八乙女楽(IDOLiSH7)
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9.楽だけの記憶
部屋の中に溜め息が落ちる。
沈んだ空気の中心は、ソファーに腰掛けて俯いているサツキだ。
楽が帰宅して共に夕飯を済ませるまでは気丈だったが、風呂に入っている間に沈み込んでいた。
かさ、と楽の指がテーブルに置かれた女性向け雑誌に触れる。
サツキの特集ページがある雑誌だ。発売日はまだだから、ここにあるのはサンプルだろう。
ページを捲り、目的の場所で手を止める。それを見れば、サツキの悩みなど一目瞭然だ。
「まぁ、らしくはねぇよな…」
自分の手で服を巻くし上げ、腹部の白い肌を見せつける。自信満々の顔、誘惑するような表情。
全部、一部の層に求められたサツキの姿だ。
当然そんなサツキを認めたくないファンもいる。
これからは男を見せて売っていくのか、と。
嘆き批判する声も、サツキの耳に届いているのだ。
「…サツキ」
楽はその愛しい名を口に出し、落ち込む彼の隣に腰掛けた。
ぴくと揺れた肩、驚き上げた顔。
落ち込む姿を見せるつもりはなかったのだろう、サツキは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、ぼーっとしてたみたい…。何?」
また気丈に笑ってみせる。
楽はサツキの頬に手を重ね、口元にかかる髪を指で退かしてやった。
「サツキ…ごめんな」
「え?」
「…こういう日が来るって分かってたってのに、結局…お前を守れてねぇなんて」
ソファに置いた楽の手に力がこもる。
それに気が付いたサツキは、戸惑いながら楽の顔を凝視した。
「何で、どうして楽がそんな顔するの…?」
困惑の色は、次第に悲哀の色に変わっていく。
自分のせいで楽が悲しんでいる。いつだって自分を悪い方に置く、サツキの悪いところだ。
楽は掌でサツキの頬と頭とを撫でた後、ゆっくり肩を抱き寄せた。
「悪い、そんな顔をさせたいんじゃねぇ。サツキには、ただ、笑っていて欲しかったんだよ」
「…、俺、笑ってない…?笑って、ない、か…」
自分の顔を触ったサツキの顔は、更にしゅんと落ち込んでしまう。
楽はサツキのこめかみに口付け、「悪い」と再び頭を下げた。
サツキの柔らかさは昔から変わらない。
変わらないからこそ、サツキは現状に苦しむ。全部楽には想定できた未来だ。
優しいサツキに、この世界はきっと…。
悲しい現実を喉の奥に押し込み、楽は嘗ての自分の過ちを思い返した。
・・・
近々兄弟が増える。
ある日突然、八乙女楽は自分の父親が放った言葉に茫然とした。
それは、中学生になり、ようやく自分の状況と父がどれ程凄い人間であるかを理解し始めた頃だった。
八乙女事務所…そう聞けばだれもが「あの」と感嘆する。父親が経営する芸能事務所だ。
楽自身もいつかデビューし、華々しい成功者の未来が待っていると囁かれている。
その一方で、八乙女宗助は父親として最低の男だった。
お世辞にも幸せだとは言えない家庭、その原因でもある男が、もう一人家族を増やすだと。
「どういうことだよ、兄弟って」
「施設で見つけた逸材だ。まだ10歳らしいが、あれは育てておいて損はないだろう」
「何言ってんだ。親父に今更子育てなんて無理に決まってんだろ」
既に‟家族”の形すら失っているというのに。
当然の抗議を父親に向けた楽に対し、宗助はフンから息を吐き出した。
「私が育てるのは芸能人としてだ。後はお前に任せる」
「はあ!?おい、ふざけんなよクソ親父!」
父は忙しいのだとすぐに家を出ていく。
最悪だ、最低だ。
テーブルに置かれたその施設への地図を手に取った楽は、むしゃくしゃした気持ちのまま破り捨てようと指をかけた。
「…、そうか、先手を打てばいいんだ」
楽はテーブルに地図を広げ直し、すぐさま行き方を調べた。
運良くそこは中学生の少年が一人でも行ける距離にあった。
俺が止めてやる。
それは悪事を働く敵をやっつけるヒーローのような決意。
地図を片手に飛び出した少年は、迷うことなくその場所にたどり着いた。
