第2章
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『どっか遠くまで行けますように』
イヤホンから聞こえる歌をなぞりながら1人でキッチンに立ち、スマホを片手に換気扇の下でiQOSを吸う。キャミソールに短パンを履いて、蒸し暑い日本の夏に溶けるように体が馴染んでいく。
半年と少し前、なんの予兆もなくまた目が覚めたら見知らぬベッドで寝ていて、起き上がってからようやくそこが実家だと気づいた。記憶にないソファベッドの上、リビングで起きた私は、早朝から起きてきた甥っ子に元気に挨拶された。
「おはようサマンサ!今日はね、公園行こうね!」
「……え?」
変な夢の続きでも見ているような気分だった。体も何もかもが元通りなのに、私はサマンサと呼ばれている。甥っ子の後ろについて降りてきた姉に、サマンサってどういうことかと聞けば怪訝そうな顔をしていて、しばらく話した後ひどく驚いた顔になって母を呼んだ。「なまえが元に戻った!」と叫んで。
どうやら“ほんの”1ヶ月半前に、私は仕事を無断で3日も欠勤し、携帯に連絡しても出ない。何か犯罪に巻き込まれたのではと会社が警察に連絡し、警察が親に連絡し、大家立ち合いの元で部屋のドアを開けたら何もせずにうずくまっている私が居たそうだ。食事はお菓子で食べ繋ぎ、暇になったら本棚の漫画を読み、ほとんどの時間、真剣にテレビを見ていたと。なぜスマホの連絡にでないのかと聞かれれば、充電の方法が分からなかったと叫ぶように答えたそうだ。
そして自分はサマンサだと名乗った。鞄のブランドしか浮かばなかった母は、それが一般的な女性の名前だとも思わなかったそうだ。
困り果てた母親が私を精神科に連れて行き、解離性同一性障害と診断された。要は多重人格。私……というか彼女は不満そうだったが、とりあえずその診断結果を受け入れ、実家に戻り、毎日美味しいご飯を食べてそれなりに穏やかに暮らしていたそうだ。
つまりそう、入れ替わっていたということ。
「それでね、先週なまえ突然、自分はバーテミウス・クラウチの娘だって言い出したのよ。さすがに笑っちゃって、ハリー・ポッターの読みすぎて頭おかしくなったの?ってママ言ったの。そしたら誰それ?とかいうのよ。人の名前じゃなくて本だって言ってるのになかなか理解してくれなくて、一緒に映画見たのよ、賢者の石ね。ずいぶん真剣に見てたわ、人格変わってもおんなじ映画が好きなのね?なんかママほっとしちゃった。それで、バーテミウス・クラウチが出てこないっていうから、そのキャラクターはもうちょっと先で出てくるよっていったの。父親がなんかの偉い人なのに、息子が犯罪者になっちゃって、最後はその父親も息子も死んじゃうんだよって。いや、ネタバレだなって思ったよ?でもしつこく聞くからさ、なまえが。正直、ママも映画見たのずいぶん昔だし、あなたから散々聞いてたけどあんまりちゃんと覚えてなかったのよ。そしたらなまえずいぶんショック受けちゃって。今日、秘密の部屋をみんなで見ようって言ってたから、どうかなーって心配してたところだったの。元に戻って良かったわほんとに」
実家で目を覚ました日の夜、母親の説明を聞きながら、私はただ黙って出してもらった温かい緑茶を飲んだ。母は、よかったよかったと何度もそれを繰り返し、私は何も言えなかった。何をどう思い悩んだところで、もう一度私が彼女の体に戻ってホグワーツに通えるわけでもないし、やっぱりあれはストレスで頭のおかしくなった長い夢だったのかと思い直すしかなかった。
とりあえず職場に迷惑をかけたことを謝り、私はまた仕事に復帰した。精神科には定期的に通っているが、毎回簡単な質問を受けて異常なしと診断書を貰うだけだった。それを職場に提出して、短い面談をしてまた仕事に戻る。
生活は巡る。
先月には実家を出て一人暮らしも再開した。実家から職場に通うのは1時間半もかかるし、誰かと一緒に暮らすのは苦手だったから、多少の反対を押し切ってもそうした。
返事を出していなかった高校の同窓会にも顔を出して、何年かぶりに会話をした仲良かった友達の苗字が、山口から小川に代わっていたことを聞いた。結局苗字なんて変わっちゃうから、下の名前だけ覚えとけばいいよと笑っていた。最近は子供が保育園に通いだして、ようやく仕事に復帰できるんだとそんな話を聞いた。
『ひとりくらいなら愛せますように』
手の中に小さく収まるタバコもどきから少し甘ったるい空気を肺に通して、また白い煙を吐き出す。
初めて会った君は15歳だった。最後に別れた時は16歳だった。まだ君は幼くて、それなのに私は余計なことまでしてしまった気がする。大人でいたつもりだったけど、ブレーキが壊れていたのは私の方だ。
愛とはなにか。
キリスト教の教えでは、無償の愛と訳されるアガペーが至高の愛の形だと表現されることが多く、愛は多くの場合救いである。ギリシャ神話では恋愛、性愛という形のエロスがよく描かれる。神々ってのは大抵服をすぐ脱ぎたがるし、愛で身を滅ぼしたがる。
『どっか遠くまでゆくのがいつで、ひとりじゃないなら、ねぇ誰とどこで』
所詮夢の中のこと、所詮空想の世界。そんな場所での自分のふるまいを反省したって、堂々巡りで何の意味もないのに。小説の中の少年の、最後のときが決まっている男の、健康と幸福を祈る女がどこにいる?
セブルス・スネイプの物語は完結している。彼はリリーにその生涯をささげることで己と向き合い、十分にその魂を燃やして死んでいった。その生きざまは多くの人に愛されて、主人公を超える人気を持つ。美しいストーリーだ。あの世界を成り立たせる、何よりも重要な柱。誰にも邪魔は許されない、さもなくばハリー・ポッターは成り立たない。
iQOSから吸殻を外して灰皿にいれ、さっき置いたタバコの箱に手を伸ばす。いい加減、これを吸うのももうやめにしたいのに。箱の中の残り3本を眺めながら、どうしようかと迷っていたら急にみぞおちがぐっと埋まるような奇妙な感覚がした。
「ぅ、なに……」
まさかほんとにタバコの吸いすぎで死ぬ?それは嫌だ。足元がふらつき目の前のキッチンが遠のいて、ヤバいと思って目を閉じた。血の気が引いて、息が吸えなくなる。
ほんの数秒、衝撃に備えて体を固くしたはずなのに……一向にそれが来ない。なのに体は横になってる気がする。おそるおそる目を開けて、そこがまだ暗くて呆然とした。とんでもなく頭が痛いし、なんだこれ、くも膜下出血?目が見えないことが何より怖い。
「きゅ、救急車……」
とりあえずスマホをと思いながら自分のお尻を探って、そう言えばスマホはカウンターの上に置いたままだったと思い出す。
マジでヤバい、ほんとに、死ぬ、頭痛い。割れる。
「――――?」
「なに……え?」
あぁ、イヤホンをしたままだった。Siriでも起動したかと思い耳に手を伸ばす。このまま声で救急車を呼ぼうか、そういうことできるよね?
