リクオ夢(2011.10~2015.03)
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すべてが灰となった空間で、狐ノ依は大きく息を吐き出した。
見上げるのは天高く続く階段。
「急がなきゃ…」
急いで追いついてそれから。それから。
自分に一体どこまで出来るのか考えて、狐ノ依は首を横に大きく振って走り出した。
考えるのは後だ。今はリクオの傍に。
柔らかい尻尾を揺らして階段に足をかける。その背中が、一瞬熱くなった。
「…え」
前のめりになりながら振り返る。
『これ以上先には行かせない』そう低い声を吐き出す黒い妖怪が、狐ノ依の背後に立っていた。
「っ、…!!消えろ…ッ」
赤く染まった黒い手を目にして、狐ノ依は迷わずその妖怪に向けて炎を放った。
触れたそこから燃え広がり朽ち果てたのは、相手が大したことのない妖怪だったからだろう。
「何で、こんなとこで…っ」
リクオのことばかり考えて周りが見えていなかった。
そんな馬鹿げたミス、けれど深く抉られたらしい背中からはぽたぽたと鮮血が滴り続ける。
狐ノ依は一歩進んで、ぎゅっと手を握り締めた。
自分のすべきことは、リクオ達を守る事。戦場に出向かなくたって果たせる役目だ。
それなのにこの階段を最後まで上がろうとするのは、たぶん最後の願いだった。
「…っ、ヤダ…一人で消えるのは、嫌だ…っ」
狐ノ依は塞がらない傷をそのまま、頬に汗をにじませながら一歩一歩階段を上がった。
「リクオ様…ずっと、貴方の傍に…」
そう、当然のように思っていた。
だからこそ見えてしまう望まない未来。
奴良組の跡取りを残すことの出来ない狐、ただの小さな妖狐でしかない自分に気付いた時の絶望。
そんな自分の為に、リクオを失うことになってしまったら。
「リクオ様…」
震える足でもう一歩。遠い門を目指して進む足取りはあまりにも重い。
過るのは、間に合わなかったという最悪の事態。もしも辿り着いた先でリクオが倒れていたら。
「…っ」
狐ノ依はどこまでも続く階段の途中で膝を折った。
「っ、ふ…う、あああ…ッ」
言葉にならない叫びと共に涙がボロボロと落ちる。
そんな願いはちっぽけだ。リクオを思えばどうってことのない事。
自分の願いに蓋をして、畏を解放する。
そう決意した狐ノ依の肩に、とんと手が乗せられていた。
「狐ノ依!」
はっとして顔を上げれば、大きな瞳で狐ノ依を見下ろすイタクがそこに見えた。
「おい、イタク!狐ノ依は無事か!?」
続いて聞こえてきたのは淡島の声。それは少しずつ近付いてくる。
振り返ると、懐かしくも感じる遠野勢が揃って階段を駆け上って来ていた。
「イタクさん、どうして、ここに…?」
「オレ達も戦う、そう思ったからここまで来た。それよりその傷…リクオは?」
「リクオ様は、先に…」
そう言って見上げた階段、さっきまでは遠く感じたそれが今は近くさえ思える。
狐ノ依は驚き引っ込んだ涙を拭い、イタクの手をぎゅっと掴んだ。
「お願い…ボクを、連れて行って…!」
「お前…」
「ボクのことはいいから、早く、リクオ様のところに…!」
イタクの目は一度赤い狐ノ依の背中を映して細められる。
それでもイタクの手を掴み放さない白い手に、イタクは淡島と顔を見合わせ、それから仕方ないと溜め息を吐いた。
「掴まれ」
「あ…有難うごさいます…!」
「い、いいのかよイタク!こいつ、絶対また変なこと考えて…」
「有難う、でも大丈夫です」
イタクに抱きかかえられ、狐ノ依もその首に腕を回す。
遠野勢には、今にも倒れてしまいそうな小さな体が無茶をすることなんて予想出来た。
それでも、それ以上に狐ノ依の目は真剣に鋭くその先を見据えていた。
「リ、クオ様…っ、」
言葉が途切れるのは、痛みのせいか、焦りのせいか。
風に乗るイタクの速さであっという間に頂上が近くなり、また禍々しい畏の気配も大きくなる。
ぴくりと揺れた耳は、小さい主の畏に反応していた。
「おい、下ろすぞ」
イタクの声と同時に、足が地面に着く。
ふらつきそうになりながらも最後の一歩を踏み出すと、魑魅魍魎の先、先頭にリクオが膝を地についているのが見えた。
横にいるのは羽衣狐、二人が支え合うようにしている。
向かい合うのは鵺…安倍晴明だろう。
「あ…っ、狐ノ依…!」
