リクオ夢(2011.10~2015.03)
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倒れる人、逃げていく人。それを見て心がすっきりする。ざまあみろと思う。
それでいいんだっけ。なんとなく疑問が狐ノ依の頭の中を巡った。
妖狐が人間を傷つけたと知ったら、リクオはどう思うだろうか。
奴良リクオの部下が人間を傷つけた、などと噂が広がったら、リクオはもっと苦しむことになってしまう。
それでも、この人間達は狐ノ依を辱めた。
狐ノ依は妖狐の服の中に顔を埋めた。
どうして、こんなに弱いんだ。どうして、役に立つことが出来ないんだ。
こうして狐ノ依が目を背けている今も、人間の怒声が鳴り止まない。
「くそ、数ばっか多くて…邪魔なんだよ…っ」
妖狐の声が少し震えている。
狐ノ依の迷いが妖狐にも移っていたのか、妖狐は人間を殺めてはいなかった。
「そっち押さえろ」
「おら、捕まえたぞ」
「脱がせちまえ」
いくつもの声が近い。
人間を殺さず、妖狐に人間を傷つけさせず、助ける方法はないのか。
今なら人間を簡単にこの手にかけてしまいそうで、それがとても怖い。
リクオに嫌われたくない。
「…っ」
小さく息を吐いた時、狐ノ依の胸の奥がとくんと熱くなった。
熱くて気持ちが良い、この感覚は間違いなくリクオの妖気だ。
「狐ノ依…?」
ぶわっと広がる青い妖気と共に、妖狐の胸に収まりきらなくなった狐ノ依の体が外に投げ出される。
体が宙に浮く。溢れるような妖気に体を預けて、狐ノ依は目を閉じた。
とん、と地に狐ノ依の足がついた時、周りの人間達はぽかんと狐ノ依を見つめて動かなくなっていた。
開いた瞳で見渡せば、同じように妖狐が目を丸くしている様子が狐ノ依の視界に入る。
「あれ…なんで、急に…」
弱り切っていたのに、狐ノ依の体は人型に戻っていて。それに、普段以上の妖気が体を包み込んでいる。
「てめ…なんだよそれ…」
声の方に顔を向けると、妖狐が狐ノ依を見上げていた。
よく見ればその妖狐の服が肌蹴ていて、未遂とはいえ人間が襲った痕跡が残る。狐ノ依はきっと人間達を睨み付けた。
「兄さんに…手は出させない…!」
狐ノ依の言葉に応えるように、妖気がぶわっと辺りを囲い込む。人間達は一人、二人とその場に倒れた。
「え…?」
驚いたのはむしろ狐ノ依自身だ。自分に人間を倒すような力があっただろうか。
思わず息を呑んで動けずにいると、代わりに妖狐が近くに倒れた人間の首に手を当てた。
「…狐ノ依、こいつら寝てるだけだ」
「え、寝てる?」
自分にそんな能力はなかったはず。
確認しようと屈んだ狐ノ依は、自分の背に当たるものがあることに気付いてぱっと後ろを振り返った。
「尻尾…?」
誰かの尻尾が背中に当たっている。くいっと引くと、体に痛みが走った。
「いっ…!え、何これ…!?ボクの!?」
##IMGLU167##
そういえば心なしか声も低いような気がする。
着ている着物も少し豪華に、というより着崩した普段の恰好と比べてしゃんとしていて。
自分の体が別物になったような感覚にぞわっと疼く。
「リクオ様だ…リクオ様が、またお強くなられた…!」
「は?」
「早く、リクオ様の元へ行かなきゃ」
体の変化は、過去に一度だけあった。
リクオが妖怪として覚醒したその時、同時に狐ノ依は人型へと姿を変えた。戦いの中で、リクオは目覚めたのだ。
それと今の状況が一致する。今、リクオは戦いの中で更に強くなったのだ。狐ノ依の体に流れる妖気が、その予想を確実にしている。
「リクオ様が戦ってる…!」
何故だか、リクオのいる方向がわかる。ぽかんとした妖狐の手を引いて、狐ノ依が走り出そうとした。
「待てよ」
しかし、それに抵抗するように妖狐は狐ノ依の手を逆に自分の方へ引いた。
「俺が行かせると思ってんのか」
「行く、行かなきゃ」
「狐ノ依…お前変だ。その姿も、その精神も」
怒っている、というよりは、悲しげな表情。
狐ノ依は目を細めて微笑むと、妖狐の手を優しく包み込んだ。
「ボクは目を開いたその瞬間から、ずっとリクオ様と共にあった。リクオ様はボクの全てなんだ」
「それでも…あいつはお前を守らなかった。お前があいつの為に傷つくことはない」
妖狐の気持ちはとても嬉しい。それでも、狐ノ依が自分の意思を曲げることは出来なかった。
「それで少しでもリクオ様を守れたならそれでいいよ。それに、ボクの体はもうすっかり元気だし」
「そりゃ体は治るだろうさ。でも、てめぇの心に刻まれた傷はどうなる?」
「…心?」
とん、と胸に手を置いて、狐ノ依は心の位置を探った。
傷なら治る。どんな傷も普通の人間、妖怪と比べて何倍も早く癒える。
「大丈夫だよ」
「…」
狐ノ依は納得いかない様子の妖狐の体を抱き上げて、そのまま地を蹴った。
このまま続けていても埒があかないとわかったから。妖狐の目は揺るがなかった。
「ボク、今なら兄さんに負けない」
さっきは無理やり連れて行かれそうになったけれど、今度は力でも負けない自信があった。
体も妖狐より大きくなっているし、妖気だって溢れるほど体を通っている。
妖狐もそれがわかってか、抵抗せずに、悔しそうに舌を打った。
「兄さん、ごめん。ボクはリクオ様の傍を離れたくない」
「もう、いい」
「愛してるから」
「黙れ、知ってるそんなこと…」
妖狐の手が狐ノ依の背中を強く叩いた。どん、と鈍い音が響く。
その痛みをしっかりと受け取りながら、狐ノ依はリクオを感じる地を目指してただただ前を見ていた。
「ま、待ちたまえ…!」
広い道路、人の群れを避けて跳んでいた狐ノ依に向けられた声。
素直に立ち止まった狐ノ依の目には、息を切らしているリクオの友人が映った。
「き…」
思わず名前を呼びそうになって、狐ノ依はそれを飲み込んだ。
清継。彼は狐ノ依が妖怪であることを知らない。
「あの、貴方は…もしかしてあの時の…!」
「…?」
「間違いない…その美しい姿は…」
目を輝かせて、妖怪を語る時の楽しげな表情。清継は今の状況さえも恐怖としていないらしい。
狐ノ依は既に狐の姿に変わっていた兄を肩に乗せ直してから、清継の方へ体を向けた。
「ずっと会いたかったんだ、再び貴方に!」
「…ボクに?」
「あぁ!貴方は声まで美しいのですね!」
声と言われて、狐ノ依ははっと口を押さえた。毎日のように学校で顔を合わせていたんだ、どこでバレるかわかったものじゃない。
…あれ、だったら顔でバレてもおかしくない。
「あ…」
そうか、今は姿も声もいつもと違っているんだ。
どの程度変わっているのか自分ではわかりかねるが、清継にはバレていない。
大丈夫なのだと信じて、狐ノ依は口から手を外した。
「君は、どうしてこんな危ないところに?」
「ボクは闇の主を探しているんだ!」
「闇の主…」
闇の主とは、恐らくリクオのことだろう。狐ノ依は胸がざわっとするのを感じた。
奴良リクオが妖怪であるという噂が広まってしまった今、清継も知っているのかもしれない。
リクオの為には、隠すべきか。迷う。
「…何故」
「彼を撮るためだ」
「…何の為に」
「真実を明らかにするためだ!」
清継の真っ直ぐな目が狐ノ依を惑わせる。
清継は元々嫌いな人間で、しかも人間が大嫌いな存在になったばかりだ。
「君は、どっちの人間なんだろう。ボク等を苦しめる…?リクオ様を殺める…?」
「世間では奴良くんが悪者になってる。でも、彼はボクの友達なんだ」
「リクオ様を信じてくれる…?」
「当然だ!奴良くんがこんなことするはずがない!」
すっと心が軽くなった。
嫌いとか、今そんなことはどうだっていい。
狐ノ依は、清継の手を取ってぎゅっと握りしめていた。
「有難う…。その言葉が何よりも、リクオ様を救うものだ」
柔らかく微笑んで、その手をそっと放す。
狐ノ依にとってリクオが一番の存在であっても、リクオは違う。
リクオは妖怪であり人間。妖怪である狐ノ依は今のリクオの支えにはなれない。今のリクオには清継のような…信じてくれる人間が最も必要な存在だ。
わかっているからこそ、狐ノ依はその手を放した。
「ごめんね、ボクは…それでもリクオ様の一番でありたい」
「え…」
「気を付けて」
「あ、ちょっと!」
制止する声を聞かず、狐ノ依は清継に背を向けた。
ずるいと思われてもいい。今この場に清継を置いていくことがどれほど危険かわかっていながら、狐ノ依は連れて行こうとは思えなかった。
「ボクは、君が嫌いだから」
「…!」
とん、と高く跳び上がる。清継がついて来ることはないだろう。というより不可能だ。
狐ノ依は肩に乗せていた妖狐を手に抱いて、その頬に自分の頬を寄せた。
「ボクは卑怯かな」
「…」
「今ボクは、リクオ様の意思よりボクの意思を選んだ」
「…」
「兄さんは、それでいいって言ってくれるかな…」
何も言わない狐が、狐ノ依の頬を小さく舐めた。
本当はリクオが人間なんて嫌ってしまえば良いと望んでいる。自分を汚した人間達のことを話して、嫌って、憎んで欲しい。慰めて欲しい。
まだ体に残る生々しい感触を、リクオの手で消しとって欲しい。
リクオの望まないことを望んでいる。
リクオの言葉が絶対、リクオの意思が自分の意思。そんなのは嘘だ。
本当は、リクオに自分だけを見て欲しかった。
「兄さん…心の傷、痛いや」
ずきずきと、胸の痛みは治らなかった。
・・・
リクオは百物語組幹部の一人「骨」である雷電と闘っていた。砕けて消え去った一帯。そこに残るのは雷電ではなくリクオだった。
リクオが押されているように見えていたのも束の間。畏を「守り」から「攻め」にして圧倒的な攻撃力を手に入れたリクオは、一瞬で空いてを粉々にした。
「リクオ様、そのお姿は…」
その闘いを見ていたつららとカナは、茫然とリクオを見ていた。
見た目にも変化があるが、その雰囲気も普段と違っている。