「Hey Siri,救急車呼んで」
「…………Siriという名前は無いが」
「え?……あ、え?」
それは低い、男性の声だった。目が見えなくなったと思ったのは勘違いで、ただこの部屋が薄暗いのだと気づく。その男性は暑苦しい大きな真っ黒の布をまとって、半年と少し前まで散々見ていたあの魔法使いたちの格好に似ていた。
言葉もそう……英語だ。今度は以前のように、英語を母国語のようには理解できない。私は、私の脳みそのままでここにいる。
「あ、あの、えっと……ここは……」
日本語はきっと通じないだろうと思い、たどたどしい英語を話した。あれ以来、まるで語学留学でもしたかのように以前よりはずいぶん流暢に英語を話せるようになった。そのことだけが唯一、自分の不思議な体験を肯定するようで、忘れないようにと英会話だけは続けていた。それでもやはり、本物の外国人と喋るのは緊張する。
「……イギリスだ。ミッドランズにあるコースワース」
「え?コースワースってスネ……ぃったぁ」
先ほどの割れるような頭痛がまた襲ってきて思わずその場でうずくまる。目の前の男性が何か声をかけてくれているが、その声で頭痛が悪化するので黙っていて欲しい。
とにかくそう、コースワースといえばリリー、そしてスネイプ君だ。どういうことだろう、私はまたあの謎のタイムトリップをしたのだろうか?魔法というおまけ付きの。
「すみません、大丈夫です……」
そう言って曖昧に笑いながらとりあえず上半身を起こし周囲を見渡した。あまり広くはない、古そうな家だ。普通の民家だろうか?キッチンと暖炉があって、部屋の中はがらんとしている。明かりはついておらず、そこかしこにろうそくが吊るされそれが光源となっている。まるでホグワーツのように。
「あの、ごめんなさい私、なんで自分がここに居るのか、わかって無くて……あの、あなたは誰ですか?」
彼が一瞬、困惑したように口を閉じたので、私は自分の英語が伝わらなかったのだろうと思った。
「ごめんなさい、私の英語伝わりますか?すみません、あまり上手では無くて……」
「いや、理解できる、それは……それは問題ない。失礼だが君の名前は?」
「あ、えっとなまえ・みょうじです」
「……私はセブルス・スネイプだ」
「………………えぇ?」
いやいやいや、何の冗談?思わず周囲を大きく見渡して、なんのどっきりかとネタ晴らしを探してしまう。いくら首を振っても、後ろを振り返っても私たち以外は誰もいない。
「え、いや……」
違うでしょう?そんなことまで言葉にできなくて、私は小刻みに首を左右に振った。質の悪い冗談ならやめてくれ。
「……なぜだ」
「だって、彼は、私の知っている彼は16歳の男の子で、あの、とても、あなたのような……」
「……大人ではない、と」
「え、えぇ……」
目の前の彼がふっと笑って、どこか自虐的に笑いながら手を差し伸べる。
「時間の……――――、魔法で……――、――……もできる」
「……え、なに?」
まてまて、なんていった?この人ぼそぼそ喋るし早口だからよく聞こえないんだけど。とりあえず差し出された手から逃げるようにずり下がって、私はすぐ背後にある本棚にぶつかった。いつだったか、マルシベールに殺されかけたスリザリンの談話室を思い出した。
「……なぜ逃げる」
「い、いえ、逃げているわけでは……」
逃げるでしょうそりゃ、この薄暗い空間で、見知らぬ男性と二人。しかもその人が昔の自分の知り合いだと嘘をつく。
その言葉の真偽もわからないし、ひどく怪しげな大きなローブ。そのローブをバサッとやったら、内側にいくらでもナイフを仕込めそうな、犯罪者が身を隠すような大きな布。
自分の震える手からコロンと黒いiQOSが落ちて、2人の間に転がっていく。彼がゆっくりそれを持ち上げた。
「これは?」
「あ、iQOS……煙草です、加熱式の……」
「これが煙草?」
私は小さく何でも頷いて、反対の手でキツく握りしめていた煙草の箱を差し出した。これを刺し込んで使うんですと、そんなどうでもいいことを説明するように。彼が私に手を伸ばすと、もうそれだけで怖かった。彼が箱を受け取る前に、思わず先に私が箱を手放した。当然、それは床に落ちると思っていたけれど、まるで宇宙のように宙に浮いている。
気付いたら彼は右手に細い杖を持っていて、それを煙草の箱に向けていた。その杖に見覚えがあって、私はようやく彼の言葉を少し信じた。
「その、杖……彼の……」
「だから言ってるだろう、私がその本人だと」
私は曖昧に、ただ曖昧に笑う。だれか私に嘘だと言ってほしい。心臓が異常な速さで脈打って、どこかに逃げろと警鐘を鳴らすけど、どこにも行けるわけがないじゃないか。
「本当に?」
「君が現実を受け入れることができるならな」
……いちいち遠回しに言わないで。そういうところ、すごく彼らしいけど。
「お前はどれだけの時を過ごした」
「……ごめん、もう少しわかりやすく言って」
「あれから何年たった」
「あぁ……8か月だよ」
「……こちらは13年過ぎた」
「13年?」
嘘でしょう?眉をよせる私に、彼が改めて手を差し伸べた。尻もちをついたままの私はおそるおそる彼の手を取って立ち上がる。彼の手は大きく少し荒れていて、節がゴツゴツしていた。私は促されるままに質素な、とても質素な椅子に座った。
今更だけど、ここはどこなんだろう。とても人が普段住んでいるとは思えない、よく言えばミニマリストの家。悪く言えば廃墟。
「じゃぁ……今あなたは29歳?」
「そうだな」
ならもう同い年だ。彼の話が真実なら、だけれど。
黙ったままの私の前で彼が杖を振ると、目の前に新聞が一部パサリと落ちた。無言でそれを持ち上げて日付を確認する。1990年7月12日、水曜日。
新聞の見出しには、“ダイアゴン横丁の「大釜屋」、底に穴の開いた不良品を誤って販売か!?”と書かれている。ああ懐かしいダイアゴン横丁、1990年なんて、本当に?
「頭の整理はついたか」
「どうして……私はここに」
「……私は知らない」
嘘だ、と思った。どう考えても不自然じゃないか、また都合よく私が彼の前に現れるなんて。あんな、人にも言えないようなバカみたいな体験に、私はまた巻き込まれるの?それも今度は、知り合いを騙る不審者付きで。前回のように人の目にあふれ、学校という守られた場所で、他人の皮を被ってい時とは違う。私は私のままで、私を守るものは何もなく、見知らぬ男性と二人きり。ただひたすら、自分が世界から切り離された事実に絶望する。
魔法の前ではたとえ自分がどれほど武術の達人であっても無意味だけれど、それでもやはり男性と二人きりという環境は怖い。彼がポケットにしまったその杖もちゃんと怖い。今この場で、私はただひたすらに弱すぎる。
ただ黙ったまま唇を噛んで、新聞の端を握りしめた。これから私はどうしたらいい?何が正解?冷静ではいられないまま、必死で頭を動かす。今まで私の人生で、こんなに恐怖を感じた事があっただろうか。
「……身の回りのものは私が整えよう」
「ありがとう、ございます」
よそよそしくそう言って、私は目の前の男の目をちらりと見た。
ねっとりと絡みつくような黒い髪、血の通っていないドラキュラのような白く濁った肌、生涯で一度も笑ったことの無さそうな硬い表情、決して過ちを許さなそうな鋭い黒い目。
幼い子供を大釜に突っ込んでぐつぐつと煮るような、そんな魔女の童話を思い出した。そうだ、魔女とは悪しきものだった。男ならいいってことは無いでしょう?むしろ女性の方がまだ良かったかも。
俯いたままテーブルの木目を見つめて、まさに生きた心地がしなかった。
その日は埃っぽいゲストルームをあてがわれて、彼が杖を一振りするととりあえずは風が吹いて綺麗になったようだった。何もないがらんとした空間に、あっという間にベッドが現れて、それで寝るようにと言われた。そのほか生活に必要なものは明日揃えるから、今日はもう寝ろと言う。今何時かと聞くと、急に壁に現れた時計が深夜1時を指していた。私は彼になるべく穏やかにお礼を言って、彼が部屋を出て行くまで神経質に見守った。
ベッドに腰を掛けると知らない人の匂いがした。きっとそう、彼は自分のベッドを複製魔法でここに作り出したのだ。あのセブルス・スネイプ(大人)を信じていいものか、わからないまま布団を見つめる。杖が同じだけで本当に彼かどうかなんてわからない、殺して奪うことだってできる。あの世界はいつだって魔法使い同士で殺しあっていたじゃないか、空に蛇の印を掲げて。それでも彼が、あの16歳の彼と面影が似ていることは、私だってわかってる。わかってはいる。
おそるおそる布団をめくって、ベッドの上で上体を起こしたまま膝を抱えた。
彼が本当に、彼ならば、両手をあげて受け入れたい。よくわからないけどどうやらこの13年、君は大変だったんだねと微笑みかけたい。でもとてもそんな状況ではないのだ、何もかも。彼はどこか私を拒絶しているように感じるし、怒っているようにすら思える。何もかも知らない世界で、私は空気をひとつ吸うことすら恐ろしい。
自分の生活が一切ままならないことがわかっていて、きっと今度は魔法も使えないであろうことも察していた。だって今度は、ちゃんと自分の体のままここにいるのだから。今死んだら、私は本当に死ぬだろう。
そもそもなぜ私は、初めてサマンサ・クラウチとして目覚めたとき、あんなにもすんなりこの魔法の世界を受け入れたのだろうか。なぜ人知の及ばぬ力に恐怖しなかったのだろうか。なぜあんなに、まるでテーマパークの入り口をくぐるように魔法とその学校を受け入れたのだろうか。
さっぱり思い出せないし、考えれば考えるほど頭が痛い。
少なくとも私は今、自分が知らない世界に来てしまったことが怖い。彼の気分ひとつで、簡単に殺されてしまうだろうこの状況が怖い。銃を持っている人間と丸腰で同居している、あるいはもっとたちが悪い。彼が私に悪意が無いと、それをはっきりできないととても同じ家で寝てもいられない。私の武器はiQOSと煙草3本だ、そう思うとちょっと笑える。
『ミスター・スネイプ』
サマンサの体に居たとき、私は彼をいつもそう呼んだ。今もきっとそう呼ぶだろう。
「ねぇどこにいったの」
日本語でつぶやいて、私は唯一の自分の武器を口にくわえた。たった3本を消費してしまうのが心もとなくて、電源ボタンも押せないままただ根元を噛んだ。
前回と唯一違うのは、これがきっと夢ではないと確信しているところ。きちんと自分の体のままで居るからだろうか、現実感が薄れることも無い。私の心臓がここで動き、血が巡っている。以前はそう、なんとなく、彼女の体で死んでもGAME OVERで元の世界に戻れるような、きっとそんなことを考えていた。今度はそんなボーナスステージではなさそう。
死にたくないのなら、私はここで生きなければならない。
翌朝、一睡もできないままベッドで膝を抱え、窓から差し込む朝日を眺めた。ちゅんちゅんと鳴く鳥の声が絶望的だ。ようやく重くなってきた瞼を閉じ、少し遠くでガチャリとドアの開く音が聞こえ、あぁ彼もようやく目を覚ましたのかと思った。もう9時前だし、相変わらず朝は遅いのか。まぁ、私の休日の方がよっぽど朝は遅いけれど。
さらに30分ほど膝を抱えて過ごして、どうにもならないなと諦めて部屋のドアを開けた。
「おはよう」
「……寝てないのか」
彼がやっぱり昨日と同じく、眉間に険しすぎる皺を寄せたままそう言った。その顔のせいで責められている気分になる。彼に寝ろと言われれば、私は眠くなくても寝なければいけないのだろうか。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか、噛み合わない返事をしながら自分の二の腕を掴む。何か羽織るものを借りたいけれど、それも言い出しづらい。ここは日本より寒い。
「朝食だ」
ドアの前で突っ立ったままの私に、彼が空いた椅子を促す。食卓には、皿の上にトーストが一枚載っていた。
「ありがとう」
お礼を言いながら椅子に座り、とりあえず添えられていた温かい紅茶を飲んだ。それがとても体に染みるように感じて、少し熱いくらいの温度に安心した。
「……おいしい」
彼の機嫌を伺うように目をやりながらそう言った。
「……なら良い」
彼もまた、私の反応を伺うように短くそう言った。
いろいろ会話をしたいけど、英語だとそれもおぼつかない。
ねぇスネイプ君、13年の間に何があったの?本当に君はあのスネイプ君なの?ここは君の実家?両親は?リリーはどうしたの?世界は?ヴォルデモートはどうなったの?
