第2章
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散々お尻を叩かれた翌日は椅子に座るとまだ痛くて、昨日のあれ気持ちよかったなんて思い出しながら大広間で意味深に硬いパンを齧っていた。人を噛むってどういう感覚なんだろう、噛む方も興奮するんだろうかと。
突然、隣に座るセブルスに咳払いのあと睨まれて、食後は彼の研究室に引っ張られた。朝からうるさいと怒られたけど、別に私は何も言ってない。彼は頭の中でも見えるのだろうか。
戸棚にあった軟膏を押し付けられて、痛むならそれを塗れといって部屋から追い出される。朝から忙しそう、うるさいのは君では?
あぁ、でも彼だけじゃないね。月曜日はみんなどこかに向かって歩いている。
すっかり体調も良くなったのに私物ひとつ無い部屋に閉じこもっているのも頭がおかしくなりそうで、手ぶらのまま外に出た。生徒の少ない廊下を選びながら、ゴーストのように当てもなく彷徨う。
ふと窓の外を覗くと、真っ黒な丈の長いローブを翻して廊下を歩くセブルスが見えた。周囲の生徒たちは背筋を伸ばし、雑談をやめている。——なんだ、随分ご立派じゃないか。
彼の調薬技術、そして何より幅広い知識と論理的思考は学生の時から頭一つ抜けていた。あの頃みたいに世界に怯える少年はいないし、もうきっと君を馬鹿にする人はこの学校にいない。
ここからみたら、彼はもう豆粒みたいに遠い。
学校にいるのが嫌になってホグズミートまで散歩に行く。お金もないので叫びの屋敷が見えるただの丘に来て、適当な切り株に腰をかける。
ああ、そういえばリーマス・ルーピン、元気だろうか。人狼と噂されていた彼。あの日、暴れ柳の根元はどこに通じていたんだろう。なんとなく自分の考えに違和感をもって首を捻るが、頭痛がしたので考えることをやめた。
「……ちょっと戻りたいかも」
スピナーズ・エンドに。ぽつりと呟いて、でもあの寒さには体が耐えられないなと思い直した。どこにも帰る場所がない、そんな気分。ただ不思議と日本に戻りたいと思わないのはなぜだろう。あそこには仕事も家も貯金も友人も家族も、生きていくためのすべてが揃っていたはずなのに。
学校に戻り、やることも無いのでダンブルドアに言われた美術室に向かった。
DADAの教室がある3階、その廊下の奥からシンナーや薬品を思わせるツンと鼻につく匂いがする。――油絵だ。シンナー臭の原因、発揮油の換気と絵を乾かす為に、ドアは大きく開け放たれているようだった。人気のない静かな廊下を、なるべく足音をたてないように真っ直ぐ歩く。
目に入る教室の奥、大きな壁の中央に、4人の男女が談笑している絵が飾られていた。女性二人は穏やかな表情でたまに小さな声でささやきあう。男性二人はどこか怒ったように互いの存在を無視し、片方は自分の杖を、片方はどこかで見たことがあるような帽子を持っていた。
きっとそう、この学校の創立者の4人だ。
――ああ、なんて迫力のある絵なのだろう。
特別派手な動きがある訳では無い、天から降り注ぐような光も、荒々しく地面を踏み鳴らす土煙もない。ただ石造りの城の一室で、少し歪な関係の4人が揃っているだけ。でもその息遣い、空気の流れ、匂い、温度までもが伝わってきて、ふとしたら世界に飲まれそうになる。
グリフィンドールは喧嘩の後のように鼻息を荒らげ、たまに足を揺すりちらりと横を見る。スリザリンはそんな感情の機微を見せることすら未熟であるとでも言うように、蛇のように冷たい鱗でその表情を覆っている。レイブンクローは2人の男の様子に冷ややかな目線を送りながら、目の前で優しく微笑む女性との会話を楽しんでいる。ハッフルパフは全てを受け入れる水面のように、ただ全員がここに居る事実を喜んでいる。
彼ら4人は私に気づいてはいるが、特段話しかけてくることは無かった。窓の外の出来事など、内側の世界と比べたらさして興味を持たないだろう。額縁の内側は狭く退屈で、彼らはいつでもこちらの世界に興味を示すだろうという、傲慢な思い込みを持っていたことに気付かされる。
触れてみたいが、あまり近づくのも怖い、おこがましい。近づきすぎては吸い込まれそうで、でも目を離さずにはいられない。絵まであと3歩。ここに立つとちょうど絵の全体を見ることができた。
私はただ、そこに無言のまま立ち尽くした。
「あっ、もしかして新しい講師の人ですか?助かったぁ、ちょっと聞きたいことがあったんですよ」
「えっ」
いったいどれほどの時間が経過していたのか、関節の軋む足を動かしながら声の元へ振り返った。
がたいの良い、素朴な赤毛の青年がキャンバスを両手にもち首を傾げている。
「この、スウェーデン・ショートの羽ばたく感じはそれなりに上手く描けたんですけど、なんだか全体で見るといまいちな気がして……でも何をどう直したら良いのか分からなくて」
青年は自分の絵の不完全さを誤魔化すように笑いながら、ちらりと右側の壁にかけられた殺風景な空き部屋の絵をみた。
「先生不在で良かったあ」
この魔法界で、絵の中から人が居なくなるということは珍しくもないので、きっとこの絵には誰かが描かれていてどこかに出かけているのだろう。そしてこの青年の言葉をそのまま受け取るなら、それ人物こそがこの美術教室の先生ということになる。思わず唖然としながら、その空っぽの部屋を見た。
「それで、どこを直せばいいと思いますか?」
「あぁ……うん……」
曖昧に返事をしながら視線を青年のもつキャンバスに戻す。それを見ながら、正直口を閉ざしてしまった。確かにそう、彼はきっとドラゴンが好きなのだろう。ドラゴンには全力を注いでいる形跡が見られるが、それ以外が雑過ぎて明らかに浮いている。
