第2章
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「…………」
「………………」
翌日、誰も居ないがらんとした部屋で、私は自分の絵を、絵の前に置いた。それからもう1分以上、先生は何も言わずに私の絵を見ている。長い、1秒が10秒くらいに引き延ばされているように感じる。
「なぜこの絵にした」
「常に、この先もこの時の情景は永遠に忘れることはないだろうと思ったので」
「この背景に使っているのはべアゾール石か。何故これを絵の具にした。」
「ヤギの胃の中で時間をかけて形成される、あの独特の質感と色味が欲しかったので。完全に閉ざされた空間で生まれる物質の性質として、この絵の背景に一番馴染むと思いました」
「よろしい……。まずひとつ、木枠の張り方が甘い。左下の角がほんの僅かに歪んでいる。これでは10年持たずにキャンバスが弛む。次に、この背景の処理は何だ。空間の淀みを描きたかったのだろうが、ただ絵の具が濁っているだけだ。オイルの量が多すぎて、朝日の光の境界線がぼやけすぎている。タッチを急ぎすぎだ、焦りが画面から透けて見える。右手の迷いが、この少年の髪の毛1本1本の描写にすべて残っている。最後にマチエールが甘い、使い分けもできていない、怯えている。汚れを恐れ触るのをためらい、見栄えに走ったな」
一つ一つ、聞き漏らさないように目を閉じて先生の英語に集中する。決して大きな声ではないがその言葉は聞き取りやすぐ淀みがなかった。指摘は的確で、苦手だと思っていた部分を容赦なく見抜かれている。
「だがまぁ、この、光が当たっている枕の白。ここだけは、絵の具を剥ぎ落とさなかったのだな。まぁ意図したかどうかは知らんが、この少年を起こさずにいようという心がみられて悪くない。まだ合格はやれんな、P(不可)だ」
途中の褒め言葉にふっと心が湧き立ち、最後の言葉にずんと心臓が重くなった。6段階評価の下から3番目、“Poor”——。まぁそんなものだよねと息を吸って笑顔を張り付けた。
「ありがとうございます。いい経験になりました」
私はこれでうまい事、自分の絵に折り合いをつけられただろうか。
「次のお題はそうだな……“Story”だ。また2週間後に持ってこい」
「えっ?いや……」
ずっとここに居ると思われているのだろうか。慌てて両手を振りながら、あのえっとと言葉を濁す。もうこのホグワーツ城でも最近は安定した気候が続いている。マグルの新聞でも、雪で混乱した交通機関がようやく復旧したと書かれていた。これ以上、この城には留まれない。
「なんだ、何か用事があるのか」
「用事はありませんが、もとから長く滞在する予定はなく……」
「やる気がない、断るということでいいか?」
「……いえ」
そんなこと言ってもどうしろっちゅうねん。思わず出てくる関西弁に口を尖らせた。
「なんだ、あいつから聞いていないのか」
ちょうどその時、教室のドアがキィと開く音がして、いつも通りゆっくりと、床の上を滑るようにダンブルドアが歩いてきた。
「アルバス、まだ彼女に話していないのか、講師の話を」
「レオナルド、わしはまだ待たれよと言ったと思うのだがね」
「待ったじゃないか、1週間」
「ほんの数日で理事会のメンバーを説得できるほど、わしに力はないよ」
ダンブルドアはやれやれとため息をつきながら、私ににっこりと微笑みかけた。
「立ち話で済まんの。実はあなたに、引き続きこの魔法画科の講師を正式にお願いしたいと思うておる」
「え?…………え?」
いや、だってマグルだよ。先生とダンブルドアの顔を交互に見て、これがどっきりや冗談の類では無いのだと察する。確かにそう、チャーリーはスクイブでも魔法画家はいると言っていたし、この2週間魔法が使えなくて困ったことは無いが、噴水のように噴き出る不安が尽きない。
「なんだ、やはり断るというのか。その程度だというのか、君は」
先ほどからやたらと煽るような言い方に苦笑いを浮かべる。そんなに食いついて欲しいのだろうか。
「先生、私はスクイブではありません、マグルです」
「それがどうした」
「杖の振り方や魔法の扱いについて生徒に教えることはできません」
「そんなものは私が教えればいい、私は列記とした魔法使いなのでな」
それ以外に言っておくことがあるかと考えたけど、特にないような気がした。
「わかりました。仕事を引き受けます」
