八乙女楽(IDOLiSH7)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
21.父
扱いは、まるで大事なお客様。触り心地の良い大きなソファに誘導され、サツキは拒否できずに腰掛けた。
いつからどこから、気付かぬうちに綿密に企てられた罠。サツキは連れて来られたツクモプロダクションで、意味のない後悔をしていた。
誰かが見ていたのだ。龍之介との偽りの密会を撮影された時のように、誰かがサツキを見張り、待ち構えていた。
サツキは膝の上で拳を握り、正面で鎮座する月雲了から目を逸らした。
逃げ道を塞ぐように背後に立つのは御堂虎於だ。
今のサツキに分かるのは、彼のデビューまでは平穏でいられるという希望が甚だ勘違いだったということ。
そして、自分が思っていたよりもずっと、事務所絡みの抗争の最中にいたのだということだ。
「どうして、と言いたげな顔だね」
サツキの目が声の方へ動く。
仮面をつけたかのような笑顔がそこに浮いていた。
「でも、知っていたはずじゃないか。そこにいる虎於から話は聞いてるんだろう?ㅤあんなことがあって忘れるはずがないよねぇ!」
弾んだ声と淀んだ空気が、不協和音のように胸をざわつかせ、サツキは息を詰まらせた。
声の発し方も、息の仕方も見失う。居心地の悪さと息苦しさに、ただ早く解放して欲しいと祈る。
「さてー……じゃあ本題だ。サツキ、ウチにおいで」
膝の上に置いていた拳を解き、サツキは自分の太股に爪を食い込ませた。
知っている誘い文句だ。サツキがまだ大丈夫と封印していたそれは、やはり一寸も有り得ない提案だった。
「お互い、穏便にすませたいじゃないか。僕も、意地悪をしたいわけじゃないんだよ?」
「……っ、そんな、こと」
「やっぱり、少し脅さなきゃ駄目かな」
途切れさせたサツキの回答に、焦れったく月雲が体を揺らす。
「君がウチに来れば、十龍之介にかかった疑惑を、彼女の妄言だったと公表しよう」
月雲はテーブルに置いてあった雑誌を手に取り、バサとページを開いてサツキの前に放った。
『ツクモプロダクションの人気ナンバーワン女性歌手を八乙女事務所へ引き抜き。恋人である十龍之介の独断か』
目に入った大きな文字に、サツキは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。嘘にまみれた記事。真実などあってもなくても同じ。それは、サツキもよく知っている。
「っでも、そんなの、信じられません……」
「この記事になってる彼女、虎於に夢中でね。これを指示したのも彼なんだよ」
月雲の言葉に、サツキは体を捻って振り返った。
「そ。俺が言えば何でも言う事聞く女だから。『嘘でしたって言え』ってな。たった一言で済む」
「……っ、アナタは、こんなことまで……」
出会った頃と変わらない顔でサツキを見下ろす御堂に、罪悪感なんてものは微塵も存在していない。
サツキはそれを感じ取り、ぱっと体の向きを戻した。正面の月雲を見ないように、俯き、唇を噛む。
「いい話じゃないか。君が犠牲になれば、皆何事もなく済む。十龍之介は同情を誘う被害者になるわけだ」
「……俺が、犠牲に」
「そう、単純な話だろう? 代わりに君は、ツクモで完璧にプロデュースしよう。誰も敵わない、誰もが羨むアイドルになれる」
月雲には端から交渉するつもりがない。こうして事務所に連れ込んで囲う時点で、サツキの意思などないも同然だ。
首を縦に振ろうが横に振ろうが、状況は悪化の道を往くだけ。
何も答えてはいけない。それが最善の対応なのだと自分自身に言い聞かせたサツキの首は、ゆっくりと左右に動いた。
「っ……も、いや、です……何も、いりません……」
ぽろと雫が落ちたのを皮切りに、サツキの目からはポロポロと涙が溢れ出した。
悪いのは浅はかな自分。しかし、これまでの人生、それほど悪くは生きてこなかったはずだ。
