八乙女楽(IDOLiSH7)
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16.終わりの前兆
案内されたオシャレなバーで、サツキはそわそわと辺りを見渡した。
TRIGGERの3人なら馴染むだろう大人な雰囲気。つまり、サツキには縁のなかった空間だ。
落ち着かず店内を凝視していたサツキは、自分の隣に座った人がふっと笑ったのを合図にシャンと背筋を伸ばした。
「す、すみません俺…。こういう場所初めてだから緊張しちゃって…」
「最初は皆そうだよ。でもせっかく20歳になったんだから、少しずつ慣れてかないと」
好きな女性にいいカッコもできないだろ。
そう言って笑う男性は、まさに大人な空間が似合う色気のある人だった。
街を歩けば女性が振り返り、油断するとサツキですら見惚れる男前だ。
「さて、何を頼もうか?サツキ、酒のことなんか分からないって感じだろう?」
「あ…、そうなんです、まだ全然飲めないし、飲んだこともあまりなくて」
「はは、イメージ通りだ。なら俺のオススメ頼んでやるよ」
その人は、頼りになる笑顔と共に、サツキの肩をぽんと叩いた。
初めて彼と出会ったのは、傘を持たない雨の日。
手に持った傘を差し出した彼は、「折り畳みも持ってるから」と爽やかに立ち去った。
再会は駅前のコンビニ。そして三度目はTRIGGERの声が聞こえる野外ライブの会場近く。
「でもまさか、誘いに乗ってくれるとは思わなかったよ」
「そ、うですね、確かに…。仕事仲間以外では初めてです」
三度の偶然にはいくら何でも感動せざるを得ず、サツキは四度目の再会を約束した。
連絡先を交換し、諸々のセッティングは全て彼が行い今に至る。
「それで?悩んでること吐き出しちまえよ」
「…悩んでいるように見えてました?」
「見えるも何も、だってお前…牧野サツキ、今大変なんだろ…?」
わざとらしくフルネームで呼ばれ、サツキは今更ながら顔を隠すように口元を手で覆った。
これまで親し気だった彼の態度が、心なしか余所余所しい。
「ご、ご存知でしたか」
「知らないわけないだろ。まあ俺はあんまりテレビ見ないんだけど、俺の友人が好きでさ。そっちが言わないから、芸能人だの騒がれる方が嫌なんだと思って。悪い、まずかった?」
「いえ…有難うございます」
仕事柄、同業でなければ知り合う機会も少ない。
それこそ彼の言う通り、歌手である牧野サツキとして見られ、普通の交友関係を築くのは難しいのだ。
「サツキ、お疲れ様。お前は頑張ってるよ」
彼の言葉は表面的だ。サツキが何を頑張っているかなんて知るはずがない。しかし、それが酷く心地良かった。
テレビや雑誌を見た人全てが、その出まかせの記事を真に受けてはいない。サツキの苦悩を理解しようとしてくれる人もいるのだ、と気付かされる。
「…御堂さんも、お疲れ様です」
「ああ、ありがとな。さ、今日は何もかも忘れて呑もうぜ」
サツキはカウンターに置かれたお洒落なグラスに指をかけた。
促されるままグラスに口を付けて少しずつ流し込む。
広がる甘さと暖かさに、サツキは安心したように微笑んだ。
・・・
この日、とあるパーティ会場を貸し切り、大手芸能事務所主宰のパーティが行われていた。
正装で到着したTRIGGERの八乙女楽は、その大きな会場で目を泳がせる。
何となく探してしまうのはIDOLiSH7だ。年末はライバルとして競いあったが、今では良き友人でもある。
「あ、いた。IDOLiSH7」
広い会場とはいえ、賑やかな7人組を見つけるのは容易い。
楽が軽く手を上げると、七瀬陸はこの豪華なパーティに圧倒されているのか、勢い三割減で駆け寄ってきた。
「こんにちは!天にぃ、…あ、えっと九条さんも、会えて嬉しいです」
TRIGGERの九条天とIDOLiSH7の七瀬陸は実の兄弟だ。
こうして公にされていない素性を陸が漏らしかけるのは珍しくない。
天は慣れた調子で軽く咳払いをし、取り繕うように営業顔で微笑んだ。
「って、あれ?サツキはいないんだ…」
「あのね、別にセットで活動してるわけじゃないから」
「それは分かってるんだけど…この前の事、ちゃんと謝りたかったから…。なかなか会い辛くなっちゃったし…」
陸が気にしているのは、先日女装したサツキと出かけた際に、隠し撮られたツーショットをSNSに上げられてしまったことだった。
「七瀬陸がデートしてた」という投稿に対し、見た人が「これサツキの女装っぽい」と気付いたのが始まりだったらしい。
「せっかく仲良くなれたのに、どうして会っちゃ駄目なんだろう…?」
「サツキが可愛いからだろ」
「そ、それがどうして会っちゃいけない理由になるんですか?」
楽の短い回答に、陸の眉は中心に寄せられる。
その陸の肩に手を乗せたナギは、このトークテーマに嬉々として口を開いた。
「リクはマネージャーが可愛いです。リクとマネージャーが二人きり、どう思いますか」
「え!?な、なんで急に、そんな!だ、駄目だよそれは…!」
「そう。ファンの皆さん心配します。マネージャーも困りますね。
では、ワタシはサツキが可愛い。ワタシとサツキが二人きり、どうなりますか?」
陸はぽかんとしたままナギを見上げて静止した。
混乱している顔だ。「え、ナギ、そうなの…?」という心の声が顔から漏れている。
