八乙女楽(IDOLiSH7)
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19.ひとりぼっち
日々、溢れる情報に振り回される人々。
嘘か真か。外側からは知ることなど出来ない。かといって当人の口から告げられる言葉が、受け入れられるとも限らない。
都合の良いように事実は改変され、勝手に嘆かれ幻滅される。
深く頭を下げていたサツキは「もういい」という冷たい声に、息を止めてから顔を上げた。
こうして一対一で向かい合うのはいつぶりだろう。
社長は椅子に腰掛けたまま、額を押さえて溜め息を吐く。その手の隙間から覗く目は、怒気を纏って鋭く光っている。
「……いつからだ」
「は、はい……、えっ、何が……」
「十龍之介と、こういう関係になったのはいつからだ」
目の前のテーブルの上で、ノートパソコンがくるりと向きを変える。
ネットニュースだろうか、はたまた電子掲示板だろうか。「牧野サツキの本命が判明」という見出しに、一枚の写真が掲載されている。
あの日、龍之介の携帯に送られてきた写真だ。
予想通りに間もなく拡散された写真が原因で、事務所にも問い合わせが殺到しているらしい。
「ち、違うんです。これは本当に、よろけて受け止めてもらったところで……。それは、龍……十さんに聞いてもらっても、同じように言われると思います」
間違いなく潔白だ。
しかし写真を見た者がそれを信じられないことも理解できる。
写真はまるで恋人の密会……それが事実であろうとそうでなくとも、撮った人間には関係のないことだ。
TRIGGERとサツキが来ると分かっていて、開けられていた窓。その隙間からずっと何かが起きるのを狙われていたのだ。
そしてまんまと事は起きてしまった。
「あの……マネージャーとは、とにかく気にせず、今まで通りにという方針でと話しました」
「そうだろうな。今は波風立てている場合ではない。全く……それでなくても大変な時に……」
苦い顔をして椅子に深く座り直す社長は、以前よりも増してげっそりとやつれて見える。
サツキはそんな事務所の社長から目を逸らし、ふとこちらを向いたままのコンピューターの文章に目を凝らした。
上の方にはサツキと龍之介の噂を裏付けるような、今までの二人の関係が具体的に挙げられている。
その下に、牧野サツキの男性関係の噂。そして、その更に下に、十龍之介がツクモプロの女性歌手を八乙女プロに引き抜こうとしているという話が書かれていた。
「ツクモプロ人気歌手との噂を撹乱させる作戦か-……? なんですか、それ」
思わず口に出したサツキに、社長が訝しげに顔を上げる。
龍之介がツクモプロの女性と噂になっているなんて聞いていない。ましてや、ツクモプロからの引き抜きがあるなんて話。
「十さん、ツクモプロに何かされてるんですか!?」
「お前には関係がないだろう。余計なことを気にするな」
「どうして……」
余計なことなんかじゃない。サツキは思わず前のめりになって、社長のデスクに手をつく。
社長の表情に変化はない。ただ冷静な目でサツキを見つめ、ゆっくりと頬杖をついた。
「お前はTRIGGERではないだろう」
まるでサツキの言い分が端から間違っているかのように、八乙女社長はピシャリと言い放つ。
言われるまでもなく、牧野サツキはソロの歌手だ。TRIGGERではない。
しかし、その一言が、サツキの心の中心を貫いていた。
「サツキ、お前はプライベートで起こした失態も『TRIGGERに知られまい』と黙っていたようだが……何故お前の問題をTRIGGERに報告することがある?」
「そ、れは、その、相手の男性がツクモプロの関係者で、TRIGGERを……。俺が、TRIGGERの弱点だと……」
説明しづらい事態に、サツキは言葉を濁し、事の側面だけを告げる。
龍之介と事務所へ戻ったあの時、マネージャーへの報告は済ませた。それでさえ言い表しがたく、長い時間を要した。
すっかり消沈したサツキのマネージャーは、上へ報告した後にサツキのマネージャーの任を降りている。この状況で、サツキを一人、外へ出させた自分の責任でもある、と。
「TRIGGERの弱点がお前か。どうしてこんなことになっているか、分かっているな。TRIGGERでないのに、深く関わり過ぎたからだ」
TRIGGERではない。それでも心は共にある……あった、そのつもりだった。
