リクオ夢(2011.10~2015.03)
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・・・・・・
・・・
昔、一匹の女性の姿をした妖狐がいた。美しく長い髪に、白く柔らかな肌。甲斐甲斐しく主に仕える姿を見れば誰もが欲しいと思うほどで。
しかし、ただ一つ…その妖狐は罪を犯していた。
主である妖怪ではなく、別の…しかも人間に惚れてしまったのだ。
人間と交わり子を成してしまった妖狐は、自分の力を分け与えることなく、普通の子のように育てた。
しかし、妖狐としてそれは許されない。本能が普通にあるべき幸せを否定する。
結局、その自分の罪に耐えられなくなった妖狐は、主の妖怪との間にも子供をつくった。まだ妖怪としては幼い出来損ないの妖狐を残して、妖狐はこの世を去る覚悟をしたのだった。
・・・
・・・・・・
「狐ノ依、さっきから何を考えてる?」
これから羽衣狐の元へ行くというのに、狐ノ依は心ここに非ずといった感じでソワソワしている。リクオの問いにも、小さくなんでもないと言うだけで、なんだかパッとしない。
「狐ノ依…鴆と何か話したのか?」
「は…え?いえ、別に何も」
「…オレの目を見な」
「はい…?」
じっと目を見る。その目はしっかりとリクオを映しているのに、何故か少し遠くを見ているようで。それが何故だかはわからないのに、リクオは不安になった。
「狐ノ依、戦えるか?」
「はい、勿論です!」
「なら余計なことは考えんな」
きょとん、と目を丸くして、それから狐ノ依は自分の口を抑えた。
「ごめんなさい!その、思い出せそうな…なんていうか、気になることがあって」
狐ノ依の考え事。ようやく自分でもぼんやりしていた理由に気付いた。
鴆の腕に抱かれたことなど今日が初めてのはずなのに、その腕は懐かしくて。気にすることなどないようなことなのに、どうしてか気になって仕方がなかったのだ。
「申し訳ありません…」
「いや、そんな顔すんじゃねーよ。ただ、もう少し気合い入れてくれ、な」
相手が相手な状況なだけあって、リクオはぴりぴりしていた。それがわからない狐ノ依ではない。耳を下げて、本当に申し訳なさそうにして、狐ノ依は自分の頬を強く打った。
弐條城に近づく。それにつれて不穏な空気が張り詰める。
リクオが踏み込むと、待ち受けていたかのように京妖怪が飛び出してきた。
「行くぜ」
リクオはふっと笑って、妖怪をなぎ倒した。奴良組のほかの妖怪たちもそれに続く。
「京の魑魅魍魎ども。オレたちとてめぇらの大将とは四百年分の因縁がついちまってるみてぇだが…この際さっぱりと、ケジメつけさせてもらいに来た!」
自信に満ちたリクオが一人城の中へと足を進める。
その背中を追って行こうとした狐ノ依の体に、何か嫌なものが走った。
「っ、何…?」
振り返って、それから周りを見て。そこに、青白い炎が浮いているのに気付いた。暖かい、ふわふわとした感覚に引き寄せられる。
リクオの傍を離れていることに気付かず、無意識にそちらに足が動いていた。
「馬鹿な子」
声に体がびくっと震える。途端に意識が体に戻ってきて、きょろきょろと辺りを見渡した。当然リクオの姿は見えないし、他にたくさんいた奴良組の妖怪たちからも離れていて、誰も見当たらない。戦いが始まっているとは思えないほど、静かな場所にいた。
「…誰?」
身構えた体は、後ろから優しく抱きしめられていた。
「久しぶり…大きくなったなぁ」
「放せッ!」
振り払って、掴まれていた腕を掴み返す。そしてその妖怪を確認した狐ノ依は言葉を失った。
「…妖狐…?」
「そーだよ。自分以外の妖狐を見るのは初めてか?」
風になびく長い髪を手で梳きながら、妖狐がニッと笑う。鏡に映った自分を見ているかのように、よく似た存在。
「ずっとこの日を待ってたんだぜ…?可愛い俺の弟」
「弟…!?」
「なぁ…どんななんだ?力を与えられてるってのは」
ぐっと腕を引かれて距離が縮まる。首に鋭い痛みを感じ、狐ノ依は妖狐の体を押し返した。
「は…美味しいな、さすがは本物の妖狐の血ってか」
口元についた血を舌で舐めとりながら、にやりと笑った妖狐はずいぶんと色気がある。似ているのに、大人っぽいのはやはり兄だからなのか。
「なんで、何を…?」
「何をって…お前を殺したいんだよ」
恨んだものを見る目が狐ノ依を見ている。本当に恨まれている。狐ノ依には何がなんだか全くわからなかった。兄だということも信じがたい上、何故恨まれているのかも全くわからない。
「その、ボクには何が何だか…」
「あぁ、そりゃそうだよな。お前が腹にいるうちに…殺したんだから」
「え…?」
二人の妖狐の親。人間を愛してしまった妖狐。人間との間に産まれてしまった妖狐は、自分の親が何をするつもりかすぐに察した。
そして親を憎んだ。出来損ないに産まれた自分を放って、もう一匹の方に自分の力を分け与え死のうとしている。それがどうしても許せなかった。
腹の子を任せられる妖怪の住む場所を探して徘徊する親を、妖狐は自らの手で殺した。この親と、父親違いの自分の兄弟…彼らがいなくなれば、自分が本物の妖狐になれる、そう信じて。
「待って、それ…なんの話?ボクは生きてる」
「そうだな、生きてる。だからこうして再会出来たんだろ?」
「だってその話…」
「どこぞのお節介が腹の中からお前を取り出したんだろうよ」
腹から取り出された、として。そのとき既に親が死んでいたなら。
「ボクは何故リクオ様の元に…?」
「知るかよ。ま、そのおかげで俺は因縁の相手がいる京都を目指したんだがな」
奴良組に妖狐が、そう聞いて相当衝撃を受けた。まさか生きていたとは。奴良組は京妖怪とは因縁の関係にある、その情報を手に入れるのはそう難しいことではなかった。
「俺は…俺を完全な妖狐にしなかった親に復讐するんだ…」
「どういうこと…?」
「奴良組と羽衣狐がぶつかる日を待ってたんだよ」
わざわざ奴良組の因縁の相手のいる京都に向かって、いつか強くなった弟と一対一で戦う日が来るのをずっと待っていたのだ。
「俺を捨ててお前を産んだ…。お前を殺すことで、俺が妖狐として認められる」
「捨ててなんかない、きっとあなたは愛されてた…」
本当に兄弟だというなら、同じ親から産まれたわけで。だというなら、親に育ててもらった妖狐のことを単純に羨ましいと思ってしまう。そう思った狐ノ依の心を、妖狐は感じ取った。
「親に愛されて育った俺が羨ましいか?」
「…うん」
「俺には…屈辱でしかなかった…!」
「でも、本当に愛した者同士の間に産まれたんでしょ?ボクは羨ましいよ」
「は、愛?そんなの必要ねぇ!」
戦う気のない狐ノ依の体に妖狐が飛びかかった。
「なぁ、力見せてみろよ!」
「ぁ、う…っ」
首にかけられた手が呼吸を遮る。本気で締め付けてくるその手から逃れるために、狐ノ依は畏を解放した。咄嗟に妖狐は狐ノ依から体を離したが、呆れたように大きくため息を吐く。