「つまり、俺達がサツキに恋愛感情を抱くんじゃねえかって疑うやつがいるんだよ。少なからずな」
「目敏いとも言うね」
「おい、天…」
続けて口を開いた楽と天が、目線だけで殴り合う。そんな二人の様子に気付くことすらなかった陸は「なんだ冗談かぁ」と安堵した様子で一息ついた。
それから遅れてナギの言葉の意味も理解したようで、寂しそうに眉を下げる。
「恋愛対象になるかもしれない相手とは、きっと二人きりになって欲しくないよね。でもサツキは男だよ?ならないけどなぁ」
「陸はね」
さぞ不可解そうに首を傾げる陸に言うようで、天の視線は楽へと向いている。
一瞬飛び交った火花にもやはり気付かない陸は、ぶんぶんっと首を振り、拳を作ってから顔を上げた。
「オレ、ラジオの企画でサツキと仲良いってことを何とか伝えたいと思ってるんです。それって、駄目かな…?」
最後の疑問は兄である天へと向ける。
他事務所である以上、必要以上に踏み込むのは良くない。その認識はあるものの、陸の性格上、この状況を放っておくことは出来なかったのだ。
「へえ、例えばどんな?」
「そ、それはこれから考える!でも、サツキにいいよって言ってもらわないと駄目だし…やっぱり今日会いたかったな」
しゅんと落ち込んだ陸を目の当たりにし、天の顔付きもつられて陸へと似通っていく。
思わず「陸は優しいね」と頭を撫でそうになった天は、慌てて腕を組み、楽へと視線を移した。
「…楽、何ぼうっとしてるの」
「あ、いや、サツキの話聞いてたら急に心配になってきちまって」
「え…サツキ、何かあったんですか?」
楽の言葉に、陸の表情が焦りの色を見せる。
直後「聞かなきゃ良かった」と顔を険しくした天に対し、楽は前のめりに口を開いた。
「今日、俺の知らねえヤツに会うって言ってたんだ」
「…ただの心配性だから気にしなくていいよ、陸」
間髪を容れない天の容赦なさに、陸は仲良しなんだなぁと無邪気に笑う。
そんな三人の絶妙な関係性を眺めていたナギは、「Oh!」と日本人ではまずしない反応を見せた。
「それなら電話すればいいです!心配解消、リクの目的も果たせますね」
「あぁ…電話か。有りだな」
楽は自身の服を掌で叩いた後、辺りを見渡した。
楽の携帯は、鞄もろともクロークに預けている。TRIGGERのうち一人が持ってりゃ十分だという判断だ。
「あ、龍、ちょっと電話貸してくれ」
「えっ、あ、うん。いいよ」
龍之介の携帯にも、ちゃっかりサツキの番号が登録されている。
それを少し複雑に思いながら、楽は通話ボタンを押して暫く待った。
「…出ないか」
延々と続く呼び出し音。一度切って、もう一度かけ直してみても結果は同じ。
自身の額に手を置き「Oh…」とやはり日本人的ではない反応をするナギの横で、陸も釣られて大げさに肩を落とした。
「すみません、八乙女さん。今度マネージャーを通してアポとってみますね」
「…あぁ、そうしてくれ」
サツキが電話に出ないことは少なくない。
しかしそれは家で寝ていたり、風呂に入っていたりするからだ。
もしかして、もう帰っているのか、それとも。
楽は異様な不安を感じながら、不発で終えた携帯の画面を見つめていた。
・・・
閉じた瞼に何かが触れる。決して優しくない抱擁と、唇を覆う柔らかな感触。
知らない匂いと身に覚えのない愛撫に、サツキは嫌悪を抱いて目を開いた。
視界に広がったのは、見知らぬ天井と肌触りの悪いベッド。
「ようやく起きたか。悪いな、飲ませ過ぎた。大丈夫か?」
ベッドの淵には男性が座っている。
その人はサツキの身動ぎに気付くと、安心したように微笑んだ。
「近くのホテルに運んだんだけど、良くなかったかな。オトコ食いだとかアイドル食いだとか呼ばれてんだろ」
「…いえ、お手数おかけして…有難うございます」
ぼんやりとしたまま、ベッドに置いた手に力を入れて起き上がる。
頭が鮮明になるにつれて思い出される失態。
御堂という名の友人と過ごしたのは、恐らく今から数時間前。
勧められるがまま酒を飲んだサツキは見事に潰れ、ほぼ眠りこけた状態で御堂の腕に支えられ、部屋のベッドまで運ばれたのだ。
「なあ、真剣な話。俺には、八乙女がお前を潰す未来しか見えない」
サツキは口を閉ざしたまま、目の前の整った顔を見上げた。
どうやら、酔った勢いで余計なことを吐露したらしい。
「八乙女プロほどの大手が、ここまで膨らんだアンタの悪い噂をもみ消そうとすらしないだろ。おかしいと思わないのか」
「すみません、俺…、その話は」
「何も手を下さないのは、看板グループのTRIGGERのことで頭いっぱいだからだろ?アンタのことなんてどうでもいいんだ」
はっきりしてきた意識の中に、彼の言葉が突き刺さる。
おかしいと思わなかったわけではない。どうして、いつまで、そんな疑問は常に頭の中にあった。
「…でも、当然じゃないですか…。迷惑かけてるのは俺の方で」
「ツクモプロに移籍したらどうだ」
「…え?」
「ツクモプロは業界中に協力者がいる。変な噂が流れないようにすることなんて、針に糸通すより簡単だろ」
サツキは自分が寝ぼけているのかと錯覚していた。
ツクモプロに移籍。ツクモプロダクション…芸能事務所の一二を争うような大手事務所のことだ。
誰が、牧野サツキが?