振り返ってこちらに向かってくるつららの瞳は涙で揺れていた。
綺麗な肌にいくつも傷をつくって、握り締める両手は主を思って震えている。
「リクオ様が…!リクオ様の畏が…っ」
「うん、大丈夫、もう大丈夫だよ」
間に合ってよかった。心底そう思いながら、狐ノ依はイタクの傍を離れて両手を広げた。
本当はその腕に抱かれて、直接体に触れてこの力を使いたかったけれど、そんな余裕はないらしい。
それでも良かった。狐ノ依の青い瞳には、しっかりと愛しいその人が見えているから。
「遅くなって…ごめんなさい」
何も出来ないことが悔しくて仕方がなかったはずなのに、今の狐ノ依の心は晴れやかだった。
誰も救えないリクオを、自分なら救うことが出来る。
「…狐ノ依?貴方、血が」
ぽつりと、つららが狐ノ依の立つ足元を見て言った。
そのつららの頬に出来た傷は既に癒えている。それどころか、切り裂かれたリクオの顔も。
「ねえ、どうして狐ノ依の傷は癒えないの…?」
その言葉に、狐ノ依はただ微笑み返した。
癒す為の力の放出。自分を守る為の炎は残っていない。
けれど自分を守りたいなど、ほんの少しも思わなかった。
「つらら…つららもリクオ様を愛しているよね…?」
「え…、何を、あ、当たり前じゃない…」
「うん」
そうだよね、と言うはずの口から零れたのは薄い息だけ。
ぼやける視界の先でこちらを見るリクオに笑みを向けた。
リクオの瞳に映ったのは、生気なく微笑む狐ノ依。
その体から目を疑う程に美しい狐火の舞が、消えかかったリクオの体をも癒している。
「狐ノ依…また、無茶を…!」
「リクオ様…どうか生きて、」
「っ…!」
リクオの声に、狐ノ依の返事は辛うじてリクオの耳に届いただろうか。
力強く刀を握り返して鵺へと立ち向かう小さな主の体に、狐ノ依はとうとう膝から崩れ落ちた。
「狐ノ依…!」
それに対して、狐ノ依の体から溢れる炎は更に大きく無数に広がる。
幻想的にも見える青い炎に、つららは慌てて狐ノ依の肩を掴んだ。
「待って、狐ノ依、アナタ今何を考えて…!」
「ボクは…一番じゃなきゃ、生きていけない」
「何…言って…」
「でも、つらら…ボクは君も大好きだよ」
イタクと淡島と、つららと。
見知った顔が狐ノ依を囲んで何か声を上げている。
そんな聞こえない声など構うことなく、狐ノ依は遠い背中を見つめていた。
「…鯉伴様、…リクオ様…。約束…守れなくてごめんなさい…」
でも、ようやく貴方の元へ行ける。
「ボク、鯉伴様の近くで、眠りたいな…」
鯉伴が愛しい人と共に訪れた場所で。鯉伴の眠る地で。
消えかけた多くの畏が、命が再び動き出す。
その一方で、小さな畏が静かに消えてなくなっていった。
安倍晴明の力で螺旋城が大きく揺れる。
リクオは自分の頬に手を当てて、その手をぎゅっと握りしめた。
「狐ノ依…」
傷、なんてものではなかった。裂かれた体は自分の畏で辛うじて繋がっていたようなものだ。
元に戻っている体に触れて、ぎゅっと祢々切丸に力を込める。
「晴明…還ってもらうぞ…!」
全ての妖怪を纏う、その力はリクオだけでなくその手に握られる祢々切丸の姿をも変えた。
それまで届かなかった刀が、晴明に届く。
百鬼夜行の畏、それが晴明を切裂いた瞬間、戦いは終わっていた。
砂のようにサラサラと消える晴明を見つめるリクオの姿は、少年のものに戻っている。
「…」
肩を下ろして、大きく息を吐き出して。
差し込む日の暖かさを感じながら、リクオはゆっくりと振り返った。
「リクオ様!!終わったんですね!!」
バッと飛び出してくるのは共に戦った仲間達。
飛びつかれてよろけながら、狐ノ依は瓦礫の上に立つ羽衣狐を見上げた。
「…良かった」
皆を救えたんだ。息を漏らして笑いながら、リクオはその目をこちらに来ないつららに向けた。
いつもなら真っ先にこちらに向かってくるはずなのに。
畏を思い切り使い果たしたリクオは、ふらふらと安定しない足取りでつららに近付き、そしてその目にうずくまる狐を映した。
「…狐ノ依、は」
「…っ、リクオ様…」
つららの目からこぼれ落ちる大きな涙。
つららの腕に抱かれている綺麗な薄い青の毛の狐、それが赤く染まっている。
「え…、狐ノ依…?」
「ごめんなさい、リクオ様…っ、私、とめられなくて…!」
戦いが終わったのに、どうしてつららは悲しそうに泣いているのだろう。
