リクオ夢(2011.10~2015.03)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
きしきしと音を立てながら縁側を歩く。
手入れされた庭はいつ見ても綺麗だ。狐ノ依は軽く腕を体の前で伸ばしながら、ゆっくりと進めていた足を止めた。
「ふふ、君には、この庭の良さが分かるんだね」
人差し指を差し出すと、そこに白い蝶々が止まる。
愛でるようにその蝶々に息を吹き掛けると、蝶々はひらひらと狐ノ依の指から離れていった。
「あ」
その矢先、ぴたと羽を休めた蝶々に、狐ノ依は笑ってしまった。
「ふふ、牛鬼様、お疲れ様です」
「狐ノ依、こんなところで何をしている」
長い髪を揺らして、牛鬼が一歩狐ノ依に近付く。
牛鬼の険しい表情に対し、その髪に止まっている白い蝶々はあまりにも不釣り合いだ。
狐ノ依が人差し指を伸ばして牛鬼の髪に触れる。
しかしその蝶々は、ばたばたと羽ばたきながらもそこを動かなかった。
「好かれてしまいましたね」
「蝶か」
「はい。ボクはフラレてしまいました」
この牛鬼は、狐ノ依よりも遥かに長く生きている妖怪で、雰囲気も少し怖いところがある。
それでも狐ノ依が恐れないのは、この牛鬼が総大将であるぬらりひょん、それから鯉伴との信頼関係をも築き上げていたからだ。
「牛鬼様こそ……こんなところで会うなんて。何かあったのですか?」
牛鬼は奴良組の中でも位の高い妖怪だ。
リクオに用があるのかもしれない。そう思いながら問いかける狐ノ依に対して、牛鬼は何やら思い詰めたような表情に変わった。
「どうかなさったのですか? って、聞いたところでボクは何の役にも立てないのでしょうけど」
「いや、そんなことはない……」
牛鬼は何かを考えるように視線を落とし、暫くすると顔を上げて狐ノ依を見た。
「狐ノ依、少し私に時間をくれないか」
牛鬼の力になることが出来るなら、それは本望だ。狐ノ依はこくりと深く頷いた。
背を向けた牛鬼の髪がひらりと翻り、蝶々がしがみつくのを止めて庭の方に帰っていく。
それに軽く手を振り、狐ノ依は牛鬼の後をついて行った。
・・・
向かった先で、狐ノ依はこんな部屋あったのかと目を凝らした。あまりにも薄暗く不気味だ。
「狐ノ依、こちらへ」
「あ、はい……!」
牛鬼に招かれて部屋の奥に進むと、背後で襖がたんっと閉まる音が聞こえ、狐ノ依は不安に身を丸くした。
「牛鬼様……ここは、一体」
ここは何の部屋なのか。何故灯りがないのか。様々な疑問が頭を過る。
牛鬼は不安そうにする狐ノ依に近付き、安心させるように優しく頭を撫でた。
それでも狐ノ依が安心出来なかったのは、牛鬼の背後に四つの目を見てしまったからだ。
「牛鬼様、あの……」
「狐ノ依、私は君を愛している。君のような類の妖狐とは、そういうものだ」
「え……?」
「君は泣くだろうが、私はやらねばならない……君の主を」
は、とした狐ノ依の目が大きく開かれた。
「まさか、リクオ様に―……?」
牛鬼はリクオに何かするつもりなのだ。
そう気付いたときには、狐ノ依は首に衝撃を受け、牛鬼の体に倒れ込んだ。
牛鬼はその体を大事そうに抱き上げると、後ろにひかえていた牛頭丸に視線を向けた。
「行くぞ」
「はい、牛鬼さま」
その後、姿を消した牛鬼の目的を知るものはいなかった。
彼らが向かった捩眼山。
そこに、リクオたち清十字怪奇探偵団も向かうことになるのは偶然か、それとも必然だったのか。
・・・
捩眼山に行くという計画。相変わらず唐突な清継に呆れつつ、リクオはそれどころでないという焦りに駈られていた。
いつもなら食いつくはずの狐ノ依の不在。学校もここ数日休み続けているらしい。
「ねぇ、つらら。狐ノ依どうしたのかな……」
「リクオ様がいけないんですよ。家長と親しくなんてしているから。呆れられたんじゃないです?」
そう言われて見れば、狐ノ依は熱を出した日、見舞いにやってきたリクオの学校の友人たちと顏を合わせてから姿を消した。
元々狐ノ依が人間を好いていない印象はあったが、それだけでリクオの傍を離れるだろうか。
「もう! 若は狐ノ依に対して過保護すぎますよ」
「違うんだよ。むしろ過保護なのは狐ノ依の方なんだ。だから余計に心配になるっていうか……」
リクオが学校に行けば玄関で帰りを待ち、帰ってくればぴったりとくっついて離れない。
それは、つららも毎日見ていた光景だ。
「……でも、じゃあ狐ノ依はどこに」
「それが分からないから心配なんじゃないか」
ペタペタと裸足でついてくる足音が足りない。
リクオは狐ノ依の歩いただろう縁側を辿りながら、深くため息を吐き出した。
それでも清継たちの計画を無視出来ないのは、友人達への心配もせずにはいられないからだった。
・・・
いざ出発した捩眼山。
