第2章
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「セブルス、お金貸して」
「……何に使う」
「タバコ買う」
「やらん」
「お願いー!もう無理、あれがないと無理!何も進まない!」
“Always”をお題に絵を描かないといけない。おまけにたったの2週間で。授業時間はアシスタントとして拘束されるし、純粋に作業に当てられる時間はそこまで長くない。
ゆっくり絵の構想を練るにはやはりそれなりにまとまった時間が欲しいし、なるべく早く思考をまとめる為にも使える物は何でも使いたい。タバコは集中を後押しする。
「ね?ね?お願い、何でもするから。……後でお尻叩いて良いから」
「阿呆が」
囁くような小声で後半を付け加えれば脳みそが揺れるほど頭を叩かれた。そっちを叩いていいとは言ってない、君にはここがお尻に見えるのか。
「……ダメ?」
「……断ったらどうするつもりだ」
「……バーで知らない人に頼む。うそうそ、ごめん、さすがに嘘、ほんとに、怒るかなと思って言ったみただけ、ジョーク」
実はヘビースモーカーだと知った、スプラウト先生くらいには頼むかもしれない。
セブルスが嫌そうな顔でポケットに手を入れ、そこからガリオン金貨を3枚出した。
「えっ、こんなにいいよ、悪いし」
8……いや9箱買える。
「……バレンタインだ」
「え?……あー!」
あんまりにも懐かしくて、私は手を叩いて大きい声を出してしまった。今は放課後、夜の10時を回ったところで、私は彼の研究室に居る。
お題をもらってから3日間考えて、これだけは絵の具にしてみたいと思う素材をひとつ選んでみた。他はなるべく、あのアトリエにある物を使うつもり。
どうせ私の絵は動かないので普通の絵の具で充分なのだが、せっかくなので郷に入っては郷に従え、と思うことにした。
絵の具にしようと選んだ素材について、どんな性質を持っていて、粉砕するにはどうしたらいいのか、魔法薬学の教授に聞きに来た。思った通り、彼は私の質問にすらすらと答えてくれた。
「あのチョコの値段、知ってたの?」
「君が談話室で、無駄に大きな声で喋るからな。今のように」
「えーそうだっけ、談話室で?懐かしー……。まぁ私には去年か一昨年くらいだけど。ね、あのチョコ食べた?」
「……ああ」
「美味しかった?」
「気になるなら自分で買ってくればいい、そのガリオン金貨で」
くぅん。これはタバコに消えちゃうワン。
「いつか買ってみるよ」
適当に誤魔化した私に、彼はゴミを見るような視線を向けた。その視線にいっそ気持ちよさすら覚える。
にやけながら、ただひたすら目の前の石の棒を、石の板に擦り付けて絵の具を混ぜる。この石の棒はマラーと言って、棒というより、全長10cmちょっとの大きなハンコみたいな形をしている。先端が平面になっていて、これで板の上の絵の具をひたすらすり潰す、地味に辛いマゾスティックな肉体労働。
絵の具の素材に選んだべアゾール石は先程、セブルスの手を借りてあらかた砕いて油と混ぜてあるので、それなりに滑らかな液状になっている。後はこれをもっと滑らかになるまで、油と練っていくだけ。
マラーに全体重をかけて絵の具をすり潰し、広がったそれをナイフで中央にかき集め、またすり潰しながら広げる。
「……なんの絵を描くんだ」
「うーん、まだはっきりは、決めて、ないけど……」
