八乙女楽(IDOLiSH7)
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12.コンプレックス
シャワーから叩きつけられる水の音。時折混ざるサツキの溜め息。
サツキの腕はまるで誰かに強いられるかのように不自然に自身の背へ回った。
「…、っ」
思わず息を止めたのは、痛みを堪えた瞬間に声が出てしまいそうだったからだ。
入った。そう思ったのは数分前、それから第一関節で止まり動かない。
迎え入れる準備の出来ていないそこは、あまりにきつく、自分の指すら拒否し続けていた。
「…ん」
サツキの演じる役は、男を知っている。
幼馴染のことが好きで、でも結ばれないもどかしさから、好きでもない男と関係をもった。
『どうして俺なんですか』
そう監督に問いかけたところ、監督は嬉しそうに熱弁した。
一見受け入れ難いような男性同士の恋愛を深夜でなく放送するには、違和感なく見られるビジュアルが最低限必要だ。
牧野サツキはまさに求めていたビジュアルなのだと。
「…やめよう」
サツキは理解出来ない小説の中の登場人物の心情に、俯いて溜め息を吐いた。
監督に演技面での期待はされていない。だからこそ、彼の気持ちを理解して、彼と一つになりたいのに。
キュッとシャワーを止めて、掴んだタオルで顔を拭う。
風呂を上がってベッドに腰掛けたサツキは、そこに置かれた台本から視線を逸らした。
楽に抱かれる感覚を、それを求めて止まなくなるような熱を味わってみたかった。
・・・
順調に進んでいるドラマの撮影、サツキは舞台となっている大学に来ていた。
サツキの役はRe:valeの百が演じる「拓実」という青年に片想いをしている青年。
それを悟られないよう女好きなナンパ男を演じ、熱情に蓋をし続ける悲しい青年だ。
「百さんもお疲れ様です!俺、大丈夫だったでしょうか…」
「大丈夫も何も!スタッフさんも絶賛の演技だったよ!いやあ、さすがあの八乙女さんとこの子って感じ!」
「そ、そうですか?」
我ながら、初めての演技の割には複雑な役を持ってこられたものだと思う。
自信のないサツキにとって、知り合いでもある百は心の支えだ。
「百さんも、さすがでした。勉強になります」
「え?へへ、そう?」
「はい!あ、百さん、汗かいてますね」
サツキは思わず手を伸ばすと、手の甲で百の汗を拭った。
可愛らしい顔つきだが、サツキより体が大きく、首のラインも男らしい。
「もー!休憩時間まで俺を落とそうとしなくていいって!」
「え?」
「サツキのこと好きになっちゃ駄目なんだけど、ドキッとしちゃいそうだったよ。あ、役の話ね?」
「本当に!サツキさん演技も上手かったなんて、ずるいですよ!」
ひょいと百の後ろから顔を覗かせたのは、ヒロインを演じる女優だ。
自分が女性だのなんだの言われていたことが馬鹿らしくなるほど、小柄で華奢で、可愛らしい女性。
「サツキさんに負けないヒロインを演じなきゃと思ってるんですけど、もう負けそうで」
「え?そんな、女性の可憐さには全然敵わないです」
「ああもう、格好良いことまでサラッと言っちゃうんですから」
今回のサツキのコンセプトは、初の男性ヒロイン。らしい。
勿論それは裏の設定で、表向きには女性がヒロインで、サツキはそのヒロインに恋している“フリ”をしなければならない。
「あ、そういえば!私、今からサツキさんのお色気シーン楽しみで楽しみで!」
「お、お色気…」
「お相手誰なのか、気になりますよね」
キラキラと笑う女性に、サツキは再び感情を殺して笑った。
百とは別にもう一人いる男性の出演者。その人と絡むシーンがラストにある。
その出演者はまだ伝えられていない。そのせいもあり、サツキは不安からか苦しくなった胸をとんと掌で叩いた。
「あの、俺、ちょっとお手洗い行ってきます」
