八乙女楽(IDOLiSH7)
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20. 誤った決断
ふと目を開けると、楽の顔が目の前にあった。
彼の腕枕で横になり、負担をかけまいと頭を移動させてから、幾分か眠れていたらしい。
最近は恐ろしく悲しい夢ばかり見て、跳ねるように目覚めたものだ。楽がいたから平気だったのだと、サツキは破顔する。楽の胸に額を擦り付けると、心から安堵した。
こうして朝を迎えるのが久々なのは、互いに忙しくしていたせいだ。
ドラマ、ライブ、撮影、インタビュー……ではなく。ツクモプロによってばらまかれた悪評の対処。イメージを回復させるための営業。中にはスポンサーへの謝罪もあるとか。
(どうして、こんなことになったんだろう。楽たちも……いつから、こんなことに?)
始まりはあの夜、サツキが御堂虎於と約束をして会った日。
その日、TRIGGERはツクモプロ主催のパーティに参加していた。
(もしかしたら、あの時からずっと、同じように始まっていたのかも。お互いに隠しながら……どんどん蝕まれてたんだ)
サツキの頭の中が、自虐的な思考で満たされる。
自分が変な行動をしていなければ、これほど酷くはならなかったんじゃないか。
少なくとも、彼らに寄り添い、助けてあげることが出来たんじゃないか、と。
「俺なんて、どうだっていいのに……」
サツキは吐息混じりにそう零し、名残惜しさを振り払ってベッドから足を下ろした。
キッチンに立ち、フライパンを片手に持つ。
朝に何を食べたら気分が晴れるかな、楽しい一日の始まりになるかな、と毎日のように考えた日々が遠い昔のことのようだ。
それを思い出しながら、サツキはサラダとベーコンエッグを用意して、コーヒーを淹れながらテレビの天気予報を眺める。
ふわとコーヒーが香り出すと、見計らったかのように楽がのそりと姿を見せた。
「はよ、朝くらい、もう少しゆっくりしてりゃいいのに」
「おはよう、楽。まだ寝てても良かったんだよ」
普段以上に猫っ毛を振り乱す楽は、眠たそうにあくびをする。
サツキは椅子を引いて楽を誘導し、楽も当然のようにそこに腰掛けた。
「すげぇ久々にいい朝だな。気なんて遣わなくていいのに……じゃないか、したくてしてんだよな、サツキは」
「ふふ、うん。久しぶりに楽しい朝だった」
「そっか」
素っ気ない言振りだが、目尻の下がった楽は雰囲気を味わうように、顎を上げてすんっと息を吸い込んだ。
朝の爽やかな空気に、コーヒーの香りが程良く混ざる。
「……サツキ、ありがとな」
「こちらこそ」
短な言葉のやり取りだ。しかし、その内側には長年の思いが詰まっていた。
ここまで来れたこと、こうして暖かな日常を教えてくれたこと、共に歩むと選択したこと。
「今日は事務所に行ってクソオヤジと話してくっから」
「……そっか」
「お前だって話したんだろ」
そう言って食事に手を伸ばした楽に、サツキは眉を寄せて俯いた。
話した、というのは、およそ事務所もしくは社長へ訴えた時のことを言っているのだろう。
楽がどう認識しているかは定かではないが、サツキはついに「辞めたい」と叫んだ。サツキはTRIGGERではない、TRIGGERのことは関係ない……その事実を突きつけられて、サツキの心は支えを失ったのだ。
「少し、吹っ切れた顔してんな。安心した」
そうだね、とたった一言を絞り出し、サツキはコーヒーを啜った。
吹っ切れたという言葉そのものは、きっと間違っていない。楽とサツキの中で、本質の意味は違っていたとしても。
「楽、俺も今日、帰り遅いと思う」
「サツキ、今日なんかあったか」
「事務所で話し合い……今後のことについて。予定より長引くんじゃないかなって思ってて」
楽は納得した様子で「だな」と頷いた。
そんなやり取り一つ一つに胸がきゅうと締め付けられる思いがして、サツキは楽の食べ終えた食器を片付けながら、人知れずため息をついた。
「楽、心配しないでね」
「ん? なんだよ、それは無理だっつってんだろ」
