第2章
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『セブルスへ
ホグワーツはどうですか。みんな元気ですか。校長はまだダンブルドア?こっちは変わりないです。とりあえず今日は、手紙ちゃんと届くのかなと思って送ってみました。暇だし。じゃぁまたね。
なまえ』
手紙ってこんなもん?なんとなくすっごく恥ずかしい。絵を描くより気を使った。どれもスペルを間違えてるような気がするし、字も子供っぽくて下手くそ。書きなれてない感じが滲み出てる。
先日、ポストカードサイズに近いA6サイズのちょっといい紙と、質素な封筒、それから安くも高くもない24色セットの色鉛筆を買った。それで今日、片面にしっかり時間をかけて、Mr.OWLの絵を描いた。
絶対に絵を描かないと彼に啖呵を切ったけど、結局こうなる。私が雇用されるという手段を捨てて、自力でどうにかお金を稼ぎたかったらこれしかない。絵だってもちろん、売るにはどこかで身分証明が必要になると思うけど、雇われるよりは緩いだろう。
どうせ売れない、多分無理、もう絵はうんざり。100回くらい心の中でそう思ったけど、彼がホグワーツに行ってしまって頭が痛くなるほど静かな家の中で私はしぶしぶ重い腰を上げた。彼にポストカードを送るのはその予行練習だ。
よくわからないけど彼は私に絵のことばかりねちねち言ってくるし、それならちょっと本気で絵を描いてビビらせてやろう、みたいな。いや別に、ほんとにセブルスが私の絵でビビるなんて思ってないんだどさ、ハハハ……。
「だせぇ……」
自分の脳内会議に思わず突っ込みながら、誤魔化すようにタバコに火をつけた。これは1日6本……8本までにしよう。健康保険も無いのに、こんなもので体を壊したら笑えない。
封筒に、『Hogwarts, Professor Severus Snape』とだけ書く。本当に、こんな宛先で届くのだろうか。書き方こんな感じでいい?お願いだから誰か私にインターネットを授けて欲しい。そろそろデスクトップ型くらい出ないかな。
そわそわと心配しながら、Mr.OWLを前に首を傾げた。
「どうやってつけるの?これ」
足首にくくるなら、丸められる紙に描いた方が良かっただろうか。そんなことを思っていたら、ミスターは私の手元の紙を口で咥えて、すぐに開けっ放しにしている窓から飛び立ってしまった。
「あっ!大丈夫かなぁ……」
早々に夏を終わらせて涼しくなりかけている9月の夕方、フクロウが溶け込んだ夕空を1分ほど眺めた。
『なまえ
手紙は届いてる。校長はまだダンブルドアだ、あの老いぼれは後50年は居るだろう。他も相変わらずだ。』
翌朝、誰もいないことを良いことに10時までベッドでゴロゴロしていたらミスターに頭をつつかれ、そんな手紙を受け取った。意外と返信が早い、このフクロウは何時間ほどで手紙を届けているのだろう。
セブルスの短い手紙を眺めながら、リビングに移動してお湯を沸かす。13年経っても、筆跡はあまり変わらないようだ。女子みたいに小さく、可愛い文字。
「絵の感想は無しかーい」
まぁ、いいけど。ふくろうの羽の色が奥深く素敵ですねとか書かれてたら、代筆を疑ってしまう。
それから基本的には毎日、私は絵を描いて、その裏面に短い手紙をつけてセブルスに送った。絵ではなくて手紙を送っていますという、誰も気にしない悪あがき。
天気が良ければまぁまぁ治安のよい街角を選んで、腰を据えてスケッチする。ちらほらと絵や雑貨を路上で売っている人もいたが、時たま警察が来て何かを確認していた。たまたまその場で絵を売っていた黒髪の女性にそれは何かと聞けば、Pedlar's Certificateという路上で物を売るための許可証のようなものだという。
「そんなに難しくないよ、身分証と住所さえあればすぐにもらえる。12ポンドちょっとかかるけどね」
「あぁ……私、身分証が無いんだよね。ちょっといろいろあって」
「へぇ、そう……じゃぁこれも何かの縁だね、あげるよ」
「え?」
「そろそろ場所を変えようと思ってたんだ、そこそこお金もたまったし、次は船でフランスに行くつもり。もともとそっちが目的地なの。大丈夫、顔写真もないし使えるよ、有効期限あと半年くらいあるし」
「え、いいの?せめてお金払うよ、いくらだっけ」
「別にいいよ、じゃぁそうね、あなたのその絵、貰っていい?」
「あぁうん、いくらでもどうぞ」
「これがいいわ、綺麗な百合の花ね」
「ありがとう、そこに咲いてるやつ」
「あら、気付かなかったわ」
彼女は何度か絵とユリを見比べてほほ笑んだ。
「ユリが好きなのね」
「そうかな?まぁそうかも、古い友人を思い出すんだよね。リリーって名前で」
「素敵な名前。あるわよね、そういうの」
「うん、あなたの名前も忘れないよ」
そう言って私は、その許可証の名前を見た。
「たまに警察に名前とか住所聞かれるから、覚えておくといいわ。上手に成りすましてちょうだい」
「わかった、ありがとう」
彼女はにっこりとほほ笑んで、残っていた絵を仕舞いその場所を去っていった。その日から、私は週の半分くらいはそこで絵を売った。
ああ、いったい誰がこんな人生を予想出来ただろう。30歳も目前にして、イギリスの路上で1人絵を売る武者修行なんて。
大体買ってもらえないし、既に紙くずみたいに安いのに更に値切ろうとしてくる。2枚買うから8ポンドを6ポンドにって、もう何枚でも勝手に持ってけよ。ほとんど紙代だ。
夕方4時を過ぎてくると酔っ払いがでてくるから早めに片付ける。数人の若者に絡まれた時は最悪で、頭からビールをかけられて目の前が真っ暗になった。プライドなんてものはクソの役にも立たない、負けるものかと思えば思わず口も悪くなる。
路上販売同士の縄張り争いもあり、浮浪者のようなおじさんに大声で詰め寄られるとノミが移りそうになる。やっぱりこれも色んな意味で耐えられなくて、段々と日陰に追いやられた。失うものがない人って怖いよね、無敵の人っていうの?
たまにまともな客がきたと思えば説教おじさんで、若い女の子がこんな所で何をやってる、はやく結婚して子供を作るのが女の幸せだなんて長々と語ってくる。絵描きなんて夢はもう古いとか、あなたの絵にはぐっとくるものがないだとか、これはあなたのためだとか。お前はキャバクラにでも行ってろよ。あと多分、私はお前が思うほど若くもねぇよ。
私は仕方なく、髪を短く切って毎日体型の分からない大きめのパーカーにすっぽり体を隠した。パッと見で性別が分からないように。
なぜ私はそこまでして路上で絵を売ってるんだろう、別に生活に困ってないのに。しばらくはセブルスが私の面倒を見てくれる、きっとなんだかんだ彼は私のことが好きだから。だって昔、彼が1番寂しい時に手を差し伸べて、その頭を優しく撫でたのだから。
――『人は、何のために働くと思いますか?』
昔、就活の二次面接くらいで聞かれた。私ははっきり答えられなくて、三次には進めなかった。
知らないよ、お金のためでしょう?じゃぁなんで私は今、絵を描くの?社会と繋がりたいとか?絵を描いてたってお友達はできない、そういう職業じゃない。生きていくなら1人でいい、今はセブルスだっている。こちらが何かを送れば毎日律儀に返事をくれるから、私はそれを楽しみにしている。じゃぁなんで、私は絵を描くのだろう?
