リクオ夢(2011.10~2015.03)
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日が昇り、平和な朝が始まる。
鳥居、狐ノ依と続いた百物語もその後、それらしい怪奇事件は起こっていない。
「リクオ様、学校に復帰するのですか?」
「うん。そろそろ行かないと皆に心配かけちゃうし」
リクオのその行動が狐ノ依を不安にさせているとも知らず、リクオは制服に着替える手を止めない。
「暫くは…あまり奴良組から離れないほうが…」
「大丈夫だよ」
「…そんな、勝手なことを」
不服そうに口を尖らせながらも、狐ノ依はリクオと同じように制服を手に取った。
どうしても行くというならば、片時も離れないようにしよう。
「おい、狐ノ依?何してんだ」
「兄さん」
狐ノ依に妖狐の事実を伝えに来た兄は、それからずっと奴良組に居座っている。
京妖怪側についていた過去はあるが、誰も拒否するものはいなかった。狐ノ依の人の良さを知っているが故か、妖狐という存在を無意識に愛しいと思うが故か。
「ボクは…リクオ様と学校に行って来るよ」
「学校だぁ?妖怪に、行く必要があんのかね」
「…リクオ様は、人間でもあるから」
「ふーん。俺は興味ないね」
狐ノ依の兄である妖狐も、妖怪と人間の間から生まれている。妖狐の力が強いため、半妖、というよりも妖怪に近いが。
「狐ノ依!早く!」
「行っちゃいますよー」
リクオとつららの声に狐ノ依の耳がピンと立った。それを素早く人の姿になることで覆い隠す。
「待って下さいっ」
たたた、と着物の時よりも大股で駆けて行く。
耳も無ければ、髪も黒くて、強いて言えば肌が白すぎるような気はするが、どこをどう見ても人間。
そんな狐ノ依を目で追っていた妖狐は怪訝そうに目を細めていた。
「あいつ、やっぱり舐めてんだろ」
ごろっと寝っころがって、腕を伸ばす。体をいっぱいに伸ばすと自然に欠伸が出て、眠さを感じながら妖狐は目を閉じた。
「…なぁ、首無さんよ」
「はい?」
「暇だ」
「知りませんよ」
丁度通りかかった首無の足に、妖狐の手が絡みつく。そのまま体を引きずらせて首無に近付くと、妖狐は目線だけを上に向けた。
「奴良組と…百物語組だかなんだか知らないが、教えておくれよ」
「は…」
「てめぇらの事はよくわかんねぇ」
何かと問題起こしすぎだろ。妖狐の言葉に、首無はふっと笑ってそうですね、と言った。
妖狐が奴良組に興味を持ってくれていることが、素直に嬉しかった。
・・・
学校は、今まで以上に妖怪の話で盛り上がっていた。それも、その場に清継がいないのに、だ。明らかに、異常だった。
「鳥居さん!妖怪見たの!?」
「地下鉄に閉じ込められてたって本当?」
「ううん、カゼよ、風邪!」
休んで心配かけてごめんね、と笑っている鳥居。しかし、噂は全て事実だった。隠したのは、騒ぎになることを避けるためだという。
がっかりした様子で、集まっていた生徒達が教室を後にする。残ったのは、いつものメンバーだ。
「…鳥居さん」
「なぁに?狐ノ依くん」
「ごめんね」
鳥居の前に立った狐ノ依は深く頭を下げた。
「え!?なんで狐ノ依くんが謝るの」
「ボクが、目を離さなければ…」
「そんな、狐ノ依くんは悪くないよ」
鳥居の手のひらが狐ノ依の頭に触れる。狐ノ依はしぶしぶ頭を上げた。
「むしろ私が狐ノ依くんを置いて行っちゃったんだし…ごめんね?」
「う、ううん!鳥居さんは悪くないよ」
「ふふ、お互い様!」
鳥居への罪悪感でいっぱいだった狐ノ依の心は、すっと軽くなっていた。鳥居の笑顔は暖かい、ような気がする。
無意識に、狐ノ依も鳥居に笑顔を向けていた。
「狐ノ依、丸くなりましたね」
「うん、良かった」
その狐ノ依を見るリクオとつららの目は穏やかだった。今まで人間とは一線引いていた狐ノ依は、今回の件で一気に距離を縮めている。悪いことばかりではなかったようだ。
「やーやーみんな元気かな!」
がらがら、と音を立てて教室に入ってきた清継に、皆の表情が固まった。
「清継!お前ホンット、空気読めよな!」
「え、何?巻くんどうしたの?」
せっかく和やかなムードだったのに、台無しだ。怒る巻を無視して清継は教壇に立つと、資料をばっとこちらに向けてきた。
「最近、語られる回数の多い怪談が、現実になっているような気がするんだよね!」
「…!」
「だから、皆で“主”の話をしようじゃないか!」
狐ノ依の目が大きく見開かれる。思わず何か口走りそうになってしまった狐ノ依は、リクオにすり寄った。
「と…とりあえず、今回は活動休止した方が…」
リクオは狐ノ依を背に回してから、押さえるように清継に手を向けた。
ただの妖怪バカだと思っていれば、なんとも痛い所を突いて来る。余計な情報が彼に与えられれば、巻き込む可能性が高くなってしまう。
「…リクオ様、行きましょう」
「え、狐ノ依?」
「彼はとても…嫌いです」
狐ノ依の声は、清継にも聞こえるように発せられていた。教室に微妙な空気が流れる。
それに耐えかねて、リクオは狐ノ依の手を引いて教室を後にした。
「あ、リクオくん!」
当然つららも後を追う。
教室に残った清継は、好きな相手に振られたかの如く、ショックを隠せない様子でフラフラしていた。
・・・
「狐ノ依、どうしたの?」
学校のチャイムが鳴り響く、他には誰もいない屋上。
リクオとつららは狐ノ依を心配そうに見つめていた。風が髪の毛を持ち上げて行く。黒い髪は青く姿を変えた。
「あの男…リクオ様を狙ってる」
「…え?」
「リクオ様が巻き込まないように気を遣っていることも知らず…!」
「ちょ、ちょっと、よくわからないけど落ち着いて!」
リクオは狐ノ依の背中を擦った。
狐ノ依の言いたいことは、なんとなくわかっている。清継が会いたいといっている妖怪の存在。そこに、狐ノ依も含まれていることを、リクオは知っていた。
「大丈夫だから、ね」
「狐ノ依…丸くなったと思ったのに…。鳥居さんにだけだったのかしら」
リクオとつららがはぁあと大きなため息を吐く。狐ノ依はムッとしたまま首を斜めに傾けた。それと一緒にぴょこ、と耳が動く。
「とりあえず…人間の姿に戻ってくれる?」
「…」
「ボクも、狐ノ依のこの姿…皆に見られたくないし」
「っ、あ…はい…」
恥ずかしそうに俯いて、自分の耳を手で確認する。白くて大きな耳は消えて、黒い髪の中に人間と同じ形の耳が現れた。
「リクオ様、狐ノ依の扱いお上手ですね」
「え?扱い?」
「え…」
まさか、今ナチュラルにイチャつかれたのでは。
つららは引きつった顏をなんとか屋上から外へと向けて、もう一度深く息を吐いた。
「はぁ…そんなことよりもリクオ様…怪談、どんどん広がっていますね」
「うん」
静かであるが故、平和な時が訪れていると思いがちだが、百物語組は留まることを知らない。
「かつてと同じ…噂が妖を産み、生まれた妖がまた噂を呼ぶ状態…」
「黒田坊!」
突然背後に現れた黒田坊に、狐ノ依は体をびくっと震わせた。背の高い黒田坊に対して、自然と顔が上を向く。険しい表情。それはまた、リクオも同じだった。
「そうやって、勢力を拡大していく…それが百物語組の戦い方」
「ハイ…。妖を産み出す中心となっている奴等を倒さねばならない」
「うん。だから黒…百物語組中心メンバーの捜索を始めよう。サポートしてくれ!」
リクオの目は真剣なもので、黒田坊は一瞬、笠の下の顔を曇らせた。
「良いのですか…?拙僧かつては敵の身…。二代目の死は、その百物語組が関わっているのですよ」
二代目の死。それを聞いて、今度は狐ノ依の顔が切なく歪んだ。小刻みに揺れてしまう手をどうしたら良いのかわからず、黒田坊の装束を掴む。
「でも今は、盃を交わした奴良組の一員だろ?父さんが信じたように、ボクも黒を信じてる。それでいいじゃないか」
ぎゅっと握られた狐ノ依の手に、黒田坊の手が重なった。
「よし、じゃあ行こう!」
「…ハッ!」
くいっと笠を持ち上げて見えた黒田坊の表情は活き活きとしていた。それに見惚れていた狐ノ依の目は、黒田坊の目と交差する。
「…良かった」
「ん?どうかしたか、狐ノ依」
「黒田坊、気にしているようだったから。少し、心配だったんだ」
「っ、狐ノ依…」
「おい、黒田坊!」
何故か手を握り合っている狐ノ依と黒田坊にリクオが割り込む。
ぽつんとその光景を見ていたつららは今までで一番大きなため息を吐いた。
件。「くだん」、未来を予言する妖怪。
“生まれるらしい、近々件が…”
“牛から生まれるんだって?頭は人、体は牛…だから件。”
“生まれてすぐに予言を言うんだ。その予言は絶対”
ネットの掲示板に書かれた「件」の噂。
それは言葉で語られるよりも早く、広範囲に広まり続ける。
『近ク、コノ國ハ滅ビル。助カリタクバ、人ト妖ノ間ニ生マレタ呪ワレシ者…』
『奴良組三代目、奴良リクオヲ殺セ!』
噂は、噂だけで終わらない。
・・・
