第2章
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この家に転がり込んで、2週間経ちました。先日、これではだめだと意を決して、Local Councilという、日本語だといわゆる区役所に1人で行きました。それがとても人生観を変える体験だったのでここに書いておきます。
まず、「今の私には身分証の類がひとつもなくて、どうにもならないから役所に相談しに行こうと思う」と同居人の彼に伝えました。
彼は冷ややかな目線のまま私の相談を鼻で笑い、「まぁ自分で見に行った方が早いだろう」と言いました。意地悪だなぁと思いましたが、これはその通りでした。
彼に教えてもらった区役所に近づくにつれ、道端にあふれかえる浮浪者の数に驚きました。彼の家がある地区も十分治安が悪く、空き家だか何だかわからない場所に人が住み着いている光景はよく見るのですが、彼らは大抵物陰に隠れ、かつ点在しているのでそこまで目につきませんでした。
区役所近くの浮浪者たちはむしろその惨めさを隠すことなく、ガリガリの体や失った手足を晒すように前に出して物乞いをしていました。特に死んだような目をした5,6歳の子供には思わず顔を逸らしました。手元の箱にはお金ではなくビール瓶の王冠のようなものと小石が入っていました。
区役所の中も、おそらく失業者とみられるような人であふれかえり空気は殺伐としていました。
「仕事も家も無いんです、生活のサポートはしてもらえますか」
忙しそうな係の女の人の様子を伺って、ようやくそう聞くと、彼女は私をじろりと見て眉をひそめながら持っていたペンで雑に奥を指しました。
「住宅ね、あっちよ」
こんなことならちゃんと社会勉強しておけばよかったと思いましたが、この1990年にはリーマンショックでもあったんでしょうか?それとも世界恐慌?なんにも思い出せません。
「ちょっとあんた、見ない顔ねえ。こんな肥溜めみたいな場所に、お嬢ちゃんが何の用? 観光地と間違えたんじゃないの?」
そう話しかけてきたのは、50か60くらいのおばさんでした。歯を真っ黄色にしながら煙草を吸って、なぞの派手色のシャツを着ています。腕にはジャラジャラと安物の装飾品をつけて、背中を丸めながらすり足で歩いていました。
「あー、ちょっと仕事を探して」
「なにーあんた、ここ家のとこよ、仕事はあっち」
「いや、家も無いんです」
「あら本当?でも綺麗なべべ着てるじゃない」
正直、何を言ってるのか知らない単語が多く、なまりもひどいのでほとんど聞き取れませんでしたが、身振り手振りが大きいのでまぁ言いたいことはわかりました。彼女は今、私のワンピースの一部をむんずと掴んでぐいぐい引っ張り、生地感を確認しています。白昼堂々、役所の中で追い剥ぎにあっている気分でした。
「知り合いの家に転がり込んでて……」
「あーはん、男ね?私も10年前までそうだった」
ひじをぐりぐりと突きだしながら、たばこの先から崩れ落ちる灰も気にせずにおばさんは話し続けました。その手の痛覚はもう死んでるんでしょうか?
「ほんと、サッチャーになってからイギリスは最悪よ。どれだけの死人を出せば気が済むんだか。なんにも見えてない、頭が良いだけの間抜けよ」
「サッチャー……マーガレット・サッチャー、鉄の女……?」
でた、サッチャー……!いや、何した人か全く知りませんが、知ってる名前が出てきて驚きました。なんとなく有能な女性政治家くらいのイメージだったのですが、違うんでしょうか?自分の学が浅すぎます。
ふと窓口が騒がしくなり、私は目線をそちらへ動かしました。体の大きな黒人らしき男性が、職員と見られる白人男性二人に羽交い締めにされています。
「俺は!イギリス人だ!!移民じゃない!イギリス人だ!!この国で育ったんだ!!!」
みんなが冷ややかな目でそれを見て、中には面白そうに笑みを浮かべている者までいました。
「不法移民よ、どうせ。みればわかるわ、パキスタン系よ。生活保護目当て。わかる?せ、い、か、つ、ほ、ご!迷惑なのよねほんと、人の国に寄生するなんて恥ずかしいと思わない?ああいう移民のせいで、私たちの仕事も、家すらなくなるのよ。治安も悪くなるし。サッチャーは仕事は出来ないけどああいうのを締め出すのは上手くやったわ。それだけはあたし認めてんのよ、あの女のこと」
「あ、はは……」
きっともうこのおばさんは、自分がアジア系の女と話してることすら頭にないのでしょう。
「あの人、どこに行くのかな……」
「決まってるじゃない。刑務所よ、刑務所」
それが本当かどうかすら、私にはわかりませんでした。
「あの、わたし今日、国民保険番号を忘れちゃったんだよね、何とかなると思う?」
気を取り直して、私はおばさんにそう聞きました。国民保険番号とは、郵便局のカウンターに置いてあった『失業者のためのガイド』に書いてあったもので、国民保険番号と公共料金の請求書、出生証明書、免許証またはパスポートのいずれかひとつを持って来るようにと書かれていました。何一つ持ってません。
「国民保険番号を忘れた?あんた……あんたももしかして移民の口なんじゃないのかい?え?それで忘れたとか偽造したとかするんだろ、ええ?どうなんだい」
「いやいや、そんなことする訳ないじゃないですか……」
私は逃げるように席を立ち、なるべくおばさんの死角を歩きながらそっと役所を出ました。おばさんは鼻息を荒くしながら、不自由そうな首を一生懸命回して私を睨んでました。愛する母国から侵入者を追い出すのだと、そういう意気込みを感じました。
全くこういう可能性を考えなかったわけではありません。今の私は客観的にみたら国籍不明の不法移民でしかなく、例えばここが2025年のアメリカだったとしたら、ニュースでよく聞くICE移民取締局に引っ張られるだろうとか。
でも他に頼るものもなく、ヨーロッパは比較的移民に寛容なイメージもあったので、とりあえず話だけでもなんて思ったのですが。
帰りも当然、あの浮浪者だらけの場所を歩かないといけません。よく見ると、確かにアジア系の色の濃い人が多いような気がしました。
小さな女の子が私の服を引っ張って、両手を器のようにして前に出しました。このポケットには小銭が入っていますが、これは私のお金ですらありません。彼が、交通費にと渡してくれたお金です。
私は、何も言えませんでした。何もしませんでした。
おしまい。
鬱々と部屋に閉じこもり、ベッドの上で膝を抱える。この先どうにも生きていける気がしないし、ただ通過するだけの時間をどう過ごしたらいいのだろう。
なんだかそう、甘かった。未来を生きる私は甘かった。何が正しくて何が正しくないのか、わからなくなる。
嘘をつかないこと、物を盗らないこと、日々を誠実に生きること、されて嫌なことは人にしないこと。全部、子供の頃に習うこと。
今日見た人の中で、どこかに不誠実な人は居ただろうか。己のことだけを考え、耐え難く愚かな人間は居ただろうか。
話しかけてきたおばさんも、役所の人間も、羽交い締めにされていた男性も、道端にいた浮浪者も、みんなただ日々を必死に過ごしていたのに、私の足元に居た子供はやせ細り落窪んだ目をしていた。
話しかけてきたおばさんが移民を憎むのも、それなりの理由があるんだろう。床に押し倒された男性は、もしかしたらイギリスという国を恨むかもしれない。誰にも小銭を貰えなかった子供は、大人たちを呪うだろう。
「はぁ……」
生きるってのはさ、と昔、私は偉そうに彼に言った。美味しいご飯を食べて幸せだとか、朝すっきり目が覚めて嬉しいとか、好きな子と目が合ってときめくとかだと。
最後に私の服を引っ張った、あの女の子は、きっとそのひとつも知らないだろう。ならあの子は死んでいるのか?それを知らないのは、あの子のせいではないのに。
“せい”ってなに?自己責任論ってこと?どっからどこまで自己責任?
私がここにいるのは私のせいではないと思うけど、それならここで仕事を見つけられないのは私のせい?私がここで何の役にもたたないのは私のせい?彼を不機嫌にしてしまうのは私のせい?
壁の隅にいた、ゴキブリを見つめた。
「君が人に嫌われるのは、君のせい?」
もうたかだか虫一匹に叫ぶ気にもなれなかった。それでも愛でるような気分にはなれなかった、虫は気持ち悪い。
「どうだった」
その日の夕飯を食べながら、彼は私にそう聞いた。
「行ったのだろう、区役所に。少しでもまともな人間はいたか?」
「……いや、いなかったよ」
君がマグルを憎むのは、いったい誰のせいなんだろうね。父親かな?もっと複雑なものかもしれない。それを環境というひとことで片付けるのは、物事に蓋をするようなものだ。
「改めて、この家にもこの食事にも感謝したよ」
「……わかればいい」
君はそう言いながら少しだけ満足そうに見えた。
せめてこの家で何か出来ることをしたい、そう言おうと思ったけど、そんなことひとつも浮かばなかった。例え簡単な料理をするにしても、私がやればガスや電気、水道代がかかる。自己満足のために、余計なお金をかけてしまう。
「でも毎日、何もやることがなくて……」
だからどうしたと言われるだけだと思った。
「絵でも描けばいいではないか」
「……絵?」
「好きだろう」
その時、何かがカチンとなった。ひどく見下されたような気がした。
「いや、描かないよ、こんな状況で。道具もないし」
「それくらい払ってやる」
「いや、そういうのじゃないから」
私の、絵を、バカにするなと。ぐっと噛み締めた奥歯の裏で、感情も捻り潰した。
「今はちょっと、遊ぶ気にはなれないよ」
「……好きにしろ」
何を食べてるのかもわからないくらい気持ちが乱れていたけど、それを悟られることすら負けだと思った。
「あのさ、少しお金借りていい?……下着とか、生理用品も買っておきたいの。そういう物はマグルの店で、1人で買いたい」
「……いくらか両替しておく」
「ごめんね、ありがとう」
自分を奮い立たせて、君の言葉に泣いてやるかと睨みつけて、こんな世界に屈してやるかと意気込んで。私は何と戦っているのだろう、酷く虚しい。
翌日、彼が私に100ポンドくれた。昨日の浮浪者たちにとっては、きっと人を殺してでも欲しい額なのかもしれない。
彼はそれを、ちゃんと全て20ポンド以下の細かい紙幣でくれた。ヨーロッパでは高額紙幣は好まれない、旅行の知識としては知っている。魔法使いの彼も、それを知っている。
「ごめんね、ありがとう」
しょんぽりとうつむくようにそう言った。
「……謝罪の必要は無い」
その言葉に驚いて少し上を向いた、珍しいなと思った。彼は垂れ下がった私の髪の毛をそっと耳にかけようとしたが、私はさりげなくそれを拒んだ。
彼はそれ以上手を伸ばさずに、ほんのわずか自分の指の先を見ていた。
「……ありがとう」
逃げるように外に出て、買い物をした。なるべく安いものを選んで、それでも結構な量になり、最後に少しだけ迷ってノートと鉛筆を買った。家についてそれらをクローゼットに片付け、無言のままベッドに沈み込んだ。右手には、タバコとライターを持っていた。これを買うのに、身分証は要らなかった。
タバコに火をつけて一口吸って、灰皿代わりのアルミのやすそうな小皿にそれを置き、ポケットにしまった小さな紙を取り出した。
『住み込みOK』『現金・週払い』『未経験OK』大きな文字でそれが書かれ、仕事内容は飲食店の皿洗いと小さく書かれている。どう考えても怪しい、絶対関わらない方がいいと分かるけど、私はこの求人カードを無視できなかった。売られるのは労働力?臓器?春?