理不尽な悪に突き落とされ、悔しさと辛さと悲しさと惨めさで満ちた体は、もはや子供のように泣きじゃくることしか出来なかった。
「っ、おれ、俺なんか、居なければ良かった……初めから、頑張らなければ良かった……!」
「おいおい、どうした」
「もう、やめます、やめますから……許してくださ、ごめんなさい……っごめんなさい……」
何を言っても状況が良くなることはない。泣いていても変わらない。
もはや、そんな当たり前な思考すら失い、サツキは情けなく嗚咽を繰り返した。
自分でも制御がきかないほどに、サツキの心は限界を迎えていたのだ。
「チッ……めんどくさいな」
御堂が小さく舌を打ち、サツキの頭に手を伸ばす。
指先がサツキの髪を捕らえるその時、言い争うような声が部屋の外から聞こえてきた。
「そこを退け!」
焦ったような複数の声と、太く覇気のある第三者の声が聞こえ、訝しげに月雲が目を上げる。
乱暴にドアが開け放たれると、堂々と足を踏み込んできた男の鋭い視線がサツキと、そして月雲をとらえた。
「月雲、貴様……!」
「……ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
癖のある銀髪が心なしか乱れている。
背筋の伸びた立ち姿は普段と変わらないが、厳つい顔付きは鬼のようなオーラを放つ。
サツキは信じられないという思いで、濡れた目元に手の甲を擦り付けた。
「サツキ……、何も言わなくていい、帰るぞ」
「や、八乙女さん……?」
目を見開き固まっている御堂の横を通り、サツキの横に立ったその人は、八乙女事務所の社長だった。
サツキを路頭に突き放した当人が、今度は迷い子にするように手を差し伸べる。
「僕は彼と交渉中なんだけどなぁ。君がこちらに来れば、TRIGGERの悪い噂を全て撤回してあげるってね」
サツキは絡まった糸を引っぱられたかのように、伸ばしかけた腕を引いた。
現実的に考えれば、月雲からの要求は悪いものではない。潰れかけのサツキを切り捨て、TRIGGERを立て直す方が良いに決まっている。
もし、八乙女社長にそれを選ばれたら。サツキは半ば放心状態で、険しい顔を月雲に向ける父親を見上げた。
壁にかけられた時計が静かに時を刻む。それよりも早く、サツキの心臓が生き急ぐ。
「馬鹿にするな!」
その不穏な空気を一蹴するドスの効いた声に、サツキは思わずびくと身を竦めた。
「こいつもTRIGGERも、お前の思い通りにはさせん」
呆然とするサツキの手首が、シワのある白い手に掴まれる。
意外にも力強く引き上げられ、サツキは八乙女社長の胸に寄りかかるようにして立ち上がった。
上目遣いにとらえた八乙女社長は見た事がないほど険しい顔をしている。一方で月雲はへらりと一笑し、御堂はヒュウッと口笛を鳴らした。
月雲は、それ以上何も言わなかった。
スタッフ達も無言で道を開け、サツキは手を引かれたまま大きな建物の外に出る。
駐車場に停めてあった車に乗り込むと、八乙女社長の口からは重々しい溜息が落ちた。
「……とりあえず、事務所に戻るからな」
助手席でサツキがこくりと頷くと、それを合図に車が動き出した。
未だに夢の出来事だったかのよう。嫌な思い出だけを増やした建物が遠ざかっていく。
悲しさや悔しさが薄れていくと、今度は不甲斐なさや情けなさで、サツキは泣きたくなった。
今度こそ、呆れられたに違いない。
「事務所に匿名で電話がかかってきた」
長い長い沈黙のあと。親子のドライブとはほど遠い車内で、ハンドルを握る八乙女社長が口を開く。
想像に反して棘のない声音に、サツキはゆっくりと視線を運転席へ動かした。
「お前が月雲に拉致された、と。TRIGGERを潰すための駒として、ツクモプロに引き込もうとするはずだと」
「……事実、です。でも、もとを辿れば俺が……」
「TRIGGERの収録に帯同している姉鷺を待つことも、電話の発信元を探ることも、最善と思いながらも余裕がなくてな。アポイントもなく、車を走らせていた」
