第1章
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ここはどこだろうと目を覚まし、何だか薄暗くてちょっと汚い場所だなと思った。
「いつまでぼーっとしてるの?朝食は?」
私は今ベッドの上に居るが、部屋はどこもかしこも見慣れない。光源は見た限りロウソクしかないはずなのに部屋全体がほの明るい。家具は少なく、4つのベッドが部屋の床ほとんどを占めている。話しかけてくる女の子は、17,8歳くらいだろうか?明らかに未成年だと思われるが、白人のような顔立ちをしているのでいまいち年齢がピンとこない。
彼女は自分のベッドの緑色のカーテン――いや、天蓋というのだろうか――の内側から出てきて、修道服のような独特な黒い服を着ていた。そう考えるとここは西洋の古い教会のようにも見えるし、この集団で寝泊まりしている様な部屋も修道院だと言われるとしっくりくる。彼女が服の裾を払い明るい茶色の髪の毛を整えているのを見て、多分私も着替えなければいけないんだろうと思った。
「あのさ……服、何着ればいいかな……?」
「……は?」
彼女は怪訝な表情を浮かべ、どうしたの?と心配そうにつぶやき、私のベッドサイドを指さした。
「シュミーズはそのチェストの中だし、あなたのローブは普通にそこに掛かってるけど……。大丈夫?その、気分が辛いなら今日はもう寝てたら?」
「えっと、ううん……ありがとう」
シュミーズとは何で、あとローブとは一体どういうことか。すべて確認したかったが、それがまるで常識のようだったので思わず聞くことをためらった。とりあえず目の前の彼女のような恰好を完成させたら良いのだろう。
ベッドからおり、布団の外の少し寒い空気にぶるっと震える。今の季節は冬だろうか。引き出しの1番上を引っ張って、長袖の白いブラウスのようなものを一枚取り出した。少し厚手のコットンのような手触りで、ちょっと古臭いデザインだ。おそらく目の前の彼女が黒いワンピース――いや、ローブの中に着ているのはこれだろう。首元に白い襟が見えている。
2段目を引っ張ると、そこには黒いハイソックスと小さなベルトがいくつか入っていた。まじまじとそのベルトを眺め、何のためだろうと考えつつひとつ手に取ってぺろんと伸ばした。ベルトは黒い革製で、20センチ程の長さがあり、2本の短い足が生えている。その先に小さなクリップがあり、何かを挟むようだ。
靴下と一緒に入っているのだから……これは多分あれだ、ソックスガーターか。ハッとひらめいた時は思わず話しかけてくれた女の子の足元を見たが、当然足首までの長いローブの裾に隠れていて何も見えなかった。
彼女は私の視線に気づいたのか、親し気に微笑んで私のベッドの天蓋のレーンにハンガーで吊るしてあった服を手渡してくれた。
「はい、ローブ。私もう先行っちゃうね、今日は朝からクィディッチの練習があって、朝食をゆっくり食べてる余裕が無いの」
「……うん、ありがとう」
――クィディッチ?今、そう言ったよね?
促されるままに彼女がローブと言った黒いワンピースを受け取り、颯爽と部屋を出て行く後姿を見送った。部屋の中に自分以外誰も居なくなり、思わずほっと胸をなでおろす。まずはそう、何が起こってるのか確認しないと。
私は軽くしゃがんで私物と思われるトランクの中の本を一冊手に取った。ハードカバーの分厚い本、表紙には『POTIONS』と書かれ、ページをめくっても当然全部英語。
そう、これは英語だ。なのにさっきから私は当たり前のように英語を英語として理解し、とても流暢にしゃべっている。それに気づいて、震える指先でそっと自分の唇を撫でた。頭の中身も……日本語でなくて英語。もちろん、日本語を浮かべることもできるけど。
なんだろう、あんまりにも全てが現実離れしている、やっぱりただの夢?こんなにも自由に自分の意志で動くことができて、手元の本の重みはとてもリアルなのに……。
でもそう、もし、そう、もしこれが夢じゃないのなら……。
……私は多分、ハリーポッターのスリザリン寮生として唐突に、本当に唐突にトリップというやつをしたのかも知れない。
ゴクリと唾を飲み込んで、目の前のチェストの上に置いてある30センチほどの木製の棒を怖々とつまみ上げた。右手で持って……振るのだろうか?