「な、なんてこと言い出すんですか…!」
「サツキを思って言ってるんだよ」
「そ、そもそもなんで…御堂さんは、ツクモプロの関係者だったんですか…!?」
驚き声を荒らげるサツキの手に、彼の手が重なった。
優しい手つきと柔らかな声色。容姿も端麗で、ドラマの撮影と言われた方が自然なほどに甘やかな刻が流れる。
しかし、今ここに台本はない。サツキは丁寧にその手を解いた。
「…有難うございます。でも…。マスコミに騒がれるのも目に見えているのに、そんな危険な橋は渡れません」
「…そうかもしれないけど、俺は心配なんだよ」
真剣な面持ちにも、サツキの心が揺れる隙間は微塵もない。
サツキはベッドから降りると、深々と頭を下げた。
「面倒をかけてしまってすみませんでした。あの…俺、失礼します」
ベッドの下に落ちていた鞄を拾い上げ、サツキを見上げる鋭い視線から逃げるように背を向ける。
妙に恐ろしく思えるのは、サツキが彼の事を全く知らなかったからだ。
良くすれ違う人。格好良い人。話しやすい人。
でも、彼を知らなくて、彼はサツキをよく知っている。
「待てよ」
ドアノブを掴んだサツキの手に、大きな手が添えられた。
背にあたっているのは、”友人だと思っていた男性”の体だ。
「な、んですか…?離してください」
「これ、なーんだ」
振り返ったサツキの目に映ったのは、男の持つ携帯に映し出された写真だった。
白いシーツに横たわる二人が裸でキスしている写真。被写体は、サツキと目の前の男によく似ている。
「えっ、…な、なんですか、これ…?」
「驚いたよ。お前、本当に肌白いんだな。乳首がこんな桃色の奴、女でも見たことない」
わざとらしく舌なめずりした男の指が、服の上からサツキの胸をぐりと弄る。
咄嗟に突き出したサツキの腕は、男に捕られてドアへと押し付けられていた。
「デビューしたてのツクモプロのアイドルまで食ったとなったら、やばいよな?」
「え…?」
先程まで耳にしていた柔らかな低い声に棘が生えている。
サツキの話を親身に聞いた優しい男性は、既に姿を眩ませていた。
「ツクモプロに来い。そうすれば、全部なかったことにしてやる」
「っ、それ、貸してください…!」
サツキはまだ捕られていないもう片方の手を、がむしゃらに彼の携帯へ伸ばした。
しかし、サツキの手は空を切る。御堂はその携帯を部屋の方へと放り、その手でサツキを壁へと張り付けた。
「ほら、どうする?」
不敵に笑う男性には、優しさのほんの欠片すらない。
ぞくと悍ましい感覚が背筋に走り、サツキは震える息を吐き出した。
体格的に押し退けるのは無理だろう。写真をどうにかしなければ逃げる事も出来ない。
「どうして、こんなことするんですか…。俺が、何を…」
貴方に何をしたと言うのか。そう口に出しかけた瞬間、サツキの頭がすっと冴えた。
…仮に彼が、本当にツクモプロのアイドルだとして、邪魔な存在を排除したいのだとする。
サツキはもはや週刊誌の常連。放っておけば潰れるだろう人間を相手に、我が身を犠牲にする価値などあるはずがない。
そこまで思考が追いつけば、答えは自ずと明白になった。
「貴方は…これから、デビューするアイドル…なんですよね…」
「ああ、そういう事になるな」
「狙いは八乙女…、それともTRIGGERですか…?」
男の目が、ギラと一瞬光った気がした。
怯えるな、怯むな、呑まれるな、必死に自分へ訴える。
「ライバルになりそうなアイドルを潰したかったのかもしれませんけど…っ、そんな写真、意味無いですよ。俺は事務所に全てを話した上で引退します」
「…なるほど、オレはアンタを舐めてたってわけだ。言うこと聞くだけの坊ちゃんかと思ったら…。へぇ、そうか」
引退した芸能人のスキャンダルに価値はない。
それどころか、写真をばらまけば、彼はただ自分の首を絞める事になる。
しかし御堂は状況を楽しむかのように口角を吊り上げた。
「アンタの引退前にばらまかれるとは思わないのか?それこそ、今日か、明日にでもさ」
「…そ、れは…少なくとも、貴方のデビュー前ではないはずですよね…?」
「はは、正解」
御堂は満足気に笑いながら、サツキの腕をきつく締め付けた。
ずいと近付いて来る顔から逃れる術はない。
サツキはきつく目を閉じ、首筋に立てられた歯の感触にびくと体を跳ねさせた。
「俺達のデビューの日まで待ってやる。勿論、アンタの態度次第だ」
「…、御堂さん…最初から、俺を、」
「良い答えを期待してるぜ、サツキ」
ぱ、と腕の拘束が解かれる。
サツキは籠から放たれた鳥のように、部屋を飛び出していた。
真っ暗な景色に灯る街灯をいくつも通り過ぎ、息が途切れると同時に足を止める。
走ったせい、それとも極度の緊張のせい。
サツキはヒュッと息を吸いこみ、咳き込みながら公園のベンチに腰掛けた。
ぼろぼろと止めどなく涙が流れる。顔は熱く、しかし体は冷えきっている。
「は…ッ、はぁ、…う、うぅ…」
自分の体をきつく抱き締めながら、サツキは酸素を求めて荒い呼吸を繰り返した。
どうして、なんで、何が。信じられない、信じたくない。
確かに目にした、記憶にない写真。彼がアイドルであろうとなかろうと、サツキを終わらせるには充分だろう。
選択の余地などなく、八乙女事務所から名前を消される。それは事務所への裏切りも同然、八乙女社長は失望するだろう。
当然、TRIGGERの皆も。
「あ…あぁあ…っ」