そう、認めたくない現実から目を逸らして、リクオはその狐に手を伸ばした。
「狐ノ依…、終わったよ…?狐ノ依のおかげで、ボクは、生きてる」
艶やかな毛並み、なのに触れた手が血に濡れる。
リクオはその手のひらをじっと見つめ、それからその目を大きく見開いた。
「狐ノ依…!」
がくりと膝から地について、胸に狐ノ依を抱き寄せる。
動かない体はまだ暖かいのに、リクオの腕の中でほんの少しも動かない。
「どうして…っ、これからずっと…狐ノ依と一緒に…」
崩れ落ちた螺旋城のその跡地で、新しい妖怪の時代が幕を開ける。
勝利に湧く妖怪達の声。
けれど勝利を導いた奴良組三代目の涙は、声が止むまでそこに溜まり続けた。
自然豊かな地、全てを見渡せる丘の上。
数週間前になるが、妖怪達と共に戦ったその主はそこに立っていた。
畏を使い果たして倒れ、目を覚ましたのは数日前。
ようやく動けるようになって外に出てみると、あまりにも綺麗な景色が広がっていた。
「…半妖の里、か」
眼下に見える景色とそこに馴染む人達に、リクオは無意識にそう呟いていた。
心地よい空気。ここが特別な場所なのだと実感せずにはいられない。
羽織をきゅっと手で握り締め、ふうと息を吐く。
がさりと微かな音に振り返ると、ここにリクオを連れて来てくれた一人の女性が立っていた。
「…良い場所だろう」
「うん。本当に…素敵な場所だね」
黒い目を細めて笑う女性、嘗て羽衣狐だった人だ。
「もう体の調子は良いのか?」
「元々体の傷はなかったから。今まで起き上れなかったのが不思議なくらいピンピンしてるよ」
一度崩れかけた体、けれど戦いが終わった時リクオには外傷の一つもなかった。
起き上れなかった原因は畏を使い果たした、というそれだけ。
この地に来てそれも回復し、もうすぐにでも本家に戻れる状態だ。
「あの妖狐も、それは同じだったよ」
「え?」
「彼に外傷はなかった」
突然声のトーンを下げてそう言った“羽衣狐”に、リクオは目を丸くした。
思い出される赤い背中。この地に来たのはリクオだけでは無い。
「どうして…だって、あんなに血が」
「妖狐を連れているのは…お前だけではないのを忘れたのか?」
「え、え…?じゃあ」
「お前の妖狐の傷は、私の妖狐が癒していた。目を覚まさなかったのはリクオ、お前と同じ理由だ」
リクオは茫然としたまま一歩踏み出した。
失うと思った命、それを奪おうとしたのは、美しい毛を赤く染めたあの傷ではなかったのか。
「死んでも良い…そう思っていたと彼は言った」
“羽衣狐”が続けた言葉に、リクオは吐いた息を震わせていた。
そんな予感はあった。何か余計な事を考えて無茶をする、そう、気付いていたのに先ばかり見て置いていったのだ。
足元に視線を落として、拳をきつく握り締める。
自分には弱音を吐いてくれなかった、けれど“羽衣狐”には本音を漏らしたのか。
「って…それ、いつ…?」
「ん?」
「言った…って?っ、も、もしかして…!」
「フ…ああ、早く行ってやれ」
戦いの後、彼女と彼とがそれを交わす時間など無かったはずだ。
自分が目を覚ましてからも、ずっと細い息を繰り返すだけで開かれることのなかった瞳。
リクオは慌てて足をもつれさせながらも走り出した。
「…リクオ、有難う」
横切る瞬間、聞こえた声に一度振り返る。
優しい母のような声、けれどそこにはもう誰も立っていなかった。
狐からも母からも解放された女性は、自分の家族の元に帰ったのだろう。
「…また、来るからね。父さん、母さん」
見えないけれどそこにいる、父と母に声をかけてリクオは再び前を向いた。
今度こそ、しっかり愛しい者の手を掴むために。
・・・
・・
声が聞こえた気がした。
低くて、柔らかくて、でも子供のような高い声。
狐ノ依は何故か涙を流しながら、いやいやと首を横に振った。
「…どうして拒否する?」
「だって…どうせ、リクオ様の傍に…いられなくなるから」
「どうしてそう思うの?」
「ボクは…あなたの望む存在にはなれない」
いつか結婚して、三代目に続く子供を。跡取りを。
そう望まれる日がくるはずだ。それはきっと避けられない、遠くない未来。
「ボクはただの狐。狐は…強い妖怪にすがりついて、強い狐を残すだけ…」
「それの、何が悪い?」
「悪いです全部全部」