本当はもうちょっと、ビジネスライクにかっこよく言いたいところだけどそんな難しい英語の言い回しもわからなかった。ダンブルドアは嬉しそうに目を細め、背後からぱちぱちとまた違う拍手の音が聞こえた。驚いて振り返ると、4人の創始者が私たちの会話に耳を澄ませ、ハッフルパフだけが手を叩いている。
「素晴らしいわ、とても」
「ふん……ついにマグルが講師になるなど……ホグワーツも落ちたものだ」
「お前はまたそうやって!サラザール!!」
「うるさいわゴドリック、大声を出さないでちょうだい。今何時だと思ってるの」
なんだかとても恥ずかしい、神話の神々に上から見下ろされているような気分だ。私は姿勢を正し、視線を額縁の下に固定した。
「あの……ありがとうございます。ホグワーツの名に恥ずかしくないように、精一杯努めます」
「ふふ、いいのよそんなにかしこまらなくて。驚かせてごめんね」
穏やかに声をかけてくれるハッフルパスが女神に見えて、給料が出たらスプラウト先生に一番いいお酒を奢ろうと思った。
その翌日には、週初めの教員向けの全体会議で、私が正式に美術の講師に就任することが共有された。必要事項として、私がマグルであることも知らされ、ダンブルドアは互いに協力し合うように言った。
「ねぇねぇ、仕事見つかった」
職員室を出て廊下を歩きながら、隣にいる彼に声をかける。
「あの場に私だけいないとでも思ったのか?朝礼で聞いている」
「ついでにね、ダンブルドアが魔法省に掛け合ってくれて、私の出生証明書も出してくれるって。それからパスポートと社会福祉番号まで。これでもう無敵だよ、路上の販売許可証もとれるし、車の免許もとれる」
「あんな暴走する鉄の塊に乗るのか?」
「あれは身分証明書だよ、あれがないと一人前の大人とは認めて貰えないの、マグル“界”では」
嘘だけど。
もうマグルとか魔法使いとか以前に、この30年が大きすぎる。Amazonも楽天もネットスーパーも無い、車がないと生活出来ないのは本当。かといって交通の便が良いロンドンに家を借りるのは、多分金銭的に難しいような気がする。まぁどうせしばらくはホグワーツ暮らしが約束されたのだから焦らなくていいけど。
「そういえば夏休みの間って城からみんな出るの?セブルスは家に居たけど」
「どちらでも構わない、城に滞在したままの教員も多い」
「ふーん……」
一年中、ずっと城の中かぁ。
「残るのか?」
「できれば休みはマグルの生活圏に戻りたいけど……家賃厳しいからお城かなぁ。まぁ、そのとき考えるよ」
何も言わないままの彼に、私はにっこりと笑う。
「セブルスのお部屋、賃貸に出してみる?」
「調子に乗るな」
くすくすと笑いながら、ほんのわずか顔をあげて彼の隣を歩いた。
魔法画というものの制作工程は、思ったよりも私が学んだ美術の知識と変わらなかった。とにかく絵の世界観が壊れていると、動かした時に壊滅的なエラーを起こす。プログラミングみたいだ。絵の世界観というのは基本的には技術に裏打ちされる。有名なピカソのゲルニカ、あれだって当然適当に書かれたわけじゃない。ピカソはデッサンの天才だ。
「この絵、光はどっちから当たってるの?この辺?この辺?」
「えっと……この辺です」
「じゃぁリンゴの影はもう少しこんな形に伸びるね。覚えてる?計算方法」
「えっと……」
生徒は基本的にみんな素直だし、教え方がわかりやすいと言われるとやっぱり嬉しい。絵を描く楽しさを奪わないよう、優しい言葉で教える低学年なんかはこっちも穏やかな気分になれて良い。ついでに英語の勉強になる。
ただやはり、7年生となればそれなりにヒリついた空気があるもので。今日は3週間にわたって描いた油絵を、容赦なく順位をつけて並べ、講評する。
「はい、そこまで。筆おいて。……筆おいて。一旦全員アトリエ出て、5分後に声かけるから」
人が居なくなったアトリエで、ため息を着きながら7枚の絵を並べていく。この人数だったら、並べ替えるのに3分もかからない。
「……先生」
「君が並べろ」
「わかりました」
やっぱり内心、順位をつけるのはやだなぁと思う。誰がどの絵を描いたのか、この人数なら名札がなくとも当然わかってしまう。
この子、絵は微妙だけど真面目にやってるんだよなぁとか。この子は多分画家になりたい訳じゃないし、あんまりキツいこといって嫌な思い出にさせたくは無いなとか。この子はスリザリンだからマグルの私に評価されるの耐え難いだろうなとか。
アトリエに全員を戻して、下から順にコメントした。生徒は一言も喋らず、私が一方的に20分間喋り通してその日の授業は終えた。
