八乙女楽(IDOLiSH7)
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13.誤解
開いた視界に端正な顔があった。
昨夜床に就いた時のまま、細身ながら力強い腕がサツキの腰に巻き付いている。
そんな現実にほんのりと頬を緩めながら腕をそっと解き、サツキは布団から抜け出してカーテンを開いた。
眩しい日差しに目を細める。名残惜しいが、恋人の時間は終わりらしい。
「サツキ…?」
しかし、低く掠れた声はまだ恋人の八乙女楽のものだった。
抱きすくめられ楽の胸に手をつくと、再び腕の中に仕舞われる。
「まだ、いいだろ…」
「駄目だよ。俺、今日撮影あるし」
「分かってる…だから、余計に、だろ」
髪を指先で梳かれ、頬を優しく撫でられる。
その楽の愛ある所作には、サツキを堕落させる効果があった。
このままずっと、楽といられれば他はどうだっていい…なんて。
「…仕方ないなあ」
サツキは腕の力を抜き、楽の胸に頬を預けた。
暖かい。鼓動の音が近い。まるで子守歌を聞かされているようで、サツキは眠い目を擦るように口を開いた。
「嫌?俺がドラマで…演技で誰かに恋してるの」
「たりまえだろ。…おい、何笑ってんだよ」
「ふふ、ごめん。でも、楽に、愛されてるなぁって思って」
渡したくない、俺のものだ。サツキの唇をなぞる楽の指が、そんな熱烈な想いを伝えてくる。
今サツキに触れているのは、たった一人の愛しい人。
しかし、ふと思い出すのは“サツキのものではない八乙女楽”の姿だ。
「…、なんか、」
酷く酷くいけない事をしているみたいだ。
サツキの敬う、誰もが憧れるアイドルとしての八乙女楽。
あの手とこの手は、同じもの。
「~っ、やっぱり起きる!」
「は!?なんで」
「何でも…!楽も着替えて来てね、朝ご飯用意するから!」
サツキはばたばたとベッドを降りると、乱れた服を直しながら部屋を飛び出した。
今日はドラマの撮影の日。
初めてもらった自分の役、初めてのキスシーン。
自分の頬をぺちんと叩いたのは、気合いを入れる為と、それから熱を冷ますため。
サツキは一度大きく溜め息を吐き、テーブルに置いていた台本に手を重ねた。
・・・
サツキが撮影の為に訪れるのは、馴染みのない大学の校舎だ。
数日前に初めてきた学校だが、サツキは入学したばかりという設定で立つ。
教室にいるのはサツキとRe:valeの百だけ。周りの音や大きな機材なんてものは目に入らない。
サツキはふーっと大きく息を吐き出してから、床に摺るようにして一歩踏み出した。
百の目は険しくサツキを睨みつけている。
向けられたことのない視線だが、それもそのはず、今サツキはサツキでなく、百も百ではない。
「どうしてだよ、春加…」
名を呼ばれ、サツキは目を閉じた。泣き出しそうになるのを堪え、もう一歩進める。
彼の所属する演劇部で起こった嫌がらせの犯人は、いつの間にか自分になっていた。
演劇部の部室の近くを探ったのだって、大好きな人を助けたかっただけなのに。
「なんで酷いことしたんだよ…っ、彼女のこと、どうして悲しませるようなことしたんだ…!好きなんじゃなかったのか!」
彼女…自分と彼の間に入り込んだ演劇部の女性の事だ。
彼女の事が好きだというフリをして、自分を好きにならせれて、彼を守りたかっただけ。
「なあ、やっぱり譲れないよ。彼女のことは…俺が」
「俺が、悪い奴だから?」
「わかんない、春加…お前が何を考えてんのか分かんねぇ…」
「そっか。ずっと一緒にいたのに…やっぱり俺のことなんて、考えてくれなかったんだね」
拓実…掠れた息で彼の名を呼び、彼の一番近くまで歩み寄る。
手を伸ばし、胸に手を重ね、そして思い切り胸倉を掴んだ。
彼の体をぐいと引き寄せ、今まで夢見続けたが触れる事の無かった場所へ唇を、寄せる。
寄せるだけ。後少し、で、触れられる。
「……っ」
「…」
「……、…」
「うん、サツキ?」