清継と島、そして鳥居に巻に家長カナ、陰陽師であるゆらとリクオまで誘い、勿論、側近としてつららも同行している。
妖怪がいる、そう言われている山だが、今のところ異変はない。女子達は温泉に行こう、と妖怪関係無しに楽しむつもりのようだ。
「じゃあ、私達は温泉に行くから!」
「ゆらちゃんも行こう!」
「え……!?」
ずりずりと引きずられるようにして、ゆらとカナが鳥居と巻に連れられていく。
リクオはそんな彼女達を横目に、つららと向き合った。
「つららは? 行ってもいいよ」
「わ、私はいいんです! 狐ノ依がいない今、私が若の側にいなければ」
「……狐ノ依」
ぼんやりと、足場の悪い道を進んでいく。狐ノ依がどうこうではなく、今のリクオを放っておくことは出来なそうだ。
つららは少し胸の痛みを覚えながら、リクオの横に並んだ。
暫くして、二つに割れる道に出くわした。清継と島はそれぞれ別の道へと歩き出している。妙にふらふらと生気のない歩き方だ。
「なんか、みんな様子が変だ。つららは島くんを追って! ボクは清継の後を追うから」
「え!?」
導かれるように道を選択した清継と島。
彼らは普通の人間だ。妖怪の目に留まってしまったら、どうなるか分かったもんじゃない。
仕方なく、つららはリクオと湧かれることを承諾し、リクオもまた一人で道を曲がった。
「清継くん!」
姿が見えなくなった清継を追って走る。やはり様子がおかしいという直感はあたっていた。清継が一人で行くなんて、そんなこと普段ならあり得ない。
「どこに行ったんだ……?」
きょろきょろと辺りを見渡す。そのリクオの耳に聞こえたのは激しい衝撃音だった。
ばっと振り返って聞こえた方向に目を向ける。それは先程つららと分かれた道。つららの向かった方から聞こえていた。
「つらら!?」
沸き上がる不安とざわつき。狐ノ依のことで頭が一杯だったとはいえ、つららを危険な目に合わせるなんて。
リクオは慌てて来た道を戻って行った。
「奴良リクオの側近ってのも弱っちいな。主が弱いからか?」
道を曲がったリクオに聞こえたのは少年の声。
つららは、そこに倒れていた。
「つらら……!」
「リクオ様……!? だ、ダメですっ、逃げて下さい……」
傷を負いながらも、つららはリクオを目にした途端に再び構えた。
目の前には、少年の姿をした妖怪、牛頭丸が立っている。
「主が弱いから、大事な大事な妖狐様もいなくなっちゃうんだよ」
「……!お前、狐ノ依を知ってるのか」
リクオが腰にさしていた刀を抜く。それでも、人間である以上、牛頭丸には敵わない。
つららも牛頭丸も、リクオの敗北を当然だと思っていた。
「どういうことだ…!?」
暫くして、そう声を上げたのは牛頭丸だった。
刀を交えているのは間違いなく人間であるリクオだ。
それなのに、リクオは牛頭丸と対等かそれ以上の力をぶつけていた。
「リクオ様、昼のお姿なのに……」
「何故だ、覚醒しなければただの人間ではないのか……?」
人間の姿のまま牛頭丸を圧倒するリクオに、つららも牛頭丸も驚きを隠せずにいる。
「知ってたよ、自分のこと……夜、こんな姿になっちまうんだな……」
日が落ちて、リクオの姿は夜の、妖怪の姿へと変わっていく。
その表情には夜の凛々しい姿と共に複雑な人間の迷いが含まれていた。
「まさか……もう、覚醒していたのか……」
「あぁ。そうらしい」
リクオが頷いたのを見て、今のリクオには敵わないと判断したのだろう。牛頭丸が力なく呟いた。
「あんたの大事な狐……牛鬼さまが預かってるぜ」
それを聞いたリクオの目は大きく見開かれ、山の頂上、牛鬼がいるだろう方向を見据えた。
・・・
暗闇の中目を開けると、大きな手が優しく頭を撫でていた。
丁寧に髪を梳かれ、一緒に耳をそわそわと触る。その手の動きに、狐ノ依はぴくっと体を揺らした。
「……目が覚めたか」
「牛鬼様」
「乱暴な真似をした。体は大事ないか」
体を起こして辺りを見渡す。見知らぬ景色に知らぬ匂いが漂う寺のような場所。
記憶を辿れば、牛鬼にさらわれたということは疑いようがなく、狐ノ依は牛鬼の俯いた顔を覗き込んだ。
「牛鬼様、何故ボクを……?」
牛鬼の顔は俯いていて見ることが出来ない。
ただ一つ分かることは、リクオに何かするつもりなのだという意識を失う前に聞いた話のみ。
「……ボク、リクオ様のもとに行かなければ」
狐ノ依はぱっとその場に立ち上がった。そのまま木々の生い茂る外へと飛び出そうとすれば、後ろへと腕が引かれている。
「牛鬼様……放して下さい」
「それは出来ない」
「牛鬼様、ボク、わかりません。牛鬼様は何をしようとして……」
「すぐにわかる。どうか、見ていてくれないか……君の主の行く末を」
そこまで言うと牛鬼は狐ノ依の腕を引っ張り、別の部屋へと押し込んだ。
「な……っ、牛鬼様……!?」