「……ルーモス」
とりあえず棒の先で目の前の何かを叩くように小さく振ると――先端が電池の切れかけた懐中電灯のように不安定に光ってすぐにフッと消えた。
「うそうそ……うそ」
ぽかんと開く口元に左手を当てて、私はじっと自分の右手を見た。たった今、魔法を使った、自分の右手を。
あまりにも興奮して、本当に心臓が口から出てくる気がした。ぶわっと全身の毛穴が開いて、そこから汗が噴き出る。杖を持つ手も汗ばんで、絶対にこれを落としてはいけないと強く握りしめた。だってそう、落としたら暴発して床が吹き飛ぶかも。
そうしてしばらくそのまま、多分5分くらい石像のように突っ立っていた。その間ずっと、これが夢なのか夢じゃないのかを考えていたが、おそらくここに突っ立っているだけでは答えが出ないということにようやく気付いた。
壁を見たら時計がかかっていて、時刻は8時を指している。とりあえずこの部屋を出てみよう。その前に着替えないといけない。
まずは今着ている、薄いピンク色のフリル付きでかわいらしいワンピースを脱ごう。多分これも、寝間着じゃなくてネグリジェというのが正しい表現なんだろう。チェストを漁って締め付けの緩そうなルームブラのようなものを何枚かみつけた。ワイヤーとかそういう画期的なものはまだないのかもしれない……少なくともそう、この魔法界には。どうせローブですべて隠れるから何でもいいかとそれをつけた。
初めて着用するソックスガーターの特別感とローブの重さに心を躍らせ、部屋にひとつだけある姿見の前に立った。そこに居るのは白い肌に青い瞳、金色の長い髪をもった外国人の女の子。
「これが……私?」
こんなセリフ、人生で使うことがあるなんて。ああ……嘘でしょう?
うふふ、あはは、なんて笑いそうになる口元を抑えて、デート前の浮かれた女の子のように鏡の前で一回転した。
そうだよね、そう、映画のハリー・ポッターはブラウスにスカートと現代風の私立学校のような制服姿だったけど、原作ではそんな描写は無かった。ハリーがダイアゴン横丁で買っていたのは、頭からすっぽりかぶる魔法使いの黒いローブ、確かそんな風に表現されていた。
入念な身だしなみチェックのあと、私はこわごわドアの前に立ち、大きく深呼吸してからゆっくりとドアノブをひねった。まるで大冒険の一歩目、そんな緊張と興奮が入り混じった気分だ。28歳独身OL、生まれ変わって魔女になる――なんてね。来る直前にトラックに轢かれる定番の演出は無かったように思う。
廊下には誰も居なくて、左右どちらに行けばいいのかもわからなかったからとりあえず右に曲がった。突き当りに見えた階段を、これもまた上るのか下りるのかわからず、とりあえず下りることにした。
しばらく同じようなフロアが続いたが、3階ほど下ると急に視界が開けて談話室らしきものが目に入った。ひと際目を引く大きな窓の外には例の湖が見えて、やりかけだったホグワーツレガシーを思い出した。少しひやんやりとした肌寒さと通り抜けることの無い停滞した空気がどうしようもないほどにスリザリンらしくて、最高の雰囲気だった。
「おはよう」
私は心を浮つかせたまま、自分にさらっと挨拶をしてくれた顔の整った男の子を見た。
今、彼は私に挨拶したのだろうか?念のため後ろを確認して、誰もいないことを確認してから口を開いた。
「あの、うん、おはよう……」
「朝食これから?」
「うん……あー、あなたも?」
「そうだよ。……一緒に行く?」
「うん……」
この子は誰だろうか。わざわざ朝食に誘ってくれるということは、それなりに親しい友人、もしくは恋人?そうであれば嬉しいがまだわからない。緊張のあまり脇の下がピリピリとむず痒く、そんな体の感覚もここが夢の世界ではないと言っているようだった。ポケットの中の杖をそっとなぞって、きちんと持っていることを確認した。
黙ったまま彼の隣を歩いて談話室をでる。不自然にならないように気をつけながら、私は周囲に目を配らせた。石造りの重厚な造り、壁に掛けられた何枚ものざわめく絵画、危険極まりない動く階段、同じような黒いローブを着たたくさんの外国人の子供たち。
「うわ……」
そしてその広間に着いた時、私は堪らずに感嘆の声を漏らした。身長の2倍はありそうな大きな2枚の扉が広く開放され、その奥には4つのとてつもなく長いテーブルの端が見える。天井に広がる空、空中に浮かぶロウソク。――ああ、大広間だ。