それでも真面目に一生懸命、キャンバスの隅々を埋めていた。
「3日後に提出なんですよ、いやーあはは……」
絵を見たまま固まる私に、彼は頭をぽりぽりとかいた。
「……3日後?ほんとに?」
「はは……」
彼の苦笑いを見るに、そうなんだろう。
「……パースが全体的に狂ってるの。定規とかある?」
「定規?がわかんないんですが……パースを見る時はいつもこれを使ってます」
そう言って彼が持ち出したのは、縦横に糸が張り巡らされたただの木枠。
古めかしいけど、デッサンスケール、略してデスケルだろう。確かに空間の把握に役立つが、これだけでパースまで管理するのは難しい。
「あー、じゃぁなんか、真っ直ぐな棒とかでいいんだけど、あるかな」
「これでいいですか?」
そう言って彼が出してくれたのは、1メートル程の棒の先端に貧相なクッションが付いたもの。
「ああ、ありがとう。それでね……あー、そもそもパースって何かわかる?」
「あーえっと、物の位置?を決める、空間の法則?……みたいな?」
「うん、まぁ間違ってないよ。奥行のある空間を平面に表現するための遠近法」
そう言いながら、私は彼の絵にスティックを少し浮かせながら当てた。
「この木はさ、奥から手前に、こういう位置で生えてる。地面はさ、この絵だとこの角度になってる。わかる?木に対して、地面が傾いてるの。消失点が合ってない」
「あぁ……」
青年は絶望的に小さな声をあげ、それにおもわず笑ってしまう。パースが狂ってると、ここまで絵ができた段階で言われるのは絶望だ、なんせ本来なら全てを書き直さなければいけないのだから。デジタルならまだしも、油絵でこれを言われたら泣きたくもなる。
「地面よりはこの2本の木を直す方が楽だから、この木の根元をもう少し伸ばすか、時間が足りないなら草むらでも描いて隠せばいい。ほら、ここをこうやって、手で隠すだけでマシになるでしょう」
「あっ、ほんとだ!」
それでいいんだ……という小さな呟きが可愛い。
「それで、そもそもドラゴンなんだけど、君これ、飛んでるから背景なんてどうでもいいと思ってない?」
「あーはい、すこし思ってます……」
多分、地面に立つところを描くのが難しくて、無理やり飛ばせたんだろう。
「そのせいで2枚の別の絵を重ねたみたいな違和感がある。こういうものを繋げるテクニックは色々あるけど、今は風を描いちゃうのがいいと思う」
「風?」
「そういう、空気の流れ。このドラゴンが羽ばたく時、羽はどう動くの?可動域はどのくらい?この羽は上がりきってるの?それとももう少し上がるの?このドラゴンが飛び立つ時、空気はこっちに押されるの?それとももっと、乱気流みたいに全体をかき混ぜるの?君、このドラゴン好きみたいだし、そういう風に考えれば空気の流れが見えるでしょう?」
「あぁ、確かに……!」
「その空気が特に圧縮される場所に、薄く溶いたオイルにほんの少し暗い顔料を混ぜて、グレースでさっと引いてあげれば、少し良くなると思う」
青年は私の言葉を真面目に聞きながら、ふむふむと頷いた。
「凄い、なんか俺でも出来そうな気がします!」
その素直すぎる感想に思わずくすりと笑ってしまう。
「まぁ実際やると結構難しいかもしれないけど、頑張って」
「わかりました、やってみます」
彼はキャンバスを近くのイーゼルに置き、私に視線を移した。
「あの、あなたはいつから入るんですか?授業」
「あーいや、私別に、その講師?じゃないんだよね」
「えっほんとですか?じゃあすみません俺、絵の修正教えて欲しいなんて言っちゃって……。でもめちゃくちゃわかり易かったです、あなたが本当に講師になってくれたらいいのに」
「ありがとう、それは嬉しいけど……私、魔法が使えないから」
マグルだから、とは何となく言えなかった。
「スクイブってことですか……?」
控えめに、気まずそうに彼は言って、私は黙ったまま肩をすくめた。
「でもあの、大丈夫というか、前に“居る”って聞いた事ありますし」
「……何が?」
「スクイブの魔法画家」
彼の言葉に、思わず心臓が高鳴った。
「……なんで?どうやって?絵、動かないんじゃない?」
「なんか兄弟でやってて、特別な方法だって……すみません、あんまり詳しくは知らないんですが」
「そうなんだ」
そう言いながら、思わず先程まで夢中になって眺めていた創始者たちの絵を振り返った。彼らは変わらずその空間を生きていて、グリフィンドールだけが意地を張るのに飽き、たまに退屈そうに窓の外を見ていた。
ああ、もし自分がこれを描けたのなら、そしたらもう――死んでもいい。
「今の講師、ほんと教えるの下手なんすよ。先生ともしょっちゅう言い合って、空気悪いし」
彼はそのまま授業の愚痴を話し始めたが、私の思考はまだこの大きな絵に囚われていた。
「ねぇ先生ってさ、君、今留守にしてるそこの絵のこと指してたよね?ホグワーツでは、絵が、絵を教えているの?」
「はい、自画像です。肖像画っていうと怒るんですよ」
これほどの大作の横に、小さく飾られる質素な人物画……それがおまけに自画像ときた。他人に自分を描かせる肖像画ではない、自分で自分を描く、究極の自己表現。それが美術室の中で先生と呼ばれ、生徒に絵を教えている。
「それってもしかして、この絵を描いた人?」
「そうですよ」
あっさりと彼は肯定し、私は乾いた笑みを浮かべた。やはりそうなのか、この言葉にならない最高傑作を創り出した人が、その知識と経験を学生に教えているのか。
ああ、まるでゴッホの自画像に絵を教わるようなものじゃない。なんて贅沢……!