それが否定された今、サツキは支えなく、不安定な場所に立っている事に気付く。いや、もはや立ってなどいられない、そこに足場は用意されていなかった。
「どうして、俺を一人にするんですか……」
大事な弟だった環から引き離され、新しい家族とは苗字も異なったまま。
それでも格好良い父と兄が出来たことに喜び、認めてもらいたい一心で敷かれたレールの上を進んできた。
どこまでも、サツキが求める目的地には辿り着かない、ひとりぼっちの獣道を進んでいく。
「分かっています。社長にとって、自分はただの商売道具で……本当の家族になったわけじゃないんだって」
「……何の話だ」
「でも、歌が好きで、楽が好きで……TRIGGERが傍にいて家族のように支えてくれたから、俺はまだ立っていられたんです。たぶん、そうでした」
胸の奥に閉じ込めていたはずの弱音は、サツキでさえ抱え込んでいる事に気付いていなかったものだ。
「もう、やめたいです」
もはや、それに気付いてしまったサツキには苦行としか表現出来なかった。
一人で歌うのも、光の下のステージに立つのも、カメラの前で偽るのも、本当の姿で本音を語るのも何もかも。
「俺なんかより、TRIGGERの方が大事のはずです。それなら俺の首、切ってください……」
「サツキ、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「お願いします……」
マネージャーもTRIGGERもいない。社長との関係さえも見えなくなった今、サツキと事務所の繋がりはもはや無いに等しい。
サツキは社長の「下がれ」という声に、体を起こしてから、もう一度頭を下げた。
一歩、二歩と後ずさり、右に回って足を止める。家族だからと入室を許されたこともあった、兄弟だからTRIGGERの打ち合わせに同席したこともあった。
それほど古い記憶ではないのに、遠い昔のことのようだ。
「失礼しました」
退出の折に再度そう腰を折り、サツキは息苦しい空間を抜け出した。
ドアを閉めて、広い廊下に出ても、気分がどんよりと落ち込んでいく。
(やめる……なんて、こんな簡単に言えてしまうんだ、俺は)
とぼとぼと進んでみても、どこへ行ったら良いのかすら分からず足が止まる。
すると、まるで助け舟を出すかのように携帯電話がブーッと音を立てて震え出し、サツキはポケットに手を差し込んだ。
恐る恐る、細めた目で見下ろした画面には「四葉環」の文字。サツキはホッと胸をなで下ろし、キョロキョロと辺りを見渡した後、すぐ近くにあるミーティングルームのドアを開いた。
「もしもし?」
『お! サツキくん、出た』
部屋に入り、ドアを閉めてから通話ボタンを押す。
円の形にテーブルが配置された部屋。窓にはしっかりとカーテンがかけられている。他の目はない……それに安心したサツキは、そっと携帯を耳に近づけた。
「環くん、どうしたの?」
『うん、さっき聞いたんだけど。リュウ兄貴と付き合ってるって、マジ?』
どことなく、幼さの残るたどたどしい言葉遣い。その後ろからは「こらっ環くん!」と聞こえてくる。
環はサツキにとって、幼い頃の友であり、兄弟でもある。そんな彼の目にも、サツキの無責任な姿が届いてしまったのかと、サツキは悔しさを噛み締めるように唇を結んだ。
『ってことは、オレと、リュウ兄貴も兄弟だな!』
「……え?」
縫い止めようとした口が自然と開く。
環の発言は、随分と突拍子のないものだ。サツキと環が兄弟だったなら、そしてサツキが女性で龍之介との結婚を見据えているのなら、有り得た話。
それを環が何気なく言えるということは、施設での環とサツキの関係は失われていないということだろう。
「俺の事、まだそういう風に、思ってくれてるんだ……」
『は? サツキくん、もしかして知んねーの? 家族は、遠く離れてたって、ずっっと家族なんだぜ』
環の嘘偽りない真っ直ぐな言葉が、体にじんと染み渡る。
環もきっと、ここまで来るのに山も谷も経験してきたはずだ。自分のこともそう、実の妹とのことも、アイドルになってからのことも。
「環くん、アイドル……辛くない?」
『んー……辛く、なくはねぇ、けど。でも、そーちゃんもいるしヘーキ。楽しいよ』
サツキは喉の奥で「そっか」という返事を飲み込んだ。
環が身を寄せているのは、IDOLiSH7というアイドルグループだ。その事務所の寮に住み込み、仲間たちに囲まれている。
撮影も、ライブも、テレビ出演も全て、仲間に見守られている。