映画版のハリー・ポッターでは、賢者の石の時だけ本物のロウソクをワイヤーで垂らし、いろいろと大変だったという裏話を聞いたことがある。そのため秘密の部屋からはCGになったと。でもこれは本物だ、本物のロウソク。
本当は足を止めてゆっくり見たかったが、彼を見失ってはいけないので慌てて前を向いた。彼は少し先で振り返り、どこか機嫌良さそうに私を見ていた。
「珍しいものでもあった?」
「ううん、何でもない」
友人か恋人かわからない彼に、どういう声掛けが正しいのか見当もつかない。彼の隣に腰かけて、彼の真似をして皿をとった。すると目の間の空だった大皿に急に様々な焼きたてパンが追加されて、その隣にはフルーツ、牛乳、それからコーンフレークのようなものまで次々現れた。
「ちょうどよかったね、入れ替わりのタイミングで」
「うん、そうだね」
私は目線を食べ物にくぎ付けにしたまま、彼の言葉にとりあえず返事をした。
「サマンサじゃない、もう泣くのはやめたの?」
とりあえず無難そうなクロワッサンを手に取り、それに恐る恐るかじりついたときに後ろから女子生徒の声が聞こえた。サマンサという女の子がどこかで泣いていたのだろうか、そんなことを思いながらさりげなく左右を確認した。
「やだとぼけちゃって、あなたしかいないでしょサマンサって!」
そう言って軽く肩を叩かれて、私は必要以上に驚いた。
「……え、うん」
あ、そうなの?私の名前?いや、私の名前は……名前は……。そういえばそうだ、姿かたちが違うのだから名前が違って当然じゃないか――私はどうして今この瞬間までこんな当たり前の事に気付かなかったのだろう。
――私は、私ではない見知らぬ別人になったのだ。
口の中のクロワッサンを無理やり飲み込んだせいで、かけらが変なところに入ってしまった。こんな時にと思いつつ咳き込みながら慌ててコップを探すと、隣の彼が苦笑いでお水を差し出してくれた。なかなか収まらない咳の間で必死に水を飲み込みつつ、この女の子に返事をしないいい言い訳になった。
「なに?咳で誤魔化しちゃって!でも元気になって良かった、ほんと心配したんだからー!いやぁ流石にさ、私もあれは可哀想だと思ったよ?あんなさ、ふふ……あんなラブレターの公開なんて!」
彼女は比較的大きな声でそう言って、また思い出すように笑い始めた。どうにも感じが悪く、私はこの子に馬鹿にされていると察した。察したが、それまでだった。私はラブレターなんてものの存在も知らないし、知らない女の子の知らない恋愛事情を聞いたところで何の感情も動かない。おまけにそれが17かそこらの学生ときたら、青春ですねとしか言いようがない。
「ねぇ、あんな男のどこが良かったの?ただの血を裏切る者じゃない、はしたない。あなたって本当、顔しか見てないの?もっとちゃんと考えた方が良いわよ、もう4年生なんだから」
全然彼女の話しが読めない。一体全体、私が誰に告白したのかも分からないが、ただ1つ、4年生という単語が気になった。ホグワーツは11歳で入学するから、今私は14歳ということになる。誕生日がいつかわからないのでもしかしたら15歳かも知れないが、鏡で見た時の印象より実年齢は幼いようだ。白人の子供はやはり日本人より大人びて見える。
「あの、うん……気にかけてくれてありがとう」
とりあえず咳が落ち着いてから、私は彼女にそう言った。彼女は少しつまらなそうな顔をして、眉毛を軽くあげた。
「まぁね。元気になったら良かったわ」
彼女はそれだけ言って、なれなれしく私の肩をぽんぽんと2回叩き、革靴のかかとをコツコツ鳴らしながら立ち去った。
さて。私はコップに残った水を煽って、ゆっくりと目を閉じた。意識を集中させて、まずは自分の名前を考える。
彼女はそう、さっき私をなんて呼んだだろうか。……ダメだ、雑音のように聞き流していたからよく覚えてない。そうでなくとも、こういうものって自然と覚えているのでは無いだろうか。少なくとも私がこの前読んだ、縦読み漫画の悪役令嬢転生モノはそうだった。自分の経験ではないはずなのに、この体の女の子の人生がまるで当事者のように頭に浮かんだ……みたいな。
……頭に……頭に…………ああ、浮かばない。
大きく長いため息をついた後に目を開けて、ちらりと隣に座る彼を見た。この大広間まで案内してくれて、私に挨拶してくれた彼。頼れるのはもう君しかいない。