その語調には、社長としての選択を誤ったことへの嘲笑があった。
サツキへの喝は微塵もなく、そのまま車は事務所への路を進んでいく。
「姉鷺には連絡を入れた。アイツらも心配しているだろう。声を聞かせてやったらどうだ」
サツキは信号が赤から青に変わるまで呆然とシワのある横顔を見つめた。
サツキはそういえばと目を見開く。社長が運転席に座る姿を見るのはいつぶりだろう。父の運転する車の助手席に腰掛けた経験は初めてではなかろうか。
「……じゃあ、その、楽に、電話しますね……?」
違和感を残したまま、サツキは鞄からスマートフォンを取り出した。
車内で御堂に切られた電源を入れ、画面に見慣れた待ち受け写真が表示されるのを待つ。
着信は一件、二件どころではなく。真っ先に八乙女社長から、そして姉鷺と続き、楽の名前はずらりと一画面に収まっていない。
サツキは罪悪感に歪ませた顔で通話ボタンに触れた。耳に寄せるや否や、通信音がプツと途切れる。
『サツキ?』
「うん、」
探るような吐息の声。
楽が安堵のため息を零すと、その後ろからも「サツキだ」「よかった」と天と龍之介が交わす声が聞こえてきた。
『今、どこにいる?』
「今は八乙女さんの車。事務所に向かってるよ。ごめん、俺、またみんなに心配かけて」
『そういうの、今いいから』
社長や姉鷺からどうあらましを聞いたのだろうか、楽の声は傷口を労わるように柔らかい。
言葉数が少ないのも、サツキの様子を確かめているからだ。
『詳しいことは後で聞く。無事で良かった。ラジオ収録終わって……マネージャーに聞いて、血の気が引いた。俺も、天も、龍もな』
「あっ、今、後ろに九条さんと龍もいるよね。二人にも、もう大丈夫だよって、伝えてね」
『あぁ。聞こえてる。龍なんて半泣きだぜ』
後ろから「余計なこと言うなよっ」と龍之介の声が聞こえる。その声は楽が言うように半ベソ気味で、サツキは思わずふふっと肩を揺らした。
早く楽に会いたい。みんなに会って安心したい。結局、この場所しかないのだと、サツキは諦めるように微笑んだ。
社長に否定されても、嘘の記事に踊らされても、TRIGGERや八乙女楽がサツキの居場所なのだ。
『早く会って、抱き締めたい』
耳に流れ込む恋人の声音。
サツキは目を閉じて、「うん」と短く返した。
『お前が嫌なこと忘れられるように、何でもしてやりたい』
楽の優しい声を聞いていたくて、サツキはただ静かに頷く。
『辛い思いさせてごめんな』
電話越しの謝罪には、ふるふると首を横に振った。
俺の方こそと反射的に言いかけた口を閉ざし、目を車窓へ向ける。車がゆっくりとバックする。いつの間にか八乙女事務所の駐車場へ到着していたようだ。
「事務所、戻って来たよ。一旦、切るね」
『あぁ、気をつけて』
通話を切ったスマートフォンを鞄に戻し、サツキはシートベルトを外した。
八乙女社長に顔を向け、お待たせしましたという気持ちで小さく頭を下げる。
「……サツキ」
そのサツキの頭から頬へ、腫れ物を触るかのように恐る恐る触れる掌があった。
見上げた社長が、苦しげに顔を歪めている。威厳な姿しか知らない父親の瞳が、微かに揺らいだ気がした。
「すまなかった」
頭の後ろに回された大きな手。引き寄せられたサツキは、細い肩に額をこつんと預けた。
「お前の苦痛に気付けなかった。責任者としても……父親としても、失格だ」
「そ、んな」
「受け入れてくれとは言わない。どうか、責めるなら、俺を責めてくれ」
髪を梳くような優しい手付きで、ぽんぽんと頭を撫でられる。
言葉を返そうと開いたサツキの口は、息に乗った震え声しか吐き出すことが出来なかった。
社長の高いスーツにしとしとと雫が吸い込まれていく。
誰かを責めることなど出来るはずがない。
例え、社長がTRIGGERの解雇を告げたとしても。それを、TRIGGERの三人が快く受け入れたのだとしても。