「いいな、環くんには、仲間がいて」
『何言ってんだ? サツキくんだって、仲間じゃん』
環が不思議そうに唇を尖らせたのが、その声音から読み取れた。
サツキの鼓動がどくんと高鳴る。仲間。環とサツキが? iDOLiSH7とサツキが? それともTRIGGERと。
「違うよ」
自然と口をついた否定に、電話の向こうで環がたじろぐのをサツキは感じていた。
「俺は仲間なんかじゃないよ。iDOLiSH7じゃないし、TRIGGERでもないんだよ。アイドルじゃない、俺はずっと一人だったんだ」
『サツキくん?』
「もうカメラの前に立つのも、ステージに立つのも、怖いよ……っ、仲間だって言うなら、助けてよ、助けて環くん……!」
壁に背を預け、サツキはずるずるとそこに座り込んだ。
ひやりと冷たい床がサツキの気持ちを静めると、今度はたった今の失態がずしりとのしかかる。
誰も、サツキを助けなかったわけではない。陸も、楽も龍之介も、ずっとサツキに気を遣っていたことが、ふと思い出される。
「っごめん、環くん、今の忘れて……」
慌てて繕っても、環は無言のままだ。
仲間なんて初めからいなかったのに、仲間になろうとした結果、ズルズルと友人たちを巻き込んだ。そのくせ助けてなんて、なんて自分勝手だろう。
「ごめん、ごめんね……」
俺なんかのせいで、と冷え冷えとした部屋の中にサツキの声が細く消えていく。
早く決断すべきだったのだ。あの写真を撮られた時、いやもっと前。環、龍之介や楽、陸にまでウワサが広がってしまうよりも、もっと前に。
「どうして俺に言わねぇんだよ」
低い声が聞こえてくると同時に、サツキの携帯を奪い取る手があった。
ゆっくりと顔を上げたサツキの目に、はっきりとその輪郭が捉えられる。
「……楽、どうして……」
「オヤジのとこ来たんだけど……お前の声、聞こえてきたから」
「そ、か……」
取り乱してごめん、と一言言う余裕すらサツキには残っていなかった。
楽の顔を見ないように俯き、いつの間にか視界を歪めていた目を乱暴に擦る。
「……話は龍から聞いてる。脅されてたんだろ。初めから、サツキは俺たちに巻き込まれただけだ」
どうして話さなかった? そう問われると思っていたサツキの気持ちを汲んで、楽はそう言った。
サツキは丸くした瞳に楽を映す。
「巻き込まれ……? ううん、俺が迂闊で騙されて……。俺がちゃんとしていれば良かっただけ」
「俺に言えなかったのは、TRIGGERの名前出されたからなんだろ」
「それは……そんなの、楽には関係ない……」
「TRIGGERの楽じゃなくて、家族として、恋人として、相談に乗ることも許されねぇのか」
楽の声を震わせているのは、 悔しさと、自分への苛立ちだった。
それを感じ取ったとて、楽の思いにサツキが共感することはない。
「家族って言うけど……俺は、八乙女家の弟として必要とされてるわけじゃない。優先しちゃいけないんだよ、それを」
「……んだよそれ、オヤジが言ったのか」
「言ってても言ってなくても。俺の立場って、そうだから……」
邪魔になるなら、いない方がマシ。それを社長に思われてしまったら、それこそ、サツキは全ての居場所を失うことになる。
事務所所属のアーティストとしても、八乙女家の家族としてもだ。
「サツキはTRIGGERを守ろうとしてんのかもしんねぇけど、そんな風に守られたって嬉しくねぇから」
「楽……」
「お前をそんな風にするTRIGGERなら、俺はいらない」
楽はそうはっきりと言い切り、サツキの横に膝をついた。
ぐいと抱き寄せられるがままに、サツキの体が楽の体へなだれ込む。
いつだって楽に抱かれることが幸福で、楽の腕の中が一番安心できる場所だった。しかし、サツキはサッと顔を青ざめ、楽の胸を押し返す。
脳裏に浮かぶカメラの影。見られているかもしれないという恐怖が、背後から忍び寄ってくる。
「楽っ、だめだよ、離して……っまた見られたら俺……」
「見られたっていい。これが真実だろ」
「っ……」
腰を抱かれ、髪を少し乱暴に梳かれ、体から力が抜けていく。
八乙女楽が普通の青年だったなら、許されたのだろうか。牧野サツキがただの弟なら、これも普通のことなのだろうか。
「サツキ……絶対助けてやるからな」
力強い楽の声が、サツキの胸を叩き、背中を押す。
その声もその言葉も、サツキにだけに向けられる、心強い支えだ。