チャイムの音が鳴り響き、狐ノ依は椅子からパッと立ち上がった。
誰よりも早くリクオの元へ行きたい。というか、つららに負けたくない。
少し離れた教室に辿り着くと、ガラス部分から中を覗き込む。
「あ、奴良君、狐ノ依君来てるよ」
狐ノ依の存在に気付いた女子生徒がリクオに声をかける。この辺はもはや恒例。いつも通りだ。
「狐ノ依、ちょっと待ってて!」
「はい」
机の中をがさがさと漁りながら、鞄の物を出したり入れたり。
暫くすると、リクオは駆け足で狐ノ依の元へやって来た。
「帰ろうか」
「はい」
さり気なく、リクオの服は掴んで横を歩く。二人でいられる時間は少ないから、こういう時間も大事にしたい。
「リクオ様ー!」
たたたっと軽快な足音と高めの声。残念ながらもう終わり。狐ノ依はリクオから手を離して振り返った。
「つらら、帰るよ」
「はい!」
リクオを挟んで歩く。これもいつも通りだ。
「あ…そういえばリクオ様」
「何?」
「さっき見かけたんですが、清継くんが珍しくさっさと帰って行きましたよ」
「へー…?心配だね…」
清継、という名前に狐ノ依は少し不機嫌そうに頬を膨らませる。
しかし、その清継が早く帰ったということは、こちらにとって有難いことで。邪魔が入る可能性が少ないということだ。
「百物語組の調査に時間をあてられるね!」
「帰ったら精一杯お手伝いしますね!」
つららが嬉しそうに笑顔になる。狐ノ依はそれを横目で見ながら、再びリクオの袖口に指を伸ばした。
「あ!」
つららの大きな声に体が上下に跳ねる。狐ノ依は伸ばした手をさっと引っ込めた。
「あそこ、アイスクリーム屋さんが!」
買って来ます、と告げてつららが離れる。
狐ノ依はそれに胸を撫で下ろしてリクオの肩に頭を乗せた。
「わ、どうしたの、狐ノ依」
「つららがいるから…」
「何?」
「いちゃいちゃ出来なくて」
「な…!」
それきり何も言わないリクオを不思議に思って顔を上げれば、耳まで赤くなったリクオの顔が目の前にある。
「…ぁ、」
「ちょっとだけ、ね」
ほんの少し顔を近付ければ、唇同士が触れ合って、今度は狐ノ依の顔が真っ赤に染まった。
「お待たせしましたー」
つららが戻ってきて、二人の体はぱっと離れる。つららの手には三段に重なった鮮やかなアイス。
「あ、これおいしー」
「…自分の分だけ買ってきたんだ」
「え、リクオ様欲しかったんですか!?」
美味しそうにつららの口に運ばれていたアイスがリクオの手に渡る。リクオの口にアイスが持って行かれると、つららの頬も赤くなって。
「そ、それ、かんせつ、キ…!」
「つらら?」
「い、い、いえ…!」
わたわたと手を振るつららの様子に、狐ノ依はなんとなく優越感に浸る。
間接くらいなら構うもんか。
ふふっと笑ってリクオの手にあるアイスに舌を這わせた。
「あの、奴良…リクオ君ですか?」
知らない男の声。呼ばれた方向に顔を向けると、男の手にある携帯から、カシャ、というシャッター音が響いた。
「…え?」
突然のことに三人とも動けず茫然とする。男は携帯で撮れた写真を軽く確認すると、すぐさま走って逃げて行った。
「何だ…?」
「もしかして、ストーカーって奴じゃ」
狐ノ依の手がリクオの手をぎゅっと握り締める。
「リクオ様が美しすぎるから、きっと狙われたんですよ!」
「ま、まさか。狐ノ依じゃあるまいし」
間違いなく、あの携帯のレンズはリクオに向いていた。
こんなことは今までに一度もなかったから、よくわからない。しかし、嫌な感じだ。
「すいません」
また、知らない男の声だ。そちらに目を向ければヘラヘラと笑っている男、当然知らない奴だ。
「藤ヶ谷駅はどっちですか?」
「あ…この大通りを真っ直ぐ行けば…」
少しためらいながらも、リクオは笑顔で対応する。狐ノ依はさっきの今で油断出来ずに、警戒を解かなかった。何度もリクオの写真を撮られる訳にはいかない。
「よくわからないな…地図で説明してもらえます?」
「え…」
駅までは本当に真っ直ぐで、説明することなんかないのに。そう思いながらもリクオは男の手にある地図を覗き込む。
背後の男に気付いたのは狐ノ依だけだった。
「リクオ様っ!」
狐ノ依の声にリクオが反応した時には、鈍い音と同時に、倒れ込む狐ノ依が視界の横に映っていた。
「狐ノ依!?」
倒れた狐ノ依は腕を押さえて、痛そうに顔を歪めている。
背後に立っていた男の手にはバール。そして、道を聞いてきた男の手にはナイフ。
「こいつら殺したら殺人になっちゃうのかな」
「いや?化物だからOKっしょ?むしろ英雄じゃね?」
凶器をこちらに向けて近寄ってくる男達に、つららが怒りを露わにして手を構える。
「だ、駄目だよ、つらら…!この人達は…」
狐ノ依が言わずともわかっていた。この人達は妖怪ではない。本当にただの人間だ。
「わかってる。手加減してあげるから、感謝しなさいあんたたち!」
つららが、相手の動きを止めるために足元と手を凍らせる。その瞬間、辺りが騒然とした。
人間達のざわめく声。そして、リクオ達を敵視する目。
「こいつら…マジ化物だぁ」
「噂通り…!」
「やっぱ、アイツ妖怪なんだ…」
「人と妖の子…」
人々がこそこそと話す声が聞こえてくる。手には携帯を持って、カメラを構えて。
「り、リクオ様…何か、おかしいです…」
「うん、逃げよう…!」
人の間を抜けて、リクオ達は走り出した。気味が悪い。こんなことは今までになかった。有り得なかったことだ。
「リクオ様、あの人達なんなんでしょう、見覚えは!?」
「いや…全然わからない。でも、ボクのこと知ってた」
陰から囁くように聞こえてきた、人と妖の子…という言葉。どういう訳か知られている。そしてピンポイントで狙われた。
「狐ノ依、腕大丈夫!?」
「痛いですが…なんとか」
顔が青い。痛みは相当のようだ。早く、本家に向かわなければ。
しかしその時、足元が弾けた。
「うわ…!」
三人が転んで、そして近寄ってくる足音。また、人間だ。
「奴良リクオ、この國のためにお前を処刑する!」
「件の予言だ、悪く思うな」
くだん、聞き覚えのない言葉にリクオは目を丸くして、そして狐ノ依はリクオにすり寄った。
「…リクオ様、囲まれてます…」
「え…」
目の前からやって来た二人組の男。それだけではない。360度、綺麗に人々に囲まれてしまっている。
知らない男達は口ぐちに、リクオを殺すといったことばかり呟いた。
「リクオ様…」
「つらら、抑えて」
相手は人間だ。下手なことは出来ない。
しかし、人間の方はお構いなしに鉄パイプを振り回してきた。
当たれば死んでいた。それほど、相手は本気で殺しにかかってきている。
「あの、件ってなんですか!何かの間違いじゃ…」
「しらばっくれんじゃねーよ。人間のカッコしやがってよ…」
「とっとと正体あらわせよ、妖怪」
発砲音と共に、リクオの頬に傷が作られる。
狐ノ依の目が、大きく開かれた。
「…リクオ様、下がってください」
「狐ノ依…?」
「もう許せません。自分がやります」
「待って、駄目だ…!」
狐ノ依の手をリクオが掴む。それを、狐ノ依は首を振って制した。
「自分なら、大丈夫です」
一歩前に出ると、再び発砲音。そして、狐ノ依の腕から血が流れた。
「狐ノ依!」
「リクオ様、ここは狐ノ依に任せましょう」
「なんで…!」
「狐ノ依は…人を傷つけず、私達から引き離してくれます」
つららの言葉にはっとして狐ノ依を見ると、体が青く光っている。それに、人々の目は奪われていた。
魅了する炎だ。狐ノ依は、人の意識を奪うことが出来る。
「リクオ様、今のうちに!」
「でも、狐ノ依は…!」
「リクオ様行きましょう!」
つららがリクオの手を引いて走り出す。
足音がどんどん遠くなっていく。周りを囲む人間達は、狐ノ依に意識を奪われたまま、リクオ達を追おうとはしていない。
「良かった…」
軽く腕から流れる血を拭って、後ろを確認した。
その狐ノ依の目が大きく見開かれた。
「初めまして、あなたが妖狐の狐ノ依くんね」
「お、お前は…!?」
「私は悪食の野風…あなたと同じ妖怪よ」
一瞬のうちに、狐ノ依の腕が噛み千切られていた。痛みで、狐ノ依の体の光が消えてしまう。
「あなたはここで人間にでも食べられてなさい」
「な、に…」
「私はあなたの大事な主様を喰べてきてあげる…」
「っ待て…!」
追いかけようとした足はぴたりと止まった。見失った。もう姿が見えなくなっている。
まずい、リクオを早く追わなければ。
狐ノ依の意識は、人間から完全に逸れてしまっていた。
「こいつ…妖怪だったろ…」
「いやでも可愛いし…」
「誘ってきたのあっちだし」
「やる分には同じじゃね?」
狐ノ依を取り囲んだ男達が、ゆっくりと距離を縮めてくる。
「…!」
一気に伸ばされた無数の手が、狐ノ依の自由を奪った。大きな体がのしかかってくれば、当然華奢な狐ノ依はそこに倒される。
「痛っ!」
リクオを庇って殴られた腕が軋んだ。恐らく骨が折れていたのだろう、痛みで全身がびりびりと痺れる。
