黒バス(2012.10~2017.12)
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朝早くから、あまり自動車の通らない静かな道をたんたんと軽い足音が過ぎ去っていく。
真司には朝起きてまず走りに出かけるという習慣があった。顔を洗い、さっぱりした状態で外の空気に触れるのはとても清々しい。
「今日はいい天気だな」
すん、と鼻で冷たい空気を吸い込むと自然に笑みが零れる。
真司はこの解放感が好きだった。この青空の元、ただひたすら走っていることが大好きだった。
だからハードそうな運動部に所属するなんてもってのほかだ。
朝練なんてされた日にはたまったもんじゃない。
「俺は別に誰かの役に立ちたいワケじゃねーの」
振り返って自分の家を見つめる。
勉強していい成績とって、運動でいい記録残して、それでも褒めてくれる人はこの家にいない。
「俺は一人で生きてけるんだから」
ふっと息を吐いてから真司は走り出した。
自分が不幸な人間だなんて考えたことはない。愛されたいなどと欲を抱いたこともない。
今のままで十分だった。
なのに。
「烏羽君よぉ」
「……」
学校に着いて教室に入れば、自分の座るべき席には肌の色が他の生徒と比べて濃い男子生徒。
青峰大輝は全く懲りずに今日も勧誘にいそしむらしい。
「はいはい、バスケ部に入れって言うんでしょ」
「わかってんじゃねーか」
「わかるわかる。だからそっちもわかってんしょ」
「入りません、だろ」
「そーです」
絶対に入らない。流されて入部したって後々後悔するに決まってる。
真司はそれでも退かない青峰に、さすがに苛立ちが込み上げて来ていた。
能力を買ってくれるのは嬉しい。しかしこちらの意見を聞かないこのしつこさは頂けない。
「…青峰君、いい加減に」
「赤司が」
「はい?」
「“勝てないって分かってる勝負は受けもしないのか”ってさ」
青峰はその言葉の向こう側にいる人物の真似をしたつもりなのか、少し鼻にかかった声を出した。
いや、似ているかどうかはわからないのだが。今はその青峰のモノマネの精度はどうだって良かった。
「赤司?…征十郎?」
「おう」
「バスケ部?」
「のキャプテンだぜ」
ぐるぐると青峰の言ったことが頭の中を巡る。
「いや、だって赤司君って俺たちと同じ二年じゃん。なんでキャプテンとか」
「それが認められるくらいスゲェんだろ」
「……」
赤司征十郎。この名前は何度も見かけた。
どんなに良い成績を残しても、必ず上に名前を乗せてくる男だ。
だからどうということもないのだが、真司は相当の負けず嫌いだった。
「…青峰君」
「お?」
「放課後、俺も一緒に連れてけ」
「ハッ、たりめーだろ」
がっと椅子を引いて青峰がようやくそこを退く。
そのまま青峰は一つ後ろの自分の席について、真司を嬉しそうな顔でじっと見つめた。
あまりに嬉しそうにニコニコ笑うから、少し調子が狂う。
「青峰君は…どうしてそんなに俺にバスケさせたいんだよ」
「好きなものって共有したくね?特に好きな奴にはさー」
「…君はいつ俺を好きになったんすか」
「さーな」
曖昧に誤魔化される。
「好き」とかよくもまぁ軽く口に出せるもんだと呆れながらも、真司は少し嬉しそうに口を弧に描いていた。
・・・
放課後。
青峰の後ろを歩く。背の高い青峰の一歩は大きくて、真司は少し小走りになりながら続いた。
でかい背中に長い手足。筋肉ついてがっちがちだし。
真司は青峰の後ろ姿を純粋に羨ましいものだと思った。
こんな阿呆でも、ここまで体育会系として出来上がっているのなら、何の文句も付けようがない。
「なぁ烏羽君よー」
「なあに」
「真司って呼んでい?」
「いいよ」
まだバスケ部に入ると決めたわけではないのだが、まあ呼び方なんてなんでもいい。
ならこっちは大輝君、か。
と頭の隅で考えて、真司は首をぶんぶんと横に振った。違和感通り越して鳥肌が立ちそうだ。
「つかなんで後ろ歩くんだよ。隣来いよ」
「青峰君。俺の身長知ってる?」
「はあ?…165くらいか?」
「そんなにデカくねーんです。だから君の隣は首が疲れんの」
それにいくら青峰が中学男子としてデカ過ぎるのだとわかっているにしても、この身長差はあまりにも。屈辱的だ。
「そっか。お前テツと同じくらいか…それより小さい、か?」
「…?」
「お前顔小さいからデカく見えんだな。足も長ェし」
「君に言われてもなぁ」
自分の取り柄を評価されて、表情には出さなかったものの真司は嬉しくてムズムズしていた。
顔が小さいのも足が長いのも自覚している。自分からそれを言うことは絶対にないが。
「あ、バスケに身長は…ほら、テツとか赤司とか真司と同じくらいだし!」
「何フォロー入れてくれてんだ君は」