「リクオ様いつもと違い過ぎですよ!髪型とか!いつものスカした感じのリクオ様じゃないです!」
「スカした感じって何だよ!まあ…ちょっとくらい攻撃的に見えっかもな」
ニッと笑うリクオの表情は確かに攻撃的、というか不良っぽい雰囲気がある。そして髪型は重力に従って、さらりと流れている。
「…倒したのはいいが赤点だな」
「イタク!」
全員が突然その場に現れたイタクの方に顔を向けた。
イタクはリクオに刀を投げて渡すと、それを見ろというように顎をしゃくる。
「あっ…いけね、こりゃあ駄目だ」
リクオもその自分の刀を見て苦く笑った。その刀はもう幾分ももたないだろう。それほどにヒビが入り、ぼろぼろになってしまっていた。
「てか、見てたなら助けろよ」
「お前を助ける義理などない!」
リクオの、この技を習得するに至らせたのはイタクだった。そもそもイタクの鬼憑をヒントにしてあみ出したものだ。
リクオとイタクが言い合うのをつららは何も言わずに見ていた。
また知らぬ間に二人が親しくなっていることに多少悔しさを感じながら。
そこに、大きな羽音が近付いて来て、リクオとイタクはばっと振り返った。
「リクオ様、ご報告です!」
「黒羽丸!?」
降り立った黒羽丸はすぐにそこに膝を着き、そして焦った様子で話し始めた。
「ただいま渋谷駅を中心に妖怪が大量出没中!繁華街を埋め尽くす妖怪に襲われ、人間達は大パニックです!」
「何!?」
「現地に入った奴良組組員の情報によりますと、まるで渋谷から…妖怪が生まれているかのようだ、とのこと」
一瞬でリクオの顔が険しくなった。その横に立つイタクも何か感じた様子で、真面目な表情に変わる。
「百物語…そこで誰かが産んでるってことか」
百物語組の妖怪の増やし方は既に知っている。止めなければいつまでも妖怪は増え続けるだろう。人間を巻き込みながら。
「行くぞ!次は渋谷に向かう!」
真っ先にリクオが動き出した。それにつららが続く。嫌な顔をしてみせたイタクも付いて来てくれるようだ。
しかし、何故か黒羽丸が何かまだ言いたげに顔をしかめている。
「…黒羽丸、どうかしたか」
「いえ、もう一つ…ご報告しなければならないことが…」
「なんだ?」
少しも時間を無駄に出来ないというのに、それをよくわかっているはずの黒羽丸の歯切れが悪い。
開いては閉じる、それを何度か繰り返してから、黒羽丸はようやく決心してリクオの顔を見た。
「狐ノ依殿が襲われました」
大きく見開かれたリクオの目。それを見た黒羽丸はリクオから顔を逸らした。
黒羽丸の頭に刻まれた狐ノ依の痛々しい姿、それを説明する言葉が何も浮かばない。
「それにより…狐ノ依殿は意識を失い、今は妖狐殿に任せています…」
「無事、なんだな…?」
「命に別状はありません」
「百物語組か」
「…判断出来かねます」
命に別状はないとはいえど、黒羽丸の様子から相当良くないことが起こったということくらいわかる。
リクオは今すぐ狐ノ依の元に行きたいのをなんとか抑えていた。そして、あの場に狐ノ依を置いて行ったことを後悔した。
あの状況から狐ノ依が襲われたとするなら、相手は人間である可能性が高い。狐ノ依より体の大きい男が多かったように思える。
「…黒羽丸、もしかして襲われたってのは…」
暴行か、それとも。言葉に出すのも躊躇われて、リクオはそこで言葉を途切れさせた。
黒羽丸には、リクオの考えていることがわかったらしい。眉をひそめてきつく目を閉じている。
「…見るに耐えない状況だった、とだけ伝えておきます」
「そうか、悪かったな」
「いえ、すぐに発見出来ず…」
重苦しい空気が辺りを包む。イタクとつららも何か察したのか、俯いて何も言わなかった。
「あ、あの…狐ノ依くん?って…」
ぽつりと言葉を発したのはカナだ。
黒羽丸が言った内容がカナにも聞こえてしまっていた。
「狐ノ依くん、襲われたの…?」
ふわりと浮く蛇のような体をした妖怪の上に乗ったままでいるカナは、上目使いにリクオを見つめた。
眉を下げて泣きそうになっているカナの頭をリクオが撫でる。
「…カナ、大丈夫だ。お前はオレの後ろにいろ」
今はどこにいても危ない。狐ノ依が襲われたというのもある。
妖怪が暴れているというのもそうだが、この騒ぎの中、人間もどさくさに紛れて悪さを仕出かすかもしれない。
「え、リクオ様。家長さんも連れて行くんですか!?」
「あぁ。駄目か?」
「…」
気に食わない。しかし、リクオから離れた方が危険であることは確かだ。
狐ノ依も、リクオから離れたせいで襲われた。そしてそれを促したのはつららだった。
頭が上がらない。つららは仕方なくカナがついて来る、ということを認めるしかなかった。
「…は」
息のような声のような。
微かに聞こえた息遣いにリクオは勢いよく振り返った。
「狐ノ依…!?」
その声に、場にいた全員がそちらに目を向ける。そして、違和感を感じた。
「狐ノ依…?だよな」
リクオが近付いてその頬をなぞる。ゆっくり顔を上げたその青い狐の妖怪は、確かに狐ノ依だった。
何故か体の大きさが今のリクオと変わらなくなっていて、大きな尻尾が揺れているが。
「狐ノ依、声を聞かせてくれ」
「…」
「狐ノ依、体は大丈夫なのか?」
「…」
「狐ノ依…?」
何も言わない狐ノ依の目は、しっかりとリクオを見ていた。
リクオ達にとって狐ノ依が立派な姿になっている、と思うのと同じように狐ノ依もリクオをそう思う。
あぁ、この人はまた力を付けたのだ。素敵なお姿だ。
それを伝えたい、抱き着きたい、そう思うのと同時に黒い心が湧き上がる。
「…リクオ様、こそ…体は、大丈夫ですか…?」
「狐ノ依、良かった。狐ノ依…」
声を聞いて安心したのか、リクオが狐ノ依をきつく抱きしめる。
それをも、黒羽丸は不安そうに見つめていた。あれほど酷い状況に見舞われたのだ。既に立ち直っている、なんてことは有り得ない。
「…放して下さい」
狐ノ依の声が、リクオの胸に沈んだ。
「狐ノ依?」
「近付かないで下さい…」
とん、と狐ノ依の手がリクオを押し返す。
リクオを押す程の力などその腕には無かったが、それに従ってリクオは少し後ずさった。
「どう、したんだ?どこか痛むのか?」
「いえ。違うんです、違う…」
狐ノ依に伸ばした手は、狐ノ依の肩に乗っていた狐によって噛まれていた。鋭い痛みが体を伝う。
いつもなら狐ノ依は妖狐を怒っただろう。
しかし、狐ノ依は何も言わなかった。
さらっと不気味な風が通り過ぎていく。
リクオは噛まれた手を引込め、茫然と狐ノ依を見つめていた。
「…駄目なんです、今…ボクはリクオ様に、酷い事を言う」
「っ、言ってくれ。言ってくれなきゃわかんねぇ」
「リクオ様の思う通りに、動けない…」
普段より高い位置にあるせいで、狐ノ依が少し俯いてもリクオから表情が読み取れた。
泣きそうなのかと思ったら、そうではなかった。
どちらかと言えば…怒りが見える。
「…狐ノ依殿、無理はいけません」
黙り込んだ二人の空気に耐えられず、黒羽丸が狐ノ依に近付く。
「今なら本家へ、自分が」
「それは駄目だ。狐ノ依も連れて行く。ついて来るだろう、狐ノ依?」
「…はい」
狐ノ依は迷っていた。
リクオの為に自分がするべき行動と、自分が本当に思う気持ちと。
「では…案内します」
黒羽丸は未だ不安そうだが、向かうべき方へと目を向けた。
イタクが狐ノ依を引き寄せて、リクオとの間に入る。つららも心配そうに狐ノ依を見上げた。
そしてカナは。そう呼ばれる人物と、自分の知っている人物があまりに重ならなくて唖然としている。
「狐ノ依くん、なの?」
「…」
「すごく綺麗」
「…ふ、…君ほどじゃないよ。ボク、さっきまで酷かったんだから」
「…?」
妖狐が狐ノ依の頬を小さな手で叩く。はっとして口を塞いだが、もう手遅れだった。
イタクとつらら、それからリクオまで目を丸くして狐ノ依を見ている。
リクオを見つけた瞬間見えた、カナの姿。
自分が酷い目に合っている間、リクオはカナと共にいたのか。そう思った瞬間に頭が熱くなった。
自虐と嫉妬とリクオへの絶望。
そんなことを思ってしまう狐ノ依はやはり、強姦されたことで不安定になっていた。
「酷かったって…大丈夫なの…?襲われたって」
「…あ、はは…ボク、って自己治癒力すごいから、全然平気なんだよ」
なんとか笑顔を作る。
「狐ノ依、ごめんね、私が」
「なんでつららが謝るの?つららがずっとリクオ様に守られてたからって、ボクは全然…」
ふわっと肩から降りた妖狐の手が狐ノ依の口を塞いだ。
目の前に現れた妖狐の顔は、酷く悲しげに歪められている。
「もう十分だろ…こんなの、俺は見ていられねーよ」
「兄さん…?」
見渡せば、皆が妖狐と同じような顔をしていて。
狐ノ依はまた自分の本音が漏れていたことに気付く。
違う、こんなこと言いたいんじゃなくて。強くなった体で、リクオと一緒に戦う為にここまで来たのに。
「ちが…ボク大丈夫なんです本当に!急いでいるんですよね!早く行きましょう!」
「狐ノ依」
「あ、リクオ様、とても立派なお姿で驚きました!闘っているところも見ていたかった…」
黒羽丸が目を開いたまま動かないリクオの横に立った。
時間をかけ過ぎた。一刻の猶予もないことを今更ながらに焦る。
今の狐ノ依は大人しくさせて置いた方が良いかもしれない。
しかし、カナを連れて行くと言ったのに、狐ノ依を置いて行くと言ったら増々傷つけることになる。
「リクオ様…とにかく今は…狐ノ依殿も一緒に」
「っ…」
「心情はお察しします…しかし」
「わかってる」
自分を責めている場合ではないのだ。
狐ノ依をこんな風にした、だからこそ百物語組を早く倒さなければならない。
「…行くぞ!」
その声に皆の視線は狐ノ依からリクオに移る。
ぴりっとした空気に戻って、狐ノ依を見るのは妖狐だけとなった。
少し高い位置にある狐ノ依の頬を引く。