熱い息がかかって、熱い手が狐ノ依の素肌を撫でた。
「化物だから、襲っても罪になんねーだろ」
狐ノ依の着物が、無数の手によって破られていた。
「嫌だ…!」
抑え込まれた体は全く動かなかった。腕も足も、頭も、どこも人間の手によって掴まれている。
折られた骨は痛み、喰われた腕はまだ治癒しきっていない。
「変な抵抗したら、奴良リクオを追うよ」
太った男が狐ノ依の耳元で囁いた。
「大人しくしてたら、奴良リクオはもう追わないであげるよ」
なぁ、と同意を求めれば皆が頷く。そんな男達の手は狐ノ依の体を撫でまわしている。
狐ノ依には、抵抗する術が見つからなかった。
「あ、や…!リクオ様…!」
ここで狐の姿になって逃げて、そしたらここで足止めした意味はどうなる。
ましてやここで人間を殺しでもしたらリクオは怒るだろう。
「痛い、痛…ッ」
どこもかしこも痛くて、何が何だかわからなくなっている。髪、腕、胸、腰、足、痛くないのはどこだろう。
「リクオ様!助け…!」
「ほら、咥えろ」
「ん、う…っ」
「噛んだら奴良リクオを追ってやる」
リクオの名前を言われると、頭が混乱した。
どうするのが正しいのか、今こうなっている状況は一体何なのか。
「ん!」
がつん、と重い衝撃が体に走る。下半身からお腹にかけて走るこの痛みは。
それがわかってしまった瞬間、狐ノ依の目からぼろぼろと涙が溢れ出した。
「う、く…っ」
喉の奥に絡みつく熱いもの。
咳き込めば、どろっとしたものが舌の上を辿って地に落ちる。
「っ…」
リクオが守りたいものは、こんなものなのか。こんなものを守って戦わなければならないのか。
「あ、イく…!」
「次おれにもやらせろよ」
「お、おれも」
愚かだ。こんな世界、知りたくなかった。
・・・
人間達の叫び声が浮世絵町に響き渡る。
いとも簡単に事切れる人間の命。握っているのは、妖怪だった。
「やめろぉ!」
食い殺されていく人々の中心にいる妖怪。それに突っ込んでいくリクオ。
人間のために戦っているリクオに対して人々が口にするのは酷い言葉ばかりだった。
「お前、一体何考えてんだ…!」
「フフ…奴良リクオくん。早く刀を取って」
野風の着崩した着物からは口の付いた手が伸びる。その口は人間を食い荒らし続けている。
もう直に日も落ちる。
これ以上力ない姿でその光景を見ているわけにはいかない。リクオは人間の前で妖怪の姿を晒す覚悟を決めた。
その時だった。
「リクオくん…?」
人の群れから顔を出したのは。
「カナちゃん!?」
友人である家長カナ。まさかの人物の登場に、リクオは再び姿を変えることを躊躇った。
きょとん、とした顔でリクオを見ているカナはその場を動こうとしない。
「なによ、まだ変身しないのぉ~?どうやったら変身するのかしら…その子を喰べたら…!?」
野風の狙いがカナに絞られた。
気持ち悪い形をした妖怪の大きな口が、カナに食らいつこうとする。
咄嗟に飛び出したリクオの手でカナは救い出されたものの、恐怖に体を震わせていた。
「な、何…?リクオくん、あの人なんなの…!?」
「カナちゃんしっかり!」
「怖いよ、リクオくん…」
リクオにしがみ付いて涙を流すカナ。それを見て、リクオは心を決めた。
「カナちゃん大丈夫。皆は…ボクが守る」
守るために、もう躊躇している暇はない。
カナの前に立ち、野風を見据える。妖気が溢れ、空気が変わった。
「…望み通り、てめぇを叩き斬ってやる」
「それよ、その姿!!」
全身でリクオを食らいつきにいった野風の体は真っ二つに切られていた。
野風の人とは違う不気味な叫びが辺りを包んで、それから砂のように消えていく。
リクオが妖怪になればすぐ、この戦いは終わったのだった。
「ば、化物ぉ…!」
その声の主は、リクオを指さしていた。
まだ妖怪がいる、そう言いながら人々は逃げ去って行く。リクオを中心として、人間が姿を消した。
「…手ごわい奴等だ」
「三代目…?」
「オレの大事なもの一つ…見事にぶっ潰しやがった」
つららがリクオの顔を覗き込む。それでも、リクオの表情は見えなかった。
…まだだよ。この怪談は終わらない。
ぞっと背筋に走った感覚に、リクオとつららが振り返る。逃げ惑う人々の隙間に現れた、黒い瞳。
「リクオ様…あいつらは」
「…百物語組」
百物語組の圓潮と、その横にひかえている柳田。
「一晩だ、一晩で君達の存在は消え失せるよ」
圓潮が言うと、空を飛ぶ鳥が「奴良リクオを殺セ」と繰り返し始めた。人々が足を止めて上を向く。
「てめぇらが…この一連のことを仕組んだのか…?」
「さ、早速ゲームを始めましょう」
「何!?」
突拍子のない圓潮の言葉。圓潮はリクオを無視して話を進めた。
「口、耳、腕、骨、面の皮、鼻、脳。あたしら百物語組にはこう呼ばれる七人の幹部がいます」
「…!」
「これから東京中に百物語の妖怪を放つ。その中に隠れている重要な七人を見つけ出してください。それらをつぶせば奴良組の勝ちです」
「何を…言っているんだ」
内容が理解出来ないのではない。その意図が全くわからないのだ。
しかし、柳田はリクオを見て不敵に笑ってみせた。
「師匠~…もっと優しく説明してあげないと…理解出来なさそうですよ」
楽しげに笑う柳田を、リクオもつららも気味悪く感じていた。何がそんなに楽しいのか、そう問いたくなる。
「…単純な追いかけっこですよ」
百物語組の妖が人を襲い、自分達が助かるために人はリクオの命を狙う。そして奴良組は七人の幹部を見つけ倒す。
「ルールは特になし。強いていうなら…舞台は東京、残りは14時間です」
やることは確かにシンプルだ。しかし、明らかに奴良組は不利だった。
リクオは人間を守って戦うだろうから。
「人間は…自ら助かるためだけに、本気で君を殺そうとしますよ」
「…っ」
「ウソだってデマだってかまやしない。身にかかる不幸を何かのせいにしたがる」
人間なんて、そんなもんだ。
既に周りにいる人々はリクオを狙って動き出している。それでも、リクオは人間を守る。守らなければならない。
「三羽鴉…どこにいる!奴良組幹部に伝えろ、全員で奴等を炙り出す!」
リクオは妖怪の上に乗り、上空に逃れながら声を上げた。その手にはつららと、カナが抱えられている。
「リクオ様!もうおやめ下さい…人前に出るのは!」
「目の前で人がやられてんのに、ほっとくわけにゃいかねーだろ」
すぐにリクオの元へ飛んできた三羽鴉…黒羽丸、トサカ丸、ささ美の三人。
リクオにそれぞれ指示されながら、違和感に気付いたのは黒羽丸だった。
「…狐ノ依殿はどこに」
「…!黒羽丸、まず狐ノ依を探すのを優先してくれ。恐らく、駅周辺だ」
「ハッ…!」
指示通りに三人が違う方向へ飛び去る。
それを確認してから、リクオは人気のない通路へ、体を休ませに降りた。
狐ノ依がいれば、体力ももっと早く回復出来るのに。今更、狐ノ依を置いて来たことを後悔しながら。
意識を保っていることが奇跡だった。
ようやく解放された体は、横たわったまま動かない。
「は…ぁ…」
辛うじて息が口から吐き出される。
男達は満足するとリクオを探していなくなった。そこに、もう人の姿はない、一人も残っていない。
交わされた約束は簡単に破られ、誰も狐ノ依に手を差し出してはくれなかった。
「人間が…」
元々嫌いだった人間。それでも、暖かい人もいることを知ったから、少しは見直してもいいと思っていたのに。
妖怪でさえ大事にしようとする妖狐を、こうも容易く人間が壊して行く。
「…は…ッ」
笑っていた。何に対してかはわからない。痛くて、辛くて、苦しくて、何故か笑っていた。
「…!狐ノ依殿…!?」
上から聞こえてきた声に、狐ノ依の耳がぴくりと揺れた。
「まさか、そんな…!」
異臭。その中に体を横たわらせる狐ノ依は一糸纏わぬ姿でぐったりとしている。
ばさっとそこに降り立った黒羽丸は、すぐさま狐ノ依を抱き上げた。
「なんということだ…っ」
見たままのこと。狐ノ依が人間に襲われたのだと、考えずとも理解出来た。
「狐ノ依殿…何故、逃げなかった…!」
「ボクは…リクオ様の、ため…」
「何…?」
「リクオ様の…身を、第一に…」
目は開かない。閉じたままの目から涙が溢れて止まらない。
「っ、…とにかく、本家へ運びます!」
「…」
黒羽丸の腕の中で、狐ノ依は狐の姿へ戻る。傷も癒えない。狐ノ依の体は限界を迎えていた。
・・・
既に奴良組は動き出していた。
百物語組を止めるべく、関東にシマをもつ妖怪には協力を訴えている。それほど、一刻の猶予もない状態で。
当然、奴良組本家にいるものは百物語組の幹部を探し始めている。
「すまない、道をあけてくれ!」
そんな中、黒羽丸が慌ただしく戻って来ても何の違和感もなかった。
「何をそんなに慌ててんだ?」
奴良組の中で、一人だけ動こうとしない妖怪がいた。
最近こちらに来たばかりで、奴良組に所属していないもの。
「狐ノ依殿の…兄上…」