ばしっと真司の平手が青峰の背中を打つ。
それをじゃれている程度にしか感じられなかった青峰はけらけらと笑った。
・・・
「やぁ、来たね」
「赤司征十郎…」
既に部員が集まりつつある体育館。
真司は腕を組んで小さい癖にどっしりと構える赤司を見据えた。
「って君?」
「はは、そうだよ。オレが赤司征十郎だ」
二人のやり取りを聞いて、ぽかんとしたのは勿論青峰だ。
「面識ねーのかよ」
「ねーですよ。赤司君のことは名前しか知らないもの」
「そうだろうね」
そういえば、赤司は当初、烏羽真司という名前に同等の学力を持つ生徒、という認識しかしていなかった。
二人の接点、というものは存在していなかったのだ。
ただ、真司にとってはいつも自分の上に名前を乗せてくる相手というだけで。
「それで、俺をバスケ部に入れたいのは青峰君だけじゃなかったんですかね」
「残念ながら、君の情報は集めさせてもらったからね。もう逃げられないと思った方がいい」
「んな大袈裟な」
呆れて苦笑いした真司に、赤司は一歩近付いた。
すっと伸ばされたバスケ部とは思えない程に細く綺麗な指が、真司の胸に触れる。
「お前には才能がある。オレがその才能を活かしてやる」
「なんだか上からだな。俺は君を負かしたいだけなんだけど」
「はは、それは無理だな」
にこやかに笑う赤司に真司の体はぴくりと揺れた。
本当にこいつは、いつだって上にいる。いい加減、こいつより下に名前があるのは嫌だ。
しかし、バスケ部のキャプテンが赤司というのならば、バスケ部に入った時点で真司は赤司の下だということになる。
「あー…やっぱ無理。バスケ部とか俺興味ないです」
「帰る家をあげる」
「……は?」
赤司の言葉は、予想していた言葉のどれにも当てはまらなかった。
何を言いたいんだこの天才バスケ部キャプテンは。そう思ったのは、真司だけではない。
近くで様子を見守っていた青峰も、それに偶然後ろを通りかかって聞いてしまった黒子もだ。
「このバスケ部…そうだな、さすがにレギュラーだけにしておくか。そいつらの家を自分の家だと思っていい」
「お、おいおいおい!赤司、何言ってんだよ」
「なんなら今日、試しにオレの家に来るといい。すぐに必要になる」
「赤司、無視か」
真司の横に並んだ青峰が、ぐいっと体を乗り出す。
まずその意味のわからない話についての詳細と、勝手に人の家を自分のモノかのように差し出したことについての説明を要求したい。
しかし、その青峰の肩は後ろに引かれていた。
「なんだよテツ」
「赤司君に任せましょう」
「いやでも」
「赤司君の言うことが正しくなかったこと、今までありましたか」
「…」
黒子の言葉に、青峰は何も言い返せずに一歩下がった。
確かに、赤司はいつでも正しかった。全て分かっているかのように物事を進める。それに間違いはない。
赤司も黒子の言葉に少しだけ嬉しそうに目を細めて、すぐに真司に視線を戻した。
「烏羽。お前が一番欲しいものをあげる」
「……赤司君、君は俺の何を知ってるっていうの」
「さあ。知らないからこそ歩み寄ろうとしているのかもしれないぞ」
「悪いけど、そんな意味のわからない誘惑にのったりはしないよ」
「そうか。それは残念だ」
真司はくるっと向きを変えて、赤司に背中を向けた。
視界に入るのは、心配そうな顔をこちらに向けている青峰と黒子。
「青峰君。俺のことは諦めてもらうよ」
「…真司」
「また明日」
軽く手を振って体育館を出て行く。
「待…っ」
「青峰」
追いかけようとした青峰を、冷静な声が制止させた。
ゆっくり視線を動かすと、赤司は何ということはない、いつも通りの冷ややかな顔をしてそこに立っている。
「赤司、お前何考えてんだよ」
「彼をバスケ部に入部させること、だが」
「じゃあなんであんな」
青峰はそこまで言うと、言葉を途切れさせた。
赤司はまだ何か企んでいる。まだこれで終わってはいない。
その、口元の笑みと先を見通す赤い瞳が、青峰にそう感じさせていた。
一人で歩く帰路。とぼとぼと足取りは軽くない。
原因は全て赤司征十郎にある。
家だのなんだの、知ったかのようにつらつらと言葉を並べるところも気に食わない。
初対面の人間にどうしてそこまで言われる必要があるんだ。
かたん、と真司の手が家の門に置かれて家に入って行く。しかしその前に、真司は一度動きを止めた。
家の電気がついている。
ああ、そういえば今日は…母が帰ってくる日か。
若干の憂鬱さを感じながら、真司は自宅の扉に鍵を差し込んだ。かちゃりと音を立てながら扉が開く。
反応はない。何故反応がないのか、だいたいの予測はついていた。
「母さん、風邪ひくよ」
真司は部屋に入ってすぐ、テーブルに突っ伏したままの女性の肩を揺すった。
