リクオ夢(2011.10~2015.03)
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皆が深刻な顔をして座っている。居心地悪そうにリクオの近くに控えている狐ノ依にも視線が集まっているのには当然ワケがあった。
「狐ノ依殿は今回の地下鉄少女の件が終了すると同時に戻ったが…何か見たのか?」
きっと妖怪達の目が狐ノ依を血走った目で見つめる。びくっと体をすくませた狐ノ依には戸惑って視線を泳がせることしか出来ない。
「な、何か…とは何を…でしょう」
「もし百物語組が復活しているのなら、産むことが出来る奴がいるということ」
「奴は復活していたのか!?」
「や…奴って、なんのことです…?」
わかりきったように話を進めようとする妖怪達が何のことを話しているのか狐ノ依にはわからない。しかし、それは狐ノ依だけではなかった。
「おい待て待て、何だよその百物語組ってのは。わかってる奴だけで話を進めるんじゃねぇよ!なぁ、狐ノ依」
「はい…」
鴆の言葉に狐ノ依はためらいながらも大きく頷いた。それと同時につららや猩影も同じような反応を示す。どれも若い妖怪だ。
「無理もなかろう。明治以降に生まれた妖怪は百物語組との抗争も知らんのだ」
カラス天狗が言うと、事情をよく知った妖怪達が説明を始めた。
百物語組とは、怪談を「集め」「語り」「産む」、妖怪・怪異の組織。その主な方法は〈百物語〉。
山ン本五郎左衛門は、何万とも言われる怪異を紡ぎ出し、自ら産んだ妖怪たちを束ねる頭領として江戸の闇に君臨し、奴良組と激しい抗争を繰り広げた男。
当然、その男は鯉伴によって殺されている、はずなのだ。
「おい黒田坊、なんか知らねーのか?おめぇ、元百物語組幹部だろ」
それでなくてもザワついていたそこは、一ツ目の一言で更に不穏な空気に変わった。
「一ツ目殿!」
「てめぇ、黒が何かしたってのか!」
「ちげーのか?」
首無と青田坊が思わず立ち上がって一ツ目を睨み付ける。黒田坊のことも、百物語のこともよく知らなかった狐ノ依は、じっと黒田坊を見つめていた。
確かに黒田坊と怪異の中で遭遇した柳田という妖怪は知り合いのようで、それは黒田坊が元々あちら側にいたのだということを明らかにした。
「でも」
ぽつりと漏れた狐ノ依の声に、皆の視線は再び狐ノ依に戻った。
「でも黒田坊は助けてくれた。黒田坊を疑える要素なんて、どこにもない」
「そういう狐ノ依殿こそ、疑いの余地があるのをお忘れか」
「…え」
「どこで何をしていたかわかったものではないぞ」
ザワザワと余計に煩くなった部屋の中、狐ノ依が目を見開いて口を閉ざした。酷い言いがかりだ。信じられない現実に、何かを疑わなければいられないらしい。
リクオの目が狐ノ依を見つめて、それに気付いた狐ノ依は小さく首を横に振った。むしろ心配すべきは黒田坊の方だ…
狐ノ依が思ったその横で、黒田坊がどんと畳を叩いた。
「確かに拙僧は元百物語組…しかし拙僧は二代目鯉伴様と盃を交わし忠誠を誓った身。そのような疑いの言葉、二度と聞き逃しませんぞ」
今度はしんとして、一ツ目と黒田坊が睨み合う。
暫く黙っていたリクオも、さすがに息を吐いてから口を開いた。
「仲間同士で疑いあってんじゃねぇよ。今日はこのへんにしておこう」
リクオの手が狐ノ依の背を撫でる。無意識に力んでいた体がすっと緩んで、狐ノ依は疲れた表情で薄く微笑むと足早に部屋を後にした。
・・・
「狐ノ依」
たた、と少し細かい足音と共に大人しめの声。狐ノ依は少し落ち込み気味だった顏を元に戻そうと頬を抓ってから振り返った。
「何?」
振り返った狐ノ依の目に映ったのは、怒りか悲しみか、判断し辛い表情を浮かべた首無。首無は何も言わずに近付いてくると、力強く狐ノ依の体を抱きしめた。
「わ、どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ…本当に心配したんだから…」
「あ…」
そういえばずいぶん姿を消していたのだということを忘れていた。ぎゅっと背中に回る手の力に、どれだけ心配をかけてしまったのか実感する。狐ノ依は同じように首無に手を回した。
「ごめん…」
「これからは、絶対に一人で無茶しないで」
「うん」
「リクオ様だって、ずっと落ち着かなくて大変だったんだから。何があった?」
体が離れると、今度は真剣な顔が狐ノ依を見つめている。首無も昔から奴良組にいる妖怪の一人で、それはつまり百物語組との抗争にも参加していたはず。心配なこともたくさんあるのだろう。
「…はっきりとはわからないんだ。少し、記憶が曖昧になってて…」
「…」
「たぶん、百物語組の妖怪の一人と接触した」
驚いて見開かれた首無の目。もしかしたら、思った以上にまずいことになっているのかも。不安から自分の両手を擦り合わせた狐ノ依の体は後ろに引かれてよろけていた。
「今の…もしかして柳田のことか、狐ノ依」
「黒田坊」
大きく開いた首無と目とは対照的に、黒田坊の目は鋭く吊り上っている。
「おい、黒。あまり乱暴には…」
「大丈夫だよ、首無」
「でも、体に異常は?痛むところとかは」
「どこも問題ないから」
一度首無に笑いかけてから、狐ノ依は黒田坊に向き直った。
「ボク、多分…その柳田っていう妖怪に会った…んだけど、その後のことが何も思い出せないんだ」
「…思い出せない?」
「ボクって、五日もいなかったんだよね…。ボク、その五日間に何があったんだろう」
黒田坊を見つめたまま、狐ノ依はあえて何も知らない黒田坊に尋ねる。やはり、黒田坊はなんとなくわかってしまったようで、狐ノ依の肩を掴む手に力を込めた。
「っ、黒田坊…。ボクも怪異になるのかな」
「…!い、いや、恐らくそれはない」
「本当?」
黒田坊の視線が少し逸れた。不安が募って無意識に震えた手を、後ろから包み込むように首無の手が重なる。
「だが…狐ノ依を材料にされた可能性は…あるいは…」
「黒、もう…狐ノ依を不安にさせてやるな」
百物語組の存在は間違いない。しかし、確実に昔とは違うのだ。狐ノ依の身に何が起こったのかなど、誰にも想像することは出来なかった。
・・・
東京、某所。
ぱちぱち、と拍手に包まれるのか男が袖に戻る。男はここで噺を紡いでいた。
「圓潮(えんちょう)師匠」
「なんだい、来てたのかい。最近は広まるのが早いなぁ…。最近じゃ〈切裂とおりゃんせ〉アレは良かったけど」
本を片手ににたりと笑う男、柳田。もう一人の男、圓潮は表情の読めない、深く黒い目を柳田に向けた。
「頼むよ柳田、また面白い話を持ってきてくれ」
「はい。もう次は用意してありますよ、師匠」
柳田の脳裏に浮かぶ小さく弱そうな狐の妖怪。まだ発育も良くないただの妖狐だが、ああいう容姿は人間に好まれる。
善の妖怪が悪に染まった姿はどんなものだろう。奴良組の反応を想像するだけでゾクゾクする。
「お前さんに師匠呼ばわりされる覚えはないよ。あんたが聴いて、あたしが語る。そういう関係だ」
襖を開ければそこに何人もの陰がある。
百物語組。山ン本さんが還るまで、噺を続ける…恐怖でこの世を覆い尽くすために。
暗い一本道。ひやりとする風を浴びながら一人の男が歩いていた。電灯の一つもない、それでも一本道とわかっているから足取りは変わらず歩けた。
「…え」
思わず声が漏れていた。ぼんやりとする視界の先に人影がある。もう夜も遅いというのに、こんな暗い場所で一人。
多少気になりながらも、早く帰らなければと急ぐ足を変えることはない。
しかし、その人の姿を確認すると、男は息を呑んだ。あまりにも端正な容姿、肌蹴た着物から晒された綺麗な足。
「…今、僕を見た?」
大きな目が男を捕らえた。高めの少年の声が男の耳を刺激する。
「僕のこと、見たでしょ」
「い、いや…」
「嘘」
肌蹴ていた着物が滑り、肩から腰までが闇の中に映し出された。白い肌、つんと立った胸の中心。その胸に膨らみは当然ないというのに、小さな体には色気がある。
「ねぇ、お兄さん。僕…寂しいんだ」
「さ、寂しい…?」
「うん、だから慰めて欲しい」