一晩中抜けなかった頭痛と寝不足で、もう思考が鈍っていく。一口齧ったトーストは味が無くてぱさぱさしたけど、今の私にはそのくらいがちょうどよかった。
「元の世界に戻って、何をしていた」
「えっと……彼女、サマンサ・クラウチが私の体に居たみたいで」
突拍子も無いことと笑われるかと顔色を伺うが、彼は相変わらず無表情で何を考えているのかわからない。
「ごめん、英語でなんて言うのかわからないんだけど、精神の病気だと思われていたみたい」
「まぁ、そうだろうな」
彼が肯定したことに少しほっとする。
「私が日本に戻って、ようやく病気が治ったと、そう思われたよ。私もそう振舞った。そのまま仕事に戻って……また一人で住み始めたところだった」
そう言えばそう、心配する母親を押し切って一人暮らしを再開して、それからまだ1ヶ月経度しか経ってない。
「今は、向こうはどうなってるんだろう……」
「戻りたいのか」
「戻れるなら……」
人を心配させるのは趣味じゃないし、職場に迷惑もかけたくない。
「まぁ、私がいなくてもどうにかなるだろうけど」
なにかを誤魔化すようにポケットの中のiQOSと煙草を触った。
「煙草を吸いたいなら吸っていい」
「いや、いいよ、ごめん」
まだもったいない。
「あなたの話も聞かせてよ、仕事は何を?」
「……ホグワーツで教授をしている、魔法薬学の」
「あっ、そうなの?あぁ、そう……教授に。すごいね」
「別に……お前が思っているようなものではない」
「あぁうん?まぁあの、いいんじゃない?そう……いつから?」
「7年前」
「えっとじゃぁ……20歳?21?」
「21だ」
「すごいね、最年少じゃない?」
「知らない」
あぁ、イライラする。なんだ、こんな世界一不幸そうな顔して、人生勝ち組じゃん。
「ごめん、やっぱタバコ吸っていい?」
「好きにしろ」
新品の煙草を差して電源ボタンを長押し。残機は3-1。指に反応してぶるっと震える手の中の重みが愛おしい。テクノロジーって、魔法みたいに曖昧でないからいい。誰が使っても同じ反応をする。
「仕事楽しい?」
「動物を飼うことが趣味なら悪くないだろうな」
「あぁ、うん……君らしくて落ち着くよ」
「お前はどちらかというとsullenに見えるな」
「sullenって?」
「……機嫌が悪そうだ」
「あはっ、そう?」
丁度そのタイミングで、手の中が再度ぶるっと震えた。加熱完了の合図だ。大事なその友達を口に咥えて肺一杯に吸い込む。寝不足と恐怖で縮こまっていた脳みそにようやく血が回って、リラックスしたような気持になる。ふぅ、と横を向いて深く息を吐いて、その一挙手一投足を彼は見ていた。
「そりゃ、15……16歳のお友達の前じゃね。ちょっと演技もするよ」
「……私の前でもか」
彼のその言葉に私はゆっくりと目を細めた。自分だけは特別、私の本当を知っていると思ったのだろうか。私の本名を、彼にしか教えなかったから?……たったそれだけだ。
「そうかもね」
横を向いて、なるべく静かに息を吐いた。こんなリビングのど真ん中で吸うのは気が引けたけど、なんかぼろい家だしいいかなと思った。すでに壁は染みだらけだし、部屋にはちょっとシップのような匂いが充満している。きっと家の中で調薬もするのだろう。
「これから、私どうしたらいいかな」
「……生活の面倒は見ると言っただろう」
「はは……」
いや、そうはいっても。……ねぇ?
急に他人の家に転がり込んで、何もせずに煙草だけ吸うわけにはいかないでしょう。
「帰ることはできないんだよね、きっと」
「帰りたいなら自分でその方法を探るしかないだろうな」
「どうやってそんなこと……魔法なんて使えないのに」
ほんの少し希望を込めてそう言ったけど、彼は何も言わなかった。やはり今、私は魔法を使えない、ただの一般人だ。
「……少し出かけてくる。君はここに居て良い」
「ん、わかった」
彼はそう言って、読んでいた新聞を机に置き、自室からローブのようなものを取ってリビングのドアの前でバシッと大きな音を立てて居なくなった。その、壁を思いっきり平手打ちしたような音に少し驚きながら、これが姿くらましかと思い至るまでに数秒かかった。学生の時はまだそれを学ぶ前だったから、本物は初めて見る。こんな風に大きな音がするものなのか。
ひとりになった家の中でようやくほっと息をついて、吸い終わった煙草を機械から外してそのまま手に持っていた。灰皿なんてものは見当たらないし、ゴミ箱を探して家の中を漁るのも申し訳ない。食べかけのトーストを横に避けて、新聞を手元に寄せた。英語の羅列を追いかけていたら今度は眠くなってきて、今は日本の何時だろうかと考えた。飛行機でここに来たわけじゃないし、この時代の日本と比べたって何の意味もないけれど。
いつの間にか冷めた吸い殻を手に握りこんだまま、私はゆっくりと机に突っ伏して、そのまま静かに目を閉じた。
また目を覚ましたら家に戻ってはいないだろうか、それかせめて13年前にと考えたけど、家庭すらままならない16歳の男の子に助けを求めるのか?ただのマグルのおばさんが君に会いに行ったところで何の役にも立てないし、おまけに家無し職無しお金無しじゃなと現実を見た。
生活は簡単じゃないね。
その日、私がテーブルでぐっすり寝てる間、彼は私のために服や靴などを買ってきてくれたようだった。
それを着て翌日、私は彼と一緒にダイアゴン横丁に来た。
「あの……1人でも大丈夫だよ」
「魔法も使えないのにか?」
あの後、彼の前で改めてアクシオを使ってみたがやはり新聞はぴくりとも動かず、私は恥ずかしくなった。人前で真剣にかめはめ波を披露した気分。彼は何も言わなかった。
「……そうだね」
別に、私の買い物はマグルの店でいい。そう言えなかったのは、彼が学生時代、マグルを嫌悪というレベルで毛嫌いしていたのを知っているから。当時の彼の境遇を思えば父親のみならずマグル全体を嫌悪することは理解できたし、スリザリンという寮全体がその価値観なのだから染まるのはむしろ当然だろうとあまり気にしていなかった。彼があのまま育ったのだとしたら、今の私は彼にどう映っているのだろう。考えるだけで憂鬱だ。
どんよりとした気分のまま彼の半歩後ろを歩き、何が欲しいのかと聞かれても曖昧に返事をした。
今一番欲しいものは、下着と生理用品だ。次いでマグルの前でも浮かない服と基礎化粧品。あなたは仏頂面の男性にそれを言える?私は言えない。
それでも何か言わないと何も進まなそうだったので、とりあえず服をもう少し欲しいと言った。気まずいままネグリジェを選び、それだけでいいのかと言われたから何となく外に出ても許されるかなと思う黒いワンピースを選んだ。
「寝巻きばかりそんなに選んでどうする」
「マグルだったらこのくらいの服でも外に出るよ」
「……この服で外に出かけるつもりか?」
「あー、文化の違いだよ」
いちいちその、人をゲテモノみたいに見る目をやめて欲しい。イギリス人女性だってヘソ出してピタピタのレギンスで出かけるぞ、20年後には。