彼はどこか薄ら笑いを浮かべながら、私の言葉を待っているようだった。
「大丈夫?」
私を促すように小さく聞いてくれる。顔も良くて気も使える、なんて素敵な小さい彼氏(仮)、推定14歳。
「うん……あのさ、凄く変なことを聞くんだけど……もしこれであなたに不快な思いをさせてしまったら謝るんだけど……あなたって、私の……友達?それとも彼氏……とか?」
彼が口を開く前に、今度は正面から別の声が聞こえた。
「……何を言ってるんだ、弟だろう?」
「え?……え」
え、弟?そう言いかけた言葉を飲み込んだのは、正面の彼の容姿が魔法界のあるキャラクターを連想させたから。まるで魔法のように、さっきまで何百人もの生徒達に紛れて背景と同化していたその男子生徒が、急に輪郭を持って現れた。
肩まである少し長い黒髪はやや油っぽくぺったりと束になっている。特徴的な大きめの鷲鼻に、白人の中でもさらに血色の悪そうな蝋のような肌。黒く鋭い目に、口角の下がった不機嫌そうな薄い唇。
「君の……名前は?」
「……は?」
「あの……私、多分記憶が無いの……君の名前、聞いてもいい?」
ただこの疑問に、最速で答え合わせをしたかった。
「……セブルス・スネイプ」
その名前が鼓膜を叩いた瞬間、私の右手は、無意識に分厚いガラスのコップを握りつぶしていた。ガラス片が手のひらに刺さり、焼けるような痛みが走る。
「やだごめんっ」
早口でそう謝って、今度は隣に座っている彼に水がかかっていないかと確認した。あぁそうだ、そういえば彼は弟なんだと、よりにもよって彼氏と混同するなんて非常に申し訳ないことをした。
「あの、ごめんね。私、あなたの忘れてて、その、弟だって……」
「……ううん、なんか変だなと思ってた」
彼はそう言って相変わらず作ったような笑みを浮かべながら、杖を軽く振って割れてしまった私のコップを直し、こぼれた水を乾かした。
「……上手なんだね、魔法」
「そうでもない、普通だよ」
私は喋りながら、テーブルの上にあった白いナプキンで傷口を抑えた。
「あの……ごめん、改めてあなたの名前を聞いてもいい?」
「バーテミウス・クラウチだよ」
「……クラウチ?」
え、待て待て待て。待て?
「え、えっと……じゃあ私のファミリーネームは、クラウチ?」
「まぁ、当然そうだと思うよ」
――は、は、は。
乾いた笑いを浮かべながら、セブルス・スネイプとバーテミウス・クラウチ・ジュニアの顔を交互に眺めた。
半端に開いてしまう口元を抑えて、もうなんて言えばいいのかわからない。私はハリー・ポッターの世界にきて、おまけにこんな主要人物達の学生時代に立ち会っているのだ。耳に届く全ての音が太鼓のようになり響き、目に映る全ての光が万華鏡のように輝いて、『世界最高を、お届けしたい』とあの声が頭で流れた。切ったばかりの手のひらの痛みすらこれが夢でない証であり、いっそ愛おしい。
「……大丈夫?姉さん」
クラウチ・ジュニアが私に深緑色のハンカチを手渡した。呆然とそれを受け取って初めて、私は自分が涙を流していることに気づいた。
「……ありがとう、ごめんね」
軽く目元を抑えてそのハンカチを返し、私はゆっくりと呼吸を整えた。今は感動して泣いてる場合ではない、アラサーになるとどうにも涙腺が緩んで参ってしまう。
「ごめん、大丈夫。私の名前、聞いてもいい?」
「サマンサだよ……本当に覚えてないの?」
目の前の彼にそう聞かれると少し申し訳なくなる。もし仲の良い兄弟だったとしたら、その姉の中身が別人になっているなんて想像もしたくない。無意識のうちに視線をずらして、食べかけのクロワッサンを眺めた。
「うん、ごめん……。えっと、私は4年生なんだっけ?」
「ああ……僕と同じ学年だ」
そう答えてくれたのは黒髪の方。
「スネイプ……君と」
まさか今、スネイプ先生と呼ぶ訳にもいかないので、ミスターをつけて誤魔化した。こういう呼び方って同級生でも普通?英語を理解することは出来るが、知らない文化的なニュアンスはインストールされていない。ケチャップとマヨネーズが混ざるような、なんとも言えない新しい価値観が自分の中で形成されていく。
「姉さん、他に覚えていることはある?」
クラウチ・ジュニアにそう聞かれて、私は少し考えてから口を開いた。
「自分のことは……さっぱり」
「ほんとに?何も?じゃぁ何か……別のことは覚えてるの?」
「えっと……うん……。なんとなく、常識的なことは……」