しかし、それすらも不穏な足音のようにサツキの背筋を震わせていた。
(第十九話・終)
2019/01/28
日々、溢れる情報に振り回される人々。
嘘か真か。外側からは知ることなど出来ない。かといって当人の口から告げられる言葉が、受け入れられるとも限らない。
都合の良いように事実は改変され、勝手に嘆かれ幻滅される。
深く頭を下げていたサツキは「もういい」という冷たい声に、息を止めてから顔を上げた。
こうして一対一で向かい合うのはいつぶりだろう。
社長は椅子に腰掛けたまま、額を押さえて溜め息を吐く。その手の隙間から覗く目は、怒気を纏って鋭く光っている。
「……いつからだ」
「は、はい……、えっ、何が……」
「十龍之介と、こういう関係になったのはいつからだ」
目の前のテーブルの上で、ノートパソコンがくるりと向きを変える。
ネットニュースだろうか、はたまた電子掲示板だろうか。「牧野サツキの本命が判明」という見出しに、一枚の写真が掲載されている。
あの日、龍之介の携帯に送られてきた写真だ。
予想通りに間もなく拡散された写真が原因で、事務所にも問い合わせが殺到しているらしい。
「ち、違うんです。これは本当に、よろけて受け止めてもらったところで……。それは、龍……十さんに聞いてもらっても、同じように言われると思います」
間違いなく潔白だ。
しかし写真を見た者がそれを信じられないことも理解できる。
写真はまるで恋人の密会……それが事実であろうとそうでなくとも、撮った人間には関係のないことだ。
TRIGGERとサツキが来ると分かっていて、開けられていた窓。その隙間からずっと何かが起きるのを狙われていたのだ。
そしてまんまと事は起きてしまった。
「あの……マネージャーとは、とにかく気にせず、今まで通りにという方針でと話しました」
「そうだろうな。今は波風立てている場合ではない。全く……それでなくても大変な時に……」
苦い顔をして椅子に深く座り直す社長は、以前よりも増してげっそりとやつれて見える。
サツキはそんな事務所の社長から目を逸らし、ふとこちらを向いたままのコンピューターの文章に目を凝らした。
上の方にはサツキと龍之介の噂を裏付けるような、今までの二人の関係が具体的に挙げられている。
その下に、牧野サツキの男性関係の噂。そして、その更に下に、十龍之介がツクモプロの女性歌手を八乙女プロに引き抜こうとしているという話が書かれていた。
「ツクモプロ人気歌手との噂を撹乱させる作戦か-……? なんですか、それ」
思わず口に出したサツキに、社長が訝しげに顔を上げる。
龍之介がツクモプロの女性と噂になっているなんて聞いていない。ましてや、ツクモプロからの引き抜きがあるなんて話。
「十さん、ツクモプロに何かされてるんですか!?」
「お前には関係がないだろう。余計なことを気にするな」
「どうして……」
余計なことなんかじゃない。サツキは思わず前のめりになって、社長のデスクに手をつく。
社長の表情に変化はない。ただ冷静な目でサツキを見つめ、ゆっくりと頬杖をついた。
「お前はTRIGGERではないだろう」
まるでサツキの言い分が端から間違っているかのように、八乙女社長はピシャリと言い放つ。
言われるまでもなく、牧野サツキはソロの歌手だ。TRIGGERではない。
しかし、その一言が、サツキの心の中心を貫いていた。
「サツキ、お前はプライベートで起こした失態も『TRIGGERに知られまい』と黙っていたようだが……何故お前の問題をTRIGGERに報告することがある?」
「そ、れは、その、相手の男性がツクモプロの関係者で、TRIGGERを……。俺が、TRIGGERの弱点だと……」
説明しづらい事態に、サツキは言葉を濁し、事の側面だけを告げる。
龍之介と事務所へ戻ったあの時、マネージャーへの報告は済ませた。それでさえ言い表しがたく、長い時間を要した。
すっかり消沈したサツキのマネージャーは、上へ報告した後にサツキのマネージャーの任を降りている。この状況で、サツキを一人、外へ出させた自分の責任でもある、と。
「TRIGGERの弱点がお前か。どうしてこんなことになっているか、分かっているな。TRIGGERでないのに、深く関わり過ぎたからだ」
TRIGGERではない。それでも心は共にある……あった、そのつもりだった。
それが否定された今、サツキは支えなく、不安定な場所に立っている事に気付く。いや、もはや立ってなどいられない、そこに足場は用意されていなかった。