「あそこか…」
ミッションは、施設の人と目的の子に「八乙女宗助が来ても無視してくれ」と伝えることだ。ついでに奴の信用できないポイントも耳に入れてやる。
意気込み闊歩する。
その楽の足は、門のところで動かなくなった。
歌声が聞こえる。少女、いや天使のようと形容しても過言ではない程に透き通る歌声。
あの子が、と。
楽は建物の入口に座る子供を見た瞬間、確信していた。
「あの子が…、俺の、兄弟…」
口に出す。その瞬間に感じた高ぶり。
無意識な感情の芽生えに、楽はぶんっと首を横に振った。
「違う、駄目だ。駄目だって、言わねーと…」
その場でうずくまり、楽は余計なことを考える頭を押さえた。
早く用件を伝えて、この場を去らなければ。
そうしないと、奴と同じことを考えそうで。
「どうしたの?」
降り注ぐように楽の髪をくすぐった声。
はっとして顔を上げると、さっきまで建物の近くにいた子がそこに立っている。
小さな手が、楽の頭を撫でた。
「頭痛いの?」
高く澄んだ声。
声変わり前の少年の声。それよりも、もっと透き通っていて、それなのに芯の通った響きがある。
これが、あの八乙女社長の心にも響いた声なのだ。
「わあ、お兄さんかっこいい!テレビで見る人みたい」
「あ…いや、俺は…」
「あっ…大きい声出してごめんなさい。頭に響いちゃう…」
大きな瞳を揺らし、ぽんぽんと労わるように小さな手が楽に触れる。
声だけじゃない、少女のように可憐な容姿と女神のように優しい心。
楽は異様な背徳感に襲われていることに気が付いた。
「だ、大丈夫、心配してくれて、有難う」
「ううん、気を付けてね!」
この子が触れた部分が熱い。
神経が研ぎ澄まされたみたいに、心臓がそこについたみたいに脈打つ。
それを悟られたくなくて、楽は慌てて来た道を走り出していた。
「あの子が兄弟に…」
あの子が家に来たら。毎日傍にいてくれたら。
今の父に振り回され崩壊した家庭が色を変える。
…そうだ、俺が守ればいい。
それに気付いた楽は、ゆっくりと足の回転を緩めた。
八乙女宗助が手を出さなかったとしても、あの子は誰かの目に留まるだろう。
他の誰だって信用できない。あの天使を守れるのは、自分しかいない。
新たに生まれた決意はあまりにも強く、それから楽は暇さえあればその施設に足を運ぶようになっていた。
気付かれないように外から眺めていたにも関わらず、大人達に「今日も来たのね」なんて微笑まれることもしばしば。
「…可愛いな」
見れば見る程思いが募る。
早く兄弟に、早く家族になりたい。
白い肌と黒い髪、大きな瞳と無邪気な笑顔。全て目に焼き付けて帰る。
そんな息子の行動に、社長も気付いていたのだろう。
間もなく「迎えにいくぞ」と告げられた楽は、浮つく気持ちを抑えて連れ添った。
「牧野サツキ、10歳の男の子だ。いいか、お前は今日から兄として接してやれ」
「言われなくたって分かってる」
家族ぶる父の態度に顔を険しくしながらも、楽の胸は不安と期待で高なっている。
早く会いたい。早く声をかけたい。でも、受け入れてくれるだろうか。
その不安は的中する。
楽の耳に入って来たのは、施設の女性の叫び声だった。
「ごめんなさい!サツキ君、今、嫌がって出て行ってしまって…っ!」
「何…?」
「今探しに出ているんですけど…」
「っ、俺も探してくる!」
会う前から拒絶される衝撃。
しかしショックを受けている場合じゃない。あの小さな体が心配で、楽は大人の対応など待たずに走り出していた。
最近通っていただけに、周辺の地理には強くなっている。
例えば、小さな子供が好みそうな川辺も学校も、公園も。
踏み入れた公園に響くのは、楽が大好きな天使の歌声だった。
楽は安堵に手を胸に押し当て、反響する遊具の土管に近付いた。
「……そこにいるのか?」
驚かせてしまわないように、優しい声で呼びかける。
土管の中を覗き込むと、目を潤ませたあの子が、怯えた様子で楽の方へ顔を向けた。
「…っ、だれ…?」
揺れる瞳に自分が映る。
