八乙女楽(IDOLiSH7)
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17.メモリー
『来週からは男らしさをテーマにした課題を皆でチャレンジします!』
ラジオから聞こえてくる爽やかな声。
サツキはそれに耳を傾けながら、床についた手をゆっくりと折り曲げた。
『例えば「女性へのプレゼントに何を選ぶ?」とか「50m走何秒?」とか。皆で実際に試して、その結果を次週に報告します!』
震える腕、途切れる息、微かに零れる喘ぎ。
曲げた腕をゆっくりと伸ばすと、サツキはついに浮かせていた膝を床に付けた。
『初回はオレの独断で「1分間に腕立て何回できる?」にします!』
『お前それ、だいたい結果予想できんじゃねーか!』
『実はこの企画、TRIGGERの皆さんも参加してくれることになってますので、皆さん楽しみにしていてくださいね!』
『無視かよ!ってスゲェな!』
コミカルな二人のやり取りをBGMに、深く息を吸い込み再び体を持ち上げる。
しかし長くは続かず、数秒耐えたところでサツキは胸を床につけた。
体が熱く、頬には汗が滲んでいる。それを手の甲で拭ったサツキは、恨めしく隣を睨めつけた。
「はぁ…ッ、なんで見てるの…?楽もやりなよ…」
「俺は別に練習とかいらねぇし。つかお前、マジで筋力ねーな」
「だって、俺…ダンスとか、しないし…」
楽は監督に徹するとでも言いたげに、サツキの頭の横で胡坐をかいている。
自身の足に置いた腕で頬杖をつくその表情は、心底楽し気だ。
「にしても姉鷺がやる気になってくれて良かったよな。一緒に何かやるなんて、スゲェ久々」
「うん…、絶対ダメって言われると思ってた」
「ちゃんと需要があるかどうかの見極めはしてんだよな」
このラジオの企画をサツキが耳にしたのは、つい先日のこと。
男らしさと仲の良さを同時にアピールしたい…という七瀬陸からの要望は当初サツキにだけ向けられたものだった。
しかしTRIGGERにまで話が広がると、回答映像を撮影してSNSに上げようなどと更に話は膨らんでいった。
SNSのアカウントを持っていないサツキに代わり、動画はTRIGGERのマネージャーから公開される予定だ。
「俺…いろんな人を巻き込んじゃって、本当に申し訳なくて…。早く何とかしなきゃだよね」
サツキが願うのは、誰にも迷惑をかけず、ただ歌い続けること。それだけだ。
楽は小さく頷きながら、サツキの頭をくしゃと撫でた。
「元々お前は何も悪い事してねぇからな。謝ることじゃねぇ、厄介なファンの嫉妬でしかねぇんだから」
「でも、俺に非がないわけじゃないよ。少なくとも…楽の事は…」
ちらっと楽の様子をうかがったサツキの顔が、筋トレの余韻とは別の理由で色付いていく。
それに気付いた楽がふっと吹き出すと、サツキは慌てて体勢を戻した。
「負けたくない…っ」
「お、やる気になったな」
いち、に、さん。サツキの腕立て伏せに合わせて、楽が数字を数える。
それに飽きてくると、楽はごろんと仰向けに転がり、指先でサツキの二の腕を突いた。
今まさに力み震えているサツキの腕は、ふにと程良い弾力で楽の指を押し返す。
「やってる最中だってのに固くなってねぇじゃん。逆にどうやってんだよ、これ」
「…っ、そんな酷いこと言わないで、っていうか、触らないで…っ」
そもそもの問題として、サツキの腕はほとんど折れ曲がっていない。
それでも小刻みに震えるサツキに対し、楽は感触を確かめるかのように二の腕を鷲掴んだ。
「~~~っ、くすぐったいから!」
「くすぐったい?」
「く、すぐったいよ、なんで、脇の方…、ふ…ッ、も、もう無理…!」
おどけた様子で口角を上げながら、楽はサツキの腕をするりと撫でる。
楽の指が服の隙間からサツキの脇の辺りに触れると、サツキは堪らずそこに倒れ込んだ。
「くすぐったいってば!どうして邪魔するんだよ~…」