愛しい人と生きたい。狐ノ依の妖狐としての使命は、その純粋な願いを利用する。
「リクオ様の隣にいられないなら…死んだ方がマシです」
伸ばされる手を叩いて、逃れるように背中を向ける。
その背中を、大きな腕が抱き寄せた。
「オレを、殺すのかい」
「え…?」
「狐ノ依のいない世界で生きていけるほど、オレは強くない。ボクは…強くないよ」
二つの声が重なって、揺れる耳に深く入り込む。
「頼むから…いなくならないで、傍に」
「でも」
「誰が否定しても、オレが受け入れる」
決意を揺らがせる声に、狐ノ依は耳を塞ぐことが出来なかった。
本当は望んでいた言葉だ。全て全て、本当はいて良いのだと、貴方に認めて欲しかった。
「それでもダメなのかい…?」
再び耳に触る柔らかい息。
命を吹きこまれるかのような感覚に、狐ノ依はぽろぽろと流れる涙を小さな手で拭った。
「もう、悲しい気持ちになるのは嫌です…っ」
「うん」
「貴方の背中を見ているだけで、苦しくなるんです…」
「うん、ごめんね」
自分を犠牲にすることで全てから逃れたかった。
自分がいなくなっても、リクオの傍にはたくさんの仲間たちがいる。
きっといつか、忘れ去られるのだと。
「…傍に…いたいです」
でも、本当は、本当に、離れたくない。
悲しいのに、苦しいのに、どうしてもここにいたい。
「帰ってこい、狐ノ依」
二つの優しい声が、狐ノ依の体を引き寄せる。
二人の腕に抱かれるように、狐ノ依は真っ白な光の中に包まれていった。
「おかえり」
とん、と軽く頭を撫でるのは、夢で見た大好きな手。
ゆっくりと目を開き、眩しさに目を細める。
見覚えのない景色、匂い。一瞬、ここが天国かと思ってしまうような暖かい光。
「え…あれ、ボク…」
暫く茫然として、ゆっくりと体を起き上らせる。
狐ノ依を見つめる瞳は、すぐそこにいた。
「狐ノ依」
「リクオ様…ここは…?」
「ここは半妖の里だよ。母さんに聞いたの、覚えてる?」
「お、覚えています…あまりにも気持ちが良くて、何だか不思議な感じですね…」
半妖の里、いつかリクオと来るのは自分でないと思っていたのに。
驚きと、それからまだ見えない状況と、居た堪れなさに視線を落とす。
「…本当に、生きているんですね…」
夢ではないかと思った、けれど目の前にいるリクオは確かに狐ノ依の手に手を重ねている。
信じられないという思いから零れた言葉に、リクオの眉がぴくりと揺れた。
「ねえ、狐ノ依聞かせて。狐ノ依の思いは、ボクとの約束以上に、大事なものだったの?」
優しい声なのに、狐ノ依の胸にはグサリと突き刺さる。
きっともう全部気付かれているのだろう、そう予感させる程の重圧を感じた。
「…狐ノ依、ボクは人間としてはまだまだ子供で…そんなに未来のことを考えてなかった」
「え…」
「結婚とか跡継ぎとか…そういうの、これから二人でゆっくり考えていくのも、悪くないと思うよ」
重なっていた手が、狐ノ依の手をぎゅっと握りしめる。
まだ誰にも話していないことなのに。狐ノ依は息を吸い込んだまま動けなくなっていた。
さっきの夢は、暖かな温もりは、本当にそこにあったものだったのか。
「期待しちゃいます…」
「ん?」
「一緒にいたら…きっともっとって、リクオ様が必要になるんです。離れられなくなります」
握られた手に、更に自分の手を重ねて握り締める。
その手をリクオは自分の方へ引き寄せ、狐ノ依の肩を抱き締めていた。
「狐ノ依と引き換えに残った命なんて、なんの意味もないよ」
「…っ、じゃあ、何があっても…ボクだけを選んでくれますか…?」
リクオの鼓動が直接耳に伝わってくる。
無茶を言っていることは分かっている、拒否されても仕方ない事を口走っている自覚はある。
けれど、抑えきれずに狐ノ依はリクオにしがみついた。
「いつか貴方の首を絞めることになっても、ボクだけを」
「狐ノ依がいない未来を、生きるつもりはないよ」
「…」
それを受け止め返してくれる腕。
一度諦めた未来を、もう失うことは出来なかった。
「ご、めんなさい…っ」
「ん?」
「信じられなくて、ごめんなさい…っ」
リクオの背に手を回して、ぎゅっと抱き締める。
言葉も涙も全部リクオに染み込んで、狐ノ依はようやく泣きはらした顔に笑顔を浮かべていた。
「狐ノ依、皆のところに帰ろう」
「…っ、はい…!」
この先どうなるかなんて分からない。