楽は鳥肌が立つ腕を押さえて擦りながら、すぐに手を伸ばしたい気持ちも抑え込んだ。
「ああ…良かった。こんな時間に一人は危ないから、出て来いよ」
「…、あ、あの、」
「大丈夫、怖くないから」
ゆっくり、慎重に差し出した手。
その楽の手よりもずっと小さな手が、縋り付くように伸ばされた。
「…っ、」
楽はその手を掴み取ると同時に、胸に引き寄せて強く抱きしめていた。
離したくない。ずっと傍にいて守ってやる。
もう悲しい涙を流させないように、寂しい思いはさせないように、ずっと。
それが、この子を芸能界という荒波へ流すことだと分かっていて、楽はこの道を選んだ。
自分が守るから大丈夫なんて、根拠の欠片すらなかったのに。
この時の八乙女楽には、彼の存在が必要だったのだ。
・・・
先ほどよりも一層強く抱き寄せられ、サツキは楽の腕に手を添えた。
「…楽?」
落ち込むサツキを慰めようと、楽はサツキの頬も頭も背中も、繰り返し優しく撫で続ける。
その楽の表情も、サツキに寄せるように歪んでいく。
いつも、いつもそう。サツキはゆっくりと楽から体を離した。
「あの、楽…ごめん、俺…」
優しい彼は、サツキが心を痛めると一緒に痛みを感じてしまう。
そう思って頭を下げたサツキに対し、楽は「あのなあ」と呆れた調子で息を吐いた。
「なんで謝んだよ。何か悩んでんだろ、言ってみろよ」
「…楽…」
「ま、察しはついてっけどな」
楽の目が、サツキの手の下にある雑誌に向けられる。
サツキの、サツキらしくない姿が載っている雑誌。‟男らしさ”を求められた姿だ。
「…うん、また俺、自分がわからなくなってて…。したくないこととか、自分らしくないこととかするの…嫌っていうか…」
男だということを公表してから、撮影は格段に増えたし、求められる内容も増えた。
社長がサツキの勝手な行動を許したのも、そういう先のことも見越していたからだろう。
だから喜ぶべきだ、今の盛り上がりを活かすべきなのだ。
「今まで‟私”とは別者で…今まで応援してくれてた子達の気持ちを置いてけぼりにしてるんじゃないかって…」
「サツキ…」
「ファンが増えるのは嬉しいよ、でも…」
それでも、苦い思いがなくならない。
ファンだった人たちの声が、聞こえてくるのだ。
俯いたサツキの瞳がうると揺れる。その頭の上で、楽が目を閉じた。
「お前の悲しい気持ち全部、俺が代わってやりてぇ」
「…え?」
「俺のせいで、お前がそんな顔すんのは…」
サツキの頬を両手で包み込む楽の手。
楽はサツキの気持ちを引き継ぐみたいに、額をサツキの額へと押し当てた。
「お前には、もっと別の幸せがあったはずだ。こんな、苦しい思いをする必要はなかった」
「どうして…そんなことを言うの…?」
「…俺の我が儘で、お前をこんな世界に連れ込んじまってさ」
「楽の我が儘ならなんだって聞きたいよ」
ぱっと顔を離した楽は、「違ぇだろ」と呆れた様子で眉を下げて笑った。
何も違わない、サツキの気持ちだ。
それを訴えたくてムッと眉を寄せたサツキに対し、楽は何か言い淀み口を手で覆った。
「あー…ちょっとキモい話なんだけど」
「何?」
「俺は、お前が俺と初めて会った…って思っている日よりも前から、お前に惚れてんだよ」
指の隙間から見えている肌が色付いている。
サツキが思い出すのは、八乙女に引き取られた日。知らないうちに養子になっていた日だ。
「え…俺が、あの、逃げた日じゃ…」
「それより前だよ。お前が欲しくて、この業界の辛さを知ってるくせに、親父の酷さだって分かってるくせに、ここにお前を連れてきた」
言い切るなり、楽の口から深い息が吐き出される。
いつも自信満々な八乙女楽の唇から零れる甘い吐息とは違い、不安に揺れて搔き消える。
「だからせめて…全部俺にぶつけてくれよ。サツキ」
知らなかった楽の気持ちを目の前に、サツキは困惑していた。
好きなのは自分だけと思い悩んだ日々。離れようとした日。楽は一体どんな気持ちでいたのだろう。
「サツキ?」
「ごめん俺…どう、言ったらいいか…」
楽の気持ちが嬉しくて、同時に申し訳なくて。