私はこちらにきて、毎日化粧すらしていない。
その日はいつも以上に蒸し暑く、外に散歩する気分にもなれなくて、朝イチで新聞を買いに行った以外はずっと家にいた。
やることといったら昼寝と英語の勉強くらいしかない。新聞を隅から隅まで読み、本棚にあった比較的簡単そうな本をペラペラ捲ったけど難解すぎて目が滑ってしょうがなかった。
お腹が減ったなと思って時計をちらっと見る。時刻は夜の8時、彼はまだ部屋から出てこない。結局、暇つぶしのようにタバコを吸って、根元ギリギリまで消費した。
「あ、お疲れ様。お仕事終わった?」
ようやく、彼が部屋から出てきて、私は直ぐにそう声をかけた。
「ああ……お前は何をしていた」
「新聞とか、読んだり。……英語の勉強になるかなって」
なんだか胸がざわざわする。夏休みに、宿題はやったのかと親に聞かれるような、自分の怠惰の非を責められている。
「……時間があるなら絵を描いたらどうだ」
ぐしゃりと短いタバコをアルミ皿に押し付けて、指が底に触れるほど強くすりつぶした。
「描かないよ、意味ないし」
「……意味とは?」
「仕事にならないなら必要ないってこと、どうせ売れるほどじゃない、遊ぶほどの余裕ないし」
「余裕?必要な物があるなら買えばいい、払うのは私だ」
「いや、働きもせず人のお金でそれは……」
「他にやることもないんだろう」
「……そうだよ、腐るほどあるよ時間なら!絵は描かない!」
ただの会話、ただの会話でしょこんなの、八つ当たりなんて絶対だめ、わかってるのに。
ねぇ君はなんでそんなことを繰り返すの?なんで絵のことばかり言うの?私の何も、知らないくせに。
「なぜ?」
彼はただ冷静に、ひとことそう言った。こっちに来てから約1ヶ月、ちっとも寄り添ってくれないその姿勢になんかの糸が切れた。
「描いても動かないからだよ!つまんない、マグルの書く絵になんかなんの興味もない、価値もない!」
「……それは魔法使いの基準であり、君がそうである必要はない」
「マグルに生きる価値なんかないって、学生の頃散々言ってたのあなたじゃん!」
絵が動くかどうかなんて、本当はそこまで気にしていないのに。この話題を選んだのは、この全ての苛立ちを彼のせいにしたかったから。
「君はいつも言ってた、いつも!」
「あれは別に――今の君にかけた言葉ではない」
彼はバツが悪そうにそう言って視線を逸らした。
「君にとっては13年前でも、私にとっては去年なんだよ!わかるかな、わかんないでしょ!」
ああ、お腹すいた。イライラする。
「なんでそんなに冷たくするの?私が君に何したの?」
「冷たくなどした覚えはない、君の被害者意識がそうさせるだけだろう」
「被害者……私が被害者じゃなかったらなんなの?誰が被害者?君?」
彼はまた、能面のように動かない。
そうだね、私は16歳の君にキスをして服を脱がせた。君は被害者で、私が加害者か。
「ふ、ふふ、あはは……めっちゃうける」
日本語でそう呟いて席を立ち、リビングのドアに手をかけた。
「……こんな時間にどこに行く」
「君に関係ない」
夜の9時前、8月20日の真夏のイギリスは蒸し暑い。
とりあえず人気のないところが怖かったので大通りにむけて歩き、途中から全力で走った。ここは別に栄えてるエリアじゃない、閉鎖した工場が立ち並ぶ汚い場所だけど、そんな中でも数件のパブやバーがちらほらと並ぶエリアがある。
少し走って落ち着いた私は、そのうちの1つのパブに入って、ポケットにいれたままのわずかなお金でビールを一杯頼んだ。
「君ひとり?ここ良い?」
「……どうぞ」
目の端の涙をぬぐいながら少し端に寄って、知らない男性にスペースを開ける。店にはそれなりの人が入っていて、立ち飲み用の背の高い丸テーブルに空きはなかった。
「何かあったの?大丈夫?僕で良ければ話を聞くよ」
男性はにこにこと優しい笑顔を向けて私の髪を撫で、そのまま耳にそっとかけた。その手の動きが数日前の彼と重なり、思わず男性の手を払ってまた耳を隠すように髪の毛を流した。
「面白い話は無いですよ」
「それでもいいさ、聞かせてくれ」
「……先月まで、それなりにちゃんと働いてたんです。一人で家賃も払って、それなりに。……全部なくなったのは、私のせいじゃないのに」
「君を見ればわかるよ、そこらの学のない女とは違うさ」
どこか的外れな慰めを口にしながら、男は私の指をなぞる。
「綺麗な手だ、何の仕事をしていたんだい?」
「……オフィス系」
「道理で美人だと思った」
「ふふ、なにそれ」
思わずクスリと笑えば、男も気を良くして笑う。
「もう一杯飲むかい?」
「うん」
ぼーっとその後姿を見ながら、もうどうにでもなればいいと思った。仕事も、家も、お金も、この世界も、自分のことも、君のことも。
男が見慣れないカクテルを2杯持ってやってくる。私の前には細長いグラスの青いカクテルが置かれていた。
「……私そっちがいいな」
そう言いながら、男の前にあるお酒に手を伸ばす。彼は優しそうに笑って、なんの抵抗もなくグラスを入れ替えた。
「女の子はみんなその綺麗なお酒が好きだからね、君も好きかなと思ったんだ」
「ん、そう」
口をつけたお酒は、お酒の匂いが強くて酔いが回りそうな味だった。そうやって喋りながら3杯ほど飲めば、なんとなく頭がふわふわして気分が高揚してくる。彼が私の腰に手を回して、くびれを揉むように掴んだ。
「腰細いね、こうやって引っ張ったら折れちゃいそうだ」
「あっ、ちょっと、お酒こぼれちゃう」
分かりやすく大胆に、男は私の体を抱き寄せて耳元で喋る。私は笑顔を引き攣らせてその気持ち悪い唇から逃げ、男を怒らせないようにそっと腕を押し返した。
別にヤってもいいと思ってた。家に居る彼は私にこういう事を求めないし、私がどこで何をしようがきっと気にしないだろうと。目の前のこの男は気前よくお酒を3杯おごってくれたし、お礼にセックスくらいしたっていいじゃない。家に帰ったって息が詰まるだけだもの、あんな風に一方的に怒って出てきて。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「本当?ここで待ってるよ」
男は私の手を取って舐めるようにキスをし、ぬめっとした舌の触感に鳥肌が立った。トイレを済ませて赤くなるまで手を洗って、数人の女の子グループに紛れるように外に出る。そのまま彼女たちの友人のような顔をしてパブを出ようとしたところで、男が私の腕をひっつかんだ。
男はさっきのテーブルで待つことなく、私をじっと見張っていたのだ。
「ひどいじゃないか、置いていくなんて」
「ちょっと人が多くて疲れたから、外の空気を吸いに来ただけだよ」
「なら僕のこともそう誘ってくれよ」
男の目はもう私の体しか見えていない。
「ほら行こう、人が居ないところがいいんだろう?」
「ねぇ、ちょっと……っ」
腕をひいてもびくともしない、血管が止まりそうなほど強くつかまれて、力では到底かなわないと悟った。人のいない暗い裏路地で、男は私を壁に押し付ける。
「逃げるつもりだったんだろう?素直にそう言えば、俺もまだ優しくしてやったのに」
「違うって言ってるじゃん……」
男が私の手首を抑えている。
「悪い子だ、人のお金でお酒だけ飲んで帰ろうなんて」
「放して」
唇を押し当てられて、頑なに歯を食いしばって顔を横に振る。暴れた拍子に私の額が男の鼻っ面を叩き、男は少し呻いて両手を離し顔を抑えた。
あ、ヤバい、と思った。さっきまで私をなびかせようと優しいふりをしていた男は、今はその女に暴力をふるわれたという事実に顔を真っ赤にしている。
「このクソ女が!」
その罵倒から逃げるように、男より一瞬早く走り出したが、無駄に長い髪の毛が男の指に届いてしまった。
「っ、……!」
「あばれんな、このっ!」
ああくそ、ほんとクソだ。
「なんで……」
誰もいなかったはずの路地裏の奥に、人が立っている。そこだけ音すら消えるような夜より暗い漆黒、わずかに鼻孔をくすぐるハーブのような薬剤の香り、ねっとりと顔に絡みつく黒髪の奥からじっとこちらを見据える目。
「何だよお前、何見てんだよ」
男が私の髪の毛を鷲掴みにしたまま、彼に食って掛かる。
「それを放してもらおう」
彼が、まるで私を物みたいに言った。
「はぁ?こいつの男かよ、お前が?わかってないな、逃げられたんだよお前、自分の女に!なに偉そうな口きいてんだよ、さっさと消えろ!」
「……だ、そうだが?お前は逃げたのか?」
彼がわめく男を一瞬見て、またすぐ私に視線を戻した。彼の声は酷く冷徹で、まるで蛇が這いずるように静かで、ぬくもりが無い。もし私がこの場で後ろの男に殺されたとしても、眉ひとつ動かさないのではと思った。
まるで彼は、もっと深い闇を知っているようで。
「……ううん、逃げてない」
圧倒的な何かを前に、私は逃げるのを諦めた。
「助けて、セブルス」
「一度だけだ」
僅かにローブが揺れる。
「は?なんだお前、何い……」
私を掴んでいた男は何かを言いかけたまま、急に力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。その重みが私に掛かって、支えきれずに一緒に地面に膝をつく。
「ひっ、し、死んだの……?」
「殺してはいない」
そう言いながら、セブルスが私の手を掴んで乱暴に立たせた。男の体がずるりと滑り落ちて、マネキンのように路地裏に転がる。本当に死んでいないか心配になって、顔を確認しようとしたら急にセブルスの方へ体が吸い込まれた。
付きそい姿くらましで路地裏から一瞬で彼の家に付き、私はよろめいて本棚に手をついた。
「そんな、急に……」
無理やりひっぱられて、掴まれていた腕が痛い。
「何をしていた、あそこで」
「何って別に、パブに行ってちょっと巻き込まれただけで、私は何も……」
「何も?自分は何もしていないのにああなったと?」
そう言われると思わず口を噤む。アレが目的とわかっていながら、お酒を奢られることを断らなかったのは確かに自分だ。でも、お酒を飲んだからってその先まで合意だなんて、そんなのも勝手ではないか。
そんなの……そんなの2025年では通じない。
「……そんなに孤独か」
彼の指はゆっくりとカサついた私の唇をなぞる。
「結局お前は、相手をしてくれるならば誰でもいいのか」
彼の手が肩に引っかかっていたパーカーを滑らせると、そのままだらりと垂らした腕を通り抜けて床に落ちる。
君に初めてその言葉を言われた、いつかのバレンタインを思い出す。
「そうだよ、誰でもいい……君でもいい」
タンクトップを着ている私の剥き出しの肩を、彼の手が包んで、骨の形を確認するように親指で関節を撫でている。
「ごめん……」
「……何が」
「私でごめん、セブルス」
君はさ、誰でもよくなくてさ、リリーっていう、ちゃんと素敵な幼なじみが居たのにね。
一瞬、彼女の眩しい笑顔を頭の中に浮かべたら、セブルスが私を突き飛ばすように壁に押付けた。
「お前はいつもそう……いつも身勝手だ!」
ここに来てはじめて彼が声を荒らげるところを見て、私はただ驚いて目を見開いた。
彼が杖を振ると、私の前に小さな小瓶が現れる。それは何の支えもなく私たちの間に浮いていた。
「飲め、知らない男の酒を飲んだんだ、同じだろう」
「……うん」
セブルスの言うことも最もだと思った。
セブルスが私に、死ぬようなものを飲ませることはないだろうと信頼していた。
セブルスに毒を飲まされるなら、それでもいいと思った。
セブルスに身を委ねたいと思った。
そんなことはどうでもよくて、ただもう死んでもいいと思った。
結局こういうのって、全部後付けだ。
その薬はどこかツンとした湿布みたいな匂いがして、それと公園から帰ってきたばかりの子供の汗のような匂いがした。唇をつけて、一気に飲み干す。
「っ、は……」
急に胸が苦しいほど締め付けられて、おふざけじゃなくて真剣に不整脈を疑った。
「セブルスっ……」
「どうした?」
彼が私に触れて顔を撫でて、今から愛のないセックスをしようとしている。頭でそれをわかっているはずだったのに、わからなくなってきた。
「あ、あの、近いっ……」