ぱたん、と襖は閉まり、今度は手をかけても開くことはなかった。
何もない部屋。部屋というより空間といった方がしっくりくる。
狐ノ依は暫く呆然として、それからあることに気が付いた。
とん、と手を置く襖。それは、何故か向こうの光景を見せていた。確かに空間を遮っているのに、向こうにいる牛鬼が見えている。
「何を考えている、牛鬼」
狐ノ依の気持ちを代弁するかのように、低い声が問う。
大好きなリクオの声だ。良かった、リクオはまだ何かされたわけではなかったようだ。
その確信を得て安心した狐ノ依の耳に信じられない言葉が飛び込んで来た。
「お前は三代目に相応しくない。そして、狐ノ依の主にも」
「それで、どうするって言うんだい」
「お前を殺して……オレも死ぬのだ……」
狐ノ依は牛鬼の人知れぬ考えに驚愕し、そこに崩れ落ちた。
「な、んで……なんで……」
狐ノ依が嘆いたところでその声は向こうに届かない。
「駄目、嫌だ……!」
ぶつかる音。そして大量の血が流れる。
咄嗟に飛び出そうと襖に手をかけるが、固く閉ざされたそれはびくともしない。
「いや、いやだ! 牛鬼様、ここを開けて下さい! 牛鬼様っ!」
がたがたと襖が音を立てる。こんなに薄い壁が、向こうとの境界を遮っている。
「貴方は、奴良組に必要な方なのに! 貴方とリクオ様がいなくなったらボクは……!」
目を逸らしたいのに、逸らしてはいけない、と牛鬼の声が狐ノ依に訴えかける。
狐ノ依はどんっと空間に手を当てて、ぼろぼろと涙をこぼした。
「なぜ、こんなものを見せるんですか……」
その時、急に視界が開けて、膝をつくリクオと倒れた牛鬼が目の前に現れた。狐ノ依に牛鬼の思いが流れ込んでくる。
愛した奴良組を守りたい、それだけのために動いた。これでようやく納得出来た。
奴良組はリクオに託せる、自分の思い描いた通りにリクオは成長したのだ。
「もはやこれ以上考える必要はなくなった」
牛鬼はゆっくり立ち上がると、刀を大きく上に持ち上げた。その刀はリクオではなく牛鬼、自らの腹へ。
弾ける音と共に、遮っていた壁がなくなった。狐ノ依が手を置いていた透明の壁は、元の襖に戻っている。
狐ノ依は思い切り襖を開け放ち、牛鬼の背に飛びついた。
「牛鬼様、死んではいけません! 嫌ですっ」
「……狐ノ依」
戸惑いの色を含んだ牛鬼の声。後ろから回した狐ノ依の手に、血は流れなかった。
よく見ると、牛鬼の刀の切先は壁に突き刺さり、牛鬼の手には柄だけが握られている。
間一髪のところ、リクオが刀で牛鬼の持つ刀を切ったのだ。
「なぜ止める? リクオ……。なぜ死なせてくれぬ」
「オレがふぬけだとオレを殺しててめぇも死に、認めたら認めたで死を選ぶ……。らしい心意気だぜ、牛鬼。だが、死ぬこたぁねぇよ」
にっと笑ったリクオは視線を牛鬼に抱き着く狐ノ依に向けた。
「そんなことより、勝手に狐ノ依を手懐けたことの方が許し難ぇな」
「……リクオ様」
後ろから回した手に牛鬼の手が重なった。頭を撫でてくれたように、その手は優しさであふれている。
「聞こえていた……。可愛い声で、何度も……君は酷い子だ」
「っ……あの、リクオ様、牛鬼様は…」
「大丈夫だ。死なせたりはしない」
リクオの低く堂々とした声色に、狐ノ依は酷く安心した。この人がいれば怖いものなど無い。改めてそう実感する。
「カラス天狗、いるんだろ」
「は……」
リクオの声に、ばさっとカラス天狗が降り立った。
「牛鬼を頼む」
「……本家に連れて帰るというのですか」
「そうだな。今回のことは無かったことにすればいい」
「な……!」
三代目を殺そうとしたとあれば、牛鬼の処分は免れない。
「そういうわけにはいかないでしょう!」
「黒羽丸、頼んだぞ」
「っ……、とにかく、傷の治癒を優先させます」
カラス天狗・黒羽丸は頷かなかったが、牛鬼を背負い再び空へと戻っていった。
ようやく訪れる安堵と静寂。
狐ノ依は立ち上がり、数回ぱんぱんと手のひらで汚れた装束を叩くと、リクオの首に手を回した。
「リクオ様、怖かったです」
リクオの手が応えるように狐ノ依の背に回される。
そのまま力が込められると、狐ノ依はぽすんとリクオの胡座の上に乗る体勢になった。
「でも、リクオ様。あの、牛鬼様は」
「あぁ、わかっているよ。オレを呼び寄せるため……それから、狐ノ依に見せるためだろうな」
牛鬼には、鯉伴から託された狐ノ依を本当にリクオに任せていいのかという疑問もあったのだろう。
妖狐は絶対に守らなければいけない貴重で崇高な存在。牛鬼は本当に、狐ノ依を子供のように愛していたのだ。
「あ……あの、リクオ様、傷を治させて下さい」
ふと、思い出したかのように狐ノ依はリクオの胸に手を置いた。
リクオは全く気にしていない様子だが、肩から胸あたりにかけて、切り傷が深い。
「このままでは、リクオ様の体が」