けれど、もう何も怖くなかった。
二人手を繋いで歩き出すのは、皆が待つ家への帰路。
明るい未来を示す道だ。
見上げるのは天高く続く階段。
「急がなきゃ…」
急いで追いついてそれから。それから。
自分に一体どこまで出来るのか考えて、狐ノ依は首を横に大きく振って走り出した。
考えるのは後だ。今はリクオの傍に。
柔らかい尻尾を揺らして階段に足をかける。その背中が、一瞬熱くなった。
「…え」
前のめりになりながら振り返る。
『これ以上先には行かせない』そう低い声を吐き出す黒い妖怪が、狐ノ依の背後に立っていた。
「っ、…!!消えろ…ッ」
赤く染まった黒い手を目にして、狐ノ依は迷わずその妖怪に向けて炎を放った。
触れたそこから燃え広がり朽ち果てたのは、相手が大したことのない妖怪だったからだろう。
「何で、こんなとこで…っ」
リクオのことばかり考えて周りが見えていなかった。
そんな馬鹿げたミス、けれど深く抉られたらしい背中からはぽたぽたと鮮血が滴り続ける。
狐ノ依は一歩進んで、ぎゅっと手を握り締めた。
自分のすべきことは、リクオ達を守る事。戦場に出向かなくたって果たせる役目だ。
それなのにこの階段を最後まで上がろうとするのは、たぶん最後の願いだった。
「…っ、ヤダ…一人で消えるのは、嫌だ…っ」
狐ノ依は塞がらない傷をそのまま、頬に汗をにじませながら一歩一歩階段を上がった。
「リクオ様…ずっと、貴方の傍に…」
そう、当然のように思っていた。
だからこそ見えてしまう望まない未来。
奴良組の跡取りを残すことの出来ない狐、ただの小さな妖狐でしかない自分に気付いた時の絶望。
そんな自分の為に、リクオを失うことになってしまったら。
「リクオ様…」
震える足でもう一歩。遠い門を目指して進む足取りはあまりにも重い。
過るのは、間に合わなかったという最悪の事態。もしも辿り着いた先でリクオが倒れていたら。
「…っ」
狐ノ依はどこまでも続く階段の途中で膝を折った。
「っ、ふ…う、あああ…ッ」
言葉にならない叫びと共に涙がボロボロと落ちる。
そんな願いはちっぽけだ。リクオを思えばどうってことのない事。
自分の願いに蓋をして、畏を解放する。
そう決意した狐ノ依の肩に、とんと手が乗せられていた。
「狐ノ依!」
はっとして顔を上げれば、大きな瞳で狐ノ依を見下ろすイタクがそこに見えた。
「おい、イタク!狐ノ依は無事か!?」
続いて聞こえてきたのは淡島の声。それは少しずつ近付いてくる。
振り返ると、懐かしくも感じる遠野勢が揃って階段を駆け上って来ていた。
「イタクさん、どうして、ここに…?」
「オレ達も戦う、そう思ったからここまで来た。それよりその傷…リクオは?」
「リクオ様は、先に…」
そう言って見上げた階段、さっきまでは遠く感じたそれが今は近くさえ思える。
狐ノ依は驚き引っ込んだ涙を拭い、イタクの手をぎゅっと掴んだ。
「お願い…ボクを、連れて行って…!」
「お前…」
「ボクのことはいいから、早く、リクオ様のところに…!」
イタクの目は一度赤い狐ノ依の背中を映して細められる。
それでもイタクの手を掴み放さない白い手に、イタクは淡島と顔を見合わせ、それから仕方ないと溜め息を吐いた。
「掴まれ」
「あ…有難うごさいます…!」
「い、いいのかよイタク!こいつ、絶対また変なこと考えて…」
「有難う、でも大丈夫です」
イタクに抱きかかえられ、狐ノ依もその首に腕を回す。
遠野勢には、今にも倒れてしまいそうな小さな体が無茶をすることなんて予想出来た。
それでも、それ以上に狐ノ依の目は真剣に鋭くその先を見据えていた。
「リ、クオ様…っ、」
言葉が途切れるのは、痛みのせいか、焦りのせいか。
風に乗るイタクの速さであっという間に頂上が近くなり、また禍々しい畏の気配も大きくなる。
ぴくりと揺れた耳は、小さい主の畏に反応していた。
「おい、下ろすぞ」
イタクの声と同時に、足が地面に着く。
ふらつきそうになりながらも最後の一歩を踏み出すと、魑魅魍魎の先、先頭にリクオが膝を地についているのが見えた。
横にいるのは羽衣狐、二人が支え合うようにしている。
向かい合うのは鵺…安倍晴明だろう。
「あ…っ、狐ノ依…!」
振り返ってこちらに向かってくるつららの瞳は涙で揺れていた。
綺麗な肌にいくつも傷をつくって、握り締める両手は主を思って震えている。