細い指が男の手を絡め取った。その手はそのまま少年の口に運ばれ、指の先に生暖かい舌が触れる。口から小さく出された舌が指を這って、その感触に男の体がぴくりと震えた。
「ん…」
「君、…どうして、こんなことを…?」
「頂戴、お兄さん…ちょうだい」
着物が音を立てて落ちる。男の手は少年の肩をきつく掴んでいた。
・・・
朝からバタバタと慌ただしい足音に、狐ノ依はむくりと体を起き上らせた。暖かい布団を握る手を見下ろせば、そこにリクオはいない。
「ふぁ…」
大きく開かれた口から欠伸が漏れる。耳を立てると、廊下の軋む音がこちらに向かっていることに気付いて、狐ノ依は乱れた着物を直してそこに正座した。
「あ、狐ノ依おはよう!」
「おはようございます、リクオ様。そんなに慌てて…どうかなさったのですか?」
「う、うん…狐ノ依にも聞いて欲しいんだけど」
リクオはたた、と狐ノ依に近付くと、その前に座った。真剣な目付きに、狐ノ依も背筋をぴんと伸ばす。
「実は結構近いところで怪奇事件が起こったんだ」
「…怪奇事件、ですか?」
「そう。男の人が…血液のほとんどを失った状態で死んでたって。しかも、もう三日も連続で」
「そ、そんなことが…!」
狐ノ依は自分の口を抑えてさっと青ざめた。
「それでね、その人たち…傷口が」
「傷口が…?」
躊躇ったように、一度リクオの口が閉じる。不思議そうに首を傾げた狐ノ依の様子に、リクオは少し視線を逸らしてから口を改めて開いた。
「噛み跡…二つの歯型だけ残ってたそうだよ」
「歯…?それだけで血が…?」
「世間では、吸血鬼だなんだ言われてるみたい」
ふと、狐ノ依は自分の歯を思い出した。狐ノ依はリクオの手のひらに何度も噛みついて血を吸ったことがある。
「…まさか、リクオ様、ボクを…」
「い、いや!違うんだ、狐ノ依を見てればわかるよ、狐ノ依はそんなことしてないって!ううん、狐ノ依がそんなことするはずがない」
「はい…」
「でも、疑っている人もいるみたいなんだ。ごめんね」
「そんな!リクオ様は悪くないです!…ボクに信用がないから」
しゅん、と落ち込む狐ノ依の頭に手を乗せる。リクオの手が優しく撫でてくれるのが嬉しくて、狐ノ依はリクオに抱き着いた。
「リクオ様こそ、気を付けて下さいね」
「うん、有難う」
ぱっと体を離して、来たときよりも少し安心したような顏付きに変わったリクオが立ち上がる。部屋を後にしようと踏み出したリクオが何か思い出したように立ち止まった。
「あ、狐ノ依。朝ご飯用意出来てるからね」
「はい、有難うございます」
きし、と音を立ててリクオがいなくなる。狐ノ依はもう一度欠伸をして、自分のお腹に手を乗せた。
「眠くて…お腹すいてないや」
最近、寝不足な日が続いているような気がする。夜はちゃんと寝ているのにな…。
そこに敷かれたままの布団にもう一度体を預ける。リクオは学校に行くのだろうか。それともまだ休み続けるのだろうか。まぁ、どうでもいいや。
狐ノ依は再び眠りに堕ちていった。
・・・
「…若、狐ノ依の様子はどうでしたか」
俯き気味で歩いていたリクオは、投げかけられた重い声に足を止めた。腕を組んで、リクオと同じように険しく、それでいて不安そうな顔をしている首無。
「狐ノ依は…何も知らなかった」
「…そうでしょうね。狐ノ依があんなことをするはずがない」
「黒田坊は」
首無から逸らした視線は、陰に身を潜ませていた黒田坊に向けられた。びくりと体を震わせた黒田坊の笠が陰から覗く。その表情は二人よりも更に何か思い詰めていた。
「丁度三日前から、狐ノ依は一人外に出て行くことが増えた。昨夜も、狐ノ依は夜中に抜け出してる。それを、黒田坊はどう考える?」
「…百物語」
「黒田坊?」
「…今夜は狐ノ依を見張っていた方がいい」
リクオも首無も、なんとなくわかっていた。もしも狐ノ依が犯人であるとするなら、百物語が関係しているということ。
黒田坊はそれ以上何も言わずに踵を返した。それをじっと見つめていたリクオと首無は目を合わせて小さく頷く。
「私も協力します」
「うん、頼むよ。…他の奴良組の皆には知られないように」
「はい」
狐ノ依が怪奇に関係ないと信じたい。それでも、狐ノ依がいなかった期間に何があったのかわからない以上、狐ノ依の身に何が起こっているのかわからない以上、疑ってかかる他なかった。
「それでも…ボクは狐ノ依があの事件を起こしただなんて思いたくない」
「狐ノ依は優しい子ですから…」
「…狐ノ依」
人が亡くなっているというのに、心配なのはただ狐ノ依の心だった。
・・・
夜。当たって欲しくなかった彼らの予想は当たってしまった。寝たふりをしていたリクオの横、めくり上がる布団の気配。狐ノ依は部屋を抜け出した。
ゆらゆらと歩く姿にいつもの覇気はない。明らかに正常には見えなかった。
「…狐ノ依」
思わず漏れた声に含まれたため息。リクオは一度きつく目を閉じてから、狐ノ依の後を追うために体を布団から引き抜いた。
「若…!」
「首無、狐ノ依は…」
先に外で様子を見ていた首無の指の先が闇を指す。事件の起こった場所に続く道。
「声をかけるか迷ったのですが…暫く様子を見るべきかと…」
「そう、だね」
すぐにでも声をかけたい気持ちを抑える。もし、狐ノ依が辿り着いた先が事件の現場だったら。予感が確信に変わるのが怖くて、それでもリクオは奴良組の三代目として狐ノ依のしていることを確認する義務があった。
「若、狐ノ依の姿が」
「え?」
ぼうっとしていたせいか、狐ノ依との距離は広がっている。暗くてはっきりとしない視界の先にいる狐ノ依は青く輝く姿をしていなかった。そこにいるのは妖怪としての姿ではなく、人間としての姿の狐ノ依だ。
「狐ノ依…」
「ま、待って下さい!若!」
リクオの歩幅が大きくなる。もはや我慢の限界だった。このまま狐ノ依を見ているだけなど出来ない。
「悪ィな、首無。もし何か見ても、何も言うな」
「…若」
たったと駆けて前を行く狐ノ依を追う。そのリクオの目は真剣だった。たとえ狐ノ依の様子が異常であったとしても、全部受け止める。救い出してみせる。
相変わらず、狐ノ依の歩みはどこかおぼついていた。そんな狐ノ依に追いつくのは、距離を空けてつけるよりも容易だった。
「…狐ノ依」
電灯の無くなった道はあまりにも暗くて、そこには狐ノ依の着物がほんの少し光って見えるだけ。その狐ノ依の背中がピタリと止まった。
「狐ノ依、こんな時間にどこに行くってんだい…?」
振り向かない背中にリクオの喉が上下に揺れた。もう希望を抱いてもしかながないだろう。狐ノ依はどこかおかしい。それは認めざるを得ない。
そう覚悟したとき、狐ノ依がゆっくりと振り向いた。
「どこって…ボクがどこかに行くのに、毎度報告が必要ですか?」
「狐ノ依…?」
「どうかなさったのですか?顔色が…」
思っていたのものと違う現実に、リクオは目を丸くして言葉を失った。それを心配したように見上げる狐ノ依はよく知っている、いつもの狐ノ依だ。
「…いや、心配になるだろ。勝手にいなくなったら…」
「もう!ボクは子供じゃないんですから」
「だからってなんでこんなところに」
「知り合いがいるんです、この先に」
知り合い。狐ノ依の目は嘘を言っているようには聞こえない。しかし、どこか不安が過る。この狐ノ依は本物か。
「こんな時間に会いに行くのか」
「こんな時間しか会ってくれないんです」
狐ノ依がわからない。リクオは無意識に狐ノ依の頬に掌を合わせた
「信じていいのか」
「…ボクが、信じられないのですか?」
「せめて、オレも一緒に」
「いいですけど、たぶん無理だと思いますよ」
くすっと可愛らしく笑った狐ノ依。しかし次の瞬間、どういうわけか狐ノ依が走り出していた。
「彼、人見知りですから」
「狐ノ依!?」
リクオがその後を追いかけると、狐ノ依は追いかけっこでもしているかのように、楽しそうな声を上げた。
これは普通なのか、異常なのか。リクオは狐ノ依に追いつくことが出来なかった。辺りは暗闇で、目の前の狐ノ依を追うのさえ難しいというのに、狐ノ依は道を把握しているようで素早く道を曲がっていってしまう。