「それがどうした?」
とにかく顔が熱くて、緊張する。
「何でもない……」
彼に頭を撫でられて頬に手を添えられると、ぶわっとそこだけ熱をもった。首元が、掻きむしりたいほど痒かった。
代わりに私は彼のローブを両手で掴んで、泣きながら引っ張った。
「セブルス……セブルスは、私に会えて嬉しかった?会いたかった?私、私ね……ずっと謝りたかった。好きだったの、あなたのこと、昔、ホグワーツにいた時。頭おかしいって、わかってるよ。あの時、君はあんまり気にしなかったけど、私は28で、君は15だった!それに、君がリリーを好きなの、わかってた。それでもキスとか、その先もした。君のこと凄く、可愛いと思ってた。幼くて、若くて、綺麗で、壊れそうで、美しくて、たまらなく……たまらなく愛おしかった。君のために、私に出来ることをやったつもりだった……!」
英語を考える頭すら残ってないほど、何かに慌てながら私は必死で単語を繋げた。言えば言うほど、自分が間違えている気がして、片手で自分の髪の毛を強く掴んだ。
「好きって言って……私に会いたかったって言って、私のこと……今の私のこと……嫌わないで……っ」
脳裏に浮かぶのは16歳のサマンサ・クラウチの体。長い足と細いウェストに大きな胸、きめ細かい白い肌、染めてもないのに光に透ける綺麗な髪、長いまつ毛に人形のような青い瞳。
別に黒い髪と黒い目が劣ってるとは思ってない、自分の容姿が特別醜いとか、嫌悪感を持ってるわけじゃない。
ただあの時と何もかも違う自分の見た目が、毒虫にでも変身したかのようだった。君が冷たくするから、なおさら。
「っ、ごめ……泣くことなんか無いのに」
ぽろぽろと涙が零れてきて、恥ずかしくなって私は顔を隠した。さっきからなんだ、何が起きてるんだろう。とてもとても冷静になれなくて、彼に嫌われたくなくて、それでも彼が私を嫌う理由ばかりが頭に浮かんで、焦りと恐怖で胸がいっぱいになる。
「なまえ」
「……っ、うん」
なんで君は、13年も経って、私の名前を覚えていたんだろう。幽霊のような存在だった、私の。
「帰りたいか?元の世界に」
「帰りたくない、ここに居たい……。セブルスの隣にいたい、他にはどこにも行きたくない。帰らないと行けないの?また、前みたいになるの?君と会えなくなるの……?」
喋りながら不安が募って、必死で彼の服を掴んだ。
「……前回帰ったのは、君の意志ではないと?」
「ちがうよ、ちがう、そんなこと全く思ってない。残りたかった、あの先も君と一緒に過ごしたかった。わからないの、ほんとに突然、日本に居て……何も出来なかった、私にはどうしようもなかった」
「……なら今度は、一生ここで過ごせばいい。この先も、死ぬまで」
「本当?急に戻ったりしない?もう嫌なの、どこにも行きたくないの」
「私が嘘をつくことがあったか?」
「ほんとに?ほんと?セブルス……」
ああ、なんて私は幸せなんだろう。この地獄のようなイギリスで、私は今、世界一幸せな女だ。
「好き……大好き、セブルス。愛してる……今までも、これからもずっと」
その時セブルスがどんな顔をしていたかなんて、知らない。
彼の指がタンクトップを下から捲り上げて腹部を撫でる。その感覚にピクピクと震えながら安心する。これでいい。彼が私に触れたいと思ってくれたこと、それが何より嬉しい。
「んっ……はぁ」
彼が与えてくれる肌の温もりをひとつも逃さないように、自分から追いかけるように目を閉じる。
こうすればきっと彼にも伝わる。体が繋がったら、きっと心も繋がる。
服を脱いで、キスをせがんで、脚を開いて、ベッドに引っ張って。ただ君に気持ちよくなって貰えれば、それが自分の価値のような気がした。彼の足元に座り込んでズボンを下ろし、ソレを咥えて、求められていなくても喉の奥まで押し込んだ。
「ん゛っ、ぅ、ぇっ……っ……」
生理的に涙が浮かんで、込み上げる胃の内容物を無理やり飲み込む。歯が当たらないように奥歯を浮かせて、舌を伸ばして裏筋に添わせて、自分が苦しければ苦しいほど“正しい”と思った。彼が息を詰まらせて私の頭を掴み、強く押し込まれると、“愛してる”と言われている気分になった。
「っ、はぁっ……!」
「……はっ、随分、慣れてるな」
「セブルスに、喜んで欲しかったから……」
熱をもって上を向いているそれに頬ずりをして、袋の裏まで舌を伸ばした。根元が限界まで膨らんで、脈打っているのを感じる。ここで出すまいと、彼が堪えていると、なんだかそういう遊びのような気がしてくる。
彼が出したら私の勝ち、我慢したら彼の勝ち。
「気持ちいい……?」
「あぁ……悪くない」
「嬉しい……」
足の裏でもどこでも、喜んで舐める犬のようだった。
セブルスが私を突き飛ばすようにベッドに沈めて、向き合ったまま位置を合わせる。先端が中心に当たって、私は息を飲んだ。そのまま容赦なく、めりめりと音を立てるように中に入ってくる。
「ぅ、ぁ……」
キツい。端的に、サイズが合わないと思った。
前戯もこちらからが長かったから、あまり整っていなくて、ただ痛みに顔をしかめた。
「き、つ……っ」
足の指をぐっと縮めて、押し返すように彼の腕を掴んで体を強ばらせる。
「……っ、邪魔だ」
それでも彼が、私の手を払うように避けて奥まで一気に貫いた。
「いっ……んんっ……!」
いたい、おおきい、くるしい――
「ま゛っ、待って、まだ、ダメっ」
「うるさい」
「あっ、あっ、あっ!」
無理やり動いてるうちに、その痛みすら快楽に書き換えられていく。だんだんと内側が整って、ちゃんと気持ちよくなっていく。
「ぃっ、ちゃぅっ……!」
目の裏がちかちかして、腰の奥から脊髄に響く重い快感にどろりと脳みそが溶けた。
相手が出すまで我慢できないなんて、いつぶりだろう。大きさになれてくると、今度は気持ちいいところが苦しいほど強く押されていることに気付く。彼のペニスの形に合わせて自分の膣があったのかと思うほど、いい所に全部当たってる。
「あ゛っ、んっ、んっ、っ……!」
欲しい、欲しい、彼の全てが。それってもう、そういう事でしょう?それでいいでしょう?けっこんしよう、ふーふになろう。にんしんしたら、私のことあいしてくれるかもしれない。
「せぶ、る、すっ」
「っ、名前を呼ぶな……!」
「ぁっ、や、なんでっ、セブルス、セブルスっ……」
ダメって言わないで、嫌って言わないで、外に出さないで、中に出してっ……!
必死で足を絡みつけ彼の体を抱き寄せて、最後のその瞬間まで彼と繋がっていることだけをひたすらに求めた。
「出してっ、中に……!」
そんなことを口にするなんて、ほんとにどうかしてる――。
「っ、は……!」
「んっ、ぁっ、……っ」
彼が力を抜いて、私の上に寄りかかる。最後まで体を合わせたまま。私は嬉しくて、泣きながら笑った。
「ねぇ、愛してる……愛してるよ。死ぬまで、ずっと。ほんとだよ、ほんとに……。愛してるの、愛してる……」
セブルスは何も言わないまま、抱きしめるように私の髪を撫でた。たくさん愛してると言ったのに、彼は私に愛してると言ってくれなかった。
「なんで……なんでダメなの……」
なんだか凄く疲れて、泣きながら眠った。
どうやったら彼に愛してもらえるのだろうと、夢の中でも必死で考えた。
翌朝目が覚めて、自分が裸のまま一人で薄いシーツにくるまっていたことに気付いた。頭が重くて腰もだるいし、どれだけセックスしたらこうなるんだろう。いや、全部覚えてるけど。
相変わらず殺風景な自分の部屋でただ呼吸するだけの余白。あゝ、スマホがないとはげに素晴らしき。もぞもぞとサイドテーブルに手を伸ばして、iQOSと箱に残った最後の1本を取り出す。2本目はあの市役所から帰った時に吸った。
久しぶりのiQOSの煙はスカスカで、後味は甘く管理されたケミカル感が気持ち悪い。大切にとっておいたはずの最後の1本を、最後まで吸うことなく機械から外した。
ベッドから降りて、ルームシューズを履いてバスルームに行く。髪を濡らさないでシャワーを浴びて、太ももの間にこびり付いたベタつきをとった。なかなか温まらないやる気のない給湯器にも慣れたもので、プール程の冷たい水で体を洗う。タオルで水滴を拭くと、温まってない体がぶるりと震えた。
熱い紅茶でも飲もうと思ってリビングのドアを開けると、食卓に彼がいる。てっきりまた部屋に篭っていると思った私は驚いて時計を見た。時刻は10時で、やっぱり私はもう一度彼を見た。
「おはよ、珍しいね?」
「私の家で私がどこに居ようと勝手だろう。それからもう10時だ」
「うん、それもそう」
なんとなく彼の不機嫌にも耐性が出てくるのは、昨日散々泣きながらセックスをしたからだろうか。言っておきたいが、あんなのは酔っぱらいと同じ、ノーカンだ。
「昨日のあれ、惚れ薬?」
やかんに水道水を入れてコンロにかけ、ガスをひねってからマッチの火を近づける。まるで理科の実験のようだ。ガスコンロはせめて着火式にしてほしい。
「そうだ」
「ふーん、凄いね」
昨日、私が口にした言葉のどこからどこまでが自分の本心だったのか、自分でもあまり区別がつかない。ただそう、世界で1番好きな人とセックスをした、その感覚が体に残っている。誘ったのは私のようなものだし、スムーズに事を進めるために魔法薬を使ってくれたと思えばむしろ感謝するべきかもしれない。
それでも、それでも。私は自分の身勝手な後悔を、彼に伝えるつもりは無かった。泣き言も、弱音も、こんな風に彼にぶつけるつもりでは無かった。君を、感情のはけ口にするつもりは無かった。そういう、私に最後に残ったみそっかすみたいなプライドをあの魔法薬で踏みにじられた。
別に、いいけど。
ボコボコと沸騰する音が聞こえて火を止める。安いティーパックをひとつ放り込んで蓋をして、待ってる間にマグカップに手を伸ばした。
「……セブルスも飲む?」
なんとなく、名前を呼ぶのを躊躇した。
「ああ」
「ん」
家に2つだけあるマグカップ、それぞれに紅茶を並々注いだ。黒い方を彼の前に置き、知らない女の人の顔が描かれている方を手元に置いた。
「いつも思ってたんだけど、これ誰?」
「女王だ」
「イギリスの女王?いつの?」
「今のエリザベス2世だ」
「エリザベス……エリザベス女王……ああ、この人が?なんでそんなマグカップがあるの?あ、いや別に良いんだけど、あんまり君のイメージじゃなかったから……」
いつでも明るいパステルカラーに全身を包み、上品に手を振るエリザベス女王。私の思う、イギリスの象徴だ。ある意味、マグルを象徴する人とも言えるのではないか。
私の記憶の中ではもうよぼよぼのおばあちゃんだけど、このマグカップの女性はまだ若い、20代くらいだろうか。
「どこの家にもある、戴冠式の時に安く売られるからな」
「じゃぁこれ、エリザベス女王の戴冠式の記念品ってこと?」
「そうだな」
「ふーん、歴史感じる」
エリザベス女王といえば王子たちの不祥事に振り回されている苦労人というイメージなのだが、当然若い頃もあったわけで。彼女が主役の時代もあったわけである。
「かっこいいよね、エリザベス女王。私好きだよ」
「知っているのか」
セブルスが手元の雑誌から視線を外して私を見た。私が彼女を知っているのがそんなに意外だったのだろうか。
「うん、日本でも有名だよ。子供のね、ヘンリー?がなんか色々やらかすんだよ。アメリカの女優と結婚して家を出るとかね」
「ヘンリーは息子ではない、孫だ。3年前に産まれている」
「えっ、そうなの?息子だと思ってた、っていうか3年前?まだ赤ちゃんじゃん、あ、そう……」
なんか赤ちゃんの悪口言ったって、凄い罪悪感。おまけに王族。
「……やっぱり今のなし」
「なんだそれは」
彼が私の言葉を鼻で笑いながら紅茶に手を伸ばす。まだ熱いそれに、火傷をしないように慎重に口をつける。なんだが、その仕草がとても愛おしくて。
「あのさ、今更なんだけど……」
なかなか続きを言わない私に、セブルスは「なんだ」と声をかけた。
「セブルスって、呼んでもいい?」
両手の中のエリザベス女王に向けて、そう聞いた。
「イギリスならそれが普通だ」
「うん」
それはそう、知ってるけど。