その手に持たれたままのグラスが今の状況を鮮明に表している。一番タチの悪いパターンだ。
「何、帰って来たの?」
「ただいま」
「はぁ…遅いから今日はいないんだと思ったのに。ご飯なんて用意してないわよ」
酒が注がれたグラスを口に運んで、臭い息を吐き出す。今日もどこぞで飲んで帰って来たのだろう。
「あんた、今いくつだっけ?」
「…14、だけど」
「はー。じゃ駄目かしら。もう少し小さければ引き取り手もいたろーに」
「…」
言葉も出ない。真司は泥酔している義理の母親を見下ろしながら、虚しさを含む深いため息を吐いた。
「ああ、じゃあんた、一人暮らしすればいいわ。稼いで安いマンションでも買えば」
「中学生は働けないよ」
「はぁ?稼ぐ方法なんていくらでもあんでしょーよ。あんた、母親に似て顔だけは良いんだし」
長い爪を生やした指が、真司の腕に絡み付いた。
本当に不快でしかない。この女性は真司を自身の子だと思ったりはしない。
あまりに露骨なその態度には、真司も潔く身を一歩引くしかないのだ。
「…水、持ってこようか」
「一丁前に子供面してんじゃないわよ。ほんと、あんたいつまでここに居座る気?」
「……」
今日はいつもより酷い。いつもより、言ってはいけない言葉をずかずかと突き刺してくる。
それは酔っているからなのか、単純にもう限界なのか。
「…」
ふと、赤司の言葉が脳裏に浮かんだ。
帰る場所。今日は試しに家に。欲しいものをあげる。
本当にくれるのだろうか。この場所から解放してくれのだろうか。
「っ!」
真司は思いきり女の手を振り払っていた。そのまま、帰って来た時のままの状態で家を飛び出す。
救いがあるというのなら、欲しいものをくれるというのなら、それを見せてくれ。
赤司の言葉を信じたわけではない。もしかしたら、からかわれただけだったのかもしれない。それでも。
「なん、で、いんの」
飛び出した家の前には赤い髪の毛の少年が立っていて。真司を見て優しそうに微笑んでいた。
「迎えに来たんだよ」
「なん、なんだよ。君は一体どこまで」
「外は寒い。歩きながら話そう」
赤司は真司に手を差し出した。それがあまりにも自然で、真司も無意識にその手を取ってしまった。
手を繋いで歩くなんて、ガキじゃあるまいし。そう思うのに、細い指先は真司を逃さないとでも言うように強く握ってきて。
「…ムカつく。暖かいもん、手…」
「烏羽の為に暖めておいたからな」
「なんで、そんなすんの。俺のこと、何で」
「…気に入ったから。好きだから、でもいい」
好き、とか良くわからない。ただ、その言葉がふわふわしていて暖かいものだということはわかった。
横を歩く赤司を横目に見る。
当然のように真司の家の前にいたが、部活はどうしたのだ。まだ終わっている時間でもないだろうに。
そんなことを考え、怪訝そうにする真司の様子に気付き、赤司はふっと笑った。
「今日は義母が家に帰って来る日だったのだろう」
「は…え?」
「烏羽のことを…夫が愛する女性に似ているからと嫌っている女」
「ちょっと、なんで、それ」
「少し手を回せばすぐに知れることだ」
真司を産んだ母親は若くして他界してしまった。そして父は再婚する。父にやけに執着する女で、その再婚は女の方に押し切られたようだった。
それはもう五年ほど前の話。
そしてその父も亡くなってしまい、女は本性を見せ始めた。
それを知っているのはこの近所に住む一部の者だけのはずなのに。
「烏羽、よく頑張ったな」
「…」
「もう耐える必要はない。オレが守ってあげる」
「おかしいよ、そんなの。赤司君は俺をバスケ部に入れたいだけなんでしょ」
元々面識もなかった。お互いの名前を知っている程度どころか、真司は勝手に赤司征十郎という男に敵意を向けていたというのに。
それでも、赤司は変わらない穏やかな笑顔を真司に向ける。
「その才能が欲しいのと同時に、オレは烏羽も手に入れたくなった。はっきり言うと、烏羽の顔がオレのタイプだったわけだ」
「顔…」
「だからこうして烏羽を知ろうと手を尽くしているんだろう?」
納得は出来ないが、赤司の言うことは決して筋の通らない話ではなかった。
有り得ない、と否定することが出来ない以上、その赤司の気持ちを蔑ろにするわけにはいかない。
それに、結局。赤司の言うことが全て嘘だったとしても、真司に損はないのだ。バスケ部に入部されられることになるかもということを除けば、だが。
「…烏羽」
「わ、かったよ。赤司君に助けてもらうことにする」
「ありがとう」
真司の緩んでいた手に力が入る。手と手はしっかりと繋がっていた。
・・・
初めて踏み込む自分以外の人間の家。
赤司は真司を風呂へと連れていき、その間に着替えやら夕食やら完璧に用意してのけた。
今日は赤司も家に一人だったらしい。他に家族は見当たらない。生活感だけが溢れている。