買い物の後、少しお腹が空いたなと思ったら彼が目の前のカフェに寄ると言った。以前、16歳の彼と一緒に行った寂れたカフェ。まだ残っていたのかと驚いて、彼はそれを覚えていて誘ったのだろうかと横を見た。彼はこちらが驚くほど無表情のままで、どうも思ってないようだった。
店に入り、メニューを眺めるが独特の筆記体と暗い照明で文字がよく読めない。日本とは違って呼ぶ前に注文を聞きに来た店員に、彼が「エッグロール」と言った。店員が私に目を向ける。
「……彼と同じものを」
もうよく分からない、メニューを放りながらそういった。
「……ベストサンドイッチを」
彼がそう言って、店員は私より彼の注文を優先する。そのままメニューを回収して店の奥に戻った。
ベストサンドイッチってなに、なんで私の注文をあなたが勝手に決めるのと、喉まででかかったけど言わなかった。
しばらくして食事が出てきて、彼の前には本当に卵の切れ端とチーズを辛うじて挟んだというようなサンドイッチが出された。私のものは、ベーコン、卵、ソーセージ、トマト。だからBESTなのかと納得して、BLTみたいなものかと頭の中で考えていた。
「あの……ありがとね」
「君が昔頼んでいたものだ」
「あぁ……そう?」
そうだっけ、あの時は別にサンドイッチの名称なんて気にしていなかったのかな。
暫く会話の無いまま無言で食べすすめ、食べ終わって紅茶を飲みながら私からぽつりと口を開いた。
「ダイアゴン横丁、以前よりずいぶん賑やかになったね」
「……今はもうあの頃の名残はない。1981年の秋、闇の帝王が唐突に姿を消した」
思わず手に持っていた紅茶を置いて、数回瞬きをした。
「……終わったの?あれが?」
私がいた1年半、このイギリス魔法界は常に争いごとの中にいた。私はてっきり、魔法使いとはそういう民族なんだと思ってたくらいだ。親マグルと反マグルの永遠の争い。その事をマグルは一切知らないというのがまた滑稽。
「そう……1981年……えっと、9年前?あー、そう……良かったね」
私は心の底からそう言ったけど、彼はYESもNOも言わなかった。
「例のあの人、なんで姿消したの?」
「……それは誰にもわかっていない」
「へぇ、怖いね」
そう言えばそう、スネイプ君もその反マグル派の過激集団、死食い人になるのではと当時危うく思っていた。だからそれとなく魔法薬学の教授を勧めていたのだけど、まさか本当にその道を選ぶとは思わなかった。
「まぁ、良かった。それなら私も殺されなくて済みそう」
笑ってくれよ、顔こわ。誰か死んだんですか。
「……ほんとうにまた、ダイアゴン横丁に居るんだねぇ」
仕方なく話題を変えようと思い、窓の外、グリンゴッツ銀行を眺めながらぽつりとつぶやいた。
「私に……――――のか?」
だから何?もうちょっと口開けて喋ってよ。
「……?path……なんとかってなに?」
「……なんでもない」
思わず口からあふれ出しそうになった大量の息を、鼻から少しずつ出した。へいへい、どうせ私の英語じゃ君とおしゃべりもできませんよと、そんな言葉をのみ込んで。それでも今日すべてのお金を払ってくれているのは彼だ。
あの頃と、立場は綺麗に逆転している。
店を出て、少し人気のない暗い路地に入る。彼が無言で私に手を差し伸べて、私はありがとうと呟きながら近寄った。来るときにも使った、付き添い姿くらましだ。
暖炉ネットワークもポートキーも慣れるものではなかったが、これはまた一段と奇妙な感覚がある。痛みは無いけど体が引き延ばされて、物質とか時間とかすべての概念のはざまを通っていく。当然、私は私の形をしていないし、それは一緒に飛んでいる彼も同じだから、2人の境目も無くなって文字通りひとつになる。
はぐれないようにと彼の腕を掴んだはずなのに、そこにはローブも自分の手も無い。彼は確かに私を掴んでいるだろうか、途中で離されてしまったら、私は擦り切れて死ぬという恐怖。体が無いのに心臓がどきどきする。
「……っ」
大抵の場合、姿現しは建物の中に直接はやらない、それが作法だと聞いていたけど、彼は自宅のリビングに直接現れた。自分の家なら関係ないのだろうか。
床に降り立ったという感覚は無く、靴の裏に突然床を押し付けられるからそこが下なんだと理解する。急に上下左右を指定されて、三半規管が追い付かない。食べたばかりのサンドイッチが出てきそう。
「……ありがとう」
自分の興奮を悟られないように、へらりと笑いながらお礼をいった。まるでジェットコースターだ。
「大したことではない」
彼が口角を上げると、そのすべてが嘲笑にしか見えないのだが、私の被害妄想だろうか。ゲストルームの扉を開けて、買ってもらった服をどこに仕舞おうかと思案する。彼が後ろから覗き込み、杖を振ったらすぐにクローゼットがひとつ現れた。
「あ、ごめん。ありがとう」
「何か足りないものがあるなら言えばいい」
「うん、わかった」
気が利かないは撤回かも、意外と察しがいい。まるで頭の中まで見えてるみたいだ。
それから彼は自室に籠ってしまって、私は今日買った少ないものを片付けたらもうやることが無くなってしまった。時刻はまだ午後3時で、テレビもスマホもなくどうやって時間を潰せばいいのかわからない。リビングの机の上に新聞だけ置かれていたから、なんとなくそれを読んだ。
なんだかそう、ラプンツェルみたい。私も髪の毛をぶん投げてブランコでもしようか。彼女のように壁に絵を描いてもいいかも。この家、殺風景だし。残念ながら、今の私には絵の具も無いけど。
結局また寝るくらいしかやることもなく、机に突っ伏して夢と現実を行き来していた。生活リズムはまだ整わないし、こうやって昼に寝ていてはまた夜寝れなくなるだろう。睡眠の浅いところで遊んでいたら、また急にガチャリとドアの開く音がした。
「んぁ、スネ……あー……スネイプさん」
あらおはよう、なんて軽く声を掛けそうになったけど、私はまだ彼を一度も名前で呼んでいなかったので思わずためらってしまった。でも彼はそう名乗っているのだし、いい加減認めるしかないのかもしれない。
流石に家の中でまでローブは着ないようで、白いシャツに黒のベスト、そしてスラックスを着ていた。結構近代的な格好をするのだなと思いながら、まぁあの魔法界の服飾文化って結構独特だよなとどうでもいいことを考える。
家の中でもゆったりと丈の長いガウンを引きずって歩く魔法使いらしい恰好もいいけれど、君はやっぱり自分を律するような緩みの無い服装で、装飾の無いその無骨なスタイルがよく似合う。
そんなことをいろいろ考えて服を買ったのが私にとっては去年なのに、彼にとってはもう13年前。あの服、あの後も着てくれたのだろうか。
「なんだ」
「いえ別に……なにか家のこと手伝いましょうか?」
とにかく何かやることが欲しくて、ただ座っているだけはもう苦痛だった。
「君の手を借りるほどのことは無い」
「あぁ、そう」
戦力外通知ってこんな感じ?