先日、美術室に寄って先生にお題を貰ったのだという話は彼にも軽く話した。そもそもなぜ絵を描くことになったのかとも聞かれたけど、暇つぶしだと誤魔化した。
石に体重をかけるのにあわせて、少し言葉が区切れる。ふぅと息を吐いてから重たいマラーを置き、また広がった絵の具を中央に集め、石の棒を握り直す。
「夏祭りじゃない時のラムネ」
「は?」
「学校の帰り道……どうでもいい日の夕日……熱を出した日の午後……家に帰った時の汗の匂い……」
一つ一つ、情景を浮かべながら私の中の“Always”と思うものを並べていく。
「仕事帰りの売店……酔っ払った時の電球……深夜に読む本……祝日の朝……うん、そんな感じの、心地よくて逃げ出したくなる感じ」
なんだか恥ずかしいことを言ったなぁと思いつつ、またマラーを押し込む。
「まだ決めてないよ、ハッキリは」
「……そうか」
練りのコツは、腕でやらないことだ。これは持久戦なので、そのつもりで挑まないといけない。
「絶対とか、一生とか、永遠とか、そういう意思が強いもの、苦手なんだよね」
「……それを使わずに表現すると?」
「うん。……嘘つくのも苦手なんだ」
疲れた指を軽く振ってから、またナイフを使って絵の具を集める。これを1人で延々とやる時、特に眠気と戦いながらやる時は地獄だけど、こうやってつきあって喋ってくれる人がいればそんなに嫌いな作業ではない。
「理解し難いな」
「ふふ……どれも身近にあって、でも日常とぴったりは重ならないんだよ。そのもどかしさが良いの、欲しくなる」
「ならばそれが、日常と重なった時はどうなる」
「え?そうだなぁ……」
少し手を止めて、セブルスの言葉を考える。身近な憧憬が日常と重なり腕の中にある時。それでも私は、それを同じ熱量で愛せるのだろうか。
「そうなってみないとわからないけど……それでも好きなら、きっと本物だね」
あまり現実味は無いなぁと思いながら返事をした。
「それで、そんなものをどう絵にするんだ」
「それをまた、これから考えるんだよ」
ふふ、と笑いながら、再び石に体重をかける。
「……ちなみにそれはあとどれくらいかかる」
「うーん、そうだなぁ……」
耳を澄ますと聞こえるシャリッという音、マラーから伝わる粒の大きさ、これが鉱石系の素材だったことを考えると……。
「あと1時間は、かかるかなぁ、たぶん」
「ここに辿り着くまでに既に2時間半経過しているが?」
「しょうがないんだよ、これは、ほんと、石だからさぁ」
手のひらの、指の根元の部分が少し痛くて、マメになりかけてるなと察する。絆創膏なんてものは魔法界には無さそうだけど、一瞬で傷を治す軟膏だったらありそうだ。
「あっごめん、セブルスなんか、作業の、邪魔だった?もう残り、自分で、出来るし、部屋、戻ろうか?」
「今日、残りを全てやるつもりか?」
「うん、まぁ、途中でとめとくの、出来ないから、ね」
出来上がったら色を見て、何を描くかまた考えたい。この絵の具を本番で使うかも未確定だし、どうせ自分で練った絵の具なんて3日も経てば質が落ちる。市販品の絵の具と違って、防腐剤などが入っていないためだ。
「寝ないつもりか?」
「いや流石に、ちょっとは寝るよ。まだあと、えー、10日?あるし、体力持たないし」
ナイフで絵の具をかき集めなら、その質感や色、照り具合をみる。とりあえず素材に対する油の種類、その量はちょうど良かったみたいで、セブルスに相談して良かったなと思う。