照れ臭そうにサツキから顔を逸らした百が笑っている。
それまでの緊張感から打って変わって、耳を掠めたスタッフの笑い声に、サツキはぶわと体を震わせ振り返った。
「ご、ごめんなさい…!」
「あはは、サツキってば可愛いんだから」
「百さんもすみません…ああもう、俺…、ごめんなさい…っ」
サツキはがばと腰から頭を下げた後、恐る恐ると監督の様子をうかがった。
衝動から大好きな幼馴染の唇を奪い、さよならを告げる大事なシーンだったのに。
”春加”になりきれていないから、”百”にキスすることが出来なかった。
「んー…じゃあ先に最後のシーンやって慣れようか」
「……え?」
「よし!移動しよう」
監督が徐に立ち上がり、それに続いてスタッフ達も機材をまとめ始める。
サツキは暫く茫然とその光景を眺め、慌てて百を振り返った。
「ご、ごめんなさい俺のせいで…!」
「いや大丈夫だって。それより最後のシーンやれるって事はもうキャストさん来てるんだね?」
「そう、ですね…」
大好きな人にさよならを告げて、教室を飛び出して、やけになって飛び込んだのは演劇部の部室。
見せ場とも言える最後のシーン、そこで春加の腕を掴むのは、今まで一度も登場するシーンを撮影していない男だ。
「…部長役の方…」
「あれ、余計緊張しちゃってる?」
「緊張と言うか、ドキドキ、します」
全てを仕組み春加を貶めた犯人。そのキャストは発表されていなかった。
役者にも視聴者の感じるドキドキ感を味わってほしい、そんなお遊び心を入れる監督ならではの演出らしい。
「でも、知らない人の方が緊張しないかもしれませんね。俺なんか、知ってる人だとどうしても意識しちゃって…」
「んー…いやぁ、どうだろう」
「え、百さん何かご存じなんですか?」
「監督がサツキの心底驚いた顔撮りたいって言ってたんだよね、なんかそれって…」
「サツキ君、部室に移動するよー」
百の言葉を遮って、スタッフの一人がちょいちょいと指を教室の外に向ける。
サツキはぴしと背筋を伸ばした。
「はい!行きます!百さん、また後で宜しくお願いします…!」
「あ、うん、いってらっしゃい!」
新人ならではの緊張感をもったまま、百に軽く手を振りスタッフの後ろをついていく。
新人なんだから何でもちゃんと、頑張らなきゃ。熟さなきゃ。
ぐっと拳を胸に置き、一人静かに気合いを入れる。
「すぐいける?」
「あ、はい!俺は大丈夫です!」
元々先程のシーンを終えたらすぐにそのまま最後のシーンを撮る手順になっていた。だから台詞も心の準備も、もう大丈夫。
手際よくセットを終え、演劇部の部室として用意された教室に足を踏み入れる。
カメラが向けられれば、すぐだ。
サツキは静かに息を吸い込んだ。
「…くそ、なんなんだよ…」
かみ殺すように言葉を吐き出し、春加は机に置かれていた衣装を掴んだ。
拓実が着ていた衣装だ。この服で、女を抱き締めた。
「こんなもの…!」
ぐしゃと乱暴に衣装を掴みあげ、両手で左右に引っ張る。
その腕は、背後から掴まれていた。はっと振り返るそこには、一人の男。
「…!」
春加は大きく目を開き、言葉を失っていた。
「やっと、捕まえた」
大きな手がサツキの肩を掴む。
その流れるような展開に動揺したまま、サツキの体は机に押し倒されていた。
見上げるその人は、サツキを愛おしそうに見つめ、喉の奥でククと笑う。
「この日を待ってたよ。良かった、全部上手くいって」
「ま、まさか…」
「あの日から、君のことを考えない日はなかった。ああ、やっと俺のものだ」
ずしと体に重みがかかり、サツキは顔を歪めた。
掴まれた腕が熱い。首筋にかかる息が、もっと熱い。
「っ!」
服の裾が引き上げられ、抵抗しようと伸ばした腕ごと机に押し付けられる。
動けない、空気に触れた肌がぶると震える。
それを見た男はやはり顔色一つ変えずに、嬉しそうに微笑み、そして顔を近付けた。
「愛してるよ」
聞き慣れない言葉に冷や汗が流れる。