「料理する……されるんですか」
「……敬語でなくていい」
「……ごめん。難しくて」
そう言いながら、下手くそな英語をシンプルに戻してカウンターに近づいた。彼が杖を降れば小さめの鍋に水が湧き出てコンロの火がひとりでについた。もう一度杖を振ると今度はカゴの中から人参とじゃがいもが出てきて、お互いの体を擦り付けながら水道の下で汚れを落としている。
「……凄い」
「今さら珍しいものでもないだろう」
「そんなことない、魔法で料理するのは初めて見る」
杖の先から火が出てくるより、こちらの方がよほどわくわくする。
「君は良い旦那さんになれるね……というか、彼女とか居ないの?」
自分でいいながらはっとした。魔法界は結婚の平均年齢も随分早かった気がするし、29なんてもうそういうことのある年齢では?まぁ、この何も無い家に住んでるのを見る限り、何もなさそうだけど。
「いない。……お前は?」
「居ないよ、幸いなことにね」
失踪で迷惑かける人が少なくて良かった。
「……その割には随分と帰りたそうだな」
「いや、別に……」
この状況になったら、みんな似たようなものだと思うけど。
「あんまりあなたに、迷惑をかけないようにしたいと思ってるだけだよ」
「人がひとり増えたところで何も変わらない」
「……ありがとう」
気を遣わせないようにそう言ったのか、本気でそう思ってるのかの区別もつかない。今まで、こんなに無表情の人と喋ったことは無い。
「……この13年、君はどうしてたの?」
「……日々を、過ごしていただけだ」
ぴくりとも笑わないその仏頂面と、深い眉間のシワ、実年齢より老けて見えるその肌が、あまり気楽ではない空気を漂わせる。この少年の健康と幸福をと、あの日確かに祈ったのに、私の願いは通じなかったのかもしれない。にこにこと天使のように笑って、リリーと素敵な子供でも作ってればよかったのに。
「元気そうで良かったよ」
それでもちゃんとした職に就いて、こうしてまともな生活を送っているのだから、それで十分か。彼はちらりと私の表情を一瞥して、何も言わなかった。
私があなたのためにしてあげられることなんて、今はもう一つもない。ああ、早くここから立ち去りたい。
イヤホンから聞こえる歌をなぞりながら1人でキッチンに立ち、スマホを片手に換気扇の下でiQOSを吸う。キャミソールに短パンを履いて、蒸し暑い日本の夏に溶けるように体が馴染んでいく。
半年と少し前、なんの予兆もなくまた目が覚めたら見知らぬベッドで寝ていて、起き上がってからようやくそこが実家だと気づいた。記憶にないソファベッドの上、リビングで起きた私は、早朝から起きてきた甥っ子に元気に挨拶された。
「おはようサマンサ!今日はね、公園行こうね!」
「……え?」
変な夢の続きでも見ているような気分だった。体も何もかもが元通りなのに、私はサマンサと呼ばれている。甥っ子の後ろについて降りてきた姉に、サマンサってどういうことかと聞けば怪訝そうな顔をしていて、しばらく話した後ひどく驚いた顔になって母を呼んだ。「なまえが元に戻った!」と叫んで。
どうやら“ほんの”1ヶ月半前に、私は仕事を無断で3日も欠勤し、携帯に連絡しても出ない。何か犯罪に巻き込まれたのではと会社が警察に連絡し、警察が親に連絡し、大家立ち合いの元で部屋のドアを開けたら何もせずにうずくまっている私が居たそうだ。食事はお菓子で食べ繋ぎ、暇になったら本棚の漫画を読み、ほとんどの時間、真剣にテレビを見ていたと。なぜスマホの連絡にでないのかと聞かれれば、充電の方法が分からなかったと叫ぶように答えたそうだ。
そして自分はサマンサだと名乗った。鞄のブランドしか浮かばなかった母は、それが一般的な女性の名前だとも思わなかったそうだ。
困り果てた母親が私を精神科に連れて行き、解離性同一性障害と診断された。要は多重人格。私……というか彼女は不満そうだったが、とりあえずその診断結果を受け入れ、実家に戻り、毎日美味しいご飯を食べてそれなりに穏やかに暮らしていたそうだ。
つまりそう、入れ替わっていたということ。
「それでね、先週なまえ突然、自分はバーテミウス・クラウチの娘だって言い出したのよ。さすがに笑っちゃって、ハリー・ポッターの読みすぎて頭おかしくなったの?ってママ言ったの。そしたら誰それ?とかいうのよ。人の名前じゃなくて本だって言ってるのになかなか理解してくれなくて、一緒に映画見たのよ、賢者の石ね。ずいぶん真剣に見てたわ、人格変わってもおんなじ映画が好きなのね?なんかママほっとしちゃった。それで、バーテミウス・クラウチが出てこないっていうから、そのキャラクターはもうちょっと先で出てくるよっていったの。父親がなんかの偉い人なのに、息子が犯罪者になっちゃって、最後はその父親も息子も死んじゃうんだよって。いや、ネタバレだなって思ったよ?でもしつこく聞くからさ、なまえが。正直、ママも映画見たのずいぶん昔だし、あなたから散々聞いてたけどあんまりちゃんと覚えてなかったのよ。そしたらなまえずいぶんショック受けちゃって。今日、秘密の部屋をみんなで見ようって言ってたから、どうかなーって心配してたところだったの。元に戻って良かったわほんとに」
実家で目を覚ました日の夜、母親の説明を聞きながら、私はただ黙って出してもらった温かい緑茶を飲んだ。母は、よかったよかったと何度もそれを繰り返し、私は何も言えなかった。何をどう思い悩んだところで、もう一度私が彼女の体に戻ってホグワーツに通えるわけでもないし、やっぱりあれはストレスで頭のおかしくなった長い夢だったのかと思い直すしかなかった。
とりあえず職場に迷惑をかけたことを謝り、私はまた仕事に復帰した。精神科には定期的に通っているが、毎回簡単な質問を受けて異常なしと診断書を貰うだけだった。それを職場に提出して、短い面談をしてまた仕事に戻る。
生活は巡る。
先月には実家を出て一人暮らしも再開した。実家から職場に通うのは1時間半もかかるし、誰かと一緒に暮らすのは苦手だったから、多少の反対を押し切ってもそうした。
返事を出していなかった高校の同窓会にも顔を出して、何年かぶりに会話をした仲良かった友達の苗字が、山口から小川に代わっていたことを聞いた。結局苗字なんて変わっちゃうから、下の名前だけ覚えとけばいいよと笑っていた。最近は子供が保育園に通いだして、ようやく仕事に復帰できるんだとそんな話を聞いた。
『ひとりくらいなら愛せますように』
手の中に小さく収まるタバコもどきから少し甘ったるい空気を肺に通して、また白い煙を吐き出す。
初めて会った君は15歳だった。最後に別れた時は16歳だった。まだ君は幼くて、それなのに私は余計なことまでしてしまった気がする。大人でいたつもりだったけど、ブレーキが壊れていたのは私の方だ。
愛とはなにか。
キリスト教の教えでは、無償の愛と訳されるアガペーが至高の愛の形だと表現されることが多く、愛は多くの場合救いである。ギリシャ神話では恋愛、性愛という形のエロスがよく描かれる。神々ってのは大抵服をすぐ脱ぎたがるし、愛で身を滅ぼしたがる。
『どっか遠くまでゆくのがいつで、ひとりじゃないなら、ねぇ誰とどこで』
所詮夢の中のこと、所詮空想の世界。そんな場所での自分のふるまいを反省したって、堂々巡りで何の意味もないのに。小説の中の少年の、最後のときが決まっている男の、健康と幸福を祈る女がどこにいる?
セブルス・スネイプの物語は完結している。彼はリリーにその生涯をささげることで己と向き合い、十分にその魂を燃やして死んでいった。その生きざまは多くの人に愛されて、主人公を超える人気を持つ。美しいストーリーだ。あの世界を成り立たせる、何よりも重要な柱。誰にも邪魔は許されない、さもなくばハリー・ポッターは成り立たない。
iQOSから吸殻を外して灰皿にいれ、さっき置いたタバコの箱に手を伸ばす。いい加減、これを吸うのももうやめにしたいのに。箱の中の残り3本を眺めながら、どうしようかと迷っていたら急にみぞおちがぐっと埋まるような奇妙な感覚がした。
「ぅ、なに……」
まさかほんとにタバコの吸いすぎで死ぬ?それは嫌だ。足元がふらつき目の前のキッチンが遠のいて、ヤバいと思って目を閉じた。血の気が引いて、息が吸えなくなる。
ほんの数秒、衝撃に備えて体を固くしたはずなのに……一向にそれが来ない。なのに体は横になってる気がする。おそるおそる目を開けて、そこがまだ暗くて呆然とした。とんでもなく頭が痛いし、なんだこれ、くも膜下出血?目が見えないことが何より怖い。
「きゅ、救急車……」
とりあえずスマホをと思いながら自分のお尻を探って、そう言えばスマホはカウンターの上に置いたままだったと思い出す。
マジでヤバい、ほんとに、死ぬ、頭痛い。割れる。
「――――?」
「なに……え?」
あぁ、イヤホンをしたままだった。Siriでも起動したかと思い耳に手を伸ばす。このまま声で救急車を呼ぼうか、そういうことできるよね?