「暫く映像確認入りそうだから、ゆっくりで平気だよ」
「有難うございます」
百に頭を下げて、サツキはマネージャーとスタッフに声をかける。
こういう現場にはまだ慣れないせいか、一つ一つ状況を確認することにも緊張した。
ほんの少しも迷惑をかけないように。段取りを間違えないように。
別校舎に足を運び、気持ちを落ち着けるために息を吐き出す。
確かお手洗いはあっちだ。確認して足を踏み出すと、先の廊下にスタッフがいるのか、男性の声が聞こえてきた。
「あの新人、どう思います?」
咄嗟に足を止めたのは、それが自分だと感じとったからだ。
聞かない方が良い、そう思いながらも、サツキは音を立てないよう壁に寄り添った。
息を止めて、胸の前で手を握りしめる。
「あれで男ってのが不思議だよな、休憩時間も専らヒロインだったし」
「そう!そうなんですよ、むしろ役柄より本人がヒロインやってんですよね」
「可愛いけど、男と思ってみるとちょっと気味悪いよなぁ。女性と比べるとやっぱりガタイはそこそこいいし」
どくんと胸が音を立てた。
話題は演技のことでも、撮影に臨む態度でもない。
「あー、あれなんじゃないか、女男的な」
「…オネェ?っていうんですかね」
「ゲイなんじゃないか」
かもなあ、と二人の男性がケラケラと笑う。
サツキは背筋が凍るような感覚を覚え、手で口を覆った。
「頭下げてみろよ、頼めばやらせてくれんじゃないか?」
「いやいや、いくらなんでも勘弁ですよ!脱いだら男なんですから…」
「はは、だよなあ」
目を開き、息苦しさに口を開く。
彼等にとっては、よくある談笑のネタでしかなかったのか、話題は既に別のものに変わっている。
サツキはゆっくりと足を擦らせて、音を立てないようにその場を離れた。
「…違う」
女になりたいわけではない、男を好きなわけでもない。
本当に、そうだろうか。
楽に抱かれたいと望むのは、女になりたいと望むこととどう違うのだろう。
楽を好きだと言う事は、男を好きだということと何が違うのだ。
「…、俺…」
「あ!サツキ、そろそろ撮影再開するよ!」
「っ、はい!」
マネージャーの声に、慌てて返事をする。
どこかぽっかりと胸に穴が開いたまま、撮影は進行されていった。
・・・
・・
施設を出て、八乙女に引き取られたサツキは中学生になった。
当時はそれが当然だと思っていたが、通信制の学校の為、同じ学年の生徒とも大して親しくなることはなかった。
既にサツキの生き方は決まっていたのか、家族構成を公にすることもない。
サツキを体育の授業に出させることもしない。
明らかに特殊過ぎる存在、特別扱いを受ける生徒。
サツキは陰で噂されていることを知っていた。
「あいつ、女男だ」
指を指されて足を止める。
サツキは声を上げるわけにいかず、きゅっと唇を噛んだ。
「しゃべれよ、牧野」
「すげー高い声でさ、やめてよ男子―って」
「男子―って、牧野の男子じゃん」
「違うって、あいつは女男だから体育も出ないし歌も歌わねーし」
ずりいよという嫌悪の視線。
初めて教室に入った時、声を出した途端に笑われた。
女なのか?男なのか?それは気付けば「女男」という言葉で表現されるようになっていた。
「…っ」
「ほら、牧野泣いちゃうじゃん。男女だから」
「違うだろ?女男だって」
「、泣いてない」
「うわー!女男がしゃべった!」
逃げろ、と男の子たちがサツキの前から走り去って行く。
きゅっと唇を噛んで、目尻に浮かんだ涙が落ちないように踏ん張って、サツキも逃げるようにその場を去った。
施設で受けた扱いと違う、楽みたいに優しい人はいない。
気付けばサツキは、声を出すことも、顔を上げて歩くことも出来なくなっていた。
そしてそれは、学校生活だけで済まなくなった。
「やる気がない子を見る気はありません!」