「頑張ってるサツキ、スゲェ可愛い。全然できてねーし」
「出来ないから頑張ってんじゃん…」
唇を尖らせ、楽の腕をぱしと叩く。
その痛くも痒くもない反抗に、楽は鼻で笑いながらサツキに顔を寄せた。
鼻先が触れ合いそうな距離で、淡い色の瞳が微かに揺らぐ。サツキが泣いたあの日から、度々見るようになった楽の切ない表情だ。
「……俺、別に強がってないよ。ちゃんと楽しいから笑ってるし、辛いことばっかりじゃないから」
「知ってる。でも、やっぱ話さねーなコイツと思って」
「…まだ、大丈夫だから話さない」
「大丈夫じゃなくなってからじゃ遅えだろ馬鹿」
サツキは口を閉ざしたまま、愁事を隠して楽に微笑みかけた。
一方、楽は納得のいかない顔だ。ムスッと眉を寄せ、荒っぽく息を吐き出す。
続けてピコンッと鳴った音に、サツキはハッと目を上げた。
「今録画入れたでしょ…!?と、撮らなくて良いってば」
「ほら、俺見てねぇで続けろ」
「い、いや…も、もうむり…」
サツキはわざとらしく息も絶え絶え返すと、楽の真似をして仰向けになった。
楽の携帯の画面には、サツキのあどけない横顔が映る。
「…そういや、最近こうやって記録することも忘れてたよな」
幼い頃、サツキのカメラマンは楽だった。それを思い出す楽の携帯に、サツキの写真はほとんど入っていない。
「そもそもサツキの写真はここに来てからのモンしかねぇしな…。俺が知る前のサツキも、すげえ可愛いんだろうな」
「ど、どうかな。そんな、普通だと思うよ?」
「写真、か…。そうだ」
楽はぱしんと一度軽く手を打つと、名案と言わんばかりに勢いよく立ち上がった。
そのまま携帯で何かを検索した後、「ちょっと電話してくる」と部屋を出ていく。
サツキはきょとんと目を丸くしたまま、楽の出て行ったドアを呆然と見つめていた。
・・・
TRIGGERにとっては貴重なオフの一日。
後部座席に乗り込んだサツキは、落ち着かず流れる景色に目を向けていた。
助手席に座っているのは八乙女楽。運転席でハンドルを握る姉鷺は、ちらと横目に楽を睨み付けた。
「だからってアンタ達…よりにもよって、なんでこんな大変な時期にそんな危ない事しようとしてんのよ」
「すみません…」
「主に楽に言ってんのよ。どうせアンタが言い出したんでしょ?」
あの日、楽が電話を入れた相手は、マネージャーである姉鷺だったらしい。
目的はサツキの幼い頃の写真の入手。それが果たせる可能性があるのは、サツキの育った施設だけ。
楽が姉鷺に申し出たのは、同行の許可だ。しかし、いざ当日になると、姉鷺は格好良く「後ろに乗りなさい」と車を発進させた。
「馬鹿だな、今だからこそ、だろ。子供ってのは無条件に愛されるもんだ。上手く行けば、鎮火出来っかもしんねぇ」
「後付けのくせに、よくも堂々と言えたものね…。まぁいいわ。写真の厳選、私にもさせてもらうから」
見つかればだけど。と眉をひそめる姉鷺は、心なしか楽しそうに口元を緩めている。
その姿があまりに意外で、サツキは思わずミラー越しに彼、もとい彼女を見つめた。
「何よ、何か言いたげね」
「協力していただけるなんて意外で…。俺、TRIGGERに迷惑ばかりかけたから嫌われているものかと」
「…貴方を知っていて嫌える人間なんていないわ」
化粧の施された睫毛が密やかに揺れる。その明らかにサツキへの同情が滲む態度に、サツキは思わず息を呑み、楽までもが目を見開いた。
姉鷺はゴホンッと一つ咳払いをすると、「そもそも!」と見た目に反して低く男らしい声を発した。
「貴方は社長の大事な息子なんだから、私には貴方を守る義務があるのよ!」
社長…八乙女社長。八乙女楽の父親。
サツキはぎゅっと膝の上で手を握り締めた。八乙女社長とはもう何年もの間、仕事以外で顔を合わせてはいない。
「俺がこんなで…八乙女さんも、きっと失望してますよね」
「そう思うなら、負けてちゃダメよ」
まるで、現状を見透かされているかのような鼓舞の数々。