「……いや、せっかく流れた血だ、狐ノ依にやるよ」
「は……、え!?」
リクオは右腕を着物から抜くと、傷のと部分を狐ノ依の前にさらした。
妖狐の唾液には傷の回復を早める物質が含まれている。とはいえ治そうと思えばすぐに治せる能力を持つのだ。
わざわざ舐めるというのは、悠長すぎる。
「……いけません。早く、治すべきです」
「大丈夫だよ」
そうだと分かっているのに、赤が狐ノ依の心を乱す。
「リクオ様……ほんとうに、良いのですか」
「あぁ」
「っ、う……。では、失礼します……」
狐ノ依はリクオの前に膝を立てて座ると、傷口に口をつけた。
「オレの血は美味いかい?」
「はい……。他の、誰より……っ、」
傷の深さ故か、なかなか無くならない血に、狐ノ依も絶えず吸い付く。
耳に落ちるリクオの声にも頭がくらくらして、狐ノ依は全てを忘れて血に没頭していた。
「……もういい、狐ノ依」
「っ!あ、ごめんなさい、自分は……また……」
どれ程経ったのか、リクオが狐ノ依の肩を掴んで引きはがした。
「傷、痛みましたか……?」
「いや、大丈夫だ。ただ、オレの方が我慢できなくなりそうでね……」
狐ノ依の口についた血を親指で拭ってやると、狐ノ依を抱き上げてリクオは立ち上がった。
リクオの傷はだいぶ塞がり、血も止まっている。
「……ありがとな、狐ノ依」
「いえ自分は、何も……」
「帰ろう」
見上げた夜空は白みを帯びて、ゆっくりと、夜は明けた。
・・・
次の日。
牛鬼の治療を終えて外に出た狐ノ依は、腕を伸ばして縁側から外を眺めた。
生い茂る緑の中、目に映ったのは、リクオだった。
何やら水の入った大きな皿を持って真剣な顔をしている。かと思いきや、かっと目を見開くと皿の水が溢れ出した。
「狐ノ依、もう大丈夫なのかい?」
「あ、首無……!」
同じものを見ていたのだろう、首無は珍しく肩を揺らして笑っている。
「あの、リクオ様は一体何をしようとしているのでしょう?」
「明鏡止水……かと。昼の姿だというのに技を習得しようと頑張ってらっしゃる」
「リクオ様!」
明鏡止水、ぬらりひょんが使う美しい技の事だ。しかも妖怪でない、昼のリクオでというところが何とも。
狐ノ依はぱっと笑顔を咲かせてリクオへと駆け寄って行った。
「リクオ様、もうお体は宜しいのですか?」
「あ、狐ノ依……!」
声に反応してリクオが振り返る。
二人の視線はしっかりと合って、直後リクオの顔は一気に赤く染まっていった。
リクオの夜と昼とが共有しあっていた事を思い出した狐ノ依も同じように赤くなっていた。
「あ、ああの……り、リクオ様、おはようございます……」
「狐ノ依、おはよう」
いつもよりぎこちない挨拶を交わした後、どうも気恥ずかしくなってどちらともなく顏を背ける。
リクオの血、狐ノ依の舌の感覚、忘れられるはずがない。
「朝から精が出るのぅ」
音もたてずに現れたぬらりひょんは、ふんふんとリクオの姿を感心したように呟いた。
ぬらりひょんの言葉に深い意味は恐らくない。しかし、二人には違うように聞こえて、更に身を縮めるようにして赤くなる頬を隠した。
「明鏡止水とは。またおじいちゃんみたいになりたいとか言ってくれるのかの」
「う、うん、ボク三代目を継ぐよ」
「え!?」
驚いたのはぬらりひょんだけではなく。そこにいたカラス天狗に、狐ノ依も驚きと感動で声を上げていた。
「牛鬼はいったい何を吹き込んだのか……」
一夜にしてここまでリクオの考えが変わるとは。ぬらりひょんの言葉に、今度はリクオが目を丸くした。
「え、今回のこと知ってるの?」
「牛鬼のことか? 当たり前じゃ! 目をかけてやったのに……あんなやつ破門じゃ!」
カラス天狗には誰にも話さぬようにと言っておいたが、そんなことですむ事件ではなかったらしい。
しかし、リクオは慌てる様子もなく凛とした表情で言ってのけた。
「駄目だよ、あれはボクのせいなんだから。変な処分とかしちゃ絶対駄目だからね!」
「そ、そうはいかん……」
それを聞いて狐ノ依も黙ってはいられず。
「自分からもお願いします……! 牛鬼様は奴良組のために……」
「む……狐ノ依まで……」
リクオにつられて、思わず狐ノ依も頭を下げる。
実際、間近で見ていた狐ノ依には分かっていた。
牛鬼がどんな思いでいたのか。それを知ってしまった上で牛鬼を破門に、なんて見過ごせるはずもない。
「総大将、牛鬼様は奴良組に必要な方です。どうか、どうか御慈悲を……」
「むう……仕方ないのう」
震える狐ノ依の声。それを聞いたぬらりひょんもカラス天狗も顔を見合わせ、はぁっと息を吐き出した。
「今回は特別……狐ノ依にほだされてやるかの」
「あ……! 有難うございます!」
牛鬼はきっと破門も覚悟の上だったのだろう。しかし、これでまだ共にいられる。牛鬼の意志と願いは認められたのだ。