「どうして、俺を一人にするんですか……」
大事な弟だった環から引き離され、新しい家族とは苗字も異なったまま。
それでも格好良い父と兄が出来たことに喜び、認めてもらいたい一心で敷かれたレールの上を進んできた。
どこまでも、サツキが求める目的地には辿り着かない、ひとりぼっちの獣道を進んでいく。
「分かっています。社長にとって、自分はただの商売道具で……本当の家族になったわけじゃないんだって」
「……何の話だ」
「でも、歌が好きで、楽が好きで……TRIGGERが傍にいて家族のように支えてくれたから、俺はまだ立っていられたんです。たぶん、そうでした」
胸の奥に閉じ込めていたはずの弱音は、サツキでさえ抱え込んでいる事に気付いていなかったものだ。
「もう、やめたいです」
もはや、それに気付いてしまったサツキには苦行としか表現出来なかった。
一人で歌うのも、光の下のステージに立つのも、カメラの前で偽るのも、本当の姿で本音を語るのも何もかも。
「俺なんかより、TRIGGERの方が大事のはずです。それなら俺の首、切ってください……」
「サツキ、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「お願いします……」
マネージャーもTRIGGERもいない。社長との関係さえも見えなくなった今、サツキと事務所の繋がりはもはや無いに等しい。
サツキは社長の「下がれ」という声に、体を起こしてから、もう一度頭を下げた。
一歩、二歩と後ずさり、右に回って足を止める。家族だからと入室を許されたこともあった、兄弟だからTRIGGERの打ち合わせに同席したこともあった。
それほど古い記憶ではないのに、遠い昔のことのようだ。
「失礼しました」
退出の折に再度そう腰を折り、サツキは息苦しい空間を抜け出した。
ドアを閉めて、広い廊下に出ても、気分がどんよりと落ち込んでいく。
(やめる……なんて、こんな簡単に言えてしまうんだ、俺は)
とぼとぼと進んでみても、どこへ行ったら良いのかすら分からず足が止まる。
すると、まるで助け舟を出すかのように携帯電話がブーッと音を立てて震え出し、サツキはポケットに手を差し込んだ。
恐る恐る、細めた目で見下ろした画面には「四葉環」の文字。サツキはホッと胸をなで下ろし、キョロキョロと辺りを見渡した後、すぐ近くにあるミーティングルームのドアを開いた。
「もしもし?」
『お! サツキくん、出た』
部屋に入り、ドアを閉めてから通話ボタンを押す。
円の形にテーブルが配置された部屋。窓にはしっかりとカーテンがかけられている。他の目はない……それに安心したサツキは、そっと携帯を耳に近づけた。
「環くん、どうしたの?」
『うん、さっき聞いたんだけど。リュウ兄貴と付き合ってるって、マジ?』
どことなく、幼さの残るたどたどしい言葉遣い。その後ろからは「こらっ環くん!」と聞こえてくる。
環はサツキにとって、幼い頃の友であり、兄弟でもある。そんな彼の目にも、サツキの無責任な姿が届いてしまったのかと、サツキは悔しさを噛み締めるように唇を結んだ。
『ってことは、オレと、リュウ兄貴も兄弟だな!』
「……え?」
縫い止めようとした口が自然と開く。
環の発言は、随分と突拍子のないものだ。サツキと環が兄弟だったなら、そしてサツキが女性で龍之介との結婚を見据えているのなら、有り得た話。
それを環が何気なく言えるということは、施設での環とサツキの関係は失われていないということだろう。
「俺の事、まだそういう風に、思ってくれてるんだ……」
『は? サツキくん、もしかして知んねーの? 家族は、遠く離れてたって、ずっっと家族なんだぜ』
環の嘘偽りない真っ直ぐな言葉が、体にじんと染み渡る。
環もきっと、ここまで来るのに山も谷も経験してきたはずだ。自分のこともそう、実の妹とのことも、アイドルになってからのことも。
「環くん、アイドル……辛くない?」
『んー……辛く、なくはねぇ、けど。でも、そーちゃんもいるしヘーキ。楽しいよ』
サツキは喉の奥で「そっか」という返事を飲み込んだ。
環が身を寄せているのは、IDOLiSH7というアイドルグループだ。その事務所の寮に住み込み、仲間たちに囲まれている。
撮影も、ライブも、テレビ出演も全て、仲間に見守られている。
「いいな、環くんには、仲間がいて」