二人を救う為の言葉はすぐに思い浮かばず、サツキは楽をじっと見上げた。
「楽…」
名前を呼べば、優しく微笑みかけてくれる。
淡い色の瞳がサツキを真っ直ぐ捉え、薄い唇は甘い言葉でサツキを溶かす。
楽にぶつけたい感情は、今、この瞬間、たった一つだった。
「…キス、したい」
「…は?」
「ドラマでしてる以上のキス、俺にして欲しい…」
テレビの中の楽は綺麗な女性へ愛を囁き、全身で愛している。
サツキが経験したことのない愛し方。
「俺に…誰にもしたことないような事、して…俺が特別だって感じさせて欲しい」
「お前」
「八乙女楽と、俺の八乙女楽は違うんだって、ちゃんと感じたいんだ。そうしたら俺も…割り切れそうな気がする。俺と、誰かの求める俺と…違うってこと…」
駄目かな、と小さく呟く。
楽は暫く茫然とした後、自分の髪をくしゃと乱暴に掴んだ。
「なんつーこと言うんだよ。自分が今何言ったか分かってんのか?」
「分かって、ないかな…?」
「知らねぇよ。言っとくけど、ドラマみたいに綺麗じゃねぇからな」
楽がサツキの気持ちを確かめるように、少しきつく言い放つ。
それでもサツキは小さく首を傾げたまま、にこりと微笑んだ。
「嬉しい。俺は、誰も知らないような楽の姿、全部知りたいから」
「ったくお前は…こっちの気も知らず煽りやがって」
「え、わ…!?」
楽がサツキの足の下に腕を差し込み、ひょいとサツキの体を持ち上げる。
そのまま立ち上がった楽は、リビングを出て、楽の部屋へと歩き出した。
サツキの部屋とほぼ同じ間取りながら、物は最小限に机とベッドがあるだけ。
大人な雰囲気、部屋中に感じる楽の存在。
ベッドへ下ろされたサツキは、のしかかるようにベッドへ乗り上げた楽と見つめ合った。
「…本当に俺のモンにしていいのかよ」
「俺、とっくに楽のものだよ」
「そういうことじゃねぇよ。…どうなっても知らねぇからな」
近付いて来る綺麗すぎる顔。
直視できずに目を閉じたサツキは、唇に柔らかな熱を受けて息を止めた。
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部屋の中に溜め息が落ちる。
沈んだ空気の中心は、ソファーに腰掛けて俯いているサツキだ。
楽が帰宅して共に夕飯を済ませるまでは気丈だったが、風呂に入っている間に沈み込んでいた。
かさ、と楽の指がテーブルに置かれた女性向け雑誌に触れる。
サツキの特集ページがある雑誌だ。発売日はまだだから、ここにあるのはサンプルだろう。
ページを捲り、目的の場所で手を止める。それを見れば、サツキの悩みなど一目瞭然だ。
「まぁ、らしくはねぇよな…」
自分の手で服を巻くし上げ、腹部の白い肌を見せつける。自信満々の顔、誘惑するような表情。
全部、一部の層に求められたサツキの姿だ。
当然そんなサツキを認めたくないファンもいる。
これからは男を見せて売っていくのか、と。
嘆き批判する声も、サツキの耳に届いているのだ。
「…サツキ」
楽はその愛しい名を口に出し、落ち込む彼の隣に腰掛けた。
ぴくと揺れた肩、驚き上げた顔。
落ち込む姿を見せるつもりはなかったのだろう、サツキは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、ぼーっとしてたみたい…。何?」
また気丈に笑ってみせる。
楽はサツキの頬に手を重ね、口元にかかる髪を指で退かしてやった。
「サツキ…ごめんな」
「え?」
「…こういう日が来るって分かってたってのに、結局…お前を守れてねぇなんて」
ソファに置いた楽の手に力がこもる。
それに気が付いたサツキは、戸惑いながら楽の顔を凝視した。
「何で、どうして楽がそんな顔するの…?」
困惑の色は、次第に悲哀の色に変わっていく。
自分のせいで楽が悲しんでいる。いつだって自分を悪い方に置く、サツキの悪いところだ。
楽は掌でサツキの頬と頭とを撫でた後、ゆっくり肩を抱き寄せた。
「悪い、そんな顔をさせたいんじゃねぇ。サツキには、ただ、笑っていて欲しかったんだよ」
「…、俺、笑ってない…?笑って、ない、か…」