今までのように声が出ない。開いた口から出たのは掠れた吐息だけ。
それに気付いた先生が練習を続けてくれるはずもない。
サツキは小さな手を自分の喉に重ねて、白い天井を見上げた。
「キライ」
歌が、じゃない。自分の声が、人と違う音を奏でる喉が。
無意識に、傷つけるように爪を立てて肉に食い込ませる。
微かな痛みと共に、呼吸が詰まるような感覚に、サツキは顔をしかめた。
どうして変わらないのだろう、楽のように、クラスの子達のように。
「サツキ!」
声が聞こえたのとほぼ同時に、ドアが乱暴に開け放たれた。
慌ただしく部屋に入ってきた楽は、サツキのその姿を見るなりサッと顔色を変えた。
「馬鹿…っ何してんだ!」
「え…」
大股で近付いてきたと思うと、白い指がサツキの腕をきつく掴む。
華奢な体からは想像出来ない程力強く引っ張られると、サツキはされるがまま楽の胸に額をぶつけた。
ばくばくと煩い心臓の音。
楽はサツキを抱き締めたままそこにしゃがみこむと、サツキの首元に顔を埋めて深く息を吐き出した。
「はー…、良かった、見に来て…」
「楽?何…?」
「何、はこっちの台詞だ!何があったんだよ…!」
今度はばっと顔を上げて、楽はサツキの顔を覗き込む。
切羽詰まったような表情に、サツキはそれが「自分の声のせい」だと勘付いた。
歌えないことを、先生が楽に伝えたのだろう。
「ごめん、なさい」
「謝ってんじゃねえよ。何があったんだって、言えよ」
耳にしっとりと馴染む楽の低い声。
初めて楽と会った時と、今のサツキの年齢は大して違わないはずだ。
それなのに、当時の楽は既にサツキとは違う低い声だった。
「どうして、俺の声、こんななのかな…」
「…は?」
「男なのに、女の子みたい…。俺、こんなのヤダ、もう、笑われたくない…っ」
楽の首に腕を回して、ぎゅっとしがみ付く。
楽は一瞬驚いた様子で体を固くしたが、すぐにぽんと優しくサツキの背を撫でた。
「誰かに、何か言われたのか」
「…皆笑うよ、俺がしゃべると、皆…」
だからもう、笑われたくない。声を出したくない。
楽の首に顔を埋めて、いやいやと駄々をこねるように首を振る。
耳元で、楽が小さく息を吐いた。
「サツキはそれで、何もしなかったのか」
「…え?」
冷たい声に、驚き顔を上げる。
楽は細めた目でじっとサツキを見つめていた。
「言い返したんだろうな、ちゃんと」
「…何を…?」
「変じゃねぇって。この声が、いつか世界を変えてやるって」
「…え」
サツキは思わず呆けた声を漏らしていた。
サツキの肩を掴む楽の表情は真剣そのものだ。
「い、言えないよそんなこと…!」
「言えよこんくらい!」
「無理だよ…っ、俺、そんな、楽みたいになれないよ…!」
視界がぼやと霞んで、目の前にある楽の顔が歪む。
肩を掴む手が少し緩んだのは、サツキの涙に困惑したからか。
楽は暫く言葉にならない声を零し、それからサツキの肩にあった手を頬へ移動させた。
「あー…、あのな、俺は、ただ、サツキが俺の言葉、信じてねぇのが悔しいんだよ」
「お、俺、が…?」
「そうだよ、いつも言ってんだろ。サツキが…サツキの声が、大好きだって」
頬を優しく撫でて、ぽろと溢れた涙を拭う。
サツキはすんっと息を吸い、滲んだ視界を手の甲で擦った。
優しく笑みを象る楽の顔が、サツキの胸の痛みを解していく。
「でも…」
「なら、聞かせてやろうぜ、そいつらにさ」
「何を…?」
「サツキの歌。サツキの歌声聴いて、文句言える奴なんていねぇよ」
俺も協力する。
そう言ってサツキの背中を少し強めに叩いた楽は、「楽しみだな」とまた笑った。
楽は宣言通りに翌日中等部にまで押し掛け、昼休みにサツキを連れて音楽室を占拠した。
広い音楽室の窓を全部開け放って、サツキをピアノの前に立たせて、自分は鍵盤に手をかざして。
楽の奏でるピアノに自分の声を重ねる。