全て済ませると、赤司は再び真司の手を引いて、今度は自室へと招いた。
綺麗な部屋に赤司の存在は酷く溶け込んでいる。そのせいもあって、真司は無駄に緊張していた。
それに気付いてか、赤司はまた優しげに笑う。
「湯加減はどうだった?」
「あ、え、丁度良かったけど」
「夕食は、口にあったか?」
「ん。美味しかった」
なんだか流されている気がする。それを自覚しながらも、どうしたら良いのかわからなくて、流される他なくなっていた。
二人の間に漂う妙な空気。それに耐えられず、真司は白いシーツを纏ったベッドに頭を預けた。
「もう寝るか?」
「寝れたら…」
「慣れない環境で寝るのは難しいか」
「違う。単純にちょっと不眠症なんだ」
自分の家よりは寝心地の良さそうな環境が揃っている。今頭を乗せているベッドだってふかふかで良い匂いがするし。
それでも目が冴えているのは自宅と変わらない。
「烏羽、ベッドに横になってみろ」
「…ん?」
「早く」
赤い目に見つめられ、真司は素直に赤司の言うまま動いた。
ベッドに乗り、ぽすんと体を横にする。
赤司も続いて同じベッドに乗って来たのは予想外だったが。
「赤司君?」
「気にするな、そのまま寝ていろ。寝れるようにしてやる」
そういうわけにはいかなかった。
赤司は真司に覆い被さるように股がると、真司の目元に唇を落とした。
ちゅっと軽く音を立てて、額やら頬やら首にまで降り注ぐその行為を前に、どうして寝ていることが出来るというのか。
「何してるんだよっ」
「口にもして欲しかったか?」
「違う!」
ひたひたと服の中に伸ばされた手が真司の体を撫で回す。しかしそれは、全く嫌なものでも気持ち悪くもなく、真司の体を熱くさせた。
唇の感触も、全てが慈愛に満ちているようにも思える。
「あ、かしく、」
「愛してあげる、真司」
真司は赤司の肩に置いた手に力を入れた。
真司の足の間を跨ぐようにしていた赤司の足が股間に当たっている。
これも狙ってやっているのだろう。赤司はその足を揺すってわざと股間に擦れるようにしていた。
「あ、足っ、当たって…」
「もう固くなってるな。こういうのは初めてか」
「当たり前…っん、あ、ぅっ…」
きつく目を閉じて背けられた顔から眼鏡が引き抜かれる。かた、とベッドの脇に眼鏡が置かれる音と共に、刺激が真司の体に走った。
下半身から聞こえる水音。
初めての感覚にどうして良いのかわからず、赤司の腕を掴んで止めさせようとする。
しかし、既に真司の手にはほとんど力が入っていなかった。
「大丈夫だ。一度吐き出せば楽になる」
「はぁ、ぁ…!」
「気持ちがいいだろう?恥ずかしがることじゃない」
込み上げてくる射精感に真司の体はびくひくと震え、その手はシーツをきつく掴んだ。
そして途端に襲ってくる疲労感に、真司は大きく息を吐いて目を閉じた。
「そう、そのまま眠りにつくといい」
汚れていない方の手で、赤司が真司を撫でる。額に光る汗をその手で拭い、そのまま目を閉じるよう促され、真司は素直に何も言わず目を閉じた。
熱い体は真司を眠りへと誘っていく。
すぐに、真司は細い寝息を立て始めていた。
「大丈夫…すぐに、皆がお前を愛すだろう」
赤司は眠る真司の頭を撫でながら柔らかい笑みを浮かべていた。
この先の事が見えているかのように、呟かれた言葉はほとんど確信を宿している。
赤司に撫でられている真司は、その相手がついさっきまで気に食わなかった者だとは思えない程に穏やかだった。
・・・
今日も今日とて、真司は一つ後ろの席の男子生徒から熱い視線を送られる。
しかし、それは昨日より嫌じゃなくて。むしろ、早くいつもの言葉を言わないものかとそわそわしていた。
「なー、真司」
「なあに?青峰君」
「昨日はなんつか、悪かったな」
いつもと違う雰囲気に、真司はきょとんとして振り返った。
机に体を預けている青峰の顔は思いの外近くにあって、珍しく青峰を見下ろす形となる。
「赤司がなんかしなかったか?」
「……」
「バスケ部…オレは本当にお前に入って欲しーけど、もう無理は言わねぇことにする」
“なにかした”というフレーズに昨夜のことを思い出して一時停止した真司だったが、決して何かを青峰に知られているわけではないようだ。
今朝、真司が赤司と共に登校したのも彼は知らない。
「青峰君」
青峰の頭に手を乗せて、すすっと撫でる。
朝のチャイムが鳴り響いて、一人二人と席に戻り始めた。
「俺、バスケ部入るよ」
そんな騒がしい教室の中。ぼつりと言った言葉は別の空間で話されたかのように青峰の耳にはっきりと聞こえていた。
ぱっと上げられた顔は真司のすぐ目の前に。
「ま、じで」
「まじまじ」
「…お、おおお!」
「青峰、静かにしろー」
出席取るぞーという教師のお決まりの台詞。