追加日:2019/08/06
扱いは、まるで大事なお客様。触り心地の良い大きなソファに誘導され、サツキは拒否できずに腰掛けた。
いつからどこから、気付かぬうちに綿密に企てられた罠。サツキは連れて来られたツクモプロダクションで、意味のない後悔をしていた。
誰かが見ていたのだ。龍之介との偽りの密会を撮影された時のように、誰かがサツキを見張り、待ち構えていた。
サツキは膝の上で拳を握り、正面で鎮座する月雲了から目を逸らした。
逃げ道を塞ぐように背後に立つのは御堂虎於だ。
今のサツキに分かるのは、彼のデビューまでは平穏でいられるという希望が甚だ勘違いだったということ。
そして、自分が思っていたよりもずっと、事務所絡みの抗争の最中にいたのだということだ。
「どうして、と言いたげな顔だね」
サツキの目が声の方へ動く。
仮面をつけたかのような笑顔がそこに浮いていた。
「でも、知っていたはずじゃないか。そこにいる虎於から話は聞いてるんだろう?ㅤあんなことがあって忘れるはずがないよねぇ!」
弾んだ声と淀んだ空気が、不協和音のように胸をざわつかせ、サツキは息を詰まらせた。
声の発し方も、息の仕方も見失う。居心地の悪さと息苦しさに、ただ早く解放して欲しいと祈る。
「さてー……じゃあ本題だ。サツキ、ウチにおいで」
膝の上に置いていた拳を解き、サツキは自分の太股に爪を食い込ませた。
知っている誘い文句だ。サツキがまだ大丈夫と封印していたそれは、やはり一寸も有り得ない提案だった。
「お互い、穏便にすませたいじゃないか。僕も、意地悪をしたいわけじゃないんだよ?」
「……っ、そんな、こと」
「やっぱり、少し脅さなきゃ駄目かな」
途切れさせたサツキの回答に、焦れったく月雲が体を揺らす。
「君がウチに来れば、十龍之介にかかった疑惑を、彼女の妄言だったと公表しよう」
月雲はテーブルに置いてあった雑誌を手に取り、バサとページを開いてサツキの前に放った。
『ツクモプロダクションの人気ナンバーワン女性歌手を八乙女事務所へ引き抜き。恋人である十龍之介の独断か』
目に入った大きな文字に、サツキは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。嘘にまみれた記事。真実などあってもなくても同じ。それは、サツキもよく知っている。
「っでも、そんなの、信じられません……」
「この記事になってる彼女、虎於に夢中でね。これを指示したのも彼なんだよ」
月雲の言葉に、サツキは体を捻って振り返った。
「そ。俺が言えば何でも言う事聞く女だから。『嘘でしたって言え』ってな。たった一言で済む」
「……っ、アナタは、こんなことまで……」
出会った頃と変わらない顔でサツキを見下ろす御堂に、罪悪感なんてものは微塵も存在していない。
サツキはそれを感じ取り、ぱっと体の向きを戻した。正面の月雲を見ないように、俯き、唇を噛む。
「いい話じゃないか。君が犠牲になれば、皆何事もなく済む。十龍之介は同情を誘う被害者になるわけだ」
「……俺が、犠牲に」
「そう、単純な話だろう? 代わりに君は、ツクモで完璧にプロデュースしよう。誰も敵わない、誰もが羨むアイドルになれる」
月雲には端から交渉するつもりがない。こうして事務所に連れ込んで囲う時点で、サツキの意思などないも同然だ。
首を縦に振ろうが横に振ろうが、状況は悪化の道を往くだけ。
何も答えてはいけない。それが最善の対応なのだと自分自身に言い聞かせたサツキの首は、ゆっくりと左右に動いた。
「っ……も、いや、です……何も、いりません……」
ぽろと雫が落ちたのを皮切りに、サツキの目からはポロポロと涙が溢れ出した。
悪いのは浅はかな自分。しかし、これまでの人生、それほど悪くは生きてこなかったはずだ。
理不尽な悪に突き落とされ、悔しさと辛さと悲しさと惨めさで満ちた体は、もはや子供のように泣きじゃくることしか出来なかった。