「いッ…!兄さん?」
「妖狐はてめぇだからな」
「はい…?」
頬を抓った手を降ろして、そのまま狐ノ依の背を押した。
妖狐はついて来ないのだとわかり、一度振り返ってからリクオの後を追いかける。
その背中はまだ頼りなく揺らいでいた。
・・・
どこまで行っても続く地獄絵図。人が妖怪に喰われていく光景が広がっている。
狐ノ依は狐の姿に戻った状態でリクオの肩に乗っていた。
これからリクオは人間を助ける為に妖怪を倒しに行く。
今までもそうして来た、リクオのする行動として当然のこと。
それが、今の狐ノ依にはわからなかった。何故人間を助ける必要があるのか。
湧き上がりそうになる黒い感情をなんとか押さえ込んで、リクオの首に縋りつく。
「狐ノ依…絶対に、もうお前を傷つけたりはしねぇからな…」
先ほどから、リクオは繰り返し同じようなことを呟いた。
自分が置いて行ったことで狐ノ依を酷い目に合わせた、その事実にリクオも相当精神的に追い詰められている。
本当は狐ノ依にかけたい言葉がたくさんあるのに、どれを言ったら狐ノ依をこれ以上傷つけずに済むのか。
「狐ノ依…」
リクオが掠れた声で狐ノ依を呼ぶ。
それで少し救われた気持ちになるのは、リクオを愛しているからだ。
狐ノ依は泣きそうになるのを堪えて目をきつく閉じた。
その時。
「な、夏実ィィ…!」
聞き覚えのある声に狐ノ依の体がびくりと震えて、リクオも体の向きを変えた。
高いデパートの前に群がる無数の妖怪。その中心にいるのは、リクオのクラスメイト、巻と鳥居だった。
図体の大きな男の姿の妖怪が鳥居の腕を掴んでいる。
直ぐにリクオは刀を鞘から抜いて鳥居に襲いかかっている妖怪に向かって行った。
「てめぇか、妖怪を産みだしてるって奴ぁ」
鳥居に掴みかかっていた妖怪の腕を切り落とし、その手から救い出す、までは良かった。
しかし、その妖怪は。
「…君は、奴良リクオ」
なんともないという顔を浮かべて、にやりと笑い、その視線をリクオの肩にいる狐ノ依にも向けた。
「妖狐の君も一緒か、嬉しいよ」
「…っ」
狐の毛がぞわっと逆立った。
描くことで妖怪を産みだす者、その妖怪は百物語組幹部の一人「腕」…鏡斎。
「あの日よりも…ずいぶんと美しい狐になっているね」
一度囚われていたからか、体がやけに反応する。
狐ノ依は我慢出来ずに、人型へと姿を変えてリクオの前に出ていた。
「おい、狐ノ依!?」
「ふーっ…」
狐ノ依の口から威嚇しているかのような息が漏れる。
いつもより高い位置にある狐ノ依の顔を見つめながら、リクオは違和感を感じていた。
「見た目も心も…妖怪らしく染まりきっているね。何かあったのかな」
それは、鏡斎にも同じように映っていた。
「今の君なら…完全に取り込めそうだ」
「っ、狐ノ依…下がれ」
リクオの手が狐ノ依を後ろへ引く。
鏡斎は一瞬不快そうな顔をしてから、また口元に笑みを浮かべた。
「丁度いい。今、君の知り合いを使って妖怪を作ったとこなんだよ」
「何…?」
「君にふさわしい敵だ…。ようこそ、地獄絵図へ」
そう鏡斎が言うのと同時に、鳥居の体がゴゴゴ…という不気味な音を立てて変形し始める。
リクオが驚いて目を見開いているうちに、鳥居の姿は無くなり、大きな妖怪に変わっていた。
リクオはさっきまで鳥居だった妖怪と対峙していた。
なかなか手を出すことが出来ないのは、その妖怪が鳥居だと知っているから。
「夏実ぃ!何やってんだよぉおっ」
後ろでは巻が涙を流しながら大きな妖怪に訴えかけている。
リクオも何度か鳥居の名を呼んだが無駄だった。鳥居の意識はなくなっているらしい。
「さ、狐の子、こちらへおいで」
鏡斎はリクオが鳥居の相手をしていることをいいことに、狐ノ依に手を差し出した。
普段ならこんな呼びかけに狐ノ依が反応するはずがなく、心配する必要などないことなのに。今の狐ノ依には何をしでかすかわからない不安定さがある。
リクオは振り向きながら、小さく舌打ちをした。
「ちっ…つらら、狐ノ依を頼む…!」
「えぇ!?」
つららは襲われそうになっている人間を庇いながら妖怪と闘っていた。
辺りは妖怪だらけなのだ、狐ノ依を見ている余裕などない。
「君は迷っているんだろう。自分の敵が人間であるのか、妖怪であるのか」
「う…っ」
「かわいそうに…人間に凌辱されたんだね」
鏡斎の言葉に、狐ノ依の動きが完全に止まった。鏡斎が手を伸ばしてその頬に触れる。
狐ノ依はその手を振りほどかなかった。
「悩む必要などない。君は妖怪だ」
「ボク、は…」
「元々妖怪は人間と相容れない存在だ。何が敵かなんて考えるまでもない」
「あれ、…そっか…」
急に、どうして悩んでいたのか不思議なくらい合致がいった。
そうだ、人間が敵。自分を痛めつけた人間が敵でなくて何が敵なのか。
「狐ノ依!聞くな!」
「そういう奴良リクオ…君もたくさん殺してきたんだろう…?」
「何?」
鏡斎はゆっくりとリクオの目の前にいる大きな妖怪、鳥居だったものを指さした。
「それも、君がこの街で今まで斬ってきた妖怪も同じ…。皆、オレが妖怪に変えた女さ」
「なんだと…?」
今度はリクオの手が止まる。
しかし、狐ノ依は安心したような笑顔を浮かべてリクオを見ていた。
「リクオ様も、汚らわしい人間を消してくれていたんだ」
「そうだよ」
鏡斎が狐ノ依の頭を優しく撫でるのを、あろうことか狐ノ依は嬉しそうに耳を揺らし、鏡斎に笑い返した。
そんな異様な光景を背後にして、つららは目の前にいる無数の妖怪を倒しながら、どうしたらいいのかを必死に考えていた。
リクオは恐らく戦えない。人間だったものを、リクオは倒すことが出来ないだろう。なら、少しでも自分が動きを止めるしかない。
「…わかった、鳥居だってことは忘れる」
「え…!?」
しかし、リクオは一撃で辺りを囲んでいた妖怪達を斬り殺していた。
そして、鳥居にも刃を向ける。リクオの刀に畏が集まった。
「なつみィィィ!!」
巻の叫び声が響き渡る。
それでも、リクオはためらうことなく鳥居であったものを真っ二つに斬ってしまった。
「友が殺し合う…これが地獄絵図というものだろう。すばらしい」
「そいつぁーどうかな…」
リクオが不敵に笑う。
先ほど倒した無数の妖怪の居た場所には、妖怪にされた女性たちがうずくまっていた。
「何…?」
それは同じように鳥居も。妖怪がいた場所から、鳥居が戻ってきていた。
リクオは畏を断って、妖怪の部分だけを斬る、ということに成功していたのだ。
リクオは落ちてきた鳥居を抱き留めた。
鳥居の息はちゃんとある。安心してほっと息を吐くと同時に、こちらに向く視線に気付いてリクオは顔を上げた。
「…リクオ様、どうしてですか」
「狐ノ依」
狐ノ依が鏡斎の手から離れ、リクオに近付いた。
やはり様子がおかしい。その目は怒りや悲しみを渦巻いて歪み、リクオの腕に抱かれている鳥居を睨んでいた。
「どうしてリクオ様は…人間を庇うのですか」
「…狐ノ依」
「ボクは…ボクは人間を許せない。ボクは人間の為には戦えない」
「聞け、狐ノ依」
リクオは鳥居をゆっくり地面に降ろすと、その手を自分の胸に置いた。
「オレだって、許せねぇよ」
「…え」
胸に置いた手をきつく握り締め、リクオは歯を食いしばった。
本当は、ずっとこの怒りを抑えていたのだ。
愛する狐ノ依が一体何をされたのか、黒羽丸の様子を見れば想像は出来る。
そして、その想像はあまりにも信じがたいもので、許されないものだった。
「狐ノ依、お前に触れた奴等が許せねぇ。本当は今にもぶん殴ってやりてぇ」
「なら」
「だがな、それはオレの個人的な思いだ。オレは今、奴良組三代目としてやらなきゃなんねぇ事がある」
リクオは爪の食い込んだ手を緩め、狐ノ依に伸ばした。そのまま狐ノ依の頭を抱き寄せ、自分の胸に寄せる。
視線の先には、百物語組の幹部、鏡斎。
「狐ノ依、オレが好きかい」
「…はい」
「人間のオレは嫌いかい」
「そんな、…」
「じゃあ、そこにいる鳥居は、巻はどうだ」
「…」
狐ノ依の目が揺れた。
嫌いなわけがない。
「人間にも良い奴と悪い奴がいる。妖怪と同じように」
「…はい」
「今オレは、悪い妖怪であるあいつらを倒さなきゃなんねぇ。わかるな」
「はい」
迷っていた狐ノ依の声が、今度はしっかりと返事をした。
ゆっくりと狐ノ依を抱いていた手を放すと、狐ノ依は申し訳なさそうに眉を下げてリクオを見つめている。
よく知った狐ノ依の顔だ。
「もう大丈夫だな」
「はい…すみませんでした、リクオ様」
「よし」
リクオが視線をそらさずに鏡斎へ刀を向ける。
不服そうにこちらを見ていた鏡斎だったが、まだ何かあるようで変わらない笑みを浮かべてみせた。
まだ始まったばかり。まだ終わらせない。
「狐の子は後で構わないさ…オレは奴良リクオ、君をずっと描きたかった」
「何…?」
それだけ言うと、鏡斎はそこから姿を消していた。
まだ終わっていない、それがわかっているからか、狐ノ依は頬につたう冷や汗を拭った。
嫌な予感がしてならない。
そして、その予感はすぐに的中する。
「う…ぐ…」
リクオが急に苦しみ出し、その場に崩れ落ちた。
「っリクオ様!?」
肉が焼けるような臭いがリクオから放たれる。リクオの体は焼かれているかのように黒く、朽ちていった。
それは、鏡斎が描く通りにリクオに影響する、呪い。
九相図…人が死体となり、腐り、骨となるまでを描いた九枚の写実絵。一枚、二枚と鏡斎が描けば描く程、リクオは朽ち果てて消えていく。
「と、止めなきゃ…!」
「狐ノ依、リクオ様をお願い!」
「え!?」
つららは既にどこにいるかも知れない鏡斎めがけて走り出していた。
「リクオ様は私が救う!」
「っ、」
その決意の込められた言葉を聞いて、狐ノ依は追いかけようとして踏み出しかけた足を止めた。
ずきずき痛む胸を押さえて、苦しそうにしているリクオに近寄る。