自分が消えるだけならいざ知らず、事務所とTRIGGERの名を汚す可能性だってある。それだけは、絶対に避けなくてはならない。
サツキは慌ただしくカバンに手を差し込んだ。
どうしよう、まず誰に言えばいい。社長、それともマネージャー、それとも。
「っ…、ふ、…いや、だ…やだ…ッ」
携帯を握りしめたまま、サツキは再び蹲っていた。
まだ頭がこの先を考えるのを拒否している。
何もかも夢であってくれと、サツキは祈るように拳を額へ押し付けた。
「…泣くなよ、牧野サツキ」
それは、サツキの嗚咽をかき消すような、凛とした低い声だった。
思わず体を硬直させ、ゆっくりと目を上げる。
「こんなの間違ってる」
「あ、なた、は…?」
しゃくり上げそうになる声を抑え、サツキは何とかそう口にした。
少し先にある街灯が、その人のシルエットを浮かび上がらせる。
「いいか、お前が利用されたのは、お前がTRIGGERの弱点だからだ。お前が潰れれば、TRIGGERは自ずと隙を見せる」
「…、え…」
「だからお前は、変わらずに笑ってないと駄目なんだよ」
逆光のせいで表情の見えないその人は、掌をぽんとサツキの頭に置いた。
そのままクシャと少し乱暴に撫でる手つきは、どこか楽をも彷彿させる。
「な、何があったか知ってるんですか…!?っ、何でこんなこと…」
「…悪い。でも、絶対に最悪の結果にはさせねえ。アイツが握った弱みなら、俺が何とかしてやるから。今日のことは忘れろ」
御堂と繋がっている人物だという事は口ぶりから明らかだ。
しかし、真っ直ぐな言葉がサツキの疑心を薙ぎ払う。
「…どうして…?あなたもツクモプロの…関係者、なんですよね」
「そうかもしんねえ、けど。俺は…弱いものいじめが大嫌いなんだよ」
サツキの頭を離れた手が、宙できつく握られた。
「優しさとかじゃねぇからな。俺が許せねぇだけだ」
言葉の真意は分からない。
しかし、その強い言葉に促されるように、サツキは手の甲で顔を拭った。
ゆっくりと腰を上げ、縋るようにその人の手を両手で包む。
「すみません…落ち着くまで、こうしていても良いですか…」
「こんなとこに放っておけるかよ。タクシーに押し込むまでは傍にいるからな」
名前も顔も知らない人。
しかし、サツキには彼を信じて言葉に従う事しか出来なかった。
写真は手の届かないところにある。
下手に動いて敵を増やせば、サツキの終わりは間近に迫るだろう。
TRIGGERに心配をかければ、それこそ思う壷。
「…っ、」
「あぁ、クソ…考えるなよ。あんな最低男のことなんて忘れろ。お前は悪くない」
「は、い…すみません…」
頭を下げると同時に、ぽろとまた涙が零れ落ちる。
その人は躊躇いがちにサツキの背に手を回し、とんとんと元気付けるように擦った。
大丈夫だ、大丈夫だから。説得力のある男らしい声がサツキの心を落ち着かせていく。
「…どこかで、お会いしたこと、ありましたか…?」
ふと、サツキは顔を上げてそう問いかけていた。
至近距離で、その男性の目がぱちくりと瞬かれる。
「…、こ、こっち見んな。照れるだろ…」
「え、あ…すみません…?」
男性はサツキから顔を逸らし、ぽりぽりと頬をかいた。
何だか途端に日常を取り戻したような、安心する雰囲気だ。
サツキは思わずクスと微笑むと、もう大丈夫と彼から手を離した。
・・・
タクシーを降り、見慣れた景色に降り立つ。
結局不安がなくなることはなく、未だ日常に戻れるものかと背筋がざわついたままだ。
それでも涙は乾いた。顔の火照りもなくなっている。
サツキは頬をぺちと叩き、気合いを入れてからドアを開いた。
「…サツキ!?」
かちゃと小さく鳴った音に、楽は過敏に反応した。
玄関に走ってきて出迎えるその表情には、安堵と怒りが入り交じる。
「たく、遅くなるなら連絡入れろよ。あと少しで警察呼ぶ所だった」
「あ、はは、ごめん」
そう言えば今は何時だろう。呆然としながら靴を脱ぎ、わざとらしい笑みを浮かべたまま楽の腕を掴む。
そんな下手な演技に、楽の眉が吊り上がった。
「…サツキ?何かあったか」
「あ、えっと…お酒…飲んで…ちょっと記憶が…」
「っお前な…!」
嘘をつくのが下手なサツキには、丁度良い真実。
楽は眉間のシワを深く寄せたまま、サツキをじっと見下ろした。
「飲み慣れてねぇのに外で飲む馬鹿がどこにいんだよ」
「うん、ごめん…もう二度としない、こんなこと、絶対…」
「…、悪い、言い方きつかった。でもお前にもしもの事があったらと思うとさ」
楽の手が、ぐしゃぐしゃとサツキの頭をかき回す。
サツキは早速熱くなった目頭に、慌てて顔を下げた。
「…電話に出ねぇと思ったら、酔いつぶれてたとはな」
「え、ご、ごめん!全然気づかなかった」
「七瀬がお前との友達アピールする企画を考えてんだって。ラジオのコーナーとして何かしたいって」
今度は慰めるように、楽の大きな掌がサツキの背中を支える。
サツキは上目で楽を見つめると、ほんのり頬を緩めた。
「俺…みんなに迷惑かけてるね」
「誰も迷惑だなんて思ってねぇよ。七瀬は寂しがってた。俺は心配した、それだけだろ」
背中を支えていた手が、とんとんとあやすようにリズムを刻む。
その楽の視線が一瞬サツキの首元で止まり、手の動きもピタと止んだ。
「…さっさと風呂行って、今日は一緒に寝るぞ」
何かを押し殺すように、楽の唇がきゅっと結ばれる。
その楽の表情に、サツキは再び視線を落とした。