ぬらりひょんは呆れと優しさを含んだ笑みを浮かべて去って行った。
2022/05/10
手入れされた庭はいつ見ても綺麗だ。狐ノ依は軽く腕を体の前で伸ばしながら、ゆっくりと進めていた足を止めた。
「ふふ、君には、この庭の良さが分かるんだね」
人差し指を差し出すと、そこに白い蝶々が止まる。
愛でるようにその蝶々に息を吹き掛けると、蝶々はひらひらと狐ノ依の指から離れていった。
「あ」
その矢先、ぴたと羽を休めた蝶々に、狐ノ依は笑ってしまった。
「ふふ、牛鬼様、お疲れ様です」
「狐ノ依、こんなところで何をしている」
長い髪を揺らして、牛鬼が一歩狐ノ依に近付く。
牛鬼の険しい表情に対し、その髪に止まっている白い蝶々はあまりにも不釣り合いだ。
狐ノ依が人差し指を伸ばして牛鬼の髪に触れる。
しかしその蝶々は、ばたばたと羽ばたきながらもそこを動かなかった。
「好かれてしまいましたね」
「蝶か」
「はい。ボクはフラレてしまいました」
この牛鬼は、狐ノ依よりも遥かに長く生きている妖怪で、雰囲気も少し怖いところがある。
それでも狐ノ依が恐れないのは、この牛鬼が総大将であるぬらりひょん、それから鯉伴との信頼関係をも築き上げていたからだ。
「牛鬼様こそ……こんなところで会うなんて。何かあったのですか?」
牛鬼は奴良組の中でも位の高い妖怪だ。
リクオに用があるのかもしれない。そう思いながら問いかける狐ノ依に対して、牛鬼は何やら思い詰めたような表情に変わった。
「どうかなさったのですか? って、聞いたところでボクは何の役にも立てないのでしょうけど」
「いや、そんなことはない……」
牛鬼は何かを考えるように視線を落とし、暫くすると顔を上げて狐ノ依を見た。
「狐ノ依、少し私に時間をくれないか」
牛鬼の力になることが出来るなら、それは本望だ。狐ノ依はこくりと深く頷いた。
背を向けた牛鬼の髪がひらりと翻り、蝶々がしがみつくのを止めて庭の方に帰っていく。
それに軽く手を振り、狐ノ依は牛鬼の後をついて行った。
・・・
向かった先で、狐ノ依はこんな部屋あったのかと目を凝らした。あまりにも薄暗く不気味だ。
「狐ノ依、こちらへ」
「あ、はい……!」
牛鬼に招かれて部屋の奥に進むと、背後で襖がたんっと閉まる音が聞こえ、狐ノ依は不安に身を丸くした。
「牛鬼様……ここは、一体」
ここは何の部屋なのか。何故灯りがないのか。様々な疑問が頭を過る。
牛鬼は不安そうにする狐ノ依に近付き、安心させるように優しく頭を撫でた。
それでも狐ノ依が安心出来なかったのは、牛鬼の背後に四つの目を見てしまったからだ。
「牛鬼様、あの……」
「狐ノ依、私は君を愛している。君のような類の妖狐とは、そういうものだ」
「え……?」
「君は泣くだろうが、私はやらねばならない……君の主を」
は、とした狐ノ依の目が大きく開かれた。
「まさか、リクオ様に―……?」
牛鬼はリクオに何かするつもりなのだ。
そう気付いたときには、狐ノ依は首に衝撃を受け、牛鬼の体に倒れ込んだ。
牛鬼はその体を大事そうに抱き上げると、後ろにひかえていた牛頭丸に視線を向けた。
「行くぞ」
「はい、牛鬼さま」
その後、姿を消した牛鬼の目的を知るものはいなかった。
彼らが向かった捩眼山。
そこに、リクオたち清十字怪奇探偵団も向かうことになるのは偶然か、それとも必然だったのか。
・・・
捩眼山に行くという計画。相変わらず唐突な清継に呆れつつ、リクオはそれどころでないという焦りに駈られていた。
いつもなら食いつくはずの狐ノ依の不在。学校もここ数日休み続けているらしい。
「ねぇ、つらら。狐ノ依どうしたのかな……」
「リクオ様がいけないんですよ。家長と親しくなんてしているから。呆れられたんじゃないです?」
そう言われて見れば、狐ノ依は熱を出した日、見舞いにやってきたリクオの学校の友人たちと顏を合わせてから姿を消した。
元々狐ノ依が人間を好いていない印象はあったが、それだけでリクオの傍を離れるだろうか。
「もう! 若は狐ノ依に対して過保護すぎますよ」
「違うんだよ。むしろ過保護なのは狐ノ依の方なんだ。だから余計に心配になるっていうか……」
リクオが学校に行けば玄関で帰りを待ち、帰ってくればぴったりとくっついて離れない。
それは、つららも毎日見ていた光景だ。
「……でも、じゃあ狐ノ依はどこに」
「それが分からないから心配なんじゃないか」
ペタペタと裸足でついてくる足音が足りない。
リクオは狐ノ依の歩いただろう縁側を辿りながら、深くため息を吐き出した。
それでも清継たちの計画を無視出来ないのは、友人達への心配もせずにはいられないからだった。
・・・
いざ出発した捩眼山。
清継と島、そして鳥居に巻に家長カナ、陰陽師であるゆらとリクオまで誘い、勿論、側近としてつららも同行している。