「知るかよ……」
お酒は月火水だけと決めてる。そうしないと私はいつまでも呑んでしまうから。ちなみに週末は稼ぎ時で、なるべくちゃんと絵を売りに行きたいから飲まない。
「死にたーい、はは」
絵って何のためにあるんだろう。インフラとか、医療とか、教育とか、食品とか、世の中に必要とされてる仕事なんでいくらでもあるのに、どうして私は絵なんていう1ミリも人が生きるのに必要無いものを選んだんだろう。こんなの売れるわけが無い。設定から不利だ、苦しい。毎日売れ残った絵を持ち帰ると、世の中に不要だと言われてる気分になる。私はこれに人生を費やしたのに。
せめて卒業してからはもっと世の中に必要とされる仕事をと、小さなIT企業に入ってプログラミングをそれなりに頑張って学んだのに、今度はパソコンもろくにない世界に来るなんて何ごと?私、そんなに神様に唾でも吐いて生きてきた?それとも前世が極悪人?
「ねぇセブルス……」
テーブルで、グラスの隣に並べているのは彼からのお返事。くるくると丸まったもう100枚を超える羊皮紙を、私はひとつも捨てずに大切にとってある。プラトニックなラブだね。
『なまえ
羽虫一匹で夜中に騒ぎ立てるな。放っておけばそのうちどこかへ消える。ちなみに言っておくが、シロアリなどというのは無知な連中が使う俗称だ。正しくは Termite という、いい加減に覚えろ。』
――ター……マイト?かっこいい名前。っていうか伝わるかわかんなかったけど、シロアリって英語でもWhite antが俗称なんだ、知らなかった。
『なまえ
日が暮れてから不用意に外を出歩くなと、一体何度言えばその貧相な脳味噌に染み込む?お前の頭の構造は、相変わらず死んだサンゴより酷い有様のようだ。二度目はないと警告したはずだが?それとも何か、そこまでして命を落としたいという、特殊な自殺志願でもあるのか?』
――めちゃくちゃ怒ってる。10月末にサマータイムから切り替わっちゃったから、5時に帰ったのにもう真っ暗だったって話をしたんだっけ。
『なまえ
フクロウが持ち帰るネズミなど、大抵は無数の雑菌と病原体を抱えているに決まっているだろう。速やかに、かつ徹底的に駆除しろ。間違っても明日やろうなどと後回しにして寝るな。寝るなよ。』
――無理だよ、まだ生きててそこらへん走って逃げちゃったんだもん。結局ネズミ捕りにも引っかかんなかったな、どっかいったのかな。
『なまえ
冬の冷え込みを甘く見るな、今のうちに暖房器具を揃えておけ。暖炉には間違っても粗悪な石炭などを選ぶな、Anthraciteを用意しろ。それととにかくその不合理極まりない肩を露出した格好を今すぐやめろ。マグルという生き物は、なぜそうも簡単に足だの肩だのを出したがるの?肌を隠せ。不快だ。』
――ふふ、さすがに秋までそんな恰好しないよ、寒いし。夏は日本より涼しくて過ごしやすかったけど、冬はむしろ厳しいね。
『なまえ
お前が後生大事に眺めているその花の名前はヘアベルだ。ただの雑草に過ぎん。道端だろうがどこだろうが、探さずとも勝手に生えてくる代物だ。別名を Fairy's thimblesとも呼び、一応は魔法薬の調合にも使われる。
それにしても、学生というのは一体どこまで愚かになれるものか。今日、授業で黄金虫の目玉を採取しろと指示を出したところ、パニックを起こした女子生徒が暴れて大釜をひっくり返した。実に、いつかのお前を見ているようだった。』
――これはあれだ。こっちに来てすぐ、キッチンにゴキブリが出てパニックになった私が、沸騰したやかんをひっくり返した件かな。足にかかってちょっと火傷になったけど、セブルスが治してくれた。ああ、あの時は気まずかったな。今はもう虫一匹にそこまで慌てなくなった。慣れってすごい。
手に取った物を色々眺めてから、最後に今朝来た手紙をもう一度読み返す。いつもそう、夕方に私が手紙を出して、翌日の午前中にお返事が来る。
『なまえ
クリスマスなど、私にとっては全くどうでもいいマグルの祭日に過ぎない。そもそも、仮にそのキリストなる男が実在したとするならば、それは確実に魔法使いだ。それも、マグル相手に自分の魔力を見せびらかして悦に浸るタイプの、救いようのない目立ちたがり屋だな。なぜ私が、そのような男の生誕をわざわざ祝わねばならんのだ。』
「あはっ、クリスマスなんも予定無いんじゃん」
なんで私が絵を描くかって?その絵がないと、私が死ぬからだよ。それでさ、もしかしたらさ、同じ人間がいるかなと思ってるんだ。同じ感性の人間が、世界中探したら、世界のどこかに。私の絵がないと生きていられないと思ってくれる、それほどの誰かが。そんな人間いないってもう知ってるけど。
「あー飲みすぎた……」
ふらふらと酔っ払いながらワインにコルク栓を押し込んで、そのまま泥のように眠る。パジャマの上からパーカーを重ねて、ついでにコートまで着てベッドにもぐりこんだ。
彼が忠告したとおり、イギリスの冬はとにかく寒い。翌朝目が覚めても、私は暫く布団から出られなかった。建付けの悪い窓枠のゆがみから容赦なく入ってくるすきま風、覗き穴のように外まで見えた。虫が減ってラッキーだなんて思っていたのはせいぜい11月までだ。
「だるい……もうお酒飲まない……」
朝というか昼に近い時間なので、もう鳥すら鳴いていない。カーテン越しの日差しを目に焼き付けて、いい加減起きろと自分に言い聞かせた。
イギリスでは大抵、ガス式のセントラルヒーティングという、壁に熱湯を通らせて家全体を温める暖房が今は標準装備なのだと、おしゃべりが好きそうな通行人のおばさんが教えてくれた。
うちにそんなものは無さそうだといったら、随分ボロいアパートに住んでるのねと言われた。ほんとそうだと思う。そのなんとかヒーティングはここ10年ほどで普及したものらしいので、ホグワーツを卒業した彼には必要無かっただろう。
『私が子供の時はあんたと一緒よ!暖炉の前で家族みんな集まってね、部屋にいたら凍えて死んじゃうから。朝目を覚ますと息が白いのよ、家の中よ?私もう、おしっこも我慢して先に暖炉の前をとってたわ、あはは!兄弟に負けないようにね!』
そう言いながら大声で笑うおばさんは、なんだか毎日楽しそうでとても良かった。絵は買ってくれなかった。
私も最近は毎朝、同じように起きたら暖炉に薪……ではなくちょっといい石炭みたいなのをくべている。セブルスの手紙にあった、Anthraciteという物だ。煙が出ない、健康的な石炭、みたいなことがパッケージに書かれていた。というかこれがない時は、家の暖炉に本気の石炭くべてたってこと?汽車じゃあるまいし、どこに向かうんだか。
ちなみに薪はお値段が高いし煙が出るので使わない、あれは田舎の金持ちが使う贅沢品で、こんな地域じゃ売ってもいない。燃えてる時のビジュアルは優勝なんだけど。
よし、と気合を入れて布団をめくり、まずはリビングに向かった。おしっこを我慢しながら、一晩中種火で燃え続けていた炭の周りの白い灰を慎重に払う。次に暖炉下部の空気弁を開けて酸素を送り込み、新しい炭を古い炭の上に絶妙な角度をつけてそっと置く。なるべく小さくて、簡単に燃えそうなものを選ぶのがコツ。