彼が軽く杖を降ると、テーブルの中央に見たことのない小瓶が現れた。
「飲め」
これはなに?と聞いていいのか分からなかった。言われるがままに手を伸ばし、少し匂いを嗅ぐ。
「――――だ」
「con……?」
聞きなれない単語に眉を寄せる。
「……妊娠を妨げる」
「ああ」
避妊薬か。
「ありがと」
そういえば昨日散々中出しを強請ったことを思い出して、少し気分が悪くなった。あれは流石に、良くないというか。まぁ、それでもこうやってアフターピルをくれるなら別にいいか。
小瓶の中身を一気に飲み込み、その青臭い後味に顔を顰めた。
「ぅえ、雑草みたいな味」
「文句を言うな」
人の中に勝手に出しといてひどくない?半分は君の責任でしょう。
「次があるなら飲みやすい方がいい」
顔を見ないで空の薬瓶を眺めた。彼は返事をしなかった。
しばらく無言のまま紅茶をのんで、私は朝食の代わりにビスケットを齧る。彼はまた雑誌に目を通し、読み終わったそれをバサッとテーブルに置いた。
「出かける、準備をしろ」
「どこに?」
ビスケットの欠片を口に入れ、紅茶で流し込む。
「ダイアゴン横丁だ」
「ん、わかった」
ルームスリッパからちょっと窮屈なローファーに履き替えて、魔女のような黒いドレスに身を包んだ。初日に彼が買ってくれたこれ、生地もよさそうに見えるがいくらしたのだろう。
向かった先は魔法動物のペットショップで、その独特の世界に思わず天井までしっかりと見渡した。
「すごい……」
一見すると普通のペットショップだけど違う、日本のように白い壁一面に部屋を区切られて展示されているような売り方ではない。そこら辺に放し飼いにされ、蛇はフクロウと命懸けのじゃれあいをしていた。
「前を見て歩け、見苦しい」
「もう……それくらいいいでしょ」
相変わらずだなぁと思いつつ、言われた通り前を向いた。
「フクロウを1羽、世話に手間がかからなければ何でもいい」
「おや、スネイプ教授、お久しぶりです。お連れ様とは珍しいですね」
店員が私にもニッコリと微笑む。私も笑顔を返して、こんにちはと声をかけた。店員はすぐにフクロウを次々呼び寄せてその説明をした。
「こちらの――――フクロウなどいかがでしょう、非常に賢く、指示を一度で理解します。主人の――――静かで、無駄に鳴くこともありません。こちらもおすすめです、カラフトフクロウ。少々大柄ですが、この種は――――多少の薬品の匂いも気にしません。週に一度の給餌と手入れだけで、――――――役目を果たしますよ。ああ、手間のかからないという――――――もおすすめでしょう、こちらの―――― はすでに訓練は完璧、手紙を届けた後は――――戻ってきます。あなたが――――一切ございません」
店員の英語は早口で、文章がどこで途切れているのかもわからない。まぁどうせセブルスが選ぶからいいやと思ってデスクでくつろぐ黒猫の頭を撫でた。
「聞いているのか」
セブルスが私にそう言ったので、え?と間抜けな声を出した。ごめん聞いてなかったとは言いづらい。彼は無言のまま呆れた視線を送っている。
「私は別に……フクロウってシロフクロウしかわからない」
セブルスは私の言葉に顔を顰めて、そんなもの買うやつは目立ちたがり屋の間抜けだけだと文句を言った。
「セブルスが選んでよ」
私がそう言って、少し迷った様子のセブルスに、また店員が声をかけた。
「――――フクロウなどいかがでしょうか?シロフクロウのような派手な白さはございませんが、非常に端正な顔立ちでしょう。夜の闇に――――――を持っております。――は、その忍耐強さと持久力の高さです。シロフクロウは――――鳴きますが、この種は主人の許しがあるまで、――――――ます。世話に手間がかからない――――、非常に――が高く、主人以外の命には従わない――――持ちます」
相変わらずほぼ聞き取れないけど褒めてることはニュアンスでわかる。セブルスがちらっと私を見たので、「じゃぁこの子にしよう」と言えば店員は満足そうに頷いた。
持ち出し用の鳥かごの檻の隙間からそっと指を入れれば、優しく甘噛みしてくれる。セブルスの会計を待つ間、その丸い目をじっと見ていた。
「行くぞ」
騒がしい生き物たちの鳴き声に気を取られていた。うん、と呟きながら鳥かごを手にその後ろをついていく。
「……なんでフクロウを買いに?」
セブルスがさっと杖を振れば大きな鳥かごはふわふわと頭の後ろに浮いた。それをチラチラ見ながら彼に声をかける。
「私は間もなく学校に戻る。連絡手段があった方がいいだろう」
「私、セブルスが居ないときもあの家に居て良いの?」
セブルスが不機嫌そうに眉を寄せて私をちらりと一瞥した。
「君にどこか行く当てがあるなら行けばいい」
「もう、違うよ。家主が居ないのに家に居させてくれてありがとうって意味だよ」
まだどこか不機嫌そんなセブルスに、何だかもう笑いながら言い直した。
「セブルスの傍に居たいよ」
「媚びるな、気持ち悪い」
「ねーもー、じゃあなんなら気に入るの?」
その後セブルスは薬草屋に寄って買い物をした。店には足がたくさん生えた虫もいたようで、耐えられなかったので店の外でフクロウを眺めながら待った。
そういえば君にも名前をつけないといけない、覚えやすくてわかりやすいのがいいね。
「君は今日からMr.OWLだよ」
某青リンゴさんみたいな。だから呼び方はミスターだね。ミスターは鳴くこともなく鳥かごの中で首を回しただけだった。
「何を1人で喋ってる」
「名前決めてたんだよ、この子の」
店から出てきたセブルスが抱えてる袋をちょっと避けながら返事をする。どこからかカサカサと音が聞こえる気がして鳥肌が立った。
「で?」
「Mr.OWL」
「……変な名前だな」
いい名前じゃない?フクロウ君。もう居なくなっちゃった、可愛いスネイプ君の代わりだよ。頭のおかしい箱庭をここでひっそり続けるのさ。
「30年後の日本ではね、そんな名前の歌手が流行ってるんだよ」
セブルスは興味無さそうにちらっと一瞥してから、また杖でミスターの鳥かごを浮かせた。
「……ね、それ何買ったの?」
「知りたいなら教えてやる」
「ああやっぱいい、大丈夫、ほんといい、近づけないで」
真剣にその紙袋を避ければセブルスは意地悪な顔でふんと鼻で笑った。数ブロック歩いて人気の無い道の端に寄って、セブルスが私の腰を抱き寄せる。大人しくセブルスに軽く腕を回して、付き添い姿くらましで家に帰った。
今度の“移動”ではセブルスとフクロウと、セブルスの手の中の謎の袋の中身とも一つになった。もう何も思うまい。
それから数日、また今までのようにやることもなくだらっと日々を過ごした。
セブルスとの距離は以前より落ち着いたが、私が身分証の類を持たないままここに居ることは変わりないわけで。正攻法で居住資格を持てないなら、違法に走るしかない。マイナンバーカードの偽造とか、そういう類のニュース、東京ではよくあったなぁ。いつもそう、外国人が犯罪者。
新聞を広げながら、鉛筆を手のひらでくるくると回す。
「……ねぇセブルス」
「なんだ」
以前よりは少し部屋から出てくるようになって、本棚を眺めている彼に声をかける。
「私の戸籍、どうにかなんないかなぁ」
「そんなものどうにでもなるだろう」
「え、ほんと?」
「役所の人間に錯乱の呪文でもかければいい、必要なのは――」
「もう、そういうのじゃないってば」
私はセブルスの言葉を遮って思わず笑った。セブルスがあまりにも当然のようにそれを提案するから、相変わらずマグルの法律なんて微塵も守るつもりがないんだなと。
「あなたにとってはどうでも良くてもね、私はあなたを犯罪者にするつもりはないの。ほんとにやらなきゃいけないなら自分でやるよ」
そういったら、彼は黙ってしまった。
「セブルスのおかげで家も食べるものも困ってないから、私ももう少し余裕もって考えることにするよ。……いいかな?しばらくここに居ても」
「……構わない」
お目当ての本を見つけたのだろう、数冊を杖で浮かせて、それをそのまま食卓に置いた。新聞のクロスワードで遊んでいた私は、鉛筆を置いて後ろを振り返る。
「……する?」
なんとなく、彼が物足りなさそうに指先を伸ばしていたからそう聞いた。
「まだやることが残っている」
「大変だね」
彼が私の頭を撫でて、そのまま顎の下をなぞる。私は猫のように目を細めて、その愛撫を堪能した。いっそ自分は彼が飼ってる犬か猫だと思い込めば、気が楽になる。
「セブルス、いつ学校戻るの?」
「明後日だ」
「そう……また夏季休暇まで、ここには戻らないの?」
彼は魔法薬学の教授だけでなく、スリザリンの寮監もやっているときいた。確かスラグホーン先生は、祝日も基本的に学校にいたはずだ。1人でも寮生が居るなら、寮監が学校を空けるわけにはいかないだろう。
「その予定だ。……留守の間に愚かな真似をするなよ」
「やだなぁ、いい子ちゃんして待ってるよ。飼い主のこと」
セブルスの指が肩をなぞって、ブラジャーとタンクトップの紐を触る。
「それからもう少しまともな服を着ろ」
「外に出る時は気をつけてるよ」
「いちいち言い返すな、家の中でもだ」
そう言って、セブルスはまたさっさと本を持って部屋に戻ってしまった。てっきりそういうことをすると思っていたから、ちょっと拍子抜けだ。
「Dから始まる強力な睡眠薬ってなにって聞こうと思ったのに……」
クロスワードは半分も埋まらなくてつまらなかった。
まず、「今の私には身分証の類がひとつもなくて、どうにもならないから役所に相談しに行こうと思う」と同居人の彼に伝えました。
彼は冷ややかな目線のまま私の相談を鼻で笑い、「まぁ自分で見に行った方が早いだろう」と言いました。意地悪だなぁと思いましたが、これはその通りでした。
彼に教えてもらった区役所に近づくにつれ、道端にあふれかえる浮浪者の数に驚きました。彼の家がある地区も十分治安が悪く、空き家だか何だかわからない場所に人が住み着いている光景はよく見るのですが、彼らは大抵物陰に隠れ、かつ点在しているのでそこまで目につきませんでした。
区役所近くの浮浪者たちはむしろその惨めさを隠すことなく、ガリガリの体や失った手足を晒すように前に出して物乞いをしていました。特に死んだような目をした5,6歳の子供には思わず顔を逸らしました。手元の箱にはお金ではなくビール瓶の王冠のようなものと小石が入っていました。
区役所の中も、おそらく失業者とみられるような人であふれかえり空気は殺伐としていました。
「仕事も家も無いんです、生活のサポートはしてもらえますか」
忙しそうな係の女の人の様子を伺って、ようやくそう聞くと、彼女は私をじろりと見て眉をひそめながら持っていたペンで雑に奥を指しました。
「住宅ね、あっちよ」
こんなことならちゃんと社会勉強しておけばよかったと思いましたが、この1990年にはリーマンショックでもあったんでしょうか?それとも世界恐慌?なんにも思い出せません。
「ちょっとあんた、見ない顔ねえ。こんな肥溜めみたいな場所に、お嬢ちゃんが何の用? 観光地と間違えたんじゃないの?」
そう話しかけてきたのは、50か60くらいのおばさんでした。歯を真っ黄色にしながら煙草を吸って、なぞの派手色のシャツを着ています。腕にはジャラジャラと安物の装飾品をつけて、背中を丸めながらすり足で歩いていました。
「あー、ちょっと仕事を探して」
「なにーあんた、ここ家のとこよ、仕事はあっち」
「いや、家も無いんです」
「あら本当?でも綺麗なべべ着てるじゃない」
正直、何を言ってるのか知らない単語が多く、なまりもひどいのでほとんど聞き取れませんでしたが、身振り手振りが大きいのでまぁ言いたいことはわかりました。彼女は今、私のワンピースの一部をむんずと掴んでぐいぐい引っ張り、生地感を確認しています。白昼堂々、役所の中で追い剥ぎにあっている気分でした。
「知り合いの家に転がり込んでて……」
「あーはん、男ね?私も10年前までそうだった」
ひじをぐりぐりと突きだしながら、たばこの先から崩れ落ちる灰も気にせずにおばさんは話し続けました。その手の痛覚はもう死んでるんでしょうか?