「ふーん、その程度」
「嘘…!」
「やっぱり、お前の主は羽衣狐様には劣るってことかな」
余裕の笑みを浮かべている妖狐の手が狐ノ依の肩を掴んだ。そのまま押されると、狐ノ依は尻もちをついて倒れ込む。その狐ノ依の体の上に妖狐の体がのっかった。
「もっと苦労するかと思ったのに…簡単に殺せそ。つまんねぇじゃん」
「そんな、こと…言われても…」
狐ノ依はまだ、今の自分の状況について行くことが出来ていなかった。どうしたら良いのかわからないのだ。目の前にいる妖狐は恐らく敵なのだろうが、初めて会う同族の存在。戦う気になど、なれるはずがなかった。
「…狐ノ依?」
それは二人の妖狐とは別の声だった。そしてその声は狐ノ依にとっての救いで。妖狐は驚いて体を狐ノ依の上から退かした。
「鴆様!」
重みが無くなり解放された狐ノ依は駆けつけてくれた鴆の元へ駆け寄る。それを受け止めた鴆は、じっと妖狐を見つめてから口を開いた。
「お前…妖狐、だよな」
「…そーだよ。わかってんなら兄弟喧嘩の邪魔すんなよ」
「兄弟喧嘩だあ?」
信じがたい事実を前に、眉間にシワを寄せた鴆を見て、狐ノ依は首を大きく横に振った。狐ノ依に戦う気はないどころか、兄弟だということにもまだ納得出来ていない。
「狐ノ依、こりゃ一体どういうことなんだ?」
「それが、ボクにもよく…」
狐ノ依は鴆に自分にわかる限りの今の状況を伝えた。
あの妖狐は自分の兄、らしい。そして、自分だけが力を継いだ。親への怒りから、力を継いだ狐ノ依が許せなくて、それでまさに今命を狙われているのだと。
それを聞いていた鴆の表情が変わった。
「…お前、何か勘違いしてんぞ」
鴆が静かに、怪訝そうにこちらを見ている妖狐に言った。
「何?」
「狐ノ依は力を継いじゃいねーよ」
鴆の言葉には妖狐だけでなく、隣にいた狐ノ依も目を丸くして鴆を見つめた。
「てめぇ、何を言ってんだ…?」
「…鴆様?あの…?」
「狐ノ依の親は、子を産むために力を使い切ったからな」
鴆の手が狐ノ依の頭の上に乗る。優しく撫でるその手をよく知っていた。産まれたとき、初めてその手に抱いてくれたのは、この手だ。
「鴆様、もしかして…!」
偶然にも、死にかけた状態になった狐が横たわる道に通りかかった鴆。深い傷を負ったものの、なんとか腹の中の子供が無事産まれるように治癒能力を使う。既に虫の息であったことと、力を治癒に使い切ってしまったため、妖狐は産まれる子に力を送ることなど出来なかったのだ。
「狐ノ依にも、誰にも言ってなかったんだがな」
「鴆様が…ボクを…」
「お前の親に、信用出来る妖怪の元へ連れてってやって欲しいと頼まれてな」
リクオの横に狐ノ依を連れて行ったのは鴆で。それと同時に、鴆は狐ノ依にとって命の恩人でもあったのだ。
感動する狐ノ依と反対に、そんなこととは知らず狐ノ依に敵意を向けて生きてきた妖狐は愕然として、動けなくなっていた。
「嘘だ…。なんだよそれ、じゃあ…俺は…なんのために」
妖狐がぺたんとその場にへたり込む。その痛々しい姿に踏み出そうとした狐ノ依の腕を鴆が掴んだ。
「今はリクオの方が大事だろ」
「あ…」
「行くぞ」
狐ノ依には関係ない。ただ自分とは別の妖狐が勝手に勝負を挑んで来て、勝手に落ち込んで、それだけ。なのに、どうしても気になってしまい、狐ノ依は何度も後ろを振り返りながらリクオの元へ向かった。
・・・
「あそこだ」
鴆の手がぱっと離れる。
「…あれは、何……?」
二條城の上に、大きな赤ん坊のようなものが浮いている。見たところ、皆がそれに攻撃しているようで。それを守るように戦っている全身を黒に包んだ美しい女性には見覚えがあった。
「…ぁ、ああ…!」
先ほどの妖狐のことなど、気にする余裕などすぐになくなった。狐ノ依の体は震え、今まで見せたことなどないというほどに目を開いて、歯を食いしばっている。
「あの女が…鯉伴様を…!」
小さい狐の目で、しっかりと映した。忘れもしないあの日のこと。
たっと足を速めると、狐ノ依は戦うリクオの横を通り過ぎて、羽衣狐に手を伸ばした。
「狐ノ依!?」
「お前…お前が鯉伴様を…!」
リクオの声を耳に掠めながらも、狐ノ依は羽衣狐の胸倉を掴んで燃え上がる。青い炎が羽衣狐と狐ノ依を包んだ。
「…狐ノ依……?」
羽衣狐が小さく名を呼んで、それから狐ノ依の頬に手をやった。
「そう…人間の姿になれたのね」
「っ!?」
思わず手を放して後ずさるとリクオの体にぶつかった。リクオの手が狐ノ依の肩を掴む。
「狐ノ依にもあるか?…あの記憶が」
「リクオ様、覚えているのですか…?」
鯉伴を殺したのは羽衣狐だという。しかし狐ノ依もリクオもその人を知っていた。
共に遊んだ、刻を過ごした人。幼い女児だったその人。
「狐ノ依…オレは知りてぇんだ。こいつがいつから羽衣狐だったのか」
「…それは、自分も知りたいです」
まだ当日幼かったリクオは、もう忘れていると思っていた。だから、狐ノ依は羽衣狐のことをリクオには何も話さなかったのに。
鯉判を殺したのは、何度も共に遊んだ少女だった。そして、その少女が今こうして成長した姿で対峙している…羽衣狐。
「リクオ様…ごめんなさい」
「なんだ、急に」
「あ…いえ、その、お傍を離れて…」
「いや、大丈夫だ。狐ノ依…お前を纏わせてくれるか」
強く頷いてリクオの腕に任せる。
以前の鬼纏とは違い、リクオの姿にも変化があった。鬼纏の二つ目畏襲(かさね)。狐ノ依が離れている間にも、リクオは強くなっていたのだ。
しかし、羽衣狐はそれの上を行っていて。狐ノ依の纏って体に力が戻ったリクオでも、羽衣狐の尾が何度も突き刺さる。
「ぐ…」
「どうした?目に見えて力を失っているぞ」
リクオが押されていることに気付いた奴良組や遠野の妖怪たちがリクオに目を向ける。
リクオの腹に刃が抑えつけられ、とうとうリクオは動けなくなった。纏われていた狐ノ依が体から離れてそこに尻をつく。
「っ、リクオ様…!」
「奴良くん、今のうちに逃げて!」
そこにゆらが駆けつけて羽衣狐を引き付ける。そのスキをついて、狐ノ依はリクオを支えながら、羽衣狐から距離をとった。
思っていた以上に強い、羽衣狐のその強さに狐ノ依は青ざめた顔で息を大きく吐いた。今逃げられたのも奇跡に近い。羽衣狐がどういうわけか頭を押さえて動きを止めたから助かったようなものだ。
どうしたら良いのか考えたとき、浮いていた胎児のような形をしたものが崩れ始めた。
晴明…鵺のカケラに羽衣狐の千年の記憶が映る。
「あぁ…晴明、待ちわびたぞ。長かった…千年の記憶が蘇る」
羽衣狐が恍惚な表情で手を広げた。
「いや…まだ話は終わってねぇ…!」
間に合わなかった。皆がそう諦めたにも関わらず、リクオは祢々切丸に手をかけた。真っ直ぐに突っ込んでいく。
羽衣狐がリクオに攻撃しようとしたとき、鵺のカケラにリクオの記憶が映った。鯉伴と手を繋ぎ歩く幼い少女。そして、幼い少女が手に持つ刀が鯉伴の体を貫く。