それが、いつもとは違って楽しいものに聞こえたのは、新しい日常が始まることへの期待があったからかもしれない。
真司には朝起きてまず走りに出かけるという習慣があった。顔を洗い、さっぱりした状態で外の空気に触れるのはとても清々しい。
「今日はいい天気だな」
すん、と鼻で冷たい空気を吸い込むと自然に笑みが零れる。
真司はこの解放感が好きだった。この青空の元、ただひたすら走っていることが大好きだった。
だからハードそうな運動部に所属するなんてもってのほかだ。
朝練なんてされた日にはたまったもんじゃない。
「俺は別に誰かの役に立ちたいワケじゃねーの」
振り返って自分の家を見つめる。
勉強していい成績とって、運動でいい記録残して、それでも褒めてくれる人はこの家にいない。
「俺は一人で生きてけるんだから」
ふっと息を吐いてから真司は走り出した。
自分が不幸な人間だなんて考えたことはない。愛されたいなどと欲を抱いたこともない。
今のままで十分だった。
なのに。
「烏羽君よぉ」
「……」
学校に着いて教室に入れば、自分の座るべき席には肌の色が他の生徒と比べて濃い男子生徒。
青峰大輝は全く懲りずに今日も勧誘にいそしむらしい。
「はいはい、バスケ部に入れって言うんでしょ」
「わかってんじゃねーか」
「わかるわかる。だからそっちもわかってんしょ」
「入りません、だろ」
「そーです」
絶対に入らない。流されて入部したって後々後悔するに決まってる。
真司はそれでも退かない青峰に、さすがに苛立ちが込み上げて来ていた。
能力を買ってくれるのは嬉しい。しかしこちらの意見を聞かないこのしつこさは頂けない。
「…青峰君、いい加減に」
「赤司が」
「はい?」
「“勝てないって分かってる勝負は受けもしないのか”ってさ」
青峰はその言葉の向こう側にいる人物の真似をしたつもりなのか、少し鼻にかかった声を出した。
いや、似ているかどうかはわからないのだが。今はその青峰のモノマネの精度はどうだって良かった。
「赤司?…征十郎?」
「おう」
「バスケ部?」
「のキャプテンだぜ」
ぐるぐると青峰の言ったことが頭の中を巡る。
「いや、だって赤司君って俺たちと同じ二年じゃん。なんでキャプテンとか」
「それが認められるくらいスゲェんだろ」
「……」
赤司征十郎。この名前は何度も見かけた。
どんなに良い成績を残しても、必ず上に名前を乗せてくる男だ。
だからどうということもないのだが、真司は相当の負けず嫌いだった。
「…青峰君」
「お?」
「放課後、俺も一緒に連れてけ」
「ハッ、たりめーだろ」
がっと椅子を引いて青峰がようやくそこを退く。
そのまま青峰は一つ後ろの自分の席について、真司を嬉しそうな顔でじっと見つめた。
あまりに嬉しそうにニコニコ笑うから、少し調子が狂う。
「青峰君は…どうしてそんなに俺にバスケさせたいんだよ」
「好きなものって共有したくね?特に好きな奴にはさー」
「…君はいつ俺を好きになったんすか」
「さーな」
曖昧に誤魔化される。
「好き」とかよくもまぁ軽く口に出せるもんだと呆れながらも、真司は少し嬉しそうに口を弧に描いていた。
・・・
放課後。
青峰の後ろを歩く。背の高い青峰の一歩は大きくて、真司は少し小走りになりながら続いた。
でかい背中に長い手足。筋肉ついてがっちがちだし。
真司は青峰の後ろ姿を純粋に羨ましいものだと思った。
こんな阿呆でも、ここまで体育会系として出来上がっているのなら、何の文句も付けようがない。
「なぁ烏羽君よー」
「なあに」
「真司って呼んでい?」
「いいよ」
まだバスケ部に入ると決めたわけではないのだが、まあ呼び方なんてなんでもいい。
ならこっちは大輝君、か。
と頭の隅で考えて、真司は首をぶんぶんと横に振った。違和感通り越して鳥肌が立ちそうだ。
「つかなんで後ろ歩くんだよ。隣来いよ」
「青峰君。俺の身長知ってる?」
「はあ?…165くらいか?」
「そんなにデカくねーんです。だから君の隣は首が疲れんの」
それにいくら青峰が中学男子としてデカ過ぎるのだとわかっているにしても、この身長差はあまりにも。屈辱的だ。
「そっか。お前テツと同じくらいか…それより小さい、か?」
「…?」
「お前顔小さいからデカく見えんだな。足も長ェし」
「君に言われてもなぁ」
自分の取り柄を評価されて、表情には出さなかったものの真司は嬉しくてムズムズしていた。
顔が小さいのも足が長いのも自覚している。自分からそれを言うことは絶対にないが。
「あ、バスケに身長は…ほら、テツとか赤司とか真司と同じくらいだし!」
「何フォロー入れてくれてんだ君は」
ばしっと真司の平手が青峰の背中を打つ。
それをじゃれている程度にしか感じられなかった青峰はけらけらと笑った。
・・・