今まで散々迷惑をかけてきた。
結局、役に立つようなことなど出来た例がないのに、今更でしゃばる事なんて出来ない。
「せめて…リクオ様の痛みを少しでも和らげるくらいは…」
黒ずんだリクオの体に触れようとすると、体に鋭い痛みが走った。
リクオが受けている呪いは、触れることでこちらにも影響するらしい。
「あ…はは、リクオ様と同じ痛みを感じられる…。そんなの、全然苦痛じゃない」
狐ノ依はリクオの体をその身に抱き込んだ。
黒が浸食してくる。痛みと共に、自分が朽ちて行くような感覚に襲われる。
「…っ、こんなの、リクオ様以外の男に抱かれたことに比べたら、痛くもかゆくもない…ッ」
死ぬよりも辛い苦痛は既に現実で味わった。
今になって、狐ノ依の目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
「リクオ様ぁ…」
じわじわと体が黒くなっていく。意識が朦朧としていく。
それでもいい。
狐ノ依は目を閉じて、リクオと同じ呪縛の中に包まれていった。
「狐ノ依くん!」
…はずだった体は、細い腕に引っ張られていた。
「え…」
「狐ノ依くん、なんでしょ!?」
引きずり出されて、まだ侵されている痛みに歪ませながら顔を上げる。
覗き込むようにして顔を近付けているのは、鳥居と巻だった。
「…狐ノ依くん、妖怪だったんだね」
鳥居が躊躇っているのがわかる。しかし、その目は嫌悪でも敵視でもなく、優しそうに細められていた。
「この黒いの何?大丈夫なの…?」
「夏実!やばいって、来てる来てる!」
気付くと、そこは既に新しく来た妖怪に囲まれていた。
ほとんど狐ノ依達は追い詰められている。そしてここには、リクオもいる。
今ここで闘えるのは、狐ノ依だけ。
「…鳥居さん、巻さん、ボクが、怖くはないの…?」
「え?」
「妖怪だよ、君達を襲った奴等と同じ妖怪だよ」
鳥居がきょとん、と首を傾げる。巻はじれったそうに足をばたつかせた。
「そんな綺麗な姿しといて、何が怖いんだっつの!」
「狐ノ依くんは友達じゃん。怖くなんてないよ」
二人には下心とか、妙な企みなんかは無くて。ただ、その心の内を言っただけ。それだけの言葉が、狐ノ依の心に深く刻まれていた。
「わかった…。ボク、君達を守るよ」
ぱっと立ち上がって、巻と鳥居を背中に庇う。
まだ黒く体を染め上げる呪いは完全に無くなっていないが、そんなものは気にならなかった。
この人達を守らなければ。リクオに外傷を付けないようにしなくちゃ。
それしか頭になかった。
両手をいっぱいに広げて、青い炎が当たりに散らばる。
迷いを失った炎は、妖怪達を惹きつけ、そして燃やし尽くした。
「…すごい」
目を奪われるのは妖怪だけではない。
うっとりと炎に見惚れる巻と鳥居の目を、狐ノ依はその目で塞いだ。
「あんまり、見ない方がいいかも」
「狐ノ依くん?」
「人間にも害を成す…妖怪だから」
無意識に妖怪を自虐していたことにも気付かず、狐ノ依はただ二人を今この状況から守ることを考えていた。
何がきっかけだったのか、つららが何か成功したのか。わからないが、急にリクオの妖気が増した。
狐ノ依の体はそれに共鳴してどくんと膨れ上がる感覚を覚える。
心地よいとは言えない、激しい怒りを含むリクオの妖気に驚きながらもリクオの姿を確認して、そして更に驚愕することとなった。
「り、リクオ様…?」
「…悪い、狐ノ依。二人を頼む」
二人とは巻と鳥居のことを示していて、いや、それは構わないのだが。
「リクオ様、その体は…」
「大丈夫だ」
「そんなわけないですっ」
リクオの体は鏡斎の呪いを包んだまま、ほとんどが黒く染め上げられている。
狐ノ依は躊躇わずにその痛々しい体に手を伸ばした。
「狐ノ依、触るな」
「嫌です。少し、ボクにも力を貸させて下さい…」
普通の体の傷とは違う為に、狐ノ依の力はあまり有効ではない。さっき抱き締めた時、それは確信した。
それでも、狐ノ依はリクオの為に、何もせずにはいられない。
「…狐ノ依」
「ごめんなさい、お役に立てなくて…」
「何言ってんだ。#狐ノ依がいてくれるだけで力になってるっての」
いくら体を寄せてもリクオの体を覆う呪いが消えない。
リクオは優しく狐ノ依を制して体を離すと、とあるビルの屋上を見つめた。
鏡斎とつららがいる。リクオの鋭い視線で、狐ノ依もそれを感じ取る。
そしてもう一つ。リクオがこの体のままで行ってしまうということも。
「待ってろ、すぐカタを着けてくる」
「…っ、はい」
本当は行かせたくない。もっとご自分の体を労わって、そう言いたい。しかし、それはリクオを困らせることにしかならない。
狐ノ依は不服そうに顔を俯かせながらも、小さく頷いた。
それを確認すると、リクオはすぐに跳びあがって姿を消した。刀を構えたままビルの上まで向かって行く背中。
それを見守ることしか出来ないのは、ここにも守るべき友がいるから。
「狐ノ依くん…リクオ、様って…?」
鳥居と巻の不安を訴える表情。それを安心させられるのは、今この場に狐ノ依しかいない。
「大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように、狐ノ依は言葉を紡ぐ。吹き抜ける嫌な空気が鼻をついて、狐ノ依はぶるっと震えた。
周りを取り囲んでいた妖怪達は塵となって上空へと舞い上がって行く。
それでも溢れる妖怪の数に、狐ノ依は眉をひそめて息を吐いた。
「狐ノ依か?」
足元にさっと誰かが着地した。暗闇の中、怪しげに光る刃と大きな瞳。
「…イタクさん!」
「おい、リクオはどうした」
途中で妖怪の襲撃に会い、ここに来るまでの間に分かれたイタク。今ここで来てくれたのは、狐ノ依にとって相当嬉しいことだった。
「イタクさん!ここ…この子達、お願いして良いですか?」
「は?」
「お願いしますっ」
「おい!なんでオレが…!」
制止の声も聞かずに、狐ノ依はとんっと地を蹴って跳びあがっていた。
イタクは文句を言いながらもきっと力になってくれる。今までの経験からイタクは信用に足る、足り過ぎる程の存在だった。
体が軽い。大きくなっているはずの体は、いつもより軽く空を飛んでいた。
リクオとの距離があっという間に縮まって行く。その証拠が、膨れ上がる妖気の圧力と、そこに集まる妖怪の群れ。
「リクオ様…っ」
ぱっとビルの上に上がって。
その瞬間見えた光景に、狐ノ依は目を奪われていた。
黒い残像と、吹き出る血。赤と黒のコントラストが広がって、開けた視界にはリクオと鏡斎しかいない。
命が絶える瞬間とは思えない程の美しい光景に、狐ノ依は茫然と見惚れ、そしてゆっくりと近付いて行った。
「狐ノ依」
「嗚呼…狐の子」
二人が同時に振り返る。
肩から腰のあたりまで深く切られた鏡斎は、血を流しながらも優しげに微笑んだ。揺らがない瞳は、リクオの力に屈しても尚、自分の意思を曲げていないことを示している。
「せっかく妖怪らしく…黒く淀んだ心が癒えているね…」
「…っ」
「黒く染まった君を…描きたかった…」
それを描いた先に何があるのか。狐ノ依にそれがわかる日はないのだろう。
ただ、その鏡斎の姿は今まで見たどの姿よりも儚く、そして力強い意志が宿っていて。
「どうして…どうして貴方はそこまでして…っ!」
その疑問に答えが返ることは二度とない。
鏡斎は崩れた壁の背を預けて、そのまま遙か下にある地上へと落ちて行った。
思わず駆け寄って、落ちた体を探す。敵で、酷い事をしてきた者だとわかっているのに、何故だか手放したくないような感覚に襲われたのだ。
高いビルの屋上に風が吹き抜け、狐ノ依の髪がなびく。闇が広がる先に、その姿を見つけることは出来なかった。
「…狐ノ依」
「リクオ様、お体は…」
「オレは平気だ」
リクオの体もまだ黒が落ち切っていない。
それに手を伸ばして、リクオの体に直接触れる。
「おい、触るなって」
「…今は、リクオ様を感じたいんです」
「…」
リクオは狐ノ依の心境を察したのか、黒が少し剥がれた左手を狐ノ依の頭に乗せた。
「心配かけたな」
「いえ…」
「狐ノ依、お前は平気か」
「はい。ご心配をおかけしました…」
呪いが浄化されていくような癒しの力。
リクオの目の前にいる狐ノ依はリクオの妖気に反応して、美しく輝いている。
今すぐにでも抱き締めて接吻して自分のモノにしてしまいたい。そんな存在である妖狐は人間に犯されて尚、従ってついて来てくれる。
リクオの刀を握る手に力が入った。
「…絶対ェ…守ってやるからな」
「リクオ様…?」
「もう、これ以上…好き勝手はさせねぇ」
リクオの手が頭から頬に降りてきて、自然とお互いに顔を近付けた。リクオの長い髪をかき分けて、狐ノ依も同じように手を伸ばす。
じわりと浸食している呪いの痛みなどほとんど感じなかった。
「んっ…リクオ様…」
啄むように何度も何度も唇を求め合う。
久しぶりの感触で、今が闘いの中だということさえも忘れてしまいそうになる。
もっとして欲しい、狐ノ依の手がリクオの装束を握り締めた時、リクオの顔がすっと離れた。
「あ…っ」
「狐ノ依、悪い。触るなとか言っときながら我慢出来なかった」
「我慢なんて、必要ないです…」
「そういう訳にはいかねーよ」
「そうですよ…」
二人の間に覗く顔。苛立ったようなもう一人の声に、二人はぱっと体を離した。
「つらら…」
ずっとそこにいたつららの額にはピキピキ、と音が鳴りそうなほどの青筋が走っている。
リクオも狐ノ依も頬に冷や汗を流しながら適当に笑ってみせた。
忘れていた、と更に怒らせてしまいそうな言葉は呑みこんで。
「こんなところでイチャついている場合ですか!」
「あぁ、そうだな」
「そうです!早く行きましょう!」
くるっと背を向けて先に歩き出すつらら。
その後ろで、リクオと狐ノ依はもう一度軽く唇を触れ合わせた。