カケラに映った鯉伴を見た羽衣狐の動きが止まって、リクオの刀が体に刺さる。崩れるように倒れた羽衣狐はリクオの腕に抱かれていた。
「お父様…。あぁ…リクオ…リクオは成長したね…」
「…な、に…?」
「リクオ様!ご無事ですか!?」
「狐ノ依も…思っていた通りの…可愛らしい姿」
かくん、と項垂れた羽衣狐の体から、四百年前と同じ、羽衣狐本体だけが抜き出される。
「何故じゃ…!これは最高の依代だと…!」
そして、割れた中から人の形をしたものが立ち上がった。そのものこそ、安倍晴明…鵺と呼ばれるもので。その瞬間、鵺の復活を防ぐことが出来なかったことを、皆が感じ取ったのだった。
「地獄から還ってきた…!鵺が、…安倍晴明が…!」
晴明は復活し、そして、羽衣狐は晴明が出てきた地獄へと落とされていった。
羽衣狐もまた、晴明に謀られていたこを知らずにいたのであった。
鯉伴が愛した妖怪の娘、山吹乙女。
亡くなっていたものの、鏖地蔵と晴明による反魂の術により、幼い女児として復活する。そのときに、鯉伴の娘という偽の記憶を植え付けられていた。
鯉伴を殺したとき、乙女は本当の記憶を思い出した。愛した者を殺めてしまったという絶望から、体を羽衣狐にのっとられ、その体は羽衣狐のものとなったのだ。
全ては、晴明と鏖地蔵が鯉伴を殺めるためだけに行った作戦。
「…ずいぶん汚い街になってしまった」
手にした刀を一振り。それだけで、京の街が激しく崩壊した。復活した晴明の力で京の街が崩れていく。
「てめぇ…千年前に死んだ奴が、この世で好き勝手やってんじゃねぇ」
「駄目ですリクオ様、危険すぎます!」
「オレがたたっ切る!」
「リクオ様!」
狐ノ依の制止も聞かずにリクオは祢々切丸で突っ込んでいくが、指一本で刀を止められる。そして晴明の力を前に、刀は粉々に崩れ散っていた。
「お前が鯉伴の“真の息子”か。…力が足りんな」
圧倒的な力の差に動けなくなったリクオに向けて、刀を振りかざす。もはや刀というのも正しいのか分からない程に変形し、禍々しくなったそのモノ。
狐ノ依もつららもイタクも、皆がリクオを守ろうと急ぐが間に合わなかった。
「リクオ様っ!逃げて…!」
もう駄目だ。悲痛な狐ノ依の叫び声が響いたとき、晴明の腕が力なく下された。
晴明の体はまだ十分ではなく、リクオに向けて振りかざした手は、どろっと溶け落ちていたのだ。
「まだこの世に体がなじんでいなかったか…仕方ない」
晴明は京妖怪を引き連れて地獄へと帰っていく。誰もそれを止めることは出来なかった。強すぎる存在、勝てるものなど一人もいなかったのだ。
「待て!」
唯一リクオだけはその背を追おうとしたが、その腕に狐ノ依がしがみついた。飛び込んでしまっては戻れなくなる。何よりも、晴明という存在に今のリクオはどう足掻いても敵わない。
「駄目ですリクオ様!」
「くそ…っ」
晴明は、リクオと狐ノ依の目の前で地獄との境に姿を消した。
・・・
遅れてやってきたぬらりひょんが、リクオに山吹乙女のことを話した。あまりにも悲しい話に狐ノ依はその場から静かに離れる。
その狐ノ依の背後に近寄る陰があった。
「…狐ノ依」
狐ノ依の体は後ろから捕らえられていた。しかし、その手はあまりにも弱々しく、狐ノ依の力でも振り払える程度のもの。妖狐の、細く弱い腕だ。
「お前には、名前もある」
「あ…の」
「主様が俺を受け入れてくれたのは、お前に似てるからか?」
「え?」
「主様は…お前を知ってるみたいだったじゃねぇか」
恐らく、ずっと狐ノ依を見ていたのだろう。鯉伴と共にいた時間を思い出した羽衣狐の手が、優しく狐ノ依に触れたのも、全部。
「結局…主様を失った俺に…勝ち目なんかねぇじゃん」
目に涙を溜めて、妖狐の声が震える。妖狐の顔が狐ノ依の肩にのって、その重みに狐ノ依は動けなかった。
初めて妖狐を見た奴良組のものたちは当然驚いて二人の妖狐を瞳に映している。リクオもその一人だった。
「皆、みんな…あの男、晴明について行った…。でも俺は、短かったけど、唯一愛してくれた主様を…」
「…兄さん」
「っ、兄だなんて呼ぶな…!」
妖狐が狐ノ依の頬を叩く。悔しそうに泣く妖狐のその手を狐ノ依は優しく包み込んだ。
「…ごめんなさい。ボクはきっと貴方を裏切る」
「何…?」
狐ノ依には、リクオの子を産んで死ぬなんてことは出来ない。自分でもそれがわかってしまった。
「ボクも…その、きっと子供を産んで死ぬなんて出来ない」
「は、ふざけんなよ。てめぇも妖狐としてやっちゃいけねぇ事…するつもりかよ」
「だって、ボクも…リクオ様を愛してるんだ」
子を産んで、一緒に育てて。そういう当たり前の幸せが欲しい。
山吹乙女が鯉伴との子を成せなくて悲しかったように。愛する人との間に子が欲しいというのは当たり前で、それを二人で慈しみたいと思うのもやはり当然なのだ。
「その主と…子をつくる予定があるような言い方だな」
「え」
「愛し合ってんのか?」
「…あ、えっ、あの…その…」
「いいな、お前は。なんでこんなに違うんだよ」
妖狐の目の色が変わった。
まずい、と狐ノ依が思った瞬間には既に妖狐がリクオに飛びかかっていて。しかし丁度そこにいたぬらりひょんによって捕えられていた。
「リクオ様、無事ですか!?」
「あぁ、問題ねぇが…こいつは」
悔しそうに、それでもリクオに対して威嚇し続ける妖狐。しかし、さすがに敵わぬ相手だと分かったのか、脱力して耳を垂らした。
「狐ノ依以外の妖狐をみるのは初めてじゃな」
「なんだよ…狐ノ依、狐ノ依って…ただの妖狐じゃん」
泣きそうな顔。その妖狐の顔にリクオの手が触れた。
「お前は、羽衣狐の元についていたのか?」
「俺に触んな…」
「なら、オレのところに来いよ」
「…え?」
妖狐も、狐ノ依も、ぽかんとリクオの顔を見つめた。
「妖狐が二人なんて、縁起がいい」
「はぁ?待てよ、俺はてめぇらの敵で…」
「無理にとは言わねぇが…奴良組は歓迎するぜ」
「…俺の主は、羽衣狐様だけだ」
妖狐は横たわった羽衣狐の抜け殻、山吹乙女の姿をしたその妖怪を覗き込んだ。
鴆がなんとか治療しているが、意識は戻っていない。
晴明について行かずに、羽衣狐に仕える妖怪は多くいた。中でも羽衣狐をお姉様と呼び敬愛していた狂骨は羽衣狐から離れずにずっとそこにいる。
「…そうか。そいつはお前等京妖怪に返すよ」
リクオは鯉伴の愛した女の体を抱き上げて狂骨に渡した。晴明に裏切られた彼女ら京妖怪にもはや敵意はない。
「…いいんだね。あんたにとっても…この方は肉親みたいなもんなんだろ?」
「あぁ。羽衣狐は京妖怪の大将だからな」
その会話を横で聞きながら、狐ノ依は妖狐の手を掴んだ。狐ノ依も、もし妖狐が奴良組に来るというなら歓迎したかった。たった一人の血の繋がった人。たとえ恨まれていようとも、狐ノ依には無条件で愛することが出来る。
「行っちゃうの…?」