「あ?なんでびびってんだよ。俺は別に敵じゃな…」
ぷつりと止まった妖狐の言葉。
妖狐の視線は黒羽丸の腕に抱かれる狐ノ依に注がれていた。
「そいつ、どうしたんだ」
「…今は、湯で早く汚れを」
「汚れ…?ちとそいつ貸せよ」
少し乱暴に、黒羽丸の手から狐ノ依が妖狐の手に移る。
薄く青みがかった美しい毛は黒ずんだ汚れを作り、毛並みはべたついて指を通らない。
「おいおい…どういうこったよ、これは」
「…自分の口からは説明出来かねる」
「あぁ!?誰もこいつ見てなかったのか!?」
「…すまない」
頭を下げた黒羽丸の表情は自虐的に歪んでいる。
それに気付いた妖狐は唇を強く噛んでから、小さく舌打ちをした。
「後は俺に任せろ。あんたは忙しいんだろ、百物語組がどうとかで」
「…狐ノ依殿を、頼みます」
「おー」
ばさばさと羽を広げて飛んでいく黒羽丸を見届けて、妖狐は再び狐ノ依に視線を戻した。
これほどの汚れは滅多なことがないと付かない。
そして、これを妖狐は知っていた。
「俺と違って…こいつには思い人がいるんだぞ…!」
傷つけられたのは体じゃない、心の方だろう。
せめて体は綺麗にしてやろうと、妖怪達の波に逆らって風呂へと向かう。
当然そこには誰もいない。恐らく外では戦いが始まっている。
「許されねぇぞ…妖狐を汚した罪は…!」
目の青が光る。
戦いなんぞに参戦するつもりはなかったが、もはや黙ってはいられなかった。
「こんなことをした奴等は皆…ぶっ潰す…」
噛んだ腕から赤い血が流れる。
それを自らも舐めあげながら、狐ノ依の口へと流し込んだ。
「…兄さ…待って…」
血を飲んだ狐ノ依の体は人型に戻って、その指が妖狐の服を掴んだ。震える指が、零れる涙が痛々しい。
白い肌に残る無数の跡に苛立ちを覚えながらも、妖狐は狐ノ依の手を握った。
「なんだよ、言いたいことあんならさっさと言いな」
「何も、言わないで…このこと、忘れて…」
「は…はぁ!?てめぇふざけてんのか!?」
「お願い…」
狐ノ依は濡れた体で、妖狐にしがみ付いた。
「んで、だよ」
「…リクオ様が、困るから…きっと…」
妖狐の服にも水が染み込む。湯は温かいのに、触れる狐ノ依の体は冷えていて、それが少し気持ち悪い。
何がリクオ様、だ。守ってくれなかった主のことを、どうしてそこまで思える。
「あ…?ちょっと待てよ、なんで奴良リクオが困るんだ?」
「…っ」
百物語組の妖怪がこれをやったのだとしたら、これを知ったリクオは激怒するだろう。
現に、今の敵は百物語組なのだから、困るということはないはずだ。
「お前をこんなにしたのは…百物語組の妖怪じゃ、ねーのか…?」
「兄さん、お願い…言わないで、何も…」
「てめぇ、まさか…!」
しがみ付いている狐ノ依の体を引き剥がすと、そのまま水の流れる床に押し倒した。
「人間か…!」
狐ノ依の目からとめどなく涙が溢れる。
押さえ付けている狐ノ依の腕はあまりに細くて。確かに人間でも抑え込めるだろう。
「馬鹿か、てめぇ…!人間相手なら、逃げるくらい容易に出来たろうが!」
「リクオ様の為に…動くわけには、いかなかった…」
「こんなこと!てめぇの主も喜びやしねぇだろ!」
ぱしゃっと水が跳ねる。怒りに震える妖狐の手が、床を叩き付けられた。
「兄さん…」
「もう、いい。わかった…」
「え…?」
妖狐が、濡れた髪をかき上げる。
そのまま、狐ノ依を見下ろして立ち上がった。
「てめぇは京都に連れて帰る」
「…!?」
狐ノ依の腕は力なく、妖狐の腕の中へと引き上げられていた。
既に至る所で戦いが始まっていた。
首無も毛倡妓も黒田坊も、そしてリクオの元にも幹部である男が対峙して立っている。
新宿は無法地帯。人々も奴良リクオを殺すために都内に集まりつつある。
ネットで流された写真はあらゆる人間の手元に届き、興味を持った人間が束になって近付いてくる。
『おい、渋谷駅も酷ェことになってんぞ』
パソコンを前で、一人の少年は茫然と流れていく文章と写真を目で追っていた。
『これが清継くんの追っていた闇の主か…』
『このままだと、マジで人間滅びるんじゃね?』
『やべぇよ、早く殺さないと』
清継が追っていた闇の主。
しかし、自分が追っていた妖怪は悪い存在ではなかったはずだ。否定されて頭が混乱していく。
『奴良リクオ、殺さないと…』
同じ学校で、親しくしていた少年の顔が脳裏に浮かぶ。
確かにリクオの近くにいて、妖怪のような存在を見たことがあるような気はする。
しかし奴良リクオは、悪だったか。
「…違う」
助けてくれた小さな妖怪の主。美しく、そして強かった妖怪達。
「絶対違う…あの人は、そんなことしないのだ…」
『え…何?清継くん』
迷うまでもなかった。
清継の中にいるその妖怪の姿は、その小さな背中で守ってくれた確かな存在だった。
ネットで繰り広げられる噂などとは違う。自分の目で見たものだ。
「ずっと追ってきたボクには分かる!あの人を…憶測だけで軽々しく語るんじゃないよ!」
思わず大きな声で訴えていた。
あの小さな妖怪の主と、そしてその背中を守る青く美しい妖怪。
今流れている噂には、清継の中に鮮明に残っている青い妖怪は語られていない。
きっとどこかにいるはずだ。探し出して、確かめなければ。
清継はパソコンに一言打ち込むと、ばっと立ち上がった。
“ボクが証明してみせる”
奴良リクオ、友人である彼の無実を証明するために。
・・・
荒れ狂う街並みを避けるように、妖狐は人のいない方向へと足を進めていた。
どこもかしこも人と妖怪で溢れている。こんな光景を目にするのは初めてだった。
気味が悪い。
妖怪が、堂々と人の前に現れ襲いかかる様子は、異常だった。
「兄さん…待って、ボク…」
「うっせぇ、黙ってろ」
背負うようにして抱き上げられている狐ノ依は小さく足をバタつかせた。それだけでも体がだるいのは、体を有り得ないほど開かれたから。
思い出すだけで吐き気のするような記憶に襲われる。
「ぅ…」
「てめぇは奴良リクオに執心しすぎてる。危険なほどにな」
ぴくっと耳を揺らして、妖狐は壁際に寄った。
せめてこの騒ぎの中からでも逃れられれば良いが、それさえも難しそうだ。
狐の姿になれれば駆け抜けられそうなものを、狐ノ依は抵抗してそれを許さないだろう。
「くそ…これじゃどっちかに捕まっちまう…」
今は人間も妖怪も敵だ。自然と妖狐の口から舌打ちが漏れる。
下級の妖怪や人間に負けるとは思っていないが、狐ノ依を守りながらでは数で押される可能性がある。
「おい、狐ノ依…狐の姿に変われ」
「…ボクは、逃げたくない」
「周り見ろ、ここはやばい」
「嫌、だ…」
「今てめぇは戦えないだろ…!」
先ほどまで急激に体力が低下して、人間の姿に戻れないほどだった。
妖狐の血で辛うじて姿を保てているレベルだ。
「血ぃ奪って無理矢理狐にすっぞ…!」
そう言いながら、妖狐は狐ノ依をそこに落として首元に口を寄せた。
「、兄さんっ」
「っ大人しくしてろ!」
押し返してくる狐ノ依の手を掴んで押さえつける。
もう容赦している場合ではない。妖狐は鋭い牙を、狐ノ依の肌に突き刺した。
「ぅ、嫌…ッ」
狐ノ依の抵抗しようと力んでいた腕から力が抜けた。
目を閉じて、再び開くと小さな狐がそこに横たわっている。
見下ろす妖狐の目が少し揺れていて、狐ノ依はなんとか残っている意識の中、目を逸らした。
「狐ノ依聞け。もし、奴良リクオに死ねと言われたらどうする。…聞くまでもない、お前は死を選ぶ」
狐ノ依の耳が小さく動いた。
リクオはそんなこと言わない。絶対に言わない。しかし、もしそう言われる時が来たなら間違いなく死を望むだろう。
「妖狐はな、主を選べるんだよ。横暴な主は捨てることが出来る」
「…?」
「主に従順になりすぎちゃ駄目だ」
狐ノ依の血を吸った妖狐の瞳が青く光る。
綺麗だ。そう思って妖狐を見つめていた狐ノ依の目が大きく開かれた。
「あ、あそこにいるのあれじゃね?」
「さっきの子じゃん」
声と同時に妖狐の肩がくいっと後ろに引かれる。
振り返った妖狐の視界には、取り囲む無数の人間が。
「こんな所でどうしたの?」
「思ったより元気そうだねー」
狐ノ依が妖狐の服を咥えて引く。
一度妖狐は狐ノ依に視線を戻して、それから人間を見据えた。
「…そう焦んなよ」
妖狐はにやりと妖艶に口元を緩ませて、掴んだ狐ノ依を胸元に押し込んだ。
「なァ狐ノ依…こいつら殺していいよな」
「…!」
人間達には聞こえていない。これから起こる楽しいことを想像している人間達は今度はどうやって喰ってしまおうかと考えているところだ。
妖狐は指先に伸びる爪をくいっと人間の方に向けた。
「俺は奴良組じゃねぇ。どうしようと俺の勝手だよな」
妖狐の手が肩に乗る手を引き裂いた。途端に辺りが騒然とする。
人間は脆い。心も体もあっという間に壊すことが出来る。
妖狐の爪は簡単に人間の体に突き刺さった。
人間は、リクオの守りたいもの。