「…楽、ごめん。今は…何も言えなくて…」
「馬鹿」
「…っ、ごめんなさい…」
サツキの頬を、乾いたはずの涙がぽろぽろと伝い落ちる。
楽は何も聞かず、ただサツキを強く抱きしめた。恋人として。理解者として。
その暖かな腕の中に、サツキは言えない絶望を吐き出した。
(第十六話・終)
追加日:2018/09/24
移動前:2018/04/15
2018/05/19
案内されたオシャレなバーで、サツキはそわそわと辺りを見渡した。
TRIGGERの3人なら馴染むだろう大人な雰囲気。つまり、サツキには縁のなかった空間だ。
落ち着かず店内を凝視していたサツキは、自分の隣に座った人がふっと笑ったのを合図にシャンと背筋を伸ばした。
「す、すみません俺…。こういう場所初めてだから緊張しちゃって…」
「最初は皆そうだよ。でもせっかく20歳になったんだから、少しずつ慣れてかないと」
好きな女性にいいカッコもできないだろ。
そう言って笑う男性は、まさに大人な空間が似合う色気のある人だった。
街を歩けば女性が振り返り、油断するとサツキですら見惚れる男前だ。
「さて、何を頼もうか?サツキ、酒のことなんか分からないって感じだろう?」
「あ…、そうなんです、まだ全然飲めないし、飲んだこともあまりなくて」
「はは、イメージ通りだ。なら俺のオススメ頼んでやるよ」
その人は、頼りになる笑顔と共に、サツキの肩をぽんと叩いた。
初めて彼と出会ったのは、傘を持たない雨の日。
手に持った傘を差し出した彼は、「折り畳みも持ってるから」と爽やかに立ち去った。
再会は駅前のコンビニ。そして三度目はTRIGGERの声が聞こえる野外ライブの会場近く。
「でもまさか、誘いに乗ってくれるとは思わなかったよ」
「そ、うですね、確かに…。仕事仲間以外では初めてです」
三度の偶然にはいくら何でも感動せざるを得ず、サツキは四度目の再会を約束した。
連絡先を交換し、諸々のセッティングは全て彼が行い今に至る。
「それで?悩んでること吐き出しちまえよ」
「…悩んでいるように見えてました?」
「見えるも何も、だってお前…牧野サツキ、今大変なんだろ…?」
わざとらしくフルネームで呼ばれ、サツキは今更ながら顔を隠すように口元を手で覆った。
これまで親し気だった彼の態度が、心なしか余所余所しい。
「ご、ご存知でしたか」
「知らないわけないだろ。まあ俺はあんまりテレビ見ないんだけど、俺の友人が好きでさ。そっちが言わないから、芸能人だの騒がれる方が嫌なんだと思って。悪い、まずかった?」
「いえ…有難うございます」
仕事柄、同業でなければ知り合う機会も少ない。
それこそ彼の言う通り、歌手である牧野サツキとして見られ、普通の交友関係を築くのは難しいのだ。
「サツキ、お疲れ様。お前は頑張ってるよ」
彼の言葉は表面的だ。サツキが何を頑張っているかなんて知るはずがない。しかし、それが酷く心地良かった。
テレビや雑誌を見た人全てが、その出まかせの記事を真に受けてはいない。サツキの苦悩を理解しようとしてくれる人もいるのだ、と気付かされる。
「…御堂さんも、お疲れ様です」
「ああ、ありがとな。さ、今日は何もかも忘れて呑もうぜ」
サツキはカウンターに置かれたお洒落なグラスに指をかけた。
促されるままグラスに口を付けて少しずつ流し込む。
広がる甘さと暖かさに、サツキは安心したように微笑んだ。
・・・
この日、とあるパーティ会場を貸し切り、大手芸能事務所主宰のパーティが行われていた。
正装で到着したTRIGGERの八乙女楽は、その大きな会場で目を泳がせる。
何となく探してしまうのはIDOLiSH7だ。年末はライバルとして競いあったが、今では良き友人でもある。
「あ、いた。IDOLiSH7」
広い会場とはいえ、賑やかな7人組を見つけるのは容易い。
楽が軽く手を上げると、七瀬陸はこの豪華なパーティに圧倒されているのか、勢い三割減で駆け寄ってきた。
「こんにちは!天にぃ、…あ、えっと九条さんも、会えて嬉しいです」
TRIGGERの九条天とIDOLiSH7の七瀬陸は実の兄弟だ。
こうして公にされていない素性を陸が漏らしかけるのは珍しくない。
天は慣れた調子で軽く咳払いをし、取り繕うように営業顔で微笑んだ。
「って、あれ?サツキはいないんだ…」
「あのね、別にセットで活動してるわけじゃないから」
「それは分かってるんだけど…この前の事、ちゃんと謝りたかったから…。なかなか会い辛くなっちゃったし…」
陸が気にしているのは、先日女装したサツキと出かけた際に、隠し撮られたツーショットをSNSに上げられてしまったことだった。
「七瀬陸がデートしてた」という投稿に対し、見た人が「これサツキの女装っぽい」と気付いたのが始まりだったらしい。
「せっかく仲良くなれたのに、どうして会っちゃ駄目なんだろう…?」
「サツキが可愛いからだろ」
「そ、それがどうして会っちゃいけない理由になるんですか?」
楽の短い回答に、陸の眉は中心に寄せられる。
その陸の肩に手を乗せたナギは、このトークテーマに嬉々として口を開いた。
「リクはマネージャーが可愛いです。リクとマネージャーが二人きり、どう思いますか」
「え!?な、なんで急に、そんな!だ、駄目だよそれは…!」
「そう。ファンの皆さん心配します。マネージャーも困りますね。
では、ワタシはサツキが可愛い。ワタシとサツキが二人きり、どうなりますか?」