「Hey Siri,救急車呼んで」
「…………Siriという名前は無いが」
「え?……あ、え?」
それは低い、男性の声だった。目が見えなくなったと思ったのは勘違いで、ただこの部屋が薄暗いのだと気づく。その男性は暑苦しい大きな真っ黒の布をまとって、半年と少し前まで散々見ていたあの魔法使いたちの格好に似ていた。
言葉もそう……英語だ。今度は以前のように、英語を母国語のようには理解できない。私は、私の脳みそのままでここにいる。
「あ、あの、えっと……ここは……」
日本語はきっと通じないだろうと思い、たどたどしい英語を話した。あれ以来、まるで語学留学でもしたかのように以前よりはずいぶん流暢に英語を話せるようになった。そのことだけが唯一、自分の不思議な体験を肯定するようで、忘れないようにと英会話だけは続けていた。それでもやはり、本物の外国人と喋るのは緊張する。
「……イギリスだ。ミッドランズにあるコースワース」
「え?コースワースってスネ……ぃったぁ」
先ほどの割れるような頭痛がまた襲ってきて思わずその場でうずくまる。目の前の男性が何か声をかけてくれているが、その声で頭痛が悪化するので黙っていて欲しい。
とにかくそう、コースワースといえばリリー、そしてスネイプ君だ。どういうことだろう、私はまたあの謎のタイムトリップをしたのだろうか?魔法というおまけ付きの。
「すみません、大丈夫です……」
そう言って曖昧に笑いながらとりあえず上半身を起こし周囲を見渡した。あまり広くはない、古そうな家だ。普通の民家だろうか?キッチンと暖炉があって、部屋の中はがらんとしている。明かりはついておらず、そこかしこにろうそくが吊るされそれが光源となっている。まるでホグワーツのように。
「あの、ごめんなさい私、なんで自分がここに居るのか、わかって無くて……あの、あなたは誰ですか?」
彼が一瞬、困惑したように口を閉じたので、私は自分の英語が伝わらなかったのだろうと思った。
「ごめんなさい、私の英語伝わりますか?すみません、あまり上手では無くて……」
「いや、理解できる、それは……それは問題ない。失礼だが君の名前は?」
「あ、えっとなまえ・みょうじです」
「……私はセブルス・スネイプだ」
「………………えぇ?」
いやいやいや、何の冗談?思わず周囲を大きく見渡して、なんのどっきりかとネタ晴らしを探してしまう。いくら首を振っても、後ろを振り返っても私たち以外は誰もいない。
「え、いや……」
違うでしょう?そんなことまで言葉にできなくて、私は小刻みに首を左右に振った。質の悪い冗談ならやめてくれ。
「……なぜだ」
「だって、彼は、私の知っている彼は16歳の男の子で、あの、とても、あなたのような……」
「……大人ではない、と」
「え、えぇ……」
目の前の彼がふっと笑って、どこか自虐的に笑いながら手を差し伸べる。
「時間の……――――、魔法で……――、――……もできる」
「……え、なに?」
まてまて、なんていった?この人ぼそぼそ喋るし早口だからよく聞こえないんだけど。とりあえず差し出された手から逃げるようにずり下がって、私はすぐ背後にある本棚にぶつかった。いつだったか、マルシベールに殺されかけたスリザリンの談話室を思い出した。
「……なぜ逃げる」
「い、いえ、逃げているわけでは……」
逃げるでしょうそりゃ、この薄暗い空間で、見知らぬ男性と二人。しかもその人が昔の自分の知り合いだと嘘をつく。
その言葉の真偽もわからないし、ひどく怪しげな大きなローブ。そのローブをバサッとやったら、内側にいくらでもナイフを仕込めそうな、犯罪者が身を隠すような大きな布。
自分の震える手からコロンと黒いiQOSが落ちて、2人の間に転がっていく。彼がゆっくりそれを持ち上げた。
「これは?」
「あ、iQOS……煙草です、加熱式の……」
「これが煙草?」
私は小さく何でも頷いて、反対の手でキツく握りしめていた煙草の箱を差し出した。これを刺し込んで使うんですと、そんなどうでもいいことを説明するように。彼が私に手を伸ばすと、もうそれだけで怖かった。彼が箱を受け取る前に、思わず先に私が箱を手放した。当然、それは床に落ちると思っていたけれど、まるで宇宙のように宙に浮いている。
気付いたら彼は右手に細い杖を持っていて、それを煙草の箱に向けていた。その杖に見覚えがあって、私はようやく彼の言葉を少し信じた。
「その、杖……彼の……」
「だから言ってるだろう、私がその本人だと」
私は曖昧に、ただ曖昧に笑う。だれか私に嘘だと言ってほしい。心臓が異常な速さで脈打って、どこかに逃げろと警鐘を鳴らすけど、どこにも行けるわけがないじゃないか。
「本当に?」
「君が現実を受け入れることができるならな」
……いちいち遠回しに言わないで。そういうところ、すごく彼らしいけど。
「お前はどれだけの時を過ごした」
「……ごめん、もう少しわかりやすく言って」
「あれから何年たった」
「あぁ……8か月だよ」
「……こちらは13年過ぎた」
「13年?」
嘘でしょう?眉をよせる私に、彼が改めて手を差し伸べた。尻もちをついたままの私はおそるおそる彼の手を取って立ち上がる。彼の手は大きく少し荒れていて、節がゴツゴツしていた。私は促されるままに質素な、とても質素な椅子に座った。
今更だけど、ここはどこなんだろう。とても人が普段住んでいるとは思えない、よく言えばミニマリストの家。悪く言えば廃墟。
「じゃぁ……今あなたは29歳?」
「そうだな」
ならもう同い年だ。彼の話が真実なら、だけれど。
黙ったままの私の前で彼が杖を振ると、目の前に新聞が一部パサリと落ちた。無言でそれを持ち上げて日付を確認する。1990年7月12日、水曜日。
新聞の見出しには、“ダイアゴン横丁の「大釜屋」、底に穴の開いた不良品を誤って販売か!?”と書かれている。ああ懐かしいダイアゴン横丁、1990年なんて、本当に?
「頭の整理はついたか」
「どうして……私はここに」
「……私は知らない」
嘘だ、と思った。どう考えても不自然じゃないか、また都合よく私が彼の前に現れるなんて。あんな、人にも言えないようなバカみたいな体験に、私はまた巻き込まれるの?それも今度は、知り合いを騙る不審者付きで。前回のように人の目にあふれ、学校という守られた場所で、他人の皮を被ってい時とは違う。私は私のままで、私を守るものは何もなく、見知らぬ男性と二人きり。ただひたすら、自分が世界から切り離された事実に絶望する。
魔法の前ではたとえ自分がどれほど武術の達人であっても無意味だけれど、それでもやはり男性と二人きりという環境は怖い。彼がポケットにしまったその杖もちゃんと怖い。今この場で、私はただひたすらに弱すぎる。
ただ黙ったまま唇を噛んで、新聞の端を握りしめた。これから私はどうしたらいい?何が正解?冷静ではいられないまま、必死で頭を動かす。今まで私の人生で、こんなに恐怖を感じた事があっただろうか。
「……身の回りのものは私が整えよう」
「ありがとう、ございます」
よそよそしくそう言って、私は目の前の男の目をちらりと見た。
ねっとりと絡みつくような黒い髪、血の通っていないドラキュラのような白く濁った肌、生涯で一度も笑ったことの無さそうな硬い表情、決して過ちを許さなそうな鋭い黒い目。
幼い子供を大釜に突っ込んでぐつぐつと煮るような、そんな魔女の童話を思い出した。そうだ、魔女とは悪しきものだった。男ならいいってことは無いでしょう?むしろ女性の方がまだ良かったかも。
俯いたままテーブルの木目を見つめて、まさに生きた心地がしなかった。
その日は埃っぽいゲストルームをあてがわれて、彼が杖を一振りするととりあえずは風が吹いて綺麗になったようだった。何もないがらんとした空間に、あっという間にベッドが現れて、それで寝るようにと言われた。そのほか生活に必要なものは明日揃えるから、今日はもう寝ろと言う。今何時かと聞くと、急に壁に現れた時計が深夜1時を指していた。私は彼になるべく穏やかにお礼を言って、彼が部屋を出て行くまで神経質に見守った。
ベッドに腰を掛けると知らない人の匂いがした。きっとそう、彼は自分のベッドを複製魔法でここに作り出したのだ。あのセブルス・スネイプ(大人)を信じていいものか、わからないまま布団を見つめる。杖が同じだけで本当に彼かどうかなんてわからない、殺して奪うことだってできる。あの世界はいつだって魔法使い同士で殺しあっていたじゃないか、空に蛇の印を掲げて。それでも彼が、あの16歳の彼と面影が似ていることは、私だってわかってる。わかってはいる。
おそるおそる布団をめくって、ベッドの上で上体を起こしたまま膝を抱えた。
彼が本当に、彼ならば、両手をあげて受け入れたい。よくわからないけどどうやらこの13年、君は大変だったんだねと微笑みかけたい。でもとてもそんな状況ではないのだ、何もかも。彼はどこか私を拒絶しているように感じるし、怒っているようにすら思える。何もかも知らない世界で、私は空気をひとつ吸うことすら恐ろしい。
自分の生活が一切ままならないことがわかっていて、きっと今度は魔法も使えないであろうことも察していた。だって今度は、ちゃんと自分の体のままここにいるのだから。今死んだら、私は本当に死ぬだろう。
そもそもなぜ私は、初めてサマンサ・クラウチとして目覚めたとき、あんなにもすんなりこの魔法の世界を受け入れたのだろうか。なぜ人知の及ばぬ力に恐怖しなかったのだろうか。なぜあんなに、まるでテーマパークの入り口をくぐるように魔法とその学校を受け入れたのだろうか。
さっぱり思い出せないし、考えれば考えるほど頭が痛い。
少なくとも私は今、自分が知らない世界に来てしまったことが怖い。彼の気分ひとつで、簡単に殺されてしまうだろうこの状況が怖い。銃を持っている人間と丸腰で同居している、あるいはもっとたちが悪い。彼が私に悪意が無いと、それをはっきりできないととても同じ家で寝てもいられない。私の武器はiQOSと煙草3本だ、そう思うとちょっと笑える。
『ミスター・スネイプ』
サマンサの体に居たとき、私は彼をいつもそう呼んだ。今もきっとそう呼ぶだろう。
「ねぇどこにいったの」
日本語でつぶやいて、私は唯一の自分の武器を口にくわえた。たった3本を消費してしまうのが心もとなくて、電源ボタンも押せないままただ根元を噛んだ。
前回と唯一違うのは、これがきっと夢ではないと確信しているところ。きちんと自分の体のままで居るからだろうか、現実感が薄れることも無い。私の心臓がここで動き、血が巡っている。以前はそう、なんとなく、彼女の体で死んでもGAME OVERで元の世界に戻れるような、きっとそんなことを考えていた。今度はそんなボーナスステージではなさそう。
死にたくないのなら、私はここで生きなければならない。
翌朝、一睡もできないままベッドで膝を抱え、窓から差し込む朝日を眺めた。ちゅんちゅんと鳴く鳥の声が絶望的だ。ようやく重くなってきた瞼を閉じ、少し遠くでガチャリとドアの開く音が聞こえ、あぁ彼もようやく目を覚ましたのかと思った。もう9時前だし、相変わらず朝は遅いのか。まぁ、私の休日の方がよっぽど朝は遅いけれど。
さらに30分ほど膝を抱えて過ごして、どうにもならないなと諦めて部屋のドアを開けた。
「おはよう」
「……寝てないのか」
彼がやっぱり昨日と同じく、眉間に険しすぎる皺を寄せたままそう言った。その顔のせいで責められている気分になる。彼に寝ろと言われれば、私は眠くなくても寝なければいけないのだろうか。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか、噛み合わない返事をしながら自分の二の腕を掴む。何か羽織るものを借りたいけれど、それも言い出しづらい。ここは日本より寒い。
「朝食だ」
ドアの前で突っ立ったままの私に、彼が空いた椅子を促す。食卓には、皿の上にトーストが一枚載っていた。
「ありがとう」
お礼を言いながら椅子に座り、とりあえず添えられていた温かい紅茶を飲んだ。それがとても体に染みるように感じて、少し熱いくらいの温度に安心した。
「……おいしい」
彼の機嫌を伺うように目をやりながらそう言った。
「……なら良い」
彼もまた、私の反応を伺うように短くそう言った。
いろいろ会話をしたいけど、英語だとそれもおぼつかない。
ねぇスネイプ君、13年の間に何があったの?本当に君はあのスネイプ君なの?ここは君の実家?両親は?リリーはどうしたの?世界は?ヴォルデモートはどうなったの?