『何言ってんだ? サツキくんだって、仲間じゃん』
環が不思議そうに唇を尖らせたのが、その声音から読み取れた。
サツキの鼓動がどくんと高鳴る。仲間。環とサツキが? iDOLiSH7とサツキが? それともTRIGGERと。
「違うよ」
自然と口をついた否定に、電話の向こうで環がたじろぐのをサツキは感じていた。
「俺は仲間なんかじゃないよ。iDOLiSH7じゃないし、TRIGGERでもないんだよ。アイドルじゃない、俺はずっと一人だったんだ」
『サツキくん?』
「もうカメラの前に立つのも、ステージに立つのも、怖いよ……っ、仲間だって言うなら、助けてよ、助けて環くん……!」
壁に背を預け、サツキはずるずるとそこに座り込んだ。
ひやりと冷たい床がサツキの気持ちを静めると、今度はたった今の失態がずしりとのしかかる。
誰も、サツキを助けなかったわけではない。陸も、楽も龍之介も、ずっとサツキに気を遣っていたことが、ふと思い出される。
「っごめん、環くん、今の忘れて……」
慌てて繕っても、環は無言のままだ。
仲間なんて初めからいなかったのに、仲間になろうとした結果、ズルズルと友人たちを巻き込んだ。そのくせ助けてなんて、なんて自分勝手だろう。
「ごめん、ごめんね……」
俺なんかのせいで、と冷え冷えとした部屋の中にサツキの声が細く消えていく。
早く決断すべきだったのだ。あの写真を撮られた時、いやもっと前。環、龍之介や楽、陸にまでウワサが広がってしまうよりも、もっと前に。
「どうして俺に言わねぇんだよ」
低い声が聞こえてくると同時に、サツキの携帯を奪い取る手があった。
ゆっくりと顔を上げたサツキの目に、はっきりとその輪郭が捉えられる。
「……楽、どうして……」
「オヤジのとこ来たんだけど……お前の声、聞こえてきたから」
「そ、か……」
取り乱してごめん、と一言言う余裕すらサツキには残っていなかった。
楽の顔を見ないように俯き、いつの間にか視界を歪めていた目を乱暴に擦る。
「……話は龍から聞いてる。脅されてたんだろ。初めから、サツキは俺たちに巻き込まれただけだ」
どうして話さなかった? そう問われると思っていたサツキの気持ちを汲んで、楽はそう言った。
サツキは丸くした瞳に楽を映す。
「巻き込まれ……? ううん、俺が迂闊で騙されて……。俺がちゃんとしていれば良かっただけ」
「俺に言えなかったのは、TRIGGERの名前出されたからなんだろ」
「それは……そんなの、楽には関係ない……」
「TRIGGERの楽じゃなくて、家族として、恋人として、相談に乗ることも許されねぇのか」
楽の声を震わせているのは、 悔しさと、自分への苛立ちだった。
それを感じ取ったとて、楽の思いにサツキが共感することはない。
「家族って言うけど……俺は、八乙女家の弟として必要とされてるわけじゃない。優先しちゃいけないんだよ、それを」
「……んだよそれ、オヤジが言ったのか」
「言ってても言ってなくても。俺の立場って、そうだから……」
邪魔になるなら、いない方がマシ。それを社長に思われてしまったら、それこそ、サツキは全ての居場所を失うことになる。
事務所所属のアーティストとしても、八乙女家の家族としてもだ。
「サツキはTRIGGERを守ろうとしてんのかもしんねぇけど、そんな風に守られたって嬉しくねぇから」
「楽……」
「お前をそんな風にするTRIGGERなら、俺はいらない」
楽はそうはっきりと言い切り、サツキの横に膝をついた。
ぐいと抱き寄せられるがままに、サツキの体が楽の体へなだれ込む。
いつだって楽に抱かれることが幸福で、楽の腕の中が一番安心できる場所だった。しかし、サツキはサッと顔を青ざめ、楽の胸を押し返す。
脳裏に浮かぶカメラの影。見られているかもしれないという恐怖が、背後から忍び寄ってくる。
「楽っ、だめだよ、離して……っまた見られたら俺……」
「見られたっていい。これが真実だろ」
「っ……」
腰を抱かれ、髪を少し乱暴に梳かれ、体から力が抜けていく。
八乙女楽が普通の青年だったなら、許されたのだろうか。牧野サツキがただの弟なら、これも普通のことなのだろうか。
「サツキ……絶対助けてやるからな」
力強い楽の声が、サツキの胸を叩き、背中を押す。
その声もその言葉も、サツキにだけに向けられる、心強い支えだ。
しかし、それすらも不穏な足音のようにサツキの背筋を震わせていた。
(第十九話・終)
2019/01/28