「ほんと、サッチャーになってからイギリスは最悪よ。どれだけの死人を出せば気が済むんだか。なんにも見えてない、頭が良いだけの間抜けよ」
「サッチャー……マーガレット・サッチャー、鉄の女……?」
でた、サッチャー……!いや、何した人か全く知りませんが、知ってる名前が出てきて驚きました。なんとなく有能な女性政治家くらいのイメージだったのですが、違うんでしょうか?自分の学が浅すぎます。
ふと窓口が騒がしくなり、私は目線をそちらへ動かしました。体の大きな黒人らしき男性が、職員と見られる白人男性二人に羽交い締めにされています。
「俺は!イギリス人だ!!移民じゃない!イギリス人だ!!この国で育ったんだ!!!」
みんなが冷ややかな目でそれを見て、中には面白そうに笑みを浮かべている者までいました。
「不法移民よ、どうせ。みればわかるわ、パキスタン系よ。生活保護目当て。わかる?せ、い、か、つ、ほ、ご!迷惑なのよねほんと、人の国に寄生するなんて恥ずかしいと思わない?ああいう移民のせいで、私たちの仕事も、家すらなくなるのよ。治安も悪くなるし。サッチャーは仕事は出来ないけどああいうのを締め出すのは上手くやったわ。それだけはあたし認めてんのよ、あの女のこと」
「あ、はは……」
きっともうこのおばさんは、自分がアジア系の女と話してることすら頭にないのでしょう。
「あの人、どこに行くのかな……」
「決まってるじゃない。刑務所よ、刑務所」
それが本当かどうかすら、私にはわかりませんでした。
「あの、わたし今日、国民保険番号を忘れちゃったんだよね、何とかなると思う?」
気を取り直して、私はおばさんにそう聞きました。国民保険番号とは、郵便局のカウンターに置いてあった『失業者のためのガイド』に書いてあったもので、国民保険番号と公共料金の請求書、出生証明書、免許証またはパスポートのいずれかひとつを持って来るようにと書かれていました。何一つ持ってません。
「国民保険番号を忘れた?あんた……あんたももしかして移民の口なんじゃないのかい?え?それで忘れたとか偽造したとかするんだろ、ええ?どうなんだい」
「いやいや、そんなことする訳ないじゃないですか……」
私は逃げるように席を立ち、なるべくおばさんの死角を歩きながらそっと役所を出ました。おばさんは鼻息を荒くしながら、不自由そうな首を一生懸命回して私を睨んでました。愛する母国から侵入者を追い出すのだと、そういう意気込みを感じました。
全くこういう可能性を考えなかったわけではありません。今の私は客観的にみたら国籍不明の不法移民でしかなく、例えばここが2025年のアメリカだったとしたら、ニュースでよく聞くICE移民取締局に引っ張られるだろうとか。
でも他に頼るものもなく、ヨーロッパは比較的移民に寛容なイメージもあったので、とりあえず話だけでもなんて思ったのですが。
帰りも当然、あの浮浪者だらけの場所を歩かないといけません。よく見ると、確かにアジア系の色の濃い人が多いような気がしました。
小さな女の子が私の服を引っ張って、両手を器のようにして前に出しました。このポケットには小銭が入っていますが、これは私のお金ですらありません。彼が、交通費にと渡してくれたお金です。
私は、何も言えませんでした。何もしませんでした。
おしまい。
鬱々と部屋に閉じこもり、ベッドの上で膝を抱える。この先どうにも生きていける気がしないし、ただ通過するだけの時間をどう過ごしたらいいのだろう。
なんだかそう、甘かった。未来を生きる私は甘かった。何が正しくて何が正しくないのか、わからなくなる。
嘘をつかないこと、物を盗らないこと、日々を誠実に生きること、されて嫌なことは人にしないこと。全部、子供の頃に習うこと。
今日見た人の中で、どこかに不誠実な人は居ただろうか。己のことだけを考え、耐え難く愚かな人間は居ただろうか。
話しかけてきたおばさんも、役所の人間も、羽交い締めにされていた男性も、道端にいた浮浪者も、みんなただ日々を必死に過ごしていたのに、私の足元に居た子供はやせ細り落窪んだ目をしていた。
話しかけてきたおばさんが移民を憎むのも、それなりの理由があるんだろう。床に押し倒された男性は、もしかしたらイギリスという国を恨むかもしれない。誰にも小銭を貰えなかった子供は、大人たちを呪うだろう。
「はぁ……」
生きるってのはさ、と昔、私は偉そうに彼に言った。美味しいご飯を食べて幸せだとか、朝すっきり目が覚めて嬉しいとか、好きな子と目が合ってときめくとかだと。
最後に私の服を引っ張った、あの女の子は、きっとそのひとつも知らないだろう。ならあの子は死んでいるのか?それを知らないのは、あの子のせいではないのに。
“せい”ってなに?自己責任論ってこと?どっからどこまで自己責任?
私がここにいるのは私のせいではないと思うけど、それならここで仕事を見つけられないのは私のせい?私がここで何の役にもたたないのは私のせい?彼を不機嫌にしてしまうのは私のせい?
壁の隅にいた、ゴキブリを見つめた。
「君が人に嫌われるのは、君のせい?」
もうたかだか虫一匹に叫ぶ気にもなれなかった。それでも愛でるような気分にはなれなかった、虫は気持ち悪い。
「どうだった」
その日の夕飯を食べながら、彼は私にそう聞いた。
「行ったのだろう、区役所に。少しでもまともな人間はいたか?」
「……いや、いなかったよ」
君がマグルを憎むのは、いったい誰のせいなんだろうね。父親かな?もっと複雑なものかもしれない。それを環境というひとことで片付けるのは、物事に蓋をするようなものだ。
「改めて、この家にもこの食事にも感謝したよ」
「……わかればいい」
君はそう言いながら少しだけ満足そうに見えた。
せめてこの家で何か出来ることをしたい、そう言おうと思ったけど、そんなことひとつも浮かばなかった。例え簡単な料理をするにしても、私がやればガスや電気、水道代がかかる。自己満足のために、余計なお金をかけてしまう。
「でも毎日、何もやることがなくて……」
だからどうしたと言われるだけだと思った。
「絵でも描けばいいではないか」
「……絵?」
「好きだろう」
その時、何かがカチンとなった。ひどく見下されたような気がした。
「いや、描かないよ、こんな状況で。道具もないし」
「それくらい払ってやる」
「いや、そういうのじゃないから」
私の、絵を、バカにするなと。ぐっと噛み締めた奥歯の裏で、感情も捻り潰した。
「今はちょっと、遊ぶ気にはなれないよ」
「……好きにしろ」
何を食べてるのかもわからないくらい気持ちが乱れていたけど、それを悟られることすら負けだと思った。
「あのさ、少しお金借りていい?……下着とか、生理用品も買っておきたいの。そういう物はマグルの店で、1人で買いたい」
「……いくらか両替しておく」
「ごめんね、ありがとう」
自分を奮い立たせて、君の言葉に泣いてやるかと睨みつけて、こんな世界に屈してやるかと意気込んで。私は何と戦っているのだろう、酷く虚しい。
翌日、彼が私に100ポンドくれた。昨日の浮浪者たちにとっては、きっと人を殺してでも欲しい額なのかもしれない。
彼はそれを、ちゃんと全て20ポンド以下の細かい紙幣でくれた。ヨーロッパでは高額紙幣は好まれない、旅行の知識としては知っている。魔法使いの彼も、それを知っている。
「ごめんね、ありがとう」
しょんぽりとうつむくようにそう言った。
「……謝罪の必要は無い」
その言葉に驚いて少し上を向いた、珍しいなと思った。彼は垂れ下がった私の髪の毛をそっと耳にかけようとしたが、私はさりげなくそれを拒んだ。
彼はそれ以上手を伸ばさずに、ほんのわずか自分の指の先を見ていた。
「……ありがとう」
逃げるように外に出て、買い物をした。なるべく安いものを選んで、それでも結構な量になり、最後に少しだけ迷ってノートと鉛筆を買った。家についてそれらをクローゼットに片付け、無言のままベッドに沈み込んだ。右手には、タバコとライターを持っていた。これを買うのに、身分証は要らなかった。
タバコに火をつけて一口吸って、灰皿代わりのアルミのやすそうな小皿にそれを置き、ポケットにしまった小さな紙を取り出した。
『住み込みOK』『現金・週払い』『未経験OK』大きな文字でそれが書かれ、仕事内容は飲食店の皿洗いと小さく書かれている。どう考えても怪しい、絶対関わらない方がいいと分かるけど、私はこの求人カードを無視できなかった。売られるのは労働力?臓器?春?
