをするとかね。
またバタバタと誰かの大きな足音がして、とても乱暴に頬を叩かれた。
「飲め!蛇の神経毒ならこれが効くはずだ!」
「ぁ……ぅ……」
スネイプ君と呼ぼうとしたけど喉が上手く動かなかった。小瓶の入口をぐいと押し当てられるけど飲めそうにない。唇は人形みたいに上手く開かないし、舌は半乾きの粘土にでもなったみたいに口の中に横たわってる。
ああでも、最後に顔を見られてよかったぁなんて思いながら、そっと手を伸ばして、辛うじて彼の頬に触れる。指先の感覚は無かったけど、多分触れていたと思う。
すると突然、スネイプ君が指で私の口をこじ開けて小瓶の先をねじ込んだ。乱暴で、半分くらいは口から零れたけど、スネイプ君は顔を真っ赤にして「飲め!」とまた怒鳴った。だから私もどうにか口の中で動かない粘土の塊を必死で動かして、苦味のある液体を喉に流し込んだ。それが胃の中に入った瞬間、急に体の感覚が戻って、私は激しく咳き込んだ。
「お前っ……!」
マルシベールがその先の何かを言う前に、他の子が大声で割って入った。
「さすがにやりすぎよマルシベール!サマンサを殺す気!?この子は何もしてないじゃない、ただ談話室の隅でレポート書いてただけ!いい加減にして……この子にフラれたからって、やっていい事と悪いことがあるわ!」
同室でクィディッチ選手の女の子、友人のマーガレットだ。
「は、はぁ!?フラれたってなんだよ、適当言ってんじゃねぇよ!」
「適当じゃないわよ、サマンサ本人から聞いたんだから!そりゃあなたをフってグリフィンドールのブラックに告白して気に食わないのもわかるけど、何も殺すって!やりすぎよ!」
え、そうなの?初耳。
「大丈夫?サマンサ」
「あ、うん……」
驚いてる間にまた別の女の子が近寄って、床に這い蹲る私に手を差し伸べる。
「セブルスもありがとう、ちょっと見直したわ。あなたってこういう時何もしないタイプかと思ってた」
彼女は私に声をかけながら、スネイプ君にも微笑みかけた。
「……別に、流石にその、死にそうだったからああしただけで……勘違いするなよ」
スネイプ君のその赤い顔に私は慌てて頷いた。
「うん、もちろんわかってるよ。ごめんね、ありがとう」
まだ痺れが残る手足でよろよろと立ち上がって、転ぶ前に縋り付くように椅子に座った。目線をマルシベールに戻せば、まだマーガレットと大声で喧嘩を続けている。さすがクィディッチのビーターだ、あのマルシベール相手でも一歩も引けを取らない。
ああ、友人は有難いなと思い、ようやくほっと力が抜けた。
「……死ぬかと思った」
私はそう言いながら腕をまくって、蛇に噛まれた部分を確認した。大したことはなく少し腫れている程度だが、蛇の神経毒はそういうものなのだと昔、図鑑で読んだことがある。
「君のその危機感のなさはなんなんだ」
隣で、スネイプ君がぼそっとつぶやくように言った。
「ほんとに焦ってたよ、でももうどうしようも出来なくて……」
「さっさと杖を抜けばいいだろ。……今までみたいに」
「あ――……杖ね!忘れてた」
そうか、確かにそうだ。私がちゃんと杖で応戦していたらこんな大事にはならなかったかもしれない。マルシベールだって、それを見越して蛇を出したのかもしれない。だがしかし、つい1か月前まで28年間マグルやってきた私にそんな反射神経は無いし、咄嗟に杖を抜いたところでピカピカ光らせるのが関の山だ。人に魔法を当てる何て怖くてできない。
「忘れる……?」
スネイプ君のつぶやきに被せるように、誰かが投げ捨てられた私の羊皮紙を拾って手渡してくれた。
「すげぇなこれ、かなり上手いじゃん。お前絵描けたんだ?」
「別に大したことないけど、ありがとう」