自分の顔を触ったサツキの顔は、更にしゅんと落ち込んでしまう。
楽はサツキのこめかみに口付け、「悪い」と再び頭を下げた。
サツキの柔らかさは昔から変わらない。
変わらないからこそ、サツキは現状に苦しむ。全部楽には想定できた未来だ。
優しいサツキに、この世界はきっと…。
悲しい現実を喉の奥に押し込み、楽は嘗ての自分の過ちを思い返した。
・・・
近々兄弟が増える。
ある日突然、八乙女楽は自分の父親が放った言葉に茫然とした。
それは、中学生になり、ようやく自分の状況と父がどれ程凄い人間であるかを理解し始めた頃だった。
八乙女事務所…そう聞けばだれもが「あの」と感嘆する。父親が経営する芸能事務所だ。
楽自身もいつかデビューし、華々しい成功者の未来が待っていると囁かれている。
その一方で、八乙女宗助は父親として最低の男だった。
お世辞にも幸せだとは言えない家庭、その原因でもある男が、もう一人家族を増やすだと。
「どういうことだよ、兄弟って」
「施設で見つけた逸材だ。まだ10歳らしいが、あれは育てておいて損はないだろう」
「何言ってんだ。親父に今更子育てなんて無理に決まってんだろ」
既に‟家族”の形すら失っているというのに。
当然の抗議を父親に向けた楽に対し、宗助はフンから息を吐き出した。
「私が育てるのは芸能人としてだ。後はお前に任せる」
「はあ!?おい、ふざけんなよクソ親父!」
父は忙しいのだとすぐに家を出ていく。
最悪だ、最低だ。
テーブルに置かれたその施設への地図を手に取った楽は、むしゃくしゃした気持ちのまま破り捨てようと指をかけた。
「…、そうか、先手を打てばいいんだ」
楽はテーブルに地図を広げ直し、すぐさま行き方を調べた。
運良くそこは中学生の少年が一人でも行ける距離にあった。
俺が止めてやる。
それは悪事を働く敵をやっつけるヒーローのような決意。
地図を片手に飛び出した少年は、迷うことなくその場所にたどり着いた。
「あそこか…」
ミッションは、施設の人と目的の子に「八乙女宗助が来ても無視してくれ」と伝えることだ。ついでに奴の信用できないポイントも耳に入れてやる。
意気込み闊歩する。
その楽の足は、門のところで動かなくなった。
歌声が聞こえる。少女、いや天使のようと形容しても過言ではない程に透き通る歌声。
あの子が、と。
楽は建物の入口に座る子供を見た瞬間、確信していた。
「あの子が…、俺の、兄弟…」
口に出す。その瞬間に感じた高ぶり。
無意識な感情の芽生えに、楽はぶんっと首を横に振った。
「違う、駄目だ。駄目だって、言わねーと…」
その場でうずくまり、楽は余計なことを考える頭を押さえた。
早く用件を伝えて、この場を去らなければ。
そうしないと、奴と同じことを考えそうで。
「どうしたの?」
降り注ぐように楽の髪をくすぐった声。
はっとして顔を上げると、さっきまで建物の近くにいた子がそこに立っている。
小さな手が、楽の頭を撫でた。
「頭痛いの?」
高く澄んだ声。
声変わり前の少年の声。それよりも、もっと透き通っていて、それなのに芯の通った響きがある。
これが、あの八乙女社長の心にも響いた声なのだ。
「わあ、お兄さんかっこいい!テレビで見る人みたい」
「あ…いや、俺は…」
「あっ…大きい声出してごめんなさい。頭に響いちゃう…」
大きな瞳を揺らし、ぽんぽんと労わるように小さな手が楽に触れる。
声だけじゃない、少女のように可憐な容姿と女神のように優しい心。
楽は異様な背徳感に襲われていることに気が付いた。
「だ、大丈夫、心配してくれて、有難う」
「ううん、気を付けてね!」
この子が触れた部分が熱い。
神経が研ぎ澄まされたみたいに、心臓がそこについたみたいに脈打つ。
それを悟られたくなくて、楽は慌てて来た道を走り出していた。
「あの子が兄弟に…」
あの子が家に来たら。毎日傍にいてくれたら。
今の父に振り回され崩壊した家庭が色を変える。
…そうだ、俺が守ればいい。
それに気付いた楽は、ゆっくりと足の回転を緩めた。