火が大きくなるのを待つ間に、一度バスルームに駆け込みトイレを済ませる。
「寒い寒い寒い……」
今度は大急ぎでお尻をしまってリビングに戻り、ヤカンでお湯を沸かす。水道管が凍らないように、夜は少し水を出しっぱなしにして、シンクの下も開けておくんだよとおばさんに言われた。少しでも暖かい空気を水道管に届けるのだと。特に破裂したら終わりだそうだ、手のかかる水道管ちゃんだこと。フクロウより手がかかる。
その場で足踏みしながら物理的に体を温めていたら、カツンと窓をくちばしでつつく音が聞こえて、ちょうどミスターのお帰りかと顔を上げた。
「いつもありがとう……うわ、何持ってるの」
テーブルの上に細長い何かを置いたので、私はまたネズミか何かだと思って飛び退いた。
「ねぇちょっとなんか採ってくるのやめてってあれほど……あれ、違う?」
直ぐに文句を言おうと思ったが、よく見るとそれはちゃんと紙に包まれた何かだった。私が理不尽に怒ろうとしたことを敏感に察知し、ミスターは私の頭をつついた。
「痛い痛い、ごめんって、悪かったよ」
鋭いくちばしを甘んじて受け入れ、包みと一緒に届いた手紙を開いた。
『なまえ
水道が止まったら自分でどうにかしないで私を呼べ、家を壊される方が面倒だ。
昨日はあの忌々しい門番が、自分の愛らしいペットに何とかケーキなどという毒を与えて面倒を引き起こした。なぜこの私が、あの大男のご友人のために、こんな日まで夜な夜な治療薬を調合してやらねばならない?いっそあのまま腹痛でのたうち回らせておいた方が、あいつらにとって最高の教育になったというのに。』
「んふ、なに、ハグリッドが面倒見てる魔法生物のためにクリスマスも調薬してるの?うける」
手紙を読みながらタバコに火をつけて、くるくると丸まっていく紙を少し苦労しながら伸ばした。相当イライラしたんだろう、いつもより荒っぽい文字を読んでいるのも楽しい。きっと忙しくて、その合間に書いたんだろうなと。眠かったのかな。
手紙ってこういうのがたまらない、デジタルには無い息遣いがある。上手なAIの絵より手書きのイラストがいい、そういう感覚と似ている。内容に意識して一回、文字の形や筆圧に意識して一回、これを書いている彼の姿を想像して一回。何度も読み直してにやにやしてしまう。
僕と君とこの距離の3人で愛を育もう、みたいなRADWIMPSの歌があった気がする。正確な歌詞とか思い出せないけど、今はちょっとそんな気分。仏頂面のセブルスを目の前にするとこっちも意地を張って口を閉じてしまうけど、手紙の中の彼はなんだかんだと早口でよくしゃべるから、私も話したいことがたくさんある。
正直、英語を書くのは少し苦手だったけど、何度も英英辞典を捲りながら書いていると丁寧な暮らしって気分がして悪くないと思う。
――この前、大通りでクリスマスマーケットを見たの。人生の中で一度も見たことが無かったからちょっと気分上がっちゃった。記念に何か買おうかなと思って覗いたけど、なんだかすごく甘そうなドーナツとかであんまり惹かれなかった。あと手作りのローソクとか。でもいいよね、そういうの。買わないけど。最近、家の中が寒すぎて、毎朝冬のキャンプみたいだなと思ったの。だからさ、もう布団じゃなくて寝袋の方が足元まであったかいんじゃないかなと思って。湯たんぽ落っことしちゃうことも無いし。ありじゃない?今度アウトドアショップ見てみようと思ってる。
そんなことを思いながら、手紙の最後に短い文章があるのを見つけた。走り書きで、ピリオドも無い。
『追伸 たまたま見かけたから』
これはきっと、このテーブルの上にある30cm程の細長い包みのことだろう。そっと封を開けると、中には筆が入っていた。毛先は柔らかくて使いやすそう、多分イタチだろうか。
「絵の具筆なんて、たまたまじゃ見かけないでしょーが」
ふふ、と笑いながら持ち手をそっと撫でた。木の質も良さそうで、端には見た事のないメーカーの刻印がされている。魔法界にある画材屋で購入したのなら、きっと油絵用の筆だろう。この手の細筆なら最近描いてる水彩画の方にも使えるけど、折角だからもっとも適した場所で使ってあげたい。
「オイルかぁ」
道具を揃えるにもお金がかかるし、油絵は乾くまで時間がかかるから一枚書くだけでも面倒だし、保存にも場所とるし、ちょっとした気分転換程度では手を出したくないのだけど。
タバコの煙を吐き出しながら、手の中の筆をじっと眺めた。
「セブルスは好きかなぁ、油絵」
彼の誕生日まであと少しだし、その日は折角だからちょっといい絵を贈りたい。――ま、その前にまず、素敵なクリスマスプレゼントのお礼を買いに行こうか。
とぽん、と水よりも重たい油がツボの中で濁った音をたてる。クリスマスから年始までのホリデーシーズンは画材屋も閉まっていたから、結局道具が揃ったのは年明けになった。
急に大きな絵を贈っても置き場所に困るだろうし、今までと同じA6サイズに近い7×5インチのキャンバスを買った。
このサイズだと、被写体も小さいものがいい。キャンバスの左奥のテーブルに、花屋で買ってきたヘレボルスという花を飾る。小ぶりで、少し俯きがちに咲く、緑がかったくすんだ白い花。その佇まいがまるで昔の君みたいなんて思っちゃって。そう言ったら多分怒るね。
別称をクリスマスローズという。花のことなんて何にも知らなかったけど、花屋のおばさんが教えてくれた。
油絵とは、文字通り油をひたすら練りまくって描いていく技法だ。絵の描き始めには、大抵、揮発性油の代表格テレピンという物を使うのだが……。
「くっっっさあ……」
たかが30年、されど30年。現代の日本で使っていた、匂いを抑えた便利な画用液に慣れきった鼻には、この時代の本物のテレピンは強烈すぎた。仕方なく窓を開けたまま作業を続けたが、それでもだんだん頭が痛くなってくる。これは絶対健康にも悪いだろう。適当な布を口元に宛てながら、さっさと筆を動かした。
油絵というのは少し描いたら乾くのを待って、また少し描いての繰り返しだ。こんな小さなポストカードサイズ一枚でも、書き上げるまで数日から一週間かかる。久々の油絵の感覚を懐かしく思いながら、筆の動かし方を思い出すように何度も塗り直した。
何度も、何度も。
なぜ自分はこの絵を描くのか。この色を置くことにどんな意味があるのか。これはどこかの誰かの模倣ではないか。そんな思考の泥沼にハマって抜け出せない。
例え彼に伝わらなくても、私だけがこの絵に込めるモノがある。
1日8本までにしようと思っていたタバコは、いつしか1箱の20本までに増えて、息も凍るような寒い部屋で私は何時間でも小さなキャンバスを眺めた。
――1991年2月13日(水)THE DAILY CHRONICLE
――砂漠の嵐:多国籍軍、地上戦へ秒読み。ソ連の和平案をバグダッドが拒絶、メジャー首相は強硬姿勢崩さず