それはつまり狐ノ依の守りたいものでもあるのに。
汚い人間どもが壊れて行く光景は、とても気持ちが良かった。
鳥居、狐ノ依と続いた百物語もその後、それらしい怪奇事件は起こっていない。
「リクオ様、学校に復帰するのですか?」
「うん。そろそろ行かないと皆に心配かけちゃうし」
リクオのその行動が狐ノ依を不安にさせているとも知らず、リクオは制服に着替える手を止めない。
「暫くは…あまり奴良組から離れないほうが…」
「大丈夫だよ」
「…そんな、勝手なことを」
不服そうに口を尖らせながらも、狐ノ依はリクオと同じように制服を手に取った。
どうしても行くというならば、片時も離れないようにしよう。
「おい、狐ノ依?何してんだ」
「兄さん」
狐ノ依に妖狐の事実を伝えに来た兄は、それからずっと奴良組に居座っている。
京妖怪側についていた過去はあるが、誰も拒否するものはいなかった。狐ノ依の人の良さを知っているが故か、妖狐という存在を無意識に愛しいと思うが故か。
「ボクは…リクオ様と学校に行って来るよ」
「学校だぁ?妖怪に、行く必要があんのかね」
「…リクオ様は、人間でもあるから」
「ふーん。俺は興味ないね」
狐ノ依の兄である妖狐も、妖怪と人間の間から生まれている。妖狐の力が強いため、半妖、というよりも妖怪に近いが。
「狐ノ依!早く!」
「行っちゃいますよー」
リクオとつららの声に狐ノ依の耳がピンと立った。それを素早く人の姿になることで覆い隠す。
「待って下さいっ」
たたた、と着物の時よりも大股で駆けて行く。
耳も無ければ、髪も黒くて、強いて言えば肌が白すぎるような気はするが、どこをどう見ても人間。
そんな狐ノ依を目で追っていた妖狐は怪訝そうに目を細めていた。
「あいつ、やっぱり舐めてんだろ」
ごろっと寝っころがって、腕を伸ばす。体をいっぱいに伸ばすと自然に欠伸が出て、眠さを感じながら妖狐は目を閉じた。
「…なぁ、首無さんよ」
「はい?」
「暇だ」
「知りませんよ」
丁度通りかかった首無の足に、妖狐の手が絡みつく。そのまま体を引きずらせて首無に近付くと、妖狐は目線だけを上に向けた。
「奴良組と…百物語組だかなんだか知らないが、教えておくれよ」
「は…」
「てめぇらの事はよくわかんねぇ」
何かと問題起こしすぎだろ。妖狐の言葉に、首無はふっと笑ってそうですね、と言った。
妖狐が奴良組に興味を持ってくれていることが、素直に嬉しかった。
・・・
学校は、今まで以上に妖怪の話で盛り上がっていた。それも、その場に清継がいないのに、だ。明らかに、異常だった。
「鳥居さん!妖怪見たの!?」
「地下鉄に閉じ込められてたって本当?」
「ううん、カゼよ、風邪!」
休んで心配かけてごめんね、と笑っている鳥居。しかし、噂は全て事実だった。隠したのは、騒ぎになることを避けるためだという。
がっかりした様子で、集まっていた生徒達が教室を後にする。残ったのは、いつものメンバーだ。
「…鳥居さん」
「なぁに?狐ノ依くん」
「ごめんね」
鳥居の前に立った狐ノ依は深く頭を下げた。
「え!?なんで狐ノ依くんが謝るの」
「ボクが、目を離さなければ…」
「そんな、狐ノ依くんは悪くないよ」
鳥居の手のひらが狐ノ依の頭に触れる。狐ノ依はしぶしぶ頭を上げた。
「むしろ私が狐ノ依くんを置いて行っちゃったんだし…ごめんね?」
「う、ううん!鳥居さんは悪くないよ」
「ふふ、お互い様!」
鳥居への罪悪感でいっぱいだった狐ノ依の心は、すっと軽くなっていた。鳥居の笑顔は暖かい、ような気がする。
無意識に、狐ノ依も鳥居に笑顔を向けていた。
「狐ノ依、丸くなりましたね」
「うん、良かった」
その狐ノ依を見るリクオとつららの目は穏やかだった。今まで人間とは一線引いていた狐ノ依は、今回の件で一気に距離を縮めている。悪いことばかりではなかったようだ。
「やーやーみんな元気かな!」
がらがら、と音を立てて教室に入ってきた清継に、皆の表情が固まった。
「清継!お前ホンット、空気読めよな!」
「え、何?巻くんどうしたの?」
せっかく和やかなムードだったのに、台無しだ。怒る巻を無視して清継は教壇に立つと、資料をばっとこちらに向けてきた。
「最近、語られる回数の多い怪談が、現実になっているような気がするんだよね!」
「…!」
「だから、皆で“主”の話をしようじゃないか!」
狐ノ依の目が大きく見開かれる。思わず何か口走りそうになってしまった狐ノ依は、リクオにすり寄った。
「と…とりあえず、今回は活動休止した方が…」
リクオは狐ノ依を背に回してから、押さえるように清継に手を向けた。
ただの妖怪バカだと思っていれば、なんとも痛い所を突いて来る。余計な情報が彼に与えられれば、巻き込む可能性が高くなってしまう。
「…リクオ様、行きましょう」
「え、狐ノ依?」
「彼はとても…嫌いです」
狐ノ依の声は、清継にも聞こえるように発せられていた。教室に微妙な空気が流れる。
それに耐えかねて、リクオは狐ノ依の手を引いて教室を後にした。
「あ、リクオくん!」
当然つららも後を追う。
教室に残った清継は、好きな相手に振られたかの如く、ショックを隠せない様子でフラフラしていた。
・・・
「狐ノ依、どうしたの?」
学校のチャイムが鳴り響く、他には誰もいない屋上。
リクオとつららは狐ノ依を心配そうに見つめていた。風が髪の毛を持ち上げて行く。黒い髪は青く姿を変えた。
「あの男…リクオ様を狙ってる」
「…え?」
「リクオ様が巻き込まないように気を遣っていることも知らず…!」
「ちょ、ちょっと、よくわからないけど落ち着いて!」
リクオは狐ノ依の背中を擦った。
狐ノ依の言いたいことは、なんとなくわかっている。清継が会いたいといっている妖怪の存在。そこに、狐ノ依も含まれていることを、リクオは知っていた。
「大丈夫だから、ね」
「狐ノ依…丸くなったと思ったのに…。鳥居さんにだけだったのかしら」
リクオとつららがはぁあと大きなため息を吐く。狐ノ依はムッとしたまま首を斜めに傾けた。それと一緒にぴょこ、と耳が動く。
「とりあえず…人間の姿に戻ってくれる?」
「…」
「ボクも、狐ノ依のこの姿…皆に見られたくないし」
「っ、あ…はい…」
恥ずかしそうに俯いて、自分の耳を手で確認する。白くて大きな耳は消えて、黒い髪の中に人間と同じ形の耳が現れた。
「リクオ様、狐ノ依の扱いお上手ですね」
「え?扱い?」
「え…」
まさか、今ナチュラルにイチャつかれたのでは。
つららは引きつった顏をなんとか屋上から外へと向けて、もう一度深く息を吐いた。
「はぁ…そんなことよりもリクオ様…怪談、どんどん広がっていますね」
「うん」
静かであるが故、平和な時が訪れていると思いがちだが、百物語組は留まることを知らない。
「かつてと同じ…噂が妖を産み、生まれた妖がまた噂を呼ぶ状態…」
「黒田坊!」
突然背後に現れた黒田坊に、狐ノ依は体をびくっと震わせた。背の高い黒田坊に対して、自然と顔が上を向く。険しい表情。それはまた、リクオも同じだった。
「そうやって、勢力を拡大していく…それが百物語組の戦い方」
「ハイ…。妖を産み出す中心となっている奴等を倒さねばならない」
「うん。だから黒…百物語組中心メンバーの捜索を始めよう。サポートしてくれ!」
リクオの目は真剣なもので、黒田坊は一瞬、笠の下の顔を曇らせた。
「良いのですか…?拙僧かつては敵の身…。二代目の死は、その百物語組が関わっているのですよ」
二代目の死。それを聞いて、今度は狐ノ依の顔が切なく歪んだ。小刻みに揺れてしまう手をどうしたら良いのかわからず、黒田坊の装束を掴む。
「でも今は、盃を交わした奴良組の一員だろ?父さんが信じたように、ボクも黒を信じてる。それでいいじゃないか」
ぎゅっと握られた狐ノ依の手に、黒田坊の手が重なった。
「よし、じゃあ行こう!」
「…ハッ!」
くいっと笠を持ち上げて見えた黒田坊の表情は活き活きとしていた。それに見惚れていた狐ノ依の目は、黒田坊の目と交差する。
「…良かった」
「ん?どうかしたか、狐ノ依」
「黒田坊、気にしているようだったから。少し、心配だったんだ」
「っ、狐ノ依…」
「おい、黒田坊!」
何故か手を握り合っている狐ノ依と黒田坊にリクオが割り込む。
ぽつんとその光景を見ていたつららは今までで一番大きなため息を吐いた。
件。「くだん」、未来を予言する妖怪。
“生まれるらしい、近々件が…”
“牛から生まれるんだって?頭は人、体は牛…だから件。”
“生まれてすぐに予言を言うんだ。その予言は絶対”
ネットの掲示板に書かれた「件」の噂。
それは言葉で語られるよりも早く、広範囲に広まり続ける。
『近ク、コノ國ハ滅ビル。助カリタクバ、人ト妖ノ間ニ生マレタ呪ワレシ者…』
『奴良組三代目、奴良リクオヲ殺セ!』
噂は、噂だけで終わらない。
・・・
チャイムの音が鳴り響き、狐ノ依は椅子からパッと立ち上がった。
誰よりも早くリクオの元へ行きたい。というか、つららに負けたくない。