この分量が合わず、しゃばしゃばになってしまう時なんかは絶望だ。練っても練ってもまとまらず、数時間かけたそれを文字通り水に流すことになる。
ちなみにこの絵の具作りの作業自体は、2025年だって美大の授業で学ぶし、道具が多少古めかしいことを除けば工程はさほど変わらない。魔法の絵は素材から魔法がかかっているのだと知れば、既製品で間に合わせず自分で練るという理由もわかる。なにより、なんかそれっぽい。
黙ってしまったセブルスの方をちらっと見れば、私を見ながらまだ顔を歪めていた。
「まぁわかるよ、絵って労力に見合わないよね」
その反応がどこか新鮮で楽しくなってくる。私のマゾヒズムは、これで育てられたのかもしれない。
「ほんと、何やってんだろうなぁって思うよ、自分でも」
「……それでも描くのだろう、お前は」
「まぁ、とりあえず今はね」
またこの先もずっとやるかは分からないけど、それこそ永遠に。それでももう飛び降りてしまった崖の先で、上手い着地点を見つけられなければ、きっと大怪我をしてしまうだろう。その時は、この絵が私の墓標になるかもしれない。
馬鹿みたいに重い石のまな板の端をよっこいしょと掴んで、傾けないように慎重に彼に視線を送った。
お願いと頼む前に、彼が杖をふってドアを開けてくれる。目の前と、それからもう1枚、私の部屋。
「ありがとう、助かる」
「また倒れても知らんぞ」
「流石にそんなことにはならないよー」
なんだかんだ優しい彼に嬉しくなりながら、部屋までまたスリッパを鳴らしながらずり足で帰った。
危惧していた授業の補助の方は、思ったよりも苦労はしなかった。美術は選択授業のようで、3年生から7年生まで、全員合わせても80人もいない。1学年10人程度の少人数で、基本的には絵を描くための基礎的な技術を教える。
杖の振り方を教えるパートというのは、少なくともここ1週間では一度も無かった。いずれはその時がくるだろうし、私がマグルだと知った時の生徒の反応がやや怖くはあるけれど、そんなに長くこの臨時講師も続かないだろう。
「なまえさん!」
「あぁ、チャーリー」
一日の最後の授業が終わり、校舎裏にタバコを吸いに来てぼーっとしていた時、ホウキに乗った彼が空から勢いよく降りてきた。運動後という様子で、いつもより声に張りがあり、さわやかに汗をかいている。
「それ、マグルのタバコですね!」
私の左手に挟まれているマルボロのスーパーライトをみて、彼はなぜか目を輝かせた。
「あぁ、うん……」
そんなに見られると気まずいし、一応マグルと明言している訳でもないしとそれをさっと隠す。
「あんまり近寄らない方がいいよ。煙、体に悪いから」
「あはは、流石に俺もうそこまで子供じゃないですよ」
「17は十分子供だよ」
お酒とタバコは20からなんだよ、知ってる?
「もう18です」
「誕生日いつ?」
「12月12日です」
「へぇ、覚えやすくていいね」
煙が彼の方にいかないように後ろを向いて吐き出す。まだ少し残っていたけど、地面に落として踏み潰した。
「ホウキ、好きなの?」
「あ、はい。もうすぐクディッチの試合で……」
「へぇ、選手なの?」
「一応、シーカーやってます」
「すごいじゃん。寮、どこだっけ?」
「グリフィンドールです」
「あら、残念」
火の消えた吸殻を拾い上げ、持ち歩いているアルミケースにしまった。駅の売店で売っていた、ミントタブレットの小さなケース。この時代に携帯灰皿の概念はない。
「じゃぁ応援出来ないや、私スリザリンだから」
「——え?」