私はこちらにきて、毎日化粧すらしていない。
その日はいつも以上に蒸し暑く、外に散歩する気分にもなれなくて、朝イチで新聞を買いに行った以外はずっと家にいた。
やることといったら昼寝と英語の勉強くらいしかない。新聞を隅から隅まで読み、本棚にあった比較的簡単そうな本をペラペラ捲ったけど難解すぎて目が滑ってしょうがなかった。
お腹が減ったなと思って時計をちらっと見る。時刻は夜の8時、彼はまだ部屋から出てこない。結局、暇つぶしのようにタバコを吸って、根元ギリギリまで消費した。
「あ、お疲れ様。お仕事終わった?」
ようやく、彼が部屋から出てきて、私は直ぐにそう声をかけた。
「ああ……お前は何をしていた」
「新聞とか、読んだり。……英語の勉強になるかなって」
なんだか胸がざわざわする。夏休みに、宿題はやったのかと親に聞かれるような、自分の怠惰の非を責められている。
「……時間があるなら絵を描いたらどうだ」
ぐしゃりと短いタバコをアルミ皿に押し付けて、指が底に触れるほど強くすりつぶした。
「描かないよ、意味ないし」
「……意味とは?」
「仕事にならないなら必要ないってこと、どうせ売れるほどじゃない、遊ぶほどの余裕ないし」
「余裕?必要な物があるなら買えばいい、払うのは私だ」
「いや、働きもせず人のお金でそれは……」
「他にやることもないんだろう」
「……そうだよ、腐るほどあるよ時間なら!絵は描かない!」
ただの会話、ただの会話でしょこんなの、八つ当たりなんて絶対だめ、わかってるのに。
ねぇ君はなんでそんなことを繰り返すの?なんで絵のことばかり言うの?私の何も、知らないくせに。
「なぜ?」
彼はただ冷静に、ひとことそう言った。こっちに来てから約1ヶ月、ちっとも寄り添ってくれないその姿勢になんかの糸が切れた。
「描いても動かないからだよ!つまんない、マグルの書く絵になんかなんの興味もない、価値もない!」
「……それは魔法使いの基準であり、君がそうである必要はない」
「マグルに生きる価値なんかないって、学生の頃散々言ってたのあなたじゃん!」
絵が動くかどうかなんて、本当はそこまで気にしていないのに。この話題を選んだのは、この全ての苛立ちを彼のせいにしたかったから。
「君はいつも言ってた、いつも!」
「あれは別に――今の君にかけた言葉ではない」
彼はバツが悪そうにそう言って視線を逸らした。
「君にとっては13年前でも、私にとっては去年なんだよ!わかるかな、わかんないでしょ!」
ああ、お腹すいた。イライラする。
「なんでそんなに冷たくするの?私が君に何したの?」
「冷たくなどした覚えはない、君の被害者意識がそうさせるだけだろう」
「被害者……私が被害者じゃなかったらなんなの?誰が被害者?君?」
彼はまた、能面のように動かない。
そうだね、私は16歳の君にキスをして服を脱がせた。君は被害者で、私が加害者か。
「ふ、ふふ、あはは……めっちゃうける」
日本語でそう呟いて席を立ち、リビングのドアに手をかけた。
「……こんな時間にどこに行く」
「君に関係ない」
夜の9時前、8月20日の真夏のイギリスは蒸し暑い。
とりあえず人気のないところが怖かったので大通りにむけて歩き、途中から全力で走った。ここは別に栄えてるエリアじゃない、閉鎖した工場が立ち並ぶ汚い場所だけど、そんな中でも数件のパブやバーがちらほらと並ぶエリアがある。
少し走って落ち着いた私は、そのうちの1つのパブに入って、ポケットにいれたままのわずかなお金でビールを一杯頼んだ。
「君ひとり?ここ良い?」
「……どうぞ」
目の端の涙をぬぐいながら少し端に寄って、知らない男性にスペースを開ける。店にはそれなりの人が入っていて、立ち飲み用の背の高い丸テーブルに空きはなかった。
「何かあったの?大丈夫?僕で良ければ話を聞くよ」
男性はにこにこと優しい笑顔を向けて私の髪を撫で、そのまま耳にそっとかけた。その手の動きが数日前の彼と重なり、思わず男性の手を払ってまた耳を隠すように髪の毛を流した。
「面白い話は無いですよ」
「それでもいいさ、聞かせてくれ」
「……先月まで、それなりにちゃんと働いてたんです。一人で家賃も払って、それなりに。……全部なくなったのは、私のせいじゃないのに」
「君を見ればわかるよ、そこらの学のない女とは違うさ」
どこか的外れな慰めを口にしながら、男は私の指をなぞる。
「綺麗な手だ、何の仕事をしていたんだい?」
「……オフィス系」
「道理で美人だと思った」
「ふふ、なにそれ」
思わずクスリと笑えば、男も気を良くして笑う。
「もう一杯飲むかい?」
「うん」
ぼーっとその後姿を見ながら、もうどうにでもなればいいと思った。仕事も、家も、お金も、この世界も、自分のことも、君のことも。
男が見慣れないカクテルを2杯持ってやってくる。私の前には細長いグラスの青いカクテルが置かれていた。
「……私そっちがいいな」
そう言いながら、男の前にあるお酒に手を伸ばす。彼は優しそうに笑って、なんの抵抗もなくグラスを入れ替えた。
「女の子はみんなその綺麗なお酒が好きだからね、君も好きかなと思ったんだ」
「ん、そう」
口をつけたお酒は、お酒の匂いが強くて酔いが回りそうな味だった。そうやって喋りながら3杯ほど飲めば、なんとなく頭がふわふわして気分が高揚してくる。彼が私の腰に手を回して、くびれを揉むように掴んだ。
「腰細いね、こうやって引っ張ったら折れちゃいそうだ」
「あっ、ちょっと、お酒こぼれちゃう」
分かりやすく大胆に、男は私の体を抱き寄せて耳元で喋る。私は笑顔を引き攣らせてその気持ち悪い唇から逃げ、男を怒らせないようにそっと腕を押し返した。
別にヤってもいいと思ってた。家に居る彼は私にこういう事を求めないし、私がどこで何をしようがきっと気にしないだろうと。目の前のこの男は気前よくお酒を3杯おごってくれたし、お礼にセックスくらいしたっていいじゃない。家に帰ったって息が詰まるだけだもの、あんな風に一方的に怒って出てきて。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「本当?ここで待ってるよ」
男は私の手を取って舐めるようにキスをし、ぬめっとした舌の触感に鳥肌が立った。トイレを済ませて赤くなるまで手を洗って、数人の女の子グループに紛れるように外に出る。そのまま彼女たちの友人のような顔をしてパブを出ようとしたところで、男が私の腕をひっつかんだ。
男はさっきのテーブルで待つことなく、私をじっと見張っていたのだ。
「ひどいじゃないか、置いていくなんて」
「ちょっと人が多くて疲れたから、外の空気を吸いに来ただけだよ」
「なら僕のこともそう誘ってくれよ」
男の目はもう私の体しか見えていない。
「ほら行こう、人が居ないところがいいんだろう?」
「ねぇ、ちょっと……っ」
腕をひいてもびくともしない、血管が止まりそうなほど強くつかまれて、力では到底かなわないと悟った。人のいない暗い裏路地で、男は私を壁に押し付ける。
「逃げるつもりだったんだろう?素直にそう言えば、俺もまだ優しくしてやったのに」
「違うって言ってるじゃん……」
男が私の手首を抑えている。
「悪い子だ、人のお金でお酒だけ飲んで帰ろうなんて」
「放して」
唇を押し当てられて、頑なに歯を食いしばって顔を横に振る。暴れた拍子に私の額が男の鼻っ面を叩き、男は少し呻いて両手を離し顔を抑えた。
あ、ヤバい、と思った。さっきまで私をなびかせようと優しいふりをしていた男は、今はその女に暴力をふるわれたという事実に顔を真っ赤にしている。
「このクソ女が!」
その罵倒から逃げるように、男より一瞬早く走り出したが、無駄に長い髪の毛が男の指に届いてしまった。
「っ、……!」
「あばれんな、このっ!」
ああくそ、ほんとクソだ。
「なんで……」
誰もいなかったはずの路地裏の奥に、人が立っている。そこだけ音すら消えるような夜より暗い漆黒、わずかに鼻孔をくすぐるハーブのような薬剤の香り、ねっとりと顔に絡みつく黒髪の奥からじっとこちらを見据える目。
「何だよお前、何見てんだよ」
男が私の髪の毛を鷲掴みにしたまま、彼に食って掛かる。
「それを放してもらおう」
彼が、まるで私を物みたいに言った。
「はぁ?こいつの男かよ、お前が?わかってないな、逃げられたんだよお前、自分の女に!なに偉そうな口きいてんだよ、さっさと消えろ!」
「……だ、そうだが?お前は逃げたのか?」
彼がわめく男を一瞬見て、またすぐ私に視線を戻した。彼の声は酷く冷徹で、まるで蛇が這いずるように静かで、ぬくもりが無い。もし私がこの場で後ろの男に殺されたとしても、眉ひとつ動かさないのではと思った。
まるで彼は、もっと深い闇を知っているようで。
「……ううん、逃げてない」
圧倒的な何かを前に、私は逃げるのを諦めた。
「助けて、セブルス」
「一度だけだ」
僅かにローブが揺れる。
「は?なんだお前、何い……」
私を掴んでいた男は何かを言いかけたまま、急に力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。その重みが私に掛かって、支えきれずに一緒に地面に膝をつく。
「ひっ、し、死んだの……?」
「殺してはいない」
そう言いながら、セブルスが私の手を掴んで乱暴に立たせた。男の体がずるりと滑り落ちて、マネキンのように路地裏に転がる。本当に死んでいないか心配になって、顔を確認しようとしたら急にセブルスの方へ体が吸い込まれた。
付きそい姿くらましで路地裏から一瞬で彼の家に付き、私はよろめいて本棚に手をついた。
「そんな、急に……」
無理やりひっぱられて、掴まれていた腕が痛い。
「何をしていた、あそこで」
「何って別に、パブに行ってちょっと巻き込まれただけで、私は何も……」
「何も?自分は何もしていないのにああなったと?」
そう言われると思わず口を噤む。アレが目的とわかっていながら、お酒を奢られることを断らなかったのは確かに自分だ。でも、お酒を飲んだからってその先まで合意だなんて、そんなのも勝手ではないか。
そんなの……そんなの2025年では通じない。
「……そんなに孤独か」
彼の指はゆっくりとカサついた私の唇をなぞる。
「結局お前は、相手をしてくれるならば誰でもいいのか」
彼の手が肩に引っかかっていたパーカーを滑らせると、そのままだらりと垂らした腕を通り抜けて床に落ちる。
君に初めてその言葉を言われた、いつかのバレンタインを思い出す。
「そうだよ、誰でもいい……君でもいい」
タンクトップを着ている私の剥き出しの肩を、彼の手が包んで、骨の形を確認するように親指で関節を撫でている。
「ごめん……」
「……何が」
「私でごめん、セブルス」
君はさ、誰でもよくなくてさ、リリーっていう、ちゃんと素敵な幼なじみが居たのにね。
一瞬、彼女の眩しい笑顔を頭の中に浮かべたら、セブルスが私を突き飛ばすように壁に押付けた。
「お前はいつもそう……いつも身勝手だ!」
ここに来てはじめて彼が声を荒らげるところを見て、私はただ驚いて目を見開いた。
彼が杖を振ると、私の前に小さな小瓶が現れる。それは何の支えもなく私たちの間に浮いていた。