少し離れた教室に辿り着くと、ガラス部分から中を覗き込む。
「あ、奴良君、狐ノ依君来てるよ」
狐ノ依の存在に気付いた女子生徒がリクオに声をかける。この辺はもはや恒例。いつも通りだ。
「狐ノ依、ちょっと待ってて!」
「はい」
机の中をがさがさと漁りながら、鞄の物を出したり入れたり。
暫くすると、リクオは駆け足で狐ノ依の元へやって来た。
「帰ろうか」
「はい」
さり気なく、リクオの服は掴んで横を歩く。二人でいられる時間は少ないから、こういう時間も大事にしたい。
「リクオ様ー!」
たたたっと軽快な足音と高めの声。残念ながらもう終わり。狐ノ依はリクオから手を離して振り返った。
「つらら、帰るよ」
「はい!」
リクオを挟んで歩く。これもいつも通りだ。
「あ…そういえばリクオ様」
「何?」
「さっき見かけたんですが、清継くんが珍しくさっさと帰って行きましたよ」
「へー…?心配だね…」
清継、という名前に狐ノ依は少し不機嫌そうに頬を膨らませる。
しかし、その清継が早く帰ったということは、こちらにとって有難いことで。邪魔が入る可能性が少ないということだ。
「百物語組の調査に時間をあてられるね!」
「帰ったら精一杯お手伝いしますね!」
つららが嬉しそうに笑顔になる。狐ノ依はそれを横目で見ながら、再びリクオの袖口に指を伸ばした。
「あ!」
つららの大きな声に体が上下に跳ねる。狐ノ依は伸ばした手をさっと引っ込めた。
「あそこ、アイスクリーム屋さんが!」
買って来ます、と告げてつららが離れる。
狐ノ依はそれに胸を撫で下ろしてリクオの肩に頭を乗せた。
「わ、どうしたの、狐ノ依」
「つららがいるから…」
「何?」
「いちゃいちゃ出来なくて」
「な…!」
それきり何も言わないリクオを不思議に思って顔を上げれば、耳まで赤くなったリクオの顔が目の前にある。
「…ぁ、」
「ちょっとだけ、ね」
ほんの少し顔を近付ければ、唇同士が触れ合って、今度は狐ノ依の顔が真っ赤に染まった。
「お待たせしましたー」
つららが戻ってきて、二人の体はぱっと離れる。つららの手には三段に重なった鮮やかなアイス。
「あ、これおいしー」
「…自分の分だけ買ってきたんだ」
「え、リクオ様欲しかったんですか!?」
美味しそうにつららの口に運ばれていたアイスがリクオの手に渡る。リクオの口にアイスが持って行かれると、つららの頬も赤くなって。
「そ、それ、かんせつ、キ…!」
「つらら?」
「い、い、いえ…!」
わたわたと手を振るつららの様子に、狐ノ依はなんとなく優越感に浸る。
間接くらいなら構うもんか。
ふふっと笑ってリクオの手にあるアイスに舌を這わせた。
「あの、奴良…リクオ君ですか?」
知らない男の声。呼ばれた方向に顔を向けると、男の手にある携帯から、カシャ、というシャッター音が響いた。
「…え?」
突然のことに三人とも動けず茫然とする。男は携帯で撮れた写真を軽く確認すると、すぐさま走って逃げて行った。
「何だ…?」
「もしかして、ストーカーって奴じゃ」
狐ノ依の手がリクオの手をぎゅっと握り締める。
「リクオ様が美しすぎるから、きっと狙われたんですよ!」
「ま、まさか。狐ノ依じゃあるまいし」
間違いなく、あの携帯のレンズはリクオに向いていた。
こんなことは今までに一度もなかったから、よくわからない。しかし、嫌な感じだ。
「すいません」
また、知らない男の声だ。そちらに目を向ければヘラヘラと笑っている男、当然知らない奴だ。
「藤ヶ谷駅はどっちですか?」
「あ…この大通りを真っ直ぐ行けば…」
少しためらいながらも、リクオは笑顔で対応する。狐ノ依はさっきの今で油断出来ずに、警戒を解かなかった。何度もリクオの写真を撮られる訳にはいかない。
「よくわからないな…地図で説明してもらえます?」
「え…」
駅までは本当に真っ直ぐで、説明することなんかないのに。そう思いながらもリクオは男の手にある地図を覗き込む。
背後の男に気付いたのは狐ノ依だけだった。
「リクオ様っ!」
狐ノ依の声にリクオが反応した時には、鈍い音と同時に、倒れ込む狐ノ依が視界の横に映っていた。
「狐ノ依!?」
倒れた狐ノ依は腕を押さえて、痛そうに顔を歪めている。
背後に立っていた男の手にはバール。そして、道を聞いてきた男の手にはナイフ。
「こいつら殺したら殺人になっちゃうのかな」
「いや?化物だからOKっしょ?むしろ英雄じゃね?」
凶器をこちらに向けて近寄ってくる男達に、つららが怒りを露わにして手を構える。
「だ、駄目だよ、つらら…!この人達は…」
狐ノ依が言わずともわかっていた。この人達は妖怪ではない。本当にただの人間だ。
「わかってる。手加減してあげるから、感謝しなさいあんたたち!」
つららが、相手の動きを止めるために足元と手を凍らせる。その瞬間、辺りが騒然とした。
人間達のざわめく声。そして、リクオ達を敵視する目。
「こいつら…マジ化物だぁ」
「噂通り…!」
「やっぱ、アイツ妖怪なんだ…」
「人と妖の子…」
人々がこそこそと話す声が聞こえてくる。手には携帯を持って、カメラを構えて。
「り、リクオ様…何か、おかしいです…」
「うん、逃げよう…!」
人の間を抜けて、リクオ達は走り出した。気味が悪い。こんなことは今までになかった。有り得なかったことだ。
「リクオ様、あの人達なんなんでしょう、見覚えは!?」
「いや…全然わからない。でも、ボクのこと知ってた」
陰から囁くように聞こえてきた、人と妖の子…という言葉。どういう訳か知られている。そしてピンポイントで狙われた。
「狐ノ依、腕大丈夫!?」
「痛いですが…なんとか」
顔が青い。痛みは相当のようだ。早く、本家に向かわなければ。
しかしその時、足元が弾けた。
「うわ…!」
三人が転んで、そして近寄ってくる足音。また、人間だ。
「奴良リクオ、この國のためにお前を処刑する!」
「件の予言だ、悪く思うな」
くだん、聞き覚えのない言葉にリクオは目を丸くして、そして狐ノ依はリクオにすり寄った。
「…リクオ様、囲まれてます…」
「え…」
目の前からやって来た二人組の男。それだけではない。360度、綺麗に人々に囲まれてしまっている。
知らない男達は口ぐちに、リクオを殺すといったことばかり呟いた。
「リクオ様…」
「つらら、抑えて」
相手は人間だ。下手なことは出来ない。
しかし、人間の方はお構いなしに鉄パイプを振り回してきた。
当たれば死んでいた。それほど、相手は本気で殺しにかかってきている。
「あの、件ってなんですか!何かの間違いじゃ…」
「しらばっくれんじゃねーよ。人間のカッコしやがってよ…」
「とっとと正体あらわせよ、妖怪」
発砲音と共に、リクオの頬に傷が作られる。
狐ノ依の目が、大きく開かれた。
「…リクオ様、下がってください」
「狐ノ依…?」
「もう許せません。自分がやります」
「待って、駄目だ…!」
狐ノ依の手をリクオが掴む。それを、狐ノ依は首を振って制した。
「自分なら、大丈夫です」
一歩前に出ると、再び発砲音。そして、狐ノ依の腕から血が流れた。
「狐ノ依!」
「リクオ様、ここは狐ノ依に任せましょう」
「なんで…!」
「狐ノ依は…人を傷つけず、私達から引き離してくれます」
つららの言葉にはっとして狐ノ依を見ると、体が青く光っている。それに、人々の目は奪われていた。
魅了する炎だ。狐ノ依は、人の意識を奪うことが出来る。
「リクオ様、今のうちに!」
「でも、狐ノ依は…!」
「リクオ様行きましょう!」
つららがリクオの手を引いて走り出す。
足音がどんどん遠くなっていく。周りを囲む人間達は、狐ノ依に意識を奪われたまま、リクオ達を追おうとはしていない。
「良かった…」
軽く腕から流れる血を拭って、後ろを確認した。
その狐ノ依の目が大きく見開かれた。
「初めまして、あなたが妖狐の狐ノ依くんね」
「お、お前は…!?」
「私は悪食の野風…あなたと同じ妖怪よ」
一瞬のうちに、狐ノ依の腕が噛み千切られていた。痛みで、狐ノ依の体の光が消えてしまう。
「あなたはここで人間にでも食べられてなさい」
「な、に…」
「私はあなたの大事な主様を喰べてきてあげる…」
「っ待て…!」
追いかけようとした足はぴたりと止まった。見失った。もう姿が見えなくなっている。
まずい、リクオを早く追わなければ。
狐ノ依の意識は、人間から完全に逸れてしまっていた。
「こいつ…妖怪だったろ…」
「いやでも可愛いし…」
「誘ってきたのあっちだし」
「やる分には同じじゃね?」
狐ノ依を取り囲んだ男達が、ゆっくりと距離を縮めてくる。
「…!」
一気に伸ばされた無数の手が、狐ノ依の自由を奪った。大きな体がのしかかってくれば、当然華奢な狐ノ依はそこに倒される。
「痛っ!」
リクオを庇って殴られた腕が軋んだ。恐らく骨が折れていたのだろう、痛みで全身がびりびりと痺れる。
熱い息がかかって、熱い手が狐ノ依の素肌を撫でた。