キョトンとした顔が可愛いと思った。
「あ、セブルス」
そろそろアトリエに戻ろうかと何となく振り返ったところに彼がいた。いつもと同じ、真っ黒な服を隙間なく纏って、暗い場所から現れる。
「またタバコか」
「今日まだ3本目だから」
先程、ここに来る前にセブルスに声をかけたくて魔法薬学の教室に寄ったが、まだ忙しそうにしていたので扉の外から目を合わせただけで通り過ぎた。
セブルスはちらりとチャーリーをみて、わかりやすく顔を顰めた。
「ここで何をしている、グリフィンドールのシーカーが」
「なまえさんと喋っていました」
セブルスに真っ向から衝突するように、チャーリーは体を向ける。チャーリーはずいぶん筋肉質でガタイがよく背も高いので、セブルスより強そうに見える。
「その要件が済んだならさっさと下がれ」
「お二人は、その……恋人なんですか?」
あは。まぁそういうの気になるよね、教師の恋愛とか。違うよ、と私が普通に否定する前に、セブルスが目にもとまらぬ速さでサッと杖を降った。急にチャーリーの口がびたっと完全に閉じられ、彼は慌てたように自分の口元に手を当てた。
「生徒が教員に対し、余計な詮索をするべきではない」
流石にやりすぎではとは思いつつ、そういう価値観なのかなとも考える。生徒と教師は友人ではなく、明確な上下関係にある、とか。魔法界の古めかしい文化にはマッチしている。どちらにせよ、教師でもない私は彼の対応に口を出す所に居ない。
しんと静まり返った微妙な沈黙の後、チャーリーは顔を真っ赤にしたままホウキを引っ掴み、セブルスを睨みつけてからまた飛んで行った。きっとあのままお友達にでも会えば、お口のチャックも外してもらえるだろう。
……ああ、次の授業で会う時、ちょっと気まずいな。
「それで、何の用だ」
何事も無かったように、セブルスが私に声をかける。
「あぁ、うん。筆とか絵の具とか、取りに行きたいなと思って、家に」
「ああ……9時まで待て」
「うん、何時でもいいよ、今日は」
「寝ないつもりか?」
「金曜日だからね、ハッピーフライデー」
校舎の中に戻って、2人で並んで廊下を歩く。
「ところでセブルス、わざわざ私の事探しに来てくれたの?」
「そんなわけ無いだろう、自惚れるな」
「嬉しい、もっとちょうだい」
「お前と喋っていると脳みそが腐る」
「辛辣すぎる」
放課後の校舎は生徒であふれている。晴れた日差しが窓から入り、古びた校舎を照らしている。まだ寒い日が続いているけど、子供たちは元気に外で遊んでいる。常に誰かが何かを喋り、そこかしこで足音が聞こえ、笑い声が響く平和。
「エモいねぇ」
「は?」
「日本語でそういうんだよ、エモーショナルだねぇって、こういう懐かしい原風景みたいなもの」
“Emotional”の元の意味は感情的、喜び、悲しみ、怒り、驚きなどの感情が強く動いてる状態を指すが、日本語でエモいというと懐かしさの方が大きい気がする。
「あぁ……またそのおかしな英語か」
「え?他になんかあった?」
「……“Non-delicacy”、そもそも“Delicacy”の使い方がずっとおかしかった」
「えっ、デリカシーってそういう、人に配慮するみたいな意味じゃないの?」
「違う。……まぁ全く違うとも言わないが、その意味で使うことはほぼない」
「嘘、じゃぁ何?どういう意味?」
「食べ物だ。特定の地域でしか食べないような、比較的高級なものを指す」
「食べ物ぉ?」
デリカシー、Deliってこと?