サツキは涙ぐんだ顔を窓へ向けて、唇をきつく結んだ。
窓から見える景色と、窓に映る自分の情けない顔。しかし景色に嘗て過ごした場所が見えると、サツキの表情は自然と解れていった。
・・・
一人で施設の中へ入って行ったサツキは、受付の女性に声をかけるなり盛大に迎い入れられた。
「おかえりなさい」と声をかけたのは、嘗てお世話になったお母さんのような人。
サツキが事情を説明すると、彼女はサツキを事務室へと案内した。知り尽くしていると思っていた施設で、初めて入る部屋だった。
「いつか、この時が来るんじゃないかと思って、整理しておいたのよ」
差し出されたのは、小さなアルバムが三つ。表紙には「サツキくん」と丸文字で書かれている。
「これ…いいんですか?」
「えぇ、持って行って頂戴。…元気そうで良かったわ」
優しい母の顔は、切なく寂しく歪められる。
サツキはつられて眉を寄せてしまった後、慌てて首を横に動かした。
「辛いことばかりじゃないんです、俺…、今すごく大切な人がいて、大切な人達に囲まれて…愛されてて…ちゃんと、幸せです」
彼女は安心したように微笑み、「そう」と小さく相槌を打つ。
サツキは咄嗟に出た自分の言葉に驚き、口を開いたまま固まっていた。
幸せです、それは確かに本心から出た言葉だ。
大好きな人に愛されて、大好きな人と共にいられて、応援してくれる人達がいて。それが幸せでないのなら、何が幸せだというのか。
「俺は…幸せ、です…」
言い聞かせるように言葉を重ねると、母は柔らかくサツキを抱き締めた。
楽のような力強く支えるそれではなく、暖かく包み込み、何もかもを受け止め許す抱擁。
「よく頑張ったわね、でも…そんなに頑張らなくても良いの。貴方を愛する人は、ここにもいるんだから」
サツキはその暖かな胸に涙を落とした。塞き止めていた感情が溢れ出し、子供のように泣きじゃくる。
なだめるようにサツキの背をぽんぽんと叩き、繰り返す「大丈夫よ」という声は根拠もなくサツキを救い上げる。
サツキはそのぬくもりと写真たちを胸に、楽達の元へと歩き出した。
「…アンタ、過保護よ」
サツキを見送った車の中で、姉鷺は潜めた声で呟いた。
楽はぴくりと眉を吊り上げ、姉鷺から目を逸らす。が、そんな楽の態度にすっかり慣れている姉鷺は、構わずに言葉を続けた。
「わざわざ事前に連絡して、サツキがお世話になってたって人、呼んでもらったんですって?」
「…そりゃ、そうじゃねぇと意味ねぇからな」
「意味ないって…目的は写真だってところから嘘だったわけ?」
「ウソじゃねえよ。でも、一番重要なのはそこじゃねぇって話」
勿論サツキの愛らしい写真があったなら、さり気なくSNSやブログで紹介するつもりだ。
しかし、楽は腕を組んだまま険しい顔でため息を吐く。どうかこれで、少しでも心が安らいでくれたなら。
「…何よ、あの子、今そんなにマズい状態なの?それ、社長は知ってるんでしょうね」
「知ってようが知ってまいが…クソオヤジに出来ることなんてねぇよ」
「…、それを判断するのは、アンタじゃないわよ」
楽は何も言わず、サツキの背が消えた施設の入口を見つめ続けている。
姉鷺はハンドルに身をもたれ、リップの乗った唇を尖らせた。
・・・
部屋のテーブルに並べられた写真の数々。
姉鷺がリークした噂を聞きつけた十龍之介は、その一枚を手に取り「うわあ…」と歓喜の溜め息を零した。
「分かってたけど、ほんっとうに可愛いね。小さい頃からサツキが完成されてる…」
「ふふ、何それ」
「だってホラ!目とかまんまだし、昔っから鼻が高くて睫毛が長くってさ」
興奮気味で指差す龍之介に、楽は呆れ気味にその写真を奪い取る。
テーブルの上には写真の山が五つ。そのうちの一つにそれを置くと、楽は「ぐちゃぐちゃにすんなよ」と龍之介に忠告した。
一つの山は姉鷺が持って帰り、真っ先にSNSで公開する予定の写真。つまり選りすぐったモノたちだ。