羽根ペンも羊皮紙もまだ慣れなくて、大雑把な当たりしかつけられてない雑な絵だ。スネイプ君が横からのぞいて、何かを考えるようにじっと絵を見つめていた。君のことを描いたんだよなんて気持ち悪いだろうから言わないでおくけど、もうバレてる気もする。何となく絵を隠すようにくるくると丸めて、ポケットに乱暴に突っ込んだ。
その後は、慰者を目指しているという7年生の監督生の女子生徒が、その場で頬の火傷も治してくれた。彼女は少し意味深に、本当に困るわよね、と小さく呟いた。
今はヴォルデモートが脅威を振るう、第一次魔法大戦の真っ只中だ。純血主義を掲げるスリザリンの中でも、強硬派と穏健派に割れている。マルシベールはもちろん強硬派。
ホグワーツに居ると少し世間が遠くなるが、イギリス魔法界は内戦の真っ只中に居るのだとそれを少し近く感じた。あと数ヶ月もしたら卒業するこの女子生徒なら尚更だろう。
「その……私も、魔法は素晴らしいと思います……こういうのは、少し怖いですけど」
出来れば人が死なない世の中がいいですね、なんてそんな当たり前を言うことすら憚られた。彼女は私の目を見て、ふっと力なく笑った。
「あなた本当に変わったわね」
私もあいまいに笑うことしか出来なかった。
その一件以来、同情票を買った私には友達の態度も柔らかくなり、もうだれもラブレターや忘却呪文でからかって来なくなった。ちょうど学年末試験まで1ヶ月を切った頃だったし、みんなそれどころでは無かったのも大きい。私もテスト範囲を教えてもらいながら、どうにか進級を目標に付け焼刃で勉強した。
「スネイプ君」
「また君か」
「魔法薬学のレポート、手伝ってほしいの」
あれ以来、私は頻繁にこうしてスネイプ君に声をかけた。死ぬ前にキスをしておこうと、この短期間で二度も思ったのだ。せっかくだし、もうちょっと行動に移したい。人生とは楽しんだもん勝ちである。
「いい加減一人でやったらどうだ、毎度僕に頼ってないで。悪いけど君みたいに暇じゃないんだ」
「でも君の教え方わかりやすいんだ、スラグホーン先生より。お願いスネイプ先生?」
小さい声で、他の人に聞かれないように囁く。微妙に距離をあけて、両手を後ろに回して、軽い上目遣いで困り顔で微笑む。
何かをそんなに掻き回すつもりなんてない、何がなんでも落としたい訳じゃない、ただこの距離感が楽しい。
図書館の奥まった狭い二人がけの机が最近はお気に入り。気になる男の子と図書館の隅でこっそりデートなんて素敵じゃない?もう談話室で勉強をするのはこりごりだ。
スネイプ君も文句を言いながら、なんだかんだちゃんと勉強を教えてくれた。
彼は基本的に人を寄せ付けず一人で居るが、本気でそれを望む15歳など居ないのだと当たり前のことに気付いた。こちらから友人のように親し気に微笑めば、徐々に態度が柔らかくなる。彼が怖がらないように、基本的には一対一で、人目を避けるようにこっそり目線を合わせた。
「……だからここにはナナカマドの朝露を入れる。何度言ったらわかるんだ?その頭はスポンジか?」
「ふふふ、ごめんね。スポンジみたいに吸収するから許して」
レポートを書き直しながら、まだ慣れない羽ペンを動かす。彼のこの口の悪さは私に気を許してくれているのだと解釈しているけど、基本的にみんなにそうなのかもしれない。
「ここは、うーん、バラの棘?」
「君は愛の妙薬でも作る気か?必要なのはバラの花びらだ」
「難しいなぁ」
つい癖で、消しゴムを探してぱたぱたと机を探ってしまった。
「あ」
そのままスネイプ君の手を握ってしまって、思わずぱっと離した。目が合って、彼がとても驚いた顔をしていたから私もつられて恥ずかしくなってしまう。すぐに目線をレポートに戻して、「消しゴム、探しちゃって……」と言葉を溢した。
「消しゴムを使う習慣があったのか?」