「そう……凄いね。羨ましいよ」
「いやぁめちゃくちゃ怖いっすよ。なんかもう、人の命より絵って感じで。先生やってるのも、ただ自分が驚くような新しい絵を見たいかららしいっす。いつも部屋の中でパイプ吸いながら、だるそうに『私を楽しませてみろ』って生徒に言ってます」
そう言いながら、青年は楽しそうにパイプを吸うジェスチャーをした。
「ふふ、なにそれ。すっごく悪そうなセリフ」
「ほんとそんなんですって」
「ほう、そんなに悪役が欲しければ演じてやろうか」
「げっ、先生!!」
突然、空だった額縁に人が戻り、右手のパイプをゆっくりと吸った。もくもくと白い煙を口から吐き出し、まるで夜のフクロウのように目をぎょろぎょろと動かす。
「……誰だお前は。ここの学生では無いな」
「はい、勝手にすみません。少しこの城に滞在していて……」
そんなことより、この人に聞きたいことがある。
「この絵、あなたが描かれたんですか?」
「左様」
「あの……もしよろしければ……」
そこで少し唾を飲み込んで、右手の爪が手のひらに食い込むほど強く握った。
さあ今、ここで飛び降りろと、心が急かしている。別いいじゃない、今の私にだって失うものは何も無い。公園の浮浪者と同じだ。
「私の絵を見てもらうことできますか」
自画像は暫く私の顔を見て、片側の口角をあげて小さく頷いた。
「今、手元にあるのか」
「いいえ……これから描きます」
彼はもう一度ゆっくりパイプを吸い、それからまたゆったりと吐き出す。
「よかろう、ならばここにあるものは自由に使うといい。ついでにお題も出してやろう、そうだな……」
自画像は時間をたっぷり使ってお題を考える。10秒ほどして、呟くようにぽつりと言った。
「“Always”」
「Always……」
常に、いつも、永遠に。
油絵とは哲学だ。絵の技量だけではない、絵という表現を通して、その思考の価値を問われている。お題を出されるということは、真っ当に私を見ようとしてくれている意図の現れ。それだけで少し、受験のように緊張する。
「それともうひとつ、明日からこの授業の補助にはいれ。そいつが言ったように、数日前にアシスタントが逃げ出したのだ、根性無しめ……。もはや絵を描ける人間なら誰でもいい」
「え……私、魔法を使えないんですが、それでも?」
「聞こえなかったのか?絵を描けるなら誰でもいい。それともお前は、棒切れの先で絵の具を塗れると思っているのか?」
「……わかりました」
“先生”は何かを考えるように斜め上を見上げ、また私を見た。
「絵の提出期限は来週の日曜だ。3月3日の日曜日」
「2週間……。わかりました」
作品を1つ仕上げるのに、2週間という期間は短い。下準備や描きあげたあとの乾燥の時間も考えれば、筆を入れられる期間は1週間あるかないか。構想をゆっくり考える時間もない。
「サイズや構成などに条件はありますか」
「何も無い、自由に描け」
試されている、ほんのわずかに期待されている、その緊張感が胸を突く。
「他に質問は?」
「ありません」
「よろしい、楽しみにしていよう」
「頑張ります」
彼は悪役らしく目を細め、またパイプを片手に部屋——額縁から出て行った。
「“Always”っすかー、なんか小難しいお題ですね」
どこか間の抜けたような明るさでこの青年が喋るから、ついほっと力が抜けてしまう。
「まぁ、そんなに変わったお題ではないと思うけど」
お題にそって絵を描くのは学生のころ散々やった。虚構、存在、死、生、時間、境界……そういった概念だけを突きつけられ、自分の引き出しを限界まで引っ張り出して1枚の作品を捻り出す。お決まりの修行だ。
ただそう、“Always”という英単語を、日本人の私がどう理解するのか、それも難しそうだ。
「ところでさ、この教室、アトリエはあるの?作業に集中できる部屋」
「それならこっちです、ここでは私語厳禁。作業以外をやってたら殺されます」
「ふふ、いいね。ありがとう」
それまで彼と話していた、絵が飾られているこの部屋は、イーゼルやキャンバスの隣に椅子や机があり、座学も出来る教室のような仕様になっていた。青年に案内されたもうひとつ奥の部屋にはそれが無く、ただキャンバスが雑多に並び、作業机のような長机に筆や絵の具などの様々な道具が散乱している。
そのひとつを手に取って、私は思わず顔を顰めた。
「……もしかして、これが絵の具?……豚の膀胱?」
「はい、そうです」
青年は輝かしい笑顔で頷く。私はそのザラりとした濁った黒とも緑とも言えない手のひらサイズの袋を手に取った。1箇所が紐でキツく、ぐるぐる巻きにされている。こんなもの、西洋美術史の教科書でしか見たことがない。絵の具を詰める、金属チューブすらダメなのかここでは。
視線をずらして、その隣にあるすりこぎのような棒と分厚く重たい石の器にさらに衝撃を受ける。
「これは……顔料、自分で作ってるの?」
未来……いやこの時代だって、まともな画家はこんな事しないだろう。素材を自分ですり潰し、油とまぜて手製の絵の具を作るなんて。まるで調薬だ。
「店で買うこともありますよ、でも作るのも授業だからってことで。あっちにある絵の具は自由に使って大丈夫だと思います、皆んな自由に使ってて、ここの備品なんで」
「なるほどね……」
これで2週間か……結構、いやかなり厳しいかも。
「なんかその、楽しそうっすね」
青年は明るい表情で、真っ直ぐ言った。
「あぁ、うん……。新しいものってワクワクするよね」
「こういうの、あんまり使わないんですか?」
「まぁ、あんまりね」
そうだね、30年後のマグルは誰一人使わないだろうよという言葉を飲み込む。
「あの……俺、チャーリーっていいます。チャーリー・ウィーズリー」
「ウィーズリー……ああ、もしかして元気いっぱいの双子の弟がいる?」
「え、会ったんですか?フレッドとジョージ」
「うん、どうりでお揃いの赤毛。魔法界ってのは赤毛が特別多いのかと思ったよ」
リリーも、君も。
「いや、あはは……」
チャーリーは僅かに顔を赤くさせ、隠すように頭をかいた。