「リクオ様が…!リクオ様の畏が…っ」
「うん、大丈夫、もう大丈夫だよ」
間に合ってよかった。心底そう思いながら、狐ノ依はイタクの傍を離れて両手を広げた。
本当はその腕に抱かれて、直接体に触れてこの力を使いたかったけれど、そんな余裕はないらしい。
それでも良かった。狐ノ依の青い瞳には、しっかりと愛しいその人が見えているから。
「遅くなって…ごめんなさい」
何も出来ないことが悔しくて仕方がなかったはずなのに、今の狐ノ依の心は晴れやかだった。
誰も救えないリクオを、自分なら救うことが出来る。
「…狐ノ依?貴方、血が」
ぽつりと、つららが狐ノ依の立つ足元を見て言った。
そのつららの頬に出来た傷は既に癒えている。それどころか、切り裂かれたリクオの顔も。
「ねえ、どうして狐ノ依の傷は癒えないの…?」
その言葉に、狐ノ依はただ微笑み返した。
癒す為の力の放出。自分を守る為の炎は残っていない。
けれど自分を守りたいなど、ほんの少しも思わなかった。
「つらら…つららもリクオ様を愛しているよね…?」
「え…、何を、あ、当たり前じゃない…」
「うん」
そうだよね、と言うはずの口から零れたのは薄い息だけ。
ぼやける視界の先でこちらを見るリクオに笑みを向けた。
リクオの瞳に映ったのは、生気なく微笑む狐ノ依。
その体から目を疑う程に美しい狐火の舞が、消えかかったリクオの体をも癒している。
「狐ノ依…また、無茶を…!」
「リクオ様…どうか生きて、」
「っ…!」
リクオの声に、狐ノ依の返事は辛うじてリクオの耳に届いただろうか。
力強く刀を握り返して鵺へと立ち向かう小さな主の体に、狐ノ依はとうとう膝から崩れ落ちた。
「狐ノ依…!」
それに対して、狐ノ依の体から溢れる炎は更に大きく無数に広がる。
幻想的にも見える青い炎に、つららは慌てて狐ノ依の肩を掴んだ。
「待って、狐ノ依、アナタ今何を考えて…!」
「ボクは…一番じゃなきゃ、生きていけない」
「何…言って…」
「でも、つらら…ボクは君も大好きだよ」
イタクと淡島と、つららと。
見知った顔が狐ノ依を囲んで何か声を上げている。
そんな聞こえない声など構うことなく、狐ノ依は遠い背中を見つめていた。
「…鯉伴様、…リクオ様…。約束…守れなくてごめんなさい…」
でも、ようやく貴方の元へ行ける。
「ボク、鯉伴様の近くで、眠りたいな…」
鯉伴が愛しい人と共に訪れた場所で。鯉伴の眠る地で。
消えかけた多くの畏が、命が再び動き出す。
その一方で、小さな畏が静かに消えてなくなっていった。
安倍晴明の力で螺旋城が大きく揺れる。
リクオは自分の頬に手を当てて、その手をぎゅっと握りしめた。
「狐ノ依…」
傷、なんてものではなかった。裂かれた体は自分の畏で辛うじて繋がっていたようなものだ。
元に戻っている体に触れて、ぎゅっと祢々切丸に力を込める。
「晴明…還ってもらうぞ…!」
全ての妖怪を纏う、その力はリクオだけでなくその手に握られる祢々切丸の姿をも変えた。
それまで届かなかった刀が、晴明に届く。
百鬼夜行の畏、それが晴明を切裂いた瞬間、戦いは終わっていた。
砂のようにサラサラと消える晴明を見つめるリクオの姿は、少年のものに戻っている。
「…」
肩を下ろして、大きく息を吐き出して。
差し込む日の暖かさを感じながら、リクオはゆっくりと振り返った。
「リクオ様!!終わったんですね!!」
バッと飛び出してくるのは共に戦った仲間達。
飛びつかれてよろけながら、狐ノ依は瓦礫の上に立つ羽衣狐を見上げた。
「…良かった」
皆を救えたんだ。息を漏らして笑いながら、リクオはその目をこちらに来ないつららに向けた。
いつもなら真っ先にこちらに向かってくるはずなのに。
畏を思い切り使い果たしたリクオは、ふらふらと安定しない足取りでつららに近付き、そしてその目にうずくまる狐を映した。
「…狐ノ依、は」
「…っ、リクオ様…」
つららの目からこぼれ落ちる大きな涙。
つららの腕に抱かれている綺麗な薄い青の毛の狐、それが赤く染まっている。
「え…、狐ノ依…?」
「ごめんなさい、リクオ様…っ、私、とめられなくて…!」
戦いが終わったのに、どうしてつららは悲しそうに泣いているのだろう。
そう、認めたくない現実から目を逸らして、リクオはその狐に手を伸ばした。