「確かに、こんな子供を見つけたら、スカウトもしたくなるよな…。良い人に見つけてもらって、良かったね」
龍之介は少し腰を屈め、サツキの目線に合わせて微笑んだ。
牧野サツキを見つけたのは、八乙女宗助。事務所の社長で、お父さんだ。
「どうだかな。アイツは父親らしいことは何もしねぇし、サツキだって本当は辛い事ばっかだろ」
「う、ううん、そんなことないよ!」
サツキは首を振りながら、目の前のたくましい腕を掴んだ。
こうして触れられる場所に仲間がいて、その人達は自分を好きでいてくれる。
まさに今日、施設で自覚したことを、改めて実感する。
「皆がいるから…。皆がいれば、辛いより、ずっと楽しいよ」
「…サツキ」
龍之介も、楽も、少し遠くで彼等を眺めていた姉鷺も、サツキの心地の良い声に耳を傾けていた。
その切ない顔も、揺れた声も、まるで作品のように胸に刻まれる。
「大丈夫よ。同業者の間では、サツキの好感度は共演すればするほど上がっているもの。味方が増えても、敵が増えるようなこと、有り得ないんだから」
「…だな」
「まぁ、ツクモプロを除いて…かもしれないけど」
姉鷺は何か厄介な問題を思い出したかのように、ハァッと息を吐き出した。
途端に穏やかな空気が一転してピリと張り詰め、楽も龍之介も視線をぶつけるや否や表情を硬くする。
「…ツクモプロ?」
「あぁ、この前のパーティでもそうだったんだけど、やけに向こうの社長の距離感がおかしかったんだよ。それでなくても良い噂のねぇ事務所だから、サツキも気を付けろよ…サツキ?」
パーティに参加していなかったサツキの知らない事情。
しかし、サツキは大きく息を吸い込んだ後、無意識に震えてしまった手を慌てて龍之介から離した。
嫌な予感が額の汗になって滲み出る。
「サツキ?な、何かあったのか?」
龍之介の手がサツキの両肩を掴み、楽の手がサツキの背中に触れた。
サツキはぎゅうと痛い程に拳を握り締め、へらっと繕った顔で笑うことしかできなかった。
追加日:2018/09/30
『来週からは男らしさをテーマにした課題を皆でチャレンジします!』
ラジオから聞こえてくる爽やかな声。
サツキはそれに耳を傾けながら、床についた手をゆっくりと折り曲げた。
『例えば「女性へのプレゼントに何を選ぶ?」とか「50m走何秒?」とか。皆で実際に試して、その結果を次週に報告します!』
震える腕、途切れる息、微かに零れる喘ぎ。
曲げた腕をゆっくりと伸ばすと、サツキはついに浮かせていた膝を床に付けた。
『初回はオレの独断で「1分間に腕立て何回できる?」にします!』
『お前それ、だいたい結果予想できんじゃねーか!』
『実はこの企画、TRIGGERの皆さんも参加してくれることになってますので、皆さん楽しみにしていてくださいね!』
『無視かよ!ってスゲェな!』
コミカルな二人のやり取りをBGMに、深く息を吸い込み再び体を持ち上げる。
しかし長くは続かず、数秒耐えたところでサツキは胸を床につけた。
体が熱く、頬には汗が滲んでいる。それを手の甲で拭ったサツキは、恨めしく隣を睨めつけた。
「はぁ…ッ、なんで見てるの…?楽もやりなよ…」
「俺は別に練習とかいらねぇし。つかお前、マジで筋力ねーな」
「だって、俺…ダンスとか、しないし…」
楽は監督に徹するとでも言いたげに、サツキの頭の横で胡坐をかいている。
自身の足に置いた腕で頬杖をつくその表情は、心底楽し気だ。
「にしても姉鷺がやる気になってくれて良かったよな。一緒に何かやるなんて、スゲェ久々」
「うん…、絶対ダメって言われると思ってた」
「ちゃんと需要があるかどうかの見極めはしてんだよな」
このラジオの企画をサツキが耳にしたのは、つい先日のこと。
男らしさと仲の良さを同時にアピールしたい…という七瀬陸からの要望は当初サツキにだけ向けられたものだった。