「化物だから、襲っても罪になんねーだろ」
狐ノ依の着物が、無数の手によって破られていた。
「嫌だ…!」
抑え込まれた体は全く動かなかった。腕も足も、頭も、どこも人間の手によって掴まれている。
折られた骨は痛み、喰われた腕はまだ治癒しきっていない。
「変な抵抗したら、奴良リクオを追うよ」
太った男が狐ノ依の耳元で囁いた。
「大人しくしてたら、奴良リクオはもう追わないであげるよ」
なぁ、と同意を求めれば皆が頷く。そんな男達の手は狐ノ依の体を撫でまわしている。
狐ノ依には、抵抗する術が見つからなかった。
「あ、や…!リクオ様…!」
ここで狐の姿になって逃げて、そしたらここで足止めした意味はどうなる。
ましてやここで人間を殺しでもしたらリクオは怒るだろう。
「痛い、痛…ッ」
どこもかしこも痛くて、何が何だかわからなくなっている。髪、腕、胸、腰、足、痛くないのはどこだろう。
「リクオ様!助け…!」
「ほら、咥えろ」
「ん、う…っ」
「噛んだら奴良リクオを追ってやる」
リクオの名前を言われると、頭が混乱した。
どうするのが正しいのか、今こうなっている状況は一体何なのか。
「ん!」
がつん、と重い衝撃が体に走る。下半身からお腹にかけて走るこの痛みは。
それがわかってしまった瞬間、狐ノ依の目からぼろぼろと涙が溢れ出した。
「う、く…っ」
喉の奥に絡みつく熱いもの。
咳き込めば、どろっとしたものが舌の上を辿って地に落ちる。
「っ…」
リクオが守りたいものは、こんなものなのか。こんなものを守って戦わなければならないのか。
「あ、イく…!」
「次おれにもやらせろよ」
「お、おれも」
愚かだ。こんな世界、知りたくなかった。
・・・
人間達の叫び声が浮世絵町に響き渡る。
いとも簡単に事切れる人間の命。握っているのは、妖怪だった。
「やめろぉ!」
食い殺されていく人々の中心にいる妖怪。それに突っ込んでいくリクオ。
人間のために戦っているリクオに対して人々が口にするのは酷い言葉ばかりだった。
「お前、一体何考えてんだ…!」
「フフ…奴良リクオくん。早く刀を取って」
野風の着崩した着物からは口の付いた手が伸びる。その口は人間を食い荒らし続けている。
もう直に日も落ちる。
これ以上力ない姿でその光景を見ているわけにはいかない。リクオは人間の前で妖怪の姿を晒す覚悟を決めた。
その時だった。
「リクオくん…?」
人の群れから顔を出したのは。
「カナちゃん!?」
友人である家長カナ。まさかの人物の登場に、リクオは再び姿を変えることを躊躇った。
きょとん、とした顔でリクオを見ているカナはその場を動こうとしない。
「なによ、まだ変身しないのぉ~?どうやったら変身するのかしら…その子を喰べたら…!?」
野風の狙いがカナに絞られた。
気持ち悪い形をした妖怪の大きな口が、カナに食らいつこうとする。
咄嗟に飛び出したリクオの手でカナは救い出されたものの、恐怖に体を震わせていた。
「な、何…?リクオくん、あの人なんなの…!?」
「カナちゃんしっかり!」
「怖いよ、リクオくん…」
リクオにしがみ付いて涙を流すカナ。それを見て、リクオは心を決めた。
「カナちゃん大丈夫。皆は…ボクが守る」
守るために、もう躊躇している暇はない。
カナの前に立ち、野風を見据える。妖気が溢れ、空気が変わった。
「…望み通り、てめぇを叩き斬ってやる」
「それよ、その姿!!」
全身でリクオを食らいつきにいった野風の体は真っ二つに切られていた。
野風の人とは違う不気味な叫びが辺りを包んで、それから砂のように消えていく。
リクオが妖怪になればすぐ、この戦いは終わったのだった。
「ば、化物ぉ…!」
その声の主は、リクオを指さしていた。
まだ妖怪がいる、そう言いながら人々は逃げ去って行く。リクオを中心として、人間が姿を消した。
「…手ごわい奴等だ」
「三代目…?」
「オレの大事なもの一つ…見事にぶっ潰しやがった」
つららがリクオの顔を覗き込む。それでも、リクオの表情は見えなかった。
…まだだよ。この怪談は終わらない。
ぞっと背筋に走った感覚に、リクオとつららが振り返る。逃げ惑う人々の隙間に現れた、黒い瞳。
「リクオ様…あいつらは」
「…百物語組」
百物語組の圓潮と、その横にひかえている柳田。
「一晩だ、一晩で君達の存在は消え失せるよ」
圓潮が言うと、空を飛ぶ鳥が「奴良リクオを殺セ」と繰り返し始めた。人々が足を止めて上を向く。
「てめぇらが…この一連のことを仕組んだのか…?」
「さ、早速ゲームを始めましょう」
「何!?」
突拍子のない圓潮の言葉。圓潮はリクオを無視して話を進めた。
「口、耳、腕、骨、面の皮、鼻、脳。あたしら百物語組にはこう呼ばれる七人の幹部がいます」
「…!」
「これから東京中に百物語の妖怪を放つ。その中に隠れている重要な七人を見つけ出してください。それらをつぶせば奴良組の勝ちです」
「何を…言っているんだ」
内容が理解出来ないのではない。その意図が全くわからないのだ。
しかし、柳田はリクオを見て不敵に笑ってみせた。
「師匠~…もっと優しく説明してあげないと…理解出来なさそうですよ」
楽しげに笑う柳田を、リクオもつららも気味悪く感じていた。何がそんなに楽しいのか、そう問いたくなる。
「…単純な追いかけっこですよ」
百物語組の妖が人を襲い、自分達が助かるために人はリクオの命を狙う。そして奴良組は七人の幹部を見つけ倒す。
「ルールは特になし。強いていうなら…舞台は東京、残りは14時間です」
やることは確かにシンプルだ。しかし、明らかに奴良組は不利だった。
リクオは人間を守って戦うだろうから。
「人間は…自ら助かるためだけに、本気で君を殺そうとしますよ」
「…っ」
「ウソだってデマだってかまやしない。身にかかる不幸を何かのせいにしたがる」
人間なんて、そんなもんだ。
既に周りにいる人々はリクオを狙って動き出している。それでも、リクオは人間を守る。守らなければならない。
「三羽鴉…どこにいる!奴良組幹部に伝えろ、全員で奴等を炙り出す!」
リクオは妖怪の上に乗り、上空に逃れながら声を上げた。その手にはつららと、カナが抱えられている。
「リクオ様!もうおやめ下さい…人前に出るのは!」
「目の前で人がやられてんのに、ほっとくわけにゃいかねーだろ」
すぐにリクオの元へ飛んできた三羽鴉…黒羽丸、トサカ丸、ささ美の三人。
リクオにそれぞれ指示されながら、違和感に気付いたのは黒羽丸だった。
「…狐ノ依殿はどこに」
「…!黒羽丸、まず狐ノ依を探すのを優先してくれ。恐らく、駅周辺だ」
「ハッ…!」
指示通りに三人が違う方向へ飛び去る。
それを確認してから、リクオは人気のない通路へ、体を休ませに降りた。
狐ノ依がいれば、体力ももっと早く回復出来るのに。今更、狐ノ依を置いて来たことを後悔しながら。
意識を保っていることが奇跡だった。
ようやく解放された体は、横たわったまま動かない。
「は…ぁ…」
辛うじて息が口から吐き出される。
男達は満足するとリクオを探していなくなった。そこに、もう人の姿はない、一人も残っていない。
交わされた約束は簡単に破られ、誰も狐ノ依に手を差し出してはくれなかった。
「人間が…」
元々嫌いだった人間。それでも、暖かい人もいることを知ったから、少しは見直してもいいと思っていたのに。
妖怪でさえ大事にしようとする妖狐を、こうも容易く人間が壊して行く。
「…は…ッ」
笑っていた。何に対してかはわからない。痛くて、辛くて、苦しくて、何故か笑っていた。
「…!狐ノ依殿…!?」
上から聞こえてきた声に、狐ノ依の耳がぴくりと揺れた。
「まさか、そんな…!」
異臭。その中に体を横たわらせる狐ノ依は一糸纏わぬ姿でぐったりとしている。
ばさっとそこに降り立った黒羽丸は、すぐさま狐ノ依を抱き上げた。
「なんということだ…っ」
見たままのこと。狐ノ依が人間に襲われたのだと、考えずとも理解出来た。
「狐ノ依殿…何故、逃げなかった…!」
「ボクは…リクオ様の、ため…」
「何…?」
「リクオ様の…身を、第一に…」
目は開かない。閉じたままの目から涙が溢れて止まらない。
「っ、…とにかく、本家へ運びます!」
「…」
黒羽丸の腕の中で、狐ノ依は狐の姿へ戻る。傷も癒えない。狐ノ依の体は限界を迎えていた。
・・・
既に奴良組は動き出していた。
百物語組を止めるべく、関東にシマをもつ妖怪には協力を訴えている。それほど、一刻の猶予もない状態で。
当然、奴良組本家にいるものは百物語組の幹部を探し始めている。
「すまない、道をあけてくれ!」
そんな中、黒羽丸が慌ただしく戻って来ても何の違和感もなかった。
「何をそんなに慌ててんだ?」
奴良組の中で、一人だけ動こうとしない妖怪がいた。
最近こちらに来たばかりで、奴良組に所属していないもの。
「狐ノ依殿の…兄上…」
「あ?なんでびびってんだよ。俺は別に敵じゃな…」
ぷつりと止まった妖狐の言葉。