「な、んだよ。俺はお前を殺そうとしてたんだぞ、ずっと」
「でも、兄さんなんでしょ?」
「…お前のその、甘い考え。イライラする」
ぺしん、と狐ノ依の手を振り払って、妖狐は狂骨の横に並んだ。
「お前が…妖狐として自覚したなら、弟として認めてやるよ」
妖狐は京妖怪たちと共に帰って行った。真っ直ぐ前を見据える妖狐を引き留めることなど、今の狐ノ依には出来ない。
妖狐の背中を、もの寂しげに見つめる狐ノ依の目は迷いに揺れていた。
いつか復活する鵺に備えるために、リクオたち奴良組は花開院へ向かった。そこには妖刀をつくる天才と呼ばれるゆらの義理の兄、秋房がいる。
祢々切丸が壊されてしまった以上、今は新しい妖刀を手に入れずして鵺に対抗することなど出来ないのだ。
ゆらの隣を歩くリクオの背を見ながら、狐ノ依は大きく息を吐いた。兄が最後に残した言葉は、リクオと結ばれるときには妖狐らしく散れ…そういうことだ。
「ボクは妖狐で…リクオ様は主…」
それ以上に近づいたつもりだった。しかし、そんな簡単なものではなかった。そうなるということは、いつかリクオとの間に子を産んで死ぬ。そしてその子供は妖狐で、リクオの跡継ぎとなるぬらりひょんにはならない。
「…わかってたこと、なのにな」
胸が締め付けられるような感覚。当たり前のことがこんなにも辛くなるなんて。
「り、…」
リクオ様、と呼んでしがみ付きたかった。しかし、リクオは秋房と話をしている。これからのことを考えて、前進しようとしている。
邪魔は出来ない。余計なことを考えさせるわけにはいかない。
狐ノ依は唇を噛んで後ろを向いた。
「狐ノ依?」
とん、と肩に置かれた手に驚いて顏を上げると、鴆が不思議そうな顔で狐ノ依の顏を覗き込んでいた。
「鴆様…」
鴆は狐ノ依をリクオの元へ連れて行ってくれた恩人。その事実を思い出し、狐ノ依は鴆に向かって頭を下げた。
「あ、の…鴆様には感謝してもしきれません…」
「なんだ急に?」
「なんで、言って下さらなかったのです…」
「ん?あぁ、そのことな」
わざわざ言う必要なんてないことだろ、と手を左右にひらひらとさせながら、鴆は笑う。しかしそれに反して、狐ノ依はしゅんと肩を下げた。
リクオが大好きで、そしてそれが今は少し切ない。
「…どうした?」
「いえ、少し…心の整理が」
「さっきの、お前の兄のことか?」
「…」
そう、それもある。自分と似た妖狐の存在もまた、今の狐ノ依を惑わせていた。
「ボクは、妖狐というものを…真剣に考えたことがなかったんです」
ゆっくりと足を進めながら、空に向けて声を発した。狐ノ依の澄んだ声は周りの音に溶け込む。
「妖狐って…何なのでしょうか…」
伝説だなんて言われているけれど、それほど強い力を秘めているわけでもない。主に縋りついていなければ、一人で生き抜くことも出来ないような脆弱な存在といってもいい。
「伝説通りに…強い一匹を残して死ぬ意味ってあるのかな…」
数より質とでも言いたいのか。弱い存在であることを覆い隠すために少しでも強くあろうとして…それがなんだと言うのだろう。
現に、狐ノ依は力を継いだ妖狐ではなくて、兄もいて。それでもこうして生きてきた。
「最終的にリクオ様に何も残せないなんて」
なら、今ここにいる意味は。
「鴆様…。ボクはここにいていいのでしょうか…」
「お前なぁ…!ったく」
霞んだ視界は鴆の熱い胸板に押し付けられて、何も見えなくなった。 大きな手が狐ノ依の頭を掴む。狐ノ依の流れる髪は鴆の指の間をするりと抜けてなびいた。
「少なくとも…リクオはお前がいて良かったと思ってるはずだぜ」
「そ…でしょうか」
「あぁ、リクオだけじゃねぇ、オレも皆もだ」
皆に愛されているなんて、今まで生きてきて味わっていたのに。心を埋め尽くした不安はそれさえも掻き消していく。
「それによ、今からそんな先のことで悩んでどうする」
「…先の、こと」
「死ぬときのことなんか、そん時になってみなきゃわかんねぇだろ」
今までは、確かにそれでいいとも思っていた。いざその時が来たら考えれば良いと。しかし、もう一人の妖狐はなんと言った?
妖狐としての自覚とは、つまり妖狐として散る覚悟をしろということで。
「むしろよ、狐ノ依がんな顔してる方が迷惑だ」
「今…ボクはどんな顔をしていますか…?」
「…壊れそうだ」
鴆の手は狐ノ依の髪を梳いて、それから優しく背中をなでた。固い掌が優しく触れている。初めて顔を合わせた時から、鴆は目に見えるほどの愛情を狐ノ依に与えていた。それは暖かくて心地好くて。
「気にしすぎんな。周りを頼れ。いいか?」
「…はい」
狐ノ依は初めて鴆の背中に手を回して、その愛情に応えた。納得いく言葉をくれたわけでないのに、鴆の言葉には力があって。切なさから零れそうだった涙は、安心から零れ落ちて狐ノ依の頬を濡らしていた。
「……何してるの?」
突然割り込んできたリクオの声、と同時に鴆が狐ノ依の肩を掴んで体から引き剥がした。
「り…リクオ」
「なんで、狐ノ依泣いてるの?」
「いやこれはだな」
きょとん、としてリクオを見つめる狐ノ依の頬は未だ濡れている。それを見たリクオの表情は妖怪の時のような威圧感があって、鴆の頬には冷や汗が流れた。
「すみません、自分が勝手に弱気になって…鴆様が話を聞いてくれたのです」
「ふーん…」
つかつかと近づいたリクオは狐ノ依の頬を濡らす涙を人差し指で辿った。泣いてる顏も映える…だなんて思っている余裕もなく。
「ボクには言えないこと?」
「え、いえ、そんなことは」
「なら、どうしてボクに声をかけなかったの」
「…それは」
リクオに言わなかったのではなく、ただなんとなくタイミング的に鴆に言ってしまっただけだったのだが。しかしその内容はリクオとの将来を謳ったもので。そこにいたのがリクオだったら言ったのか、というと微妙だった。
「狐ノ依?」
続きの言葉が浮かばずに黙ってしまった狐ノ依の顏を、リクオの大きな瞳が覗き込んだ。
「…何かあったら、まずボクに言ってね」
「はい…」
口を噤んで視線を彷徨わせる狐ノ依に、もはや何か声をかけても無駄だった。リクオは鴆に視線を移して、狐ノ依を頼むということを目配せしてから他の奴良組の者たちの元へと戻ろうと踵を返した。
「リクオ様…!」
しかし間髪入れずに、リクオの羽織を狐ノ依の細い指が掴む。
「自分は不完全で…何の役にも立てないただの狐です」
「…狐ノ依?」
「それでも、それでも…リクオ様のお傍にいさせて下さい…」
「…むしろ、離れるなんて許さないからね」
そんなことか、と呆れたように微笑するリクオに、無理矢理つくったような笑顔を浮かべる狐ノ依。
二人の心情をなんとなく察しながら、鴆は何も言わずにその場から離れた。
その夜、リクオは正式に奴良組の三代目となった。そして狐ノ依も、リクオのために仕え続けることを改めて決心するのだった。