数日後、私は職員室でテキストを捲りながら前任者が進めていた部分を確認していた。授業のカリキュラムは額縁の“先生”でなく講師が作ったものだそうだが、そこからにじみ出る価値観の違いに頭を悩ませる。
魔法画というのは高級な嗜好品だ。それが家に飾られているというのは一種のステータスである。画家は、顧客がついてこそ一人前。そのためには、絵そのものの技術と同じくらい、顧客の文化的背景を学ぶべし。
まぁ、ある意味とても現代的で、洗礼された“物わかりの良い”講師だったのかも。この前任者は、かつてはブラック家お抱えの画家。今、ブラック家はもうほとんど居なくなってもぬけの殻らしい。シリウス君はどうなったんだろう。
「なまえさん」
「……うん、どうしたの」
「どうして僕の絵が3番目だったのか、納得がいきません」
職員室まできて、私に質問しに来てくれたこの子は、スリザリンの7年生。
「いいよ、アトリエに行こうか」
「いえ、ここで構いません」
そう言って彼が杖を振れば、私のデスクの上に大きなキャンバスが降ってきた。本や手紙、ペンがいくつか転がり落ち、やれやれとそれを拾い上げる。それを机の端に雑に戻してから、彼の絵を手に取った。少し椅子を下げて、彼の絵の全体が見えるように両手で支える。
「まずね、見たものをそのまま描く癖をつけて欲しいの。想像で補うんじゃなくてね。この石膏像の髪、こんな風にカールしてた?もう少し短く、頭の形に沿うような短髪だったと思うよ。まずは自分の目で測る練習をしよう」
ちらりと彼の顔を見るが、私の言葉は1ミリも届いていないようだ。職員室にいる他の先生たちは私たちの会話を見て見ぬフリをしている。
「それから、全体のパースがずれてる。君の絵は、石膏像の台座が少し手前に傾いて、画面からせり出してきちゃってるの。わかるよ、迫力を出したり、格好よく見せたいっていう気持ちはね。でも、そういうテクニックを使うのは、まずパースを完璧にコントロールできるようになってからがいい、難しいからね。焦らなくていいと思うよ」
他にも指摘しようと思えばいくらでもアラは見つかるが、この子が聞きに来たのはそんなことでは無いようだ。
「何か言いたいことがありそうだね?」
「……どうして僕の絵が3番で、2番があのウィーズリーの絵なんですか」
「彼の絵は表情を書くのが苦手なだけで、全体のフレームは良かった。陰影も無理せず自分に描ける範囲で基礎に忠実だった。パッと見は地味で下手くそな絵に見えるかもしれないけど、全体の点数は良かった。それだけよ。あなたは確かに、表情を描くのは上手、目とか鼻、唇もとってもいい。人は大抵、絵を見る時その顔を見るから、パッと見ではあなたの絵の方が上手に見える。でもそうね、例えば動かした時にまともに喋るのは彼の絵だと思う。今回は——」
「ならここで動かしてみてくださいよ、“Professer”」
被せるような彼の強い口調とその語尾に溜息をつきならがら、絵をデスクに置く。
「私は今、君とそういう話はしてないよ。この絵の話をしてる」
「同じ事だと思いますが?この絵がまともに動かないと言い放ったのはあなたです」
ぴんと向けられる人差し指をそっと遮る。
「君にとってわかりやすいかなと思っただけだよ」
「……マグルのあなたが、魔法について指摘を入れることがですか?」
ひくひくと、今にも爆発しそうな口元の動きにどうしたものかと口を閉じる。私がマグルだと、1週間も経てば生徒は全員知っていた。
「あなたが魔法だけで絵を描けるなら、私は多分ここに居ないよ」
「ならあなたはあなたの領分に終始してくださいよ、身の程知らずに、動くかどうかなんて指摘していないで」
上手に動く、動かないというのは魔法画にとってとても重要なポイントのようだ。口が滑ったなと思うが、吐いた言葉を吸い込むことも出来やしない。
「……そうね、悪かったわ。ならあくまで私の領分から言わせてもらうと、この絵はまさに“顔だけ”なんだよ。これだけ上手に顔が描けるなら、もっと土台まで——」
「僕の絵は動く、問題なく。この夏には親戚の肖像画も描いた、当然、きちんと会話も成り立っていた!どうせあなたは、あのマグル贔屓のウィーズリーに媚びを売っているだけだ、そうでしょう?そうやって、弱者としての生き方を工夫するのはあなたの自由ですが、アトリエの中にそれを持ってこないでいただきたい」
「あぁ、うん……」
何を言っても火に油。周りの教師たちも手を止めて、こちらの様子を伺っている。まだ講師になって一ヶ月だというのに、さっそくこんなことで問題を起こすのは避けたい。ようやく見つけた仕事なのだ。