「無理でも……心配しないで。俺、楽が思ってるよりも、ずっと平気だから」
楽は神妙な面持ちでサツキを見つめたが、暫くすると気圧されてくれたのか、視線をコーヒーカップへ落とした。
それからは、いつも通りだ。
事務所に向かう楽の準備を手伝い、玄関で手を振り送り出す。
サツキは静かに自室に戻り、用意してあった少し大きめの鞄に最低限のものを詰めた。数日、数週間、生きるに足る準備だ。
普段仕事に出る時と感覚は変わらない。それこそ、家に帰れない日は今までに数度経験しているし、そこにどんな気持ちがあろうとも「家を出る」という行為に違いはないからだ。
きっとそう。
「行ってきます」
いつも通りにドアを施錠して、サツキは門を出た。
暫くここへは戻らない……サツキにそう決意させた理由は一つではない。
あれほど情報を手にした御堂が「サツキと十龍之介の恋仲」を疑っている。つまり、この家での生活は知られていない可能性が高い。
しかし、隠し通すのは難しいだろう。ここに真実がある限りは、いつか嗅ぎ付けられる。
もう一つは、サツキとTRIGGERの切り分け。
そして、八乙女社長への反発。
(くだらないって、笑われるかな。ううん、笑ってくれたらまだいい方だ)
自分の行動が衝動的なもので、子供じみている自覚もある。
それでも、何か動き出したかったのだ。
サツキは最寄りの駅から電車に乗った。
ノープランのまま、喫茶店と本屋とで時間を潰し、ぶらりと辺りを散策してから再び電車に乗り込む。
今度は終点まで行ってみよう、先のことはそれからでいい。
サツキの胸に宿ったのは、心地よい解放感だ。
ほんの小さな旅行の気分で、サツキは宛もなく進んだ。
そうこうしている間に日が暮れ始め、サツキはカバンからスマートフォンを取り出した。
あまり使い慣れていないとはいえ、地図の見方くらいは分かる。検索するためのボックスに触れ「近くのビジネスホテル」とゆっくり文字を作っていく。
その矢先、妨害するかのように、上部に新着のメッセージが表示された。
『サツキ、今やってるTRIGGERのラジオ、聞いてる?』
七瀬陸からのメッセージだ。
『もし聞いてないなら、聞いた方がいいと思う…』
『余計なお世話かもしれないけど、ラジオ聞いて!』
サツキの返事を待たずに更に二通。
何かワケがあるのだと察し、サツキは慌てて端末に入っているラジオのアプリを起動した。イヤホンつけて、耳にはめる。
真っ先に聞こえてきたのは、天の声だった。
『ほんと、おかしな話だって僕らは笑ってるよ』
ラジオが始まって、既に15分は経過している。当然、サツキに今のトークテーマは分からないが、イヤホンをきゅっと押し込んだ。
続けて聞こえてくるのは、心地の良い、しっとりと色気のある低い声だ。
『デビュー前から、家族みたいに付き合ってきたからな』
『俺なんて最近写真が流出したっぽいけど、別に特別なものじゃなかったよ』
『よく転ぶしね』
三人が同調し合う声を重ね、一拍の間が空く。
互いの顔を見て、考えを合わせるための沈黙。彼らが言葉無くとも気持ちを通わせることができるのは、仲間として培ってきた深い絆があるからだ。
『俺と天が初めてサツキに会ったのは、事務所に来た時だったろ? あれは衝撃だったな。都会にも、こんなに素直な子がいるんだって』
『そう? 僕はあの見た目の方が衝撃だったけど。あんなのズルいでしょ。天才だなって思わされたよ。同時に……この子は絶対に苦労すると思った』
天の言葉への共感が、そっと零れた溜め息で表される。
それがサツキを思い憂うものだと気づき、サツキはぱっと自分の口元を覆った。
どうしてこんなにも優しい人達なんだろう。今、辛い場所に立たされているのは、自分たちだって同じはずなのに。
『ま、これは気付いてる奴もいたかもしんねぇけど。そもそも俺とサツキは、マジで兄弟だからさ』
まるで世間話をするかのように、さらりと楽の声が言葉を紡ぐ。
その内容に、サツキは自身の耳を疑った。サツキが八乙女に引き取られ養子となった事実は、公にしないと決めていたことのはずだ。