しかしTRIGGERにまで話が広がると、回答映像を撮影してSNSに上げようなどと更に話は膨らんでいった。
SNSのアカウントを持っていないサツキに代わり、動画はTRIGGERのマネージャーから公開される予定だ。
「俺…いろんな人を巻き込んじゃって、本当に申し訳なくて…。早く何とかしなきゃだよね」
サツキが願うのは、誰にも迷惑をかけず、ただ歌い続けること。それだけだ。
楽は小さく頷きながら、サツキの頭をくしゃと撫でた。
「元々お前は何も悪い事してねぇからな。謝ることじゃねぇ、厄介なファンの嫉妬でしかねぇんだから」
「でも、俺に非がないわけじゃないよ。少なくとも…楽の事は…」
ちらっと楽の様子をうかがったサツキの顔が、筋トレの余韻とは別の理由で色付いていく。
それに気付いた楽がふっと吹き出すと、サツキは慌てて体勢を戻した。
「負けたくない…っ」
「お、やる気になったな」
いち、に、さん。サツキの腕立て伏せに合わせて、楽が数字を数える。
それに飽きてくると、楽はごろんと仰向けに転がり、指先でサツキの二の腕を突いた。
今まさに力み震えているサツキの腕は、ふにと程良い弾力で楽の指を押し返す。
「やってる最中だってのに固くなってねぇじゃん。逆にどうやってんだよ、これ」
「…っ、そんな酷いこと言わないで、っていうか、触らないで…っ」
そもそもの問題として、サツキの腕はほとんど折れ曲がっていない。
それでも小刻みに震えるサツキに対し、楽は感触を確かめるかのように二の腕を鷲掴んだ。
「~~~っ、くすぐったいから!」
「くすぐったい?」
「く、すぐったいよ、なんで、脇の方…、ふ…ッ、も、もう無理…!」
おどけた様子で口角を上げながら、楽はサツキの腕をするりと撫でる。
楽の指が服の隙間からサツキの脇の辺りに触れると、サツキは堪らずそこに倒れ込んだ。
「くすぐったいってば!どうして邪魔するんだよ~…」
「頑張ってるサツキ、スゲェ可愛い。全然できてねーし」
「出来ないから頑張ってんじゃん…」
唇を尖らせ、楽の腕をぱしと叩く。
その痛くも痒くもない反抗に、楽は鼻で笑いながらサツキに顔を寄せた。
鼻先が触れ合いそうな距離で、淡い色の瞳が微かに揺らぐ。サツキが泣いたあの日から、度々見るようになった楽の切ない表情だ。
「……俺、別に強がってないよ。ちゃんと楽しいから笑ってるし、辛いことばっかりじゃないから」
「知ってる。でも、やっぱ話さねーなコイツと思って」
「…まだ、大丈夫だから話さない」
「大丈夫じゃなくなってからじゃ遅えだろ馬鹿」
サツキは口を閉ざしたまま、愁事を隠して楽に微笑みかけた。
一方、楽は納得のいかない顔だ。ムスッと眉を寄せ、荒っぽく息を吐き出す。
続けてピコンッと鳴った音に、サツキはハッと目を上げた。
「今録画入れたでしょ…!?と、撮らなくて良いってば」
「ほら、俺見てねぇで続けろ」
「い、いや…も、もうむり…」
サツキはわざとらしく息も絶え絶え返すと、楽の真似をして仰向けになった。
楽の携帯の画面には、サツキのあどけない横顔が映る。
「…そういや、最近こうやって記録することも忘れてたよな」
幼い頃、サツキのカメラマンは楽だった。それを思い出す楽の携帯に、サツキの写真はほとんど入っていない。
「そもそもサツキの写真はここに来てからのモンしかねぇしな…。俺が知る前のサツキも、すげえ可愛いんだろうな」
「ど、どうかな。そんな、普通だと思うよ?」
「写真、か…。そうだ」
楽はぱしんと一度軽く手を打つと、名案と言わんばかりに勢いよく立ち上がった。
そのまま携帯で何かを検索した後、「ちょっと電話してくる」と部屋を出ていく。
サツキはきょとんと目を丸くしたまま、楽の出て行ったドアを呆然と見つめていた。
・・・
TRIGGERにとっては貴重なオフの一日。
後部座席に乗り込んだサツキは、落ち着かず流れる景色に目を向けていた。
助手席に座っているのは八乙女楽。運転席でハンドルを握る姉鷺は、ちらと横目に楽を睨み付けた。