妖怪がいる、そう言われている山だが、今のところ異変はない。女子達は温泉に行こう、と妖怪関係無しに楽しむつもりのようだ。
「じゃあ、私達は温泉に行くから!」
「ゆらちゃんも行こう!」
「え……!?」
ずりずりと引きずられるようにして、ゆらとカナが鳥居と巻に連れられていく。
リクオはそんな彼女達を横目に、つららと向き合った。
「つららは? 行ってもいいよ」
「わ、私はいいんです! 狐ノ依がいない今、私が若の側にいなければ」
「……狐ノ依」
ぼんやりと、足場の悪い道を進んでいく。狐ノ依がどうこうではなく、今のリクオを放っておくことは出来なそうだ。
つららは少し胸の痛みを覚えながら、リクオの横に並んだ。
暫くして、二つに割れる道に出くわした。清継と島はそれぞれ別の道へと歩き出している。妙にふらふらと生気のない歩き方だ。
「なんか、みんな様子が変だ。つららは島くんを追って! ボクは清継の後を追うから」
「え!?」
導かれるように道を選択した清継と島。
彼らは普通の人間だ。妖怪の目に留まってしまったら、どうなるか分かったもんじゃない。
仕方なく、つららはリクオと湧かれることを承諾し、リクオもまた一人で道を曲がった。
「清継くん!」
姿が見えなくなった清継を追って走る。やはり様子がおかしいという直感はあたっていた。清継が一人で行くなんて、そんなこと普段ならあり得ない。
「どこに行ったんだ……?」
きょろきょろと辺りを見渡す。そのリクオの耳に聞こえたのは激しい衝撃音だった。
ばっと振り返って聞こえた方向に目を向ける。それは先程つららと分かれた道。つららの向かった方から聞こえていた。
「つらら!?」
沸き上がる不安とざわつき。狐ノ依のことで頭が一杯だったとはいえ、つららを危険な目に合わせるなんて。
リクオは慌てて来た道を戻って行った。
「奴良リクオの側近ってのも弱っちいな。主が弱いからか?」
道を曲がったリクオに聞こえたのは少年の声。
つららは、そこに倒れていた。
「つらら……!」
「リクオ様……!? だ、ダメですっ、逃げて下さい……」
傷を負いながらも、つららはリクオを目にした途端に再び構えた。
目の前には、少年の姿をした妖怪、牛頭丸が立っている。
「主が弱いから、大事な大事な妖狐様もいなくなっちゃうんだよ」
「……!お前、狐ノ依を知ってるのか」
リクオが腰にさしていた刀を抜く。それでも、人間である以上、牛頭丸には敵わない。
つららも牛頭丸も、リクオの敗北を当然だと思っていた。
「どういうことだ…!?」
暫くして、そう声を上げたのは牛頭丸だった。
刀を交えているのは間違いなく人間であるリクオだ。
それなのに、リクオは牛頭丸と対等かそれ以上の力をぶつけていた。
「リクオ様、昼のお姿なのに……」
「何故だ、覚醒しなければただの人間ではないのか……?」
人間の姿のまま牛頭丸を圧倒するリクオに、つららも牛頭丸も驚きを隠せずにいる。
「知ってたよ、自分のこと……夜、こんな姿になっちまうんだな……」
日が落ちて、リクオの姿は夜の、妖怪の姿へと変わっていく。
その表情には夜の凛々しい姿と共に複雑な人間の迷いが含まれていた。
「まさか……もう、覚醒していたのか……」
「あぁ。そうらしい」
リクオが頷いたのを見て、今のリクオには敵わないと判断したのだろう。牛頭丸が力なく呟いた。
「あんたの大事な狐……牛鬼さまが預かってるぜ」
それを聞いたリクオの目は大きく見開かれ、山の頂上、牛鬼がいるだろう方向を見据えた。
・・・
暗闇の中目を開けると、大きな手が優しく頭を撫でていた。
丁寧に髪を梳かれ、一緒に耳をそわそわと触る。その手の動きに、狐ノ依はぴくっと体を揺らした。
「……目が覚めたか」
「牛鬼様」
「乱暴な真似をした。体は大事ないか」
体を起こして辺りを見渡す。見知らぬ景色に知らぬ匂いが漂う寺のような場所。
記憶を辿れば、牛鬼にさらわれたということは疑いようがなく、狐ノ依は牛鬼の俯いた顔を覗き込んだ。
「牛鬼様、何故ボクを……?」
牛鬼の顔は俯いていて見ることが出来ない。
ただ一つ分かることは、リクオに何かするつもりなのだという意識を失う前に聞いた話のみ。
「……ボク、リクオ様のもとに行かなければ」
狐ノ依はぱっとその場に立ち上がった。そのまま木々の生い茂る外へと飛び出そうとすれば、後ろへと腕が引かれている。
「牛鬼様……放して下さい」
「それは出来ない」
「牛鬼様、ボク、わかりません。牛鬼様は何をしようとして……」
「すぐにわかる。どうか、見ていてくれないか……君の主の行く末を」
そこまで言うと牛鬼は狐ノ依の腕を引っ張り、別の部屋へと押し込んだ。
「な……っ、牛鬼様……!?」
ぱたん、と襖は閉まり、今度は手をかけても開くことはなかった。
何もない部屋。部屋というより空間といった方がしっくりくる。