「——“Subhuman”」
彼が懐かしい単語を言った瞬間、私の顔の横を赤い閃光が通り抜けた。何事かと驚いて後ろを向けば、セブルスが杖を抜いていた。彼だけでなく、他のどの教員も険しい顔をして、異様な空気が占めていた。
“Sub-human”――直訳するなら人間未満。劣等種、下等民族、みたいな言葉。昔のスリザリン生もこの言葉を良く使っていた。これはそう、本当に、悪いけど“穢れた血”なんてものじゃない。およそ人類が吐いてはいけない、けれど常に使われてきた、絶対的な差別用語。
ここが英語圏でよかったと、ほんの少し思った。この言葉は他人事だ。
「じゃぁ君がさ、人を超越した“Super-human”だって言うなら、それをキャンバスに描いてみてよ。君の見てる世界は、私のそれとどう違うの?」
絵すら私に劣るのに、という言葉はさすがに飲み込んだ。大人なので。彼は返事をせず、私ではなくセブルスの目を見ていた。
「10点減点だ」
自分の寮なのに。少し驚いたけど、生徒の方がもっと驚いていた。
「なぜですかスネイプ教授!」
「15点減点」
少年は悔しさに顔を赤らめ、自分の絵を床に叩きつけてからきつく私を睨んで職員室を出て行った。
「はぁ……ありがと、セブルス」
「……構わん」
「難しいねぇ、教えるって」
少し落ち込みながら、木枠の歪んだ彼の絵を拾い上げその表面をそっと撫でた。彼は、もう絵を嫌いになってしまうだろうか。私が講師をやったせいで。
「……これ、直せる?」
そう言って視線を横に向ければ、セブルスは無言のまま杖を振ってくれる。それだけで絵はまた、綺麗な状態に戻った。
マグルの私が、ホグワーツで講師をする。それは本当に、思った以上に風当たりが強かった。
ホグズミートの画材屋に行けば、偏屈な店主にマグルのくせにと嫌味を言われる。保護者かだれかわからない人から職を降りろと遠回しな手紙が届くし、この前はついに週刊誌にまで載ってしまった。描いた覚えのない趣味の悪い絵を引っ張ってきて、こんな絵を描くマグルが講師をしている。あのダンブルドアのマグル贔屓も手に負えないと散々書かれていた。すみませんとダンブルドアに頭を下げれば、そんなことはしなくていいと優しく微笑んでくれ、それすら少し苦しかった。
なるべくマグルと思われないように、魔女らしい真っ黒なローブと大きなフードで顔を隠した。まるで犯罪者の気分。髪を短くして、オーバーサイズのパーカーを着て公園の隅にいた数ヶ月前と同じこと。
気の知れた友人というものもいないので、一人でパブでお酒を飲み、ひっそりと静まり返るホグワーツ城に戻った。部屋に入る前に一服しようと、城の裏で息苦しいフードを外し月を見上げた。
「……遅い」
「あれ?セブルス」
見回りか何かだろうか。彼から目線を逸らして煙を吐き、そのまま何も言わないで前を向いた。しばらくしても彼がそこにいるから、私はまたぽつりと口を開いた。
「君が、あんなに怒ると思わなかったよ。あの呪文、当たってたら怪我じゃすまない類だったでしょう」
あの時、生徒が“Subhuman”と私に言った時、セブルスの呪文は職員室の壁に当たり、その石の壁がまるでウレタンのようにさっくりと切れていた。
「それをコントロールするくらいの余裕はある」
「呪文を選ぶ余裕は無かったってこと?」
ふふ、と笑いながら1本目の火を消して、続けざまに2本目を取り出す。こんな日くらいはいいだろう。
「正直さ、あの場では大人としてはっきりああいったけど、ちょっと思うよ……マグルは劣等種だって」
彼が暗闇の中で一瞬動いたけど、返事は無かった。
「私たちもさ、みんな使ってたね、あの頃。私だって調子を合わせて、色々言ってた」
「……そうだな」
——マグルってのは劣等種なんだ、種として劣っている。同じ人と思わない方がいい、それは魔法そのものを弱らせる。
——猿が人の真似事をしたところで、人にはならない。同じ言葉をしゃべり、同じ姿をしているだけの寄生虫。彼らの言葉に耳を貸す必要は無い。
——だからこそ、その血が魔法使いに混ざることがおぞましい。穢れた血。排除しなくてはいけない。魔法を失い、我々が猿に戻ってしまう前に。
「ねぇ……君もそう思う?」
汚れた煙を深く深く吸い込んで、このまま肺に染みつけばいいと思った。
「……わからない」
「……ね」