「狐ノ依!行くな…!」
その声は、真っ直ぐ続く道に響き渡った。
「…どうなってやがんだ、これは」
「若!?狐ノ依は」
「わからねぇ…行っちまった」
「ど、どこに…?」
「…」
首を横に振るリクオを見て、首無は愕然と暗い道の先に目をやった。
「狐ノ依は…やはり」
「いや、それも…よくわかんねぇ」
「どういうことですか」
「…」
愛しい者のことなのに、こんなにわからない。何があったのか、何をしているのか。普通とはなんだっただろう。リクオは混乱していた、正常に頭が回っていなかったのだ。
人をだまして喰らう妖狐の噺。
「そう簡単に終わらせたりはしない…」
柳田が、肩に抱く狐ノ依を見つめながら笑った。その狐ノ依の目は広がる闇をぼんやりと眺めている。何も、興味などないように。
「血に飢えた狐…この子にはもっと奴良組を掻き乱してもらわないと」
柳田の指が狐ノ依の唇をなぞる。決して人を殺めるためにあるわけではない牙が指に深く突き刺さった。
「でももう誤魔化すのは難しい哉…」
「たりない…」
「夜に邪魔が入らなければ、まだ」
「ちょうだい、もっと…」
潤んで揺れる青い瞳が柳田を捕らえている。柳田の口元がにっと弧を描いた。
「あまり煩いと、孕ませるよ?」
腰をぎゅっと掴んで引き寄せると、狐ノ依が小さく喘いだ。もともと遺伝子を大事にする種族故に美しい作りをしているが、そうとは言えどやけに色気がある。
「むしろ犯されたいの哉」
「あ、ぅ…」
柳田の指先が妖狐の薄い衣にかかる。既に動き回ったせいで肌蹴ていたそれは、簡単にするりと肩から落ちた。
「貧弱だね…ただの餓鬼じゃないか」
「ん」
「でも、今夜はここにいてもらうよ」
肩を掴まれて妖狐が後ろに倒れる。何かを企み細められた柳田の目が、夜の暗闇の中ぎらりと光っていた。
・・・
朝になっても狐ノ依は帰って来なかった。リクオも首無も寝ずに帰宅を待っていたが、もう日が昇ってしまっている。
何よりも心配なのは、狐ノ依が不可解な行動をとっているということを、他の奴良組の者に知られないようにしなければいけない、ということだ。
「それでなくても、ピリピリしてるのに…」
「リクオ様、やはり狐ノ依は」
「…」
狐ノ依が朝まで帰って来ないなんてことは今までなかった。何よりリクオに心配をかけるような行動をとるはずがない。
「元からある妖怪が、怪奇になるなんて」
「百物語組が以前より力をつけていることは間違いないかと…」
「そう、だろうね…」
黒田坊でさえ、奴良組の一部の妖怪に白い目で見られているのに。狐ノ依までそんなことになってしまったら。
嫌なことばかり考えてしまう。リクオは顏の前できつく手を握りしめた。
「ボクが狐ノ依から目を離さなければ…」
「リクオ様…」
「狐ノ依がいない間、ずっと思ってたんだ。隣にいさせれば良かったって」
「いえ、私達の誰かがついていれば」
「ううん…ボクがいけなかった…」
奴良組の三代目として、いろいろ抱え込もうとしすぎた。それ故に狐ノ依から目を離して、その結果が今の状況だ。
「狐ノ依…っ」
祈るように、押しつぶしたような声が漏れる。
その時、じゃり…と小さな音が聞こえて、リクオはばっと顏を上げた。
「ぁ…」
目の前に、確かに狐ノ依がいる。リクオと目が合うと、びくりと肩を震わせて、酷く怯えた様子を見せた。それで本物だとすぐにわかった。
「狐ノ依、良かった…!」
駆けだして、狐ノ依を抱きしめる。狐ノ依も逃げずにそこにいてくれた。
「り、りくお、様…」
「いいよ、今は何も言わなくて」
首無は狐ノ依が操られている可能性も考えて、慎重に様子を見ている。しかし、狐ノ依の手はリクオの体に伸びることすらなかった。カタカタと小刻みに震えている。嗚咽が、リクオの耳にも届いていた。
「狐ノ依、落ち着いて。大丈夫だから…」
「っ、」
背中を擦って、そのまま背中を支えたまま体を離す。
このままここにいても怪しまれるかもしれない。
リクオは首無に見張りを頼んで、狐ノ依と二人自室に向かった。その間も、狐ノ依はずっと鼻をすすって涙をこらえていた。
「狐ノ依、そんなところで立ってないで、こっちに来て」
「…い、いえ…自分、にそんな」
「いいから」
「…はい」
もはや聞くまでもなかった。狐ノ依のこの様子からすると、昨夜のことを悔いているのか、あるいは怪奇のことだろう。
「狐ノ依、昨夜…何があったか聞いてもいい?」
「ッ、…あ、…」
少し開いた口が、迷った末に閉ざしてしまった。泣いたせいで赤くなっていた顏が、真っ青になっていく。
「何を聞いても、ボクは狐ノ依の味方だから」
「リクオ様…」
溢れた涙がこぼれ落ちる。
「リクオ様は、もう、わかっているかと…思います…」
「…怪奇のこと?」
「は、い…」
「覚えてるんだね、狐ノ依」
首が、静かに縦に振られた。その時のことも覚えているのだろう。狐ノ依は口を抑えて辛そうに顏を歪ませた。
「…狐ノ依が自分の意思でやったんじゃないこと、わかってるよ」
「いえ、自分が…いけなくて…それに、まだ終わってないんです」
狐ノ依の目がリクオの目と合って大きく揺れる。再びこぼれそうになった涙を拭った狐ノ依の目は、しっかりとリクオを見つめていた。
「…今夜、ボクを殺して下さい」
「え?」
狐ノ依が何を言っているのかよくわからなかった。そこまで自分を追い詰めてしまっているのか。
リクオは狐ノ依の手をぎゅっと握って自分の方に引き寄せた。
「今回のこと、狐ノ依は悪くない!だから、そんなこと言うなよ…!」
「っ、…お願いします」
「狐ノ依っ」
「ボクはもう…!」
それだけ言うと、狐ノ依は口を閉じてしまった。触れる手が握り返されることもなかった。
・・・
「柳田サン、良かったのかい?」
「ん、何が哉?」
手に持つ筆を止めて、鏡斎が振り返った。外を眺めながら笑っている柳田は視線だけを鏡斎に向けている。
「怪奇になっている時のこと、思い出させたろ」
「その方が面白いからね」
「…それだと嘘もばれるんじゃねぇのか」
あぁ、とさも今思い至ったかのように柳田が手を打つ。それでも、柳田の口元に浮かべられた笑みが消えることはなかった。
「あれは混乱していたからね…大丈夫だろう」
まだ楽しませてもらわなくては。
「自滅すればいい」
奴良組への恨みが、言葉の重みを増幅させていた。
・・・
日が落ち始める。
狐ノ依は口を開かないし、リクオも何も言うことが出来ずにいた。
このままでは今日も同じように狐ノ依は怪奇として動き出してしまうかもしれない。そうなった時、どうしたら止められるのかもわかっていないというのに。殺せ、なんて。
リクオは納得いかない様子で顏をしかめた。どうしろというんだ。
「リクオ様…!」
そんな深刻な空気の部屋に、ばたばた音を立てながら駆けこんできたつららが飛び込んだ。
「リクオ様、大変です!」
「…何、つらら。今それどころじゃ…」
不機嫌そうな顔をしたリクオがつららの方に目を向ける。そのつららの後ろにいる人影を視界に捕えたリクオは、目を大きく見開いて立ち上がった。
「君は…」
その人はリクオに目も呉れず、俯いたままの狐ノ依の胸元を掴んで引き寄せた。
「おい、てめぇ…どんだけ妖狐を侮辱すりゃ気が済むんだ!」
「…に、いさん?」
似たような姿をした妖狐。狐ノ依よりも吊り上った目をした美しい人。以前会ったときに見た長く綺麗な髪の毛はばっさり切られていて、そのせいか男性らしい顔つきに変わって見える。
「…どうして、ここに」
「やな噂が流れてきたんだよ!化け狐がどうこう、とか…。それがこの浮世絵町だっていうから心配…いや、んなこたどうでもいい!」
驚いて動けずにいる狐ノ依を床に叩き付けると、妖狐は荒々しくフンッと息を吐いた。
「さっさとケリつけやがれ…。これ以上侮辱するなら本気で殺すぞ」
「え、え…?」
「よくわかんねぇけど、こいつ操られてんだろ?」
ぱっと振り返った妖狐がリクオを見た。切れ長の青い瞳に一瞬びくっと体を震わせる。それからリクオは深く頷いた。
「…うん」
「妖狐にとって、何よりも優先すべきは主だ。おかしくなっている時にてめぇの血を吸わせりゃ治る」