「綺麗だよね、この色。……知ってる?30年後には赤毛って、すっごく珍しくなるんだよ、人口の1パーセントとか、2パーセントくらい。今ももう少ないのかな」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。だから自信持ちなよ。私は好きだよ、赤毛。昔、古い友達が赤毛だった。……賢くて、聡明で、誠実な子だったよ」
リリーは、今どこで何をしているんだろう。私のこと、まだ覚えているだろうか。私が、今度は私の姿で、また魔法界に来たと知れば彼女は会ってくれるだろうか。
「あの……あなたの名前は?」
「あぁごめん名乗らずに。なまえ・みょうじだよ」
「なまえ……変わった響きですね」
「まぁ、日本人だから。馴染みないかもね」
「なまえ……素敵な響きです」
17歳の青年が、どこか背伸びするように言った。
「ありがとう、チャーリー」
チャーリーは白いそばかす顔を赤くして、大きな体を隠すように丸めた。
「ねぇセブルス、“Always”ってどういう単語?」
「……は?」
その日の夜、大広間での食事時、隣に座っているセブルスにそう聞いた。
「だからさ、“Always”ってどういう単語?」
「……ただの副詞だ。常に、いつまでも、あるいは例外なく。始まりから終わりまで、何一つとして変わることのない状態を指す」
「ふぅん……常に、いつまでも、例外なく、変わらない状態……」
"Constantly," "at all times," "with no exceptions," “unchanged,"
「じゃぁその、不変――“Unchanged,"と、継続――"Constantly,"とかと、“Always”は何が違うの?」
「さっきからなんだ、不躾に」
「いいから、教えてお願い。セブルス、説明分かりやすいから」
昔からそう、言語化が上手。頭良いんだよね、根本的に。
「……“Unchanged,"も、"Constantly,"も物事の状態や性質を指す、数値的な規則性を、客観的に説明する無機質な単語だ。“Always”はもっと……時そのもの、存在を示す。お前は“Always”だらしがないが、それを"Constantly,"とは言わん」
そう言いながらセブルスが杖先で私の服を叩けば、3つほど開けっ放しにしていたシャツのボタンが1番上まで固く閉じられた。
「なるほどね、“Always”の方がちょっと生々しいのね、うん」
せめて1番上は見逃して欲しいと思いながらまたボタンを外す。
「“Always”ってさ、辞書を引くとね、常に、いつもとかの現在の話しのほかに、この先もずっとって意味の“Forever”も入ってくるのよ。これは?“Always”と“Forever”は何が違うの?」
まだ続けるのかと言いたげな目線で、めんどくさそうにため息をつきながらセブルスは少し皿の上のステーキを眺めた。
「“Forever”は未来に向けた単語だ。時間の果て、終わりなき先へ向かっている。“Always”をその意味で使用するとき、これは……これは未来のどの時点を切り取っても、例外なくそこに存在しているという、確信だ」
「んん……“Forever”が線で、“Always”は点ってこと?」
「ちがう、阿呆」
難しい、もっとわかりやすく説明して欲しい。セブルスはナイフを皿に置き、人差し指で机を2か所叩いた。
「線か点でいうならどちらも線だ。ただ“Forever”が未来永劫続いていくことを強調するのに対し、“Always”は過去、現在、未来への継続を意味する」
「あーはーん……。じゃぁ例えば、私が君に"I will love you forever."って言ったら、この先死ぬまで一緒にずっと居たいって感じだけど、"I will always love you."って言ったら、昔も今もこの先も、私はあなたに愛を約束するわって感じ?」
その瞬間、セブルスは左手のフォークをかちゃんと音を立てて皿に置き、セブルスの奥に座っているマダム・ピンスはごほんと小さく咳払いをした。
「え、ごめん。なんか」
「お前は……」
はぁと息を吐き、背もたれに体重を預けながらセブルスは紅茶を飲む。
「……合っている、その解釈で」
「なるほどね、ちょっとわかってきた」
ステーキをひとくち口に入れ、それを噛みながら大広間の天井にに浮かぶ月を見た。綺麗な満月が、雲一つない夜空に浮かんでいる。
「月はさ、“いつも”綺麗だね」
「そうだな」
「セブルスは“いつも”難しい顔をしてるね」
「君が“いつでも”気の抜けたフグのような顔をしているのだろう」
「そんなことないよ、“いつだって”真剣に物事に向き合ってる」
「“この先もずっと”そうであって貰いたいものだ」
セブルスの言葉で“遊び”をやめて、笑いながら両手でティーカップを持ち上げる紅茶を飲んだ。取っ手を持つようになんて、そんな上品なマナーは指摘しないで欲しい。温かいお茶をのむ理由とは、両手でこの熱を享受するためにある。
「急になぜそんなことを聞いてくる」
「あー、うーん……。セブルスさ、私の絵、好き?」
大して熱くもない紅茶の表面に、ふぅと軽く息を吐く。ゆらゆらと琥珀色の水が揺れて、私の顔が歪んで映る。絶妙に斜め下から、ぶっさいくな角度。
「……ああ」
少し間があってから、彼は短くそう言った。だから私は、彼にとっては本当はどっちでもいいんだろうと思い、それがぬるくて心地よかった。
「絵をね、また描いてみようかなと思って」
これが駄目ならもう筆を折るよ、とは言えなかった。私はもう筆を折った後のはずで、その折れた筆をもう一度持とうというのに、都合よく二回も折ることなんてできないだろう。
「……完成したら、その絵を見てもいいだろうか」
この隣の男は、こんな殊勝なことも言うのかと思い、横を向いた。セブルスはこちらを見ずに、雲に隠れた月を見ている。
「うん、いいよ」
彼は何も言わずに、また黙って食事を再開した。
突然、隣に座るセブルスに咳払いのあと睨まれて、食後は彼の研究室に引っ張られた。朝からうるさいと怒られたけど、別に私は何も言ってない。彼は頭の中でも見えるのだろうか。
戸棚にあった軟膏を押し付けられて、痛むならそれを塗れといって部屋から追い出される。朝から忙しそう、うるさいのは君では?