――ジョン・メジャー首相は昨日、下院において「クウェートの完全な解放条件が満たされない限り、いかなる一時停戦も受け入れない」と言明した。ソ連が提案した仲介案に対し、イラクのサダム・フセイン大統領が事実上の拒否を示したことを受け、多国籍軍による地上軍投入へのカウントダウンは最終段階に入ったとみられる。
「わ、サダム・フセイン!何やった人か知らないけど。てかこれあれか、イラン・イラク戦争?あれ、違うかな……あーあ、ちゃんと勉強しておけばよかった」
新聞をゆっくり読んで、知らない単語に線を引きながらざっと読める部分だけに目を通した。全然分からなかった英文は後でちゃんと読む……つもり。たぶん。毎朝この新聞を読む作業だけで1時間かかるの、ほんと疲れちゃう。バカでかい独り言も、もう呟くのが当たり前になってきて怖い。日本で1人暮らししてる時はそんなことなかったのに。
――氷河期の底:『間違った雪』の失言に批判殺到。氷点下の酷寒、通勤客の足の奪われ状態は6日目に
――シベリアから到来した記録的な寒波は、本日も英国全土を氷づけにしている。ロンドン市内では今朝も-6°C (21°F)を記録。1947年以来、最も厳しいとされるこの寒波により、主要幹線の道路は凍結し、空の便もヒースローやガトウィックで欠航が相次いでいる。
「あーやっぱ?寒いんだ。これ異常だよね」
もう2月も半ばだと言うのに連日雪が振り続け、交通機関に混乱が出ているというニュースが毎日のように載っていた。スーパーの棚も空っぽのエリアが目立つし、何より家に石炭を売りに来る、石炭売りのトラックがまばらになっていた。
どうにも雪で道路が滑ってしまい、スムーズに配達が出来ていないらしい。家の裏手の石炭置き場の在庫ももう残り少ないし、そろそろ来てくれないと凍死が見えてくる。
なるべく節約しながら、家の中でもコートを着込んで暖炉の僅かな火に体を近づけた。もう家の中も外とほとんど同じ気温、おそらく日中でもマイナス2度くらいだろう。
「これはやばいかもなぁ……」
セブルスにヘルプをだそうか?でもなぁと、そんなことを思いながら紅茶で指を温める。絵を描くにも寒すぎるので、少し前に書いていたポストカードを眺め、なるべく気に入っている1枚の裏に手紙を書いた。
『セブルスへ
こっちは毎日凍えるほど寒いよ、ホグワーツはどう?山の上だからもっと寒いよね。スリザリン寮のある地下牢はほんとに冷えそう。体に気を付けてね。イギリスって、こんなに雪が降るの知らなかった。来年はセントラルヒーティングつけようよ、もう寒くて死んじゃう。これ届けてる、Mr.OWLは大丈夫なのかな?寒そうだったらそっちで温めてあげてね、多分ホグワーツの方がちゃんと面倒見てもらえて彼にもいいと思う。またね。』
それをミスターに預け窓から見送り、ぬるくなった紅茶に口をつける。
「……喉痛い」
ほんの少し感じる体の違和感にも目をつぶり、気の所為だと思うことにした。この家には体温計がないので、体感で今は37.0度の微熱ということにしよう。冷えピタは無くてよさそう。
「あ……今何時……ごめん……」
あれから1週間、無視を決め込んだ体調不良はここぞとばかりに成長し、私は立派に寝込んでいた。
自室は寒すぎるので、寝る時もリビングの狭いソファに体を縮こませ、暖炉の僅かな熱を求める。石炭を家の裏からとってこないといけないけど、そんな元気もない。
カリカリと鳥かごをかじるミスターの音に急かされて、ふらふらと餌を取りに行く。そのまま夢遊病のようにお湯を沸かし、マフラーの内側にごほごほと咳をする。
頭が痛い、喉が痛い、鼻が詰まってる、関節が痛い、体がだるい。自分が今立っているのか横になっているのか、そんなこともわからなくなるほど脳みそが終わってる。
「完全制覇……」
……死にそうだ。
ミスターの餌箱を補充して、薄く氷が張った水差しを替える。
「いてて……あぁ、うん……というか君もう、こっちじゃなくてホグワーツに居なよ、しばらく」
そう言いながら鳥かごを開けるけど、ミスターは私の傍を離れなかった。頭をつつき指を噛んで、じゃれつくように羽を動かしている。
「心配してくれてるの?そういうのわかるの?賢いわぁ」
うふふと力なく笑いながら、沸騰したヤカンの火を止める。もう食欲もないし、昨日はパサパサのビスケット3枚くらいしか食べてない。紅茶にミルクをいれて、せめてもの栄養補給ということにする。胃が食事を受け付けない。
火だけは気をつけようと、ガス栓をちゃんと閉めたことをこの短い作業の間に3回は確認してしまった。さっきから自分が何をやってるのかいまいちよくわからない。
100歳の老人のような動きでソファに戻り、体に布団を巻き付けて手の中の紅茶を見る。
ここ3日ほどは手紙をセブルスに出してないし、なんか書かなくちゃ。風邪っぽいから見に来て欲しいとか?いやぁ、無職がそんなことで社会人呼び出すのダメじゃない?こっちもいい歳した大人だし。でも病院にも行けなくて、薬も何買えばいいのかいまいち見ても分からなくて……。
まぁうん、助けて欲しいんだけど……。
「だめ、死ぬ……」
紅茶を1口だけのんで、テーブル代わりに引っ張ってきた椅子に置き、ソファの上で横になった。
「ミスター……私が死んだら君はホグワーツに行くんだよ……」
ミスターがちゃんと逃げられるように、窓を開けておかなくてはと思ったけど、とても体を起こせそうになかった。
頭痛い、体感38度。
家中ですきま風が鳴り響いて、ガタガタと窓が揺れているが、それがどこか別の世界かと思うほどに遠くに聞こえた。悪寒で奥歯が震え、手足は氷みたいに冷たいはずなのに、額の裏だけ沸騰しそうに熱い。
大丈夫、とりあえず寝よう、寝てしまえばマシになるはず。というかもう寝る以外なにも出来ない。
「うぅ……つらい……」
――暗くて狭い、苦しくて汚い場所。そんな場所で、蛇に体を締め付けられている。この蛇に噛まれたら死んでしまう、血が止まらなくて、きっと首を噛まれるから、助かることは無い。私は死ななくちゃいけない、死ぬ運命にある。それはいい、それは救いだ。でもどうにか最後に、あれを伝えなくては、彼に……。そうしないと、物語が進まない、とてもとても重要なこと。
バチンと遠くの方で何かが弾けるような音がする。その音を聞いて意識がぼんやり浮上して、自分が夢を見ていたようだと気づいた。まだ半分、体はまどろみの中にある。
誰かが私に駆け寄って、ぐるぐる巻きの布団から体を引っ張り出してくれる。大きな冷たい、白い手が、頬に添えられて気持ちいい。黒い目が、私を見ている。
「私を見て……」
なんだっけ、これは誰の言葉だっけ……?思い出したいのに、頭が痛い。思い出してはいけないよと、誰かが乱暴にドアを閉めるから、その奥が見えない。
「誰……?」
もう限界。
また暗転。
ホグワーツはどうですか。みんな元気ですか。校長はまだダンブルドア?こっちは変わりないです。とりあえず今日は、手紙ちゃんと届くのかなと思って送ってみました。暇だし。じゃぁまたね。