「ほ、本当に…?」
「普通に考えりゃそーだろ」
あほか、とイラついた様子で呟いた妖狐は、もう一度狐ノ依を見下ろした。
「…なんつー顔してんだよ」
「っ…」
「助け舟出してやったろうが」
「ボク、でも…っ」
首を横に振って、狐ノ依の手はぎゅっと妖狐の服を掴んでいる。
「っ、おい、俺はお前を認めたわけじゃねーんだぞ。甘えんな」
「う…」
振り払われた手が、畳にとすんと落ちた。
もう既に、辺りは夜の闇に包まれ始めている。あと何時間、いや何分で体が勝手に動き出すのだろう。
狐ノ依はリクオを見つめた。それに気付いたリクオが目を細めて笑う。
「良かった…きっと大丈夫だよ、狐ノ依」
「…はい」
ぎこちなく笑う狐ノ依。その様子を見ていた妖狐が、狐ノ依の腕を引いて立ち上がらせた
「…おい、こいつちょっと貸せ」
「え、…あ、ちょっと!?」
言っておきながらリクオの答えを待たずに妖狐は狐ノ依を連れて部屋を飛び出して行った。
夜風の吹き付ける庭を越えて、誰もいない静かな場所まで出て行く。そこでようやく妖狐の足が止まった。
「俺は、あれから妖狐について調べた」
狐ノ依の顔を見ずに、妖狐はぽつりと語り出した。
「どうして知られていないのか不思議だった。妖狐は、ずっと一か所に留まっていたんだよ」
「…何が、言いたいの…?」
「力を子供に受け継がせるってのは…一緒に記憶も引き継がれるんだ」
本能で強い妖怪の元へ行ったとしても、次の子供は前の愛しい主を覚えている。
結局、新しい主の元を去って、再び前の主に戻ってしまうのだ。
記憶が残ると分かっていたから、自分が死ぬことも気にせず子供を産むことが出来た。
「ずっとそうして同じ主の元に留まり続け…そしてその主が死ぬ時が来た。その時初めて、妖狐は自分の命を捨てずに子供を産んだ。愛しい主のことを忘れるべきと判断したんだな。その時の子供が俺たちの母だ」
何も知らない妖狐、狐ノ依達の母親は、伝説通りにしなければと思い込んだ。
「強い妖怪の元で子を産む。それは俺たちの本能だ。繁殖能力がないから強い子を産まなければいけないのも本当。あの伝説は、妖狐自身が自分のために決めたルールみたいなもんだったんだ」
「…なんで、ボクに、それを…?」
「はァ!?なんでって…」
口ごもって、妖狐は照れ臭そうに顏を背けた。辺りは暗いのに、妖狐の髪と瞳と、それから薄い色の装束は闇にまぎれる事なくそこに存在している。
「子を産んで死ぬのが嫌、みたいなこと言ってたろ。だから」
「…」
「おい…?」
無言でただじっと妖狐を見つめている狐ノ依に違和感を覚えた。そして、その時にはもう遅かった。
狐ノ依の手は強く妖狐の腕を掴んでいた。
「…ちょうだい」
「あ?」
「あなたの血が欲しい」
「!」
妖狐の首に歯が食い込む。
すぐに狐ノ依を押し返したが、一瞬でだいぶ持っていかれた。地面に赤い滴が落ちる。
「てめぇ!」
「下がれ」
狐ノ依と妖狐の間に夜のリクオが割り込んだ。
いつも以上に艶のある顔をした狐ノ依を唇をリクオの指がなぞる。
「ッ、」
狐ノ依の歯がためらわずその肉を貫いた。痛みにリクオの顔が歪む。
今までの被害者に、ほぼふさがった歯型二つしかなかったのは、狐ノ依の唾液で傷が塞がるからだ。塞がった傷になんどもまた上書きされる。ずきずきと痛みが走り続けた。
「狐ノ依…」
それでも、リクオは優しい表情で狐ノ依の頭を撫で続けていた。
狐ノ依を慈しむそのリクオの顔。妖狐も言葉を失って凝視した。家族のような、恋人のような、わからないが大事にしていることだけは伝わってくる。
「…っく、狐ノ依」
「おい、まだ駄目なのか?」
「それは、こっちが聞きてぇんだが」
「おかしいな」
ずっとリクオに噛みついたままの狐ノ依にリクオも妖狐も疑問を持ち始めた。さすがに、もう主の血が体に廻ったはずだ。
「…おい」
妖狐が狐ノ依に近付いて、ぴょこんと立っている耳を掴んだ。
「いたいっ」
強く握り締めて引っ張れば当然痛い。狐ノ依の体は大きく震えて、妖狐の方に引きずられた。
「…お前、とっくに戻ってただろ」
「そうなのかい、狐ノ依」
「いや、あの…その…」
口ごもる狐ノ依。嘘を吐けない性格というのか、なんなのか。狐ノ依は妖狐の言う通り主の血を吸って解放されても尚、リクオの血を吸い続けていたということになる。
「…狐ノ依、何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
「ぼ…自分は言いました。殺して下さいと」
「理由を聞かせな。でなきゃそんなの叶えられねぇ」
座り込んでいる狐ノ依に高さを合わせたリクオの目が真っ直ぐ狐ノ依を見つめる。
そんな目をされたら、応えないわけにいかないじゃないか。狐ノ依は泣きそうな顔で口を開いた。
「罪のない人を…殺しました」
「…それだけか」
「あと…っお腹に、子供が…」
「…は?」
お腹を押さえながら言った狐ノ依の言葉に、その場にいたリクオも妖狐も、少し後ろで様子を見ていたつららもぽかんと口を開けた。
風が吹き抜けて行く。しばらく皆、何を言ったら良いのかわからなくなっていた。
「…おい奴良リクオ。てめぇ何してたんだ?」
「ち、違うんです!ボクが、操られている間に…」
「…女の姿の時に犯されたのか」
「え、と…」
「んなの産まなきゃいいだろ。そんなことのために死ぬとか、ふざけてんのか?」
「そうなのかい、狐ノ依」
「え、えと…」
完全に苛立っている妖狐に、冷静を装っているリクオ。狐ノ依は何を言って良いのかわからなくなり、二人の顔を交互に見やった。
「狐ノ依、いつ、誰にされた!?」
「あ、え…あれ?」
「ちょ、ちょっと、リクオ様も狐ノ依も落ち着いて下さい!」
会話を聞いていたつららが、あぁもう、と言いながら駆け寄って来て狐ノ依の頬を両手で包んだ。
「そもそも、子供なんてすぐに出来ないんですよ!どうして子供が出来たと思ったの?」
「え…。言われて…」
「誰に?」
「…百物語組の、柳田…?」
沈黙。
はぁ、と軽く息を吐いてから妖狐が狐ノ依の頭をグーで殴った。
「っいた、」
「つまり?どっちだ。誰かとヤったのか、思い込まされただけなのか」
「…覚えは、ない、けど」
「だそうだよ、奴良リクオ」
妖狐と同じようにリクオとつららもため息を吐いた。狐ノ依の身に起こったことが、確証はない、ないけれど。
「…まだ、死にたいかい」
「いいえ…!」
完全に振り回されただけ。そう分かっても怒りはもはや二の次だった。良かった、それ一心でリクオは狐ノ依を抱きしめる。狐ノ依もようやう安心してリクオに手を回した。
・・・
「で」
「で?」
リクオの低い声に、妖狐は軽い口調で返した。それどころではなかったために、触れずにいたが皆気になっていること。
「狐ノ依の兄さんはどうしてわざわざ来たんだ」
「…妖狐の悪い噂が京都にも届いたからだ」
「…」
「…」
微妙な空気。狐ノ依は唾をごくっと飲んで妖狐を見つめる。その視線が痛くて、妖狐は俯いて目を閉じた。
「…本当は、それを聞く前からこっちに向かってたんだ。狐ノ依に、会おうと思って」
「え…!」
狐ノ依が体を乗り出して、目をぱちくりとさせた。初めて、名前を呼ばれたような気がする。
「さっきも言ったろ、妖狐のこと調べたって」
「うん」
「それで、少しは気が楽になるんじゃねーかと思ったんだ」
「に、兄さん…!」
「そ、んな目で見んなっつの」
狐ノ依の顏を掴んで押し返す。相変わらず妖狐の狐ノ依への態度はきついものであるが、以前とは違う。
「おい、奴良リクオ!」
「ん?」
「わざわざ京都から出てきたんだ。暫く世話になるぜ」
「そりゃあ、構わねぇが…いいのか?」
リクオとしても、妖狐一匹増える程度なんということはないし、むしろ有難い。とはいえ元々羽衣狐に仕えていた妖怪だ。厄介事は付き纏うだろう。
「やさしーんだな」
「あ?いや…」
「よろしく頼むぜ、リクオ様?」
ニッと笑う妖狐がとても美しくて、リクオは息を呑んで言葉を失った。
「だ、駄目!リクオ様はボクの…」
「ボクの、なんだよ」
「う…」
そして兄弟が微笑ましい。