あぁ、でも彼だけじゃないね。月曜日はみんなどこかに向かって歩いている。
すっかり体調も良くなったのに私物ひとつ無い部屋に閉じこもっているのも頭がおかしくなりそうで、手ぶらのまま外に出た。生徒の少ない廊下を選びながら、ゴーストのように当てもなく彷徨う。
ふと窓の外を覗くと、真っ黒な丈の長いローブを翻して廊下を歩くセブルスが見えた。周囲の生徒たちは背筋を伸ばし、雑談をやめている。——なんだ、随分ご立派じゃないか。
彼の調薬技術、そして何より幅広い知識と論理的思考は学生の時から頭一つ抜けていた。あの頃みたいに世界に怯える少年はいないし、もうきっと君を馬鹿にする人はこの学校にいない。
ここからみたら、彼はもう豆粒みたいに遠い。
学校にいるのが嫌になってホグズミートまで散歩に行く。お金もないので叫びの屋敷が見えるただの丘に来て、適当な切り株に腰をかける。
ああ、そういえばリーマス・ルーピン、元気だろうか。人狼と噂されていた彼。あの日、暴れ柳の根元はどこに通じていたんだろう。なんとなく自分の考えに違和感をもって首を捻るが、頭痛がしたので考えることをやめた。
「……ちょっと戻りたいかも」
スピナーズ・エンドに。ぽつりと呟いて、でもあの寒さには体が耐えられないなと思い直した。どこにも帰る場所がない、そんな気分。ただ不思議と日本に戻りたいと思わないのはなぜだろう。あそこには仕事も家も貯金も友人も家族も、生きていくためのすべてが揃っていたはずなのに。
学校に戻り、やることも無いのでダンブルドアに言われた美術室に向かった。
DADAの教室がある3階、その廊下の奥からシンナーや薬品を思わせるツンと鼻につく匂いがする。――油絵だ。シンナー臭の原因、発揮油の換気と絵を乾かす為に、ドアは大きく開け放たれているようだった。人気のない静かな廊下を、なるべく足音をたてないように真っ直ぐ歩く。
目に入る教室の奥、大きな壁の中央に、4人の男女が談笑している絵が飾られていた。女性二人は穏やかな表情でたまに小さな声でささやきあう。男性二人はどこか怒ったように互いの存在を無視し、片方は自分の杖を、片方はどこかで見たことがあるような帽子を持っていた。
きっとそう、この学校の創立者の4人だ。
――ああ、なんて迫力のある絵なのだろう。
特別派手な動きがある訳では無い、天から降り注ぐような光も、荒々しく地面を踏み鳴らす土煙もない。ただ石造りの城の一室で、少し歪な関係の4人が揃っているだけ。でもその息遣い、空気の流れ、匂い、温度までもが伝わってきて、ふとしたら世界に飲まれそうになる。
グリフィンドールは喧嘩の後のように鼻息を荒らげ、たまに足を揺すりちらりと横を見る。スリザリンはそんな感情の機微を見せることすら未熟であるとでも言うように、蛇のように冷たい鱗でその表情を覆っている。レイブンクローは2人の男の様子に冷ややかな目線を送りながら、目の前で優しく微笑む女性との会話を楽しんでいる。ハッフルパフは全てを受け入れる水面のように、ただ全員がここに居る事実を喜んでいる。
彼ら4人は私に気づいてはいるが、特段話しかけてくることは無かった。窓の外の出来事など、内側の世界と比べたらさして興味を持たないだろう。額縁の内側は狭く退屈で、彼らはいつでもこちらの世界に興味を示すだろうという、傲慢な思い込みを持っていたことに気付かされる。
触れてみたいが、あまり近づくのも怖い、おこがましい。近づきすぎては吸い込まれそうで、でも目を離さずにはいられない。絵まであと3歩。ここに立つとちょうど絵の全体を見ることができた。
私はただ、そこに無言のまま立ち尽くした。
「あっ、もしかして新しい講師の人ですか?助かったぁ、ちょっと聞きたいことがあったんですよ」
「えっ」
いったいどれほどの時間が経過していたのか、関節の軋む足を動かしながら声の元へ振り返った。
がたいの良い、素朴な赤毛の青年がキャンバスを両手にもち首を傾げている。
「この、スウェーデン・ショートの羽ばたく感じはそれなりに上手く描けたんですけど、なんだか全体で見るといまいちな気がして……でも何をどう直したら良いのか分からなくて」
青年は自分の絵の不完全さを誤魔化すように笑いながら、ちらりと右側の壁にかけられた殺風景な空き部屋の絵をみた。
「先生不在で良かったあ」
この魔法界で、絵の中から人が居なくなるということは珍しくもないので、きっとこの絵には誰かが描かれていてどこかに出かけているのだろう。そしてこの青年の言葉をそのまま受け取るなら、それ人物こそがこの美術教室の先生ということになる。思わず唖然としながら、その空っぽの部屋を見た。
「それで、どこを直せばいいと思いますか?」
「あぁ……うん……」
曖昧に返事をしながら視線を青年のもつキャンバスに戻す。それを見ながら、正直口を閉ざしてしまった。確かにそう、彼はきっとドラゴンが好きなのだろう。ドラゴンには全力を注いでいる形跡が見られるが、それ以外が雑過ぎて明らかに浮いている。
それでも真面目に一生懸命、キャンバスの隅々を埋めていた。
「3日後に提出なんですよ、いやーあはは……」
絵を見たまま固まる私に、彼は頭をぽりぽりとかいた。
「……3日後?ほんとに?」
「はは……」
彼の苦笑いを見るに、そうなんだろう。