「飲め、知らない男の酒を飲んだんだ、同じだろう」
「……うん」
セブルスの言うことも最もだと思った。
セブルスが私に、死ぬようなものを飲ませることはないだろうと信頼していた。
セブルスに毒を飲まされるなら、それでもいいと思った。
セブルスに身を委ねたいと思った。
そんなことはどうでもよくて、ただもう死んでもいいと思った。
結局こういうのって、全部後付けだ。
その薬はどこかツンとした湿布みたいな匂いがして、それと公園から帰ってきたばかりの子供の汗のような匂いがした。唇をつけて、一気に飲み干す。
「っ、は……」
急に胸が苦しいほど締め付けられて、おふざけじゃなくて真剣に不整脈を疑った。
「セブルスっ……」
「どうした?」
彼が私に触れて顔を撫でて、今から愛のないセックスをしようとしている。頭でそれをわかっているはずだったのに、わからなくなってきた。
「あ、あの、近いっ……」
「それがどうした?」
とにかく顔が熱くて、緊張する。
「何でもない……」
彼に頭を撫でられて頬に手を添えられると、ぶわっとそこだけ熱をもった。首元が、掻きむしりたいほど痒かった。
代わりに私は彼のローブを両手で掴んで、泣きながら引っ張った。
「セブルス……セブルスは、私に会えて嬉しかった?会いたかった?私、私ね……ずっと謝りたかった。好きだったの、あなたのこと、昔、ホグワーツにいた時。頭おかしいって、わかってるよ。あの時、君はあんまり気にしなかったけど、私は28で、君は15だった!それに、君がリリーを好きなの、わかってた。それでもキスとか、その先もした。君のこと凄く、可愛いと思ってた。幼くて、若くて、綺麗で、壊れそうで、美しくて、たまらなく……たまらなく愛おしかった。君のために、私に出来ることをやったつもりだった……!」
英語を考える頭すら残ってないほど、何かに慌てながら私は必死で単語を繋げた。言えば言うほど、自分が間違えている気がして、片手で自分の髪の毛を強く掴んだ。
「好きって言って……私に会いたかったって言って、私のこと……今の私のこと……嫌わないで……っ」
脳裏に浮かぶのは16歳のサマンサ・クラウチの体。長い足と細いウェストに大きな胸、きめ細かい白い肌、染めてもないのに光に透ける綺麗な髪、長いまつ毛に人形のような青い瞳。
別に黒い髪と黒い目が劣ってるとは思ってない、自分の容姿が特別醜いとか、嫌悪感を持ってるわけじゃない。
ただあの時と何もかも違う自分の見た目が、毒虫にでも変身したかのようだった。君が冷たくするから、なおさら。
「っ、ごめ……泣くことなんか無いのに」
ぽろぽろと涙が零れてきて、恥ずかしくなって私は顔を隠した。さっきからなんだ、何が起きてるんだろう。とてもとても冷静になれなくて、彼に嫌われたくなくて、それでも彼が私を嫌う理由ばかりが頭に浮かんで、焦りと恐怖で胸がいっぱいになる。
「なまえ」
「……っ、うん」
なんで君は、13年も経って、私の名前を覚えていたんだろう。幽霊のような存在だった、私の。
「帰りたいか?元の世界に」
「帰りたくない、ここに居たい……。セブルスの隣にいたい、他にはどこにも行きたくない。帰らないと行けないの?また、前みたいになるの?君と会えなくなるの……?」
喋りながら不安が募って、必死で彼の服を掴んだ。
「……前回帰ったのは、君の意志ではないと?」
「ちがうよ、ちがう、そんなこと全く思ってない。残りたかった、あの先も君と一緒に過ごしたかった。わからないの、ほんとに突然、日本に居て……何も出来なかった、私にはどうしようもなかった」
「……なら今度は、一生ここで過ごせばいい。この先も、死ぬまで」
「本当?急に戻ったりしない?もう嫌なの、どこにも行きたくないの」
「私が嘘をつくことがあったか?」
「ほんとに?ほんと?セブルス……」
ああ、なんて私は幸せなんだろう。この地獄のようなイギリスで、私は今、世界一幸せな女だ。
「好き……大好き、セブルス。愛してる……今までも、これからもずっと」
その時セブルスがどんな顔をしていたかなんて、知らない。
彼の指がタンクトップを下から捲り上げて腹部を撫でる。その感覚にピクピクと震えながら安心する。これでいい。彼が私に触れたいと思ってくれたこと、それが何より嬉しい。
「んっ……はぁ」
彼が与えてくれる肌の温もりをひとつも逃さないように、自分から追いかけるように目を閉じる。
こうすればきっと彼にも伝わる。体が繋がったら、きっと心も繋がる。
服を脱いで、キスをせがんで、脚を開いて、ベッドに引っ張って。ただ君に気持ちよくなって貰えれば、それが自分の価値のような気がした。彼の足元に座り込んでズボンを下ろし、ソレを咥えて、求められていなくても喉の奥まで押し込んだ。
「ん゛っ、ぅ、ぇっ……っ……」
生理的に涙が浮かんで、込み上げる胃の内容物を無理やり飲み込む。歯が当たらないように奥歯を浮かせて、舌を伸ばして裏筋に添わせて、自分が苦しければ苦しいほど“正しい”と思った。彼が息を詰まらせて私の頭を掴み、強く押し込まれると、“愛してる”と言われている気分になった。
「っ、はぁっ……!」
「……はっ、随分、慣れてるな」
「セブルスに、喜んで欲しかったから……」
熱をもって上を向いているそれに頬ずりをして、袋の裏まで舌を伸ばした。根元が限界まで膨らんで、脈打っているのを感じる。ここで出すまいと、彼が堪えていると、なんだかそういう遊びのような気がしてくる。
彼が出したら私の勝ち、我慢したら彼の勝ち。
「気持ちいい……?」
「あぁ……悪くない」
「嬉しい……」
足の裏でもどこでも、喜んで舐める犬のようだった。
セブルスが私を突き飛ばすようにベッドに沈めて、向き合ったまま位置を合わせる。先端が中心に当たって、私は息を飲んだ。そのまま容赦なく、めりめりと音を立てるように中に入ってくる。
「ぅ、ぁ……」
キツい。端的に、サイズが合わないと思った。
前戯もこちらからが長かったから、あまり整っていなくて、ただ痛みに顔をしかめた。
「き、つ……っ」
足の指をぐっと縮めて、押し返すように彼の腕を掴んで体を強ばらせる。
「……っ、邪魔だ」
それでも彼が、私の手を払うように避けて奥まで一気に貫いた。
「いっ……んんっ……!」
いたい、おおきい、くるしい――
「ま゛っ、待って、まだ、ダメっ」
「うるさい」
「あっ、あっ、あっ!」
無理やり動いてるうちに、その痛みすら快楽に書き換えられていく。だんだんと内側が整って、ちゃんと気持ちよくなっていく。
「ぃっ、ちゃぅっ……!」
目の裏がちかちかして、腰の奥から脊髄に響く重い快感にどろりと脳みそが溶けた。
相手が出すまで我慢できないなんて、いつぶりだろう。大きさになれてくると、今度は気持ちいいところが苦しいほど強く押されていることに気付く。彼のペニスの形に合わせて自分の膣があったのかと思うほど、いい所に全部当たってる。
「あ゛っ、んっ、んっ、っ……!」
欲しい、欲しい、彼の全てが。それってもう、そういう事でしょう?それでいいでしょう?けっこんしよう、ふーふになろう。にんしんしたら、私のことあいしてくれるかもしれない。
「せぶ、る、すっ」
「っ、名前を呼ぶな……!」
「ぁっ、や、なんでっ、セブルス、セブルスっ……」
ダメって言わないで、嫌って言わないで、外に出さないで、中に出してっ……!
必死で足を絡みつけ彼の体を抱き寄せて、最後のその瞬間まで彼と繋がっていることだけをひたすらに求めた。
「出してっ、中に……!」
そんなことを口にするなんて、ほんとにどうかしてる――。
「っ、は……!」
「んっ、ぁっ、……っ」
彼が力を抜いて、私の上に寄りかかる。最後まで体を合わせたまま。私は嬉しくて、泣きながら笑った。
「ねぇ、愛してる……愛してるよ。死ぬまで、ずっと。ほんとだよ、ほんとに……。愛してるの、愛してる……」
セブルスは何も言わないまま、抱きしめるように私の髪を撫でた。たくさん愛してると言ったのに、彼は私に愛してると言ってくれなかった。
「なんで……なんでダメなの……」
なんだか凄く疲れて、泣きながら眠った。
どうやったら彼に愛してもらえるのだろうと、夢の中でも必死で考えた。
翌朝目が覚めて、自分が裸のまま一人で薄いシーツにくるまっていたことに気付いた。頭が重くて腰もだるいし、どれだけセックスしたらこうなるんだろう。いや、全部覚えてるけど。
相変わらず殺風景な自分の部屋でただ呼吸するだけの余白。あゝ、スマホがないとはげに素晴らしき。もぞもぞとサイドテーブルに手を伸ばして、iQOSと箱に残った最後の1本を取り出す。2本目はあの市役所から帰った時に吸った。
久しぶりのiQOSの煙はスカスカで、後味は甘く管理されたケミカル感が気持ち悪い。大切にとっておいたはずの最後の1本を、最後まで吸うことなく機械から外した。
ベッドから降りて、ルームシューズを履いてバスルームに行く。髪を濡らさないでシャワーを浴びて、太ももの間にこびり付いたベタつきをとった。なかなか温まらないやる気のない給湯器にも慣れたもので、プール程の冷たい水で体を洗う。タオルで水滴を拭くと、温まってない体がぶるりと震えた。
熱い紅茶でも飲もうと思ってリビングのドアを開けると、食卓に彼がいる。てっきりまた部屋に篭っていると思った私は驚いて時計を見た。時刻は10時で、やっぱり私はもう一度彼を見た。
「おはよ、珍しいね?」
「私の家で私がどこに居ようと勝手だろう。それからもう10時だ」
「うん、それもそう」
なんとなく彼の不機嫌にも耐性が出てくるのは、昨日散々泣きながらセックスをしたからだろうか。言っておきたいが、あんなのは酔っぱらいと同じ、ノーカンだ。
「昨日のあれ、惚れ薬?」
やかんに水道水を入れてコンロにかけ、ガスをひねってからマッチの火を近づける。まるで理科の実験のようだ。ガスコンロはせめて着火式にしてほしい。
「そうだ」
「ふーん、凄いね」
昨日、私が口にした言葉のどこからどこまでが自分の本心だったのか、自分でもあまり区別がつかない。ただそう、世界で1番好きな人とセックスをした、その感覚が体に残っている。誘ったのは私のようなものだし、スムーズに事を進めるために魔法薬を使ってくれたと思えばむしろ感謝するべきかもしれない。
それでも、それでも。私は自分の身勝手な後悔を、彼に伝えるつもりは無かった。泣き言も、弱音も、こんな風に彼にぶつけるつもりでは無かった。君を、感情のはけ口にするつもりは無かった。そういう、私に最後に残ったみそっかすみたいなプライドをあの魔法薬で踏みにじられた。
別に、いいけど。
ボコボコと沸騰する音が聞こえて火を止める。安いティーパックをひとつ放り込んで蓋をして、待ってる間にマグカップに手を伸ばした。
「……セブルスも飲む?」
なんとなく、名前を呼ぶのを躊躇した。
「ああ」
「ん」
家に2つだけあるマグカップ、それぞれに紅茶を並々注いだ。黒い方を彼の前に置き、知らない女の人の顔が描かれている方を手元に置いた。
「いつも思ってたんだけど、これ誰?」
「女王だ」
「イギリスの女王?いつの?」
「今のエリザベス2世だ」
「エリザベス……エリザベス女王……ああ、この人が?なんでそんなマグカップがあるの?あ、いや別に良いんだけど、あんまり君のイメージじゃなかったから……」