安心する温もり。この暖かささえあればまだ頑張れる。狐ノ依の迷いは、気付けばどこかへ消え去っていた。
それでいいんだっけ。なんとなく疑問が狐ノ依の頭の中を巡った。
妖狐が人間を傷つけたと知ったら、リクオはどう思うだろうか。
奴良リクオの部下が人間を傷つけた、などと噂が広がったら、リクオはもっと苦しむことになってしまう。
それでも、この人間達は狐ノ依を辱めた。
狐ノ依は妖狐の服の中に顔を埋めた。
どうして、こんなに弱いんだ。どうして、役に立つことが出来ないんだ。
こうして狐ノ依が目を背けている今も、人間の怒声が鳴り止まない。
「くそ、数ばっか多くて…邪魔なんだよ…っ」
妖狐の声が少し震えている。
狐ノ依の迷いが妖狐にも移っていたのか、妖狐は人間を殺めてはいなかった。
「そっち押さえろ」
「おら、捕まえたぞ」
「脱がせちまえ」
いくつもの声が近い。
人間を殺さず、妖狐に人間を傷つけさせず、助ける方法はないのか。
今なら人間を簡単にこの手にかけてしまいそうで、それがとても怖い。
リクオに嫌われたくない。
「…っ」
小さく息を吐いた時、狐ノ依の胸の奥がとくんと熱くなった。
熱くて気持ちが良い、この感覚は間違いなくリクオの妖気だ。
「狐ノ依…?」
ぶわっと広がる青い妖気と共に、妖狐の胸に収まりきらなくなった狐ノ依の体が外に投げ出される。
体が宙に浮く。溢れるような妖気に体を預けて、狐ノ依は目を閉じた。
とん、と地に狐ノ依の足がついた時、周りの人間達はぽかんと狐ノ依を見つめて動かなくなっていた。
開いた瞳で見渡せば、同じように妖狐が目を丸くしている様子が狐ノ依の視界に入る。
「あれ…なんで、急に…」
弱り切っていたのに、狐ノ依の体は人型に戻っていて。それに、普段以上の妖気が体を包み込んでいる。
「てめ…なんだよそれ…」
声の方に顔を向けると、妖狐が狐ノ依を見上げていた。
よく見ればその妖狐の服が肌蹴ていて、未遂とはいえ人間が襲った痕跡が残る。狐ノ依はきっと人間達を睨み付けた。
「兄さんに…手は出させない…!」
狐ノ依の言葉に応えるように、妖気がぶわっと辺りを囲い込む。人間達は一人、二人とその場に倒れた。
「え…?」
驚いたのはむしろ狐ノ依自身だ。自分に人間を倒すような力があっただろうか。
思わず息を呑んで動けずにいると、代わりに妖狐が近くに倒れた人間の首に手を当てた。
「…狐ノ依、こいつら寝てるだけだ」
「え、寝てる?」
自分にそんな能力はなかったはず。
確認しようと屈んだ狐ノ依は、自分の背に当たるものがあることに気付いてぱっと後ろを振り返った。
「尻尾…?」
誰かの尻尾が背中に当たっている。くいっと引くと、体に痛みが走った。
「いっ…!え、何これ…!?ボクの!?」
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そういえば心なしか声も低いような気がする。
着ている着物も少し豪華に、というより着崩した普段の恰好と比べてしゃんとしていて。
自分の体が別物になったような感覚にぞわっと疼く。
「リクオ様だ…リクオ様が、またお強くなられた…!」
「は?」
「早く、リクオ様の元へ行かなきゃ」
体の変化は、過去に一度だけあった。
リクオが妖怪として覚醒したその時、同時に狐ノ依は人型へと姿を変えた。戦いの中で、リクオは目覚めたのだ。
それと今の状況が一致する。今、リクオは戦いの中で更に強くなったのだ。狐ノ依の体に流れる妖気が、その予想を確実にしている。
「リクオ様が戦ってる…!」
何故だか、リクオのいる方向がわかる。ぽかんとした妖狐の手を引いて、狐ノ依が走り出そうとした。
「待てよ」
しかし、それに抵抗するように妖狐は狐ノ依の手を逆に自分の方へ引いた。
「俺が行かせると思ってんのか」
「行く、行かなきゃ」
「狐ノ依…お前変だ。その姿も、その精神も」
怒っている、というよりは、悲しげな表情。
狐ノ依は目を細めて微笑むと、妖狐の手を優しく包み込んだ。
「ボクは目を開いたその瞬間から、ずっとリクオ様と共にあった。リクオ様はボクの全てなんだ」
「それでも…あいつはお前を守らなかった。お前があいつの為に傷つくことはない」
妖狐の気持ちはとても嬉しい。それでも、狐ノ依が自分の意思を曲げることは出来なかった。
「それで少しでもリクオ様を守れたならそれでいいよ。それに、ボクの体はもうすっかり元気だし」
「そりゃ体は治るだろうさ。でも、てめぇの心に刻まれた傷はどうなる?」
「…心?」
とん、と胸に手を置いて、狐ノ依は心の位置を探った。
傷なら治る。どんな傷も普通の人間、妖怪と比べて何倍も早く癒える。
「大丈夫だよ」
「…」
狐ノ依は納得いかない様子の妖狐の体を抱き上げて、そのまま地を蹴った。
このまま続けていても埒があかないとわかったから。妖狐の目は揺るがなかった。
「ボク、今なら兄さんに負けない」
さっきは無理やり連れて行かれそうになったけれど、今度は力でも負けない自信があった。
体も妖狐より大きくなっているし、妖気だって溢れるほど体を通っている。
妖狐もそれがわかってか、抵抗せずに、悔しそうに舌を打った。
「兄さん、ごめん。ボクはリクオ様の傍を離れたくない」
「もう、いい」
「愛してるから」
「黙れ、知ってるそんなこと…」
妖狐の手が狐ノ依の背中を強く叩いた。どん、と鈍い音が響く。
その痛みをしっかりと受け取りながら、狐ノ依はリクオを感じる地を目指してただただ前を見ていた。
「ま、待ちたまえ…!」
広い道路、人の群れを避けて跳んでいた狐ノ依に向けられた声。
素直に立ち止まった狐ノ依の目には、息を切らしているリクオの友人が映った。
「き…」
思わず名前を呼びそうになって、狐ノ依はそれを飲み込んだ。
清継。彼は狐ノ依が妖怪であることを知らない。
「あの、貴方は…もしかしてあの時の…!」
「…?」
「間違いない…その美しい姿は…」
目を輝かせて、妖怪を語る時の楽しげな表情。清継は今の状況さえも恐怖としていないらしい。
狐ノ依は既に狐の姿に変わっていた兄を肩に乗せ直してから、清継の方へ体を向けた。
「ずっと会いたかったんだ、再び貴方に!」
「…ボクに?」
「あぁ!貴方は声まで美しいのですね!」
声と言われて、狐ノ依ははっと口を押さえた。毎日のように学校で顔を合わせていたんだ、どこでバレるかわかったものじゃない。
…あれ、だったら顔でバレてもおかしくない。
「あ…」
そうか、今は姿も声もいつもと違っているんだ。
どの程度変わっているのか自分ではわかりかねるが、清継にはバレていない。
大丈夫なのだと信じて、狐ノ依は口から手を外した。
「君は、どうしてこんな危ないところに?」
「ボクは闇の主を探しているんだ!」
「闇の主…」
闇の主とは、恐らくリクオのことだろう。狐ノ依は胸がざわっとするのを感じた。
奴良リクオが妖怪であるという噂が広まってしまった今、清継も知っているのかもしれない。
リクオの為には、隠すべきか。迷う。
「…何故」
「彼を撮るためだ」
「…何の為に」
「真実を明らかにするためだ!」
清継の真っ直ぐな目が狐ノ依を惑わせる。
清継は元々嫌いな人間で、しかも人間が大嫌いな存在になったばかりだ。
「君は、どっちの人間なんだろう。ボク等を苦しめる…?リクオ様を殺める…?」
「世間では奴良くんが悪者になってる。でも、彼はボクの友達なんだ」
「リクオ様を信じてくれる…?」
「当然だ!奴良くんがこんなことするはずがない!」
すっと心が軽くなった。
嫌いとか、今そんなことはどうだっていい。
狐ノ依は、清継の手を取ってぎゅっと握りしめていた。
「有難う…。その言葉が何よりも、リクオ様を救うものだ」
柔らかく微笑んで、その手をそっと放す。
狐ノ依にとってリクオが一番の存在であっても、リクオは違う。
リクオは妖怪であり人間。妖怪である狐ノ依は今のリクオの支えにはなれない。今のリクオには清継のような…信じてくれる人間が最も必要な存在だ。
わかっているからこそ、狐ノ依はその手を放した。
「ごめんね、ボクは…それでもリクオ様の一番でありたい」
「え…」
「気を付けて」
「あ、ちょっと!」
制止する声を聞かず、狐ノ依は清継に背を向けた。
ずるいと思われてもいい。今この場に清継を置いていくことがどれほど危険かわかっていながら、狐ノ依は連れて行こうとは思えなかった。
「ボクは、君が嫌いだから」
「…!」
とん、と高く跳び上がる。清継がついて来ることはないだろう。というより不可能だ。
狐ノ依は肩に乗せていた妖狐を手に抱いて、その頬に自分の頬を寄せた。
「ボクは卑怯かな」
「…」
「今ボクは、リクオ様の意思よりボクの意思を選んだ」
「…」
「兄さんは、それでいいって言ってくれるかな…」
何も言わない狐が、狐ノ依の頬を小さく舐めた。
本当はリクオが人間なんて嫌ってしまえば良いと望んでいる。自分を汚した人間達のことを話して、嫌って、憎んで欲しい。慰めて欲しい。
まだ体に残る生々しい感触を、リクオの手で消しとって欲しい。
リクオの望まないことを望んでいる。
リクオの言葉が絶対、リクオの意思が自分の意思。そんなのは嘘だ。
本当は、リクオに自分だけを見て欲しかった。
「兄さん…心の傷、痛いや」
ずきずきと、胸の痛みは治らなかった。
・・・
リクオは百物語組幹部の一人「骨」である雷電と闘っていた。砕けて消え去った一帯。そこに残るのは雷電ではなくリクオだった。
リクオが押されているように見えていたのも束の間。畏を「守り」から「攻め」にして圧倒的な攻撃力を手に入れたリクオは、一瞬で空いてを粉々にした。
「リクオ様、そのお姿は…」
その闘いを見ていたつららとカナは、茫然とリクオを見ていた。
見た目にも変化があるが、その雰囲気も普段と違っている。
「リクオ様いつもと違い過ぎですよ!髪型とか!いつものスカした感じのリクオ様じゃないです!」