陸はぽかんとしたままナギを見上げて静止した。
混乱している顔だ。「え、ナギ、そうなの…?」という心の声が顔から漏れている。
「つまり、俺達がサツキに恋愛感情を抱くんじゃねえかって疑うやつがいるんだよ。少なからずな」
「目敏いとも言うね」
「おい、天…」
続けて口を開いた楽と天が、目線だけで殴り合う。そんな二人の様子に気付くことすらなかった陸は「なんだ冗談かぁ」と安堵した様子で一息ついた。
それから遅れてナギの言葉の意味も理解したようで、寂しそうに眉を下げる。
「恋愛対象になるかもしれない相手とは、きっと二人きりになって欲しくないよね。でもサツキは男だよ?ならないけどなぁ」
「陸はね」
さぞ不可解そうに首を傾げる陸に言うようで、天の視線は楽へと向いている。
一瞬飛び交った火花にもやはり気付かない陸は、ぶんぶんっと首を振り、拳を作ってから顔を上げた。
「オレ、ラジオの企画でサツキと仲良いってことを何とか伝えたいと思ってるんです。それって、駄目かな…?」
最後の疑問は兄である天へと向ける。
他事務所である以上、必要以上に踏み込むのは良くない。その認識はあるものの、陸の性格上、この状況を放っておくことは出来なかったのだ。
「へえ、例えばどんな?」
「そ、それはこれから考える!でも、サツキにいいよって言ってもらわないと駄目だし…やっぱり今日会いたかったな」
しゅんと落ち込んだ陸を目の当たりにし、天の顔付きもつられて陸へと似通っていく。
思わず「陸は優しいね」と頭を撫でそうになった天は、慌てて腕を組み、楽へと視線を移した。
「…楽、何ぼうっとしてるの」
「あ、いや、サツキの話聞いてたら急に心配になってきちまって」
「え…サツキ、何かあったんですか?」
楽の言葉に、陸の表情が焦りの色を見せる。
直後「聞かなきゃ良かった」と顔を険しくした天に対し、楽は前のめりに口を開いた。
「今日、俺の知らねえヤツに会うって言ってたんだ」
「…ただの心配性だから気にしなくていいよ、陸」
間髪を容れない天の容赦なさに、陸は仲良しなんだなぁと無邪気に笑う。
そんな三人の絶妙な関係性を眺めていたナギは、「Oh!」と日本人ではまずしない反応を見せた。
「それなら電話すればいいです!心配解消、リクの目的も果たせますね」
「あぁ…電話か。有りだな」
楽は自身の服を掌で叩いた後、辺りを見渡した。
楽の携帯は、鞄もろともクロークに預けている。TRIGGERのうち一人が持ってりゃ十分だという判断だ。
「あ、龍、ちょっと電話貸してくれ」
「えっ、あ、うん。いいよ」
龍之介の携帯にも、ちゃっかりサツキの番号が登録されている。
それを少し複雑に思いながら、楽は通話ボタンを押して暫く待った。
「…出ないか」
延々と続く呼び出し音。一度切って、もう一度かけ直してみても結果は同じ。
自身の額に手を置き「Oh…」とやはり日本人的ではない反応をするナギの横で、陸も釣られて大げさに肩を落とした。
「すみません、八乙女さん。今度マネージャーを通してアポとってみますね」
「…あぁ、そうしてくれ」
サツキが電話に出ないことは少なくない。
しかしそれは家で寝ていたり、風呂に入っていたりするからだ。
もしかして、もう帰っているのか、それとも。
楽は異様な不安を感じながら、不発で終えた携帯の画面を見つめていた。
・・・
閉じた瞼に何かが触れる。決して優しくない抱擁と、唇を覆う柔らかな感触。
知らない匂いと身に覚えのない愛撫に、サツキは嫌悪を抱いて目を開いた。
視界に広がったのは、見知らぬ天井と肌触りの悪いベッド。
「ようやく起きたか。悪いな、飲ませ過ぎた。大丈夫か?」
ベッドの淵には男性が座っている。
その人はサツキの身動ぎに気付くと、安心したように微笑んだ。
「近くのホテルに運んだんだけど、良くなかったかな。オトコ食いだとかアイドル食いだとか呼ばれてんだろ」
「…いえ、お手数おかけして…有難うございます」
ぼんやりとしたまま、ベッドに置いた手に力を入れて起き上がる。
頭が鮮明になるにつれて思い出される失態。
御堂という名の友人と過ごしたのは、恐らく今から数時間前。
勧められるがまま酒を飲んだサツキは見事に潰れ、ほぼ眠りこけた状態で御堂の腕に支えられ、部屋のベッドまで運ばれたのだ。
「なあ、真剣な話。俺には、八乙女がお前を潰す未来しか見えない」
サツキは口を閉ざしたまま、目の前の整った顔を見上げた。
どうやら、酔った勢いで余計なことを吐露したらしい。
「八乙女プロほどの大手が、ここまで膨らんだアンタの悪い噂をもみ消そうとすらしないだろ。おかしいと思わないのか」
「すみません、俺…、その話は」
「何も手を下さないのは、看板グループのTRIGGERのことで頭いっぱいだからだろ?アンタのことなんてどうでもいいんだ」
はっきりしてきた意識の中に、彼の言葉が突き刺さる。
おかしいと思わなかったわけではない。どうして、いつまで、そんな疑問は常に頭の中にあった。
「…でも、当然じゃないですか…。迷惑かけてるのは俺の方で」
「ツクモプロに移籍したらどうだ」
「…え?」
「ツクモプロは業界中に協力者がいる。変な噂が流れないようにすることなんて、針に糸通すより簡単だろ」
サツキは自分が寝ぼけているのかと錯覚していた。
ツクモプロに移籍。ツクモプロダクション…芸能事務所の一二を争うような大手事務所のことだ。
誰が、牧野サツキが?