見えない未来のことなど今は考えない。これから近いうちに起こる鵺との全面抗争。それに向けて、奴良組はリクオを筆頭に動き出していた。
・・・
昔、一匹の女性の姿をした妖狐がいた。美しく長い髪に、白く柔らかな肌。甲斐甲斐しく主に仕える姿を見れば誰もが欲しいと思うほどで。
しかし、ただ一つ…その妖狐は罪を犯していた。
主である妖怪ではなく、別の…しかも人間に惚れてしまったのだ。
人間と交わり子を成してしまった妖狐は、自分の力を分け与えることなく、普通の子のように育てた。
しかし、妖狐としてそれは許されない。本能が普通にあるべき幸せを否定する。
結局、その自分の罪に耐えられなくなった妖狐は、主の妖怪との間にも子供をつくった。まだ妖怪としては幼い出来損ないの妖狐を残して、妖狐はこの世を去る覚悟をしたのだった。
・・・
・・・・・・
「狐ノ依、さっきから何を考えてる?」
これから羽衣狐の元へ行くというのに、狐ノ依は心ここに非ずといった感じでソワソワしている。リクオの問いにも、小さくなんでもないと言うだけで、なんだかパッとしない。
「狐ノ依…鴆と何か話したのか?」
「は…え?いえ、別に何も」
「…オレの目を見な」
「はい…?」
じっと目を見る。その目はしっかりとリクオを映しているのに、何故か少し遠くを見ているようで。それが何故だかはわからないのに、リクオは不安になった。
「狐ノ依、戦えるか?」
「はい、勿論です!」
「なら余計なことは考えんな」
きょとん、と目を丸くして、それから狐ノ依は自分の口を抑えた。
「ごめんなさい!その、思い出せそうな…なんていうか、気になることがあって」
狐ノ依の考え事。ようやく自分でもぼんやりしていた理由に気付いた。
鴆の腕に抱かれたことなど今日が初めてのはずなのに、その腕は懐かしくて。気にすることなどないようなことなのに、どうしてか気になって仕方がなかったのだ。
「申し訳ありません…」
「いや、そんな顔すんじゃねーよ。ただ、もう少し気合い入れてくれ、な」
相手が相手な状況なだけあって、リクオはぴりぴりしていた。それがわからない狐ノ依ではない。耳を下げて、本当に申し訳なさそうにして、狐ノ依は自分の頬を強く打った。
弐條城に近づく。それにつれて不穏な空気が張り詰める。
リクオが踏み込むと、待ち受けていたかのように京妖怪が飛び出してきた。
「行くぜ」
リクオはふっと笑って、妖怪をなぎ倒した。奴良組のほかの妖怪たちもそれに続く。
「京の魑魅魍魎ども。オレたちとてめぇらの大将とは四百年分の因縁がついちまってるみてぇだが…この際さっぱりと、ケジメつけさせてもらいに来た!」
自信に満ちたリクオが一人城の中へと足を進める。
その背中を追って行こうとした狐ノ依の体に、何か嫌なものが走った。
「っ、何…?」
振り返って、それから周りを見て。そこに、青白い炎が浮いているのに気付いた。暖かい、ふわふわとした感覚に引き寄せられる。
リクオの傍を離れていることに気付かず、無意識にそちらに足が動いていた。
「馬鹿な子」
声に体がびくっと震える。途端に意識が体に戻ってきて、きょろきょろと辺りを見渡した。当然リクオの姿は見えないし、他にたくさんいた奴良組の妖怪たちからも離れていて、誰も見当たらない。戦いが始まっているとは思えないほど、静かな場所にいた。
「…誰?」
身構えた体は、後ろから優しく抱きしめられていた。
「久しぶり…大きくなったなぁ」
「放せッ!」
振り払って、掴まれていた腕を掴み返す。そしてその妖怪を確認した狐ノ依は言葉を失った。
「…妖狐…?」
「そーだよ。自分以外の妖狐を見るのは初めてか?」
風になびく長い髪を手で梳きながら、妖狐がニッと笑う。鏡に映った自分を見ているかのように、よく似た存在。
「ずっとこの日を待ってたんだぜ…?可愛い俺の弟」
「弟…!?」
「なぁ…どんななんだ?力を与えられてるってのは」
ぐっと腕を引かれて距離が縮まる。首に鋭い痛みを感じ、狐ノ依は妖狐の体を押し返した。
「は…美味しいな、さすがは本物の妖狐の血ってか」
口元についた血を舌で舐めとりながら、にやりと笑った妖狐はずいぶんと色気がある。似ているのに、大人っぽいのはやはり兄だからなのか。
「なんで、何を…?」
「何をって…お前を殺したいんだよ」
恨んだものを見る目が狐ノ依を見ている。本当に恨まれている。狐ノ依には何がなんだか全くわからなかった。兄だということも信じがたい上、何故恨まれているのかも全くわからない。
「その、ボクには何が何だか…」
「あぁ、そりゃそうだよな。お前が腹にいるうちに…殺したんだから」
「え…?」
二人の妖狐の親。人間を愛してしまった妖狐。人間との間に産まれてしまった妖狐は、自分の親が何をするつもりかすぐに察した。
そして親を憎んだ。出来損ないに産まれた自分を放って、もう一匹の方に自分の力を分け与え死のうとしている。それがどうしても許せなかった。
腹の子を任せられる妖怪の住む場所を探して徘徊する親を、妖狐は自らの手で殺した。この親と、父親違いの自分の兄弟…彼らがいなくなれば、自分が本物の妖狐になれる、そう信じて。
「待って、それ…なんの話?ボクは生きてる」
「そうだな、生きてる。だからこうして再会出来たんだろ?」
「だってその話…」
「どこぞのお節介が腹の中からお前を取り出したんだろうよ」
腹から取り出された、として。そのとき既に親が死んでいたなら。
「ボクは何故リクオ様の元に…?」
「知るかよ。ま、そのおかげで俺は因縁の相手がいる京都を目指したんだがな」
奴良組に妖狐が、そう聞いて相当衝撃を受けた。まさか生きていたとは。奴良組は京妖怪とは因縁の関係にある、その情報を手に入れるのはそう難しいことではなかった。
「俺は…俺を完全な妖狐にしなかった親に復讐するんだ…」
「どういうこと…?」
「奴良組と羽衣狐がぶつかる日を待ってたんだよ」
わざわざ奴良組の因縁の相手のいる京都に向かって、いつか強くなった弟と一対一で戦う日が来るのをずっと待っていたのだ。
「俺を捨ててお前を産んだ…。お前を殺すことで、俺が妖狐として認められる」
「捨ててなんかない、きっとあなたは愛されてた…」
本当に兄弟だというなら、同じ親から産まれたわけで。だというなら、親に育ててもらった妖狐のことを単純に羨ましいと思ってしまう。そう思った狐ノ依の心を、妖狐は感じ取った。
「親に愛されて育った俺が羨ましいか?」
「…うん」
「俺には…屈辱でしかなかった…!」
「でも、本当に愛した者同士の間に産まれたんでしょ?ボクは羨ましいよ」
「は、愛?そんなの必要ねぇ!」
戦う気のない狐ノ依の体に妖狐が飛びかかった。
「なぁ、力見せてみろよ!」
「ぁ、う…っ」
首にかけられた手が呼吸を遮る。本気で締め付けてくるその手から逃れるために、狐ノ依は畏を解放した。咄嗟に妖狐は狐ノ依から体を離したが、呆れたように大きくため息を吐く。
「ふーん、その程度」
「嘘…!」