自分の声がどうやって皆に聴こえていたのかは知らない。
けれど、それからサツキの声をからかう者はいなくなった。
それどころか、余計に距離をとられるようになったけれど。
嫌悪や好奇心ではなく、それが敬意や憧憬によるものと分かっていたから、怖くはなかった。
楽が、きっと誰かが、サツキの声が好きだと言ってくれるから、怖くなかった。
・・
・・・
「サツキ、大丈夫?」
ふと聞こえてきた声に引き戻され、サツキははっと肩を揺らした。
慌てて顔を上げると、百が心配そうにサツキを覗き込んでいる。
その手に握られていたペットボトルは、ちゃぷと音を立ててサツキに差し出された。
「え…?」
「なんか休憩明けてから上の空っていうか…何かあった?」
「サツキさん、私、何か余計な事言っちゃいました…?」
その百の後ろから、女優さんの大きな瞳も覗いている。
サツキは驚き高鳴った胸を掌で押さえ、薄く開いた口でひゅっと息を吸い込んだ。
「俺…、」
「サツキ、何かあったなら全部言って?サツキに何かあったら俺、ユキと楽に怒られちゃうし!」
サツキの表情が暗いことに気付いてか、明るく振る舞う百の横で、女優さんもウンウンと頷いている。
優しい人達だ。けれど、サツキの心の内を知れば、彼等も変わってしまうのかもしれない。
「……気持ち悪く、ないですか?」
「え?」
サツキの問いに、百が目を丸くする。
女優さんも細い首を傾け、百と目を合わせた。
「男なのにって…春加も、俺も」
女みたいだと罵られ、その上男に恋したりして。
サツキは自分の喉に触れ、二人から目を逸らした。
「俺…周りからどう思われてるか、知ってます。誰もが…受け入れてくれるわけない、気味悪いって…」
「サツキ…」
「俺が選ばれたのだって、気持ち悪さの緩和で…それを務められる俺はやっぱり気味悪いはずです」
こんなことを吐き出したって仕方がないのに。
それでもサツキはぎゅっと手を強く握りしめて、二人の言葉を待った。
今は少しでも優しい言葉が欲しい。
背を、押して欲しい。
「男の子だから素敵なんじゃないですか!」
「え…」
拳を強く握りしめて、声高らかに言ったのは百の横で体を乗り出した女優さんだった。
「可愛らしい女性なんていくらでもいます。でもサツキさんはオンリーワンナンバーワンですよ!?」
「えっ…」
「私、サツキさんのファンで…初めて歌声聴いた時、すごく感動したんです!」
涙が止まらなくて、と熱のこもった声で言われ、サツキは百と思わず視線を合わせた。
百も何か言おうと開いた口から声が出なくなっている。
「思いが籠っていて、きっとこの人、いろんなこと乗り越えて来たんだろうなって、そう思って…」
「そ…」
「気持ち悪いなんて絶対ないです!私は、サツキさんがこうして人前に立って…声を聞かせてくれるだけで幸せなんです!」
あまりの勢いに、サツキはぽかんと口を開けたまま、綺麗な顔を見上げていた。
その当人も、勢いのまま出てきた言葉に恥ずかしくなったのか、照れ臭そうにはにかんでいる。
「ぜ、全部言われちゃった」
「百さん…」
「サツキも、分かってるはずだよ?サツキのこと大好きな人、いっぱいいるって」
百は持前の明るい笑顔を咲かせると、サツキの手をぎゅっと握りしめた。
冷たいペットボトルの名残で、ひやりとした感覚が触れた部分から広がって行く。
「それはさ、男とか女とか、そういうことで変わることじゃないんだって」
「…はい」
「信じてあげなきゃ、可哀相だよ」
握られた手を見つめ、それからサツキは顔を上げた。
心のもやもやが晴れていく。
「じゃないと、楽が泣いちゃうしね」
「えっ」
「え?」
女優さんがサツキと同じ顔をして百を見上げる。
なんで楽の名前が、こんなところで。
その真意を突き止めてはいけない気がして、サツキは怪しげに目を細めて笑う百に、へらと笑って返した。