「っ、おれ、俺なんか、居なければ良かった……初めから、頑張らなければ良かった……!」
「おいおい、どうした」
「もう、やめます、やめますから……許してくださ、ごめんなさい……っごめんなさい……」
何を言っても状況が良くなることはない。泣いていても変わらない。
もはや、そんな当たり前な思考すら失い、サツキは情けなく嗚咽を繰り返した。
自分でも制御がきかないほどに、サツキの心は限界を迎えていたのだ。
「チッ……めんどくさいな」
御堂が小さく舌を打ち、サツキの頭に手を伸ばす。
指先がサツキの髪を捕らえるその時、言い争うような声が部屋の外から聞こえてきた。
「そこを退け!」
焦ったような複数の声と、太く覇気のある第三者の声が聞こえ、訝しげに月雲が目を上げる。
乱暴にドアが開け放たれると、堂々と足を踏み込んできた男の鋭い視線がサツキと、そして月雲をとらえた。
「月雲、貴様……!」
「……ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
癖のある銀髪が心なしか乱れている。
背筋の伸びた立ち姿は普段と変わらないが、厳つい顔付きは鬼のようなオーラを放つ。
サツキは信じられないという思いで、濡れた目元に手の甲を擦り付けた。
「サツキ……、何も言わなくていい、帰るぞ」
「や、八乙女さん……?」
目を見開き固まっている御堂の横を通り、サツキの横に立ったその人は、八乙女事務所の社長だった。
サツキを路頭に突き放した当人が、今度は迷い子にするように手を差し伸べる。
「僕は彼と交渉中なんだけどなぁ。君がこちらに来れば、TRIGGERの悪い噂を全て撤回してあげるってね」
サツキは絡まった糸を引っぱられたかのように、伸ばしかけた腕を引いた。
現実的に考えれば、月雲からの要求は悪いものではない。潰れかけのサツキを切り捨て、TRIGGERを立て直す方が良いに決まっている。
もし、八乙女社長にそれを選ばれたら。サツキは半ば放心状態で、険しい顔を月雲に向ける父親を見上げた。
壁にかけられた時計が静かに時を刻む。それよりも早く、サツキの心臓が生き急ぐ。
「馬鹿にするな!」
その不穏な空気を一蹴するドスの効いた声に、サツキは思わずびくと身を竦めた。
「こいつもTRIGGERも、お前の思い通りにはさせん」
呆然とするサツキの手首が、シワのある白い手に掴まれる。
意外にも力強く引き上げられ、サツキは八乙女社長の胸に寄りかかるようにして立ち上がった。
上目遣いにとらえた八乙女社長は見た事がないほど険しい顔をしている。一方で月雲はへらりと一笑し、御堂はヒュウッと口笛を鳴らした。
月雲は、それ以上何も言わなかった。
スタッフ達も無言で道を開け、サツキは手を引かれたまま大きな建物の外に出る。
駐車場に停めてあった車に乗り込むと、八乙女社長の口からは重々しい溜息が落ちた。
「……とりあえず、事務所に戻るからな」
助手席でサツキがこくりと頷くと、それを合図に車が動き出した。
未だに夢の出来事だったかのよう。嫌な思い出だけを増やした建物が遠ざかっていく。
悲しさや悔しさが薄れていくと、今度は不甲斐なさや情けなさで、サツキは泣きたくなった。
今度こそ、呆れられたに違いない。
「事務所に匿名で電話がかかってきた」
長い長い沈黙のあと。親子のドライブとはほど遠い車内で、ハンドルを握る八乙女社長が口を開く。
想像に反して棘のない声音に、サツキはゆっくりと視線を運転席へ動かした。
「お前が月雲に拉致された、と。TRIGGERを潰すための駒として、ツクモプロに引き込もうとするはずだと」
「……事実、です。でも、もとを辿れば俺が……」
「TRIGGERの収録に帯同している姉鷺を待つことも、電話の発信元を探ることも、最善と思いながらも余裕がなくてな。アポイントもなく、車を走らせていた」