八乙女宗助が手を出さなかったとしても、あの子は誰かの目に留まるだろう。
他の誰だって信用できない。あの天使を守れるのは、自分しかいない。
新たに生まれた決意はあまりにも強く、それから楽は暇さえあればその施設に足を運ぶようになっていた。
気付かれないように外から眺めていたにも関わらず、大人達に「今日も来たのね」なんて微笑まれることもしばしば。
「…可愛いな」
見れば見る程思いが募る。
早く兄弟に、早く家族になりたい。
白い肌と黒い髪、大きな瞳と無邪気な笑顔。全て目に焼き付けて帰る。
そんな息子の行動に、社長も気付いていたのだろう。
間もなく「迎えにいくぞ」と告げられた楽は、浮つく気持ちを抑えて連れ添った。
「牧野サツキ、10歳の男の子だ。いいか、お前は今日から兄として接してやれ」
「言われなくたって分かってる」
家族ぶる父の態度に顔を険しくしながらも、楽の胸は不安と期待で高なっている。
早く会いたい。早く声をかけたい。でも、受け入れてくれるだろうか。
その不安は的中する。
楽の耳に入って来たのは、施設の女性の叫び声だった。
「ごめんなさい!サツキ君、今、嫌がって出て行ってしまって…っ!」
「何…?」
「今探しに出ているんですけど…」
「っ、俺も探してくる!」
会う前から拒絶される衝撃。
しかしショックを受けている場合じゃない。あの小さな体が心配で、楽は大人の対応など待たずに走り出していた。
最近通っていただけに、周辺の地理には強くなっている。
例えば、小さな子供が好みそうな川辺も学校も、公園も。
踏み入れた公園に響くのは、楽が大好きな天使の歌声だった。
楽は安堵に手を胸に押し当て、反響する遊具の土管に近付いた。
「……そこにいるのか?」
驚かせてしまわないように、優しい声で呼びかける。
土管の中を覗き込むと、目を潤ませたあの子が、怯えた様子で楽の方へ顔を向けた。
「…っ、だれ…?」
揺れる瞳に自分が映る。
楽は鳥肌が立つ腕を押さえて擦りながら、すぐに手を伸ばしたい気持ちも抑え込んだ。
「ああ…良かった。こんな時間に一人は危ないから、出て来いよ」
「…、あ、あの、」
「大丈夫、怖くないから」
ゆっくり、慎重に差し出した手。
その楽の手よりもずっと小さな手が、縋り付くように伸ばされた。
「…っ、」
楽はその手を掴み取ると同時に、胸に引き寄せて強く抱きしめていた。
離したくない。ずっと傍にいて守ってやる。
もう悲しい涙を流させないように、寂しい思いはさせないように、ずっと。
それが、この子を芸能界という荒波へ流すことだと分かっていて、楽はこの道を選んだ。
自分が守るから大丈夫なんて、根拠の欠片すらなかったのに。
この時の八乙女楽には、彼の存在が必要だったのだ。
・・・
先ほどよりも一層強く抱き寄せられ、サツキは楽の腕に手を添えた。
「…楽?」
落ち込むサツキを慰めようと、楽はサツキの頬も頭も背中も、繰り返し優しく撫で続ける。
その楽の表情も、サツキに寄せるように歪んでいく。
いつも、いつもそう。サツキはゆっくりと楽から体を離した。
「あの、楽…ごめん、俺…」
優しい彼は、サツキが心を痛めると一緒に痛みを感じてしまう。
そう思って頭を下げたサツキに対し、楽は「あのなあ」と呆れた調子で息を吐いた。
「なんで謝んだよ。何か悩んでんだろ、言ってみろよ」
「…楽…」
「ま、察しはついてっけどな」
楽の目が、サツキの手の下にある雑誌に向けられる。
サツキの、サツキらしくない姿が載っている雑誌。‟男らしさ”を求められた姿だ。
「…うん、また俺、自分がわからなくなってて…。したくないこととか、自分らしくないこととかするの…嫌っていうか…」
男だということを公表してから、撮影は格段に増えたし、求められる内容も増えた。
社長がサツキの勝手な行動を許したのも、そういう先のことも見越していたからだろう。
だから喜ぶべきだ、今の盛り上がりを活かすべきなのだ。
「今まで‟私”とは別者で…今まで応援してくれてた子達の気持ちを置いてけぼりにしてるんじゃないかって…」
「サツキ…」
「ファンが増えるのは嬉しいよ、でも…」