この時初めて、私はこのまま自分が記憶喪失ということにしたら良いと思いついた。実際に記憶喪失になった人を見たことは無いけど、ドキュメンタリーを見ていた限り彼らはまるで普通の常識人のように振舞っていた。記憶と一緒に言葉を忘れたサルになる訳では無いはずだ。
「あのー、……スネイプ君と私は、その、友達だった?」
「……いや、ほとんどしゃべったこともない」
「そうなんだ……。じゃぁさ、もしよかったらこれから友達になれると嬉しいかも」
そう言って笑いかけたら、彼はとんでもない面倒なことを言われたとでも言いたげな顔をしてちらりとクラウチ・ジュニアの表情を伺い、また私を見た。
「……なんのために。僕に得はない」
そのセリフがあまりにもセブルス・スネイプらしくて、私は笑った。
「やだな、友達は損得じゃないよ」
だってそう、大好きだったんだ彼が。pixivで名前を検索して、フォレストプラスで夢小説を探し、考察系Youtubeを見て改めて原作を読み直す、そんな休日の過ごし方をしていた。それを思い出すとなんだかストーカーか何かのようで若干の後ろめたさを覚えた。
「迷惑かけないようにするからさ、あの、同級生のことも誰のことも覚えてないから、ちょっと心細くて」
「君のようなうるさい人間と居るのは好きじゃないんだ。ただまぁ……その失敗した忘却呪文のようなものを君自身が使ったなら話は別だがな」
「忘却呪文……なのかな?」
「それすら忘れるのか?まぁ、そうか……」
無口なのかと思ったが、案外よくしゃべるようだ。とにもかくにも、その場で会話が成り立つことにほっとした。
「とりあえず保健室にでも行ったらどうだ……そのままじゃ学校生活すらままならないだろう」
「あ、うん確かに……えっと、一緒に来てくれる?スネイプ君」
「は?なんで僕が」
「だって保健室の場所、わからないから」
「……いいけど」
そう言ってちらっとスネイプ君は私の隣を見て、私もつられてそちらを見た。
「……僕も一緒に行くよ、姉さん」
「ごめんね、ありがとう」
そう言えばそうだ、先に声をかけてくれた弟の彼をないがしろにするべきではなかった。
「あの……ほんとにありがとね、朝も君が声かけてくれたから私、朝食にありつけたようなものだよ」
目を覚ましてからずっとテーマパークに来たように浮かれて、コスプレ気分でローブを着て、子供のように彼の後ろを歩いていた。一応、来月には29になる年だっていうのに恥ずかしい。このクラウチ・ジュニアは少なくとも14歳の私より年下だと言うのに。
「あなたが弟で良かったよ」
3年前に生まれた甥っ子を思い出して、なんだか親のような気分になってしまった。だってそう、私は本を読んで彼の悲劇を知っているのだから。クラウチ・ジュニアは何かを馬鹿にするように鼻で笑ったけどそんなことは気にならなかったし、年相応だなと思った。
朝食を食べ終えて、私たち3人は大広間を出た。スネイプ君が前を歩いて、私はなんとなくその隣を歩き、半歩後ろにクラウチ・ジュニアが居る。先ほど大広間に来たときの興奮も収まり、今度は知らない街に来てしまったような不安を覚えた。急に、前後を歩く男の子二人が、見知らぬ世界での唯一の案内人のように思えて心強い。
「そういえば今日は授業とかないの?」
「随分今更だな、今日は日曜日だ」
「あ、そうなんだ。何月何日?」
「……1月28日」
「そっか、道理で寒いと思った」
ぼそぼそ喋るスネイプ君の声に必死で耳を傾けながら、またきょろきょろとあたりを見渡した。よく見たらみんなローブの上にマントを羽織っているし、半数くらいの子がマフラーもしている。ローブだけで出てきてしまった私はちょっと軽装だ。歩く度に足元から入ってくる冷気に背中をぶるりと震わせて、冷たい両手をこすり合わせる。石造りの城だから、なんだかより一層寒く感じる。
「姉さん、他にどんなこと覚えてるの?」
「あぁうん……なんだろう、本当に普遍的なことは覚えてるの。言葉もそうだし、知識とか……。あ、でも魔法界のことはあんまり覚えてないかも。魔法だってことはわかるんだけど……」
「ふーん……じゃぁ授業は苦労しそうだね」
「ああそうかも。多分あなたの方がずっと賢いよ」
なんて言ったってクラウチ・ジュニアだもの、O.W.L試験はオール優だっけ?ハーマイオニー以上の秀才なんだよね。