ふぅ、と長く息を吐いて、目をつむった。そんなことはない。劣等種なんかあるわけない。同じ人間だと、今君の口からそんな言葉を聞いていたら、きっともう君とは目を合わせられなかった。
例えそれが本心で、ただ君が立派な大人になっていただけだとしても。
「それでもこれだけは言える」
軽く目線を横に向け、喋り出した彼を見る。もっと遠くにいると思ったけど、彼は案外近くにいて、月明かりに照らされた顔がはっきり見えた。
「私はお前を劣等種だとは思わない」
「……ありがとう」
小さく笑って、もう一口タバコを味わった。
あのひと騒動の後、男子生徒は授業の出席を拒否した。N.E.W.T試験はちゃんと魔法画の科目も受けたそうで、あまり良い出来ではなかったと試験監からこっそり聞いた。
いつもの学校全体の終業式の後、7年生だけの卒業式があった。欧米で卒業パーティーというとプロムみたいなダンスパーティーかと思ったらそれはアメリカ式らしく、ホグワーツでは堅苦しい式典のあと立食形式のアフタヌーンパーティーがあるだけだと聞いていた。
それでも普段着はダメと言われたので、薄給の中からわざわざドレスを買った。私からしたら普段着のローブも結婚式のお呼ばれドレスくらい、ちゃんとした服だと思うのだけど。
アフタヌーンパーティーには卒業生の親族も来て、ホグワーツ城に見たことがないほど大人で溢れた。
畏まった英語がそこかしこで飛び交い、保護者という大人とスムーズに会話をするのは少し緊張する。魔法が使えないことには割り切れても、英語までしゃべれないのかと思われると少し辛い。
おまけに額縁の先生がダンブルドアに言って、私の絵を目立つ場所に飾ったものだから、胃がキリキリと痛んで吐きそうだった。絵を貶されると、自分自身を馬鹿にされるよりよほど気分が悪い。創作物というのは、大なり小なり人の内面そのものだと思う。だから嫌なんだ、人に絵を評価されるのは。数人がそこに立ち止まり、隣に立つ人と何かを喋っている様子を見るだけで足が逃げそうになる。
「お初にお目にかかります、みょうじ教授。ダミアンの父親の、クエンティン・ソーンです。我が家の長男から、先生のお噂はかねがね伺っておりますよ」
なるべく誰とも目を合わせずに柱の影に逃げていたのに、一番見つかりたくない人に見つかった。
「あ、先日はその……すみませんでした。私は教授ではないので、みょうじとお呼びください」
ダミアン、ダミアン・ソーンはあの授業をボイコットしたスリザリン生だ。彼が教室に来なくなったのは私のせいではないけど、とっさに謝ってしまう。
「いえこちらこそすみません、息子があなたになにか失礼な――――そうで。―――代わりまして、私から――――申し上げます」
「いえ別に、構いませんよ」
そんなことはもうどうでもいい、全く構わないからどうか話しかけないでくれ。絶対謝るために声をかけに来たわけじゃない、そんなことはそのにやけ顔でわかるし、頭が痛くなりそうな敬語表現にもついていけない。
「なんと――何でしょう!あのような――も、そのよう――お許しになるとは。やはり、マグルの――皆さん――広いのでしょうかね」
「え、あぁ、はは……。どうでしょう……」
今なんて言ったのか、聞き取れている自信がない。彼の英語は堅苦しいだけでなく早口で、わざと私が聞き取りにくいように話していると感じた。
「あちらにあるのは、あなたの描かれた絵だとか?とても素晴らしい、とても……んー、個性的ですね。あの黒いもやも、ほら、こうやって顔を動かすといい感じに“動いて”見えます」
彼はもう、自分の最高の嫌味に自分で賛美を送りたい気分だろう。ダンスでも踊っているかのように顔を左右に動かし、チープな3Dグラフィックを見下している。
「あ、はい……」
あなたにとってあの絵はただマグルを貶すためだけの道具で、あそこに何が描かれていてもどうでもいいかもしれないが、あれは私がおよそ1か月かけて描いた絵だ。腕と肩を存分に酷使して、放課後から深夜、土日も使って絞り出して、寝ても覚めても絵のことばかり考えて。そうやって描いた1枚だ。……別にもう、慣れてるけど。
「それで、ご参考――お伺い――――、あの絵からはどのような――学べるのでしょうか?息子はどうも、未熟ゆえに――――できなかったようで、――――と思いましてね。マグルでありながらこのホグワーツで――――、例えば我々魔法使いにはない何かを持っているのかなと」
ただひたすらに、私の失態を願っている。それがわかって、お粗末な英語なんて使えない。