「……パースが全体的に狂ってるの。定規とかある?」
「定規?がわかんないんですが……パースを見る時はいつもこれを使ってます」
そう言って彼が持ち出したのは、縦横に糸が張り巡らされたただの木枠。
古めかしいけど、デッサンスケール、略してデスケルだろう。確かに空間の把握に役立つが、これだけでパースまで管理するのは難しい。
「あー、じゃぁなんか、真っ直ぐな棒とかでいいんだけど、あるかな」
「これでいいですか?」
そう言って彼が出してくれたのは、1メートル程の棒の先端に貧相なクッションが付いたもの。
「ああ、ありがとう。それでね……あー、そもそもパースって何かわかる?」
「あーえっと、物の位置?を決める、空間の法則?……みたいな?」
「うん、まぁ間違ってないよ。奥行のある空間を平面に表現するための遠近法」
そう言いながら、私は彼の絵にスティックを少し浮かせながら当てた。
「この木はさ、奥から手前に、こういう位置で生えてる。地面はさ、この絵だとこの角度になってる。わかる?木に対して、地面が傾いてるの。消失点が合ってない」
「あぁ……」
青年は絶望的に小さな声をあげ、それにおもわず笑ってしまう。パースが狂ってると、ここまで絵ができた段階で言われるのは絶望だ、なんせ本来なら全てを書き直さなければいけないのだから。デジタルならまだしも、油絵でこれを言われたら泣きたくもなる。
「地面よりはこの2本の木を直す方が楽だから、この木の根元をもう少し伸ばすか、時間が足りないなら草むらでも描いて隠せばいい。ほら、ここをこうやって、手で隠すだけでマシになるでしょう」
「あっ、ほんとだ!」
それでいいんだ……という小さな呟きが可愛い。
「それで、そもそもドラゴンなんだけど、君これ、飛んでるから背景なんてどうでもいいと思ってない?」
「あーはい、すこし思ってます……」
多分、地面に立つところを描くのが難しくて、無理やり飛ばせたんだろう。
「そのせいで2枚の別の絵を重ねたみたいな違和感がある。こういうものを繋げるテクニックは色々あるけど、今は風を描いちゃうのがいいと思う」
「風?」
「そういう、空気の流れ。このドラゴンが羽ばたく時、羽はどう動くの?可動域はどのくらい?この羽は上がりきってるの?それとももう少し上がるの?このドラゴンが飛び立つ時、空気はこっちに押されるの?それとももっと、乱気流みたいに全体をかき混ぜるの?君、このドラゴン好きみたいだし、そういう風に考えれば空気の流れが見えるでしょう?」
「あぁ、確かに……!」
「その空気が特に圧縮される場所に、薄く溶いたオイルにほんの少し暗い顔料を混ぜて、グレースでさっと引いてあげれば、少し良くなると思う」
青年は私の言葉を真面目に聞きながら、ふむふむと頷いた。
「凄い、なんか俺でも出来そうな気がします!」
その素直すぎる感想に思わずくすりと笑ってしまう。
「まぁ実際やると結構難しいかもしれないけど、頑張って」
「わかりました、やってみます」
彼はキャンバスを近くのイーゼルに置き、私に視線を移した。
「あの、あなたはいつから入るんですか?授業」
「あーいや、私別に、その講師?じゃないんだよね」
「えっほんとですか?じゃあすみません俺、絵の修正教えて欲しいなんて言っちゃって……。でもめちゃくちゃわかり易かったです、あなたが本当に講師になってくれたらいいのに」
「ありがとう、それは嬉しいけど……私、魔法が使えないから」
マグルだから、とは何となく言えなかった。
「スクイブってことですか……?」
控えめに、気まずそうに彼は言って、私は黙ったまま肩をすくめた。
「でもあの、大丈夫というか、前に“居る”って聞いた事ありますし」
「……何が?」
「スクイブの魔法画家」
彼の言葉に、思わず心臓が高鳴った。
「……なんで?どうやって?絵、動かないんじゃない?」
「なんか兄弟でやってて、特別な方法だって……すみません、あんまり詳しくは知らないんですが」
「そうなんだ」
そう言いながら、思わず先程まで夢中になって眺めていた創始者たちの絵を振り返った。彼らは変わらずその空間を生きていて、グリフィンドールだけが意地を張るのに飽き、たまに退屈そうに窓の外を見ていた。
ああ、もし自分がこれを描けたのなら、そしたらもう――死んでもいい。
「今の講師、ほんと教えるの下手なんすよ。先生ともしょっちゅう言い合って、空気悪いし」
彼はそのまま授業の愚痴を話し始めたが、私の思考はまだこの大きな絵に囚われていた。
「ねぇ先生ってさ、君、今留守にしてるそこの絵のこと指してたよね?ホグワーツでは、絵が、絵を教えているの?」
「はい、自画像です。肖像画っていうと怒るんですよ」
これほどの大作の横に、小さく飾られる質素な人物画……それがおまけに自画像ときた。他人に自分を描かせる肖像画ではない、自分で自分を描く、究極の自己表現。それが美術室の中で先生と呼ばれ、生徒に絵を教えている。
「それってもしかして、この絵を描いた人?」
「そうですよ」
あっさりと彼は肯定し、私は乾いた笑みを浮かべた。やはりそうなのか、この言葉にならない最高傑作を創り出した人が、その知識と経験を学生に教えているのか。
ああ、まるでゴッホの自画像に絵を教わるようなものじゃない。なんて贅沢……!