「だからってアンタ達…よりにもよって、なんでこんな大変な時期にそんな危ない事しようとしてんのよ」
「すみません…」
「主に楽に言ってんのよ。どうせアンタが言い出したんでしょ?」
あの日、楽が電話を入れた相手は、マネージャーである姉鷺だったらしい。
目的はサツキの幼い頃の写真の入手。それが果たせる可能性があるのは、サツキの育った施設だけ。
楽が姉鷺に申し出たのは、同行の許可だ。しかし、いざ当日になると、姉鷺は格好良く「後ろに乗りなさい」と車を発進させた。
「馬鹿だな、今だからこそ、だろ。子供ってのは無条件に愛されるもんだ。上手く行けば、鎮火出来っかもしんねぇ」
「後付けのくせに、よくも堂々と言えたものね…。まぁいいわ。写真の厳選、私にもさせてもらうから」
見つかればだけど。と眉をひそめる姉鷺は、心なしか楽しそうに口元を緩めている。
その姿があまりに意外で、サツキは思わずミラー越しに彼、もとい彼女を見つめた。
「何よ、何か言いたげね」
「協力していただけるなんて意外で…。俺、TRIGGERに迷惑ばかりかけたから嫌われているものかと」
「…貴方を知っていて嫌える人間なんていないわ」
化粧の施された睫毛が密やかに揺れる。その明らかにサツキへの同情が滲む態度に、サツキは思わず息を呑み、楽までもが目を見開いた。
姉鷺はゴホンッと一つ咳払いをすると、「そもそも!」と見た目に反して低く男らしい声を発した。
「貴方は社長の大事な息子なんだから、私には貴方を守る義務があるのよ!」
社長…八乙女社長。八乙女楽の父親。
サツキはぎゅっと膝の上で手を握り締めた。八乙女社長とはもう何年もの間、仕事以外で顔を合わせてはいない。
「俺がこんなで…八乙女さんも、きっと失望してますよね」
「そう思うなら、負けてちゃダメよ」
まるで、現状を見透かされているかのような鼓舞の数々。
サツキは涙ぐんだ顔を窓へ向けて、唇をきつく結んだ。
窓から見える景色と、窓に映る自分の情けない顔。しかし景色に嘗て過ごした場所が見えると、サツキの表情は自然と解れていった。
・・・
一人で施設の中へ入って行ったサツキは、受付の女性に声をかけるなり盛大に迎い入れられた。
「おかえりなさい」と声をかけたのは、嘗てお世話になったお母さんのような人。
サツキが事情を説明すると、彼女はサツキを事務室へと案内した。知り尽くしていると思っていた施設で、初めて入る部屋だった。
「いつか、この時が来るんじゃないかと思って、整理しておいたのよ」
差し出されたのは、小さなアルバムが三つ。表紙には「サツキくん」と丸文字で書かれている。
「これ…いいんですか?」
「えぇ、持って行って頂戴。…元気そうで良かったわ」
優しい母の顔は、切なく寂しく歪められる。
サツキはつられて眉を寄せてしまった後、慌てて首を横に動かした。
「辛いことばかりじゃないんです、俺…、今すごく大切な人がいて、大切な人達に囲まれて…愛されてて…ちゃんと、幸せです」
彼女は安心したように微笑み、「そう」と小さく相槌を打つ。
サツキは咄嗟に出た自分の言葉に驚き、口を開いたまま固まっていた。
幸せです、それは確かに本心から出た言葉だ。
大好きな人に愛されて、大好きな人と共にいられて、応援してくれる人達がいて。それが幸せでないのなら、何が幸せだというのか。
「俺は…幸せ、です…」
言い聞かせるように言葉を重ねると、母は柔らかくサツキを抱き締めた。
楽のような力強く支えるそれではなく、暖かく包み込み、何もかもを受け止め許す抱擁。
「よく頑張ったわね、でも…そんなに頑張らなくても良いの。貴方を愛する人は、ここにもいるんだから」
サツキはその暖かな胸に涙を落とした。塞き止めていた感情が溢れ出し、子供のように泣きじゃくる。
なだめるようにサツキの背をぽんぽんと叩き、繰り返す「大丈夫よ」という声は根拠もなくサツキを救い上げる。