彼らに、ようやく気の休まる時が訪れたのだった。
そしてそれが、嵐の前の静けさというヤツであることをわかっていながら、気付かないフリをしていた。
「狐ノ依殿は今回の地下鉄少女の件が終了すると同時に戻ったが…何か見たのか?」
きっと妖怪達の目が狐ノ依を血走った目で見つめる。びくっと体をすくませた狐ノ依には戸惑って視線を泳がせることしか出来ない。
「な、何か…とは何を…でしょう」
「もし百物語組が復活しているのなら、産むことが出来る奴がいるということ」
「奴は復活していたのか!?」
「や…奴って、なんのことです…?」
わかりきったように話を進めようとする妖怪達が何のことを話しているのか狐ノ依にはわからない。しかし、それは狐ノ依だけではなかった。
「おい待て待て、何だよその百物語組ってのは。わかってる奴だけで話を進めるんじゃねぇよ!なぁ、狐ノ依」
「はい…」
鴆の言葉に狐ノ依はためらいながらも大きく頷いた。それと同時につららや猩影も同じような反応を示す。どれも若い妖怪だ。
「無理もなかろう。明治以降に生まれた妖怪は百物語組との抗争も知らんのだ」
カラス天狗が言うと、事情をよく知った妖怪達が説明を始めた。
百物語組とは、怪談を「集め」「語り」「産む」、妖怪・怪異の組織。その主な方法は〈百物語〉。
山ン本五郎左衛門は、何万とも言われる怪異を紡ぎ出し、自ら産んだ妖怪たちを束ねる頭領として江戸の闇に君臨し、奴良組と激しい抗争を繰り広げた男。
当然、その男は鯉伴によって殺されている、はずなのだ。
「おい黒田坊、なんか知らねーのか?おめぇ、元百物語組幹部だろ」
それでなくてもザワついていたそこは、一ツ目の一言で更に不穏な空気に変わった。
「一ツ目殿!」
「てめぇ、黒が何かしたってのか!」
「ちげーのか?」
首無と青田坊が思わず立ち上がって一ツ目を睨み付ける。黒田坊のことも、百物語のこともよく知らなかった狐ノ依は、じっと黒田坊を見つめていた。
確かに黒田坊と怪異の中で遭遇した柳田という妖怪は知り合いのようで、それは黒田坊が元々あちら側にいたのだということを明らかにした。
「でも」
ぽつりと漏れた狐ノ依の声に、皆の視線は再び狐ノ依に戻った。
「でも黒田坊は助けてくれた。黒田坊を疑える要素なんて、どこにもない」
「そういう狐ノ依殿こそ、疑いの余地があるのをお忘れか」
「…え」
「どこで何をしていたかわかったものではないぞ」
ザワザワと余計に煩くなった部屋の中、狐ノ依が目を見開いて口を閉ざした。酷い言いがかりだ。信じられない現実に、何かを疑わなければいられないらしい。
リクオの目が狐ノ依を見つめて、それに気付いた狐ノ依は小さく首を横に振った。むしろ心配すべきは黒田坊の方だ…
狐ノ依が思ったその横で、黒田坊がどんと畳を叩いた。
「確かに拙僧は元百物語組…しかし拙僧は二代目鯉伴様と盃を交わし忠誠を誓った身。そのような疑いの言葉、二度と聞き逃しませんぞ」
今度はしんとして、一ツ目と黒田坊が睨み合う。
暫く黙っていたリクオも、さすがに息を吐いてから口を開いた。
「仲間同士で疑いあってんじゃねぇよ。今日はこのへんにしておこう」
リクオの手が狐ノ依の背を撫でる。無意識に力んでいた体がすっと緩んで、狐ノ依は疲れた表情で薄く微笑むと足早に部屋を後にした。
・・・
「狐ノ依」
たた、と少し細かい足音と共に大人しめの声。狐ノ依は少し落ち込み気味だった顏を元に戻そうと頬を抓ってから振り返った。
「何?」
振り返った狐ノ依の目に映ったのは、怒りか悲しみか、判断し辛い表情を浮かべた首無。首無は何も言わずに近付いてくると、力強く狐ノ依の体を抱きしめた。
「わ、どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ…本当に心配したんだから…」
「あ…」
そういえばずいぶん姿を消していたのだということを忘れていた。ぎゅっと背中に回る手の力に、どれだけ心配をかけてしまったのか実感する。狐ノ依は同じように首無に手を回した。
「ごめん…」
「これからは、絶対に一人で無茶しないで」
「うん」
「リクオ様だって、ずっと落ち着かなくて大変だったんだから。何があった?」
体が離れると、今度は真剣な顔が狐ノ依を見つめている。首無も昔から奴良組にいる妖怪の一人で、それはつまり百物語組との抗争にも参加していたはず。心配なこともたくさんあるのだろう。
「…はっきりとはわからないんだ。少し、記憶が曖昧になってて…」
「…」
「たぶん、百物語組の妖怪の一人と接触した」
驚いて見開かれた首無の目。もしかしたら、思った以上にまずいことになっているのかも。不安から自分の両手を擦り合わせた狐ノ依の体は後ろに引かれてよろけていた。
「今の…もしかして柳田のことか、狐ノ依」
「黒田坊」
大きく開いた首無と目とは対照的に、黒田坊の目は鋭く吊り上っている。
「おい、黒。あまり乱暴には…」
「大丈夫だよ、首無」
「でも、体に異常は?痛むところとかは」
「どこも問題ないから」
一度首無に笑いかけてから、狐ノ依は黒田坊に向き直った。
「ボク、多分…その柳田っていう妖怪に会った…んだけど、その後のことが何も思い出せないんだ」
「…思い出せない?」
「ボクって、五日もいなかったんだよね…。ボク、その五日間に何があったんだろう」
黒田坊を見つめたまま、狐ノ依はあえて何も知らない黒田坊に尋ねる。やはり、黒田坊はなんとなくわかってしまったようで、狐ノ依の肩を掴む手に力を込めた。
「っ、黒田坊…。ボクも怪異になるのかな」
「…!い、いや、恐らくそれはない」
「本当?」
黒田坊の視線が少し逸れた。不安が募って無意識に震えた手を、後ろから包み込むように首無の手が重なる。
「だが…狐ノ依を材料にされた可能性は…あるいは…」
「黒、もう…狐ノ依を不安にさせてやるな」
百物語組の存在は間違いない。しかし、確実に昔とは違うのだ。狐ノ依の身に何が起こったのかなど、誰にも想像することは出来なかった。
・・・
東京、某所。
ぱちぱち、と拍手に包まれるのか男が袖に戻る。男はここで噺を紡いでいた。
「圓潮(えんちょう)師匠」
「なんだい、来てたのかい。最近は広まるのが早いなぁ…。最近じゃ〈切裂とおりゃんせ〉アレは良かったけど」
本を片手ににたりと笑う男、柳田。もう一人の男、圓潮は表情の読めない、深く黒い目を柳田に向けた。
「頼むよ柳田、また面白い話を持ってきてくれ」
「はい。もう次は用意してありますよ、師匠」
柳田の脳裏に浮かぶ小さく弱そうな狐の妖怪。まだ発育も良くないただの妖狐だが、ああいう容姿は人間に好まれる。
善の妖怪が悪に染まった姿はどんなものだろう。奴良組の反応を想像するだけでゾクゾクする。
「お前さんに師匠呼ばわりされる覚えはないよ。あんたが聴いて、あたしが語る。そういう関係だ」
襖を開ければそこに何人もの陰がある。
百物語組。山ン本さんが還るまで、噺を続ける…恐怖でこの世を覆い尽くすために。
暗い一本道。ひやりとする風を浴びながら一人の男が歩いていた。電灯の一つもない、それでも一本道とわかっているから足取りは変わらず歩けた。
「…え」
思わず声が漏れていた。ぼんやりとする視界の先に人影がある。もう夜も遅いというのに、こんな暗い場所で一人。
多少気になりながらも、早く帰らなければと急ぐ足を変えることはない。
しかし、その人の姿を確認すると、男は息を呑んだ。あまりにも端正な容姿、肌蹴た着物から晒された綺麗な足。
「…今、僕を見た?」
大きな目が男を捕らえた。高めの少年の声が男の耳を刺激する。
「僕のこと、見たでしょ」
「い、いや…」
「嘘」
肌蹴ていた着物が滑り、肩から腰までが闇の中に映し出された。白い肌、つんと立った胸の中心。その胸に膨らみは当然ないというのに、小さな体には色気がある。
「ねぇ、お兄さん。僕…寂しいんだ」
「さ、寂しい…?」
「うん、だから慰めて欲しい」
細い指が男の手を絡め取った。その手はそのまま少年の口に運ばれ、指の先に生暖かい舌が触れる。口から小さく出された舌が指を這って、その感触に男の体がぴくりと震えた。