「ねぇ、私はあなたのことなんて呼んでたの?」
「……普通に、ファーストネームだよ」
「そうなんだ、そこれからもそう呼んでもいい?」
「好きにしていいよ」
「ありがとう」
彼は父親と今どんな関係で、どこまで闇の魔術に傾倒しているのだろうか。ああ、そんなことよりさっきから歩く度にずり落ちそうになるソックスガーターが気になって仕方ない。仕事でトラブルを抱えたまま有休をとって旅行に来てしまったような、落ち着かない気分だ。そう言えば現実世界はどうなってるのか……。
「……どこまで行くつもりだ」
セブルス・スネイプに声をかけられて、私は足を止めた。
「あ、ごめん。ここが保健室?」
彼は私の問いに返事をすることなく、ドアを開けて中に入っていく。
日曜の朝っぱらから保健室送りになるような間抜けはいないのか、他に生徒の姿はなかった。スネイプ君が当たり前のようにデスクにあるベルをならすと、奥の部屋から赤いメイド服のようなものを着た女性が顔を出した。きっと彼女がマダム・ポンフリーだろう。
「はいはい、どうしました?」
「……はい、あの……私の頭がおかしくなってしまったようで」
何と言ったらいいのかわからずそう伝えたら、マダム・ポンフリーは「はいはいわかりました」と慣れた様子で手招いた。とりあえず指示されたベッドに腰かけて、クラウチ・ジュニアとスネイプ君も近くに立って診察を見守った。
「どんな違和感があるの?」
「いろんなことを覚えてないんです、特に……自分に関すること」
マダム・ポンフリーは少し真剣な顔をしてカルテのようなものを呼び出した。
「名前は?」
「サマンサ・クラウチです、先ほど教えてもらいましたが、これも覚えてはいませんでした」
「……生年月日は?覚えてる?」
「覚えてません」
「一番新しい記憶は?」
「今朝、ベッドで目を覚ましたところからで、それ以前の記憶はありません」
マダム・ポンフリーは小さく頷いただけだった。
「これが何かわかる?」
「……羽ペンです」
「今いる場所は?」
「保健室です」
「ええそう、学校に居るっているのはわかる?」
「ああはい、ホグワーツですね」
「それは覚えてるのね。ここが魔女と魔法使いのための学校ということは?」
「はい、わかります」
「そう……。忘却呪文かしら」
私は曖昧にうなずきながら、なんとなくそわそわと手を握ったり開いたりを繰り返した。これが夢か現実か、もう一度それを考えた。
マダム・ポンフリーがすぐに右手の切り傷に気付き、あっという間に魔法で治してくれた。自分の傷がみるみる治っていく様子に、興奮と恐怖を覚えた。なんだかそう、肉体の再生を早送りで見るのは、まるで傷口が意思を持っているようでグロテスクだ。
「あなた、自分がどこの寮かわかる?」
「えっと……」
その答えを知っているのはセーフ?アウト?あぁ、これからもこんな些細なことで迷っていくのだろうか。
「スリザリンだ」
スネイプ君がぼそっと答えて、マダム・ポンフリーは「ありがとう」と返事をしてカルテに何かを書き込んだ。
「悪いけどあなたたちどちらかスラグホーン先生を呼んできてくれるかしら?」
2人は一瞬顔を見合わせたが、すぐにスネイプ君が動いた。
「あの、私もついていっていいですか?その、ちょっと校舎の中を歩いてみたくて」
「ああ、いいかもしれないわ。記憶が戻るかも」
「……わかりました」
スネイプ君は眉間にしわを寄せて、小さなスネイプ先生になっていた。
「そんなに嫌そうな顔しなくても」
「いいからさっさと行くぞ」
まるで友達のようなやり取りに、自分も学生に戻ったような気分だった。
軽くマダム・ポンフリーに頭を下げ、クラウチ・ジュニアになるべく早く戻るねと声をかけ、私は小走りでスネイプ君を追いかけた。とにかくみんな同じような黒いローブを着てるのだ、見失ったら二度と見つけられない気がする。
「ごめんねスネイプ君、なんか長くなっちゃいそうで。スラグホーン先生?に会えたらそこまでで大丈夫だよ」
一歩を大きく出すと、足元にまとわりつく重たいローブが想像以上に歩きにくい。……ああ、服の中で靴下が片方ずり落ちた。
「別に君に親切にしてるわけじゃない、もし本当に忘却術の失敗ならそれに興味があるだけだ。まぁ十中八九それだろうがな」
「そうなの?なんでそう思うの?」