それなのに顔が熱くて、触れた唇と呑み込まれた言葉で苦しい。
唇がそっと離されると、薄く濡れた唇で、サツキは思わず呟いていた。
「……龍、」
驚きと、恐らく感動もそこにあった。
ああ、演技になると十龍之介はこんなに役と一体になれるんだなあ、と。
キスシーンでさえも、こんなにあっさりと熟してしまうんだなあ、と。
「りゅう…」
距離が近いせいか、紡いだ言葉が息を抑えて擦れる。
サツキの腕を縛るように掴む龍之介の手が、びくと揺れた。
「サツキ…」
驚いたようにサツキを呼んだ龍之介と目が合う。
綺麗な瞳だ、少し濡れて、光る瞳にサツキの姿が映っている。
あまりにも静かな空間。
思わずそこにサツキと龍之介の二人しかいないような感覚に陥っていた。
当然、補足を入れるまでもなく、それは錯覚だ。
「はい止めるよ!」
突然二人の世界に割って入った調子の良い声に、サツキははっと目を開いた。
見つめ合う龍之介の目が、困ったように細められる。
「っあ!」
うっかり、と形容して良いのだろうか。
サツキは今の状況を思い出し、咄嗟に自分の口を覆った。
そうだった、今は目の前の男は十龍之介ではなく、演劇部部長の楢崎さんだ。
「りゅ、龍…!」
「あはは、俺も、サツキにつられちゃったよ」
肩をすくめて笑いながら、龍之介が優しくサツキの肩を抱き起こす。
それと同時に服を正され、サツキは恥ずかしさに小さく俯いた。
「りゅ…、龍、だったんだ…」
まさか、相手が龍だったなんて。
そうだ今、龍とキスしたんだ。
「あ、あぁ…お、おおおれ…っ」
「サツキ…あ、えぇっと…」
赤くなった頬を隠すように龍之介から顔を逸らして、乗り上げていた机から足を降ろす。
感触がまだ残っている。柔らかくて、でも荒々しかった口付け。
それを振り払うように顔を横に振ると、ぽんぽんとサツキの背中を龍之介の手が撫でた。
「良かったけど、そうだな…ラストもう一回!春加の表情がちょっと違うんだよなぁ」
妙な緊張感の漂う二人に、監督がそう声をかける。
サツキはひやと背筋が凍るのを感じながら、龍之介をチラと見上げた。
もう一回キスを、自分は出来るだろうか。
「あ、あのすみません。ほんの…5分だけ、お時間いただいてもいいでしょうか…?」
そんなサツキの背中を優しく撫で続けながら、龍之介は監督に目を向けた。
監督、それからスタッフも皆、その龍之介の意見にすぐさま同意を示したのは、サツキの真っ赤になった顔に気付いたからだろう。
「じゃあ十君、宜しく」と誰かが言ったのが聞こえる。
それを合図に龍之介がサツキの手を掴み、サツキも縋るように龍之介の手を掴み返した。
暫く廊下を真っ直ぐに進み、スタッフの声が遠ざかると同時に少しずつサツキの高まった感情も収まっていく。
サツキを恐る恐ると振り返った龍之介の眉は八の字を描き、「えーと」と間を埋めてから口を開いた。
「…サツキ、ごめん」
謝罪すべきは撮影を中断する理由を作ってしまったサツキの方。
一瞬きょとと目を開いたサツキは、龍之介の手の甲が頬に触れると慌てて手を仰いだ。
「ううん、俺こそごめんね!少しびっくりしちゃって。もう大丈夫だよ」
「そう?でも、まだ顔赤いよ」
龍之介がサツキを気遣うのは、演技とはいえ乱暴に口付けしたことを気にしているからだ。
しかし、その龍之介は普段と変わらない様子でサツキの顔を覗き込む。
やっぱり、キス程度で動揺したりしないんだ。
それが分かってもまだ落ち着かず、サツキは龍之介から目を逸らしてへらと笑った。
駄目だ、意識を逸らさないと、どうしても龍之介の唇に目がいってしまう。
「サツキは、俺の…楢崎って男の事、どう思う?例えば…最低だって思う?」
前触れもなくそう切り出した龍之介に、サツキは思わず忙しなく動いていた手を止めて首を傾げた。
意図が分からず回答しかねたが、気持ちだけで言えば答えは「イエス」だ。
サツキの気持ちを察したのだろう、龍之介は小さく肩をすくめると、言い辛そうに頬をかいた。