「やぁ、来たね」
「赤司征十郎…」
既に部員が集まりつつある体育館。
真司は腕を組んで小さい癖にどっしりと構える赤司を見据えた。
「って君?」
「はは、そうだよ。オレが赤司征十郎だ」
二人のやり取りを聞いて、ぽかんとしたのは勿論青峰だ。
「面識ねーのかよ」
「ねーですよ。赤司君のことは名前しか知らないもの」
「そうだろうね」
そういえば、赤司は当初、烏羽真司という名前に同等の学力を持つ生徒、という認識しかしていなかった。
二人の接点、というものは存在していなかったのだ。
ただ、真司にとってはいつも自分の上に名前を乗せてくる相手というだけで。
「それで、俺をバスケ部に入れたいのは青峰君だけじゃなかったんですかね」
「残念ながら、君の情報は集めさせてもらったからね。もう逃げられないと思った方がいい」
「んな大袈裟な」
呆れて苦笑いした真司に、赤司は一歩近付いた。
すっと伸ばされたバスケ部とは思えない程に細く綺麗な指が、真司の胸に触れる。
「お前には才能がある。オレがその才能を活かしてやる」
「なんだか上からだな。俺は君を負かしたいだけなんだけど」
「はは、それは無理だな」
にこやかに笑う赤司に真司の体はぴくりと揺れた。
本当にこいつは、いつだって上にいる。いい加減、こいつより下に名前があるのは嫌だ。
しかし、バスケ部のキャプテンが赤司というのならば、バスケ部に入った時点で真司は赤司の下だということになる。
「あー…やっぱ無理。バスケ部とか俺興味ないです」
「帰る家をあげる」
「……は?」
赤司の言葉は、予想していた言葉のどれにも当てはまらなかった。
何を言いたいんだこの天才バスケ部キャプテンは。そう思ったのは、真司だけではない。
近くで様子を見守っていた青峰も、それに偶然後ろを通りかかって聞いてしまった黒子もだ。
「このバスケ部…そうだな、さすがにレギュラーだけにしておくか。そいつらの家を自分の家だと思っていい」
「お、おいおいおい!赤司、何言ってんだよ」
「なんなら今日、試しにオレの家に来るといい。すぐに必要になる」
「赤司、無視か」
真司の横に並んだ青峰が、ぐいっと体を乗り出す。
まずその意味のわからない話についての詳細と、勝手に人の家を自分のモノかのように差し出したことについての説明を要求したい。
しかし、その青峰の肩は後ろに引かれていた。
「なんだよテツ」
「赤司君に任せましょう」
「いやでも」
「赤司君の言うことが正しくなかったこと、今までありましたか」
「…」
黒子の言葉に、青峰は何も言い返せずに一歩下がった。
確かに、赤司はいつでも正しかった。全て分かっているかのように物事を進める。それに間違いはない。
赤司も黒子の言葉に少しだけ嬉しそうに目を細めて、すぐに真司に視線を戻した。
「烏羽。お前が一番欲しいものをあげる」
「……赤司君、君は俺の何を知ってるっていうの」
「さあ。知らないからこそ歩み寄ろうとしているのかもしれないぞ」
「悪いけど、そんな意味のわからない誘惑にのったりはしないよ」
「そうか。それは残念だ」
真司はくるっと向きを変えて、赤司に背中を向けた。
視界に入るのは、心配そうな顔をこちらに向けている青峰と黒子。
「青峰君。俺のことは諦めてもらうよ」
「…真司」
「また明日」
軽く手を振って体育館を出て行く。
「待…っ」
「青峰」
追いかけようとした青峰を、冷静な声が制止させた。
ゆっくり視線を動かすと、赤司は何ということはない、いつも通りの冷ややかな顔をしてそこに立っている。
「赤司、お前何考えてんだよ」
「彼をバスケ部に入部させること、だが」
「じゃあなんであんな」
青峰はそこまで言うと、言葉を途切れさせた。
赤司はまだ何か企んでいる。まだこれで終わってはいない。
その、口元の笑みと先を見通す赤い瞳が、青峰にそう感じさせていた。
一人で歩く帰路。とぼとぼと足取りは軽くない。
原因は全て赤司征十郎にある。
家だのなんだの、知ったかのようにつらつらと言葉を並べるところも気に食わない。
初対面の人間にどうしてそこまで言われる必要があるんだ。
かたん、と真司の手が家の門に置かれて家に入って行く。しかしその前に、真司は一度動きを止めた。
家の電気がついている。
ああ、そういえば今日は…母が帰ってくる日か。
若干の憂鬱さを感じながら、真司は自宅の扉に鍵を差し込んだ。かちゃりと音を立てながら扉が開く。
反応はない。何故反応がないのか、だいたいの予測はついていた。
「母さん、風邪ひくよ」
真司は部屋に入ってすぐ、テーブルに突っ伏したままの女性の肩を揺すった。
その手に持たれたままのグラスが今の状況を鮮明に表している。一番タチの悪いパターンだ。
「何、帰って来たの?」
「ただいま」