「な、なんてこと言い出すんですか…!」
「サツキを思って言ってるんだよ」
「そ、そもそもなんで…御堂さんは、ツクモプロの関係者だったんですか…!?」
驚き声を荒らげるサツキの手に、彼の手が重なった。
優しい手つきと柔らかな声色。容姿も端麗で、ドラマの撮影と言われた方が自然なほどに甘やかな刻が流れる。
しかし、今ここに台本はない。サツキは丁寧にその手を解いた。
「…有難うございます。でも…。マスコミに騒がれるのも目に見えているのに、そんな危険な橋は渡れません」
「…そうかもしれないけど、俺は心配なんだよ」
真剣な面持ちにも、サツキの心が揺れる隙間は微塵もない。
サツキはベッドから降りると、深々と頭を下げた。
「面倒をかけてしまってすみませんでした。あの…俺、失礼します」
ベッドの下に落ちていた鞄を拾い上げ、サツキを見上げる鋭い視線から逃げるように背を向ける。
妙に恐ろしく思えるのは、サツキが彼の事を全く知らなかったからだ。
良くすれ違う人。格好良い人。話しやすい人。
でも、彼を知らなくて、彼はサツキをよく知っている。
「待てよ」
ドアノブを掴んだサツキの手に、大きな手が添えられた。
背にあたっているのは、”友人だと思っていた男性”の体だ。
「な、んですか…?離してください」
「これ、なーんだ」
振り返ったサツキの目に映ったのは、男の持つ携帯に映し出された写真だった。
白いシーツに横たわる二人が裸でキスしている写真。被写体は、サツキと目の前の男によく似ている。
「えっ、…な、なんですか、これ…?」
「驚いたよ。お前、本当に肌白いんだな。乳首がこんな桃色の奴、女でも見たことない」
わざとらしく舌なめずりした男の指が、服の上からサツキの胸をぐりと弄る。
咄嗟に突き出したサツキの腕は、男に捕られてドアへと押し付けられていた。
「デビューしたてのツクモプロのアイドルまで食ったとなったら、やばいよな?」
「え…?」
先程まで耳にしていた柔らかな低い声に棘が生えている。
サツキの話を親身に聞いた優しい男性は、既に姿を眩ませていた。
「ツクモプロに来い。そうすれば、全部なかったことにしてやる」
「っ、それ、貸してください…!」
サツキはまだ捕られていないもう片方の手を、がむしゃらに彼の携帯へ伸ばした。
しかし、サツキの手は空を切る。御堂はその携帯を部屋の方へと放り、その手でサツキを壁へと張り付けた。
「ほら、どうする?」
不敵に笑う男性には、優しさのほんの欠片すらない。
ぞくと悍ましい感覚が背筋に走り、サツキは震える息を吐き出した。
体格的に押し退けるのは無理だろう。写真をどうにかしなければ逃げる事も出来ない。
「どうして、こんなことするんですか…。俺が、何を…」
貴方に何をしたと言うのか。そう口に出しかけた瞬間、サツキの頭がすっと冴えた。
…仮に彼が、本当にツクモプロのアイドルだとして、邪魔な存在を排除したいのだとする。
サツキはもはや週刊誌の常連。放っておけば潰れるだろう人間を相手に、我が身を犠牲にする価値などあるはずがない。
そこまで思考が追いつけば、答えは自ずと明白になった。
「貴方は…これから、デビューするアイドル…なんですよね…」
「ああ、そういう事になるな」
「狙いは八乙女…、それともTRIGGERですか…?」
男の目が、ギラと一瞬光った気がした。
怯えるな、怯むな、呑まれるな、必死に自分へ訴える。
「ライバルになりそうなアイドルを潰したかったのかもしれませんけど…っ、そんな写真、意味無いですよ。俺は事務所に全てを話した上で引退します」
「…なるほど、オレはアンタを舐めてたってわけだ。言うこと聞くだけの坊ちゃんかと思ったら…。へぇ、そうか」
引退した芸能人のスキャンダルに価値はない。
それどころか、写真をばらまけば、彼はただ自分の首を絞める事になる。
しかし御堂は状況を楽しむかのように口角を吊り上げた。
「アンタの引退前にばらまかれるとは思わないのか?それこそ、今日か、明日にでもさ」
「…そ、れは…少なくとも、貴方のデビュー前ではないはずですよね…?」
「はは、正解」
御堂は満足気に笑いながら、サツキの腕をきつく締め付けた。
ずいと近付いて来る顔から逃れる術はない。
サツキはきつく目を閉じ、首筋に立てられた歯の感触にびくと体を跳ねさせた。
「俺達のデビューの日まで待ってやる。勿論、アンタの態度次第だ」
「…、御堂さん…最初から、俺を、」
「良い答えを期待してるぜ、サツキ」
ぱ、と腕の拘束が解かれる。
サツキは籠から放たれた鳥のように、部屋を飛び出していた。
真っ暗な景色に灯る街灯をいくつも通り過ぎ、息が途切れると同時に足を止める。
走ったせい、それとも極度の緊張のせい。
サツキはヒュッと息を吸いこみ、咳き込みながら公園のベンチに腰掛けた。
ぼろぼろと止めどなく涙が流れる。顔は熱く、しかし体は冷えきっている。
「は…ッ、はぁ、…う、うぅ…」
自分の体をきつく抱き締めながら、サツキは酸素を求めて荒い呼吸を繰り返した。
どうして、なんで、何が。信じられない、信じたくない。
確かに目にした、記憶にない写真。彼がアイドルであろうとなかろうと、サツキを終わらせるには充分だろう。
選択の余地などなく、八乙女事務所から名前を消される。それは事務所への裏切りも同然、八乙女社長は失望するだろう。
当然、TRIGGERの皆も。
「あ…あぁあ…っ」
自分が消えるだけならいざ知らず、事務所とTRIGGERの名を汚す可能性だってある。それだけは、絶対に避けなくてはならない。
サツキは慌ただしくカバンに手を差し込んだ。