「そう……凄いね。羨ましいよ」
「いやぁめちゃくちゃ怖いっすよ。なんかもう、人の命より絵って感じで。先生やってるのも、ただ自分が驚くような新しい絵を見たいかららしいっす。いつも部屋の中でパイプ吸いながら、だるそうに『私を楽しませてみろ』って生徒に言ってます」
そう言いながら、青年は楽しそうにパイプを吸うジェスチャーをした。
「ふふ、なにそれ。すっごく悪そうなセリフ」
「ほんとそんなんですって」
「ほう、そんなに悪役が欲しければ演じてやろうか」
「げっ、先生!!」
突然、空だった額縁に人が戻り、右手のパイプをゆっくりと吸った。もくもくと白い煙を口から吐き出し、まるで夜のフクロウのように目をぎょろぎょろと動かす。
「……誰だお前は。ここの学生では無いな」
「はい、勝手にすみません。少しこの城に滞在していて……」
そんなことより、この人に聞きたいことがある。
「この絵、あなたが描かれたんですか?」
「左様」
「あの……もしよろしければ……」
そこで少し唾を飲み込んで、右手の爪が手のひらに食い込むほど強く握った。
さあ今、ここで飛び降りろと、心が急かしている。別いいじゃない、今の私にだって失うものは何も無い。公園の浮浪者と同じだ。
「私の絵を見てもらうことできますか」
自画像は暫く私の顔を見て、片側の口角をあげて小さく頷いた。
「今、手元にあるのか」
「いいえ……これから描きます」
彼はもう一度ゆっくりパイプを吸い、それからまたゆったりと吐き出す。
「よかろう、ならばここにあるものは自由に使うといい。ついでにお題も出してやろう、そうだな……」
自画像は時間をたっぷり使ってお題を考える。10秒ほどして、呟くようにぽつりと言った。
「“Always”」
「Always……」
常に、いつも、永遠に。
油絵とは哲学だ。絵の技量だけではない、絵という表現を通して、その思考の価値を問われている。お題を出されるということは、真っ当に私を見ようとしてくれている意図の現れ。それだけで少し、受験のように緊張する。
「それともうひとつ、明日からこの授業の補助にはいれ。そいつが言ったように、数日前にアシスタントが逃げ出したのだ、根性無しめ……。もはや絵を描ける人間なら誰でもいい」
「え……私、魔法を使えないんですが、それでも?」
「聞こえなかったのか?絵を描けるなら誰でもいい。それともお前は、棒切れの先で絵の具を塗れると思っているのか?」
「……わかりました」
“先生”は何かを考えるように斜め上を見上げ、また私を見た。
「絵の提出期限は来週の日曜だ。3月3日の日曜日」
「2週間……。わかりました」
作品を1つ仕上げるのに、2週間という期間は短い。下準備や描きあげたあとの乾燥の時間も考えれば、筆を入れられる期間は1週間あるかないか。構想をゆっくり考える時間もない。
「サイズや構成などに条件はありますか」
「何も無い、自由に描け」
試されている、ほんのわずかに期待されている、その緊張感が胸を突く。
「他に質問は?」
「ありません」
「よろしい、楽しみにしていよう」
「頑張ります」
彼は悪役らしく目を細め、またパイプを片手に部屋——額縁から出て行った。
「“Always”っすかー、なんか小難しいお題ですね」
どこか間の抜けたような明るさでこの青年が喋るから、ついほっと力が抜けてしまう。
「まぁ、そんなに変わったお題ではないと思うけど」
お題にそって絵を描くのは学生のころ散々やった。虚構、存在、死、生、時間、境界……そういった概念だけを突きつけられ、自分の引き出しを限界まで引っ張り出して1枚の作品を捻り出す。お決まりの修行だ。
ただそう、“Always”という英単語を、日本人の私がどう理解するのか、それも難しそうだ。
「ところでさ、この教室、アトリエはあるの?作業に集中できる部屋」
「それならこっちです、ここでは私語厳禁。作業以外をやってたら殺されます」
「ふふ、いいね。ありがとう」
それまで彼と話していた、絵が飾られているこの部屋は、イーゼルやキャンバスの隣に椅子や机があり、座学も出来る教室のような仕様になっていた。青年に案内されたもうひとつ奥の部屋にはそれが無く、ただキャンバスが雑多に並び、作業机のような長机に筆や絵の具などの様々な道具が散乱している。
そのひとつを手に取って、私は思わず顔を顰めた。
「……もしかして、これが絵の具?……豚の膀胱?」
「はい、そうです」
青年は輝かしい笑顔で頷く。私はそのザラりとした濁った黒とも緑とも言えない手のひらサイズの袋を手に取った。1箇所が紐でキツく、ぐるぐる巻きにされている。こんなもの、西洋美術史の教科書でしか見たことがない。絵の具を詰める、金属チューブすらダメなのかここでは。
視線をずらして、その隣にあるすりこぎのような棒と分厚く重たい石の器にさらに衝撃を受ける。
「これは……顔料、自分で作ってるの?」
未来……いやこの時代だって、まともな画家はこんな事しないだろう。素材を自分ですり潰し、油とまぜて手製の絵の具を作るなんて。まるで調薬だ。
「店で買うこともありますよ、でも作るのも授業だからってことで。あっちにある絵の具は自由に使って大丈夫だと思います、皆んな自由に使ってて、ここの備品なんで」
「なるほどね……」
これで2週間か……結構、いやかなり厳しいかも。
「なんかその、楽しそうっすね」
青年は明るい表情で、真っ直ぐ言った。
「あぁ、うん……。新しいものってワクワクするよね」
「こういうの、あんまり使わないんですか?」
「まぁ、あんまりね」
そうだね、30年後のマグルは誰一人使わないだろうよという言葉を飲み込む。
「あの……俺、チャーリーっていいます。チャーリー・ウィーズリー」
「ウィーズリー……ああ、もしかして元気いっぱいの双子の弟がいる?」
「え、会ったんですか?フレッドとジョージ」
「うん、どうりでお揃いの赤毛。魔法界ってのは赤毛が特別多いのかと思ったよ」
リリーも、君も。
「いや、あはは……」