いつでも明るいパステルカラーに全身を包み、上品に手を振るエリザベス女王。私の思う、イギリスの象徴だ。ある意味、マグルを象徴する人とも言えるのではないか。
私の記憶の中ではもうよぼよぼのおばあちゃんだけど、このマグカップの女性はまだ若い、20代くらいだろうか。
「どこの家にもある、戴冠式の時に安く売られるからな」
「じゃぁこれ、エリザベス女王の戴冠式の記念品ってこと?」
「そうだな」
「ふーん、歴史感じる」
エリザベス女王といえば王子たちの不祥事に振り回されている苦労人というイメージなのだが、当然若い頃もあったわけで。彼女が主役の時代もあったわけである。
「かっこいいよね、エリザベス女王。私好きだよ」
「知っているのか」
セブルスが手元の雑誌から視線を外して私を見た。私が彼女を知っているのがそんなに意外だったのだろうか。
「うん、日本でも有名だよ。子供のね、ヘンリー?がなんか色々やらかすんだよ。アメリカの女優と結婚して家を出るとかね」
「ヘンリーは息子ではない、孫だ。3年前に産まれている」
「えっ、そうなの?息子だと思ってた、っていうか3年前?まだ赤ちゃんじゃん、あ、そう……」
なんか赤ちゃんの悪口言ったって、凄い罪悪感。おまけに王族。
「……やっぱり今のなし」
「なんだそれは」
彼が私の言葉を鼻で笑いながら紅茶に手を伸ばす。まだ熱いそれに、火傷をしないように慎重に口をつける。なんだが、その仕草がとても愛おしくて。
「あのさ、今更なんだけど……」
なかなか続きを言わない私に、セブルスは「なんだ」と声をかけた。
「セブルスって、呼んでもいい?」
両手の中のエリザベス女王に向けて、そう聞いた。
「イギリスならそれが普通だ」
「うん」
それはそう、知ってるけど。
彼が軽く杖を降ると、テーブルの中央に見たことのない小瓶が現れた。
「飲め」
これはなに?と聞いていいのか分からなかった。言われるがままに手を伸ばし、少し匂いを嗅ぐ。
「――――だ」
「con……?」
聞きなれない単語に眉を寄せる。
「……妊娠を妨げる」
「ああ」
避妊薬か。
「ありがと」
そういえば昨日散々中出しを強請ったことを思い出して、少し気分が悪くなった。あれは流石に、良くないというか。まぁ、それでもこうやってアフターピルをくれるなら別にいいか。
小瓶の中身を一気に飲み込み、その青臭い後味に顔を顰めた。
「ぅえ、雑草みたいな味」
「文句を言うな」
人の中に勝手に出しといてひどくない?半分は君の責任でしょう。
「次があるなら飲みやすい方がいい」
顔を見ないで空の薬瓶を眺めた。彼は返事をしなかった。
しばらく無言のまま紅茶をのんで、私は朝食の代わりにビスケットを齧る。彼はまた雑誌に目を通し、読み終わったそれをバサッとテーブルに置いた。
「出かける、準備をしろ」
「どこに?」
ビスケットの欠片を口に入れ、紅茶で流し込む。
「ダイアゴン横丁だ」
「ん、わかった」
ルームスリッパからちょっと窮屈なローファーに履き替えて、魔女のような黒いドレスに身を包んだ。初日に彼が買ってくれたこれ、生地もよさそうに見えるがいくらしたのだろう。
向かった先は魔法動物のペットショップで、その独特の世界に思わず天井までしっかりと見渡した。
「すごい……」
一見すると普通のペットショップだけど違う、日本のように白い壁一面に部屋を区切られて展示されているような売り方ではない。そこら辺に放し飼いにされ、蛇はフクロウと命懸けのじゃれあいをしていた。
「前を見て歩け、見苦しい」
「もう……それくらいいいでしょ」
相変わらずだなぁと思いつつ、言われた通り前を向いた。
「フクロウを1羽、世話に手間がかからなければ何でもいい」
「おや、スネイプ教授、お久しぶりです。お連れ様とは珍しいですね」
店員が私にもニッコリと微笑む。私も笑顔を返して、こんにちはと声をかけた。店員はすぐにフクロウを次々呼び寄せてその説明をした。
「こちらの――――フクロウなどいかがでしょう、非常に賢く、指示を一度で理解します。主人の――――静かで、無駄に鳴くこともありません。こちらもおすすめです、カラフトフクロウ。少々大柄ですが、この種は――――多少の薬品の匂いも気にしません。週に一度の給餌と手入れだけで、――――――役目を果たしますよ。ああ、手間のかからないという――――――もおすすめでしょう、こちらの―――― はすでに訓練は完璧、手紙を届けた後は――――戻ってきます。あなたが――――一切ございません」
店員の英語は早口で、文章がどこで途切れているのかもわからない。まぁどうせセブルスが選ぶからいいやと思ってデスクでくつろぐ黒猫の頭を撫でた。
「聞いているのか」
セブルスが私にそう言ったので、え?と間抜けな声を出した。ごめん聞いてなかったとは言いづらい。彼は無言のまま呆れた視線を送っている。
「私は別に……フクロウってシロフクロウしかわからない」
セブルスは私の言葉に顔を顰めて、そんなもの買うやつは目立ちたがり屋の間抜けだけだと文句を言った。
「セブルスが選んでよ」
私がそう言って、少し迷った様子のセブルスに、また店員が声をかけた。
「――――フクロウなどいかがでしょうか?シロフクロウのような派手な白さはございませんが、非常に端正な顔立ちでしょう。夜の闇に――――――を持っております。――は、その忍耐強さと持久力の高さです。シロフクロウは――――鳴きますが、この種は主人の許しがあるまで、――――――ます。世話に手間がかからない――――、非常に――が高く、主人以外の命には従わない――――持ちます」
相変わらずほぼ聞き取れないけど褒めてることはニュアンスでわかる。セブルスがちらっと私を見たので、「じゃぁこの子にしよう」と言えば店員は満足そうに頷いた。
持ち出し用の鳥かごの檻の隙間からそっと指を入れれば、優しく甘噛みしてくれる。セブルスの会計を待つ間、その丸い目をじっと見ていた。
「行くぞ」
騒がしい生き物たちの鳴き声に気を取られていた。うん、と呟きながら鳥かごを手にその後ろをついていく。
「……なんでフクロウを買いに?」
セブルスがさっと杖を振れば大きな鳥かごはふわふわと頭の後ろに浮いた。それをチラチラ見ながら彼に声をかける。
「私は間もなく学校に戻る。連絡手段があった方がいいだろう」
「私、セブルスが居ないときもあの家に居て良いの?」
セブルスが不機嫌そうに眉を寄せて私をちらりと一瞥した。
「君にどこか行く当てがあるなら行けばいい」
「もう、違うよ。家主が居ないのに家に居させてくれてありがとうって意味だよ」
まだどこか不機嫌そんなセブルスに、何だかもう笑いながら言い直した。
「セブルスの傍に居たいよ」
「媚びるな、気持ち悪い」
「ねーもー、じゃあなんなら気に入るの?」
その後セブルスは薬草屋に寄って買い物をした。店には足がたくさん生えた虫もいたようで、耐えられなかったので店の外でフクロウを眺めながら待った。
そういえば君にも名前をつけないといけない、覚えやすくてわかりやすいのがいいね。
「君は今日からMr.OWLだよ」
某青リンゴさんみたいな。だから呼び方はミスターだね。ミスターは鳴くこともなく鳥かごの中で首を回しただけだった。
「何を1人で喋ってる」
「名前決めてたんだよ、この子の」
店から出てきたセブルスが抱えてる袋をちょっと避けながら返事をする。どこからかカサカサと音が聞こえる気がして鳥肌が立った。
「で?」
「Mr.OWL」
「……変な名前だな」
いい名前じゃない?フクロウ君。もう居なくなっちゃった、可愛いスネイプ君の代わりだよ。頭のおかしい箱庭をここでひっそり続けるのさ。
「30年後の日本ではね、そんな名前の歌手が流行ってるんだよ」
セブルスは興味無さそうにちらっと一瞥してから、また杖でミスターの鳥かごを浮かせた。
「……ね、それ何買ったの?」
「知りたいなら教えてやる」
「ああやっぱいい、大丈夫、ほんといい、近づけないで」
真剣にその紙袋を避ければセブルスは意地悪な顔でふんと鼻で笑った。数ブロック歩いて人気の無い道の端に寄って、セブルスが私の腰を抱き寄せる。大人しくセブルスに軽く腕を回して、付き添い姿くらましで家に帰った。
今度の“移動”ではセブルスとフクロウと、セブルスの手の中の謎の袋の中身とも一つになった。もう何も思うまい。
それから数日、また今までのようにやることもなくだらっと日々を過ごした。
セブルスとの距離は以前より落ち着いたが、私が身分証の類を持たないままここに居ることは変わりないわけで。正攻法で居住資格を持てないなら、違法に走るしかない。マイナンバーカードの偽造とか、そういう類のニュース、東京ではよくあったなぁ。いつもそう、外国人が犯罪者。
新聞を広げながら、鉛筆を手のひらでくるくると回す。
「……ねぇセブルス」
「なんだ」
以前よりは少し部屋から出てくるようになって、本棚を眺めている彼に声をかける。
「私の戸籍、どうにかなんないかなぁ」
「そんなものどうにでもなるだろう」
「え、ほんと?」
「役所の人間に錯乱の呪文でもかければいい、必要なのは――」
「もう、そういうのじゃないってば」
私はセブルスの言葉を遮って思わず笑った。セブルスがあまりにも当然のようにそれを提案するから、相変わらずマグルの法律なんて微塵も守るつもりがないんだなと。
「あなたにとってはどうでも良くてもね、私はあなたを犯罪者にするつもりはないの。ほんとにやらなきゃいけないなら自分でやるよ」
そういったら、彼は黙ってしまった。
「セブルスのおかげで家も食べるものも困ってないから、私ももう少し余裕もって考えることにするよ。……いいかな?しばらくここに居ても」
「……構わない」
お目当ての本を見つけたのだろう、数冊を杖で浮かせて、それをそのまま食卓に置いた。新聞のクロスワードで遊んでいた私は、鉛筆を置いて後ろを振り返る。
「……する?」
なんとなく、彼が物足りなさそうに指先を伸ばしていたからそう聞いた。
「まだやることが残っている」
「大変だね」
彼が私の頭を撫でて、そのまま顎の下をなぞる。私は猫のように目を細めて、その愛撫を堪能した。いっそ自分は彼が飼ってる犬か猫だと思い込めば、気が楽になる。
「セブルス、いつ学校戻るの?」
「明後日だ」
「そう……また夏季休暇まで、ここには戻らないの?」
彼は魔法薬学の教授だけでなく、スリザリンの寮監もやっているときいた。確かスラグホーン先生は、祝日も基本的に学校にいたはずだ。1人でも寮生が居るなら、寮監が学校を空けるわけにはいかないだろう。
「その予定だ。……留守の間に愚かな真似をするなよ」
「やだなぁ、いい子ちゃんして待ってるよ。飼い主のこと」
セブルスの指が肩をなぞって、ブラジャーとタンクトップの紐を触る。
「それからもう少しまともな服を着ろ」
「外に出る時は気をつけてるよ」
「いちいち言い返すな、家の中でもだ」
そう言って、セブルスはまたさっさと本を持って部屋に戻ってしまった。てっきりそういうことをすると思っていたから、ちょっと拍子抜けだ。
「Dから始まる強力な睡眠薬ってなにって聞こうと思ったのに……」
クロスワードは半分も埋まらなくてつまらなかった。