どうしよう、まず誰に言えばいい。社長、それともマネージャー、それとも。
「っ…、ふ、…いや、だ…やだ…ッ」
携帯を握りしめたまま、サツキは再び蹲っていた。
まだ頭がこの先を考えるのを拒否している。
何もかも夢であってくれと、サツキは祈るように拳を額へ押し付けた。
「…泣くなよ、牧野サツキ」
それは、サツキの嗚咽をかき消すような、凛とした低い声だった。
思わず体を硬直させ、ゆっくりと目を上げる。
「こんなの間違ってる」
「あ、なた、は…?」
しゃくり上げそうになる声を抑え、サツキは何とかそう口にした。
少し先にある街灯が、その人のシルエットを浮かび上がらせる。
「いいか、お前が利用されたのは、お前がTRIGGERの弱点だからだ。お前が潰れれば、TRIGGERは自ずと隙を見せる」
「…、え…」
「だからお前は、変わらずに笑ってないと駄目なんだよ」
逆光のせいで表情の見えないその人は、掌をぽんとサツキの頭に置いた。
そのままクシャと少し乱暴に撫でる手つきは、どこか楽をも彷彿させる。
「な、何があったか知ってるんですか…!?っ、何でこんなこと…」
「…悪い。でも、絶対に最悪の結果にはさせねえ。アイツが握った弱みなら、俺が何とかしてやるから。今日のことは忘れろ」
御堂と繋がっている人物だという事は口ぶりから明らかだ。
しかし、真っ直ぐな言葉がサツキの疑心を薙ぎ払う。
「…どうして…?あなたもツクモプロの…関係者、なんですよね」
「そうかもしんねえ、けど。俺は…弱いものいじめが大嫌いなんだよ」
サツキの頭を離れた手が、宙できつく握られた。
「優しさとかじゃねぇからな。俺が許せねぇだけだ」
言葉の真意は分からない。
しかし、その強い言葉に促されるように、サツキは手の甲で顔を拭った。
ゆっくりと腰を上げ、縋るようにその人の手を両手で包む。
「すみません…落ち着くまで、こうしていても良いですか…」
「こんなとこに放っておけるかよ。タクシーに押し込むまでは傍にいるからな」
名前も顔も知らない人。
しかし、サツキには彼を信じて言葉に従う事しか出来なかった。
写真は手の届かないところにある。
下手に動いて敵を増やせば、サツキの終わりは間近に迫るだろう。
TRIGGERに心配をかければ、それこそ思う壷。
「…っ、」
「あぁ、クソ…考えるなよ。あんな最低男のことなんて忘れろ。お前は悪くない」
「は、い…すみません…」
頭を下げると同時に、ぽろとまた涙が零れ落ちる。
その人は躊躇いがちにサツキの背に手を回し、とんとんと元気付けるように擦った。
大丈夫だ、大丈夫だから。説得力のある男らしい声がサツキの心を落ち着かせていく。
「…どこかで、お会いしたこと、ありましたか…?」
ふと、サツキは顔を上げてそう問いかけていた。
至近距離で、その男性の目がぱちくりと瞬かれる。
「…、こ、こっち見んな。照れるだろ…」
「え、あ…すみません…?」
男性はサツキから顔を逸らし、ぽりぽりと頬をかいた。
何だか途端に日常を取り戻したような、安心する雰囲気だ。
サツキは思わずクスと微笑むと、もう大丈夫と彼から手を離した。
・・・
タクシーを降り、見慣れた景色に降り立つ。
結局不安がなくなることはなく、未だ日常に戻れるものかと背筋がざわついたままだ。
それでも涙は乾いた。顔の火照りもなくなっている。
サツキは頬をぺちと叩き、気合いを入れてからドアを開いた。
「…サツキ!?」
かちゃと小さく鳴った音に、楽は過敏に反応した。
玄関に走ってきて出迎えるその表情には、安堵と怒りが入り交じる。
「たく、遅くなるなら連絡入れろよ。あと少しで警察呼ぶ所だった」
「あ、はは、ごめん」
そう言えば今は何時だろう。呆然としながら靴を脱ぎ、わざとらしい笑みを浮かべたまま楽の腕を掴む。
そんな下手な演技に、楽の眉が吊り上がった。
「…サツキ?何かあったか」
「あ、えっと…お酒…飲んで…ちょっと記憶が…」
「っお前な…!」
嘘をつくのが下手なサツキには、丁度良い真実。
楽は眉間のシワを深く寄せたまま、サツキをじっと見下ろした。
「飲み慣れてねぇのに外で飲む馬鹿がどこにいんだよ」
「うん、ごめん…もう二度としない、こんなこと、絶対…」
「…、悪い、言い方きつかった。でもお前にもしもの事があったらと思うとさ」
楽の手が、ぐしゃぐしゃとサツキの頭をかき回す。
サツキは早速熱くなった目頭に、慌てて顔を下げた。
「…電話に出ねぇと思ったら、酔いつぶれてたとはな」
「え、ご、ごめん!全然気づかなかった」
「七瀬がお前との友達アピールする企画を考えてんだって。ラジオのコーナーとして何かしたいって」
今度は慰めるように、楽の大きな掌がサツキの背中を支える。
サツキは上目で楽を見つめると、ほんのり頬を緩めた。
「俺…みんなに迷惑かけてるね」
「誰も迷惑だなんて思ってねぇよ。七瀬は寂しがってた。俺は心配した、それだけだろ」
背中を支えていた手が、とんとんとあやすようにリズムを刻む。
その楽の視線が一瞬サツキの首元で止まり、手の動きもピタと止んだ。
「…さっさと風呂行って、今日は一緒に寝るぞ」
何かを押し殺すように、楽の唇がきゅっと結ばれる。
その楽の表情に、サツキは再び視線を落とした。
「…楽、ごめん。今は…何も言えなくて…」
「馬鹿」
「…っ、ごめんなさい…」
サツキの頬を、乾いたはずの涙がぽろぽろと伝い落ちる。
楽は何も聞かず、ただサツキを強く抱きしめた。恋人として。理解者として。
その暖かな腕の中に、サツキは言えない絶望を吐き出した。
(第十六話・終)
追加日:2018/09/24
移動前:2018/04/15
2018/05/19