「私は……あーいえ、私の絵は動きません。……ですから、その、大変、一瞬を、書き込みたいと存じ上げます……。それが、もしかしたらその、ご子息のお役に立てていれば、宜しいかと……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。丁寧語のつもりで使った "I would humbly like to..." や "I suppose..." が、震える声のせいでひどく卑屈に響く。
「……存じ上げる?」
男性が、信じられないものを見るような目で私を見下ろした。その目が、罠にかかった動物でも見るかのようにニッタりと笑っている。
「おや、その……文法のようなものは、東洋の島国では流行っているのかね? まるで使い古しの靴下を欲しがるハウスエルフの嘆願を聞いているようだ。それとも、君の国の言葉には明確に主張するという概念が存在しない、そういう文化なのでしょうか?」
何も言えなくなって、悔しさに唇を噛んでつばを飲み込む。マグルだからではない、日本人であることを馬鹿にされた。それはずっと自分に身近で、苦しい。
「あなたがあまり恥をかかないように、少し手伝って差し上げますよ。君のような未熟な存在には、沈黙こそが最も美しい装飾だ」
なんですか?と聞き返す前に男性が杖を降って、私の唇はのりで張り付けたようにピッタリと閉じられた。流石に私でも、これは沈黙呪文だと直ぐにわかった。
は?と文句を言いたくなったけど何も言えない。明らかに動揺する私に追い打ちをかけるように、その人はもう一度杖を降った。今度は何をしたのかわからなかったけど、音が何も聞こえなくなった。
つまり私は今、聞こえないし喋れないという状況で。人生そんなに長く生きていないが、さすがにこんな屈辱を受けたことは無い。魔法使いはマグルを自分と同等の人間だとみていないという事実を突きつけられた。これが劣等種への扱いなのだと、ただ理解した。
目の前の男性はまだ意地の悪い笑みを浮かべ何かを言っているが、当然何も聞こえなかった。涙だけは見せてやるかと、砕けそうなほど奥歯を噛んでその場を去った。
8cmのピンヒールでほとんど走るように逃げて、真っ直ぐ美術室に入る。地下牢の自室は少し遠くて、とにかく早く1人になりたかった。
心臓が痛いほど腹が立つ、全身の血が沸騰する、涙が零れるのに口を開けないから息を吸いにくい。開くわけないと分かりながら、力任せに開けようとすれば口の周りの皮膚が引っ張られて痛む。
——くそくそくそ、クソだこんな魔法社会。クソすぎる!
アトリエに入り、描きかけの自分のキャンバスを引っ掴んで、力任せに床に叩きつけた。フレームの木が折れたのが手に伝わる振動でわかるけどその音は聞こえない。何度も何度も叩きつけて、手が痛くなって、それでも叩いた。それしかできることが無かった。
手を見たら血が流れていて、それを目の前の真っ白なキャンバスに塗り付けた。
折れた木や釘で割けた皮膚はナイフで切れるよりもずっと痛くて、それをざらざらなキャンパスに擦りつければ悲鳴が出そうなほど痛かった。5回10回とそれを繰り返して、ようやく手を下す。肩を上下させながら呼吸をして、そのまま真っ黒な絵の具をキャンバスに塗りたくった。
——描いてやる、描いてやる、描いてやる。絵を描いてやる、このままで終わってたまるか。絶対に終わらない、私は絶対に、ここでは負けない。
驚くほどにすらすらと、頭の中にイメージが沸いてくる。どんな絵を描けばいいのかわかる、どんな風に筆を動かせばいいのか、その最短距離がわかる。多分ここは汚い廃墟で、埃まみれで汚くて、そんな場所で誰かが死んだ。首から血を沢山流して、寂しく孤独に誰にも愛されない不器用で愚かな男が死んだ。蛇が床をはっている。
途中から頭が割れそうに痛くて腹が立ったので、デッサン用の木炭を削るナイフを左手でぐっと握りこんだ。手のひらが切れて痛くて直ぐに離す、痛みが痛みで上書きされる。ナイフは音もなく床に吸い込まれて、その上にボタボタと血が垂れる。その血をそのままキャンバスに塗りたくって、それを絵の具で整えた。
ただ無心で廃墟にとめどなく流れる血を描いた。途中から、大広間の出来事なんか忘れていた。ただ血が足りない、もっと必要だと、何度もナイフを握って自分の左手からパレットに絞り出した。まだ足りない、彼の血はきっともっとたくさん出ている。——彼って誰、誰が死んだ?違う、死んだのはリリーだ。なんでリリーは死んだ?リリーは死んだ、私のせいで死んだ。私って誰?