『サツキがコネだとか良くない評価を受けんじゃ無いかって隠してたんだけど。俺らとの関係をとやかく言われるよりはいいだろ』
『そもそも性別問題解決の時点で、この手の噂は無くなると踏んでたんだけど』
『男だっていっても、サツキは可愛いからな』
唖然としたまま、サツキは彼らの話に耳を傾けた。
これは社長が判断を下したのか、それとも独断で話しているのか。清算するかのように、隠してきた事実が告げられていく。
『愛してるに決まってんだろ。可愛い弟なんだから』
『楽だけじゃないよ。初めて会ったときから、「龍」って呼んで懐いてくれる、サツキが可愛いんだ』
『……素直で嘘もつけないし、ほんと、危なっかしくて目が離せないよね』
サツキは鼻にツンとした痛みを感じ、慌てて俯いた。
優しい声も温かな言葉も、今は欲しくない。やめて、やめてと頭の中で叫ぶ。
『これ、聞いてっか分かんねぇけど。なあ、サツキ」
サツキは細かく首を横に振った。
聞きたくない。そんな、これまでのことを全て、「終わり」にしてしまうような言葉なんて。
『負けんな。前を向け。お前には、ちゃんとお前を理解してくれる人たちがいる。お前を信じて待ってる人たちに見せてやれよ、お前の本当の姿を』
掴んでいた糸が、プツンと切り落とされる。
ないと思っていた足場に明かりが灯されると、真っ直ぐに続く、細く長い道が浮かび上がった。
この道を行くのが恐ろしいと思うのは、TRIGGERの姿がどこにも見えないからだ。
(そんな……どうして、こんなに怖い? TRIGGERは、どこへ向かおうとしてる……?)
サツキは見えない彼らを探そうと、後ろの高いビルを振り返った。それから再び前を向き、深く被った帽子を持ち上げて、人々が行き交う交差点に目を向ける。
いつだって目の前にいた、道しるべだったTRIGGERの姿がそこにかき消えてしまいそうで。
「あれ……」
そうして目を凝らしていたサツキは、その人混みの中に知った背中を見つけた。
赤に近い茶色の髪、すらりと高い背、長い足。
御堂虎於だ、とそのシルエットに確信を持ったサツキは、考えるよりも先に走り出していた。
「待ってください、御堂さん…!」
イヤホンとスマートフォンとをカバンへ押し込み、人をかき分け呼びかける。
背中はもうすぐそこにあるのに、御堂には声が届かないのか、つかつかと長い足で遠ざかっていく。
あと少し、サツキは腕を前に伸ばし、御堂が曲がった道を続いて進んだ。
大通りから少し外れた道。世界を隔てたかのように、急に人波は薄れ、雑踏の賑わいが消えた。
「御堂さ……、」
「のこのこついて来っとか、お前、馬鹿だろ」
その通りには、高級そうな車が止まっていた。
待ち構えるようにその脇に立つ御堂の手がサツキの腕を掴んだのは、サツキがその車内に人影を捉えたのとほぼ同時。
「やぁ、初めまして。会いたかったよ、男食いの牧野サツキくん」
片方に寄せた前髪とかっちりとしたスーツ。クセのある鼻につく声は、怪しげにつり上がった口から憎たらしく放たれる。
サツキはこの人物を知っていた。
テレビで、新聞で、ニュースで、画面の向こうにいた人だ。
「……つ、」
「ほら乗れよ。拒否権はねぇから」
背中を押され、後部座席に転がり落ちる。
待ち受けていたのは不敵に微笑む巨悪の根源。
ツクモプロダクションの社長、月雲了。彼は使える餌を釣り上げたかのように、先を見据えて微笑んでいた。
追加日:2019/06/06
ふと目を開けると、楽の顔が目の前にあった。
彼の腕枕で横になり、負担をかけまいと頭を移動させてから、幾分か眠れていたらしい。
最近は恐ろしく悲しい夢ばかり見て、跳ねるように目覚めたものだ。楽がいたから平気だったのだと、サツキは破顔する。楽の胸に額を擦り付けると、心から安堵した。
こうして朝を迎えるのが久々なのは、互いに忙しくしていたせいだ。
ドラマ、ライブ、撮影、インタビュー……ではなく。ツクモプロによってばらまかれた悪評の対処。イメージを回復させるための営業。中にはスポンサーへの謝罪もあるとか。
(どうして、こんなことになったんだろう。楽たちも……いつから、こんなことに?)