一晩中抜けなかった頭痛と寝不足で、もう思考が鈍っていく。一口齧ったトーストは味が無くてぱさぱさしたけど、今の私にはそのくらいがちょうどよかった。
「元の世界に戻って、何をしていた」
「えっと……彼女、サマンサ・クラウチが私の体に居たみたいで」
突拍子も無いことと笑われるかと顔色を伺うが、彼は相変わらず無表情で何を考えているのかわからない。
「ごめん、英語でなんて言うのかわからないんだけど、精神の病気だと思われていたみたい」
「まぁ、そうだろうな」
彼が肯定したことに少しほっとする。
「私が日本に戻って、ようやく病気が治ったと、そう思われたよ。私もそう振舞った。そのまま仕事に戻って……また一人で住み始めたところだった」
そう言えばそう、心配する母親を押し切って一人暮らしを再開して、それからまだ1ヶ月経度しか経ってない。
「今は、向こうはどうなってるんだろう……」
「戻りたいのか」
「戻れるなら……」
人を心配させるのは趣味じゃないし、職場に迷惑もかけたくない。
「まぁ、私がいなくてもどうにかなるだろうけど」
なにかを誤魔化すようにポケットの中のiQOSと煙草を触った。
「煙草を吸いたいなら吸っていい」
「いや、いいよ、ごめん」
まだもったいない。
「あなたの話も聞かせてよ、仕事は何を?」
「……ホグワーツで教授をしている、魔法薬学の」
「あっ、そうなの?あぁ、そう……教授に。すごいね」
「別に……お前が思っているようなものではない」
「あぁうん?まぁあの、いいんじゃない?そう……いつから?」
「7年前」
「えっとじゃぁ……20歳?21?」
「21だ」
「すごいね、最年少じゃない?」
「知らない」
あぁ、イライラする。なんだ、こんな世界一不幸そうな顔して、人生勝ち組じゃん。
「ごめん、やっぱタバコ吸っていい?」
「好きにしろ」
新品の煙草を差して電源ボタンを長押し。残機は3-1。指に反応してぶるっと震える手の中の重みが愛おしい。テクノロジーって、魔法みたいに曖昧でないからいい。誰が使っても同じ反応をする。
「仕事楽しい?」
「動物を飼うことが趣味なら悪くないだろうな」
「あぁ、うん……君らしくて落ち着くよ」
「お前はどちらかというとsullenに見えるな」
「sullenって?」
「……機嫌が悪そうだ」
「あはっ、そう?」
丁度そのタイミングで、手の中が再度ぶるっと震えた。加熱完了の合図だ。大事なその友達を口に咥えて肺一杯に吸い込む。寝不足と恐怖で縮こまっていた脳みそにようやく血が回って、リラックスしたような気持になる。ふぅ、と横を向いて深く息を吐いて、その一挙手一投足を彼は見ていた。
「そりゃ、15……16歳のお友達の前じゃね。ちょっと演技もするよ」
「……私の前でもか」
彼のその言葉に私はゆっくりと目を細めた。自分だけは特別、私の本当を知っていると思ったのだろうか。私の本名を、彼にしか教えなかったから?……たったそれだけだ。
「そうかもね」
横を向いて、なるべく静かに息を吐いた。こんなリビングのど真ん中で吸うのは気が引けたけど、なんかぼろい家だしいいかなと思った。すでに壁は染みだらけだし、部屋にはちょっとシップのような匂いが充満している。きっと家の中で調薬もするのだろう。
「これから、私どうしたらいいかな」
「……生活の面倒は見ると言っただろう」
「はは……」
いや、そうはいっても。……ねぇ?
急に他人の家に転がり込んで、何もせずに煙草だけ吸うわけにはいかないでしょう。
「帰ることはできないんだよね、きっと」
「帰りたいなら自分でその方法を探るしかないだろうな」
「どうやってそんなこと……魔法なんて使えないのに」
ほんの少し希望を込めてそう言ったけど、彼は何も言わなかった。やはり今、私は魔法を使えない、ただの一般人だ。
「……少し出かけてくる。君はここに居て良い」
「ん、わかった」
彼はそう言って、読んでいた新聞を机に置き、自室からローブのようなものを取ってリビングのドアの前でバシッと大きな音を立てて居なくなった。その、壁を思いっきり平手打ちしたような音に少し驚きながら、これが姿くらましかと思い至るまでに数秒かかった。学生の時はまだそれを学ぶ前だったから、本物は初めて見る。こんな風に大きな音がするものなのか。
ひとりになった家の中でようやくほっと息をついて、吸い終わった煙草を機械から外してそのまま手に持っていた。灰皿なんてものは見当たらないし、ゴミ箱を探して家の中を漁るのも申し訳ない。食べかけのトーストを横に避けて、新聞を手元に寄せた。英語の羅列を追いかけていたら今度は眠くなってきて、今は日本の何時だろうかと考えた。飛行機でここに来たわけじゃないし、この時代の日本と比べたって何の意味もないけれど。
いつの間にか冷めた吸い殻を手に握りこんだまま、私はゆっくりと机に突っ伏して、そのまま静かに目を閉じた。
また目を覚ましたら家に戻ってはいないだろうか、それかせめて13年前にと考えたけど、家庭すらままならない16歳の男の子に助けを求めるのか?ただのマグルのおばさんが君に会いに行ったところで何の役にも立てないし、おまけに家無し職無しお金無しじゃなと現実を見た。
生活は簡単じゃないね。
その日、私がテーブルでぐっすり寝てる間、彼は私のために服や靴などを買ってきてくれたようだった。
それを着て翌日、私は彼と一緒にダイアゴン横丁に来た。
「あの……1人でも大丈夫だよ」
「魔法も使えないのにか?」
あの後、彼の前で改めてアクシオを使ってみたがやはり新聞はぴくりとも動かず、私は恥ずかしくなった。人前で真剣にかめはめ波を披露した気分。彼は何も言わなかった。
「……そうだね」
別に、私の買い物はマグルの店でいい。そう言えなかったのは、彼が学生時代、マグルを嫌悪というレベルで毛嫌いしていたのを知っているから。当時の彼の境遇を思えば父親のみならずマグル全体を嫌悪することは理解できたし、スリザリンという寮全体がその価値観なのだから染まるのはむしろ当然だろうとあまり気にしていなかった。彼があのまま育ったのだとしたら、今の私は彼にどう映っているのだろう。考えるだけで憂鬱だ。
どんよりとした気分のまま彼の半歩後ろを歩き、何が欲しいのかと聞かれても曖昧に返事をした。
今一番欲しいものは、下着と生理用品だ。次いでマグルの前でも浮かない服と基礎化粧品。あなたは仏頂面の男性にそれを言える?私は言えない。
それでも何か言わないと何も進まなそうだったので、とりあえず服をもう少し欲しいと言った。気まずいままネグリジェを選び、それだけでいいのかと言われたから何となく外に出ても許されるかなと思う黒いワンピースを選んだ。
「寝巻きばかりそんなに選んでどうする」
「マグルだったらこのくらいの服でも外に出るよ」
「……この服で外に出かけるつもりか?」
「あー、文化の違いだよ」
いちいちその、人をゲテモノみたいに見る目をやめて欲しい。イギリス人女性だってヘソ出してピタピタのレギンスで出かけるぞ、20年後には。
買い物の後、少しお腹が空いたなと思ったら彼が目の前のカフェに寄ると言った。以前、16歳の彼と一緒に行った寂れたカフェ。まだ残っていたのかと驚いて、彼はそれを覚えていて誘ったのだろうかと横を見た。彼はこちらが驚くほど無表情のままで、どうも思ってないようだった。
店に入り、メニューを眺めるが独特の筆記体と暗い照明で文字がよく読めない。日本とは違って呼ぶ前に注文を聞きに来た店員に、彼が「エッグロール」と言った。店員が私に目を向ける。
「……彼と同じものを」
もうよく分からない、メニューを放りながらそういった。
「……ベストサンドイッチを」
彼がそう言って、店員は私より彼の注文を優先する。そのままメニューを回収して店の奥に戻った。
ベストサンドイッチってなに、なんで私の注文をあなたが勝手に決めるのと、喉まででかかったけど言わなかった。
しばらくして食事が出てきて、彼の前には本当に卵の切れ端とチーズを辛うじて挟んだというようなサンドイッチが出された。私のものは、ベーコン、卵、ソーセージ、トマト。だからBESTなのかと納得して、BLTみたいなものかと頭の中で考えていた。