「スカした感じって何だよ!まあ…ちょっとくらい攻撃的に見えっかもな」
ニッと笑うリクオの表情は確かに攻撃的、というか不良っぽい雰囲気がある。そして髪型は重力に従って、さらりと流れている。
「…倒したのはいいが赤点だな」
「イタク!」
全員が突然その場に現れたイタクの方に顔を向けた。
イタクはリクオに刀を投げて渡すと、それを見ろというように顎をしゃくる。
「あっ…いけね、こりゃあ駄目だ」
リクオもその自分の刀を見て苦く笑った。その刀はもう幾分ももたないだろう。それほどにヒビが入り、ぼろぼろになってしまっていた。
「てか、見てたなら助けろよ」
「お前を助ける義理などない!」
リクオの、この技を習得するに至らせたのはイタクだった。そもそもイタクの鬼憑をヒントにしてあみ出したものだ。
リクオとイタクが言い合うのをつららは何も言わずに見ていた。
また知らぬ間に二人が親しくなっていることに多少悔しさを感じながら。
そこに、大きな羽音が近付いて来て、リクオとイタクはばっと振り返った。
「リクオ様、ご報告です!」
「黒羽丸!?」
降り立った黒羽丸はすぐにそこに膝を着き、そして焦った様子で話し始めた。
「ただいま渋谷駅を中心に妖怪が大量出没中!繁華街を埋め尽くす妖怪に襲われ、人間達は大パニックです!」
「何!?」
「現地に入った奴良組組員の情報によりますと、まるで渋谷から…妖怪が生まれているかのようだ、とのこと」
一瞬でリクオの顔が険しくなった。その横に立つイタクも何か感じた様子で、真面目な表情に変わる。
「百物語…そこで誰かが産んでるってことか」
百物語組の妖怪の増やし方は既に知っている。止めなければいつまでも妖怪は増え続けるだろう。人間を巻き込みながら。
「行くぞ!次は渋谷に向かう!」
真っ先にリクオが動き出した。それにつららが続く。嫌な顔をしてみせたイタクも付いて来てくれるようだ。
しかし、何故か黒羽丸が何かまだ言いたげに顔をしかめている。
「…黒羽丸、どうかしたか」
「いえ、もう一つ…ご報告しなければならないことが…」
「なんだ?」
少しも時間を無駄に出来ないというのに、それをよくわかっているはずの黒羽丸の歯切れが悪い。
開いては閉じる、それを何度か繰り返してから、黒羽丸はようやく決心してリクオの顔を見た。
「狐ノ依殿が襲われました」
大きく見開かれたリクオの目。それを見た黒羽丸はリクオから顔を逸らした。
黒羽丸の頭に刻まれた狐ノ依の痛々しい姿、それを説明する言葉が何も浮かばない。
「それにより…狐ノ依殿は意識を失い、今は妖狐殿に任せています…」
「無事、なんだな…?」
「命に別状はありません」
「百物語組か」
「…判断出来かねます」
命に別状はないとはいえど、黒羽丸の様子から相当良くないことが起こったということくらいわかる。
リクオは今すぐ狐ノ依の元に行きたいのをなんとか抑えていた。そして、あの場に狐ノ依を置いて行ったことを後悔した。
あの状況から狐ノ依が襲われたとするなら、相手は人間である可能性が高い。狐ノ依より体の大きい男が多かったように思える。
「…黒羽丸、もしかして襲われたってのは…」
暴行か、それとも。言葉に出すのも躊躇われて、リクオはそこで言葉を途切れさせた。
黒羽丸には、リクオの考えていることがわかったらしい。眉をひそめてきつく目を閉じている。
「…見るに耐えない状況だった、とだけ伝えておきます」
「そうか、悪かったな」
「いえ、すぐに発見出来ず…」
重苦しい空気が辺りを包む。イタクとつららも何か察したのか、俯いて何も言わなかった。
「あ、あの…狐ノ依くん?って…」
ぽつりと言葉を発したのはカナだ。
黒羽丸が言った内容がカナにも聞こえてしまっていた。
「狐ノ依くん、襲われたの…?」
ふわりと浮く蛇のような体をした妖怪の上に乗ったままでいるカナは、上目使いにリクオを見つめた。
眉を下げて泣きそうになっているカナの頭をリクオが撫でる。
「…カナ、大丈夫だ。お前はオレの後ろにいろ」
今はどこにいても危ない。狐ノ依が襲われたというのもある。
妖怪が暴れているというのもそうだが、この騒ぎの中、人間もどさくさに紛れて悪さを仕出かすかもしれない。
「え、リクオ様。家長さんも連れて行くんですか!?」
「あぁ。駄目か?」
「…」
気に食わない。しかし、リクオから離れた方が危険であることは確かだ。
狐ノ依も、リクオから離れたせいで襲われた。そしてそれを促したのはつららだった。
頭が上がらない。つららは仕方なくカナがついて来る、ということを認めるしかなかった。
「…は」
息のような声のような。
微かに聞こえた息遣いにリクオは勢いよく振り返った。
「狐ノ依…!?」
その声に、場にいた全員がそちらに目を向ける。そして、違和感を感じた。
「狐ノ依…?だよな」
リクオが近付いてその頬をなぞる。ゆっくり顔を上げたその青い狐の妖怪は、確かに狐ノ依だった。
何故か体の大きさが今のリクオと変わらなくなっていて、大きな尻尾が揺れているが。
「狐ノ依、声を聞かせてくれ」
「…」
「狐ノ依、体は大丈夫なのか?」
「…」
「狐ノ依…?」
何も言わない狐ノ依の目は、しっかりとリクオを見ていた。
リクオ達にとって狐ノ依が立派な姿になっている、と思うのと同じように狐ノ依もリクオをそう思う。
あぁ、この人はまた力を付けたのだ。素敵なお姿だ。
それを伝えたい、抱き着きたい、そう思うのと同時に黒い心が湧き上がる。
「…リクオ様、こそ…体は、大丈夫ですか…?」
「狐ノ依、良かった。狐ノ依…」
声を聞いて安心したのか、リクオが狐ノ依をきつく抱きしめる。
それをも、黒羽丸は不安そうに見つめていた。あれほど酷い状況に見舞われたのだ。既に立ち直っている、なんてことは有り得ない。
「…放して下さい」
狐ノ依の声が、リクオの胸に沈んだ。
「狐ノ依?」
「近付かないで下さい…」
とん、と狐ノ依の手がリクオを押し返す。
リクオを押す程の力などその腕には無かったが、それに従ってリクオは少し後ずさった。
「どう、したんだ?どこか痛むのか?」
「いえ。違うんです、違う…」
狐ノ依に伸ばした手は、狐ノ依の肩に乗っていた狐によって噛まれていた。鋭い痛みが体を伝う。
いつもなら狐ノ依は妖狐を怒っただろう。
しかし、狐ノ依は何も言わなかった。
さらっと不気味な風が通り過ぎていく。
リクオは噛まれた手を引込め、茫然と狐ノ依を見つめていた。
「…駄目なんです、今…ボクはリクオ様に、酷い事を言う」
「っ、言ってくれ。言ってくれなきゃわかんねぇ」
「リクオ様の思う通りに、動けない…」
普段より高い位置にあるせいで、狐ノ依が少し俯いてもリクオから表情が読み取れた。
泣きそうなのかと思ったら、そうではなかった。
どちらかと言えば…怒りが見える。
「…狐ノ依殿、無理はいけません」
黙り込んだ二人の空気に耐えられず、黒羽丸が狐ノ依に近付く。
「今なら本家へ、自分が」
「それは駄目だ。狐ノ依も連れて行く。ついて来るだろう、狐ノ依?」
「…はい」
狐ノ依は迷っていた。
リクオの為に自分がするべき行動と、自分が本当に思う気持ちと。
「では…案内します」
黒羽丸は未だ不安そうだが、向かうべき方へと目を向けた。
イタクが狐ノ依を引き寄せて、リクオとの間に入る。つららも心配そうに狐ノ依を見上げた。
そしてカナは。そう呼ばれる人物と、自分の知っている人物があまりに重ならなくて唖然としている。
「狐ノ依くん、なの?」
「…」
「すごく綺麗」
「…ふ、…君ほどじゃないよ。ボク、さっきまで酷かったんだから」
「…?」
妖狐が狐ノ依の頬を小さな手で叩く。はっとして口を塞いだが、もう手遅れだった。
イタクとつらら、それからリクオまで目を丸くして狐ノ依を見ている。
リクオを見つけた瞬間見えた、カナの姿。
自分が酷い目に合っている間、リクオはカナと共にいたのか。そう思った瞬間に頭が熱くなった。
自虐と嫉妬とリクオへの絶望。
そんなことを思ってしまう狐ノ依はやはり、強姦されたことで不安定になっていた。
「酷かったって…大丈夫なの…?襲われたって」
「…あ、はは…ボク、って自己治癒力すごいから、全然平気なんだよ」
なんとか笑顔を作る。
「狐ノ依、ごめんね、私が」
「なんでつららが謝るの?つららがずっとリクオ様に守られてたからって、ボクは全然…」
ふわっと肩から降りた妖狐の手が狐ノ依の口を塞いだ。
目の前に現れた妖狐の顔は、酷く悲しげに歪められている。
「もう十分だろ…こんなの、俺は見ていられねーよ」
「兄さん…?」
見渡せば、皆が妖狐と同じような顔をしていて。
狐ノ依はまた自分の本音が漏れていたことに気付く。
違う、こんなこと言いたいんじゃなくて。強くなった体で、リクオと一緒に戦う為にここまで来たのに。
「ちが…ボク大丈夫なんです本当に!急いでいるんですよね!早く行きましょう!」
「狐ノ依」
「あ、リクオ様、とても立派なお姿で驚きました!闘っているところも見ていたかった…」
黒羽丸が目を開いたまま動かないリクオの横に立った。
時間をかけ過ぎた。一刻の猶予もないことを今更ながらに焦る。
今の狐ノ依は大人しくさせて置いた方が良いかもしれない。
しかし、カナを連れて行くと言ったのに、狐ノ依を置いて行くと言ったら増々傷つけることになる。
「リクオ様…とにかく今は…狐ノ依殿も一緒に」
「っ…」
「心情はお察しします…しかし」
「わかってる」
自分を責めている場合ではないのだ。
狐ノ依をこんな風にした、だからこそ百物語組を早く倒さなければならない。
「…行くぞ!」
その声に皆の視線は狐ノ依からリクオに移る。
ぴりっとした空気に戻って、狐ノ依を見るのは妖狐だけとなった。
少し高い位置にある狐ノ依の頬を引く。
「いッ…!兄さん?」
「妖狐はてめぇだからな」
「はい…?」