なまえ』
手紙ってこんなもん?なんとなくすっごく恥ずかしい。絵を描くより気を使った。どれもスペルを間違えてるような気がするし、字も子供っぽくて下手くそ。書きなれてない感じが滲み出てる。
先日、ポストカードサイズに近いA6サイズのちょっといい紙と、質素な封筒、それから安くも高くもない24色セットの色鉛筆を買った。それで今日、片面にしっかり時間をかけて、Mr.OWLの絵を描いた。
絶対に絵を描かないと彼に啖呵を切ったけど、結局こうなる。私が雇用されるという手段を捨てて、自力でどうにかお金を稼ぎたかったらこれしかない。絵だってもちろん、売るにはどこかで身分証明が必要になると思うけど、雇われるよりは緩いだろう。
どうせ売れない、多分無理、もう絵はうんざり。100回くらい心の中でそう思ったけど、彼がホグワーツに行ってしまって頭が痛くなるほど静かな家の中で私はしぶしぶ重い腰を上げた。彼にポストカードを送るのはその予行練習だ。
よくわからないけど彼は私に絵のことばかりねちねち言ってくるし、それならちょっと本気で絵を描いてビビらせてやろう、みたいな。いや別に、ほんとにセブルスが私の絵でビビるなんて思ってないんだどさ、ハハハ……。
「だせぇ……」
自分の脳内会議に思わず突っ込みながら、誤魔化すようにタバコに火をつけた。これは1日6本……8本までにしよう。健康保険も無いのに、こんなもので体を壊したら笑えない。
封筒に、『Hogwarts, Professor Severus Snape』とだけ書く。本当に、こんな宛先で届くのだろうか。書き方こんな感じでいい?お願いだから誰か私にインターネットを授けて欲しい。そろそろデスクトップ型くらい出ないかな。
そわそわと心配しながら、Mr.OWLを前に首を傾げた。
「どうやってつけるの?これ」
足首にくくるなら、丸められる紙に描いた方が良かっただろうか。そんなことを思っていたら、ミスターは私の手元の紙を口で咥えて、すぐに開けっ放しにしている窓から飛び立ってしまった。
「あっ!大丈夫かなぁ……」
早々に夏を終わらせて涼しくなりかけている9月の夕方、フクロウが溶け込んだ夕空を1分ほど眺めた。
『なまえ
手紙は届いてる。校長はまだダンブルドアだ、あの老いぼれは後50年は居るだろう。他も相変わらずだ。』
翌朝、誰もいないことを良いことに10時までベッドでゴロゴロしていたらミスターに頭をつつかれ、そんな手紙を受け取った。意外と返信が早い、このフクロウは何時間ほどで手紙を届けているのだろう。
セブルスの短い手紙を眺めながら、リビングに移動してお湯を沸かす。13年経っても、筆跡はあまり変わらないようだ。女子みたいに小さく、可愛い文字。
「絵の感想は無しかーい」
まぁ、いいけど。ふくろうの羽の色が奥深く素敵ですねとか書かれてたら、代筆を疑ってしまう。
それから基本的には毎日、私は絵を描いて、その裏面に短い手紙をつけてセブルスに送った。絵ではなくて手紙を送っていますという、誰も気にしない悪あがき。
天気が良ければまぁまぁ治安のよい街角を選んで、腰を据えてスケッチする。ちらほらと絵や雑貨を路上で売っている人もいたが、時たま警察が来て何かを確認していた。たまたまその場で絵を売っていた黒髪の女性にそれは何かと聞けば、Pedlar's Certificateという路上で物を売るための許可証のようなものだという。
「そんなに難しくないよ、身分証と住所さえあればすぐにもらえる。12ポンドちょっとかかるけどね」
「あぁ……私、身分証が無いんだよね。ちょっといろいろあって」
「へぇ、そう……じゃぁこれも何かの縁だね、あげるよ」
「え?」
「そろそろ場所を変えようと思ってたんだ、そこそこお金もたまったし、次は船でフランスに行くつもり。もともとそっちが目的地なの。大丈夫、顔写真もないし使えるよ、有効期限あと半年くらいあるし」
「え、いいの?せめてお金払うよ、いくらだっけ」
「別にいいよ、じゃぁそうね、あなたのその絵、貰っていい?」
「あぁうん、いくらでもどうぞ」
「これがいいわ、綺麗な百合の花ね」
「ありがとう、そこに咲いてるやつ」
「あら、気付かなかったわ」
彼女は何度か絵とユリを見比べてほほ笑んだ。
「ユリが好きなのね」
「そうかな?まぁそうかも、古い友人を思い出すんだよね。リリーって名前で」
「素敵な名前。あるわよね、そういうの」
「うん、あなたの名前も忘れないよ」
そう言って私は、その許可証の名前を見た。
「たまに警察に名前とか住所聞かれるから、覚えておくといいわ。上手に成りすましてちょうだい」
「わかった、ありがとう」
彼女はにっこりとほほ笑んで、残っていた絵を仕舞いその場所を去っていった。その日から、私は週の半分くらいはそこで絵を売った。
ああ、いったい誰がこんな人生を予想出来ただろう。30歳も目前にして、イギリスの路上で1人絵を売る武者修行なんて。
大体買ってもらえないし、既に紙くずみたいに安いのに更に値切ろうとしてくる。2枚買うから8ポンドを6ポンドにって、もう何枚でも勝手に持ってけよ。ほとんど紙代だ。
夕方4時を過ぎてくると酔っ払いがでてくるから早めに片付ける。数人の若者に絡まれた時は最悪で、頭からビールをかけられて目の前が真っ暗になった。プライドなんてものはクソの役にも立たない、負けるものかと思えば思わず口も悪くなる。
路上販売同士の縄張り争いもあり、浮浪者のようなおじさんに大声で詰め寄られるとノミが移りそうになる。やっぱりこれも色んな意味で耐えられなくて、段々と日陰に追いやられた。失うものがない人って怖いよね、無敵の人っていうの?
たまにまともな客がきたと思えば説教おじさんで、若い女の子がこんな所で何をやってる、はやく結婚して子供を作るのが女の幸せだなんて長々と語ってくる。絵描きなんて夢はもう古いとか、あなたの絵にはぐっとくるものがないだとか、これはあなたのためだとか。お前はキャバクラにでも行ってろよ。あと多分、私はお前が思うほど若くもねぇよ。
私は仕方なく、髪を短く切って毎日体型の分からない大きめのパーカーにすっぽり体を隠した。パッと見で性別が分からないように。
なぜ私はそこまでして路上で絵を売ってるんだろう、別に生活に困ってないのに。しばらくはセブルスが私の面倒を見てくれる、きっとなんだかんだ彼は私のことが好きだから。だって昔、彼が1番寂しい時に手を差し伸べて、その頭を優しく撫でたのだから。
――『人は、何のために働くと思いますか?』
昔、就活の二次面接くらいで聞かれた。私ははっきり答えられなくて、三次には進めなかった。
知らないよ、お金のためでしょう?じゃぁなんで私は今、絵を描くの?社会と繋がりたいとか?絵を描いてたってお友達はできない、そういう職業じゃない。生きていくなら1人でいい、今はセブルスだっている。こちらが何かを送れば毎日律儀に返事をくれるから、私はそれを楽しみにしている。じゃぁなんで、私は絵を描くのだろう?