「狐ノ依…、終わったよ…?狐ノ依のおかげで、ボクは、生きてる」
艶やかな毛並み、なのに触れた手が血に濡れる。
リクオはその手のひらをじっと見つめ、それからその目を大きく見開いた。
「狐ノ依…!」
がくりと膝から地について、胸に狐ノ依を抱き寄せる。
動かない体はまだ暖かいのに、リクオの腕の中でほんの少しも動かない。
「どうして…っ、これからずっと…狐ノ依と一緒に…」
崩れ落ちた螺旋城のその跡地で、新しい妖怪の時代が幕を開ける。
勝利に湧く妖怪達の声。
けれど勝利を導いた奴良組三代目の涙は、声が止むまでそこに溜まり続けた。
自然豊かな地、全てを見渡せる丘の上。
数週間前になるが、妖怪達と共に戦ったその主はそこに立っていた。
畏を使い果たして倒れ、目を覚ましたのは数日前。
ようやく動けるようになって外に出てみると、あまりにも綺麗な景色が広がっていた。
「…半妖の里、か」
眼下に見える景色とそこに馴染む人達に、リクオは無意識にそう呟いていた。
心地よい空気。ここが特別な場所なのだと実感せずにはいられない。
羽織をきゅっと手で握り締め、ふうと息を吐く。
がさりと微かな音に振り返ると、ここにリクオを連れて来てくれた一人の女性が立っていた。
「…良い場所だろう」
「うん。本当に…素敵な場所だね」
黒い目を細めて笑う女性、嘗て羽衣狐だった人だ。
「もう体の調子は良いのか?」
「元々体の傷はなかったから。今まで起き上れなかったのが不思議なくらいピンピンしてるよ」
一度崩れかけた体、けれど戦いが終わった時リクオには外傷の一つもなかった。
起き上れなかった原因は畏を使い果たした、というそれだけ。
この地に来てそれも回復し、もうすぐにでも本家に戻れる状態だ。
「あの妖狐も、それは同じだったよ」
「え?」
「彼に外傷はなかった」
突然声のトーンを下げてそう言った“羽衣狐”に、リクオは目を丸くした。
思い出される赤い背中。この地に来たのはリクオだけでは無い。
「どうして…だって、あんなに血が」
「妖狐を連れているのは…お前だけではないのを忘れたのか?」
「え、え…?じゃあ」
「お前の妖狐の傷は、私の妖狐が癒していた。目を覚まさなかったのはリクオ、お前と同じ理由だ」
リクオは茫然としたまま一歩踏み出した。
失うと思った命、それを奪おうとしたのは、美しい毛を赤く染めたあの傷ではなかったのか。
「死んでも良い…そう思っていたと彼は言った」
“羽衣狐”が続けた言葉に、リクオは吐いた息を震わせていた。
そんな予感はあった。何か余計な事を考えて無茶をする、そう、気付いていたのに先ばかり見て置いていったのだ。
足元に視線を落として、拳をきつく握り締める。
自分には弱音を吐いてくれなかった、けれど“羽衣狐”には本音を漏らしたのか。
「って…それ、いつ…?」
「ん?」
「言った…って?っ、も、もしかして…!」
「フ…ああ、早く行ってやれ」
戦いの後、彼女と彼とがそれを交わす時間など無かったはずだ。
自分が目を覚ましてからも、ずっと細い息を繰り返すだけで開かれることのなかった瞳。
リクオは慌てて足をもつれさせながらも走り出した。
「…リクオ、有難う」
横切る瞬間、聞こえた声に一度振り返る。
優しい母のような声、けれどそこにはもう誰も立っていなかった。
狐からも母からも解放された女性は、自分の家族の元に帰ったのだろう。
「…また、来るからね。父さん、母さん」
見えないけれどそこにいる、父と母に声をかけてリクオは再び前を向いた。
今度こそ、しっかり愛しい者の手を掴むために。
・・・
・・
声が聞こえた気がした。
低くて、柔らかくて、でも子供のような高い声。
狐ノ依は何故か涙を流しながら、いやいやと首を横に振った。
「…どうして拒否する?」
「だって…どうせ、リクオ様の傍に…いられなくなるから」
「どうしてそう思うの?」
「ボクは…あなたの望む存在にはなれない」
いつか結婚して、三代目に続く子供を。跡取りを。
そう望まれる日がくるはずだ。それはきっと避けられない、遠くない未来。
「ボクはただの狐。狐は…強い妖怪にすがりついて、強い狐を残すだけ…」
「それの、何が悪い?」
「悪いです全部全部」
愛しい人と生きたい。狐ノ依の妖狐としての使命は、その純粋な願いを利用する。
「リクオ様の隣にいられないなら…死んだ方がマシです」