「俺はね、少し分かるんだ。楢崎の気持ち。自分が一番になれない状況と…それに感じる辛さとか息苦しさ、かな。ずっと、近くでサツキと楽のこと見てたから」
「俺と、楽…?い、一番って、何の…?」
「あはは、分からないかな。二人には二人だけの世界があるだろ?それが悔しかったっていうか…だから、今回の役、結構本気で向き合えるんだよね」
サツキは龍之介の言葉を自分なりに噛み砕く為に、表情を険しくしたまま黙り込んだ。
サツキと楽の関係が羨ましい、そういうことなのだろうか。
だとしたらそれは、サツキが楽に対して抱く嫉妬とよく似ている。
「俺、その…、ほら、大好きだから」
サツキは茫然と、照れ臭そうに頬を染めた龍之介を見つめた。
好き、何が。一度自身の頭に問いかけて、その考える余地を封鎖する。
何がって、そんなの決まってるじゃないか。
「あぁ、…なんか、改めて言うと恥ずかしいな…」
「そっか、龍も…」
恥ずかしそうにはにかむ龍之介の、その表情にドキと胸が鳴った。
龍之介もサツキと同じように思っていたのだ。
「龍も、同じだったんだね」
「同じ?」
「うん。俺も、大好きだから」
TRIGGERとして、龍之介はずっと楽と一緒にいる。
楽のことを好きでいるのは当然だ。
サツキは龍之介の手をぎゅっと掴み、決意を宿した瞳で見上げた。
「龍がそれでもこうして向き合ってくれてるんだもんね、俺も…もっと頑張る。ちゃんと、応えるよ」
「サツキ…優しいね」
「ううん、龍こそ…、言ってくれて有難う」
龍之介がこの役を大事に思っていること、楽への思いがありながらも自分に優しくしてくれていること。
気持ちを固める理由は、それだけで十分だ。
「龍、もう一回、宜しくお願いします」
「いやいや、こちらこそ!乱暴でも…怖がらないでね」
「うん、大丈夫!」
サツキは自分の胸に手を置き、ふうっと一度大きく息を吐き出した。
それから龍之介と顔を見合わせ、再び教室へと戻る。
同じシーンをもう一度。
龍之介がサツキの腕を押さえ付けて、サツキは逃れる為に小さくもがく。
違う、今は龍之介でもサツキでもない。
この場面で春加という男は緊張したりしない。ずっと、本当は、男に飢えている。
楢崎からの口付けに、抵抗しながらも、どこか心が引き寄せられる。
この人を、好きになっても良いんじゃないか。
怒りと悲しみと苦しさと、少しの期待に体を震わせながら、春加は大好きな人の名を呟く。
「拓実…」
彼等の物語が語られることはない。
それでもこの小説の読者は、絶望し、希望を抱いた。
彼等はこれから何か変わるのか、それとも、ひび割れた関係は元に戻れないのか。
サツキは、報われない、報わせてあげられない恋心を考えながら、龍之介の分厚い胸を押し返した。
・・・
次の撮影の準備をしていた百は、自分の少し乱れた髪に触れて、そこでピタと固まった。
ぐるぐる頭を巡るのは、何だか良く分からないまま整理のつかない現状。
「モモ?」
「…」
「もーも」
「はっ!」
つんっと頬を突かれ、百は動かなくなっていた手をびくっと揺らした。
視界に映るのは、覗き込むようにしている千の綺麗な顔。
どうしてここに。あ、そういえば今日は撮影の合間に差し入れ持ってくねとか言っていたっけ。
「どうしたの、疲れてる?」
「疲れてはない!ないけど…ないんだけどね…?」
「なあに。聞いてあげるよ」
千の柔らかく優しい声色に、自然と口が開いてしまう。
いやでも駄目だ、こればっかりは。
ぐぬぬと口をきつく結ぶと、千は小さく首を傾げて、百の眉間に指を押し当てた。
「らしくない顔。僕じゃ力になれない?」
「…なれなくない。でも、…でも……ユキって、口堅い?」
「モモよりは堅いと思うけど」
それってどのくらいの堅さなんだろう。
百はもう一度考えてから、うんと一人頷いた。
こんなこと一人じゃ抱えてられないよね。
「実は、龍とサツキが両想いだったんだ」
「……はあ?」
呆れきった千の声を聞きながら、百はようやく打ち明けられた安心感に、胸を撫で下ろした。