「知るかよ……」
お酒は月火水だけと決めてる。そうしないと私はいつまでも呑んでしまうから。ちなみに週末は稼ぎ時で、なるべくちゃんと絵を売りに行きたいから飲まない。
「死にたーい、はは」
絵って何のためにあるんだろう。インフラとか、医療とか、教育とか、食品とか、世の中に必要とされてる仕事なんでいくらでもあるのに、どうして私は絵なんていう1ミリも人が生きるのに必要無いものを選んだんだろう。こんなの売れるわけが無い。設定から不利だ、苦しい。毎日売れ残った絵を持ち帰ると、世の中に不要だと言われてる気分になる。私はこれに人生を費やしたのに。
せめて卒業してからはもっと世の中に必要とされる仕事をと、小さなIT企業に入ってプログラミングをそれなりに頑張って学んだのに、今度はパソコンもろくにない世界に来るなんて何ごと?私、そんなに神様に唾でも吐いて生きてきた?それとも前世が極悪人?
「ねぇセブルス……」
テーブルで、グラスの隣に並べているのは彼からのお返事。くるくると丸まったもう100枚を超える羊皮紙を、私はひとつも捨てずに大切にとってある。プラトニックなラブだね。
『なまえ
羽虫一匹で夜中に騒ぎ立てるな。放っておけばそのうちどこかへ消える。ちなみに言っておくが、シロアリなどというのは無知な連中が使う俗称だ。正しくは Termite という、いい加減に覚えろ。』
――ター……マイト?かっこいい名前。っていうか伝わるかわかんなかったけど、シロアリって英語でもWhite antが俗称なんだ、知らなかった。
『なまえ
日が暮れてから不用意に外を出歩くなと、一体何度言えばその貧相な脳味噌に染み込む?お前の頭の構造は、相変わらず死んだサンゴより酷い有様のようだ。二度目はないと警告したはずだが?それとも何か、そこまでして命を落としたいという、特殊な自殺志願でもあるのか?』
――めちゃくちゃ怒ってる。10月末にサマータイムから切り替わっちゃったから、5時に帰ったのにもう真っ暗だったって話をしたんだっけ。
『なまえ
フクロウが持ち帰るネズミなど、大抵は無数の雑菌と病原体を抱えているに決まっているだろう。速やかに、かつ徹底的に駆除しろ。間違っても明日やろうなどと後回しにして寝るな。寝るなよ。』
――無理だよ、まだ生きててそこらへん走って逃げちゃったんだもん。結局ネズミ捕りにも引っかかんなかったな、どっかいったのかな。
『なまえ
冬の冷え込みを甘く見るな、今のうちに暖房器具を揃えておけ。暖炉には間違っても粗悪な石炭などを選ぶな、Anthraciteを用意しろ。それととにかくその不合理極まりない肩を露出した格好を今すぐやめろ。マグルという生き物は、なぜそうも簡単に足だの肩だのを出したがるの?肌を隠せ。不快だ。』
――ふふ、さすがに秋までそんな恰好しないよ、寒いし。夏は日本より涼しくて過ごしやすかったけど、冬はむしろ厳しいね。
『なまえ
お前が後生大事に眺めているその花の名前はヘアベルだ。ただの雑草に過ぎん。道端だろうがどこだろうが、探さずとも勝手に生えてくる代物だ。別名を Fairy's thimblesとも呼び、一応は魔法薬の調合にも使われる。
それにしても、学生というのは一体どこまで愚かになれるものか。今日、授業で黄金虫の目玉を採取しろと指示を出したところ、パニックを起こした女子生徒が暴れて大釜をひっくり返した。実に、いつかのお前を見ているようだった。』
――これはあれだ。こっちに来てすぐ、キッチンにゴキブリが出てパニックになった私が、沸騰したやかんをひっくり返した件かな。足にかかってちょっと火傷になったけど、セブルスが治してくれた。ああ、あの時は気まずかったな。今はもう虫一匹にそこまで慌てなくなった。慣れってすごい。
手に取った物を色々眺めてから、最後に今朝来た手紙をもう一度読み返す。いつもそう、夕方に私が手紙を出して、翌日の午前中にお返事が来る。
『なまえ
クリスマスなど、私にとっては全くどうでもいいマグルの祭日に過ぎない。そもそも、仮にそのキリストなる男が実在したとするならば、それは確実に魔法使いだ。それも、マグル相手に自分の魔力を見せびらかして悦に浸るタイプの、救いようのない目立ちたがり屋だな。なぜ私が、そのような男の生誕をわざわざ祝わねばならんのだ。』
「あはっ、クリスマスなんも予定無いんじゃん」
なんで私が絵を描くかって?その絵がないと、私が死ぬからだよ。それでさ、もしかしたらさ、同じ人間がいるかなと思ってるんだ。同じ感性の人間が、世界中探したら、世界のどこかに。私の絵がないと生きていられないと思ってくれる、それほどの誰かが。そんな人間いないってもう知ってるけど。
「あー飲みすぎた……」
ふらふらと酔っ払いながらワインにコルク栓を押し込んで、そのまま泥のように眠る。パジャマの上からパーカーを重ねて、ついでにコートまで着てベッドにもぐりこんだ。
彼が忠告したとおり、イギリスの冬はとにかく寒い。翌朝目が覚めても、私は暫く布団から出られなかった。建付けの悪い窓枠のゆがみから容赦なく入ってくるすきま風、覗き穴のように外まで見えた。虫が減ってラッキーだなんて思っていたのはせいぜい11月までだ。
「だるい……もうお酒飲まない……」
朝というか昼に近い時間なので、もう鳥すら鳴いていない。カーテン越しの日差しを目に焼き付けて、いい加減起きろと自分に言い聞かせた。
イギリスでは大抵、ガス式のセントラルヒーティングという、壁に熱湯を通らせて家全体を温める暖房が今は標準装備なのだと、おしゃべりが好きそうな通行人のおばさんが教えてくれた。
うちにそんなものは無さそうだといったら、随分ボロいアパートに住んでるのねと言われた。ほんとそうだと思う。そのなんとかヒーティングはここ10年ほどで普及したものらしいので、ホグワーツを卒業した彼には必要無かっただろう。
『私が子供の時はあんたと一緒よ!暖炉の前で家族みんな集まってね、部屋にいたら凍えて死んじゃうから。朝目を覚ますと息が白いのよ、家の中よ?私もう、おしっこも我慢して先に暖炉の前をとってたわ、あはは!兄弟に負けないようにね!』
そう言いながら大声で笑うおばさんは、なんだか毎日楽しそうでとても良かった。絵は買ってくれなかった。
私も最近は毎朝、同じように起きたら暖炉に薪……ではなくちょっといい石炭みたいなのをくべている。セブルスの手紙にあった、Anthraciteという物だ。煙が出ない、健康的な石炭、みたいなことがパッケージに書かれていた。というかこれがない時は、家の暖炉に本気の石炭くべてたってこと?汽車じゃあるまいし、どこに向かうんだか。
ちなみに薪はお値段が高いし煙が出るので使わない、あれは田舎の金持ちが使う贅沢品で、こんな地域じゃ売ってもいない。燃えてる時のビジュアルは優勝なんだけど。