「……運よく君は忘れているだろうが、昨日まであることで散々泣きわめいていたんだ。僕が気になるのは忘却術を使ったのが君自身なのか友人か……。どちらにせよ、忘却術などそこらの学生の手に負えるものではない、ましてやその後遺症など、どのような経過をたどるのか見ものだな」
意地悪な言い方だ。これが見知らぬ他人だったらちょっと感じ悪いなと思うけど、あのセブルス・スネイプだから可愛いと思う。
「私、なんで泣き喚いてたの?スネイプ君知ってる?」
「ずいぶん騒いでいたから誰でも知ってる……シリウス・ブラックの名前に聞き覚えは?」
「……だあれ?それ」
もちろん知っているけど。
「グリフィンドールの傲慢で自意識過剰な生徒だ。同じ学年のな。……君はそれに告白をしたんだ。ふん、まったくいい趣味をしているな」
「ふーん、それでフラれて、じゃぁラブレターはきっと私が書いたんだね?」
先程、大広間で言われたラブレターの公開というワード、あれは私のラブレターだったのか。
「ああそうだ。そしてそれをブラックが掲示板に貼った」
スネイプ君はにやりと笑って、馬鹿にするように両手を上に向けた。
「掲示板に?やだ、可哀そうそれはちょっと」
「君のことだが?」
「ふふふ、忘れちゃったから」
それにしてもまぁ、シリウス・ブラックだったらすごくやりそうな気がする、解釈一致だ。キャラとしてはストーリー上非常に面白いポジションだし、何よりイケメンという設定だったから読者としては嫌いではなかったが、ここで近づくのは辞めておいた方が良さそうだ。
「ねぇ、スネイプ君からみて私ってどんな女の子だった?」
「……声が大きく騒がしい、常に人の注目を集めたがる浅はかな魔女だ」
随分と刺々しい言葉が並んだ気がする。
「あー、えっとごめん、なんかあった……?」
「何もないと言ってるだろう、必要以上に僕に構うな」
「そんな突き放さなくても……」
「君と親しくなってどうする?プロの忘却術師が君の記憶を戻した後、君は僕との会話を愉快な友人たちとの話のネタにでもするのか?」
一気に冷たい水をかけられたような気分だった。そうだ、私は何を勘違いしていたんだろう……このままずっと、この見知らぬ女の子の体で、ホグワーツで魔女として暮らせるなどと。
「……ごめん」
この前読んだ悪役令嬢の漫画がそうだったから?ああ、とんでもなく浅はかだ。私はもっと……根本から考え直さなくてはいけない。
例えばそう……2025年の東京で暮らしていたなどという記憶が偽りで無いか、私という存在はいったい何なのか、など。
「……私の記憶、戻るのかな」
サマンサ・クラウチは、再びこの体に戻るのだろうか。そうしたら、“私”の存在はどうなるのだろうか。
「……僕が知るわけないだろう」
それからは黙ったまま足だけを動かした。スネイプ君は私に一切話しかけてくることは無く、それだけでとても大人びて見えた。少なくとも、こんなにドタバタしている私よりよっぽど。本当に、私は28歳だったのか?体が異なるだけで、人はこんなにも簡単にアイデンティティを失うのだろうか。
スネイプ君が足を止めて、私もそれに倣った。彼が目の前のドアを少し強めにゴンゴンとノックする。しばらくして、中からはいはいと声が聞こえた。
「おや、珍しい組み合わせだ。何かあったのかな?」
自分の思考に区切りをつけられず、第一声に何を答えたらいいのかわからなくなってしまった。微妙な間の後、無言の私にしびれを切らしたように、スネイプ君がスラグホーン先生の問いに答えた。
「……彼女の記憶が無いそうです。たまたま朝食で顔を合わせたので先に保健室へ寄りましたが、マダム・ポンフリーがスラグホーン先生を呼ぶようにと」
「おやおやおや、なんと……!」
スラグホーン先生は私を見て、大袈裟に眉を下げて優しく微笑んだ。
「大丈夫だサマンサ君、不安だったね……記憶ならきっと直ぐに戻る。さぁ、一緒に保健室に戻ろう、マダム・ポンフリーの助言を聞いた方が良さそうだ。悪いねセブルス、案内をありがとう」
スネイプ君が無言のままチラッと私を見る。その視線にどこか後ろめたいような気まずさを覚えて、手のひらを隠し、愛想笑いを浮かべた。私にとってのテーマパークが、ここに暮らす彼らにとっての現実なのだ。
「あの……ほんとにありがとうスネイプ君。時間取らせてごめんね」
「……別に」
彼はそう言って、少しゆっくりその場を立ち去った。