(続く)
追加日:2018/07/08
開いた視界に端正な顔があった。
昨夜床に就いた時のまま、細身ながら力強い腕がサツキの腰に巻き付いている。
そんな現実にほんのりと頬を緩めながら腕をそっと解き、サツキは布団から抜け出してカーテンを開いた。
眩しい日差しに目を細める。名残惜しいが、恋人の時間は終わりらしい。
「サツキ…?」
しかし、低く掠れた声はまだ恋人の八乙女楽のものだった。
抱きすくめられ楽の胸に手をつくと、再び腕の中に仕舞われる。
「まだ、いいだろ…」
「駄目だよ。俺、今日撮影あるし」
「分かってる…だから、余計に、だろ」
髪を指先で梳かれ、頬を優しく撫でられる。
その楽の愛ある所作には、サツキを堕落させる効果があった。
このままずっと、楽といられれば他はどうだっていい…なんて。
「…仕方ないなあ」
サツキは腕の力を抜き、楽の胸に頬を預けた。
暖かい。鼓動の音が近い。まるで子守歌を聞かされているようで、サツキは眠い目を擦るように口を開いた。
「嫌?俺がドラマで…演技で誰かに恋してるの」
「たりまえだろ。…おい、何笑ってんだよ」
「ふふ、ごめん。でも、楽に、愛されてるなぁって思って」
渡したくない、俺のものだ。サツキの唇をなぞる楽の指が、そんな熱烈な想いを伝えてくる。
今サツキに触れているのは、たった一人の愛しい人。
しかし、ふと思い出すのは“サツキのものではない八乙女楽”の姿だ。
「…、なんか、」
酷く酷くいけない事をしているみたいだ。
サツキの敬う、誰もが憧れるアイドルとしての八乙女楽。
あの手とこの手は、同じもの。
「~っ、やっぱり起きる!」
「は!?なんで」
「何でも…!楽も着替えて来てね、朝ご飯用意するから!」
サツキはばたばたとベッドを降りると、乱れた服を直しながら部屋を飛び出した。
今日はドラマの撮影の日。
初めてもらった自分の役、初めてのキスシーン。
自分の頬をぺちんと叩いたのは、気合いを入れる為と、それから熱を冷ますため。
サツキは一度大きく溜め息を吐き、テーブルに置いていた台本に手を重ねた。
・・・
サツキが撮影の為に訪れるのは、馴染みのない大学の校舎だ。
数日前に初めてきた学校だが、サツキは入学したばかりという設定で立つ。
教室にいるのはサツキとRe:valeの百だけ。周りの音や大きな機材なんてものは目に入らない。
サツキはふーっと大きく息を吐き出してから、床に摺るようにして一歩踏み出した。
百の目は険しくサツキを睨みつけている。
向けられたことのない視線だが、それもそのはず、今サツキはサツキでなく、百も百ではない。
「どうしてだよ、春加…」
名を呼ばれ、サツキは目を閉じた。泣き出しそうになるのを堪え、もう一歩進める。
彼の所属する演劇部で起こった嫌がらせの犯人は、いつの間にか自分になっていた。
演劇部の部室の近くを探ったのだって、大好きな人を助けたかっただけなのに。
「なんで酷いことしたんだよ…っ、彼女のこと、どうして悲しませるようなことしたんだ…!好きなんじゃなかったのか!」
彼女…自分と彼の間に入り込んだ演劇部の女性の事だ。
彼女の事が好きだというフリをして、自分を好きにならせれて、彼を守りたかっただけ。
「なあ、やっぱり譲れないよ。彼女のことは…俺が」
「俺が、悪い奴だから?」
「わかんない、春加…お前が何を考えてんのか分かんねぇ…」
「そっか。ずっと一緒にいたのに…やっぱり俺のことなんて、考えてくれなかったんだね」
拓実…掠れた息で彼の名を呼び、彼の一番近くまで歩み寄る。
手を伸ばし、胸に手を重ね、そして思い切り胸倉を掴んだ。
彼の体をぐいと引き寄せ、今まで夢見続けたが触れる事の無かった場所へ唇を、寄せる。
寄せるだけ。後少し、で、触れられる。
「……っ」
「…」
「……、…」
「うん、サツキ?」
照れ臭そうにサツキから顔を逸らした百が笑っている。