サツキはそのぬくもりと写真たちを胸に、楽達の元へと歩き出した。
「…アンタ、過保護よ」
サツキを見送った車の中で、姉鷺は潜めた声で呟いた。
楽はぴくりと眉を吊り上げ、姉鷺から目を逸らす。が、そんな楽の態度にすっかり慣れている姉鷺は、構わずに言葉を続けた。
「わざわざ事前に連絡して、サツキがお世話になってたって人、呼んでもらったんですって?」
「…そりゃ、そうじゃねぇと意味ねぇからな」
「意味ないって…目的は写真だってところから嘘だったわけ?」
「ウソじゃねえよ。でも、一番重要なのはそこじゃねぇって話」
勿論サツキの愛らしい写真があったなら、さり気なくSNSやブログで紹介するつもりだ。
しかし、楽は腕を組んだまま険しい顔でため息を吐く。どうかこれで、少しでも心が安らいでくれたなら。
「…何よ、あの子、今そんなにマズい状態なの?それ、社長は知ってるんでしょうね」
「知ってようが知ってまいが…クソオヤジに出来ることなんてねぇよ」
「…、それを判断するのは、アンタじゃないわよ」
楽は何も言わず、サツキの背が消えた施設の入口を見つめ続けている。
姉鷺はハンドルに身をもたれ、リップの乗った唇を尖らせた。
・・・
部屋のテーブルに並べられた写真の数々。
姉鷺がリークした噂を聞きつけた十龍之介は、その一枚を手に取り「うわあ…」と歓喜の溜め息を零した。
「分かってたけど、ほんっとうに可愛いね。小さい頃からサツキが完成されてる…」
「ふふ、何それ」
「だってホラ!目とかまんまだし、昔っから鼻が高くて睫毛が長くってさ」
興奮気味で指差す龍之介に、楽は呆れ気味にその写真を奪い取る。
テーブルの上には写真の山が五つ。そのうちの一つにそれを置くと、楽は「ぐちゃぐちゃにすんなよ」と龍之介に忠告した。
一つの山は姉鷺が持って帰り、真っ先にSNSで公開する予定の写真。つまり選りすぐったモノたちだ。
「確かに、こんな子供を見つけたら、スカウトもしたくなるよな…。良い人に見つけてもらって、良かったね」
龍之介は少し腰を屈め、サツキの目線に合わせて微笑んだ。
牧野サツキを見つけたのは、八乙女宗助。事務所の社長で、お父さんだ。
「どうだかな。アイツは父親らしいことは何もしねぇし、サツキだって本当は辛い事ばっかだろ」
「う、ううん、そんなことないよ!」
サツキは首を振りながら、目の前のたくましい腕を掴んだ。
こうして触れられる場所に仲間がいて、その人達は自分を好きでいてくれる。
まさに今日、施設で自覚したことを、改めて実感する。
「皆がいるから…。皆がいれば、辛いより、ずっと楽しいよ」
「…サツキ」
龍之介も、楽も、少し遠くで彼等を眺めていた姉鷺も、サツキの心地の良い声に耳を傾けていた。
その切ない顔も、揺れた声も、まるで作品のように胸に刻まれる。
「大丈夫よ。同業者の間では、サツキの好感度は共演すればするほど上がっているもの。味方が増えても、敵が増えるようなこと、有り得ないんだから」
「…だな」
「まぁ、ツクモプロを除いて…かもしれないけど」
姉鷺は何か厄介な問題を思い出したかのように、ハァッと息を吐き出した。
途端に穏やかな空気が一転してピリと張り詰め、楽も龍之介も視線をぶつけるや否や表情を硬くする。
「…ツクモプロ?」
「あぁ、この前のパーティでもそうだったんだけど、やけに向こうの社長の距離感がおかしかったんだよ。それでなくても良い噂のねぇ事務所だから、サツキも気を付けろよ…サツキ?」
パーティに参加していなかったサツキの知らない事情。
しかし、サツキは大きく息を吸い込んだ後、無意識に震えてしまった手を慌てて龍之介から離した。
嫌な予感が額の汗になって滲み出る。
「サツキ?な、何かあったのか?」
龍之介の手がサツキの両肩を掴み、楽の手がサツキの背中に触れた。
サツキはぎゅうと痛い程に拳を握り締め、へらっと繕った顔で笑うことしかできなかった。
追加日:2018/09/30