(続きます)
追加日:2018/05/28
シャワーから叩きつけられる水の音。時折混ざるサツキの溜め息。
サツキの腕はまるで誰かに強いられるかのように不自然に自身の背へ回った。
「…、っ」
思わず息を止めたのは、痛みを堪えた瞬間に声が出てしまいそうだったからだ。
入った。そう思ったのは数分前、それから第一関節で止まり動かない。
迎え入れる準備の出来ていないそこは、あまりにきつく、自分の指すら拒否し続けていた。
「…ん」
サツキの演じる役は、男を知っている。
幼馴染のことが好きで、でも結ばれないもどかしさから、好きでもない男と関係をもった。
『どうして俺なんですか』
そう監督に問いかけたところ、監督は嬉しそうに熱弁した。
一見受け入れ難いような男性同士の恋愛を深夜でなく放送するには、違和感なく見られるビジュアルが最低限必要だ。
牧野サツキはまさに求めていたビジュアルなのだと。
「…やめよう」
サツキは理解出来ない小説の中の登場人物の心情に、俯いて溜め息を吐いた。
監督に演技面での期待はされていない。だからこそ、彼の気持ちを理解して、彼と一つになりたいのに。
キュッとシャワーを止めて、掴んだタオルで顔を拭う。
風呂を上がってベッドに腰掛けたサツキは、そこに置かれた台本から視線を逸らした。
楽に抱かれる感覚を、それを求めて止まなくなるような熱を味わってみたかった。
・・・
順調に進んでいるドラマの撮影、サツキは舞台となっている大学に来ていた。
サツキの役はRe:valeの百が演じる「拓実」という青年に片想いをしている青年。
それを悟られないよう女好きなナンパ男を演じ、熱情に蓋をし続ける悲しい青年だ。
「百さんもお疲れ様です!俺、大丈夫だったでしょうか…」
「大丈夫も何も!スタッフさんも絶賛の演技だったよ!いやあ、さすがあの八乙女さんとこの子って感じ!」
「そ、そうですか?」
我ながら、初めての演技の割には複雑な役を持ってこられたものだと思う。
自信のないサツキにとって、知り合いでもある百は心の支えだ。
「百さんも、さすがでした。勉強になります」
「え?へへ、そう?」
「はい!あ、百さん、汗かいてますね」
サツキは思わず手を伸ばすと、手の甲で百の汗を拭った。
可愛らしい顔つきだが、サツキより体が大きく、首のラインも男らしい。
「もー!休憩時間まで俺を落とそうとしなくていいって!」
「え?」
「サツキのこと好きになっちゃ駄目なんだけど、ドキッとしちゃいそうだったよ。あ、役の話ね?」
「本当に!サツキさん演技も上手かったなんて、ずるいですよ!」
ひょいと百の後ろから顔を覗かせたのは、ヒロインを演じる女優だ。
自分が女性だのなんだの言われていたことが馬鹿らしくなるほど、小柄で華奢で、可愛らしい女性。
「サツキさんに負けないヒロインを演じなきゃと思ってるんですけど、もう負けそうで」
「え?そんな、女性の可憐さには全然敵わないです」
「ああもう、格好良いことまでサラッと言っちゃうんですから」
今回のサツキのコンセプトは、初の男性ヒロイン。らしい。
勿論それは裏の設定で、表向きには女性がヒロインで、サツキはそのヒロインに恋している“フリ”をしなければならない。
「あ、そういえば!私、今からサツキさんのお色気シーン楽しみで楽しみで!」
「お、お色気…」
「お相手誰なのか、気になりますよね」
キラキラと笑う女性に、サツキは再び感情を殺して笑った。
百とは別にもう一人いる男性の出演者。その人と絡むシーンがラストにある。
その出演者はまだ伝えられていない。そのせいもあり、サツキは不安からか苦しくなった胸をとんと掌で叩いた。
「あの、俺、ちょっとお手洗い行ってきます」
「暫く映像確認入りそうだから、ゆっくりで平気だよ」
「有難うございます」