「じゃぁ待って、私があの時、ブラックに啖呵切ってたとき、なんでこいつ急に食べ物の話するんだろって思われてたの?」
「まぁそうだろうな」
「あはっ、何それー!」
思わず口元に手を当てながら声を上げて笑う。張り切ってキメたつもりになって、とってもシュールだったのね、あの時。やだわぁ、恥ずかしい。
「ふふ、教えてくれてありがとう。これからも一生使っていくところだった」
「それはどうも」
廊下の突き当たり、地下牢に進む下りの階段と、美術室がある3階に向かう登りの階段。
「じゃぁ、また後で」
セブルスはこちらを見ることもなく階段を降りた。そういう所が心地よい。私はその揺れるマントをしばらく見てから、さぁ週末を無駄にせず頑張ろうかと自分に気合いを入れた。
描きたい絵の構図はあらかた決めて、サイズも決まったので今日はキャンバス作りを進めたい。キャンバス作りとはつまり、木枠を作って布を貼り、その表面を滑らかにする作業。
人のいないアトリエで使えそうな道具を拾い集めていると、本当にこんなところで何をしているんだろうという気分になる。生徒の製作途中のキャンバスにはかわいらしいユニコーンが描かれ、絵の具ひとつうまく塗れずに布の繊維が見えている。
マグルの私が魔法学校に来て、素人のお絵描き教室に混ざり遊んでる。スピナーズ・エンドの家で死にかけていたのだから、あの家に戻って生活するためにひとつでも身の回りのものを整えた方がいい。魔法界の道具を使って絵を描くなんて身の程知らずで、都合よく臨時講師の席まで見つけたからって、ここを自分の居場所だと勘違いしない方がいい。
現実的で賢く、地に足をつけた私がずっと囁いている。夢を見る時間は終わりです、もうおいくつですかと。
木枠を組み立て、直角を確認しながらトンカチで叩く。釘を打ち込み長方形を固定したら、今度は大きめのペンチみたいな布を引っ張るための専用工具を取り出す。切り取った麻布を木枠に当て、額に汗を浮かべながら全力で引っ張る。限界まで引っ張ったところにまた固定用の釘を打ち込み、それをなん十か所も止めていく。ただの作業、肉体労働。頭ばかりが暇で、余計なことを考える。
一応、絵の全体のイメージはもう付けているけど、描く前だというのにぱっとしない地味な絵に思える。あれだけ大見得を切って、マグルの癖に絵を見てくれなんて言った割に、なんだつまらないじゃないかと言われるだろうか。
今までの人生、私の絵の何が駄目だったのか、どうして私は選ばれなかったのか、はっきり理由を聞いたことがない。学生の頃、先生にそれを問い詰める勇気は無かった。ただ選ばれなかった、その事実だけを抱えて、どこにも行けないまま沈んだ。
両足でキャンバスを固定しながら、ひたすらにトンカチを叩く。何度も、何度も、同じ力で、淡々と。力任せにやれば布が歪むし、最悪の場合木枠がひしゃげる。でも力は抜けない、布は限界まで引っ張ってぴんと張らないといけない。
手を動かしながら、こうやって頭の中でくだらないことばかり考えるのが心地いい。嫌いなものをひとつづつ数えて、叶わなかった夢をかき集めて、人の僅かな不幸を望んで、自分の心に傷をつけるような、そういう生き方をしている。
その泥のような淀みを、ほんの少しだけ整えて、人に見せられるような形にして、真っ白なキャンバスを塗りつぶしていく。それが私の絵だ。
「ふぅ……」
ようやく木枠に布を貼り終え、適当な椅子に座る。久しぶりだったから2時間近くかかってしまった。
作業前に火にかけておいた膠(にわか)が完全にさらさらになっていることを確認して、はけを使い布に塗っていく。膠は牛や豚、鹿などの動物の皮、骨、健をじっくり煮詰めてコラーゲンを抽出し、乾燥させたもの。このホグワーツの教室に置いてあった膠だから、もしかしたらドラゴンの皮でも使ってるかもしれない。まぁなんにせよ、キャンバス作りのやり方まで美大で習っておいてよかった。人生、何が役に立つかわからない。