よし、と気合を入れて布団をめくり、まずはリビングに向かった。おしっこを我慢しながら、一晩中種火で燃え続けていた炭の周りの白い灰を慎重に払う。次に暖炉下部の空気弁を開けて酸素を送り込み、新しい炭を古い炭の上に絶妙な角度をつけてそっと置く。なるべく小さくて、簡単に燃えそうなものを選ぶのがコツ。
火が大きくなるのを待つ間に、一度バスルームに駆け込みトイレを済ませる。
「寒い寒い寒い……」
今度は大急ぎでお尻をしまってリビングに戻り、ヤカンでお湯を沸かす。水道管が凍らないように、夜は少し水を出しっぱなしにして、シンクの下も開けておくんだよとおばさんに言われた。少しでも暖かい空気を水道管に届けるのだと。特に破裂したら終わりだそうだ、手のかかる水道管ちゃんだこと。フクロウより手がかかる。
その場で足踏みしながら物理的に体を温めていたら、カツンと窓をくちばしでつつく音が聞こえて、ちょうどミスターのお帰りかと顔を上げた。
「いつもありがとう……うわ、何持ってるの」
テーブルの上に細長い何かを置いたので、私はまたネズミか何かだと思って飛び退いた。
「ねぇちょっとなんか採ってくるのやめてってあれほど……あれ、違う?」
直ぐに文句を言おうと思ったが、よく見るとそれはちゃんと紙に包まれた何かだった。私が理不尽に怒ろうとしたことを敏感に察知し、ミスターは私の頭をつついた。
「痛い痛い、ごめんって、悪かったよ」
鋭いくちばしを甘んじて受け入れ、包みと一緒に届いた手紙を開いた。
『なまえ
水道が止まったら自分でどうにかしないで私を呼べ、家を壊される方が面倒だ。
昨日はあの忌々しい門番が、自分の愛らしいペットに何とかケーキなどという毒を与えて面倒を引き起こした。なぜこの私が、あの大男のご友人のために、こんな日まで夜な夜な治療薬を調合してやらねばならない?いっそあのまま腹痛でのたうち回らせておいた方が、あいつらにとって最高の教育になったというのに。』
「んふ、なに、ハグリッドが面倒見てる魔法生物のためにクリスマスも調薬してるの?うける」
手紙を読みながらタバコに火をつけて、くるくると丸まっていく紙を少し苦労しながら伸ばした。相当イライラしたんだろう、いつもより荒っぽい文字を読んでいるのも楽しい。きっと忙しくて、その合間に書いたんだろうなと。眠かったのかな。
手紙ってこういうのがたまらない、デジタルには無い息遣いがある。上手なAIの絵より手書きのイラストがいい、そういう感覚と似ている。内容に意識して一回、文字の形や筆圧に意識して一回、これを書いている彼の姿を想像して一回。何度も読み直してにやにやしてしまう。
僕と君とこの距離の3人で愛を育もう、みたいなRADWIMPSの歌があった気がする。正確な歌詞とか思い出せないけど、今はちょっとそんな気分。仏頂面のセブルスを目の前にするとこっちも意地を張って口を閉じてしまうけど、手紙の中の彼はなんだかんだと早口でよくしゃべるから、私も話したいことがたくさんある。
正直、英語を書くのは少し苦手だったけど、何度も英英辞典を捲りながら書いていると丁寧な暮らしって気分がして悪くないと思う。
――この前、大通りでクリスマスマーケットを見たの。人生の中で一度も見たことが無かったからちょっと気分上がっちゃった。記念に何か買おうかなと思って覗いたけど、なんだかすごく甘そうなドーナツとかであんまり惹かれなかった。あと手作りのローソクとか。でもいいよね、そういうの。買わないけど。最近、家の中が寒すぎて、毎朝冬のキャンプみたいだなと思ったの。だからさ、もう布団じゃなくて寝袋の方が足元まであったかいんじゃないかなと思って。湯たんぽ落っことしちゃうことも無いし。ありじゃない?今度アウトドアショップ見てみようと思ってる。
そんなことを思いながら、手紙の最後に短い文章があるのを見つけた。走り書きで、ピリオドも無い。
『追伸 たまたま見かけたから』
これはきっと、このテーブルの上にある30cm程の細長い包みのことだろう。そっと封を開けると、中には筆が入っていた。毛先は柔らかくて使いやすそう、多分イタチだろうか。
「絵の具筆なんて、たまたまじゃ見かけないでしょーが」
ふふ、と笑いながら持ち手をそっと撫でた。木の質も良さそうで、端には見た事のないメーカーの刻印がされている。魔法界にある画材屋で購入したのなら、きっと油絵用の筆だろう。この手の細筆なら最近描いてる水彩画の方にも使えるけど、折角だからもっとも適した場所で使ってあげたい。
「オイルかぁ」
道具を揃えるにもお金がかかるし、油絵は乾くまで時間がかかるから一枚書くだけでも面倒だし、保存にも場所とるし、ちょっとした気分転換程度では手を出したくないのだけど。
タバコの煙を吐き出しながら、手の中の筆をじっと眺めた。
「セブルスは好きかなぁ、油絵」
彼の誕生日まであと少しだし、その日は折角だからちょっといい絵を贈りたい。――ま、その前にまず、素敵なクリスマスプレゼントのお礼を買いに行こうか。
とぽん、と水よりも重たい油がツボの中で濁った音をたてる。クリスマスから年始までのホリデーシーズンは画材屋も閉まっていたから、結局道具が揃ったのは年明けになった。
急に大きな絵を贈っても置き場所に困るだろうし、今までと同じA6サイズに近い7×5インチのキャンバスを買った。
このサイズだと、被写体も小さいものがいい。キャンバスの左奥のテーブルに、花屋で買ってきたヘレボルスという花を飾る。小ぶりで、少し俯きがちに咲く、緑がかったくすんだ白い花。その佇まいがまるで昔の君みたいなんて思っちゃって。そう言ったら多分怒るね。
別称をクリスマスローズという。花のことなんて何にも知らなかったけど、花屋のおばさんが教えてくれた。
油絵とは、文字通り油をひたすら練りまくって描いていく技法だ。絵の描き始めには、大抵、揮発性油の代表格テレピンという物を使うのだが……。
「くっっっさあ……」
たかが30年、されど30年。現代の日本で使っていた、匂いを抑えた便利な画用液に慣れきった鼻には、この時代の本物のテレピンは強烈すぎた。仕方なく窓を開けたまま作業を続けたが、それでもだんだん頭が痛くなってくる。これは絶対健康にも悪いだろう。適当な布を口元に宛てながら、さっさと筆を動かした。
油絵というのは少し描いたら乾くのを待って、また少し描いての繰り返しだ。こんな小さなポストカードサイズ一枚でも、書き上げるまで数日から一週間かかる。久々の油絵の感覚を懐かしく思いながら、筆の動かし方を思い出すように何度も塗り直した。
何度も、何度も。
なぜ自分はこの絵を描くのか。この色を置くことにどんな意味があるのか。これはどこかの誰かの模倣ではないか。そんな思考の泥沼にハマって抜け出せない。
例え彼に伝わらなくても、私だけがこの絵に込めるモノがある。
1日8本までにしようと思っていたタバコは、いつしか1箱の20本までに増えて、息も凍るような寒い部屋で私は何時間でも小さなキャンバスを眺めた。
――1991年2月13日(水)THE DAILY CHRONICLE