百に頭を下げて、サツキはマネージャーとスタッフに声をかける。
こういう現場にはまだ慣れないせいか、一つ一つ状況を確認することにも緊張した。
ほんの少しも迷惑をかけないように。段取りを間違えないように。
別校舎に足を運び、気持ちを落ち着けるために息を吐き出す。
確かお手洗いはあっちだ。確認して足を踏み出すと、先の廊下にスタッフがいるのか、男性の声が聞こえてきた。
「あの新人、どう思います?」
咄嗟に足を止めたのは、それが自分だと感じとったからだ。
聞かない方が良い、そう思いながらも、サツキは音を立てないよう壁に寄り添った。
息を止めて、胸の前で手を握りしめる。
「あれで男ってのが不思議だよな、休憩時間も専らヒロインだったし」
「そう!そうなんですよ、むしろ役柄より本人がヒロインやってんですよね」
「可愛いけど、男と思ってみるとちょっと気味悪いよなぁ。女性と比べるとやっぱりガタイはそこそこいいし」
どくんと胸が音を立てた。
話題は演技のことでも、撮影に臨む態度でもない。
「あー、あれなんじゃないか、女男的な」
「…オネェ?っていうんですかね」
「ゲイなんじゃないか」
かもなあ、と二人の男性がケラケラと笑う。
サツキは背筋が凍るような感覚を覚え、手で口を覆った。
「頭下げてみろよ、頼めばやらせてくれんじゃないか?」
「いやいや、いくらなんでも勘弁ですよ!脱いだら男なんですから…」
「はは、だよなあ」
目を開き、息苦しさに口を開く。
彼等にとっては、よくある談笑のネタでしかなかったのか、話題は既に別のものに変わっている。
サツキはゆっくりと足を擦らせて、音を立てないようにその場を離れた。
「…違う」
女になりたいわけではない、男を好きなわけでもない。
本当に、そうだろうか。
楽に抱かれたいと望むのは、女になりたいと望むこととどう違うのだろう。
楽を好きだと言う事は、男を好きだということと何が違うのだ。
「…、俺…」
「あ!サツキ、そろそろ撮影再開するよ!」
「っ、はい!」
マネージャーの声に、慌てて返事をする。
どこかぽっかりと胸に穴が開いたまま、撮影は進行されていった。
・・・
・・
施設を出て、八乙女に引き取られたサツキは中学生になった。
当時はそれが当然だと思っていたが、通信制の学校の為、同じ学年の生徒とも大して親しくなることはなかった。
既にサツキの生き方は決まっていたのか、家族構成を公にすることもない。
サツキを体育の授業に出させることもしない。
明らかに特殊過ぎる存在、特別扱いを受ける生徒。
サツキは陰で噂されていることを知っていた。
「あいつ、女男だ」
指を指されて足を止める。
サツキは声を上げるわけにいかず、きゅっと唇を噛んだ。
「しゃべれよ、牧野」
「すげー高い声でさ、やめてよ男子―って」
「男子―って、牧野の男子じゃん」
「違うって、あいつは女男だから体育も出ないし歌も歌わねーし」
ずりいよという嫌悪の視線。
初めて教室に入った時、声を出した途端に笑われた。
女なのか?男なのか?それは気付けば「女男」という言葉で表現されるようになっていた。
「…っ」
「ほら、牧野泣いちゃうじゃん。男女だから」
「違うだろ?女男だって」
「、泣いてない」
「うわー!女男がしゃべった!」
逃げろ、と男の子たちがサツキの前から走り去って行く。
きゅっと唇を噛んで、目尻に浮かんだ涙が落ちないように踏ん張って、サツキも逃げるようにその場を去った。
施設で受けた扱いと違う、楽みたいに優しい人はいない。
気付けばサツキは、声を出すことも、顔を上げて歩くことも出来なくなっていた。
そしてそれは、学校生活だけで済まなくなった。
「やる気がない子を見る気はありません!」
今までのように声が出ない。開いた口から出たのは掠れた吐息だけ。