膠を塗り終わったキャンバスをイーゼルに立てかけてぐっと体を伸ばす。一晩乾かして、明日は下地を塗っていかないといけない。大好きな泥を塗りたくる作業はまだ先だ。
服に染みついた、膠の獣臭いにおいに顔をしかめながら教室を出て、食事をとるために大広間に向かった。もう8時だからそろそろご飯が下げられてしまう。
「ぃ、……、……、、なまえ」
「えっ?あ、なに?」
「……紅茶が零れている」
「うわ、うそ」
明日で約束の2週間、もう少しで絵が完成する。ひっそりと私の生死を左右する、そういう類の絵。これがまた、誰にも刺さらなかったどうしよう。曖昧に微笑まれて、無価値と判断されてしまったら。
そんなことを考えながら夕食をとっていた。
「やだごめん……」
「そんなに忙しいのか」
「いや、もう描き終わってる」
もう描き終わってる、もう今から修正する時間はない。あとは絶対触らないように乾燥させるだけ、何もする必要は無い。それでもただ不安が尽きなくて、私は暇さえあれば絵の前に座っていた。
もっと直したい、やっぱり違う絵にしたい、上手に出来ると証明したい、絵の具を全て剥ぎ落としたい。
ああ、夕食が喉を通らない。
「美味しいね、この……なんだっけ?」
「コテージパイ」
「そう、コテージパイ」
ひき肉をトマトソースで煮込んだものの上に、マッシュドポテトを重ね、それをグラタンのように焼いているんだろう。パイと言いつつパイ生地は使われていない。
滑らかなマッシュドポテトは噛まなくても喉に流し込めるので、緊張しているお腹に溜まりやすかった。
今日は土曜日、明日も丸1日作業に使えるけど、もうなにもやるとは無い。これならいっそ、授業がある方がマシだった。
「“ごちそうさま”」
日本語で呟いて席を立つ。また真っ直ぐアトリエに向かって、絵を眺めてから溜息をつき、校舎裏でタバコを吸った。
お酒を飲みたい。なるべく度が強いやつ。
「あら、お疲れ様です」
「スプラウト先生……!」
ああ、ここになんて素敵な女神が居たんだろう……!
「ふふふ、付き合ってくれてありがとうございます。ポモーナ」
「いいのよぉなまえ、私も楽しかったわ。若い子と飲めて」
タバコ仲間のスプラウト先生に半ば泣きつき、ホグズミードまで一緒に飲みに行って、ファーストネームを呼び合いながら帰って来た。
「部屋まで1人で戻れる?」
「はい、流石に大丈夫です」
どこか包み込むような母性で、何もかも受け入れてくれるスプラウト先生に甘えてしまう。迷惑をかけてはいけない、もうここで辞めておこうと思ってから更にビールを3杯飲んだ。
なんだが真っ直ぐ歩けない靴だなと思いながら校舎を歩き、スプラウト先生と別れてからアトリエに向かった。
一瞬だけ絵を見て帰ろう、あの絵が無事にあることを確認しよう。明日、あれが酷評されるとしても、今だけは私があの絵のファンだから、私のための絵だから。
教室を抜けてアトリエの扉を開ける。当然誰もいないだろうと思っていたのに、そこに人がいたから、酔っ払いの私は死ぬほどびっくりした。
「うひゃあ!」
人って本当にびっくりするとそう言うんだと思いながら、どすんと尻もちをつく。
「せっ、せっ、せっ……」
アルプス1万尺じゃないのよ。
「せぶるす…………やめて、びっくりした……」
「……どれだけ飲めばそうなる」
床に座り込んだままの私に、呆れ顔の彼が近づく。手を伸ばして引っ張りあげ、目の前に水の注がれたコップまで用意してくれた。
「アトリエは水ダメだよ」
真剣にそう言いながら手元のコップを飲み干した。
「わかったから」
セブルスがそう言いながらコップにまた水を注ぐから、それをまた飲み干した。もう、水はダメって言ったのに。