頬を抓った手を降ろして、そのまま狐ノ依の背を押した。
妖狐はついて来ないのだとわかり、一度振り返ってからリクオの後を追いかける。
その背中はまだ頼りなく揺らいでいた。
・・・
どこまで行っても続く地獄絵図。人が妖怪に喰われていく光景が広がっている。
狐ノ依は狐の姿に戻った状態でリクオの肩に乗っていた。
これからリクオは人間を助ける為に妖怪を倒しに行く。
今までもそうして来た、リクオのする行動として当然のこと。
それが、今の狐ノ依にはわからなかった。何故人間を助ける必要があるのか。
湧き上がりそうになる黒い感情をなんとか押さえ込んで、リクオの首に縋りつく。
「狐ノ依…絶対に、もうお前を傷つけたりはしねぇからな…」
先ほどから、リクオは繰り返し同じようなことを呟いた。
自分が置いて行ったことで狐ノ依を酷い目に合わせた、その事実にリクオも相当精神的に追い詰められている。
本当は狐ノ依にかけたい言葉がたくさんあるのに、どれを言ったら狐ノ依をこれ以上傷つけずに済むのか。
「狐ノ依…」
リクオが掠れた声で狐ノ依を呼ぶ。
それで少し救われた気持ちになるのは、リクオを愛しているからだ。
狐ノ依は泣きそうになるのを堪えて目をきつく閉じた。
その時。
「な、夏実ィィ…!」
聞き覚えのある声に狐ノ依の体がびくりと震えて、リクオも体の向きを変えた。
高いデパートの前に群がる無数の妖怪。その中心にいるのは、リクオのクラスメイト、巻と鳥居だった。
図体の大きな男の姿の妖怪が鳥居の腕を掴んでいる。
直ぐにリクオは刀を鞘から抜いて鳥居に襲いかかっている妖怪に向かって行った。
「てめぇか、妖怪を産みだしてるって奴ぁ」
鳥居に掴みかかっていた妖怪の腕を切り落とし、その手から救い出す、までは良かった。
しかし、その妖怪は。
「…君は、奴良リクオ」
なんともないという顔を浮かべて、にやりと笑い、その視線をリクオの肩にいる狐ノ依にも向けた。
「妖狐の君も一緒か、嬉しいよ」
「…っ」
狐の毛がぞわっと逆立った。
描くことで妖怪を産みだす者、その妖怪は百物語組幹部の一人「腕」…鏡斎。
「あの日よりも…ずいぶんと美しい狐になっているね」
一度囚われていたからか、体がやけに反応する。
狐ノ依は我慢出来ずに、人型へと姿を変えてリクオの前に出ていた。
「おい、狐ノ依!?」
「ふーっ…」
狐ノ依の口から威嚇しているかのような息が漏れる。
いつもより高い位置にある狐ノ依の顔を見つめながら、リクオは違和感を感じていた。
「見た目も心も…妖怪らしく染まりきっているね。何かあったのかな」
それは、鏡斎にも同じように映っていた。
「今の君なら…完全に取り込めそうだ」
「っ、狐ノ依…下がれ」
リクオの手が狐ノ依を後ろへ引く。
鏡斎は一瞬不快そうな顔をしてから、また口元に笑みを浮かべた。
「丁度いい。今、君の知り合いを使って妖怪を作ったとこなんだよ」
「何…?」
「君にふさわしい敵だ…。ようこそ、地獄絵図へ」
そう鏡斎が言うのと同時に、鳥居の体がゴゴゴ…という不気味な音を立てて変形し始める。
リクオが驚いて目を見開いているうちに、鳥居の姿は無くなり、大きな妖怪に変わっていた。
リクオはさっきまで鳥居だった妖怪と対峙していた。
なかなか手を出すことが出来ないのは、その妖怪が鳥居だと知っているから。
「夏実ぃ!何やってんだよぉおっ」
後ろでは巻が涙を流しながら大きな妖怪に訴えかけている。
リクオも何度か鳥居の名を呼んだが無駄だった。鳥居の意識はなくなっているらしい。
「さ、狐の子、こちらへおいで」
鏡斎はリクオが鳥居の相手をしていることをいいことに、狐ノ依に手を差し出した。
普段ならこんな呼びかけに狐ノ依が反応するはずがなく、心配する必要などないことなのに。今の狐ノ依には何をしでかすかわからない不安定さがある。
リクオは振り向きながら、小さく舌打ちをした。
「ちっ…つらら、狐ノ依を頼む…!」
「えぇ!?」
つららは襲われそうになっている人間を庇いながら妖怪と闘っていた。
辺りは妖怪だらけなのだ、狐ノ依を見ている余裕などない。
「君は迷っているんだろう。自分の敵が人間であるのか、妖怪であるのか」
「う…っ」
「かわいそうに…人間に凌辱されたんだね」
鏡斎の言葉に、狐ノ依の動きが完全に止まった。鏡斎が手を伸ばしてその頬に触れる。
狐ノ依はその手を振りほどかなかった。
「悩む必要などない。君は妖怪だ」
「ボク、は…」
「元々妖怪は人間と相容れない存在だ。何が敵かなんて考えるまでもない」
「あれ、…そっか…」
急に、どうして悩んでいたのか不思議なくらい合致がいった。
そうだ、人間が敵。自分を痛めつけた人間が敵でなくて何が敵なのか。
「狐ノ依!聞くな!」
「そういう奴良リクオ…君もたくさん殺してきたんだろう…?」
「何?」
鏡斎はゆっくりとリクオの目の前にいる大きな妖怪、鳥居だったものを指さした。
「それも、君がこの街で今まで斬ってきた妖怪も同じ…。皆、オレが妖怪に変えた女さ」
「なんだと…?」
今度はリクオの手が止まる。
しかし、狐ノ依は安心したような笑顔を浮かべてリクオを見ていた。
「リクオ様も、汚らわしい人間を消してくれていたんだ」
「そうだよ」
鏡斎が狐ノ依の頭を優しく撫でるのを、あろうことか狐ノ依は嬉しそうに耳を揺らし、鏡斎に笑い返した。
そんな異様な光景を背後にして、つららは目の前にいる無数の妖怪を倒しながら、どうしたらいいのかを必死に考えていた。
リクオは恐らく戦えない。人間だったものを、リクオは倒すことが出来ないだろう。なら、少しでも自分が動きを止めるしかない。
「…わかった、鳥居だってことは忘れる」
「え…!?」
しかし、リクオは一撃で辺りを囲んでいた妖怪達を斬り殺していた。
そして、鳥居にも刃を向ける。リクオの刀に畏が集まった。
「なつみィィィ!!」
巻の叫び声が響き渡る。
それでも、リクオはためらうことなく鳥居であったものを真っ二つに斬ってしまった。
「友が殺し合う…これが地獄絵図というものだろう。すばらしい」
「そいつぁーどうかな…」
リクオが不敵に笑う。
先ほど倒した無数の妖怪の居た場所には、妖怪にされた女性たちがうずくまっていた。
「何…?」
それは同じように鳥居も。妖怪がいた場所から、鳥居が戻ってきていた。
リクオは畏を断って、妖怪の部分だけを斬る、ということに成功していたのだ。
リクオは落ちてきた鳥居を抱き留めた。
鳥居の息はちゃんとある。安心してほっと息を吐くと同時に、こちらに向く視線に気付いてリクオは顔を上げた。
「…リクオ様、どうしてですか」
「狐ノ依」
狐ノ依が鏡斎の手から離れ、リクオに近付いた。
やはり様子がおかしい。その目は怒りや悲しみを渦巻いて歪み、リクオの腕に抱かれている鳥居を睨んでいた。
「どうしてリクオ様は…人間を庇うのですか」
「…狐ノ依」
「ボクは…ボクは人間を許せない。ボクは人間の為には戦えない」
「聞け、狐ノ依」
リクオは鳥居をゆっくり地面に降ろすと、その手を自分の胸に置いた。
「オレだって、許せねぇよ」
「…え」
胸に置いた手をきつく握り締め、リクオは歯を食いしばった。
本当は、ずっとこの怒りを抑えていたのだ。
愛する狐ノ依が一体何をされたのか、黒羽丸の様子を見れば想像は出来る。
そして、その想像はあまりにも信じがたいもので、許されないものだった。
「狐ノ依、お前に触れた奴等が許せねぇ。本当は今にもぶん殴ってやりてぇ」
「なら」
「だがな、それはオレの個人的な思いだ。オレは今、奴良組三代目としてやらなきゃなんねぇ事がある」
リクオは爪の食い込んだ手を緩め、狐ノ依に伸ばした。そのまま狐ノ依の頭を抱き寄せ、自分の胸に寄せる。
視線の先には、百物語組の幹部、鏡斎。
「狐ノ依、オレが好きかい」
「…はい」
「人間のオレは嫌いかい」
「そんな、…」
「じゃあ、そこにいる鳥居は、巻はどうだ」
「…」
狐ノ依の目が揺れた。
嫌いなわけがない。
「人間にも良い奴と悪い奴がいる。妖怪と同じように」
「…はい」
「今オレは、悪い妖怪であるあいつらを倒さなきゃなんねぇ。わかるな」
「はい」
迷っていた狐ノ依の声が、今度はしっかりと返事をした。
ゆっくりと狐ノ依を抱いていた手を放すと、狐ノ依は申し訳なさそうに眉を下げてリクオを見つめている。
よく知った狐ノ依の顔だ。
「もう大丈夫だな」
「はい…すみませんでした、リクオ様」
「よし」
リクオが視線をそらさずに鏡斎へ刀を向ける。
不服そうにこちらを見ていた鏡斎だったが、まだ何かあるようで変わらない笑みを浮かべてみせた。
まだ始まったばかり。まだ終わらせない。
「狐の子は後で構わないさ…オレは奴良リクオ、君をずっと描きたかった」
「何…?」
それだけ言うと、鏡斎はそこから姿を消していた。
まだ終わっていない、それがわかっているからか、狐ノ依は頬につたう冷や汗を拭った。
嫌な予感がしてならない。
そして、その予感はすぐに的中する。
「う…ぐ…」
リクオが急に苦しみ出し、その場に崩れ落ちた。
「っリクオ様!?」
肉が焼けるような臭いがリクオから放たれる。リクオの体は焼かれているかのように黒く、朽ちていった。
それは、鏡斎が描く通りにリクオに影響する、呪い。
九相図…人が死体となり、腐り、骨となるまでを描いた九枚の写実絵。一枚、二枚と鏡斎が描けば描く程、リクオは朽ち果てて消えていく。
「と、止めなきゃ…!」
「狐ノ依、リクオ様をお願い!」
「え!?」
つららは既にどこにいるかも知れない鏡斎めがけて走り出していた。
「リクオ様は私が救う!」
「っ、」
その決意の込められた言葉を聞いて、狐ノ依は追いかけようとして踏み出しかけた足を止めた。
ずきずき痛む胸を押さえて、苦しそうにしているリクオに近寄る。
今まで散々迷惑をかけてきた。
結局、役に立つようなことなど出来た例がないのに、今更でしゃばる事なんて出来ない。