妖狐の視線は黒羽丸の腕に抱かれる狐ノ依に注がれていた。
「そいつ、どうしたんだ」
「…今は、湯で早く汚れを」
「汚れ…?ちとそいつ貸せよ」
少し乱暴に、黒羽丸の手から狐ノ依が妖狐の手に移る。
薄く青みがかった美しい毛は黒ずんだ汚れを作り、毛並みはべたついて指を通らない。
「おいおい…どういうこったよ、これは」
「…自分の口からは説明出来かねる」
「あぁ!?誰もこいつ見てなかったのか!?」
「…すまない」
頭を下げた黒羽丸の表情は自虐的に歪んでいる。
それに気付いた妖狐は唇を強く噛んでから、小さく舌打ちをした。
「後は俺に任せろ。あんたは忙しいんだろ、百物語組がどうとかで」
「…狐ノ依殿を、頼みます」
「おー」
ばさばさと羽を広げて飛んでいく黒羽丸を見届けて、妖狐は再び狐ノ依に視線を戻した。
これほどの汚れは滅多なことがないと付かない。
そして、これを妖狐は知っていた。
「俺と違って…こいつには思い人がいるんだぞ…!」
傷つけられたのは体じゃない、心の方だろう。
せめて体は綺麗にしてやろうと、妖怪達の波に逆らって風呂へと向かう。
当然そこには誰もいない。恐らく外では戦いが始まっている。
「許されねぇぞ…妖狐を汚した罪は…!」
目の青が光る。
戦いなんぞに参戦するつもりはなかったが、もはや黙ってはいられなかった。
「こんなことをした奴等は皆…ぶっ潰す…」
噛んだ腕から赤い血が流れる。
それを自らも舐めあげながら、狐ノ依の口へと流し込んだ。
「…兄さ…待って…」
血を飲んだ狐ノ依の体は人型に戻って、その指が妖狐の服を掴んだ。震える指が、零れる涙が痛々しい。
白い肌に残る無数の跡に苛立ちを覚えながらも、妖狐は狐ノ依の手を握った。
「なんだよ、言いたいことあんならさっさと言いな」
「何も、言わないで…このこと、忘れて…」
「は…はぁ!?てめぇふざけてんのか!?」
「お願い…」
狐ノ依は濡れた体で、妖狐にしがみ付いた。
「んで、だよ」
「…リクオ様が、困るから…きっと…」
妖狐の服にも水が染み込む。湯は温かいのに、触れる狐ノ依の体は冷えていて、それが少し気持ち悪い。
何がリクオ様、だ。守ってくれなかった主のことを、どうしてそこまで思える。
「あ…?ちょっと待てよ、なんで奴良リクオが困るんだ?」
「…っ」
百物語組の妖怪がこれをやったのだとしたら、これを知ったリクオは激怒するだろう。
現に、今の敵は百物語組なのだから、困るということはないはずだ。
「お前をこんなにしたのは…百物語組の妖怪じゃ、ねーのか…?」
「兄さん、お願い…言わないで、何も…」
「てめぇ、まさか…!」
しがみ付いている狐ノ依の体を引き剥がすと、そのまま水の流れる床に押し倒した。
「人間か…!」
狐ノ依の目からとめどなく涙が溢れる。
押さえ付けている狐ノ依の腕はあまりに細くて。確かに人間でも抑え込めるだろう。
「馬鹿か、てめぇ…!人間相手なら、逃げるくらい容易に出来たろうが!」
「リクオ様の為に…動くわけには、いかなかった…」
「こんなこと!てめぇの主も喜びやしねぇだろ!」
ぱしゃっと水が跳ねる。怒りに震える妖狐の手が、床を叩き付けられた。
「兄さん…」
「もう、いい。わかった…」
「え…?」
妖狐が、濡れた髪をかき上げる。
そのまま、狐ノ依を見下ろして立ち上がった。
「てめぇは京都に連れて帰る」
「…!?」
狐ノ依の腕は力なく、妖狐の腕の中へと引き上げられていた。
既に至る所で戦いが始まっていた。
首無も毛倡妓も黒田坊も、そしてリクオの元にも幹部である男が対峙して立っている。
新宿は無法地帯。人々も奴良リクオを殺すために都内に集まりつつある。
ネットで流された写真はあらゆる人間の手元に届き、興味を持った人間が束になって近付いてくる。
『おい、渋谷駅も酷ェことになってんぞ』
パソコンを前で、一人の少年は茫然と流れていく文章と写真を目で追っていた。
『これが清継くんの追っていた闇の主か…』
『このままだと、マジで人間滅びるんじゃね?』
『やべぇよ、早く殺さないと』
清継が追っていた闇の主。
しかし、自分が追っていた妖怪は悪い存在ではなかったはずだ。否定されて頭が混乱していく。
『奴良リクオ、殺さないと…』
同じ学校で、親しくしていた少年の顔が脳裏に浮かぶ。
確かにリクオの近くにいて、妖怪のような存在を見たことがあるような気はする。
しかし奴良リクオは、悪だったか。
「…違う」
助けてくれた小さな妖怪の主。美しく、そして強かった妖怪達。
「絶対違う…あの人は、そんなことしないのだ…」
『え…何?清継くん』
迷うまでもなかった。
清継の中にいるその妖怪の姿は、その小さな背中で守ってくれた確かな存在だった。
ネットで繰り広げられる噂などとは違う。自分の目で見たものだ。
「ずっと追ってきたボクには分かる!あの人を…憶測だけで軽々しく語るんじゃないよ!」
思わず大きな声で訴えていた。
あの小さな妖怪の主と、そしてその背中を守る青く美しい妖怪。
今流れている噂には、清継の中に鮮明に残っている青い妖怪は語られていない。
きっとどこかにいるはずだ。探し出して、確かめなければ。
清継はパソコンに一言打ち込むと、ばっと立ち上がった。
“ボクが証明してみせる”
奴良リクオ、友人である彼の無実を証明するために。
・・・
荒れ狂う街並みを避けるように、妖狐は人のいない方向へと足を進めていた。
どこもかしこも人と妖怪で溢れている。こんな光景を目にするのは初めてだった。
気味が悪い。
妖怪が、堂々と人の前に現れ襲いかかる様子は、異常だった。
「兄さん…待って、ボク…」
「うっせぇ、黙ってろ」
背負うようにして抱き上げられている狐ノ依は小さく足をバタつかせた。それだけでも体がだるいのは、体を有り得ないほど開かれたから。
思い出すだけで吐き気のするような記憶に襲われる。
「ぅ…」
「てめぇは奴良リクオに執心しすぎてる。危険なほどにな」
ぴくっと耳を揺らして、妖狐は壁際に寄った。
せめてこの騒ぎの中からでも逃れられれば良いが、それさえも難しそうだ。
狐の姿になれれば駆け抜けられそうなものを、狐ノ依は抵抗してそれを許さないだろう。
「くそ…これじゃどっちかに捕まっちまう…」
今は人間も妖怪も敵だ。自然と妖狐の口から舌打ちが漏れる。
下級の妖怪や人間に負けるとは思っていないが、狐ノ依を守りながらでは数で押される可能性がある。
「おい、狐ノ依…狐の姿に変われ」
「…ボクは、逃げたくない」
「周り見ろ、ここはやばい」
「嫌、だ…」
「今てめぇは戦えないだろ…!」
先ほどまで急激に体力が低下して、人間の姿に戻れないほどだった。
妖狐の血で辛うじて姿を保てているレベルだ。
「血ぃ奪って無理矢理狐にすっぞ…!」
そう言いながら、妖狐は狐ノ依をそこに落として首元に口を寄せた。
「、兄さんっ」
「っ大人しくしてろ!」
押し返してくる狐ノ依の手を掴んで押さえつける。
もう容赦している場合ではない。妖狐は鋭い牙を、狐ノ依の肌に突き刺した。
「ぅ、嫌…ッ」
狐ノ依の抵抗しようと力んでいた腕から力が抜けた。
目を閉じて、再び開くと小さな狐がそこに横たわっている。
見下ろす妖狐の目が少し揺れていて、狐ノ依はなんとか残っている意識の中、目を逸らした。
「狐ノ依聞け。もし、奴良リクオに死ねと言われたらどうする。…聞くまでもない、お前は死を選ぶ」
狐ノ依の耳が小さく動いた。
リクオはそんなこと言わない。絶対に言わない。しかし、もしそう言われる時が来たなら間違いなく死を望むだろう。
「妖狐はな、主を選べるんだよ。横暴な主は捨てることが出来る」
「…?」
「主に従順になりすぎちゃ駄目だ」
狐ノ依の血を吸った妖狐の瞳が青く光る。
綺麗だ。そう思って妖狐を見つめていた狐ノ依の目が大きく開かれた。
「あ、あそこにいるのあれじゃね?」
「さっきの子じゃん」
声と同時に妖狐の肩がくいっと後ろに引かれる。
振り返った妖狐の視界には、取り囲む無数の人間が。
「こんな所でどうしたの?」
「思ったより元気そうだねー」
狐ノ依が妖狐の服を咥えて引く。
一度妖狐は狐ノ依に視線を戻して、それから人間を見据えた。
「…そう焦んなよ」
妖狐はにやりと妖艶に口元を緩ませて、掴んだ狐ノ依を胸元に押し込んだ。
「なァ狐ノ依…こいつら殺していいよな」
「…!」
人間達には聞こえていない。これから起こる楽しいことを想像している人間達は今度はどうやって喰ってしまおうかと考えているところだ。
妖狐は指先に伸びる爪をくいっと人間の方に向けた。
「俺は奴良組じゃねぇ。どうしようと俺の勝手だよな」
妖狐の手が肩に乗る手を引き裂いた。途端に辺りが騒然とする。
人間は脆い。心も体もあっという間に壊すことが出来る。
妖狐の爪は簡単に人間の体に突き刺さった。
人間は、リクオの守りたいもの。
それはつまり狐ノ依の守りたいものでもあるのに。
汚い人間どもが壊れて行く光景は、とても気持ちが良かった。