「やっぱり、お前の主は羽衣狐様には劣るってことかな」
余裕の笑みを浮かべている妖狐の手が狐ノ依の肩を掴んだ。そのまま押されると、狐ノ依は尻もちをついて倒れ込む。その狐ノ依の体の上に妖狐の体がのっかった。
「もっと苦労するかと思ったのに…簡単に殺せそ。つまんねぇじゃん」
「そんな、こと…言われても…」
狐ノ依はまだ、今の自分の状況について行くことが出来ていなかった。どうしたら良いのかわからないのだ。目の前にいる妖狐は恐らく敵なのだろうが、初めて会う同族の存在。戦う気になど、なれるはずがなかった。
「…狐ノ依?」
それは二人の妖狐とは別の声だった。そしてその声は狐ノ依にとっての救いで。妖狐は驚いて体を狐ノ依の上から退かした。
「鴆様!」
重みが無くなり解放された狐ノ依は駆けつけてくれた鴆の元へ駆け寄る。それを受け止めた鴆は、じっと妖狐を見つめてから口を開いた。
「お前…妖狐、だよな」
「…そーだよ。わかってんなら兄弟喧嘩の邪魔すんなよ」
「兄弟喧嘩だあ?」
信じがたい事実を前に、眉間にシワを寄せた鴆を見て、狐ノ依は首を大きく横に振った。狐ノ依に戦う気はないどころか、兄弟だということにもまだ納得出来ていない。
「狐ノ依、こりゃ一体どういうことなんだ?」
「それが、ボクにもよく…」
狐ノ依は鴆に自分にわかる限りの今の状況を伝えた。
あの妖狐は自分の兄、らしい。そして、自分だけが力を継いだ。親への怒りから、力を継いだ狐ノ依が許せなくて、それでまさに今命を狙われているのだと。
それを聞いていた鴆の表情が変わった。
「…お前、何か勘違いしてんぞ」
鴆が静かに、怪訝そうにこちらを見ている妖狐に言った。
「何?」
「狐ノ依は力を継いじゃいねーよ」
鴆の言葉には妖狐だけでなく、隣にいた狐ノ依も目を丸くして鴆を見つめた。
「てめぇ、何を言ってんだ…?」
「…鴆様?あの…?」
「狐ノ依の親は、子を産むために力を使い切ったからな」
鴆の手が狐ノ依の頭の上に乗る。優しく撫でるその手をよく知っていた。産まれたとき、初めてその手に抱いてくれたのは、この手だ。
「鴆様、もしかして…!」
偶然にも、死にかけた状態になった狐が横たわる道に通りかかった鴆。深い傷を負ったものの、なんとか腹の中の子供が無事産まれるように治癒能力を使う。既に虫の息であったことと、力を治癒に使い切ってしまったため、妖狐は産まれる子に力を送ることなど出来なかったのだ。
「狐ノ依にも、誰にも言ってなかったんだがな」
「鴆様が…ボクを…」
「お前の親に、信用出来る妖怪の元へ連れてってやって欲しいと頼まれてな」
リクオの横に狐ノ依を連れて行ったのは鴆で。それと同時に、鴆は狐ノ依にとって命の恩人でもあったのだ。
感動する狐ノ依と反対に、そんなこととは知らず狐ノ依に敵意を向けて生きてきた妖狐は愕然として、動けなくなっていた。
「嘘だ…。なんだよそれ、じゃあ…俺は…なんのために」
妖狐がぺたんとその場にへたり込む。その痛々しい姿に踏み出そうとした狐ノ依の腕を鴆が掴んだ。
「今はリクオの方が大事だろ」
「あ…」
「行くぞ」
狐ノ依には関係ない。ただ自分とは別の妖狐が勝手に勝負を挑んで来て、勝手に落ち込んで、それだけ。なのに、どうしても気になってしまい、狐ノ依は何度も後ろを振り返りながらリクオの元へ向かった。
・・・
「あそこだ」
鴆の手がぱっと離れる。
「…あれは、何……?」
二條城の上に、大きな赤ん坊のようなものが浮いている。見たところ、皆がそれに攻撃しているようで。それを守るように戦っている全身を黒に包んだ美しい女性には見覚えがあった。
「…ぁ、ああ…!」
先ほどの妖狐のことなど、気にする余裕などすぐになくなった。狐ノ依の体は震え、今まで見せたことなどないというほどに目を開いて、歯を食いしばっている。
「あの女が…鯉伴様を…!」
小さい狐の目で、しっかりと映した。忘れもしないあの日のこと。
たっと足を速めると、狐ノ依は戦うリクオの横を通り過ぎて、羽衣狐に手を伸ばした。
「狐ノ依!?」
「お前…お前が鯉伴様を…!」
リクオの声を耳に掠めながらも、狐ノ依は羽衣狐の胸倉を掴んで燃え上がる。青い炎が羽衣狐と狐ノ依を包んだ。
「…狐ノ依……?」
羽衣狐が小さく名を呼んで、それから狐ノ依の頬に手をやった。
「そう…人間の姿になれたのね」
「っ!?」
思わず手を放して後ずさるとリクオの体にぶつかった。リクオの手が狐ノ依の肩を掴む。
「狐ノ依にもあるか?…あの記憶が」
「リクオ様、覚えているのですか…?」
鯉伴を殺したのは羽衣狐だという。しかし狐ノ依もリクオもその人を知っていた。
共に遊んだ、刻を過ごした人。幼い女児だったその人。
「狐ノ依…オレは知りてぇんだ。こいつがいつから羽衣狐だったのか」
「…それは、自分も知りたいです」
まだ当日幼かったリクオは、もう忘れていると思っていた。だから、狐ノ依は羽衣狐のことをリクオには何も話さなかったのに。
鯉判を殺したのは、何度も共に遊んだ少女だった。そして、その少女が今こうして成長した姿で対峙している…羽衣狐。
「リクオ様…ごめんなさい」
「なんだ、急に」
「あ…いえ、その、お傍を離れて…」
「いや、大丈夫だ。狐ノ依…お前を纏わせてくれるか」
強く頷いてリクオの腕に任せる。
以前の鬼纏とは違い、リクオの姿にも変化があった。鬼纏の二つ目畏襲(かさね)。狐ノ依が離れている間にも、リクオは強くなっていたのだ。
しかし、羽衣狐はそれの上を行っていて。狐ノ依の纏って体に力が戻ったリクオでも、羽衣狐の尾が何度も突き刺さる。
「ぐ…」
「どうした?目に見えて力を失っているぞ」
リクオが押されていることに気付いた奴良組や遠野の妖怪たちがリクオに目を向ける。
リクオの腹に刃が抑えつけられ、とうとうリクオは動けなくなった。纏われていた狐ノ依が体から離れてそこに尻をつく。
「っ、リクオ様…!」
「奴良くん、今のうちに逃げて!」
そこにゆらが駆けつけて羽衣狐を引き付ける。そのスキをついて、狐ノ依はリクオを支えながら、羽衣狐から距離をとった。
思っていた以上に強い、羽衣狐のその強さに狐ノ依は青ざめた顔で息を大きく吐いた。今逃げられたのも奇跡に近い。羽衣狐がどういうわけか頭を押さえて動きを止めたから助かったようなものだ。
どうしたら良いのか考えたとき、浮いていた胎児のような形をしたものが崩れ始めた。
晴明…鵺のカケラに羽衣狐の千年の記憶が映る。
「あぁ…晴明、待ちわびたぞ。長かった…千年の記憶が蘇る」
羽衣狐が恍惚な表情で手を広げた。
「いや…まだ話は終わってねぇ…!」
間に合わなかった。皆がそう諦めたにも関わらず、リクオは祢々切丸に手をかけた。真っ直ぐに突っ込んでいく。
羽衣狐がリクオに攻撃しようとしたとき、鵺のカケラにリクオの記憶が映った。鯉伴と手を繋ぎ歩く幼い少女。そして、幼い少女が手に持つ刀が鯉伴の体を貫く。