「あの……ありがとね」
「君が昔頼んでいたものだ」
「あぁ……そう?」
そうだっけ、あの時は別にサンドイッチの名称なんて気にしていなかったのかな。
暫く会話の無いまま無言で食べすすめ、食べ終わって紅茶を飲みながら私からぽつりと口を開いた。
「ダイアゴン横丁、以前よりずいぶん賑やかになったね」
「……今はもうあの頃の名残はない。1981年の秋、闇の帝王が唐突に姿を消した」
思わず手に持っていた紅茶を置いて、数回瞬きをした。
「……終わったの?あれが?」
私がいた1年半、このイギリス魔法界は常に争いごとの中にいた。私はてっきり、魔法使いとはそういう民族なんだと思ってたくらいだ。親マグルと反マグルの永遠の争い。その事をマグルは一切知らないというのがまた滑稽。
「そう……1981年……えっと、9年前?あー、そう……良かったね」
私は心の底からそう言ったけど、彼はYESもNOも言わなかった。
「例のあの人、なんで姿消したの?」
「……それは誰にもわかっていない」
「へぇ、怖いね」
そう言えばそう、スネイプ君もその反マグル派の過激集団、死食い人になるのではと当時危うく思っていた。だからそれとなく魔法薬学の教授を勧めていたのだけど、まさか本当にその道を選ぶとは思わなかった。
「まぁ、良かった。それなら私も殺されなくて済みそう」
笑ってくれよ、顔こわ。誰か死んだんですか。
「……ほんとうにまた、ダイアゴン横丁に居るんだねぇ」
仕方なく話題を変えようと思い、窓の外、グリンゴッツ銀行を眺めながらぽつりとつぶやいた。
「私に……――――のか?」
だから何?もうちょっと口開けて喋ってよ。
「……?path……なんとかってなに?」
「……なんでもない」
思わず口からあふれ出しそうになった大量の息を、鼻から少しずつ出した。へいへい、どうせ私の英語じゃ君とおしゃべりもできませんよと、そんな言葉をのみ込んで。それでも今日すべてのお金を払ってくれているのは彼だ。
あの頃と、立場は綺麗に逆転している。
店を出て、少し人気のない暗い路地に入る。彼が無言で私に手を差し伸べて、私はありがとうと呟きながら近寄った。来るときにも使った、付き添い姿くらましだ。
暖炉ネットワークもポートキーも慣れるものではなかったが、これはまた一段と奇妙な感覚がある。痛みは無いけど体が引き延ばされて、物質とか時間とかすべての概念のはざまを通っていく。当然、私は私の形をしていないし、それは一緒に飛んでいる彼も同じだから、2人の境目も無くなって文字通りひとつになる。
はぐれないようにと彼の腕を掴んだはずなのに、そこにはローブも自分の手も無い。彼は確かに私を掴んでいるだろうか、途中で離されてしまったら、私は擦り切れて死ぬという恐怖。体が無いのに心臓がどきどきする。
「……っ」
大抵の場合、姿現しは建物の中に直接はやらない、それが作法だと聞いていたけど、彼は自宅のリビングに直接現れた。自分の家なら関係ないのだろうか。
床に降り立ったという感覚は無く、靴の裏に突然床を押し付けられるからそこが下なんだと理解する。急に上下左右を指定されて、三半規管が追い付かない。食べたばかりのサンドイッチが出てきそう。
「……ありがとう」
自分の興奮を悟られないように、へらりと笑いながらお礼をいった。まるでジェットコースターだ。
「大したことではない」
彼が口角を上げると、そのすべてが嘲笑にしか見えないのだが、私の被害妄想だろうか。ゲストルームの扉を開けて、買ってもらった服をどこに仕舞おうかと思案する。彼が後ろから覗き込み、杖を振ったらすぐにクローゼットがひとつ現れた。
「あ、ごめん。ありがとう」
「何か足りないものがあるなら言えばいい」
「うん、わかった」
気が利かないは撤回かも、意外と察しがいい。まるで頭の中まで見えてるみたいだ。
それから彼は自室に籠ってしまって、私は今日買った少ないものを片付けたらもうやることが無くなってしまった。時刻はまだ午後3時で、テレビもスマホもなくどうやって時間を潰せばいいのかわからない。リビングの机の上に新聞だけ置かれていたから、なんとなくそれを読んだ。
なんだかそう、ラプンツェルみたい。私も髪の毛をぶん投げてブランコでもしようか。彼女のように壁に絵を描いてもいいかも。この家、殺風景だし。残念ながら、今の私には絵の具も無いけど。
結局また寝るくらいしかやることもなく、机に突っ伏して夢と現実を行き来していた。生活リズムはまだ整わないし、こうやって昼に寝ていてはまた夜寝れなくなるだろう。睡眠の浅いところで遊んでいたら、また急にガチャリとドアの開く音がした。
「んぁ、スネ……あー……スネイプさん」
あらおはよう、なんて軽く声を掛けそうになったけど、私はまだ彼を一度も名前で呼んでいなかったので思わずためらってしまった。でも彼はそう名乗っているのだし、いい加減認めるしかないのかもしれない。
流石に家の中でまでローブは着ないようで、白いシャツに黒のベスト、そしてスラックスを着ていた。結構近代的な格好をするのだなと思いながら、まぁあの魔法界の服飾文化って結構独特だよなとどうでもいいことを考える。
家の中でもゆったりと丈の長いガウンを引きずって歩く魔法使いらしい恰好もいいけれど、君はやっぱり自分を律するような緩みの無い服装で、装飾の無いその無骨なスタイルがよく似合う。
そんなことをいろいろ考えて服を買ったのが私にとっては去年なのに、彼にとってはもう13年前。あの服、あの後も着てくれたのだろうか。
「なんだ」
「いえ別に……なにか家のこと手伝いましょうか?」
とにかく何かやることが欲しくて、ただ座っているだけはもう苦痛だった。
「君の手を借りるほどのことは無い」
「あぁ、そう」
戦力外通知ってこんな感じ?
「料理する……されるんですか」
「……敬語でなくていい」
「……ごめん。難しくて」
そう言いながら、下手くそな英語をシンプルに戻してカウンターに近づいた。彼が杖を降れば小さめの鍋に水が湧き出てコンロの火がひとりでについた。もう一度杖を振ると今度はカゴの中から人参とじゃがいもが出てきて、お互いの体を擦り付けながら水道の下で汚れを落としている。
「……凄い」
「今さら珍しいものでもないだろう」
「そんなことない、魔法で料理するのは初めて見る」
杖の先から火が出てくるより、こちらの方がよほどわくわくする。
「君は良い旦那さんになれるね……というか、彼女とか居ないの?」
自分でいいながらはっとした。魔法界は結婚の平均年齢も随分早かった気がするし、29なんてもうそういうことのある年齢では?まぁ、この何も無い家に住んでるのを見る限り、何もなさそうだけど。
「いない。……お前は?」
「居ないよ、幸いなことにね」
失踪で迷惑かける人が少なくて良かった。
「……その割には随分と帰りたそうだな」
「いや、別に……」
この状況になったら、みんな似たようなものだと思うけど。
「あんまりあなたに、迷惑をかけないようにしたいと思ってるだけだよ」
「人がひとり増えたところで何も変わらない」
「……ありがとう」
気を遣わせないようにそう言ったのか、本気でそう思ってるのかの区別もつかない。今まで、こんなに無表情の人と喋ったことは無い。
「……この13年、君はどうしてたの?」
「……日々を、過ごしていただけだ」
ぴくりとも笑わないその仏頂面と、深い眉間のシワ、実年齢より老けて見えるその肌が、あまり気楽ではない空気を漂わせる。この少年の健康と幸福をと、あの日確かに祈ったのに、私の願いは通じなかったのかもしれない。にこにこと天使のように笑って、リリーと素敵な子供でも作ってればよかったのに。
「元気そうで良かったよ」
それでもちゃんとした職に就いて、こうしてまともな生活を送っているのだから、それで十分か。彼はちらりと私の表情を一瞥して、何も言わなかった。
私があなたのためにしてあげられることなんて、今はもう一つもない。ああ、早くここから立ち去りたい。