それに気付いた先生が練習を続けてくれるはずもない。
サツキは小さな手を自分の喉に重ねて、白い天井を見上げた。
「キライ」
歌が、じゃない。自分の声が、人と違う音を奏でる喉が。
無意識に、傷つけるように爪を立てて肉に食い込ませる。
微かな痛みと共に、呼吸が詰まるような感覚に、サツキは顔をしかめた。
どうして変わらないのだろう、楽のように、クラスの子達のように。
「サツキ!」
声が聞こえたのとほぼ同時に、ドアが乱暴に開け放たれた。
慌ただしく部屋に入ってきた楽は、サツキのその姿を見るなりサッと顔色を変えた。
「馬鹿…っ何してんだ!」
「え…」
大股で近付いてきたと思うと、白い指がサツキの腕をきつく掴む。
華奢な体からは想像出来ない程力強く引っ張られると、サツキはされるがまま楽の胸に額をぶつけた。
ばくばくと煩い心臓の音。
楽はサツキを抱き締めたままそこにしゃがみこむと、サツキの首元に顔を埋めて深く息を吐き出した。
「はー…、良かった、見に来て…」
「楽?何…?」
「何、はこっちの台詞だ!何があったんだよ…!」
今度はばっと顔を上げて、楽はサツキの顔を覗き込む。
切羽詰まったような表情に、サツキはそれが「自分の声のせい」だと勘付いた。
歌えないことを、先生が楽に伝えたのだろう。
「ごめん、なさい」
「謝ってんじゃねえよ。何があったんだって、言えよ」
耳にしっとりと馴染む楽の低い声。
初めて楽と会った時と、今のサツキの年齢は大して違わないはずだ。
それなのに、当時の楽は既にサツキとは違う低い声だった。
「どうして、俺の声、こんななのかな…」
「…は?」
「男なのに、女の子みたい…。俺、こんなのヤダ、もう、笑われたくない…っ」
楽の首に腕を回して、ぎゅっとしがみ付く。
楽は一瞬驚いた様子で体を固くしたが、すぐにぽんと優しくサツキの背を撫でた。
「誰かに、何か言われたのか」
「…皆笑うよ、俺がしゃべると、皆…」
だからもう、笑われたくない。声を出したくない。
楽の首に顔を埋めて、いやいやと駄々をこねるように首を振る。
耳元で、楽が小さく息を吐いた。
「サツキはそれで、何もしなかったのか」
「…え?」
冷たい声に、驚き顔を上げる。
楽は細めた目でじっとサツキを見つめていた。
「言い返したんだろうな、ちゃんと」
「…何を…?」
「変じゃねぇって。この声が、いつか世界を変えてやるって」
「…え」
サツキは思わず呆けた声を漏らしていた。
サツキの肩を掴む楽の表情は真剣そのものだ。
「い、言えないよそんなこと…!」
「言えよこんくらい!」
「無理だよ…っ、俺、そんな、楽みたいになれないよ…!」
視界がぼやと霞んで、目の前にある楽の顔が歪む。
肩を掴む手が少し緩んだのは、サツキの涙に困惑したからか。
楽は暫く言葉にならない声を零し、それからサツキの肩にあった手を頬へ移動させた。
「あー…、あのな、俺は、ただ、サツキが俺の言葉、信じてねぇのが悔しいんだよ」
「お、俺、が…?」
「そうだよ、いつも言ってんだろ。サツキが…サツキの声が、大好きだって」
頬を優しく撫でて、ぽろと溢れた涙を拭う。
サツキはすんっと息を吸い、滲んだ視界を手の甲で擦った。
優しく笑みを象る楽の顔が、サツキの胸の痛みを解していく。
「でも…」
「なら、聞かせてやろうぜ、そいつらにさ」
「何を…?」
「サツキの歌。サツキの歌声聴いて、文句言える奴なんていねぇよ」
俺も協力する。
そう言ってサツキの背中を少し強めに叩いた楽は、「楽しみだな」とまた笑った。
楽は宣言通りに翌日中等部にまで押し掛け、昼休みにサツキを連れて音楽室を占拠した。
広い音楽室の窓を全部開け放って、サツキをピアノの前に立たせて、自分は鍵盤に手をかざして。
楽の奏でるピアノに自分の声を重ねる。
自分の声がどうやって皆に聴こえていたのかは知らない。