始まりはあの夜、サツキが御堂虎於と約束をして会った日。
その日、TRIGGERはツクモプロ主催のパーティに参加していた。
(もしかしたら、あの時からずっと、同じように始まっていたのかも。お互いに隠しながら……どんどん蝕まれてたんだ)
サツキの頭の中が、自虐的な思考で満たされる。
自分が変な行動をしていなければ、これほど酷くはならなかったんじゃないか。
少なくとも、彼らに寄り添い、助けてあげることが出来たんじゃないか、と。
「俺なんて、どうだっていいのに……」
サツキは吐息混じりにそう零し、名残惜しさを振り払ってベッドから足を下ろした。
キッチンに立ち、フライパンを片手に持つ。
朝に何を食べたら気分が晴れるかな、楽しい一日の始まりになるかな、と毎日のように考えた日々が遠い昔のことのようだ。
それを思い出しながら、サツキはサラダとベーコンエッグを用意して、コーヒーを淹れながらテレビの天気予報を眺める。
ふわとコーヒーが香り出すと、見計らったかのように楽がのそりと姿を見せた。
「はよ、朝くらい、もう少しゆっくりしてりゃいいのに」
「おはよう、楽。まだ寝てても良かったんだよ」
普段以上に猫っ毛を振り乱す楽は、眠たそうにあくびをする。
サツキは椅子を引いて楽を誘導し、楽も当然のようにそこに腰掛けた。
「すげぇ久々にいい朝だな。気なんて遣わなくていいのに……じゃないか、したくてしてんだよな、サツキは」
「ふふ、うん。久しぶりに楽しい朝だった」
「そっか」
素っ気ない言振りだが、目尻の下がった楽は雰囲気を味わうように、顎を上げてすんっと息を吸い込んだ。
朝の爽やかな空気に、コーヒーの香りが程良く混ざる。
「……サツキ、ありがとな」
「こちらこそ」
短な言葉のやり取りだ。しかし、その内側には長年の思いが詰まっていた。
ここまで来れたこと、こうして暖かな日常を教えてくれたこと、共に歩むと選択したこと。
「今日は事務所に行ってクソオヤジと話してくっから」
「……そっか」
「お前だって話したんだろ」
そう言って食事に手を伸ばした楽に、サツキは眉を寄せて俯いた。
話した、というのは、およそ事務所もしくは社長へ訴えた時のことを言っているのだろう。
楽がどう認識しているかは定かではないが、サツキはついに「辞めたい」と叫んだ。サツキはTRIGGERではない、TRIGGERのことは関係ない……その事実を突きつけられて、サツキの心は支えを失ったのだ。
「少し、吹っ切れた顔してんな。安心した」
そうだね、とたった一言を絞り出し、サツキはコーヒーを啜った。
吹っ切れたという言葉そのものは、きっと間違っていない。楽とサツキの中で、本質の意味は違っていたとしても。
「楽、俺も今日、帰り遅いと思う」
「サツキ、今日なんかあったか」
「事務所で話し合い……今後のことについて。予定より長引くんじゃないかなって思ってて」
楽は納得した様子で「だな」と頷いた。
そんなやり取り一つ一つに胸がきゅうと締め付けられる思いがして、サツキは楽の食べ終えた食器を片付けながら、人知れずため息をついた。
「楽、心配しないでね」
「ん? なんだよ、それは無理だっつってんだろ」
「無理でも……心配しないで。俺、楽が思ってるよりも、ずっと平気だから」
楽は神妙な面持ちでサツキを見つめたが、暫くすると気圧されてくれたのか、視線をコーヒーカップへ落とした。
それからは、いつも通りだ。
事務所に向かう楽の準備を手伝い、玄関で手を振り送り出す。
サツキは静かに自室に戻り、用意してあった少し大きめの鞄に最低限のものを詰めた。数日、数週間、生きるに足る準備だ。