カケラに映った鯉伴を見た羽衣狐の動きが止まって、リクオの刀が体に刺さる。崩れるように倒れた羽衣狐はリクオの腕に抱かれていた。
「お父様…。あぁ…リクオ…リクオは成長したね…」
「…な、に…?」
「リクオ様!ご無事ですか!?」
「狐ノ依も…思っていた通りの…可愛らしい姿」
かくん、と項垂れた羽衣狐の体から、四百年前と同じ、羽衣狐本体だけが抜き出される。
「何故じゃ…!これは最高の依代だと…!」
そして、割れた中から人の形をしたものが立ち上がった。そのものこそ、安倍晴明…鵺と呼ばれるもので。その瞬間、鵺の復活を防ぐことが出来なかったことを、皆が感じ取ったのだった。
「地獄から還ってきた…!鵺が、…安倍晴明が…!」
晴明は復活し、そして、羽衣狐は晴明が出てきた地獄へと落とされていった。
羽衣狐もまた、晴明に謀られていたこを知らずにいたのであった。
鯉伴が愛した妖怪の娘、山吹乙女。
亡くなっていたものの、鏖地蔵と晴明による反魂の術により、幼い女児として復活する。そのときに、鯉伴の娘という偽の記憶を植え付けられていた。
鯉伴を殺したとき、乙女は本当の記憶を思い出した。愛した者を殺めてしまったという絶望から、体を羽衣狐にのっとられ、その体は羽衣狐のものとなったのだ。
全ては、晴明と鏖地蔵が鯉伴を殺めるためだけに行った作戦。
「…ずいぶん汚い街になってしまった」
手にした刀を一振り。それだけで、京の街が激しく崩壊した。復活した晴明の力で京の街が崩れていく。
「てめぇ…千年前に死んだ奴が、この世で好き勝手やってんじゃねぇ」
「駄目ですリクオ様、危険すぎます!」
「オレがたたっ切る!」
「リクオ様!」
狐ノ依の制止も聞かずにリクオは祢々切丸で突っ込んでいくが、指一本で刀を止められる。そして晴明の力を前に、刀は粉々に崩れ散っていた。
「お前が鯉伴の“真の息子”か。…力が足りんな」
圧倒的な力の差に動けなくなったリクオに向けて、刀を振りかざす。もはや刀というのも正しいのか分からない程に変形し、禍々しくなったそのモノ。
狐ノ依もつららもイタクも、皆がリクオを守ろうと急ぐが間に合わなかった。
「リクオ様っ!逃げて…!」
もう駄目だ。悲痛な狐ノ依の叫び声が響いたとき、晴明の腕が力なく下された。
晴明の体はまだ十分ではなく、リクオに向けて振りかざした手は、どろっと溶け落ちていたのだ。
「まだこの世に体がなじんでいなかったか…仕方ない」
晴明は京妖怪を引き連れて地獄へと帰っていく。誰もそれを止めることは出来なかった。強すぎる存在、勝てるものなど一人もいなかったのだ。
「待て!」
唯一リクオだけはその背を追おうとしたが、その腕に狐ノ依がしがみついた。飛び込んでしまっては戻れなくなる。何よりも、晴明という存在に今のリクオはどう足掻いても敵わない。
「駄目ですリクオ様!」
「くそ…っ」
晴明は、リクオと狐ノ依の目の前で地獄との境に姿を消した。
・・・
遅れてやってきたぬらりひょんが、リクオに山吹乙女のことを話した。あまりにも悲しい話に狐ノ依はその場から静かに離れる。
その狐ノ依の背後に近寄る陰があった。
「…狐ノ依」
狐ノ依の体は後ろから捕らえられていた。しかし、その手はあまりにも弱々しく、狐ノ依の力でも振り払える程度のもの。妖狐の、細く弱い腕だ。
「お前には、名前もある」
「あ…の」
「主様が俺を受け入れてくれたのは、お前に似てるからか?」
「え?」
「主様は…お前を知ってるみたいだったじゃねぇか」
恐らく、ずっと狐ノ依を見ていたのだろう。鯉伴と共にいた時間を思い出した羽衣狐の手が、優しく狐ノ依に触れたのも、全部。
「結局…主様を失った俺に…勝ち目なんかねぇじゃん」
目に涙を溜めて、妖狐の声が震える。妖狐の顔が狐ノ依の肩にのって、その重みに狐ノ依は動けなかった。
初めて妖狐を見た奴良組のものたちは当然驚いて二人の妖狐を瞳に映している。リクオもその一人だった。
「皆、みんな…あの男、晴明について行った…。でも俺は、短かったけど、唯一愛してくれた主様を…」
「…兄さん」
「っ、兄だなんて呼ぶな…!」
妖狐が狐ノ依の頬を叩く。悔しそうに泣く妖狐のその手を狐ノ依は優しく包み込んだ。
「…ごめんなさい。ボクはきっと貴方を裏切る」
「何…?」
狐ノ依には、リクオの子を産んで死ぬなんてことは出来ない。自分でもそれがわかってしまった。
「ボクも…その、きっと子供を産んで死ぬなんて出来ない」
「は、ふざけんなよ。てめぇも妖狐としてやっちゃいけねぇ事…するつもりかよ」
「だって、ボクも…リクオ様を愛してるんだ」
子を産んで、一緒に育てて。そういう当たり前の幸せが欲しい。
山吹乙女が鯉伴との子を成せなくて悲しかったように。愛する人との間に子が欲しいというのは当たり前で、それを二人で慈しみたいと思うのもやはり当然なのだ。
「その主と…子をつくる予定があるような言い方だな」
「え」
「愛し合ってんのか?」
「…あ、えっ、あの…その…」
「いいな、お前は。なんでこんなに違うんだよ」
妖狐の目の色が変わった。
まずい、と狐ノ依が思った瞬間には既に妖狐がリクオに飛びかかっていて。しかし丁度そこにいたぬらりひょんによって捕えられていた。
「リクオ様、無事ですか!?」
「あぁ、問題ねぇが…こいつは」
悔しそうに、それでもリクオに対して威嚇し続ける妖狐。しかし、さすがに敵わぬ相手だと分かったのか、脱力して耳を垂らした。
「狐ノ依以外の妖狐をみるのは初めてじゃな」
「なんだよ…狐ノ依、狐ノ依って…ただの妖狐じゃん」
泣きそうな顔。その妖狐の顔にリクオの手が触れた。
「お前は、羽衣狐の元についていたのか?」
「俺に触んな…」
「なら、オレのところに来いよ」
「…え?」
妖狐も、狐ノ依も、ぽかんとリクオの顔を見つめた。
「妖狐が二人なんて、縁起がいい」
「はぁ?待てよ、俺はてめぇらの敵で…」
「無理にとは言わねぇが…奴良組は歓迎するぜ」
「…俺の主は、羽衣狐様だけだ」
妖狐は横たわった羽衣狐の抜け殻、山吹乙女の姿をしたその妖怪を覗き込んだ。
鴆がなんとか治療しているが、意識は戻っていない。
晴明について行かずに、羽衣狐に仕える妖怪は多くいた。中でも羽衣狐をお姉様と呼び敬愛していた狂骨は羽衣狐から離れずにずっとそこにいる。
「…そうか。そいつはお前等京妖怪に返すよ」
リクオは鯉伴の愛した女の体を抱き上げて狂骨に渡した。晴明に裏切られた彼女ら京妖怪にもはや敵意はない。
「…いいんだね。あんたにとっても…この方は肉親みたいなもんなんだろ?」
「あぁ。羽衣狐は京妖怪の大将だからな」
その会話を横で聞きながら、狐ノ依は妖狐の手を掴んだ。狐ノ依も、もし妖狐が奴良組に来るというなら歓迎したかった。たった一人の血の繋がった人。たとえ恨まれていようとも、狐ノ依には無条件で愛することが出来る。
「行っちゃうの…?」
「な、んだよ。俺はお前を殺そうとしてたんだぞ、ずっと」
「でも、兄さんなんでしょ?」