狐ノ依は暫く呆然として、それからあることに気が付いた。
とん、と手を置く襖。それは、何故か向こうの光景を見せていた。確かに空間を遮っているのに、向こうにいる牛鬼が見えている。
「何を考えている、牛鬼」
狐ノ依の気持ちを代弁するかのように、低い声が問う。
大好きなリクオの声だ。良かった、リクオはまだ何かされたわけではなかったようだ。
その確信を得て安心した狐ノ依の耳に信じられない言葉が飛び込んで来た。
「お前は三代目に相応しくない。そして、狐ノ依の主にも」
「それで、どうするって言うんだい」
「お前を殺して……オレも死ぬのだ……」
狐ノ依は牛鬼の人知れぬ考えに驚愕し、そこに崩れ落ちた。
「な、んで……なんで……」
狐ノ依が嘆いたところでその声は向こうに届かない。
「駄目、嫌だ……!」
ぶつかる音。そして大量の血が流れる。
咄嗟に飛び出そうと襖に手をかけるが、固く閉ざされたそれはびくともしない。
「いや、いやだ! 牛鬼様、ここを開けて下さい! 牛鬼様っ!」
がたがたと襖が音を立てる。こんなに薄い壁が、向こうとの境界を遮っている。
「貴方は、奴良組に必要な方なのに! 貴方とリクオ様がいなくなったらボクは……!」
目を逸らしたいのに、逸らしてはいけない、と牛鬼の声が狐ノ依に訴えかける。
狐ノ依はどんっと空間に手を当てて、ぼろぼろと涙をこぼした。
「なぜ、こんなものを見せるんですか……」
その時、急に視界が開けて、膝をつくリクオと倒れた牛鬼が目の前に現れた。狐ノ依に牛鬼の思いが流れ込んでくる。
愛した奴良組を守りたい、それだけのために動いた。これでようやく納得出来た。
奴良組はリクオに託せる、自分の思い描いた通りにリクオは成長したのだ。
「もはやこれ以上考える必要はなくなった」
牛鬼はゆっくり立ち上がると、刀を大きく上に持ち上げた。その刀はリクオではなく牛鬼、自らの腹へ。
弾ける音と共に、遮っていた壁がなくなった。狐ノ依が手を置いていた透明の壁は、元の襖に戻っている。
狐ノ依は思い切り襖を開け放ち、牛鬼の背に飛びついた。
「牛鬼様、死んではいけません! 嫌ですっ」
「……狐ノ依」
戸惑いの色を含んだ牛鬼の声。後ろから回した狐ノ依の手に、血は流れなかった。
よく見ると、牛鬼の刀の切先は壁に突き刺さり、牛鬼の手には柄だけが握られている。
間一髪のところ、リクオが刀で牛鬼の持つ刀を切ったのだ。
「なぜ止める? リクオ……。なぜ死なせてくれぬ」
「オレがふぬけだとオレを殺しててめぇも死に、認めたら認めたで死を選ぶ……。らしい心意気だぜ、牛鬼。だが、死ぬこたぁねぇよ」
にっと笑ったリクオは視線を牛鬼に抱き着く狐ノ依に向けた。
「そんなことより、勝手に狐ノ依を手懐けたことの方が許し難ぇな」
「……リクオ様」
後ろから回した手に牛鬼の手が重なった。頭を撫でてくれたように、その手は優しさであふれている。
「聞こえていた……。可愛い声で、何度も……君は酷い子だ」
「っ……あの、リクオ様、牛鬼様は…」
「大丈夫だ。死なせたりはしない」
リクオの低く堂々とした声色に、狐ノ依は酷く安心した。この人がいれば怖いものなど無い。改めてそう実感する。
「カラス天狗、いるんだろ」
「は……」
リクオの声に、ばさっとカラス天狗が降り立った。
「牛鬼を頼む」
「……本家に連れて帰るというのですか」
「そうだな。今回のことは無かったことにすればいい」
「な……!」
三代目を殺そうとしたとあれば、牛鬼の処分は免れない。
「そういうわけにはいかないでしょう!」
「黒羽丸、頼んだぞ」
「っ……、とにかく、傷の治癒を優先させます」
カラス天狗・黒羽丸は頷かなかったが、牛鬼を背負い再び空へと戻っていった。
ようやく訪れる安堵と静寂。
狐ノ依は立ち上がり、数回ぱんぱんと手のひらで汚れた装束を叩くと、リクオの首に手を回した。
「リクオ様、怖かったです」
リクオの手が応えるように狐ノ依の背に回される。
そのまま力が込められると、狐ノ依はぽすんとリクオの胡座の上に乗る体勢になった。
「でも、リクオ様。あの、牛鬼様は」
「あぁ、わかっているよ。オレを呼び寄せるため……それから、狐ノ依に見せるためだろうな」
牛鬼には、鯉伴から託された狐ノ依を本当にリクオに任せていいのかという疑問もあったのだろう。
妖狐は絶対に守らなければいけない貴重で崇高な存在。牛鬼は本当に、狐ノ依を子供のように愛していたのだ。
「あ……あの、リクオ様、傷を治させて下さい」
ふと、思い出したかのように狐ノ依はリクオの胸に手を置いた。
リクオは全く気にしていない様子だが、肩から胸あたりにかけて、切り傷が深い。
「このままでは、リクオ様の体が」
「……いや、せっかく流れた血だ、狐ノ依にやるよ」
「は……、え!?」