それまでの緊張感から打って変わって、耳を掠めたスタッフの笑い声に、サツキはぶわと体を震わせ振り返った。
「ご、ごめんなさい…!」
「あはは、サツキってば可愛いんだから」
「百さんもすみません…ああもう、俺…、ごめんなさい…っ」
サツキはがばと腰から頭を下げた後、恐る恐ると監督の様子をうかがった。
衝動から大好きな幼馴染の唇を奪い、さよならを告げる大事なシーンだったのに。
”春加”になりきれていないから、”百”にキスすることが出来なかった。
「んー…じゃあ先に最後のシーンやって慣れようか」
「……え?」
「よし!移動しよう」
監督が徐に立ち上がり、それに続いてスタッフ達も機材をまとめ始める。
サツキは暫く茫然とその光景を眺め、慌てて百を振り返った。
「ご、ごめんなさい俺のせいで…!」
「いや大丈夫だって。それより最後のシーンやれるって事はもうキャストさん来てるんだね?」
「そう、ですね…」
大好きな人にさよならを告げて、教室を飛び出して、やけになって飛び込んだのは演劇部の部室。
見せ場とも言える最後のシーン、そこで春加の腕を掴むのは、今まで一度も登場するシーンを撮影していない男だ。
「…部長役の方…」
「あれ、余計緊張しちゃってる?」
「緊張と言うか、ドキドキ、します」
全てを仕組み春加を貶めた犯人。そのキャストは発表されていなかった。
役者にも視聴者の感じるドキドキ感を味わってほしい、そんなお遊び心を入れる監督ならではの演出らしい。
「でも、知らない人の方が緊張しないかもしれませんね。俺なんか、知ってる人だとどうしても意識しちゃって…」
「んー…いやぁ、どうだろう」
「え、百さん何かご存じなんですか?」
「監督がサツキの心底驚いた顔撮りたいって言ってたんだよね、なんかそれって…」
「サツキ君、部室に移動するよー」
百の言葉を遮って、スタッフの一人がちょいちょいと指を教室の外に向ける。
サツキはぴしと背筋を伸ばした。
「はい!行きます!百さん、また後で宜しくお願いします…!」
「あ、うん、いってらっしゃい!」
新人ならではの緊張感をもったまま、百に軽く手を振りスタッフの後ろをついていく。
新人なんだから何でもちゃんと、頑張らなきゃ。熟さなきゃ。
ぐっと拳を胸に置き、一人静かに気合いを入れる。
「すぐいける?」
「あ、はい!俺は大丈夫です!」
元々先程のシーンを終えたらすぐにそのまま最後のシーンを撮る手順になっていた。だから台詞も心の準備も、もう大丈夫。
手際よくセットを終え、演劇部の部室として用意された教室に足を踏み入れる。
カメラが向けられれば、すぐだ。
サツキは静かに息を吸い込んだ。
「…くそ、なんなんだよ…」
かみ殺すように言葉を吐き出し、春加は机に置かれていた衣装を掴んだ。
拓実が着ていた衣装だ。この服で、女を抱き締めた。
「こんなもの…!」
ぐしゃと乱暴に衣装を掴みあげ、両手で左右に引っ張る。
その腕は、背後から掴まれていた。はっと振り返るそこには、一人の男。
「…!」
春加は大きく目を開き、言葉を失っていた。
「やっと、捕まえた」
大きな手がサツキの肩を掴む。
その流れるような展開に動揺したまま、サツキの体は机に押し倒されていた。
見上げるその人は、サツキを愛おしそうに見つめ、喉の奥でククと笑う。
「この日を待ってたよ。良かった、全部上手くいって」
「ま、まさか…」
「あの日から、君のことを考えない日はなかった。ああ、やっと俺のものだ」
ずしと体に重みがかかり、サツキは顔を歪めた。
掴まれた腕が熱い。首筋にかかる息が、もっと熱い。
「っ!」
服の裾が引き上げられ、抵抗しようと伸ばした腕ごと机に押し付けられる。
動けない、空気に触れた肌がぶると震える。
それを見た男はやはり顔色一つ変えずに、嬉しそうに微笑み、そして顔を近付けた。
「愛してるよ」
聞き慣れない言葉に冷や汗が流れる。
それなのに顔が熱くて、触れた唇と呑み込まれた言葉で苦しい。
唇がそっと離されると、薄く濡れた唇で、サツキは思わず呟いていた。