「ん…」
「君、…どうして、こんなことを…?」
「頂戴、お兄さん…ちょうだい」
着物が音を立てて落ちる。男の手は少年の肩をきつく掴んでいた。
・・・
朝からバタバタと慌ただしい足音に、狐ノ依はむくりと体を起き上らせた。暖かい布団を握る手を見下ろせば、そこにリクオはいない。
「ふぁ…」
大きく開かれた口から欠伸が漏れる。耳を立てると、廊下の軋む音がこちらに向かっていることに気付いて、狐ノ依は乱れた着物を直してそこに正座した。
「あ、狐ノ依おはよう!」
「おはようございます、リクオ様。そんなに慌てて…どうかなさったのですか?」
「う、うん…狐ノ依にも聞いて欲しいんだけど」
リクオはたた、と狐ノ依に近付くと、その前に座った。真剣な目付きに、狐ノ依も背筋をぴんと伸ばす。
「実は結構近いところで怪奇事件が起こったんだ」
「…怪奇事件、ですか?」
「そう。男の人が…血液のほとんどを失った状態で死んでたって。しかも、もう三日も連続で」
「そ、そんなことが…!」
狐ノ依は自分の口を抑えてさっと青ざめた。
「それでね、その人たち…傷口が」
「傷口が…?」
躊躇ったように、一度リクオの口が閉じる。不思議そうに首を傾げた狐ノ依の様子に、リクオは少し視線を逸らしてから口を改めて開いた。
「噛み跡…二つの歯型だけ残ってたそうだよ」
「歯…?それだけで血が…?」
「世間では、吸血鬼だなんだ言われてるみたい」
ふと、狐ノ依は自分の歯を思い出した。狐ノ依はリクオの手のひらに何度も噛みついて血を吸ったことがある。
「…まさか、リクオ様、ボクを…」
「い、いや!違うんだ、狐ノ依を見てればわかるよ、狐ノ依はそんなことしてないって!ううん、狐ノ依がそんなことするはずがない」
「はい…」
「でも、疑っている人もいるみたいなんだ。ごめんね」
「そんな!リクオ様は悪くないです!…ボクに信用がないから」
しゅん、と落ち込む狐ノ依の頭に手を乗せる。リクオの手が優しく撫でてくれるのが嬉しくて、狐ノ依はリクオに抱き着いた。
「リクオ様こそ、気を付けて下さいね」
「うん、有難う」
ぱっと体を離して、来たときよりも少し安心したような顏付きに変わったリクオが立ち上がる。部屋を後にしようと踏み出したリクオが何か思い出したように立ち止まった。
「あ、狐ノ依。朝ご飯用意出来てるからね」
「はい、有難うございます」
きし、と音を立ててリクオがいなくなる。狐ノ依はもう一度欠伸をして、自分のお腹に手を乗せた。
「眠くて…お腹すいてないや」
最近、寝不足な日が続いているような気がする。夜はちゃんと寝ているのにな…。
そこに敷かれたままの布団にもう一度体を預ける。リクオは学校に行くのだろうか。それともまだ休み続けるのだろうか。まぁ、どうでもいいや。
狐ノ依は再び眠りに堕ちていった。
・・・
「…若、狐ノ依の様子はどうでしたか」
俯き気味で歩いていたリクオは、投げかけられた重い声に足を止めた。腕を組んで、リクオと同じように険しく、それでいて不安そうな顔をしている首無。
「狐ノ依は…何も知らなかった」
「…そうでしょうね。狐ノ依があんなことをするはずがない」
「黒田坊は」
首無から逸らした視線は、陰に身を潜ませていた黒田坊に向けられた。びくりと体を震わせた黒田坊の笠が陰から覗く。その表情は二人よりも更に何か思い詰めていた。
「丁度三日前から、狐ノ依は一人外に出て行くことが増えた。昨夜も、狐ノ依は夜中に抜け出してる。それを、黒田坊はどう考える?」
「…百物語」
「黒田坊?」
「…今夜は狐ノ依を見張っていた方がいい」
リクオも首無も、なんとなくわかっていた。もしも狐ノ依が犯人であるとするなら、百物語が関係しているということ。
黒田坊はそれ以上何も言わずに踵を返した。それをじっと見つめていたリクオと首無は目を合わせて小さく頷く。
「私も協力します」
「うん、頼むよ。…他の奴良組の皆には知られないように」
「はい」
狐ノ依が怪奇に関係ないと信じたい。それでも、狐ノ依がいなかった期間に何があったのかわからない以上、狐ノ依の身に何が起こっているのかわからない以上、疑ってかかる他なかった。
「それでも…ボクは狐ノ依があの事件を起こしただなんて思いたくない」
「狐ノ依は優しい子ですから…」
「…狐ノ依」
人が亡くなっているというのに、心配なのはただ狐ノ依の心だった。
・・・
夜。当たって欲しくなかった彼らの予想は当たってしまった。寝たふりをしていたリクオの横、めくり上がる布団の気配。狐ノ依は部屋を抜け出した。
ゆらゆらと歩く姿にいつもの覇気はない。明らかに正常には見えなかった。
「…狐ノ依」
思わず漏れた声に含まれたため息。リクオは一度きつく目を閉じてから、狐ノ依の後を追うために体を布団から引き抜いた。
「若…!」
「首無、狐ノ依は…」
先に外で様子を見ていた首無の指の先が闇を指す。事件の起こった場所に続く道。
「声をかけるか迷ったのですが…暫く様子を見るべきかと…」
「そう、だね」
すぐにでも声をかけたい気持ちを抑える。もし、狐ノ依が辿り着いた先が事件の現場だったら。予感が確信に変わるのが怖くて、それでもリクオは奴良組の三代目として狐ノ依のしていることを確認する義務があった。
「若、狐ノ依の姿が」
「え?」
ぼうっとしていたせいか、狐ノ依との距離は広がっている。暗くてはっきりとしない視界の先にいる狐ノ依は青く輝く姿をしていなかった。そこにいるのは妖怪としての姿ではなく、人間としての姿の狐ノ依だ。
「狐ノ依…」
「ま、待って下さい!若!」
リクオの歩幅が大きくなる。もはや我慢の限界だった。このまま狐ノ依を見ているだけなど出来ない。
「悪ィな、首無。もし何か見ても、何も言うな」
「…若」
たったと駆けて前を行く狐ノ依を追う。そのリクオの目は真剣だった。たとえ狐ノ依の様子が異常であったとしても、全部受け止める。救い出してみせる。
相変わらず、狐ノ依の歩みはどこかおぼついていた。そんな狐ノ依に追いつくのは、距離を空けてつけるよりも容易だった。
「…狐ノ依」
電灯の無くなった道はあまりにも暗くて、そこには狐ノ依の着物がほんの少し光って見えるだけ。その狐ノ依の背中がピタリと止まった。
「狐ノ依、こんな時間にどこに行くってんだい…?」
振り向かない背中にリクオの喉が上下に揺れた。もう希望を抱いてもしかながないだろう。狐ノ依はどこかおかしい。それは認めざるを得ない。
そう覚悟したとき、狐ノ依がゆっくりと振り向いた。
「どこって…ボクがどこかに行くのに、毎度報告が必要ですか?」
「狐ノ依…?」
「どうかなさったのですか?顔色が…」
思っていたのものと違う現実に、リクオは目を丸くして言葉を失った。それを心配したように見上げる狐ノ依はよく知っている、いつもの狐ノ依だ。
「…いや、心配になるだろ。勝手にいなくなったら…」
「もう!ボクは子供じゃないんですから」
「だからってなんでこんなところに」
「知り合いがいるんです、この先に」
知り合い。狐ノ依の目は嘘を言っているようには聞こえない。しかし、どこか不安が過る。この狐ノ依は本物か。
「こんな時間に会いに行くのか」
「こんな時間しか会ってくれないんです」
狐ノ依がわからない。リクオは無意識に狐ノ依の頬に掌を合わせた
「信じていいのか」
「…ボクが、信じられないのですか?」
「せめて、オレも一緒に」
「いいですけど、たぶん無理だと思いますよ」
くすっと可愛らしく笑った狐ノ依。しかし次の瞬間、どういうわけか狐ノ依が走り出していた。
「彼、人見知りですから」
「狐ノ依!?」
リクオがその後を追いかけると、狐ノ依は追いかけっこでもしているかのように、楽しそうな声を上げた。
これは普通なのか、異常なのか。リクオは狐ノ依に追いつくことが出来なかった。辺りは暗闇で、目の前の狐ノ依を追うのさえ難しいというのに、狐ノ依は道を把握しているようで素早く道を曲がっていってしまう。
「狐ノ依!行くな…!」
その声は、真っ直ぐ続く道に響き渡った。
「…どうなってやがんだ、これは」
「若!?狐ノ依は」
「わからねぇ…行っちまった」