けれど、それからサツキの声をからかう者はいなくなった。
それどころか、余計に距離をとられるようになったけれど。
嫌悪や好奇心ではなく、それが敬意や憧憬によるものと分かっていたから、怖くはなかった。
楽が、きっと誰かが、サツキの声が好きだと言ってくれるから、怖くなかった。
・・
・・・
「サツキ、大丈夫?」
ふと聞こえてきた声に引き戻され、サツキははっと肩を揺らした。
慌てて顔を上げると、百が心配そうにサツキを覗き込んでいる。
その手に握られていたペットボトルは、ちゃぷと音を立ててサツキに差し出された。
「え…?」
「なんか休憩明けてから上の空っていうか…何かあった?」
「サツキさん、私、何か余計な事言っちゃいました…?」
その百の後ろから、女優さんの大きな瞳も覗いている。
サツキは驚き高鳴った胸を掌で押さえ、薄く開いた口でひゅっと息を吸い込んだ。
「俺…、」
「サツキ、何かあったなら全部言って?サツキに何かあったら俺、ユキと楽に怒られちゃうし!」
サツキの表情が暗いことに気付いてか、明るく振る舞う百の横で、女優さんもウンウンと頷いている。
優しい人達だ。けれど、サツキの心の内を知れば、彼等も変わってしまうのかもしれない。
「……気持ち悪く、ないですか?」
「え?」
サツキの問いに、百が目を丸くする。
女優さんも細い首を傾け、百と目を合わせた。
「男なのにって…春加も、俺も」
女みたいだと罵られ、その上男に恋したりして。
サツキは自分の喉に触れ、二人から目を逸らした。
「俺…周りからどう思われてるか、知ってます。誰もが…受け入れてくれるわけない、気味悪いって…」
「サツキ…」
「俺が選ばれたのだって、気持ち悪さの緩和で…それを務められる俺はやっぱり気味悪いはずです」
こんなことを吐き出したって仕方がないのに。
それでもサツキはぎゅっと手を強く握りしめて、二人の言葉を待った。
今は少しでも優しい言葉が欲しい。
背を、押して欲しい。
「男の子だから素敵なんじゃないですか!」
「え…」
拳を強く握りしめて、声高らかに言ったのは百の横で体を乗り出した女優さんだった。
「可愛らしい女性なんていくらでもいます。でもサツキさんはオンリーワンナンバーワンですよ!?」
「えっ…」
「私、サツキさんのファンで…初めて歌声聴いた時、すごく感動したんです!」
涙が止まらなくて、と熱のこもった声で言われ、サツキは百と思わず視線を合わせた。
百も何か言おうと開いた口から声が出なくなっている。
「思いが籠っていて、きっとこの人、いろんなこと乗り越えて来たんだろうなって、そう思って…」
「そ…」
「気持ち悪いなんて絶対ないです!私は、サツキさんがこうして人前に立って…声を聞かせてくれるだけで幸せなんです!」
あまりの勢いに、サツキはぽかんと口を開けたまま、綺麗な顔を見上げていた。
その当人も、勢いのまま出てきた言葉に恥ずかしくなったのか、照れ臭そうにはにかんでいる。
「ぜ、全部言われちゃった」
「百さん…」
「サツキも、分かってるはずだよ?サツキのこと大好きな人、いっぱいいるって」
百は持前の明るい笑顔を咲かせると、サツキの手をぎゅっと握りしめた。
冷たいペットボトルの名残で、ひやりとした感覚が触れた部分から広がって行く。
「それはさ、男とか女とか、そういうことで変わることじゃないんだって」
「…はい」
「信じてあげなきゃ、可哀相だよ」
握られた手を見つめ、それからサツキは顔を上げた。
心のもやもやが晴れていく。
「じゃないと、楽が泣いちゃうしね」
「えっ」
「え?」
女優さんがサツキと同じ顔をして百を見上げる。
なんで楽の名前が、こんなところで。
その真意を突き止めてはいけない気がして、サツキは怪しげに目を細めて笑う百に、へらと笑って返した。
(続きます)
追加日:2018/05/28