普段仕事に出る時と感覚は変わらない。それこそ、家に帰れない日は今までに数度経験しているし、そこにどんな気持ちがあろうとも「家を出る」という行為に違いはないからだ。
きっとそう。
「行ってきます」
いつも通りにドアを施錠して、サツキは門を出た。
暫くここへは戻らない……サツキにそう決意させた理由は一つではない。
あれほど情報を手にした御堂が「サツキと十龍之介の恋仲」を疑っている。つまり、この家での生活は知られていない可能性が高い。
しかし、隠し通すのは難しいだろう。ここに真実がある限りは、いつか嗅ぎ付けられる。
もう一つは、サツキとTRIGGERの切り分け。
そして、八乙女社長への反発。
(くだらないって、笑われるかな。ううん、笑ってくれたらまだいい方だ)
自分の行動が衝動的なもので、子供じみている自覚もある。
それでも、何か動き出したかったのだ。
サツキは最寄りの駅から電車に乗った。
ノープランのまま、喫茶店と本屋とで時間を潰し、ぶらりと辺りを散策してから再び電車に乗り込む。
今度は終点まで行ってみよう、先のことはそれからでいい。
サツキの胸に宿ったのは、心地よい解放感だ。
ほんの小さな旅行の気分で、サツキは宛もなく進んだ。
そうこうしている間に日が暮れ始め、サツキはカバンからスマートフォンを取り出した。
あまり使い慣れていないとはいえ、地図の見方くらいは分かる。検索するためのボックスに触れ「近くのビジネスホテル」とゆっくり文字を作っていく。
その矢先、妨害するかのように、上部に新着のメッセージが表示された。
『サツキ、今やってるTRIGGERのラジオ、聞いてる?』
七瀬陸からのメッセージだ。
『もし聞いてないなら、聞いた方がいいと思う…』
『余計なお世話かもしれないけど、ラジオ聞いて!』
サツキの返事を待たずに更に二通。
何かワケがあるのだと察し、サツキは慌てて端末に入っているラジオのアプリを起動した。イヤホンつけて、耳にはめる。
真っ先に聞こえてきたのは、天の声だった。
『ほんと、おかしな話だって僕らは笑ってるよ』
ラジオが始まって、既に15分は経過している。当然、サツキに今のトークテーマは分からないが、イヤホンをきゅっと押し込んだ。
続けて聞こえてくるのは、心地の良い、しっとりと色気のある低い声だ。
『デビュー前から、家族みたいに付き合ってきたからな』
『俺なんて最近写真が流出したっぽいけど、別に特別なものじゃなかったよ』
『よく転ぶしね』
三人が同調し合う声を重ね、一拍の間が空く。
互いの顔を見て、考えを合わせるための沈黙。彼らが言葉無くとも気持ちを通わせることができるのは、仲間として培ってきた深い絆があるからだ。
『俺と天が初めてサツキに会ったのは、事務所に来た時だったろ? あれは衝撃だったな。都会にも、こんなに素直な子がいるんだって』
『そう? 僕はあの見た目の方が衝撃だったけど。あんなのズルいでしょ。天才だなって思わされたよ。同時に……この子は絶対に苦労すると思った』
天の言葉への共感が、そっと零れた溜め息で表される。
それがサツキを思い憂うものだと気づき、サツキはぱっと自分の口元を覆った。
どうしてこんなにも優しい人達なんだろう。今、辛い場所に立たされているのは、自分たちだって同じはずなのに。
『ま、これは気付いてる奴もいたかもしんねぇけど。そもそも俺とサツキは、マジで兄弟だからさ』
まるで世間話をするかのように、さらりと楽の声が言葉を紡ぐ。