「ど、どこに…?」
「…」
首を横に振るリクオを見て、首無は愕然と暗い道の先に目をやった。
「狐ノ依は…やはり」
「いや、それも…よくわかんねぇ」
「どういうことですか」
「…」
愛しい者のことなのに、こんなにわからない。何があったのか、何をしているのか。普通とはなんだっただろう。リクオは混乱していた、正常に頭が回っていなかったのだ。
人をだまして喰らう妖狐の噺。
「そう簡単に終わらせたりはしない…」
柳田が、肩に抱く狐ノ依を見つめながら笑った。その狐ノ依の目は広がる闇をぼんやりと眺めている。何も、興味などないように。
「血に飢えた狐…この子にはもっと奴良組を掻き乱してもらわないと」
柳田の指が狐ノ依の唇をなぞる。決して人を殺めるためにあるわけではない牙が指に深く突き刺さった。
「でももう誤魔化すのは難しい哉…」
「たりない…」
「夜に邪魔が入らなければ、まだ」
「ちょうだい、もっと…」
潤んで揺れる青い瞳が柳田を捕らえている。柳田の口元がにっと弧を描いた。
「あまり煩いと、孕ませるよ?」
腰をぎゅっと掴んで引き寄せると、狐ノ依が小さく喘いだ。もともと遺伝子を大事にする種族故に美しい作りをしているが、そうとは言えどやけに色気がある。
「むしろ犯されたいの哉」
「あ、ぅ…」
柳田の指先が妖狐の薄い衣にかかる。既に動き回ったせいで肌蹴ていたそれは、簡単にするりと肩から落ちた。
「貧弱だね…ただの餓鬼じゃないか」
「ん」
「でも、今夜はここにいてもらうよ」
肩を掴まれて妖狐が後ろに倒れる。何かを企み細められた柳田の目が、夜の暗闇の中ぎらりと光っていた。
・・・
朝になっても狐ノ依は帰って来なかった。リクオも首無も寝ずに帰宅を待っていたが、もう日が昇ってしまっている。
何よりも心配なのは、狐ノ依が不可解な行動をとっているということを、他の奴良組の者に知られないようにしなければいけない、ということだ。
「それでなくても、ピリピリしてるのに…」
「リクオ様、やはり狐ノ依は」
「…」
狐ノ依が朝まで帰って来ないなんてことは今までなかった。何よりリクオに心配をかけるような行動をとるはずがない。
「元からある妖怪が、怪奇になるなんて」
「百物語組が以前より力をつけていることは間違いないかと…」
「そう、だろうね…」
黒田坊でさえ、奴良組の一部の妖怪に白い目で見られているのに。狐ノ依までそんなことになってしまったら。
嫌なことばかり考えてしまう。リクオは顏の前できつく手を握りしめた。
「ボクが狐ノ依から目を離さなければ…」
「リクオ様…」
「狐ノ依がいない間、ずっと思ってたんだ。隣にいさせれば良かったって」
「いえ、私達の誰かがついていれば」
「ううん…ボクがいけなかった…」
奴良組の三代目として、いろいろ抱え込もうとしすぎた。それ故に狐ノ依から目を離して、その結果が今の状況だ。
「狐ノ依…っ」
祈るように、押しつぶしたような声が漏れる。
その時、じゃり…と小さな音が聞こえて、リクオはばっと顏を上げた。
「ぁ…」
目の前に、確かに狐ノ依がいる。リクオと目が合うと、びくりと肩を震わせて、酷く怯えた様子を見せた。それで本物だとすぐにわかった。
「狐ノ依、良かった…!」
駆けだして、狐ノ依を抱きしめる。狐ノ依も逃げずにそこにいてくれた。
「り、りくお、様…」
「いいよ、今は何も言わなくて」
首無は狐ノ依が操られている可能性も考えて、慎重に様子を見ている。しかし、狐ノ依の手はリクオの体に伸びることすらなかった。カタカタと小刻みに震えている。嗚咽が、リクオの耳にも届いていた。
「狐ノ依、落ち着いて。大丈夫だから…」
「っ、」
背中を擦って、そのまま背中を支えたまま体を離す。
このままここにいても怪しまれるかもしれない。
リクオは首無に見張りを頼んで、狐ノ依と二人自室に向かった。その間も、狐ノ依はずっと鼻をすすって涙をこらえていた。
「狐ノ依、そんなところで立ってないで、こっちに来て」
「…い、いえ…自分、にそんな」
「いいから」
「…はい」
もはや聞くまでもなかった。狐ノ依のこの様子からすると、昨夜のことを悔いているのか、あるいは怪奇のことだろう。
「狐ノ依、昨夜…何があったか聞いてもいい?」
「ッ、…あ、…」
少し開いた口が、迷った末に閉ざしてしまった。泣いたせいで赤くなっていた顏が、真っ青になっていく。
「何を聞いても、ボクは狐ノ依の味方だから」
「リクオ様…」
溢れた涙がこぼれ落ちる。
「リクオ様は、もう、わかっているかと…思います…」
「…怪奇のこと?」
「は、い…」
「覚えてるんだね、狐ノ依」
首が、静かに縦に振られた。その時のことも覚えているのだろう。狐ノ依は口を抑えて辛そうに顏を歪ませた。
「…狐ノ依が自分の意思でやったんじゃないこと、わかってるよ」
「いえ、自分が…いけなくて…それに、まだ終わってないんです」
狐ノ依の目がリクオの目と合って大きく揺れる。再びこぼれそうになった涙を拭った狐ノ依の目は、しっかりとリクオを見つめていた。
「…今夜、ボクを殺して下さい」
「え?」
狐ノ依が何を言っているのかよくわからなかった。そこまで自分を追い詰めてしまっているのか。
リクオは狐ノ依の手をぎゅっと握って自分の方に引き寄せた。
「今回のこと、狐ノ依は悪くない!だから、そんなこと言うなよ…!」
「っ、…お願いします」
「狐ノ依っ」
「ボクはもう…!」
それだけ言うと、狐ノ依は口を閉じてしまった。触れる手が握り返されることもなかった。
・・・
「柳田サン、良かったのかい?」
「ん、何が哉?」
手に持つ筆を止めて、鏡斎が振り返った。外を眺めながら笑っている柳田は視線だけを鏡斎に向けている。
「怪奇になっている時のこと、思い出させたろ」
「その方が面白いからね」
「…それだと嘘もばれるんじゃねぇのか」
あぁ、とさも今思い至ったかのように柳田が手を打つ。それでも、柳田の口元に浮かべられた笑みが消えることはなかった。
「あれは混乱していたからね…大丈夫だろう」
まだ楽しませてもらわなくては。
「自滅すればいい」
奴良組への恨みが、言葉の重みを増幅させていた。
・・・
日が落ち始める。
狐ノ依は口を開かないし、リクオも何も言うことが出来ずにいた。
このままでは今日も同じように狐ノ依は怪奇として動き出してしまうかもしれない。そうなった時、どうしたら止められるのかもわかっていないというのに。殺せ、なんて。
リクオは納得いかない様子で顏をしかめた。どうしろというんだ。
「リクオ様…!」
そんな深刻な空気の部屋に、ばたばた音を立てながら駆けこんできたつららが飛び込んだ。
「リクオ様、大変です!」
「…何、つらら。今それどころじゃ…」
不機嫌そうな顔をしたリクオがつららの方に目を向ける。そのつららの後ろにいる人影を視界に捕えたリクオは、目を大きく見開いて立ち上がった。
「君は…」
その人はリクオに目も呉れず、俯いたままの狐ノ依の胸元を掴んで引き寄せた。
「おい、てめぇ…どんだけ妖狐を侮辱すりゃ気が済むんだ!」
「…に、いさん?」
似たような姿をした妖狐。狐ノ依よりも吊り上った目をした美しい人。以前会ったときに見た長く綺麗な髪の毛はばっさり切られていて、そのせいか男性らしい顔つきに変わって見える。
「…どうして、ここに」
「やな噂が流れてきたんだよ!化け狐がどうこう、とか…。それがこの浮世絵町だっていうから心配…いや、んなこたどうでもいい!」
驚いて動けずにいる狐ノ依を床に叩き付けると、妖狐は荒々しくフンッと息を吐いた。
「さっさとケリつけやがれ…。これ以上侮辱するなら本気で殺すぞ」
「え、え…?」
「よくわかんねぇけど、こいつ操られてんだろ?」
ぱっと振り返った妖狐がリクオを見た。切れ長の青い瞳に一瞬びくっと体を震わせる。それからリクオは深く頷いた。
「…うん」
「妖狐にとって、何よりも優先すべきは主だ。おかしくなっている時にてめぇの血を吸わせりゃ治る」
「ほ、本当に…?」
「普通に考えりゃそーだろ」
あほか、とイラついた様子で呟いた妖狐は、もう一度狐ノ依を見下ろした。