それでも、苦い思いがなくならない。
ファンだった人たちの声が、聞こえてくるのだ。
俯いたサツキの瞳がうると揺れる。その頭の上で、楽が目を閉じた。
「お前の悲しい気持ち全部、俺が代わってやりてぇ」
「…え?」
「俺のせいで、お前がそんな顔すんのは…」
サツキの頬を両手で包み込む楽の手。
楽はサツキの気持ちを引き継ぐみたいに、額をサツキの額へと押し当てた。
「お前には、もっと別の幸せがあったはずだ。こんな、苦しい思いをする必要はなかった」
「どうして…そんなことを言うの…?」
「…俺の我が儘で、お前をこんな世界に連れ込んじまってさ」
「楽の我が儘ならなんだって聞きたいよ」
ぱっと顔を離した楽は、「違ぇだろ」と呆れた様子で眉を下げて笑った。
何も違わない、サツキの気持ちだ。
それを訴えたくてムッと眉を寄せたサツキに対し、楽は何か言い淀み口を手で覆った。
「あー…ちょっとキモい話なんだけど」
「何?」
「俺は、お前が俺と初めて会った…って思っている日よりも前から、お前に惚れてんだよ」
指の隙間から見えている肌が色付いている。
サツキが思い出すのは、八乙女に引き取られた日。知らないうちに養子になっていた日だ。
「え…俺が、あの、逃げた日じゃ…」
「それより前だよ。お前が欲しくて、この業界の辛さを知ってるくせに、親父の酷さだって分かってるくせに、ここにお前を連れてきた」
言い切るなり、楽の口から深い息が吐き出される。
いつも自信満々な八乙女楽の唇から零れる甘い吐息とは違い、不安に揺れて搔き消える。
「だからせめて…全部俺にぶつけてくれよ。サツキ」
知らなかった楽の気持ちを目の前に、サツキは困惑していた。
好きなのは自分だけと思い悩んだ日々。離れようとした日。楽は一体どんな気持ちでいたのだろう。
「サツキ?」
「ごめん俺…どう、言ったらいいか…」
楽の気持ちが嬉しくて、同時に申し訳なくて。
二人を救う為の言葉はすぐに思い浮かばず、サツキは楽をじっと見上げた。
「楽…」
名前を呼べば、優しく微笑みかけてくれる。
淡い色の瞳がサツキを真っ直ぐ捉え、薄い唇は甘い言葉でサツキを溶かす。
楽にぶつけたい感情は、今、この瞬間、たった一つだった。
「…キス、したい」
「…は?」
「ドラマでしてる以上のキス、俺にして欲しい…」
テレビの中の楽は綺麗な女性へ愛を囁き、全身で愛している。
サツキが経験したことのない愛し方。
「俺に…誰にもしたことないような事、して…俺が特別だって感じさせて欲しい」
「お前」
「八乙女楽と、俺の八乙女楽は違うんだって、ちゃんと感じたいんだ。そうしたら俺も…割り切れそうな気がする。俺と、誰かの求める俺と…違うってこと…」
駄目かな、と小さく呟く。
楽は暫く茫然とした後、自分の髪をくしゃと乱暴に掴んだ。
「なんつーこと言うんだよ。自分が今何言ったか分かってんのか?」
「分かって、ないかな…?」
「知らねぇよ。言っとくけど、ドラマみたいに綺麗じゃねぇからな」
楽がサツキの気持ちを確かめるように、少しきつく言い放つ。
それでもサツキは小さく首を傾げたまま、にこりと微笑んだ。
「嬉しい。俺は、誰も知らないような楽の姿、全部知りたいから」
「ったくお前は…こっちの気も知らず煽りやがって」
「え、わ…!?」
楽がサツキの足の下に腕を差し込み、ひょいとサツキの体を持ち上げる。
そのまま立ち上がった楽は、リビングを出て、楽の部屋へと歩き出した。
サツキの部屋とほぼ同じ間取りながら、物は最小限に机とベッドがあるだけ。
大人な雰囲気、部屋中に感じる楽の存在。
ベッドへ下ろされたサツキは、のしかかるようにベッドへ乗り上げた楽と見つめ合った。
「…本当に俺のモンにしていいのかよ」
「俺、とっくに楽のものだよ」
「そういうことじゃねぇよ。…どうなっても知らねぇからな」
近付いて来る綺麗すぎる顔。
直視できずに目を閉じたサツキは、唇に柔らかな熱を受けて息を止めた。
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