その内容に、サツキは自身の耳を疑った。サツキが八乙女に引き取られ養子となった事実は、公にしないと決めていたことのはずだ。
『サツキがコネだとか良くない評価を受けんじゃ無いかって隠してたんだけど。俺らとの関係をとやかく言われるよりはいいだろ』
『そもそも性別問題解決の時点で、この手の噂は無くなると踏んでたんだけど』
『男だっていっても、サツキは可愛いからな』
唖然としたまま、サツキは彼らの話に耳を傾けた。
これは社長が判断を下したのか、それとも独断で話しているのか。清算するかのように、隠してきた事実が告げられていく。
『愛してるに決まってんだろ。可愛い弟なんだから』
『楽だけじゃないよ。初めて会ったときから、「龍」って呼んで懐いてくれる、サツキが可愛いんだ』
『……素直で嘘もつけないし、ほんと、危なっかしくて目が離せないよね』
サツキは鼻にツンとした痛みを感じ、慌てて俯いた。
優しい声も温かな言葉も、今は欲しくない。やめて、やめてと頭の中で叫ぶ。
『これ、聞いてっか分かんねぇけど。なあ、サツキ」
サツキは細かく首を横に振った。
聞きたくない。そんな、これまでのことを全て、「終わり」にしてしまうような言葉なんて。
『負けんな。前を向け。お前には、ちゃんとお前を理解してくれる人たちがいる。お前を信じて待ってる人たちに見せてやれよ、お前の本当の姿を』
掴んでいた糸が、プツンと切り落とされる。
ないと思っていた足場に明かりが灯されると、真っ直ぐに続く、細く長い道が浮かび上がった。
この道を行くのが恐ろしいと思うのは、TRIGGERの姿がどこにも見えないからだ。
(そんな……どうして、こんなに怖い? TRIGGERは、どこへ向かおうとしてる……?)
サツキは見えない彼らを探そうと、後ろの高いビルを振り返った。それから再び前を向き、深く被った帽子を持ち上げて、人々が行き交う交差点に目を向ける。
いつだって目の前にいた、道しるべだったTRIGGERの姿がそこにかき消えてしまいそうで。
「あれ……」
そうして目を凝らしていたサツキは、その人混みの中に知った背中を見つけた。
赤に近い茶色の髪、すらりと高い背、長い足。
御堂虎於だ、とそのシルエットに確信を持ったサツキは、考えるよりも先に走り出していた。
「待ってください、御堂さん…!」
イヤホンとスマートフォンとをカバンへ押し込み、人をかき分け呼びかける。
背中はもうすぐそこにあるのに、御堂には声が届かないのか、つかつかと長い足で遠ざかっていく。
あと少し、サツキは腕を前に伸ばし、御堂が曲がった道を続いて進んだ。
大通りから少し外れた道。世界を隔てたかのように、急に人波は薄れ、雑踏の賑わいが消えた。
「御堂さ……、」
「のこのこついて来っとか、お前、馬鹿だろ」
その通りには、高級そうな車が止まっていた。
待ち構えるようにその脇に立つ御堂の手がサツキの腕を掴んだのは、サツキがその車内に人影を捉えたのとほぼ同時。
「やぁ、初めまして。会いたかったよ、男食いの牧野サツキくん」
片方に寄せた前髪とかっちりとしたスーツ。クセのある鼻につく声は、怪しげにつり上がった口から憎たらしく放たれる。
サツキはこの人物を知っていた。
テレビで、新聞で、ニュースで、画面の向こうにいた人だ。
「……つ、」
「ほら乗れよ。拒否権はねぇから」
背中を押され、後部座席に転がり落ちる。
待ち受けていたのは不敵に微笑む巨悪の根源。
ツクモプロダクションの社長、月雲了。彼は使える餌を釣り上げたかのように、先を見据えて微笑んでいた。
追加日:2019/06/06