「……龍、」
驚きと、恐らく感動もそこにあった。
ああ、演技になると十龍之介はこんなに役と一体になれるんだなあ、と。
キスシーンでさえも、こんなにあっさりと熟してしまうんだなあ、と。
「りゅう…」
距離が近いせいか、紡いだ言葉が息を抑えて擦れる。
サツキの腕を縛るように掴む龍之介の手が、びくと揺れた。
「サツキ…」
驚いたようにサツキを呼んだ龍之介と目が合う。
綺麗な瞳だ、少し濡れて、光る瞳にサツキの姿が映っている。
あまりにも静かな空間。
思わずそこにサツキと龍之介の二人しかいないような感覚に陥っていた。
当然、補足を入れるまでもなく、それは錯覚だ。
「はい止めるよ!」
突然二人の世界に割って入った調子の良い声に、サツキははっと目を開いた。
見つめ合う龍之介の目が、困ったように細められる。
「っあ!」
うっかり、と形容して良いのだろうか。
サツキは今の状況を思い出し、咄嗟に自分の口を覆った。
そうだった、今は目の前の男は十龍之介ではなく、演劇部部長の楢崎さんだ。
「りゅ、龍…!」
「あはは、俺も、サツキにつられちゃったよ」
肩をすくめて笑いながら、龍之介が優しくサツキの肩を抱き起こす。
それと同時に服を正され、サツキは恥ずかしさに小さく俯いた。
「りゅ…、龍、だったんだ…」
まさか、相手が龍だったなんて。
そうだ今、龍とキスしたんだ。
「あ、あぁ…お、おおおれ…っ」
「サツキ…あ、えぇっと…」
赤くなった頬を隠すように龍之介から顔を逸らして、乗り上げていた机から足を降ろす。
感触がまだ残っている。柔らかくて、でも荒々しかった口付け。
それを振り払うように顔を横に振ると、ぽんぽんとサツキの背中を龍之介の手が撫でた。
「良かったけど、そうだな…ラストもう一回!春加の表情がちょっと違うんだよなぁ」
妙な緊張感の漂う二人に、監督がそう声をかける。
サツキはひやと背筋が凍るのを感じながら、龍之介をチラと見上げた。
もう一回キスを、自分は出来るだろうか。
「あ、あのすみません。ほんの…5分だけ、お時間いただいてもいいでしょうか…?」
そんなサツキの背中を優しく撫で続けながら、龍之介は監督に目を向けた。
監督、それからスタッフも皆、その龍之介の意見にすぐさま同意を示したのは、サツキの真っ赤になった顔に気付いたからだろう。
「じゃあ十君、宜しく」と誰かが言ったのが聞こえる。
それを合図に龍之介がサツキの手を掴み、サツキも縋るように龍之介の手を掴み返した。
暫く廊下を真っ直ぐに進み、スタッフの声が遠ざかると同時に少しずつサツキの高まった感情も収まっていく。
サツキを恐る恐ると振り返った龍之介の眉は八の字を描き、「えーと」と間を埋めてから口を開いた。
「…サツキ、ごめん」
謝罪すべきは撮影を中断する理由を作ってしまったサツキの方。
一瞬きょとと目を開いたサツキは、龍之介の手の甲が頬に触れると慌てて手を仰いだ。
「ううん、俺こそごめんね!少しびっくりしちゃって。もう大丈夫だよ」
「そう?でも、まだ顔赤いよ」
龍之介がサツキを気遣うのは、演技とはいえ乱暴に口付けしたことを気にしているからだ。
しかし、その龍之介は普段と変わらない様子でサツキの顔を覗き込む。
やっぱり、キス程度で動揺したりしないんだ。
それが分かってもまだ落ち着かず、サツキは龍之介から目を逸らしてへらと笑った。
駄目だ、意識を逸らさないと、どうしても龍之介の唇に目がいってしまう。
「サツキは、俺の…楢崎って男の事、どう思う?例えば…最低だって思う?」
前触れもなくそう切り出した龍之介に、サツキは思わず忙しなく動いていた手を止めて首を傾げた。
意図が分からず回答しかねたが、気持ちだけで言えば答えは「イエス」だ。
サツキの気持ちを察したのだろう、龍之介は小さく肩をすくめると、言い辛そうに頬をかいた。
「俺はね、少し分かるんだ。楢崎の気持ち。自分が一番になれない状況と…それに感じる辛さとか息苦しさ、かな。ずっと、近くでサツキと楽のこと見てたから」