「……あ」
またやってしまった。それはマグルしか使わないのに。
「……ホグワーツ入る前の習慣で、つい……」
「クラウチ家で?鉛筆と消しゴムを使うのか?」
「いや、その私、孤児だったから、孤児院で……」
「……それは初耳だ。バーティから、君は遠い親戚の魔法使いの子供だと聞いていた。両親が闇の帝王に殺されたから引き取ったのだと」
「あ、あーーそう、そうなんだけどちょっと話が重たいから誤魔化してて……」
「……正確には祖母が魔女で両親はマグル、兄弟の中でも魔法を使えるのは君だけで、マグルの自分達に魔女は育てられないと遠い親戚のクラウチ家に押し付けたと」
「……えっと、今度は本当?」
「……それを君は覚えてるんじゃないのか」
はぁと大きなため息をついて羽根ペンを起き、腕を組んで椅子の背に背中を預けた。参ったな、スネイプ君って案外、察しが良いのかも。スパイの素質はこの頃からなのかな、なんて。
「うーん、どこで変だなと思ったの?」
私に記憶がない事、バレてるのだろうか。
「君が談話室で、予鈴の音に飛び上がった時から、ずっとだ。……あれは演技には見えなかった」
「嘘、結構最初からじゃん」
彼は黙ったままで、その沈黙は肯定を現わしていた。
どうしようか、どこまで話そうか。さすがに小説のことは隠しておこうか、私も半信半疑なのだから。
「あの予鈴の時にさ、少し話したでしょう?記憶喪失じゃなくて、別の記憶があって、私は自分が別人だと思い込んでる、そんな可能性があるって」
「やっぱり、あれが本心なのか?」
少し食い気味に、スネイプ君が返事をする。
「うーん、多分ねぇ」
「多分ってどういうことだ?」
「私もさ、わかんないんだよ……。まずね、私はスネイプ君たちにとってはいわゆるマグルで、魔法なんて知らないはずだったの」
羽ペンを持って、羊皮紙の空いたスペースにすらすらと漢字で文字を描いた。
「……これは?」
「元の私の名前。なまえみょうじって読むの。こっちがラストネームで、こっちがファーストネームね。日本では、ああ私、日本人だったんだけど、ラストネームを先に書くの」
スネイプ君はただ黙って羊皮紙を持ち上げて、穴が開くほど真剣に私の名前を見ていた。
「スネイプ君と大広間で会った、1月28日の日曜日の朝、急に朝起きたら知らない女の子になってたの。覚えてたのは元の記憶と……それからここが魔法界でホグワーツ魔法学校なんだっていうことと、本当にわずかな断片的な知識だけ」
「なんでそんなことだけわかったんだ?」
「わからないの、私にも……最初はさ、夢でも見てるんだと思ったの。ずいぶん長い、ファンタジックな夢だなって。でも夢の中で寝て起きるなんて変じゃない?何が起きてるのかわからなかった。それでとっさに記憶喪失だって嘘ついたの、こう……自分の状況をうまく説明できない気がして。それであの日、月曜日にスネイプ君と談話室で話した時にさ、錯乱呪文だったら説明がつくなと思ったの。だからそう、私の記憶も存在も全部作り物で、私って錯乱呪文だったのか―って思ったわけ。でも忘却術師がうんうん唸って、何にもありません正常です、本当は全部覚えてるんじゃないでしょうか?とか言っちゃったからさ、そういう流れになっちゃって。それであのスラグホーン先生じゃん?事なかれ主義の。だからまぁ、私ももう少し様子見ようかなって。あぁごめんずっと喋っちゃって」
自分の考えを初めて整理して人に伝える、そういう瞬間はどうにも言葉が長くなりがちだ。スネイプ君は私と同じように腕を組んで、難しい問題を考えるように何もない斜め上を見上げた。
「中途半端な憑依……または降霊術か……?」
「憑依?降霊術って?」