リクオは右腕を着物から抜くと、傷のと部分を狐ノ依の前にさらした。
妖狐の唾液には傷の回復を早める物質が含まれている。とはいえ治そうと思えばすぐに治せる能力を持つのだ。
わざわざ舐めるというのは、悠長すぎる。
「……いけません。早く、治すべきです」
「大丈夫だよ」
そうだと分かっているのに、赤が狐ノ依の心を乱す。
「リクオ様……ほんとうに、良いのですか」
「あぁ」
「っ、う……。では、失礼します……」
狐ノ依はリクオの前に膝を立てて座ると、傷口に口をつけた。
「オレの血は美味いかい?」
「はい……。他の、誰より……っ、」
傷の深さ故か、なかなか無くならない血に、狐ノ依も絶えず吸い付く。
耳に落ちるリクオの声にも頭がくらくらして、狐ノ依は全てを忘れて血に没頭していた。
「……もういい、狐ノ依」
「っ!あ、ごめんなさい、自分は……また……」
どれ程経ったのか、リクオが狐ノ依の肩を掴んで引きはがした。
「傷、痛みましたか……?」
「いや、大丈夫だ。ただ、オレの方が我慢できなくなりそうでね……」
狐ノ依の口についた血を親指で拭ってやると、狐ノ依を抱き上げてリクオは立ち上がった。
リクオの傷はだいぶ塞がり、血も止まっている。
「……ありがとな、狐ノ依」
「いえ自分は、何も……」
「帰ろう」
見上げた夜空は白みを帯びて、ゆっくりと、夜は明けた。
・・・
次の日。
牛鬼の治療を終えて外に出た狐ノ依は、腕を伸ばして縁側から外を眺めた。
生い茂る緑の中、目に映ったのは、リクオだった。
何やら水の入った大きな皿を持って真剣な顔をしている。かと思いきや、かっと目を見開くと皿の水が溢れ出した。
「狐ノ依、もう大丈夫なのかい?」
「あ、首無……!」
同じものを見ていたのだろう、首無は珍しく肩を揺らして笑っている。
「あの、リクオ様は一体何をしようとしているのでしょう?」
「明鏡止水……かと。昼の姿だというのに技を習得しようと頑張ってらっしゃる」
「リクオ様!」
明鏡止水、ぬらりひょんが使う美しい技の事だ。しかも妖怪でない、昼のリクオでというところが何とも。
狐ノ依はぱっと笑顔を咲かせてリクオへと駆け寄って行った。
「リクオ様、もうお体は宜しいのですか?」
「あ、狐ノ依……!」
声に反応してリクオが振り返る。
二人の視線はしっかりと合って、直後リクオの顔は一気に赤く染まっていった。
リクオの夜と昼とが共有しあっていた事を思い出した狐ノ依も同じように赤くなっていた。
「あ、ああの……り、リクオ様、おはようございます……」
「狐ノ依、おはよう」
いつもよりぎこちない挨拶を交わした後、どうも気恥ずかしくなってどちらともなく顏を背ける。
リクオの血、狐ノ依の舌の感覚、忘れられるはずがない。
「朝から精が出るのぅ」
音もたてずに現れたぬらりひょんは、ふんふんとリクオの姿を感心したように呟いた。
ぬらりひょんの言葉に深い意味は恐らくない。しかし、二人には違うように聞こえて、更に身を縮めるようにして赤くなる頬を隠した。
「明鏡止水とは。またおじいちゃんみたいになりたいとか言ってくれるのかの」
「う、うん、ボク三代目を継ぐよ」
「え!?」
驚いたのはぬらりひょんだけではなく。そこにいたカラス天狗に、狐ノ依も驚きと感動で声を上げていた。
「牛鬼はいったい何を吹き込んだのか……」
一夜にしてここまでリクオの考えが変わるとは。ぬらりひょんの言葉に、今度はリクオが目を丸くした。
「え、今回のこと知ってるの?」
「牛鬼のことか? 当たり前じゃ! 目をかけてやったのに……あんなやつ破門じゃ!」
カラス天狗には誰にも話さぬようにと言っておいたが、そんなことですむ事件ではなかったらしい。
しかし、リクオは慌てる様子もなく凛とした表情で言ってのけた。
「駄目だよ、あれはボクのせいなんだから。変な処分とかしちゃ絶対駄目だからね!」
「そ、そうはいかん……」
それを聞いて狐ノ依も黙ってはいられず。
「自分からもお願いします……! 牛鬼様は奴良組のために……」
「む……狐ノ依まで……」
リクオにつられて、思わず狐ノ依も頭を下げる。
実際、間近で見ていた狐ノ依には分かっていた。
牛鬼がどんな思いでいたのか。それを知ってしまった上で牛鬼を破門に、なんて見過ごせるはずもない。
「総大将、牛鬼様は奴良組に必要な方です。どうか、どうか御慈悲を……」
「むう……仕方ないのう」
震える狐ノ依の声。それを聞いたぬらりひょんもカラス天狗も顔を見合わせ、はぁっと息を吐き出した。
「今回は特別……狐ノ依にほだされてやるかの」
「あ……! 有難うございます!」
牛鬼はきっと破門も覚悟の上だったのだろう。しかし、これでまだ共にいられる。牛鬼の意志と願いは認められたのだ。
ぬらりひょんは呆れと優しさを含んだ笑みを浮かべて去って行った。
2022/05/10