「せめて…リクオ様の痛みを少しでも和らげるくらいは…」
黒ずんだリクオの体に触れようとすると、体に鋭い痛みが走った。
リクオが受けている呪いは、触れることでこちらにも影響するらしい。
「あ…はは、リクオ様と同じ痛みを感じられる…。そんなの、全然苦痛じゃない」
狐ノ依はリクオの体をその身に抱き込んだ。
黒が浸食してくる。痛みと共に、自分が朽ちて行くような感覚に襲われる。
「…っ、こんなの、リクオ様以外の男に抱かれたことに比べたら、痛くもかゆくもない…ッ」
死ぬよりも辛い苦痛は既に現実で味わった。
今になって、狐ノ依の目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
「リクオ様ぁ…」
じわじわと体が黒くなっていく。意識が朦朧としていく。
それでもいい。
狐ノ依は目を閉じて、リクオと同じ呪縛の中に包まれていった。
「狐ノ依くん!」
…はずだった体は、細い腕に引っ張られていた。
「え…」
「狐ノ依くん、なんでしょ!?」
引きずり出されて、まだ侵されている痛みに歪ませながら顔を上げる。
覗き込むようにして顔を近付けているのは、鳥居と巻だった。
「…狐ノ依くん、妖怪だったんだね」
鳥居が躊躇っているのがわかる。しかし、その目は嫌悪でも敵視でもなく、優しそうに細められていた。
「この黒いの何?大丈夫なの…?」
「夏実!やばいって、来てる来てる!」
気付くと、そこは既に新しく来た妖怪に囲まれていた。
ほとんど狐ノ依達は追い詰められている。そしてここには、リクオもいる。
今ここで闘えるのは、狐ノ依だけ。
「…鳥居さん、巻さん、ボクが、怖くはないの…?」
「え?」
「妖怪だよ、君達を襲った奴等と同じ妖怪だよ」
鳥居がきょとん、と首を傾げる。巻はじれったそうに足をばたつかせた。
「そんな綺麗な姿しといて、何が怖いんだっつの!」
「狐ノ依くんは友達じゃん。怖くなんてないよ」
二人には下心とか、妙な企みなんかは無くて。ただ、その心の内を言っただけ。それだけの言葉が、狐ノ依の心に深く刻まれていた。
「わかった…。ボク、君達を守るよ」
ぱっと立ち上がって、巻と鳥居を背中に庇う。
まだ黒く体を染め上げる呪いは完全に無くなっていないが、そんなものは気にならなかった。
この人達を守らなければ。リクオに外傷を付けないようにしなくちゃ。
それしか頭になかった。
両手をいっぱいに広げて、青い炎が当たりに散らばる。
迷いを失った炎は、妖怪達を惹きつけ、そして燃やし尽くした。
「…すごい」
目を奪われるのは妖怪だけではない。
うっとりと炎に見惚れる巻と鳥居の目を、狐ノ依はその目で塞いだ。
「あんまり、見ない方がいいかも」
「狐ノ依くん?」
「人間にも害を成す…妖怪だから」
無意識に妖怪を自虐していたことにも気付かず、狐ノ依はただ二人を今この状況から守ることを考えていた。
何がきっかけだったのか、つららが何か成功したのか。わからないが、急にリクオの妖気が増した。
狐ノ依の体はそれに共鳴してどくんと膨れ上がる感覚を覚える。
心地よいとは言えない、激しい怒りを含むリクオの妖気に驚きながらもリクオの姿を確認して、そして更に驚愕することとなった。
「り、リクオ様…?」
「…悪い、狐ノ依。二人を頼む」
二人とは巻と鳥居のことを示していて、いや、それは構わないのだが。
「リクオ様、その体は…」
「大丈夫だ」
「そんなわけないですっ」
リクオの体は鏡斎の呪いを包んだまま、ほとんどが黒く染め上げられている。
狐ノ依は躊躇わずにその痛々しい体に手を伸ばした。
「狐ノ依、触るな」
「嫌です。少し、ボクにも力を貸させて下さい…」
普通の体の傷とは違う為に、狐ノ依の力はあまり有効ではない。さっき抱き締めた時、それは確信した。
それでも、狐ノ依はリクオの為に、何もせずにはいられない。
「…狐ノ依」
「ごめんなさい、お役に立てなくて…」
「何言ってんだ。#狐ノ依がいてくれるだけで力になってるっての」
いくら体を寄せてもリクオの体を覆う呪いが消えない。
リクオは優しく狐ノ依を制して体を離すと、とあるビルの屋上を見つめた。
鏡斎とつららがいる。リクオの鋭い視線で、狐ノ依もそれを感じ取る。
そしてもう一つ。リクオがこの体のままで行ってしまうということも。
「待ってろ、すぐカタを着けてくる」
「…っ、はい」
本当は行かせたくない。もっとご自分の体を労わって、そう言いたい。しかし、それはリクオを困らせることにしかならない。
狐ノ依は不服そうに顔を俯かせながらも、小さく頷いた。
それを確認すると、リクオはすぐに跳びあがって姿を消した。刀を構えたままビルの上まで向かって行く背中。
それを見守ることしか出来ないのは、ここにも守るべき友がいるから。
「狐ノ依くん…リクオ、様って…?」
鳥居と巻の不安を訴える表情。それを安心させられるのは、今この場に狐ノ依しかいない。
「大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように、狐ノ依は言葉を紡ぐ。吹き抜ける嫌な空気が鼻をついて、狐ノ依はぶるっと震えた。
周りを取り囲んでいた妖怪達は塵となって上空へと舞い上がって行く。
それでも溢れる妖怪の数に、狐ノ依は眉をひそめて息を吐いた。
「狐ノ依か?」
足元にさっと誰かが着地した。暗闇の中、怪しげに光る刃と大きな瞳。
「…イタクさん!」
「おい、リクオはどうした」
途中で妖怪の襲撃に会い、ここに来るまでの間に分かれたイタク。今ここで来てくれたのは、狐ノ依にとって相当嬉しいことだった。
「イタクさん!ここ…この子達、お願いして良いですか?」
「は?」
「お願いしますっ」
「おい!なんでオレが…!」
制止の声も聞かずに、狐ノ依はとんっと地を蹴って跳びあがっていた。
イタクは文句を言いながらもきっと力になってくれる。今までの経験からイタクは信用に足る、足り過ぎる程の存在だった。
体が軽い。大きくなっているはずの体は、いつもより軽く空を飛んでいた。
リクオとの距離があっという間に縮まって行く。その証拠が、膨れ上がる妖気の圧力と、そこに集まる妖怪の群れ。
「リクオ様…っ」
ぱっとビルの上に上がって。
その瞬間見えた光景に、狐ノ依は目を奪われていた。
黒い残像と、吹き出る血。赤と黒のコントラストが広がって、開けた視界にはリクオと鏡斎しかいない。
命が絶える瞬間とは思えない程の美しい光景に、狐ノ依は茫然と見惚れ、そしてゆっくりと近付いて行った。
「狐ノ依」
「嗚呼…狐の子」
二人が同時に振り返る。
肩から腰のあたりまで深く切られた鏡斎は、血を流しながらも優しげに微笑んだ。揺らがない瞳は、リクオの力に屈しても尚、自分の意思を曲げていないことを示している。
「せっかく妖怪らしく…黒く淀んだ心が癒えているね…」
「…っ」
「黒く染まった君を…描きたかった…」
それを描いた先に何があるのか。狐ノ依にそれがわかる日はないのだろう。
ただ、その鏡斎の姿は今まで見たどの姿よりも儚く、そして力強い意志が宿っていて。
「どうして…どうして貴方はそこまでして…っ!」
その疑問に答えが返ることは二度とない。
鏡斎は崩れた壁の背を預けて、そのまま遙か下にある地上へと落ちて行った。
思わず駆け寄って、落ちた体を探す。敵で、酷い事をしてきた者だとわかっているのに、何故だか手放したくないような感覚に襲われたのだ。
高いビルの屋上に風が吹き抜け、狐ノ依の髪がなびく。闇が広がる先に、その姿を見つけることは出来なかった。
「…狐ノ依」
「リクオ様、お体は…」
「オレは平気だ」
リクオの体もまだ黒が落ち切っていない。
それに手を伸ばして、リクオの体に直接触れる。
「おい、触るなって」
「…今は、リクオ様を感じたいんです」
「…」
リクオは狐ノ依の心境を察したのか、黒が少し剥がれた左手を狐ノ依の頭に乗せた。
「心配かけたな」
「いえ…」
「狐ノ依、お前は平気か」
「はい。ご心配をおかけしました…」
呪いが浄化されていくような癒しの力。
リクオの目の前にいる狐ノ依はリクオの妖気に反応して、美しく輝いている。
今すぐにでも抱き締めて接吻して自分のモノにしてしまいたい。そんな存在である妖狐は人間に犯されて尚、従ってついて来てくれる。
リクオの刀を握る手に力が入った。
「…絶対ェ…守ってやるからな」
「リクオ様…?」
「もう、これ以上…好き勝手はさせねぇ」
リクオの手が頭から頬に降りてきて、自然とお互いに顔を近付けた。リクオの長い髪をかき分けて、狐ノ依も同じように手を伸ばす。
じわりと浸食している呪いの痛みなどほとんど感じなかった。
「んっ…リクオ様…」
啄むように何度も何度も唇を求め合う。
久しぶりの感触で、今が闘いの中だということさえも忘れてしまいそうになる。
もっとして欲しい、狐ノ依の手がリクオの装束を握り締めた時、リクオの顔がすっと離れた。
「あ…っ」
「狐ノ依、悪い。触るなとか言っときながら我慢出来なかった」
「我慢なんて、必要ないです…」
「そういう訳にはいかねーよ」
「そうですよ…」
二人の間に覗く顔。苛立ったようなもう一人の声に、二人はぱっと体を離した。
「つらら…」
ずっとそこにいたつららの額にはピキピキ、と音が鳴りそうなほどの青筋が走っている。
リクオも狐ノ依も頬に冷や汗を流しながら適当に笑ってみせた。
忘れていた、と更に怒らせてしまいそうな言葉は呑みこんで。
「こんなところでイチャついている場合ですか!」
「あぁ、そうだな」
「そうです!早く行きましょう!」
くるっと背を向けて先に歩き出すつらら。
その後ろで、リクオと狐ノ依はもう一度軽く唇を触れ合わせた。
安心する温もり。この暖かささえあればまだ頑張れる。狐ノ依の迷いは、気付けばどこかへ消え去っていた。