「どちらもかなり高度な闇の魔術だ、人の魂を扱うからな。君自身がそれを行ったのか、他の者がやったのかは知らないが……それで説明をこじつけることもまぁ、できなくはない、と思う」
誰かが、そして他でもないセブルス・スネイプが、私の言葉を信じ、別人が体に乗り移る可能性を真剣に考えてくれている。それだけで十分なほど私は嬉しかった。
「憑依と降霊ってどう違うの?」
「憑依とは、霊体が人間の肉体や精神に乗り移り、その人を支配しようとする状態を指す。つまり主体は霊体、この場合では……なまえ、君自身だ。降霊とは儀式や特殊な力を用いて、意図的に霊を呼び出す行為だ。この場合主体は呼び出す側にあり、サマンサ本人、もしくは第三者の介入があったと考えられる」
話の内容も衝撃的だったけれど、彼がさらっと私の名前を呼んだことに放心してしまった。そう言えばそう、そんな響きだった。自分の名前を忘れることなんてないが、それが確かに自分の名前だったという感覚は、きっと誰かに呼んでもらわないとだんだん薄れていってしまうのだと気づいた。
だからそう、名前を呼んでもらうことは鐘を鳴らすように特別なのだ。
「……なんだ、何か思い出したのか?」
一点を見つめて動かない私に、スネイプ君が怪訝な顔をしていた。
「ううん、全然……。説明、すごくわかりやすい……スネイプ君って天才?」
「……君は本当に危機感が無いな」
スネイプ君は心底呆れたようにため息をついたフリをしながら、新しいおもちゃを手に入れた子供のように口元を緩ませた。確かにそう、君なら謎の多い闇の魔術の気配に興味を示すだろう。でもそれは、私だって同じだった。私だって、違うことに気を取られていた。
「あのさ、スネイプ君はそもそも、私がサマンサ・クラウチ本人じゃないって、それ信じてくれるの……?」
「まぁ、その方が正しいだろうと思っている。君はあまりに元の彼女と性格が違うし、蛇に噛まれたあの日も、杖を出すことを忘れていたと言った。そんなこと普通はありえない、ましてや死にかけるあんな状況でもとぼけるなんて、正気ではない」
「そう、そっか……そう……」
「……なんだ、気持ち悪い」
「えへ、嬉しいなと思って」
目元まで顔が緩むのを止められないし、手の先まで温かくなったような気がするし、体の奥で心臓が動く音まで聞こえる気がする。ああそうか、春とはこんな色をしていたのか。
「ねぇスネイプ君、この話、ここだけの秘密にしてくれる?もうオオカミ少女はこりごりなんだ」
「人に言うわけないだろう……僕までオオカミ少年の仲間入りだ」
そっぽむいてわかりやすく腕を組みなおして、ふんと鼻から大きく息を吐く。私はその耳に細くて繊細な黒い髪をかけて、ありがとうと呟いた。途端にスネイプ君は左耳をばっと抑えて、目を丸くして私を見たので、少し申し訳なく思いながらその反応に満足して笑った。ただどうしようもなく、触れてみたかった。
「ごめん、髪の毛が邪魔そうだったから」
「……気安く触るな」
「うん、そうだね」
私は機嫌が良くなって、またレポートに向き直った。
それからスネイプ君に勉強を教えてもらうたびに、私たちの椅子の距離は少しだけ近くなった。私はほとんど毎日、放課後を図書室で過ごしたし、スネイプ君もそうだった。
秘密を打ち明けて2週間が経つときに、ひとつの教科書を2人で眺めていたら机の下で足がぶつかった。ごめんと言ってすぐに引っ込めた。
その次の週にも同じようなことがあったけど私は何も言わなかった。膝はそのままくっ付いていて、そこだけ温かかった。
ある日、日曜日の昼下がり。いつものように図書館に引きこもって、暖かい日差しにうとうとと船をこぎ、諦めて少し寝てしまおうと腕を組んで机に突っ伏した。しばらくして、ふと、誰かが耳をなぞっているような感覚がしてゆっくりと目を開けた。スネイプ君がハッとしたように手を引っ込めて、指の先を誤魔化そうとしていた。