「はぁ…遅いから今日はいないんだと思ったのに。ご飯なんて用意してないわよ」
酒が注がれたグラスを口に運んで、臭い息を吐き出す。今日もどこぞで飲んで帰って来たのだろう。
「あんた、今いくつだっけ?」
「…14、だけど」
「はー。じゃ駄目かしら。もう少し小さければ引き取り手もいたろーに」
「…」
言葉も出ない。真司は泥酔している義理の母親を見下ろしながら、虚しさを含む深いため息を吐いた。
「ああ、じゃあんた、一人暮らしすればいいわ。稼いで安いマンションでも買えば」
「中学生は働けないよ」
「はぁ?稼ぐ方法なんていくらでもあんでしょーよ。あんた、母親に似て顔だけは良いんだし」
長い爪を生やした指が、真司の腕に絡み付いた。
本当に不快でしかない。この女性は真司を自身の子だと思ったりはしない。
あまりに露骨なその態度には、真司も潔く身を一歩引くしかないのだ。
「…水、持ってこようか」
「一丁前に子供面してんじゃないわよ。ほんと、あんたいつまでここに居座る気?」
「……」
今日はいつもより酷い。いつもより、言ってはいけない言葉をずかずかと突き刺してくる。
それは酔っているからなのか、単純にもう限界なのか。
「…」
ふと、赤司の言葉が脳裏に浮かんだ。
帰る場所。今日は試しに家に。欲しいものをあげる。
本当にくれるのだろうか。この場所から解放してくれのだろうか。
「っ!」
真司は思いきり女の手を振り払っていた。そのまま、帰って来た時のままの状態で家を飛び出す。
救いがあるというのなら、欲しいものをくれるというのなら、それを見せてくれ。
赤司の言葉を信じたわけではない。もしかしたら、からかわれただけだったのかもしれない。それでも。
「なん、で、いんの」
飛び出した家の前には赤い髪の毛の少年が立っていて。真司を見て優しそうに微笑んでいた。
「迎えに来たんだよ」
「なん、なんだよ。君は一体どこまで」
「外は寒い。歩きながら話そう」
赤司は真司に手を差し出した。それがあまりにも自然で、真司も無意識にその手を取ってしまった。
手を繋いで歩くなんて、ガキじゃあるまいし。そう思うのに、細い指先は真司を逃さないとでも言うように強く握ってきて。
「…ムカつく。暖かいもん、手…」
「烏羽の為に暖めておいたからな」
「なんで、そんなすんの。俺のこと、何で」
「…気に入ったから。好きだから、でもいい」
好き、とか良くわからない。ただ、その言葉がふわふわしていて暖かいものだということはわかった。
横を歩く赤司を横目に見る。
当然のように真司の家の前にいたが、部活はどうしたのだ。まだ終わっている時間でもないだろうに。
そんなことを考え、怪訝そうにする真司の様子に気付き、赤司はふっと笑った。
「今日は義母が家に帰って来る日だったのだろう」
「は…え?」
「烏羽のことを…夫が愛する女性に似ているからと嫌っている女」
「ちょっと、なんで、それ」
「少し手を回せばすぐに知れることだ」
真司を産んだ母親は若くして他界してしまった。そして父は再婚する。父にやけに執着する女で、その再婚は女の方に押し切られたようだった。
それはもう五年ほど前の話。
そしてその父も亡くなってしまい、女は本性を見せ始めた。
それを知っているのはこの近所に住む一部の者だけのはずなのに。
「烏羽、よく頑張ったな」
「…」
「もう耐える必要はない。オレが守ってあげる」
「おかしいよ、そんなの。赤司君は俺をバスケ部に入れたいだけなんでしょ」
元々面識もなかった。お互いの名前を知っている程度どころか、真司は勝手に赤司征十郎という男に敵意を向けていたというのに。
それでも、赤司は変わらない穏やかな笑顔を真司に向ける。
「その才能が欲しいのと同時に、オレは烏羽も手に入れたくなった。はっきり言うと、烏羽の顔がオレのタイプだったわけだ」
「顔…」
「だからこうして烏羽を知ろうと手を尽くしているんだろう?」
納得は出来ないが、赤司の言うことは決して筋の通らない話ではなかった。
有り得ない、と否定することが出来ない以上、その赤司の気持ちを蔑ろにするわけにはいかない。
それに、結局。赤司の言うことが全て嘘だったとしても、真司に損はないのだ。バスケ部に入部されられることになるかもということを除けば、だが。
「…烏羽」
「わ、かったよ。赤司君に助けてもらうことにする」
「ありがとう」
真司の緩んでいた手に力が入る。手と手はしっかりと繋がっていた。
・・・
初めて踏み込む自分以外の人間の家。
赤司は真司を風呂へと連れていき、その間に着替えやら夕食やら完璧に用意してのけた。
今日は赤司も家に一人だったらしい。他に家族は見当たらない。生活感だけが溢れている。
全て済ませると、赤司は再び真司の手を引いて、今度は自室へと招いた。