それからスラグホーン先生とまた来た道を戻りながら、先生は私に何を覚えていて何がわかないのかを聞いた。私はまたさっきと同じように、一般的なことは覚ているが自分に関する記憶が無い、覚えているのは今日の朝、ベッドで目を覚ました所からだと嘘をついた。今までの人生でそう何度も嘘をついたことは無いし、後ろめたさはより強固になった。
保健室に着き、マダム・ポンフリーとスラグホーン先生からさらに詳しい質問を受けた。
「校長の名前は覚えているかね?」
「……いいえ」
「何か覚えている呪文はあるかね?」
「えっと、あまり正確には……」
「なるほど。ちょっと試してみてくれるかな?覚えているものなら何でもいいよ」
「……ルーモス」
「ほうほうほう!よかった、魔法は無事に使えるようだ!」
「やはり彼女は忘却呪文の可能性が高いと思いますね」
「そうですねマダム・ポンフリー、私もそう思います。そうするとあれですね、専門家に戻してもらった方が良いでしょうな」
専門家に戻して貰う――。記憶をという意味だとわかるのに、私にはまるで人格を矯正されるような恐怖を覚えた。今の私とは、いったい何者なのだろうか。ゴースト以下の取るに足らない朧な存在だと、例のあの人がクィレル・クィリナスの後頭部に張り付き喋っていたあのシーンが頭に浮かんだ。
「そうですね、聖マンゴに連絡してみましょう。おそらく来週になるでしょうが……それまでは……」
マダム・ポンフリーがちらりと私を見て、口を開いたのはスラグホーン先生。
「そうだなぁ、サマンサ君はどうしたい?通常通り授業に出てくれても構わないし、もし辛ければ保健室で休んでいても構わないよ」
「……出来れば授業に出たいです。記憶が戻った時、穴があると辛いので……」
「うむ、素晴らしい!私もそう思う、そうしよう」
スラグホーン先生がにこにこと人の良い笑顔を浮かべて、ずっと黙っていたクラウチ・ジュニアを見た。
「バーテミウス、彼女が困らないように君にも協力してもらえるかな?なに、そんなに長い期間にはならないだろう。やはりこういう時は家族で助け合えるのが1番だ。クラウチ氏もそれを望んで居るだろう」
一瞬、だけど確実に、父親の名前を出された瞬間、彼は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「もちろんですスラグホーン先生、大切な姉ですから」
「……ごめんね、迷惑かけて」
ようやくここで、私は明確に、弟に嫌われていると気づいた。クラウチ・ジュニアはすぐに私に優しく微笑んで、そんなに謝らなくていいよと言った。
私は……違う、この体の女の子はどんな姉、どんな人物だったのだろうか。原作に名前も出てこないサマンサ・クラウチという女の子は、いったい誰なのか――。
その後、彼女の友達という同室の女の子が呼び出され、スラグホーン先生が事情を説明し、丸一日その子のお世話になった。朝クィディッチの練習があると言って出て行った子だったので、クィディッチの話を聞けば嬉しそうにいろんな話をしてくれた。可能性があればプロ選手になりたいとまっすぐ語る女の子の、あふれる情熱が少し眩しかった。同室の他の2人の女の子もとても気さくだったが、ひたすらに喋り続けるその滑らかな口に14年分の歳の差を感じた。
夜寝るとき、この夢はもう終わってしまうのだろうと思った。少し寂しく、少し安堵し、そして恐怖した。元の世界に戻ることなく、線香の煙のように私の魂が消えてなくなるような、そんな考えが頭を占めた。何度も寝返りを打って、睡魔に抵抗し、ゆっくりと暗闇に沈んだ。
次の日、朝、目を覚まして、なんだか少し薄暗くて汚い場所だと思った。夢だけど、夢じゃなかったぁ、と朝から頭の中でメイとサツキが踊っている。今は1975年、多分まだトトロも公開前だ。
「おはようサマンサ、気分はどう?記憶は?」
「ありがとう、気分は普通だけど記憶は相変わらず……戻ってないかな」
昨日と違って、今日は4人全員がまだ部屋に残っていた。時計を見れば、朝の7時。夜通し喋った絆は確かに重たい瞼の裏に残っていた。
「……あのさ、ソックスガーターがズレてきちゃうの。みんなどうしてるの?」
「やだ、固定呪文だよ!忘れちゃったの?教えてあげるよ」
「ごめんありがとう」
自然と微笑みながら、私はもう少しこの世界で遊んでいくことにした。
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