目が合った男女の間に横たわる、そういう空気。ピンクというよりは、黄色っぽい、青が混じるような橙色をしている。
「……私が初めてキスしたのは、高校3年生の時。えっと、年齢でいうと17歳かな……」
まだ少し夢の中に居るようなまどろみを感じて、そう言えばずっとそうだなと思った。現実感の薄いホグワーツの中で、私はずっと魔法にかかっている。
「ねぇ……いい?」
座ったままなるべく手を伸ばして、立っているスネイプ君の頬に手を添えた。スネイプ君は戸惑いながらゆっくりと背中を丸めて、目を開けたまま私を見ていた。その唇に自分の唇を少しだけ押し当てて、直ぐに離してから、「嫌だったらごめんね」と呟いた。
これでもう、明日死んでも大丈夫。
手のひらに残る皮脂の感覚すら愛おしくて、それをそっと自分の頬に擦りつけた。そのまま彼に「忘れていいよ」と呟く。彼の気持ちを無視した、身勝手なキスだと自覚している。
小さく笑って、私はやりかけのレポートを開いた。スネイプ君は無言のまま私の隣に座って、いつものように並んで勉強をした。たまに視線を感じたけど、私は顔をあげなかった。
翌週、どうにかテストを乗り切って、さらにその翌週には採点結果をもらった。スラグホーン先生から渡された小さい紙を眺め、ため息をつく。私は当然下から数えた方が早かった。
それでも思ったよりは悪くなかったと自分を慰め、赤点は免れたし無事に進級出来そうだったのでほっと胸をなでおろした。
試験も終わったので今日くらい勉強をさぼってもいいだろうと、普段はいかないような場所まで足を延ばした。校庭の少し端の方にある木の根元で、スネイプ君と綺麗な女の子が二人で立ち話しをしているのが見えた。私はとっさに柱の陰に隠れて、2人の話を盗み聞きした。
「すごいじゃない、全部E(良)以上って!おめでとう!」女の子がよく通る鈴のような声で言った。
「……O(優)の数は君の方が多い」スネイプ君の声はよく耳を澄ませていないと聞こえないくらい小さい。
「それは、まぁそうだけど、でもセブの成績が変わるわけじゃないわ。それにね、私だってそれなりに勉強頑張ったのよ。おめでとうの一言くらいあってもいいんじゃない?」
「その、うん……もちろん。おめでとうリリー」
「ええ、ありがとうセブ」
小説と現実が喋っている。リリー・エバンスとセブルス・スネイプが喋っているのか、スネイプ君が見知らぬ女の子と喋っているのか、どういう気持ちで見ていたらいいのかわからない。
「また……休みの間も君に、会えるかな」
顔を見ることが出来なかった。ただスネイプ君の声はいつもより上ずって、小さい声だった。
「ええきっと、またあの公園でね」
ちらりと柱の影からもう一度2人をみた。リリーは綺麗に笑っていて、ひいき目なしに美人だと思った。スネイプ君はその笑顔が自分に向けられていることに、とても満足そうだった。
小説の知識があるからだろうか、何も知らないはずの目の前の彼女が、とても清廉潔白で正義感の強い、太陽のように人を惹きつける女の子に見えた。
ああ、よかったね。スネイプ君。本当に。
小説の君は、いつもとても辛そうだったから、君が幸せそうにしていると本当に嬉しい。本当だよ、嘘じゃない。未来はまだ決まってないんだ、もしかしたら君はリリーと結ばれるかもしれない。死食い人に落ちることが無ければ、リリーは君を選ぶかもしれない。よかったよかった。これでめでたし、ハッピーエンドだ。お邪魔虫はおさらばさ。
まるで何かを言い訳するよう頭の中で言葉を並べて、足元の少し大きな石をつま先でグリグリとほじくり返した。
今日はよく晴れていて、外に立っているだけでもローブの内側にじっとりと不快な汗をかいた。