その語調には、社長としての選択を誤ったことへの嘲笑があった。
サツキへの喝は微塵もなく、そのまま車は事務所への路を進んでいく。
「姉鷺には連絡を入れた。アイツらも心配しているだろう。声を聞かせてやったらどうだ」
サツキは信号が赤から青に変わるまで呆然とシワのある横顔を見つめた。
サツキはそういえばと目を見開く。社長が運転席に座る姿を見るのはいつぶりだろう。父の運転する車の助手席に腰掛けた経験は初めてではなかろうか。
「……じゃあ、その、楽に、電話しますね……?」
違和感を残したまま、サツキは鞄からスマートフォンを取り出した。
車内で御堂に切られた電源を入れ、画面に見慣れた待ち受け写真が表示されるのを待つ。
着信は一件、二件どころではなく。真っ先に八乙女社長から、そして姉鷺と続き、楽の名前はずらりと一画面に収まっていない。
サツキは罪悪感に歪ませた顔で通話ボタンに触れた。耳に寄せるや否や、通信音がプツと途切れる。
『サツキ?』
「うん、」
探るような吐息の声。
楽が安堵のため息を零すと、その後ろからも「サツキだ」「よかった」と天と龍之介が交わす声が聞こえてきた。
『今、どこにいる?』
「今は八乙女さんの車。事務所に向かってるよ。ごめん、俺、またみんなに心配かけて」
『そういうの、今いいから』
社長や姉鷺からどうあらましを聞いたのだろうか、楽の声は傷口を労わるように柔らかい。
言葉数が少ないのも、サツキの様子を確かめているからだ。
『詳しいことは後で聞く。無事で良かった。ラジオ収録終わって……マネージャーに聞いて、血の気が引いた。俺も、天も、龍もな』
「あっ、今、後ろに九条さんと龍もいるよね。二人にも、もう大丈夫だよって、伝えてね」
『あぁ。聞こえてる。龍なんて半泣きだぜ』
後ろから「余計なこと言うなよっ」と龍之介の声が聞こえる。その声は楽が言うように半ベソ気味で、サツキは思わずふふっと肩を揺らした。
早く楽に会いたい。みんなに会って安心したい。結局、この場所しかないのだと、サツキは諦めるように微笑んだ。
社長に否定されても、嘘の記事に踊らされても、TRIGGERや八乙女楽がサツキの居場所なのだ。
『早く会って、抱き締めたい』
耳に流れ込む恋人の声音。
サツキは目を閉じて、「うん」と短く返した。
『お前が嫌なこと忘れられるように、何でもしてやりたい』
楽の優しい声を聞いていたくて、サツキはただ静かに頷く。
『辛い思いさせてごめんな』
電話越しの謝罪には、ふるふると首を横に振った。
俺の方こそと反射的に言いかけた口を閉ざし、目を車窓へ向ける。車がゆっくりとバックする。いつの間にか八乙女事務所の駐車場へ到着していたようだ。
「事務所、戻って来たよ。一旦、切るね」
『あぁ、気をつけて』
通話を切ったスマートフォンを鞄に戻し、サツキはシートベルトを外した。
八乙女社長に顔を向け、お待たせしましたという気持ちで小さく頭を下げる。
「……サツキ」
そのサツキの頭から頬へ、腫れ物を触るかのように恐る恐る触れる掌があった。
見上げた社長が、苦しげに顔を歪めている。威厳な姿しか知らない父親の瞳が、微かに揺らいだ気がした。
「すまなかった」
頭の後ろに回された大きな手。引き寄せられたサツキは、細い肩に額をこつんと預けた。
「お前の苦痛に気付けなかった。責任者としても……父親としても、失格だ」
「そ、んな」
「受け入れてくれとは言わない。どうか、責めるなら、俺を責めてくれ」
髪を梳くような優しい手付きで、ぽんぽんと頭を撫でられる。
言葉を返そうと開いたサツキの口は、息に乗った震え声しか吐き出すことが出来なかった。
社長の高いスーツにしとしとと雫が吸い込まれていく。
誰かを責めることなど出来るはずがない。
例え、社長がTRIGGERの解雇を告げたとしても。それを、TRIGGERの三人が快く受け入れたのだとしても。
追加日:2019/08/06