リリー、リリー。ひたすらに彼女の顔と声を思い出した。こんな私にも優しかったリリー、天使のような清らかさですべてを照らしたリリー。君が太陽なら私は月にもなれない、同じ空に浮かぶことすらできないだろう。ただ地面にたゆたう海にとけて、君の姿を見ていたい、その姿を写したい。
喋れない、音がない、自分の呼吸すら聞こえない。全く音がない無音なんて、人生で初めて経験した。今なら1番いい絵を描ける気がする、人生で最も、死に迫る絵を描ける気がする。
ここにふさわしい蛇はどんな蛇だろう。目の形は、鱗の模様は、舌の形は、筋肉のうねりは。
今なら何時間でも絵を描けそうだ。鼻の下がくすぐったいなと思って手で擦ったらまた血が着いた。ああ、鼻血かと思い、腕を下ろした。何時間描き続けていたのだろう、腕も足もクタクタだった。
馬鹿みたいに惨めで——それでいて最高に楽しい。今笑えないのが残念。
一通り描きたいものを描き終えて、膝を立ててその場にしゃがみこんだ。
この彼と同じように、私もこの古びた床の上で血まみれで孤独に死んでいくんだろうか。
出来ればこの彼の隣で、同じように血にまみれて死んでいけないだろうか。温かい血が混ざりあって、風呂のように気持ちいいのではないだろうか。
目を閉じると何かが見える気がした。セブルスは、私が死んだら悲しむだろうか。そうだったら嬉しい。16歳の君に、もっとちゃんと手を差し伸べていたらよかった。キスをしたり、シャワーブースに連れ込んだり、そういうのじゃなくて、もっとちゃんと大人として君にいろんなことを与えてあげればよかった。どうして2年前の私はそうやってちゃんとしなかったんだろう。
君を、もっとちゃんと対等に扱わなかったんだろう。だからこんなことになるんだ。
誰かが私の肩に触れて、私はびっくりしてその手を払った。セブルスと目があって、唇が動いて何かを言っていたけど何も聞こえない。セブルスが直ぐに察して杖を降って、私はようやく音と声を取り戻した。
セブルスはただ呆然と驚くように、ぼろぼろの私を見ている。その視線が顔、肩、手、足に移動していくたびに、見世物小屋の獣にでもなった気分だった。
「私、私……私は、劣等種じゃ、ない」
情けない声だった。掠れて、ほとんど言葉にならなかった。子供みたいに涙が出るし、これ以上何かを言ったらもっと泣きそうだった。セブルスが力任せに私を抱きしめて、喉を詰まらせながら「すまない」と何度も繰り返した。
——あんな言葉を使ってすまない、君がマグルだと、あの時も君は私にそれを言ったのに。何も考えずに、君の前で、その言葉を何度も繰り返し言って、本当に悪かった。もう二度度言わない、誰にも言わせない。
とぎれとぎれに、君はそう言った。
「うん……!」
吐いた言葉は戻らないし、刻まれた傷は消えないけど、上から包帯を巻くことはできるみたいだ。セブルスの首元に顔を押し付けたまま、ただ嗚咽を漏らした。
暫くしてようやく腕を緩めてセブルスの目を見れば、彼が心配そうに眉を寄せて私の頬に触れた。
「……この赤は絵の具か?」
「ん……絵の具と血」
流石に鼻血は止まっていたようで良かったなと思いつつ、血で汚れた左手を開いた。落ち着いたら痛みがぶり返して顔を顰めたら、セブルスが割れたガラスでも拾うようにそっと触れた。
「“Episkey”」
セブルスが杖を降ったら左手の傷はあっという間に塞がった。
「魔法って凄いね」
彼が眉を寄せたまま私の顔にも杖を振ったから、反射的に私は体をこわばらせた。頬に残っていた乾いた血と絵の具が、ずるりと吸い取られる奇妙な感覚がした。
「……怖いか?」
「別に、怖くないよ」
それまで絶対に杖を手放さなかったセブルスが、それを手のひらでくるりと回して持ち手を私の右手に押し付けた。
「セブルス……?」
「持っていていい」
なんだかとんでもなく高級な物を持たされたような気がした。絶対に落とさないようにしっかり握りしめて、見た目より少し重たく、滑らかな触り心地に緊張した。
「……魔法、好きだよ」
「……そうか」
ありがとう、そう呟いて杖を返した。セブルスは無言のまま受け取ってまたローブの内ポケットにしまった。
そのまま、彼が私の後ろにあるキャンバスをじっと見ているので少し恥ずかしくなる。怒りのままにキャンパスに自分の血を描きなぐるなんて、厨二病もいいところだ。
「……何故ナギニを知っている?」
「ナギニ?何それ?」
「この蛇の名前だ」
蛇の名前?学名ってことだろうか?