「…なんつー顔してんだよ」
「っ…」
「助け舟出してやったろうが」
「ボク、でも…っ」
首を横に振って、狐ノ依の手はぎゅっと妖狐の服を掴んでいる。
「っ、おい、俺はお前を認めたわけじゃねーんだぞ。甘えんな」
「う…」
振り払われた手が、畳にとすんと落ちた。
もう既に、辺りは夜の闇に包まれ始めている。あと何時間、いや何分で体が勝手に動き出すのだろう。
狐ノ依はリクオを見つめた。それに気付いたリクオが目を細めて笑う。
「良かった…きっと大丈夫だよ、狐ノ依」
「…はい」
ぎこちなく笑う狐ノ依。その様子を見ていた妖狐が、狐ノ依の腕を引いて立ち上がらせた
「…おい、こいつちょっと貸せ」
「え、…あ、ちょっと!?」
言っておきながらリクオの答えを待たずに妖狐は狐ノ依を連れて部屋を飛び出して行った。
夜風の吹き付ける庭を越えて、誰もいない静かな場所まで出て行く。そこでようやく妖狐の足が止まった。
「俺は、あれから妖狐について調べた」
狐ノ依の顔を見ずに、妖狐はぽつりと語り出した。
「どうして知られていないのか不思議だった。妖狐は、ずっと一か所に留まっていたんだよ」
「…何が、言いたいの…?」
「力を子供に受け継がせるってのは…一緒に記憶も引き継がれるんだ」
本能で強い妖怪の元へ行ったとしても、次の子供は前の愛しい主を覚えている。
結局、新しい主の元を去って、再び前の主に戻ってしまうのだ。
記憶が残ると分かっていたから、自分が死ぬことも気にせず子供を産むことが出来た。
「ずっとそうして同じ主の元に留まり続け…そしてその主が死ぬ時が来た。その時初めて、妖狐は自分の命を捨てずに子供を産んだ。愛しい主のことを忘れるべきと判断したんだな。その時の子供が俺たちの母だ」
何も知らない妖狐、狐ノ依達の母親は、伝説通りにしなければと思い込んだ。
「強い妖怪の元で子を産む。それは俺たちの本能だ。繁殖能力がないから強い子を産まなければいけないのも本当。あの伝説は、妖狐自身が自分のために決めたルールみたいなもんだったんだ」
「…なんで、ボクに、それを…?」
「はァ!?なんでって…」
口ごもって、妖狐は照れ臭そうに顏を背けた。辺りは暗いのに、妖狐の髪と瞳と、それから薄い色の装束は闇にまぎれる事なくそこに存在している。
「子を産んで死ぬのが嫌、みたいなこと言ってたろ。だから」
「…」
「おい…?」
無言でただじっと妖狐を見つめている狐ノ依に違和感を覚えた。そして、その時にはもう遅かった。
狐ノ依の手は強く妖狐の腕を掴んでいた。
「…ちょうだい」
「あ?」
「あなたの血が欲しい」
「!」
妖狐の首に歯が食い込む。
すぐに狐ノ依を押し返したが、一瞬でだいぶ持っていかれた。地面に赤い滴が落ちる。
「てめぇ!」
「下がれ」
狐ノ依と妖狐の間に夜のリクオが割り込んだ。
いつも以上に艶のある顔をした狐ノ依を唇をリクオの指がなぞる。
「ッ、」
狐ノ依の歯がためらわずその肉を貫いた。痛みにリクオの顔が歪む。
今までの被害者に、ほぼふさがった歯型二つしかなかったのは、狐ノ依の唾液で傷が塞がるからだ。塞がった傷になんどもまた上書きされる。ずきずきと痛みが走り続けた。
「狐ノ依…」
それでも、リクオは優しい表情で狐ノ依の頭を撫で続けていた。
狐ノ依を慈しむそのリクオの顔。妖狐も言葉を失って凝視した。家族のような、恋人のような、わからないが大事にしていることだけは伝わってくる。
「…っく、狐ノ依」
「おい、まだ駄目なのか?」
「それは、こっちが聞きてぇんだが」
「おかしいな」
ずっとリクオに噛みついたままの狐ノ依にリクオも妖狐も疑問を持ち始めた。さすがに、もう主の血が体に廻ったはずだ。
「…おい」
妖狐が狐ノ依に近付いて、ぴょこんと立っている耳を掴んだ。
「いたいっ」
強く握り締めて引っ張れば当然痛い。狐ノ依の体は大きく震えて、妖狐の方に引きずられた。
「…お前、とっくに戻ってただろ」
「そうなのかい、狐ノ依」
「いや、あの…その…」
口ごもる狐ノ依。嘘を吐けない性格というのか、なんなのか。狐ノ依は妖狐の言う通り主の血を吸って解放されても尚、リクオの血を吸い続けていたということになる。
「…狐ノ依、何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
「ぼ…自分は言いました。殺して下さいと」
「理由を聞かせな。でなきゃそんなの叶えられねぇ」
座り込んでいる狐ノ依に高さを合わせたリクオの目が真っ直ぐ狐ノ依を見つめる。
そんな目をされたら、応えないわけにいかないじゃないか。狐ノ依は泣きそうな顔で口を開いた。
「罪のない人を…殺しました」
「…それだけか」
「あと…っお腹に、子供が…」
「…は?」
お腹を押さえながら言った狐ノ依の言葉に、その場にいたリクオも妖狐も、少し後ろで様子を見ていたつららもぽかんと口を開けた。
風が吹き抜けて行く。しばらく皆、何を言ったら良いのかわからなくなっていた。
「…おい奴良リクオ。てめぇ何してたんだ?」
「ち、違うんです!ボクが、操られている間に…」
「…女の姿の時に犯されたのか」
「え、と…」
「んなの産まなきゃいいだろ。そんなことのために死ぬとか、ふざけてんのか?」
「そうなのかい、狐ノ依」
「え、えと…」
完全に苛立っている妖狐に、冷静を装っているリクオ。狐ノ依は何を言って良いのかわからなくなり、二人の顔を交互に見やった。
「狐ノ依、いつ、誰にされた!?」
「あ、え…あれ?」
「ちょ、ちょっと、リクオ様も狐ノ依も落ち着いて下さい!」
会話を聞いていたつららが、あぁもう、と言いながら駆け寄って来て狐ノ依の頬を両手で包んだ。
「そもそも、子供なんてすぐに出来ないんですよ!どうして子供が出来たと思ったの?」
「え…。言われて…」
「誰に?」
「…百物語組の、柳田…?」
沈黙。
はぁ、と軽く息を吐いてから妖狐が狐ノ依の頭をグーで殴った。
「っいた、」
「つまり?どっちだ。誰かとヤったのか、思い込まされただけなのか」
「…覚えは、ない、けど」
「だそうだよ、奴良リクオ」
妖狐と同じようにリクオとつららもため息を吐いた。狐ノ依の身に起こったことが、確証はない、ないけれど。
「…まだ、死にたいかい」
「いいえ…!」
完全に振り回されただけ。そう分かっても怒りはもはや二の次だった。良かった、それ一心でリクオは狐ノ依を抱きしめる。狐ノ依もようやう安心してリクオに手を回した。
・・・
「で」
「で?」
リクオの低い声に、妖狐は軽い口調で返した。それどころではなかったために、触れずにいたが皆気になっていること。
「狐ノ依の兄さんはどうしてわざわざ来たんだ」
「…妖狐の悪い噂が京都にも届いたからだ」
「…」
「…」
微妙な空気。狐ノ依は唾をごくっと飲んで妖狐を見つめる。その視線が痛くて、妖狐は俯いて目を閉じた。
「…本当は、それを聞く前からこっちに向かってたんだ。狐ノ依に、会おうと思って」
「え…!」
狐ノ依が体を乗り出して、目をぱちくりとさせた。初めて、名前を呼ばれたような気がする。
「さっきも言ったろ、妖狐のこと調べたって」
「うん」
「それで、少しは気が楽になるんじゃねーかと思ったんだ」
「に、兄さん…!」
「そ、んな目で見んなっつの」
狐ノ依の顏を掴んで押し返す。相変わらず妖狐の狐ノ依への態度はきついものであるが、以前とは違う。
「おい、奴良リクオ!」
「ん?」
「わざわざ京都から出てきたんだ。暫く世話になるぜ」
「そりゃあ、構わねぇが…いいのか?」
リクオとしても、妖狐一匹増える程度なんということはないし、むしろ有難い。とはいえ元々羽衣狐に仕えていた妖怪だ。厄介事は付き纏うだろう。
「やさしーんだな」
「あ?いや…」
「よろしく頼むぜ、リクオ様?」
ニッと笑う妖狐がとても美しくて、リクオは息を呑んで言葉を失った。
「だ、駄目!リクオ様はボクの…」
「ボクの、なんだよ」
「う…」
そして兄弟が微笑ましい。
彼らに、ようやく気の休まる時が訪れたのだった。
そしてそれが、嵐の前の静けさというヤツであることをわかっていながら、気付かないフリをしていた。