「俺と、楽…?い、一番って、何の…?」
「あはは、分からないかな。二人には二人だけの世界があるだろ?それが悔しかったっていうか…だから、今回の役、結構本気で向き合えるんだよね」
サツキは龍之介の言葉を自分なりに噛み砕く為に、表情を険しくしたまま黙り込んだ。
サツキと楽の関係が羨ましい、そういうことなのだろうか。
だとしたらそれは、サツキが楽に対して抱く嫉妬とよく似ている。
「俺、その…、ほら、大好きだから」
サツキは茫然と、照れ臭そうに頬を染めた龍之介を見つめた。
好き、何が。一度自身の頭に問いかけて、その考える余地を封鎖する。
何がって、そんなの決まってるじゃないか。
「あぁ、…なんか、改めて言うと恥ずかしいな…」
「そっか、龍も…」
恥ずかしそうにはにかむ龍之介の、その表情にドキと胸が鳴った。
龍之介もサツキと同じように思っていたのだ。
「龍も、同じだったんだね」
「同じ?」
「うん。俺も、大好きだから」
TRIGGERとして、龍之介はずっと楽と一緒にいる。
楽のことを好きでいるのは当然だ。
サツキは龍之介の手をぎゅっと掴み、決意を宿した瞳で見上げた。
「龍がそれでもこうして向き合ってくれてるんだもんね、俺も…もっと頑張る。ちゃんと、応えるよ」
「サツキ…優しいね」
「ううん、龍こそ…、言ってくれて有難う」
龍之介がこの役を大事に思っていること、楽への思いがありながらも自分に優しくしてくれていること。
気持ちを固める理由は、それだけで十分だ。
「龍、もう一回、宜しくお願いします」
「いやいや、こちらこそ!乱暴でも…怖がらないでね」
「うん、大丈夫!」
サツキは自分の胸に手を置き、ふうっと一度大きく息を吐き出した。
それから龍之介と顔を見合わせ、再び教室へと戻る。
同じシーンをもう一度。
龍之介がサツキの腕を押さえ付けて、サツキは逃れる為に小さくもがく。
違う、今は龍之介でもサツキでもない。
この場面で春加という男は緊張したりしない。ずっと、本当は、男に飢えている。
楢崎からの口付けに、抵抗しながらも、どこか心が引き寄せられる。
この人を、好きになっても良いんじゃないか。
怒りと悲しみと苦しさと、少しの期待に体を震わせながら、春加は大好きな人の名を呟く。
「拓実…」
彼等の物語が語られることはない。
それでもこの小説の読者は、絶望し、希望を抱いた。
彼等はこれから何か変わるのか、それとも、ひび割れた関係は元に戻れないのか。
サツキは、報われない、報わせてあげられない恋心を考えながら、龍之介の分厚い胸を押し返した。
・・・
次の撮影の準備をしていた百は、自分の少し乱れた髪に触れて、そこでピタと固まった。
ぐるぐる頭を巡るのは、何だか良く分からないまま整理のつかない現状。
「モモ?」
「…」
「もーも」
「はっ!」
つんっと頬を突かれ、百は動かなくなっていた手をびくっと揺らした。
視界に映るのは、覗き込むようにしている千の綺麗な顔。
どうしてここに。あ、そういえば今日は撮影の合間に差し入れ持ってくねとか言っていたっけ。
「どうしたの、疲れてる?」
「疲れてはない!ないけど…ないんだけどね…?」
「なあに。聞いてあげるよ」
千の柔らかく優しい声色に、自然と口が開いてしまう。
いやでも駄目だ、こればっかりは。
ぐぬぬと口をきつく結ぶと、千は小さく首を傾げて、百の眉間に指を押し当てた。
「らしくない顔。僕じゃ力になれない?」
「…なれなくない。でも、…でも……ユキって、口堅い?」
「モモよりは堅いと思うけど」
それってどのくらいの堅さなんだろう。
百はもう一度考えてから、うんと一人頷いた。
こんなこと一人じゃ抱えてられないよね。
「実は、龍とサツキが両想いだったんだ」
「……はあ?」
呆れきった千の声を聞きながら、百はようやく打ち明けられた安心感に、胸を撫で下ろした。
(続く)
追加日:2018/07/08