「いや、特に知らないけど……なんとなく書いただけだから。ナギニってなに?」
少しためらってから、セブルスは声を小さくして返事をした。
「……闇の帝王が飼っていた蛇の名前だ」
「え……?」
「なぜお前が知っている?……お前は何を知っている?」
「え、いや、わかんないよそんな漠然と聞かれたって……。私だって、何が何だか……」
そう言われてもう一度自分の絵を見て、我ながらよく書けているなと場違いなことを思った。まるで今にも動き出しそうな空気がある。
まぁ蛇なんて全部似たようなものだ、そう思いつつ胸のざわめきがとまらない。だってこの蛇を描いてる時、私は迷いなく模様を描いた。唯一無二だとわかっていた、この蛇でないといけなかった。
「ぃ……」
「……なまえ?」
ああまた頭が痛い、割れそうに痛い。ぎゅっと髪の毛を引っ張ってその場で頭を抱えてうずくまった。
「おい、大丈夫か」
「だ、大丈夫……たまにあるから……」
特にセブルスの家に来た最初の間はこれがとても多かった。そのせいで精神面まで弱り、いつも不安に駆られていた。
「普段からこんなに……?」
「たま、に」
喋るのも辛くて髪の毛を引っ張る痛みで頭痛を誤魔化した。本当に、この頭痛は何なのだろう。
「ごめん、もう大丈夫……そんなに長く続かないの、いつも」
今日は最悪な日だと思ったけど、これだけ彼に大切にして貰えるなら悪くないかもしれない。セブルスは不安そうに視線をさ迷わせて、曖昧に頭を撫でた。
「ごめん、ありがとう」
はぁと小さくため息をついて、脱ぎ捨てていたヒールを履いて散らかした画材を回収した。私が力任せに壊した自分の絵は、セブルスが杖を振って直してくれた。
「もう保護者もみんな帰った?嫌だなぁ、抜け出したの怒られないかな」
時刻は夜の10時で、怒って飛び出した時から6時間ほどが経っていた。さすがに仕事中に感情のままに飛び出して自由に絵を描いて過ごすなんて、社会人として失格だ。
「ソーンがお前にしつこく絡んでいたのは見ている、誰も何も言わない」
「ん、そっか……」
気を使われるのも少し惨めだ。半人前でも構わないよと、優しく守られている。私だって他の教員とさして立場は変わらないはずなのに。ただ私がマグルで、ただ私が講師としても未熟だから。
床に転がっていた最後の木炭を回収して箱に投げ入れて、気持ちを切り替えようと大きく伸びをした。
「いろいろありがとう、情けないところ見せてごめんね」
なるべく明るい声で言って、笑いかけた。
「いや……あとで、部屋にくるといい」
「……セブルスの?」
どうにも真面目な顔で彼が言うから、その意図がわからなくて首を傾げる。
「どうせお前は、放っておけばまた酒しか飲まないんだろう」
「……あはっ!」
思わず笑って、セブルスにそのまま抱き着いた。
「部屋行く!お風呂したら。ビールとフライドポテトがいい」
「断る、あんなものを夜中に食べる思考が理解できない」
「別にセブルスは食べなくてもいいよ、私が食べるの」
心做しか、廊下を歩く彼の歩幅が広い。
「もう、待ってよ!ヒールだから歩きにくいの」
「身の丈に合わずそんな靴を履くからだろう」
「しょうがないじゃん、正装でってマクゴナガル先生から釘さされて、これでも低いの選んだ方なんだから」
カツカツと音を鳴らして隣を歩く。がらんとした石の城は音を良く響かせる。
階段を歩いていたら急に横に動き出し、私は悲鳴を上げて手すりにしがみついた。こんな所から落ちたら死んでしまう。高いところは駄目なんだ、あの日、天文台から飛び降りてから。
「……ほら」
「ありがとう」
ぶっきらぼうに差し出される腕にしがみついて、それを頼りに階段を抜けた。