チャーリーは僅かに顔を赤くさせ、隠すように頭をかいた。
「綺麗だよね、この色。……知ってる?30年後には赤毛って、すっごく珍しくなるんだよ、人口の1パーセントとか、2パーセントくらい。今ももう少ないのかな」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。だから自信持ちなよ。私は好きだよ、赤毛。昔、古い友達が赤毛だった。……賢くて、聡明で、誠実な子だったよ」
リリーは、今どこで何をしているんだろう。私のこと、まだ覚えているだろうか。私が、今度は私の姿で、また魔法界に来たと知れば彼女は会ってくれるだろうか。
「あの……あなたの名前は?」
「あぁごめん名乗らずに。なまえ・みょうじだよ」
「なまえ……変わった響きですね」
「まぁ、日本人だから。馴染みないかもね」
「なまえ……素敵な響きです」
17歳の青年が、どこか背伸びするように言った。
「ありがとう、チャーリー」
チャーリーは白いそばかす顔を赤くして、大きな体を隠すように丸めた。
「ねぇセブルス、“Always”ってどういう単語?」
「……は?」
その日の夜、大広間での食事時、隣に座っているセブルスにそう聞いた。
「だからさ、“Always”ってどういう単語?」
「……ただの副詞だ。常に、いつまでも、あるいは例外なく。始まりから終わりまで、何一つとして変わることのない状態を指す」
「ふぅん……常に、いつまでも、例外なく、変わらない状態……」
"Constantly," "at all times," "with no exceptions," “unchanged,"
「じゃぁその、不変――“Unchanged,"と、継続――"Constantly,"とかと、“Always”は何が違うの?」
「さっきからなんだ、不躾に」
「いいから、教えてお願い。セブルス、説明分かりやすいから」
昔からそう、言語化が上手。頭良いんだよね、根本的に。
「……“Unchanged,"も、"Constantly,"も物事の状態や性質を指す、数値的な規則性を、客観的に説明する無機質な単語だ。“Always”はもっと……時そのもの、存在を示す。お前は“Always”だらしがないが、それを"Constantly,"とは言わん」
そう言いながらセブルスが杖先で私の服を叩けば、3つほど開けっ放しにしていたシャツのボタンが1番上まで固く閉じられた。
「なるほどね、“Always”の方がちょっと生々しいのね、うん」
せめて1番上は見逃して欲しいと思いながらまたボタンを外す。
「“Always”ってさ、辞書を引くとね、常に、いつもとかの現在の話しのほかに、この先もずっとって意味の“Forever”も入ってくるのよ。これは?“Always”と“Forever”は何が違うの?」
まだ続けるのかと言いたげな目線で、めんどくさそうにため息をつきながらセブルスは少し皿の上のステーキを眺めた。
「“Forever”は未来に向けた単語だ。時間の果て、終わりなき先へ向かっている。“Always”をその意味で使用するとき、これは……これは未来のどの時点を切り取っても、例外なくそこに存在しているという、確信だ」
「んん……“Forever”が線で、“Always”は点ってこと?」
「ちがう、阿呆」
難しい、もっとわかりやすく説明して欲しい。セブルスはナイフを皿に置き、人差し指で机を2か所叩いた。
「線か点でいうならどちらも線だ。ただ“Forever”が未来永劫続いていくことを強調するのに対し、“Always”は過去、現在、未来への継続を意味する」
「あーはーん……。じゃぁ例えば、私が君に"I will love you forever."って言ったら、この先死ぬまで一緒にずっと居たいって感じだけど、"I will always love you."って言ったら、昔も今もこの先も、私はあなたに愛を約束するわって感じ?」
その瞬間、セブルスは左手のフォークをかちゃんと音を立てて皿に置き、セブルスの奥に座っているマダム・ピンスはごほんと小さく咳払いをした。
「え、ごめん。なんか」
「お前は……」
はぁと息を吐き、背もたれに体重を預けながらセブルスは紅茶を飲む。
「……合っている、その解釈で」
「なるほどね、ちょっとわかってきた」
ステーキをひとくち口に入れ、それを噛みながら大広間の天井にに浮かぶ月を見た。綺麗な満月が、雲一つない夜空に浮かんでいる。
「月はさ、“いつも”綺麗だね」
「そうだな」
「セブルスは“いつも”難しい顔をしてるね」
「君が“いつでも”気の抜けたフグのような顔をしているのだろう」
「そんなことないよ、“いつだって”真剣に物事に向き合ってる」
「“この先もずっと”そうであって貰いたいものだ」
セブルスの言葉で“遊び”をやめて、笑いながら両手でティーカップを持ち上げる紅茶を飲んだ。取っ手を持つようになんて、そんな上品なマナーは指摘しないで欲しい。温かいお茶をのむ理由とは、両手でこの熱を享受するためにある。
「急になぜそんなことを聞いてくる」
「あー、うーん……。セブルスさ、私の絵、好き?」
大して熱くもない紅茶の表面に、ふぅと軽く息を吐く。ゆらゆらと琥珀色の水が揺れて、私の顔が歪んで映る。絶妙に斜め下から、ぶっさいくな角度。
「……ああ」
少し間があってから、彼は短くそう言った。だから私は、彼にとっては本当はどっちでもいいんだろうと思い、それがぬるくて心地よかった。
「絵をね、また描いてみようかなと思って」
これが駄目ならもう筆を折るよ、とは言えなかった。私はもう筆を折った後のはずで、その折れた筆をもう一度持とうというのに、都合よく二回も折ることなんてできないだろう。
「……完成したら、その絵を見てもいいだろうか」
この隣の男は、こんな殊勝なことも言うのかと思い、横を向いた。セブルスはこちらを見ずに、雲に隠れた月を見ている。
「うん、いいよ」
彼は何も言わずに、また黙って食事を再開した。