伸ばされる手を叩いて、逃れるように背中を向ける。
その背中を、大きな腕が抱き寄せた。
「オレを、殺すのかい」
「え…?」
「狐ノ依のいない世界で生きていけるほど、オレは強くない。ボクは…強くないよ」
二つの声が重なって、揺れる耳に深く入り込む。
「頼むから…いなくならないで、傍に」
「でも」
「誰が否定しても、オレが受け入れる」
決意を揺らがせる声に、狐ノ依は耳を塞ぐことが出来なかった。
本当は望んでいた言葉だ。全て全て、本当はいて良いのだと、貴方に認めて欲しかった。
「それでもダメなのかい…?」
再び耳に触る柔らかい息。
命を吹きこまれるかのような感覚に、狐ノ依はぽろぽろと流れる涙を小さな手で拭った。
「もう、悲しい気持ちになるのは嫌です…っ」
「うん」
「貴方の背中を見ているだけで、苦しくなるんです…」
「うん、ごめんね」
自分を犠牲にすることで全てから逃れたかった。
自分がいなくなっても、リクオの傍にはたくさんの仲間たちがいる。
きっといつか、忘れ去られるのだと。
「…傍に…いたいです」
でも、本当は、本当に、離れたくない。
悲しいのに、苦しいのに、どうしてもここにいたい。
「帰ってこい、狐ノ依」
二つの優しい声が、狐ノ依の体を引き寄せる。
二人の腕に抱かれるように、狐ノ依は真っ白な光の中に包まれていった。
「おかえり」
とん、と軽く頭を撫でるのは、夢で見た大好きな手。
ゆっくりと目を開き、眩しさに目を細める。
見覚えのない景色、匂い。一瞬、ここが天国かと思ってしまうような暖かい光。
「え…あれ、ボク…」
暫く茫然として、ゆっくりと体を起き上らせる。
狐ノ依を見つめる瞳は、すぐそこにいた。
「狐ノ依」
「リクオ様…ここは…?」
「ここは半妖の里だよ。母さんに聞いたの、覚えてる?」
「お、覚えています…あまりにも気持ちが良くて、何だか不思議な感じですね…」
半妖の里、いつかリクオと来るのは自分でないと思っていたのに。
驚きと、それからまだ見えない状況と、居た堪れなさに視線を落とす。
「…本当に、生きているんですね…」
夢ではないかと思った、けれど目の前にいるリクオは確かに狐ノ依の手に手を重ねている。
信じられないという思いから零れた言葉に、リクオの眉がぴくりと揺れた。
「ねえ、狐ノ依聞かせて。狐ノ依の思いは、ボクとの約束以上に、大事なものだったの?」
優しい声なのに、狐ノ依の胸にはグサリと突き刺さる。
きっともう全部気付かれているのだろう、そう予感させる程の重圧を感じた。
「…狐ノ依、ボクは人間としてはまだまだ子供で…そんなに未来のことを考えてなかった」
「え…」
「結婚とか跡継ぎとか…そういうの、これから二人でゆっくり考えていくのも、悪くないと思うよ」
重なっていた手が、狐ノ依の手をぎゅっと握りしめる。
まだ誰にも話していないことなのに。狐ノ依は息を吸い込んだまま動けなくなっていた。
さっきの夢は、暖かな温もりは、本当にそこにあったものだったのか。
「期待しちゃいます…」
「ん?」
「一緒にいたら…きっともっとって、リクオ様が必要になるんです。離れられなくなります」
握られた手に、更に自分の手を重ねて握り締める。
その手をリクオは自分の方へ引き寄せ、狐ノ依の肩を抱き締めていた。
「狐ノ依と引き換えに残った命なんて、なんの意味もないよ」
「…っ、じゃあ、何があっても…ボクだけを選んでくれますか…?」
リクオの鼓動が直接耳に伝わってくる。
無茶を言っていることは分かっている、拒否されても仕方ない事を口走っている自覚はある。
けれど、抑えきれずに狐ノ依はリクオにしがみついた。
「いつか貴方の首を絞めることになっても、ボクだけを」
「狐ノ依がいない未来を、生きるつもりはないよ」
「…」
それを受け止め返してくれる腕。
一度諦めた未来を、もう失うことは出来なかった。
「ご、めんなさい…っ」
「ん?」
「信じられなくて、ごめんなさい…っ」
リクオの背に手を回して、ぎゅっと抱き締める。
言葉も涙も全部リクオに染み込んで、狐ノ依はようやく泣きはらした顔に笑顔を浮かべていた。
「狐ノ依、皆のところに帰ろう」
「…っ、はい…!」
この先どうなるかなんて分からない。
けれど、もう何も怖くなかった。
二人手を繋いで歩き出すのは、皆が待つ家への帰路。
明るい未来を示す道だ。