「…お前のその、甘い考え。イライラする」
ぺしん、と狐ノ依の手を振り払って、妖狐は狂骨の横に並んだ。
「お前が…妖狐として自覚したなら、弟として認めてやるよ」
妖狐は京妖怪たちと共に帰って行った。真っ直ぐ前を見据える妖狐を引き留めることなど、今の狐ノ依には出来ない。
妖狐の背中を、もの寂しげに見つめる狐ノ依の目は迷いに揺れていた。
いつか復活する鵺に備えるために、リクオたち奴良組は花開院へ向かった。そこには妖刀をつくる天才と呼ばれるゆらの義理の兄、秋房がいる。
祢々切丸が壊されてしまった以上、今は新しい妖刀を手に入れずして鵺に対抗することなど出来ないのだ。
ゆらの隣を歩くリクオの背を見ながら、狐ノ依は大きく息を吐いた。兄が最後に残した言葉は、リクオと結ばれるときには妖狐らしく散れ…そういうことだ。
「ボクは妖狐で…リクオ様は主…」
それ以上に近づいたつもりだった。しかし、そんな簡単なものではなかった。そうなるということは、いつかリクオとの間に子を産んで死ぬ。そしてその子供は妖狐で、リクオの跡継ぎとなるぬらりひょんにはならない。
「…わかってたこと、なのにな」
胸が締め付けられるような感覚。当たり前のことがこんなにも辛くなるなんて。
「り、…」
リクオ様、と呼んでしがみ付きたかった。しかし、リクオは秋房と話をしている。これからのことを考えて、前進しようとしている。
邪魔は出来ない。余計なことを考えさせるわけにはいかない。
狐ノ依は唇を噛んで後ろを向いた。
「狐ノ依?」
とん、と肩に置かれた手に驚いて顏を上げると、鴆が不思議そうな顔で狐ノ依の顏を覗き込んでいた。
「鴆様…」
鴆は狐ノ依をリクオの元へ連れて行ってくれた恩人。その事実を思い出し、狐ノ依は鴆に向かって頭を下げた。
「あ、の…鴆様には感謝してもしきれません…」
「なんだ急に?」
「なんで、言って下さらなかったのです…」
「ん?あぁ、そのことな」
わざわざ言う必要なんてないことだろ、と手を左右にひらひらとさせながら、鴆は笑う。しかしそれに反して、狐ノ依はしゅんと肩を下げた。
リクオが大好きで、そしてそれが今は少し切ない。
「…どうした?」
「いえ、少し…心の整理が」
「さっきの、お前の兄のことか?」
「…」
そう、それもある。自分と似た妖狐の存在もまた、今の狐ノ依を惑わせていた。
「ボクは、妖狐というものを…真剣に考えたことがなかったんです」
ゆっくりと足を進めながら、空に向けて声を発した。狐ノ依の澄んだ声は周りの音に溶け込む。
「妖狐って…何なのでしょうか…」
伝説だなんて言われているけれど、それほど強い力を秘めているわけでもない。主に縋りついていなければ、一人で生き抜くことも出来ないような脆弱な存在といってもいい。
「伝説通りに…強い一匹を残して死ぬ意味ってあるのかな…」
数より質とでも言いたいのか。弱い存在であることを覆い隠すために少しでも強くあろうとして…それがなんだと言うのだろう。
現に、狐ノ依は力を継いだ妖狐ではなくて、兄もいて。それでもこうして生きてきた。
「最終的にリクオ様に何も残せないなんて」
なら、今ここにいる意味は。
「鴆様…。ボクはここにいていいのでしょうか…」
「お前なぁ…!ったく」
霞んだ視界は鴆の熱い胸板に押し付けられて、何も見えなくなった。 大きな手が狐ノ依の頭を掴む。狐ノ依の流れる髪は鴆の指の間をするりと抜けてなびいた。
「少なくとも…リクオはお前がいて良かったと思ってるはずだぜ」
「そ…でしょうか」
「あぁ、リクオだけじゃねぇ、オレも皆もだ」
皆に愛されているなんて、今まで生きてきて味わっていたのに。心を埋め尽くした不安はそれさえも掻き消していく。
「それによ、今からそんな先のことで悩んでどうする」
「…先の、こと」
「死ぬときのことなんか、そん時になってみなきゃわかんねぇだろ」
今までは、確かにそれでいいとも思っていた。いざその時が来たら考えれば良いと。しかし、もう一人の妖狐はなんと言った?
妖狐としての自覚とは、つまり妖狐として散る覚悟をしろということで。
「むしろよ、狐ノ依がんな顔してる方が迷惑だ」
「今…ボクはどんな顔をしていますか…?」
「…壊れそうだ」
鴆の手は狐ノ依の髪を梳いて、それから優しく背中をなでた。固い掌が優しく触れている。初めて顔を合わせた時から、鴆は目に見えるほどの愛情を狐ノ依に与えていた。それは暖かくて心地好くて。
「気にしすぎんな。周りを頼れ。いいか?」
「…はい」
狐ノ依は初めて鴆の背中に手を回して、その愛情に応えた。納得いく言葉をくれたわけでないのに、鴆の言葉には力があって。切なさから零れそうだった涙は、安心から零れ落ちて狐ノ依の頬を濡らしていた。
「……何してるの?」
突然割り込んできたリクオの声、と同時に鴆が狐ノ依の肩を掴んで体から引き剥がした。
「り…リクオ」
「なんで、狐ノ依泣いてるの?」
「いやこれはだな」
きょとん、としてリクオを見つめる狐ノ依の頬は未だ濡れている。それを見たリクオの表情は妖怪の時のような威圧感があって、鴆の頬には冷や汗が流れた。
「すみません、自分が勝手に弱気になって…鴆様が話を聞いてくれたのです」
「ふーん…」
つかつかと近づいたリクオは狐ノ依の頬を濡らす涙を人差し指で辿った。泣いてる顏も映える…だなんて思っている余裕もなく。
「ボクには言えないこと?」
「え、いえ、そんなことは」
「なら、どうしてボクに声をかけなかったの」
「…それは」
リクオに言わなかったのではなく、ただなんとなくタイミング的に鴆に言ってしまっただけだったのだが。しかしその内容はリクオとの将来を謳ったもので。そこにいたのがリクオだったら言ったのか、というと微妙だった。
「狐ノ依?」
続きの言葉が浮かばずに黙ってしまった狐ノ依の顏を、リクオの大きな瞳が覗き込んだ。
「…何かあったら、まずボクに言ってね」
「はい…」
口を噤んで視線を彷徨わせる狐ノ依に、もはや何か声をかけても無駄だった。リクオは鴆に視線を移して、狐ノ依を頼むということを目配せしてから他の奴良組の者たちの元へと戻ろうと踵を返した。
「リクオ様…!」
しかし間髪入れずに、リクオの羽織を狐ノ依の細い指が掴む。
「自分は不完全で…何の役にも立てないただの狐です」
「…狐ノ依?」
「それでも、それでも…リクオ様のお傍にいさせて下さい…」
「…むしろ、離れるなんて許さないからね」
そんなことか、と呆れたように微笑するリクオに、無理矢理つくったような笑顔を浮かべる狐ノ依。
二人の心情をなんとなく察しながら、鴆は何も言わずにその場から離れた。
その夜、リクオは正式に奴良組の三代目となった。そして狐ノ依も、リクオのために仕え続けることを改めて決心するのだった。
見えない未来のことなど今は考えない。これから近いうちに起こる鵺との全面抗争。それに向けて、奴良組はリクオを筆頭に動き出していた。