セブルスが視線を部屋の隅の絵に向ける。私が描いた、少年の寝顔。薄暗い朝、少し埃っぽい部屋で、少年が横向きで寝ている。顔を隠すように枕に押し付け、うつ伏せのような角度。少し長い黒髪がバラバラに散らかって、彼は寝てるのに少し険しい顔をしている。部屋に漂うモヤのような淀んだ空気が、朝日の通り道を作って枕の端を照らしている。
ずりずりと四つん這いのまま部屋をすすみ、少し斜めから絵を眺めた。月明かりが絵を照らして、そのぼんやりした輪郭がこの絵にはちょうどいい。
「あれ、君だよ」
あの日、君をシャワーブースに押し込んだ日の翌朝。3回もシャンプーして、新品のパジャマを着せて、ドライヤーで髪を乾かし、シングルベッドの両端で背中を向けて寝た。
「……ああ」
「勝手にモデルにしてごめんね、ぼかしてるから、みんなには分からないと思う」
「……そうだな」
ああ、気持ちいい。お酒がふわふわと血管を泳ぎ、体から力が抜ける。スプラウト先生は聞き上手で、私の拙い英語にもちゃんと耳を傾けてくれた。おまけに信じられないほど酒飲みで、私以上のペースでジョッキを煽り、楽しいわと笑ってくれた。
「なぜ、あの絵が“Always”になる」
「えー、うーん」
もう酔っ払ってるし、そういう難しいことを考える脳みそは無いのだけど、聞かれたから一生懸命考えた。
「人は毎日寝るでしょう?でも自分の寝顔って自分じゃ見れなくて……。君の寝顔を見た時にさ、よく寝てるなーって思ったの。寝る時は、あのー…………人って寝てるんだなって!」
あははと笑ったのに、セブルスはちっとも笑わないから困っちゃう。おい笑えよ、と思いながら真っ黒なローブを叩いた。
「起きてると、色々考えるでしょう?人は。寝てる時はさ、どうなんだろうね?夢は見るけど……。寝てる君は、起きてる時よりずっと無防備で、私はゆっくりデッサンできるけど、起きてる君みたいに目は合わないの」
あぁ、頭がこんがらがってきた。英語というのもダメ押しして、私は説明を諦めた。そもそも、言語化が得意な人間は絵なんて描かない、多分。
「……良いと思ったの。曖昧で……でも常に、こうであって欲しいと。いつか目を覚ますだけの夢」
待って、なんか私ばっかりずっと喋ってない?
「恥ずかしいよぉ、ポエム語らせないでよぉ」
そういうこと出来ないから絵を描いてるんだよ、黙っておくこともできなくて。
「セブルス……?」
いい加減なにか返事してくれよと思って、座ったままの私は隣に立つ君を見上げる。
「……部屋に戻るぞ」
「うん」
君が話し始めたんじゃないと思いながら、私の手を掴んでくれるその温もりが愛おしかった。そのまま指を絡めて握り直したら、彼もそれを振り払うことなく、2人で静かな廊下を歩いた。
「……ラッコってね、寝る時手繋ぐんだって。理由知ってる?」
「知らない」
「寝てる間にね、波に流されちゃわないようにするんだって」
「……それで?」
「……寝れないの、夜。起きたらまた、違うところにいる気がして」
――怖い。
「薬をねぇ、ホグズミートに買いに行ったんだけど、なんかよくわからなかった」
“飲んだら一瞬で眠りにつく”、“8時間は何があっても絶対に起きない”、“至高の夢見をお約束します”。色んな睡眠薬が魔法界にはあったけど、そのどれも欲しくなかった。私はただ、普通に寝たい。
「その程度なら作ってやる」
「うん」
さすがにちょっと、飲みすぎたなぁと思う。立ち止まってるのに世界がどことなく揺れていて、明日はきっと二日酔いになるだろう。
「ごめん、送ってくれてありがとう」
せめて最後はシラフのふりをしようと、自室のドアの前で精一杯微笑んで背筋を伸ばした。
「……あの絵が、欲しいと言えばいくら払えばいい」
「えっ……?」
一瞬、何を言われたのかわからなくて、良くわからないまま笑った。
「あげるよ、君に描いた絵だから」
両手を伸ばしてキスをしてそのまま彼に抱き着いた。人のぬくもりが心地いい。
明日、どれだけ酷評されても死なずに済みそう。だってあの絵、ちゃんと欲しい人がいたから。