綺麗な部屋に赤司の存在は酷く溶け込んでいる。そのせいもあって、真司は無駄に緊張していた。
それに気付いてか、赤司はまた優しげに笑う。
「湯加減はどうだった?」
「あ、え、丁度良かったけど」
「夕食は、口にあったか?」
「ん。美味しかった」
なんだか流されている気がする。それを自覚しながらも、どうしたら良いのかわからなくて、流される他なくなっていた。
二人の間に漂う妙な空気。それに耐えられず、真司は白いシーツを纏ったベッドに頭を預けた。
「もう寝るか?」
「寝れたら…」
「慣れない環境で寝るのは難しいか」
「違う。単純にちょっと不眠症なんだ」
自分の家よりは寝心地の良さそうな環境が揃っている。今頭を乗せているベッドだってふかふかで良い匂いがするし。
それでも目が冴えているのは自宅と変わらない。
「烏羽、ベッドに横になってみろ」
「…ん?」
「早く」
赤い目に見つめられ、真司は素直に赤司の言うまま動いた。
ベッドに乗り、ぽすんと体を横にする。
赤司も続いて同じベッドに乗って来たのは予想外だったが。
「赤司君?」
「気にするな、そのまま寝ていろ。寝れるようにしてやる」
そういうわけにはいかなかった。
赤司は真司に覆い被さるように股がると、真司の目元に唇を落とした。
ちゅっと軽く音を立てて、額やら頬やら首にまで降り注ぐその行為を前に、どうして寝ていることが出来るというのか。
「何してるんだよっ」
「口にもして欲しかったか?」
「違う!」
ひたひたと服の中に伸ばされた手が真司の体を撫で回す。しかしそれは、全く嫌なものでも気持ち悪くもなく、真司の体を熱くさせた。
唇の感触も、全てが慈愛に満ちているようにも思える。
「あ、かしく、」
「愛してあげる、真司」
真司は赤司の肩に置いた手に力を入れた。
真司の足の間を跨ぐようにしていた赤司の足が股間に当たっている。
これも狙ってやっているのだろう。赤司はその足を揺すってわざと股間に擦れるようにしていた。
「あ、足っ、当たって…」
「もう固くなってるな。こういうのは初めてか」
「当たり前…っん、あ、ぅっ…」
きつく目を閉じて背けられた顔から眼鏡が引き抜かれる。かた、とベッドの脇に眼鏡が置かれる音と共に、刺激が真司の体に走った。
下半身から聞こえる水音。
初めての感覚にどうして良いのかわからず、赤司の腕を掴んで止めさせようとする。
しかし、既に真司の手にはほとんど力が入っていなかった。
「大丈夫だ。一度吐き出せば楽になる」
「はぁ、ぁ…!」
「気持ちがいいだろう?恥ずかしがることじゃない」
込み上げてくる射精感に真司の体はびくひくと震え、その手はシーツをきつく掴んだ。
そして途端に襲ってくる疲労感に、真司は大きく息を吐いて目を閉じた。
「そう、そのまま眠りにつくといい」
汚れていない方の手で、赤司が真司を撫でる。額に光る汗をその手で拭い、そのまま目を閉じるよう促され、真司は素直に何も言わず目を閉じた。
熱い体は真司を眠りへと誘っていく。
すぐに、真司は細い寝息を立て始めていた。
「大丈夫…すぐに、皆がお前を愛すだろう」
赤司は眠る真司の頭を撫でながら柔らかい笑みを浮かべていた。
この先の事が見えているかのように、呟かれた言葉はほとんど確信を宿している。
赤司に撫でられている真司は、その相手がついさっきまで気に食わなかった者だとは思えない程に穏やかだった。
・・・
今日も今日とて、真司は一つ後ろの席の男子生徒から熱い視線を送られる。
しかし、それは昨日より嫌じゃなくて。むしろ、早くいつもの言葉を言わないものかとそわそわしていた。
「なー、真司」
「なあに?青峰君」
「昨日はなんつか、悪かったな」
いつもと違う雰囲気に、真司はきょとんとして振り返った。
机に体を預けている青峰の顔は思いの外近くにあって、珍しく青峰を見下ろす形となる。
「赤司がなんかしなかったか?」
「……」
「バスケ部…オレは本当にお前に入って欲しーけど、もう無理は言わねぇことにする」
“なにかした”というフレーズに昨夜のことを思い出して一時停止した真司だったが、決して何かを青峰に知られているわけではないようだ。
今朝、真司が赤司と共に登校したのも彼は知らない。
「青峰君」
青峰の頭に手を乗せて、すすっと撫でる。
朝のチャイムが鳴り響いて、一人二人と席に戻り始めた。
「俺、バスケ部入るよ」
そんな騒がしい教室の中。ぼつりと言った言葉は別の空間で話されたかのように青峰の耳にはっきりと聞こえていた。
ぱっと上げられた顔は真司のすぐ目の前に。
「ま、じで」
「まじまじ」
「…お、おおお!」
「青峰、静かにしろー」
出席取るぞーという教師のお決まりの台詞。
それが、いつもとは違って楽しいものに聞こえたのは、新しい日常が始まることへの期待があったからかもしれない。