――砂漠の嵐:多国籍軍、地上戦へ秒読み。ソ連の和平案をバグダッドが拒絶、メジャー首相は強硬姿勢崩さず
――ジョン・メジャー首相は昨日、下院において「クウェートの完全な解放条件が満たされない限り、いかなる一時停戦も受け入れない」と言明した。ソ連が提案した仲介案に対し、イラクのサダム・フセイン大統領が事実上の拒否を示したことを受け、多国籍軍による地上軍投入へのカウントダウンは最終段階に入ったとみられる。
「わ、サダム・フセイン!何やった人か知らないけど。てかこれあれか、イラン・イラク戦争?あれ、違うかな……あーあ、ちゃんと勉強しておけばよかった」
新聞をゆっくり読んで、知らない単語に線を引きながらざっと読める部分だけに目を通した。全然分からなかった英文は後でちゃんと読む……つもり。たぶん。毎朝この新聞を読む作業だけで1時間かかるの、ほんと疲れちゃう。バカでかい独り言も、もう呟くのが当たり前になってきて怖い。日本で1人暮らししてる時はそんなことなかったのに。
――氷河期の底:『間違った雪』の失言に批判殺到。氷点下の酷寒、通勤客の足の奪われ状態は6日目に
――シベリアから到来した記録的な寒波は、本日も英国全土を氷づけにしている。ロンドン市内では今朝も-6°C (21°F)を記録。1947年以来、最も厳しいとされるこの寒波により、主要幹線の道路は凍結し、空の便もヒースローやガトウィックで欠航が相次いでいる。
「あーやっぱ?寒いんだ。これ異常だよね」
もう2月も半ばだと言うのに連日雪が振り続け、交通機関に混乱が出ているというニュースが毎日のように載っていた。スーパーの棚も空っぽのエリアが目立つし、何より家に石炭を売りに来る、石炭売りのトラックがまばらになっていた。
どうにも雪で道路が滑ってしまい、スムーズに配達が出来ていないらしい。家の裏手の石炭置き場の在庫ももう残り少ないし、そろそろ来てくれないと凍死が見えてくる。
なるべく節約しながら、家の中でもコートを着込んで暖炉の僅かな火に体を近づけた。もう家の中も外とほとんど同じ気温、おそらく日中でもマイナス2度くらいだろう。
「これはやばいかもなぁ……」
セブルスにヘルプをだそうか?でもなぁと、そんなことを思いながら紅茶で指を温める。絵を描くにも寒すぎるので、少し前に書いていたポストカードを眺め、なるべく気に入っている1枚の裏に手紙を書いた。
『セブルスへ
こっちは毎日凍えるほど寒いよ、ホグワーツはどう?山の上だからもっと寒いよね。スリザリン寮のある地下牢はほんとに冷えそう。体に気を付けてね。イギリスって、こんなに雪が降るの知らなかった。来年はセントラルヒーティングつけようよ、もう寒くて死んじゃう。これ届けてる、Mr.OWLは大丈夫なのかな?寒そうだったらそっちで温めてあげてね、多分ホグワーツの方がちゃんと面倒見てもらえて彼にもいいと思う。またね。』
それをミスターに預け窓から見送り、ぬるくなった紅茶に口をつける。
「……喉痛い」
ほんの少し感じる体の違和感にも目をつぶり、気の所為だと思うことにした。この家には体温計がないので、体感で今は37.0度の微熱ということにしよう。冷えピタは無くてよさそう。
「あ……今何時……ごめん……」
あれから1週間、無視を決め込んだ体調不良はここぞとばかりに成長し、私は立派に寝込んでいた。
自室は寒すぎるので、寝る時もリビングの狭いソファに体を縮こませ、暖炉の僅かな熱を求める。石炭を家の裏からとってこないといけないけど、そんな元気もない。
カリカリと鳥かごをかじるミスターの音に急かされて、ふらふらと餌を取りに行く。そのまま夢遊病のようにお湯を沸かし、マフラーの内側にごほごほと咳をする。
頭が痛い、喉が痛い、鼻が詰まってる、関節が痛い、体がだるい。自分が今立っているのか横になっているのか、そんなこともわからなくなるほど脳みそが終わってる。
「完全制覇……」
……死にそうだ。
ミスターの餌箱を補充して、薄く氷が張った水差しを替える。
「いてて……あぁ、うん……というか君もう、こっちじゃなくてホグワーツに居なよ、しばらく」
そう言いながら鳥かごを開けるけど、ミスターは私の傍を離れなかった。頭をつつき指を噛んで、じゃれつくように羽を動かしている。
「心配してくれてるの?そういうのわかるの?賢いわぁ」
うふふと力なく笑いながら、沸騰したヤカンの火を止める。もう食欲もないし、昨日はパサパサのビスケット3枚くらいしか食べてない。紅茶にミルクをいれて、せめてもの栄養補給ということにする。胃が食事を受け付けない。
火だけは気をつけようと、ガス栓をちゃんと閉めたことをこの短い作業の間に3回は確認してしまった。さっきから自分が何をやってるのかいまいちよくわからない。
100歳の老人のような動きでソファに戻り、体に布団を巻き付けて手の中の紅茶を見る。
ここ3日ほどは手紙をセブルスに出してないし、なんか書かなくちゃ。風邪っぽいから見に来て欲しいとか?いやぁ、無職がそんなことで社会人呼び出すのダメじゃない?こっちもいい歳した大人だし。でも病院にも行けなくて、薬も何買えばいいのかいまいち見ても分からなくて……。
まぁうん、助けて欲しいんだけど……。
「だめ、死ぬ……」
紅茶を1口だけのんで、テーブル代わりに引っ張ってきた椅子に置き、ソファの上で横になった。
「ミスター……私が死んだら君はホグワーツに行くんだよ……」
ミスターがちゃんと逃げられるように、窓を開けておかなくてはと思ったけど、とても体を起こせそうになかった。
頭痛い、体感38度。
家中ですきま風が鳴り響いて、ガタガタと窓が揺れているが、それがどこか別の世界かと思うほどに遠くに聞こえた。悪寒で奥歯が震え、手足は氷みたいに冷たいはずなのに、額の裏だけ沸騰しそうに熱い。
大丈夫、とりあえず寝よう、寝てしまえばマシになるはず。というかもう寝る以外なにも出来ない。
「うぅ……つらい……」
――暗くて狭い、苦しくて汚い場所。そんな場所で、蛇に体を締め付けられている。この蛇に噛まれたら死んでしまう、血が止まらなくて、きっと首を噛まれるから、助かることは無い。私は死ななくちゃいけない、死ぬ運命にある。それはいい、それは救いだ。でもどうにか最後に、あれを伝えなくては、彼に……。そうしないと、物語が進まない、とてもとても重要なこと。
バチンと遠くの方で何かが弾けるような音がする。その音を聞いて意識がぼんやり浮上して、自分が夢を見ていたようだと気づいた。まだ半分、体はまどろみの中にある。
誰かが私に駆け寄って、ぐるぐる巻きの布団から体を引っ張り出してくれる。大きな冷たい、白い手が、頬に添えられて気持ちいい。黒い目が、私を見ている。
「私を見て……」
なんだっけ、これは誰の言葉だっけ……?思い出したいのに、頭が痛い。思い出してはいけないよと、誰かが乱暴にドアを閉めるから、その奥が見えない。
「誰……?」
もう限界。
また暗転。